
「人に期待をしない」
昔々、私がまだ若かった頃にこの言葉を聞いて、
「なんて薄情な考え方なんだ」
と思ったんです。
人に期待をしない、だなんて。
その人を信用していないと、ほぼイコールのように
聞こえましたから。
あのピッチピチにハネてた時にはわからなかった「人に期待をしない」の意味を、50歳を過ぎるとなんだかじっくりと染み込んでくるものです。
当時も今も、私はどこか「性善説」を信じてるキライがあります。
ただ、その信じ方の角度が変化しました。
その角度が変わった部分と、人に期待をしないってことが、パチっとはまったようにも思います。
若い頃は、白か黒かがはっきりしてることこそが「正義」で、曖昧さは不誠実な気がしてたのです。当時の私から見た「大人たち」は、曖昧さを飲み込んでいて、それがなんか許せんかった。毎日乱暴に研がれてた鋭角な私の感性こそ正解で、絶対研ぐ手をとめるものかと、曖昧を「平気で受け入れる」ような大人になるまいと必死でした。
今思うと、なんて愛らしい。
一所懸命に自己流で尖りまくる私を、周りの大人はきっといろんな思いで見ていたことでしょう。
高校を出てからのキンキンに尖った私は、自分の振る舞いにちゃんと小言を言ってくれる大人を遠ざけてました。うるせぇと思ってましたから。
ほんと、なんて愛らしいんでしょう。
「尖ってるねぇ」
なんて言われることはありました。
切れ味ばっかり気にしてる私の答えは
「当たり前だ、うるさいな」
自分の感覚と感性を守るために必死だったのでしょう。
世界は私が思ってる色と形が正しいのに、それを否定も肯定もしない大人にイラッとして、絶対あぁならない!と踏ん張って、キリキリ自分を研いで。
若さ、という言葉で片付けたら当時の私の頭が沸騰しそうですが、
今となっては、あの鋭さがただ可愛らしくて仕方ない。
抱きしめて「そんなに頑張んなくても意外と平気よ」って
言ってあげたい。
そして私は、いろんなことに絶望したり失望したり悔しかったりという経験を積みました。
あの頃、キンキンに尖らせるために使っていた研ぎ石は、その後角を丸くするために使われ、私は曖昧に、ふわっと、グレーになってきています。
そういう自分を、受容しています。
期待をしないのは、その人を信じていないのではなくて
期待こそが私自身のエゴだと思うようになってきたからです。
期待とは、自分都合の色と形。
その人の有り様とイコールではないってことがわかってきました。
それが良いということではなく。
その方が私にとっては、楽で柔らかな生き方だと気づいた、ということです。
誰かに正解を突きつける生き方は、今の私には向いてないように思えて。
白か黒だなんて、そんなハッキリと断定できるほど、この世が簡単ではないことを知ってしまったように思えて。
今の私ですら、あと何年かしたら「愛らしい」と思えるのかもしれません。
それが、年を重ねるということの楽しみ方なのかもしれなくて。
そうね、老いていくのも、案外悪くない。うん。