
【短編】読み仮名を探す旅(孤高のメロディ、灰色の町、川を渡る)
あらすじ→私は難しくて読めない漢字の読み仮名を探している。
以下、読まなくてもたぶん平気。
旅の始まりにご興味がありましたら是非どうぞ!
読み仮名を探す旅1 (友人への手紙)
https://note.com/ibuki_salon/n/ncca4245984ae
読み仮名を探す旅1.5(とりとめのない雑記)
https://note.com/ibuki_salon/n/n95cbc392dc1d
あの丘の上から音が聞こえる。
丘のてっぺんにそびえ立つ大きな一枚岩が、黒い影のように青空を突き刺している。
私の足は無意識にそちらへと向かった。
青々と繁る下草を踏みしめ、音に吸い寄せられるように登る。
大きな岩から響いてくる音色はだんだんと大きくなり、形を成してきた。
空のように多彩で、膨大な厚みの、美しい弦の音色だ。
近付くにつれ体の末端から音を拾い、びりびりと震え出した。
指先から腕がじんじんする。耳や首筋、顔の皮膚にも痺れが広がる。
布に覆われていない部分は内側まで浸透しつつある。
その強さに迷った。
大きな塊の突風の様な音色だ。
今ならまだ聴くか聴かないかを選択できる。
しかし私の足はもう勝手に向かっている。
私は勇気を出した。
興味がある、惹かれることに誠実になろう。
私は読み仮名を知りたいのだ。
ひとつの疑問を持ち歩んでいると、出会う全てはその鍵となる。
たとえしっぽの先っぽでも。求めている読み仮名へと繋がるかもしれない。
そうして覚悟を決めた。
私は知るために扉を開く。それを今選択するのだ。
私は普段閉じている重い扉を開いた。
途端に五感は溺れ音に侵食された。皮膚から体の内側へ。全神経がびりびりと震える。細胞のすべてひとつ残らず、どっぷりと浸る。一瞬で満ちて溢れて音そのものになる。
嫌悪感はない。大丈夫だ。
なんて孤高な音だろう。統べるもののいない王者のようだ。
ひとり向き合い昇り続けた者の音。
痛みはない。圧倒的に強い。
向かい風のように突き刺さる音を全部で受け止める。
私はまだ物体として残る体を押し進め、上へと向かった。
そこでは、そびえ立つ岩を背にして、男が弦楽器を弾いていた。
近付いてきた私に気付いているのかいないのか、一切構う様子もなく、男は弾き続けた。
音色は海の深さや木の年輪を思わせる。深淵な層の中に私は佇む。目も耳も鼻もなくなる。
脳がただの空間になってゆく。全ての臓器及び細胞は周波数を振動させるための器官、空洞となる。膜のあるものはすべて響く。
何度も高音がその境界線をぐいぐいと押しやる。
そのままにして音が内側から私を突き破るに任せた。
そのうち私は飛び散って霧散し波となり空気の振動そのものとなった。
風になり、岩になり、揺れる下草となり、震える弦になり、響きとなり、空になる。
そしてその男になった。
ああ、孤高と感じたがそれは人間的な些末でことだった。
この男は今、万物を手中に入れている。
私は揺さぶられ幾万もの粒子として振れる。このちっぽけな意識も手放そう。
雫のように零れては飛び跳ね、すべらかに駆け上がり、雄大に広がる。誰も追随させない、それを望まない、絶対的な力。
どこまでも高みへと飛翔し、やはり統べるのだ。苦しみも悲しみも柔らかさも繊細さもすべてを内包し続け、ひたすらに極めた強さは。
昇り詰める。
やがて静寂が訪れた。
私ははっと目覚め、体を再構築し、音の扉を閉めた。
『ブラボー。』
男に言った。
『ありがとう。』
その目線は一瞬だけ私の表面を滑り、すぐに手元の楽器へ戻る。
『私は探し物をしていまして、この読み仮名を知っていますか?』
ちらと紙を見て男は言った。
『知らないな。』
私はがっかりと肩を落とし
『そうですか。音を知るあなたならきっと分かると思ったのに。』
と言った。男はむっとしたように
『すまんな。言葉には興味がないんだ。だいたいそれを知って何になる?』
と言った。楽器をケースにしまい、がちゃりと蓋を閉める。
無駄のない動作で立ち上がった。
私は口早に言った。
『言葉を知って何になるか、それも分からないから知りたいのです。』
すると男は小馬鹿にしたように言った。
『そんな他人の言葉を得たって無駄だよ。人は生まれてからずっと、他人から聞いた言葉を並び替えて話してるだけじゃないか。
それは自分の音と言えるのか?
