
タイミング ⑩
最終話:沈黙
帰宅してすぐに、荷解きもそこそこに新しい服を1日分突っ込んで家を出た。
あいにくの雨、だけどそんなことはどうでもいい。傘すら持たずに出てきてしまったけれど、どうだっていい。
玄関のドアを閉めた音が、やけに大きく響いた気がした。
鍵をかけたかどうか、一瞬わからなくなる。
確認しようとして、やめた。どうせまた戻るなら、そのときでいい。駅に向かう間に、髪がじわじわと濡れていく。
外に出た瞬間より、こういうときの方が雨を強く感じる。冷たさが遅れてやってくる。
なんで出てきたのかは、考えないようにした。
考えたら、多分止まる。
止まったら、戻る。
戻ったら、全部なかったことにする。
それが一番楽だって、知ってる。
駅までの道は、いつもより長かった。
水たまりを避ける気も起きなくて、靴の中にじわっと水が染みてくる。
最悪だ、と思いながら、別にいいとも思っている。
息が少し上がっている。走ってはいないのに。
体が勝手に急いでいるみたいだった。
改札を通るとき、ICカードをタッチし損ねて、もう一度やり直した。
小さなことなのに、やけに苛立つ。
ホームに電車が滑り込んでくる。
タイミングが良すぎて、少しだけ現実味がなくなる。
乗るかどうか、一瞬だけ迷った。
そのまま乗った。
ドアが閉まる直前、誰かが駆け込んできて、肩が軽くぶつかる。
「すみません」と言われて、首を振った。声は出なかった。
電車の中は、思っていたより静かだった。
窓に映る自分の顔が、見慣れない。
髪は濡れて貼りついているし、化粧も少し崩れている。
こんな顔で、どこに行くつもりなんだろう。
そこで初めて、考えてしまった。
私は、どこに向かってるんだろう。
次の駅のアナウンスが流れる。
聞き慣れた名前なのに、少し遠く感じる。
引き返すなら、今だと思った。
まだ間に合う。
まだ、誰にも何も言っていない。
ただ外に出て、電車に乗っただけ。
それだけなら、どうにでも言い訳できる。
別に、会いに行くなんて、一言も言ってない。
そもそも、会う約束なんてしていない。
スマホを取り出して、画面を開く。
トーク画面は開かないまま、すぐに閉じた。
送る言葉が浮かばない。
浮かばないというより、決めたくなかった。
元彼のことが、ふと頭に浮かぶ。
最後に会った日のこと。
あのときも、雨が降っていた気がする。
ちゃんと話そうとして、結局何も言えなかった。
言わなくてもいい理由ばかり並べて、最後まで曖昧にして終わった。あれでよかったのかどうか、今でもわからない。
多分、ちゃんと終わってない。だから、こんなふうに揺れる。
悠人の顔が浮かぶ。
笑っている顔より、少し困ったような顔の方が先に出てくる。
何を考えているのか、いまいち読めないところ。
でも、完全にわからないわけでもないところ。
曖昧な距離。それが、心地よかったはずなのに。
電車が揺れて、つり革が軽く鳴る。
規則的な音が、やけに耳につく。
何してるんだろう、私。
本気でそう思った。
ただ寂しいだけなんじゃないか。
誰かに埋めてもらいたいだけなんじゃないか。
それを、恋だと思い込んでいるだけかもしれない。
もしそうなら、最悪だ。
こんな状態で会うなんて、失礼だと思う。
悠人に対しても、自分に対しても。
次の駅で降りようと思った。そう決めたら、少しだけ楽になった。
鞄の中で、何かが指に当たる。
本だった。旅行で、なんとなく買ったやつ。
読むつもりもなかったのに、気づいたらレジに持っていっていた。
取り出して、適当に開く。どこを読んだのかも覚えていないページ。でも、ある一文が目に入った。
──理由なんて、あとからいくらでもつけられる。
それだけ。
すごく単純な言葉なのに、妙に引っかかった。
ページをめくる。
線を引いた覚えはないのに、その一文だけがやけに浮いて見える。
「理由」
さっきから、ずっとそればかり考えていた気がする。
行く理由。
行かない理由。
どっちも、それらしく並べて。
どっちを選んでも正解にできるように。
ずるいな、と思った。自分で。
本を閉じる。
膝の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
次の駅のアナウンスが流れる。
降りるつもりだった駅。
ドアが開く。
人が出ていく。
足は動かなかった。
行く理由なんて、どうでもよくなった。
行かない理由も、同じくらいどうでもいい。
ただ一つだけ、残った。
会いたい。
それだけだった。
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
もう引き返す気はなかった。
駅に着いたとき、雨は少し弱くなっていた。
それでも傘は差さなかった。
ここまで来て、今さら守るものもない。
改札を抜けて、外に出る。
見慣れたはずの景色が、少し違って見える。人の流れに逆らうように歩く。
心臓の音が、さっきよりはっきりしている。走っていないのに、息が浅い。
角を曲がる。
その先に、いるとは思っていなかった。
悠人がいた。
壁にもたれかかるように立っていて、スマホを見ている。
気づいていないふりをしているのか、本当に気づいていないのかはわからない。
足が止まる。
向こうが顔を上げる。
目が合う。
少しだけ、驚いた顔をしたあと、すぐにいつもの表情に戻る。
「急だね。どうしたの」
それだけ言う。
責めるでもなく、安心するでもなく、ただ事実みたいに。
「会いたくて」
声はちゃんと出た。
近づく。
距離が、あっさりと縮まる。
何か言わなきゃと思うのに、言葉が出てこない。
沈黙が少しだけ続く。
そのあと、悠人が小さく息を吐いた。
「……あのさ」
珍しく、少しだけ迷うような間。
視線が一瞬逸れて、すぐに戻る。
「もう待たなくていい?隣にいてくれる?」
まっすぐだった。
余計なものが何もない言い方。
だから、逃げ場もなかった。
少しだけ考えるふりをして、やめた。
そんな時間、もういらない。
笑ってしまいそうになるのを抑えて、口を開く。
でも、言葉にはしなかった。
ただ、笑顔だけを向けた。
今はそれで十分だと思った。