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【小説】シヤージュ

    この物語は、ルイ・ヴィトンの元マネージャー・篠田恵さんのお話に感銘を受け、執筆したものです。作中に登場するストアマネージャー・篠原麻里恵のモデルとして、その温かくフレンドリーな魅力を投影させていただきました。

    また、主人公の実希は、エッセイや小説など創作話を聴いてくださる、みくまゆさんをモデルにしています。(どちらもご快諾いただき、ありがとうございます。)

    お二人の素敵な出会いと熱量から生まれた、一歩踏み出す女性の物語です。



    「結婚することになった」

    六月最初の日曜日、紗耶はアイスティーのグラスに浮かぶ薄い輪切りのレモンをストローで沈めながら、できるだけ何でもないことのように言った。

    窓の外では、昼前から降り始めた雨が歩道を濡らしていた。向かいの雑貨店が軒下に出している白いワゴンも、透明なビニールで覆われている。店内には湿った傘と、挽きたてのコーヒーと、紗耶の頼んだ桃のタルトの甘い匂いが混じっていた。

    実希は、フォークで切りかけていたミルフィーユから顔を上げた。

    「誰が?」
    「私が」

    紗耶は笑った。大きく笑うと目尻が下がる、大学時代から変わらない笑い方だった。その頬がいつもより赤いことに、実希はようやく気づいた。

    「え、待って待って。結婚って、本当に結婚?」
    「ほかに何があるのよ」

    紗耶は困ったように笑いながら、テーブルの上へ左手を出した。
    細い指の付け根で、小さなダイヤモンドが光った。窓を流れる雨粒よりもずっと慎ましい光なのに、実希には店内の照明をすべて集めているように見えた。

    台座の横に、蔓を思わせる小さな意匠がある。重ねられたLとV。見間違えるはずがなかった。

    「ヴォレンヌ?」

    自分の声が思ったより大きくなり、実希は慌てて声を落とした。

    「そう。私もびっくりした」

    紗耶は照れながら、指輪を少し傾けた。

    「前に一緒にデパートへ行ったとき、私がショーウインドウを見ていたのを覚えてたみたい。そんなに詳しい人じゃないのに、あとで一人でお店へ行ったんだって」

    実希は指輪を見つめた。

    フランスの老舗メゾン、リュシアン・ヴォレンヌ。百年以上前、旅行鞄の職人だったリュシアン・ヴォレンヌがパリで開いた小さな工房を起源とし、今では世界中の都市に店を構えている。

    高校生の頃、母が美容院から持ち帰った古いファッション誌でその名を知って以来、実希にとってヴォレンヌは、いつか行ってみたいパリの街と同じように、遠く眺めるものだった。

    それが今、親友の指に収まっている。

    「よかったね」

    ようやく出てきた言葉は、自分で驚くほどきれいな声になった。

    「おめでとう」
    「ありがとう。実希には最初に言いたかったんだ」

    紗耶はほっとしたように笑った。

    二人は大学を卒業してから八年、彼氏ができても長続きせず、友人たちの結婚式から帰るたびに、パーティドレスのまま夜のファミリーレストランへ寄ってきた。

    「三十五歳になっても独身だったら一緒にパリへ行こう」
    「四十歳になっても独身だったら同じマンションの別々の部屋を買おう」と、冗談とも本気ともつかない約束を重ねてきた。

    そんな紗耶の結婚が決まったのは、図らずも六月だった。ジューンブライドという、あまりにもお決まりの季節だ。結婚式は秋の終わりだというのに、この雨さえも彼女を祝うために降り注いでいるようで、実希には少し腹立たしかった。

    それでも、紗耶に向ける笑顔を曇らせたくはなかった。相手の仕事や式場の候補を尋ね、両親がどれほど喜んだかを聞き、桃のタルトを一口もらった。

    会計を済ませて店を出るまで、実希は幸福な友人にふさわしい友人でいられたと思う。


    駅の改札で別れ、一人になった途端、胸の中に重たいものが落ちてきた。

    紗耶が嫌いになったわけではない。結婚が決まらなければよかったとも思わない。ただ、二人で並んで待っていたはずの場所から、紗耶だけを迎えに来た人がいた。その人は彼女の何気ない視線まで覚えていて、一人でヴォレンヌの店へ行き、指輪を選んだ。

    ゆっくり息を吐くと、涙が出そうな気がした。結婚、指輪、ヴォレンヌ。ずっと手を伸ばしているものを、持たないもの同士だったはずの紗耶が手に入れた。それが羨ましくて仕方ない。

    でも悲しいほどに妬ましかったのは、紗耶の恋人にとって「ヴォレンヌ」が「愛する人が目を惹かれたもの」として大切に記憶されていることだった。


    その夜、実希はベッドに横になったまま婚活アプリを開いた。三日前に食事をした男性との画面には、自分が送った「今日はありがとうございました」というメッセージが残っていた。既読はついている。それより下には、何も続いていなかった。