周りを見ろ、誰も自分の言葉なんか持っちゃいない。』
柔らかな下草が風に揺れるなか、深い飴色の革靴がこちらを向いている。男の足に何十年と寄り添い、丁寧に磨かれたそれは草のなかで際立つ。
私は汚れた靴で後退りをした。しかし後ろ足でぐっと体を支える。
『だからです。だから自分の言葉を探すんだ。』
『他人からか?外側からペタペタと新しい言葉をくっつけて、張りぼてのようで滑稽になるだけだよ。おれは信じないね。
言葉のどこに真実がある?言葉なんて嘘でしかない。』
そう言って、黒いケースにしまった嘘ではない音だけを持ち、男は去って行った。
私はとぼとぼと歩くしかなかった。
丘を下り、町中へと迷いこむ。
毎日ただ歩き続けた。
すっかり男の言葉に惑い、頭の中は混乱を極めていた。
進む意味はあるのだろうか。
向かう先も分からない。
羅針盤はぐるぐると回っていた。
行く宛なくさ迷う。
石畳の道はどこを曲がっても抜けられない。常に同じような景色だ。
低く垂れ込める雲も、無限に続く固い道も、しんと静かな建物も、どこもかしこも灰色だった。
ある日、道の片隅の隙間から生える小さな花に、ふと足が止まった。ほんの小さなひとつだけの白だった。凛と光を放ち、灰色の風景から浮かび上がっている。
じっと見た瞬間に、呼吸ができるようになった。今まで止まっていたのだろうか。
肺の中に新鮮な酸素がどっと入り込み、視界が広がった。なるほどまだあの音に溺れていたのだ。やっと息を吸う。
気付いた。充分だと。もう充分に同じ所をまわり続けたのだ。
私に必要なのは出口だ。
私はしゃがみ込み、そっと小さな花に感謝と別れを告げた。
そして立ち上がり伸びをした。
空気を入れ替える。
肺の中の空気を全部吐き出し、もう一度大きく息を吸い込む。
この土地を区切っている、あの川の向こうへ行こう。
まだ見ぬ新たな大地へと私は向かうことにした。
小さな船着場から、小さな渡し船に乗った。
穏やかな川面。揺れる小舟。漕ぐリズムは迷いなく力強い。優しく心地良く揺られる。
私は船頭に話しかけた。
『新しい言葉を得ることは、無駄なことなのでしょうか。』
船頭はしばらく黙り、落ち着いた声で言った。
『いやそれは違うね。ひとつの言葉はひとつ以上の世界を作る。』
『はい。』私は顔を上げる。船頭と目が合った。その瞳は穏やかで深い。楽しそうに私を見ていた。
船頭はまたゆっくりと言葉を繋げた。
『その世界って何だと思う?』
『それは・・・見解のことでしょうか。物事を見る視線かしら。』
『そうだな。その矢印を自分にも向けてごらん。』船頭はおおらかに舟を漕ぐ。
『矢印を自分に向ける。』
『そう、言葉は神様からのギフトさ。外で見たものは必ず内にある。』
『内に・・・?矢印を自分に向けると、自分を見ることができます。認識もできる。』
『そうだな。今まで認識できなかったものに、新しい言葉で輪郭をつけたら、それを表すことができるかもしれないよ。』
『それは、新しい性質や性格も?』
『おう。いや、なんでもな。いつでも矢印を外だけじゃなくて内に向けてごらん。』
私は少しづつ迷いがほどけてゆく。
『どうやって矢印を向けるのですか?』
『簡単だよ。』
と言って船頭はオールを漕ぐ手を止めた。
途端ゆるゆると舟は川に流されてゆく。不安が煙のように胸の内に広がった。
『ほらオールで漕がないと流れに飲まれていくだろ。
自分がどの場所にいるのか、自分で決めないと流されちまう。
矢印を働かせるためには、自分は中心にいるんだ。自分で選ぶ、軸の真ん中をな。』
私は舟の縁をぎゅっと掴んで、早く漕いでくれと船頭を見上げた。
船頭は愉快そうにまた力強く漕ぎ始め、舟は心臓を取り戻した。
私は安心して体の力が抜けた。
すると下半身がぐうっと落ち着きこの小舟に私の根が広がった。そのままに身を委ねる。
根っこはぐんぐんと深く根付いて行き、舟にも川にも大地にも私の真ん中にも繋がった。
繋がったらリラックスして大丈夫だと思った。なんだか楽しくなった。
そんな私を見て笑いながら船頭は言った。
『簡単だよ。その場所で思い出すだけだ。自分がオールを握っていることを思い出せばいい。』
穏やかに着実に、流れる水を切り進む。
舟の側面を打つ平和な水の音。
がっこんがっこんとリズムを刻むオール。これは安心の音だ。
ひと漕ぎするごとに水の奥から沸き上がり広がる波紋。
心地よく揺れる体。
薄い雲が流れてゆき、隠れていた太陽が顔を出した。水面にはキラキラと光の粒が踊っていた。
『ところでこの読み仮名を知っていますか?』
『知らんなあ。もしかしたらプラテーロのじいさんなら知ってるかもな。この先の村にいるよ。詩人なんだ。』
遠く見えていた新たな大地へと、舟はゆっくりと近付いてゆく。