
短編小説『ムーンフィッシュ』
2月の冷たい夜のこと。狭く薄暗いアパートの浴室で、自らこの世を去ろうとした。何か特別嫌なことがあったわけではない。家族や恋人や友人が死んだわけでも、会社をクビになったわけでも、パワハラを受けているわけでもない。だって家族や恋人や友人ははじめからいないし、今はもう会社にすら務めていない。強いて言えば、どうしようもなく孤独だった。
いつ心が蝕まれたのかわからない。はじめからおかしかったのかもしれない。生まれた時から。でも、それを証明する術もない。
病名ならいくつかもらった。もう何でもいいのだと思う。とにかく「おかしい」ということが明確になりさえすれば。
冬だというのに、浴槽に張られた水は冷めきっていて、服のまま入ってはいるのだが、さすがに身体が震えはじめた。不思議と何も怖くはない。水に顎まで浸かって、さあやるぞと覚悟を決めたところで、寝室の窓に何かが激しくぶつかる音を聞いた。
びっくりして浴槽から上がった。びしょびしょのまま寝室へ向かってみると、ガラス戸にひびが入っている。そしてベランダには一匹のやたら大きな魚が横たわって、びちびちと暴れていた。これには私も我が目を疑った。
だがどんなに目をこすっても、ベランダには魚がいる。ガラス戸を開け、魚に近寄ってみる。遠くに微かな波の音を聞いた。
私は魚を抱きかかえると、おもむろに浴槽へ運んだ。まん丸い体に大きな赤い胸鰭が印象的だった。とりあえず浴槽の水の中に放り込んでみると、魚はいくらか元気を取り戻した。海の魚だろうからと思って塩も少し入れた。
調べてみると、魚はアカマンボウという深海魚のようだった。マンボウによく似た平たい形をしていて、でもマンボウの仲間ではなくリュウグウノツカイの近縁だそうだ。銀色の小さな鱗をまとった体をしており、鰭と顔回りが鮮やかな赤色をしている。その姿はまるで、地平線の向こうから登ってきたばかりの赤みがかった月のようだ。魚類のなかで唯一暖かい心臓を持ち、胸鰭を動かし続けることで全身の血液の温度を海水よりの高く保つことができる、温血魚であることが確認されている。珍しい魚。
どうしてこんな魚が私の部屋めがけて飛んできたのだろう。三階だから人の手では不可能だし。
アカマンボウはすぐに死ぬと思った。水族館でも飼育が難しい魚を、素人が浴槽で飼育できるはずないからだ。しかし意外にもアカマンボウはしぶとかった。死ぬどころか、餌をねだって赤い口をパクパクさせる始末だ。
私は適当にその辺にあった干しエビをいくつかくれてやった。すると満足したのか、こんなことを言った。
「助けてくれてありがとう。私はアレクサンダーという。普段は深海に住んでいるが、思い切って水面に出てきてみたところ、鳶に捕まってしまったのだよ。夜だと思って油断したのが悪かった。まさか夜に活動する鳶がいるだなんて、想像もつかないだろう?」
私はだまってアレクサンダーと名乗るアカマンボウの話を聞いていた。もっと喋ってほしかったので、また干しエビを一つまみ与えてみた。
「深海は十分すぎるほど広いが、とても暗く冷たい場所だ。我々は絶えず胸鰭を動かすことで血液を燃やし、過酷な環境を生き抜いている。しかしもっと違う、広い世界を見たいと常々思っている。水面から空気に触れ、風が囁く方へ鰭を動かし、星が瞬く元で眠りにつきたい。太陽と雨雲に挨拶し、穏やかに、孤独に、傷つきながら世界を見つめていたいのだよ」
アレクサンダーの言っていることはいまいちよくわからなかったが、話を聞いているとどこか共感のような気持ちが湧いてきてしまうのだった。
アレクサンダーとの生活が始まった。数日間、私は殆どの時間を浴室で過ごした。食べる時も、眠る時も、アレクサンダーが隣にいる。彼の前では魚を食べなかった。エビやイカが好物であるとわかると、スーパーまで買いに行って気が済むまで与えた。退屈しないように音楽もかけてあげたし、たくさん話を聴いてあげた。
海の底のように暗かった毎日に少しの光が差し込んだ。生活がアレクサンダーを中心に回り始めた。でもそれも長くは続かなかった。彼は広い世界を見ることを望んでいたからだ。大きな夢を抱くアレクサンダーに、この浴槽は狭すぎる。
星が瞬く夜、私はアレクサンダーを濡れタオルに包んで走った。人目なんて気にせず、ただひたすら海を目指した。
「アレクサンダー。星が見えるよ」
私が言うと、アレクサンダーのどこか虚ろな魚眼が星空を見上げ、控えめに輝いた。
「アレクサンダー。海だよ」
私はいつの間にか泣いていた。暖かい涙が頬を伝い、アレクサンダーの体にいくつも滴った。その場所は白く色が抜け、斑点のようになった。涙はとめどなく零れ続け、アレクサンダーの体は月面のクレーターのように斑点でいっぱいになった。私はひたすら泣きながら、頭の片隅でそれを美しいと思った。
「さよなら。アレクサンダー。元気でね」
私の膝は海水に浸かっている。アレクサンダーを海に離すと、彼はしばらく海面に留まって、何度もお礼を言った。そして最後に、「君の血はとても温かい。だからきっと大丈夫だ」と言って、真っ暗な海に姿を消した。
部屋に帰って来ると、また涙が出そうになった。浴室へ行き、浴槽の栓を抜いた。まだ生臭い臭いが残っていた。
ベランダにアカマンボウがやって来て、浴室で数日間一緒に過ごした。たったそれだけのことだったのに、なぜか私は少しだけ大丈夫になった気がしていた。
「ありがとう。アレクサンダー」
その後、割れたガラス戸の修理費が自己負担になってアレクサンダーを恨んだのはまた別のお話である。
おしまい。