    アプリを閉じ、枕元に積んでいたファッション誌を手に取った。パリの石畳を歩くモデルは、深い緑のコートに赤いパンプスを合わせていた。その次のページでは、グリッターの映えるブルーのドレスを着た女性が、誰もいない劇場の客席に一人で座っている。

    以前なら、ページをめくるだけで胸が弾んだ。自分が実際に着られるか、どこへ着ていくかとは関係なく、美しい布が人の身体の上で形を得ていることが好きだった。

    服は、自分ではない誰かになるためのものではなく、まだ言葉になっていない気分に輪郭を与えるものだった。

    けれど、その夜は誌面の女性たちまでが、実希を置き去りにしているように見えた。実希は雑誌を閉じ、部屋の灯りを消した。雨は日付が変わっても降り続いていた。

    *

    実希は、住宅設備を扱う会社で経理事務をしている。

    月曜日から金曜日まで、請求書の金額と入金を照合し、経費精算の不備を差し戻し、月末には数字の並んだ表を何度も確かめる。間違いを見つけるのは得意だった。一円のずれにも気づくし、交通費の申請で経路を間違えている社員がいれば、本人より早く正しい金額を出せる。

    仕事は嫌いではない。必要とされていることも分かっている。ただ、一日が終わる頃には、自分まで表計算の罫線の中に収められたような気持ちになることがあった。

    紗耶の結婚報告から二週間ほど経った金曜日、実希は残業を終えて会社を出た。朝から降ったりやんだりを繰り返していた雨は、夕方になってまた強くなっている。

    折り畳み傘を持ってはいたが、駅へ向かう途中で雨脚が激しくなり、実希はアーケードのある大通りへ逃げ込んだ。



    そこで、リュシアン・ヴォレンヌの店の前を通った。

    閉店まで一時間を切った店内には客の姿がなく、ショーウインドウの照明だけが雨に濡れた歩道へ落ちていた。正面に飾られているのは、滑らかな黒革のハンドバッグだった。余計な装飾のない長方形の輪郭に、細い持ち手と、鈍い金色の留め具。主張するロゴはどこにもないのに、黒い革そのものがひときわ深く見えた。

    実希は傘を閉じ、ガラスへ近づいた。

    商品名は《シヤージュ》。

    フランス語で、船が水面に残す航跡や、人が通り過ぎたあとに残る香りの余韻を意味する言葉だったはずだ。

    自分が持ったら、どんなふうに見えるだろう。通勤に使うには贅沢すぎる。休日に持つとしても、行き先がない。紗耶の結婚式へ持っていったら、彼女は気づくだろうか。
    最後の想像が浮かんだことを、実希はすぐに恥じた。そのとき、目の前の扉が開いた。

    「きれいでしょう」

    明るい声に振り向くと、濃紺のスーツを着た女性が立っていた。四十代半ばくらいだろうか。艶のある髪を後ろでひとつにまとめ、胸元には金色の名札をつけている。

    篠原麻里恵、ストアマネージャー。
    実希は、何も悪いことをしていないのに謝りたくなった。

    「すみません。見ていただけで」
    「もちろん、見ていただくためのショーウインドウですから」

    麻里恵は笑った。高級店の人とは思えないほど、屈託のない笑顔だった。

    「もしよろしければ、中でご覧になりませんか。雨宿りだけでも構いませんよ」

    店内へ入ると、雨の気配が遠くなった。淡いベージュの壁、厚い濃紺の絨毯、間隔を空けて置かれたバッグを間接照明が照らしている。濡れた傘を持った自分だけが、その空間に誤って持ち込まれたもののように感じられた。

    麻里恵は傘を預かり、白い布で実希の袖についた雨粒をそっと押さえた。

    「先ほどご覧になっていたのは《シヤージュ》ですね」
    「デザインが好きで。昨年の秋に出ていた、金の金具が付いたのも好きです」
    「お詳しいんですね」
    「雑誌で見るだけですよ」

    実希が言い訳のように付け足すと、麻里恵は棚から黒いバッグを下ろした。

    「見るだけのお客様も、最初からお客様ですよ。どうぞ、お手に取ってみてください」

    差し出されたバッグを、実希は両手で受け取った。見た目より軽く、革は吸いつくように滑らかだった。持ち手に腕を通すと、麻里恵が姿見の前へ案内してくれる。

    鏡の中には、会社帰りの自分がいた。雨で毛先の広がった髪、安く買ったアイボリーのブラウス、もう三年履いている黒いパンツ。その腕に《シヤージュ》があるだけで、一段引き上げられた姿に見えた。

    「お似合いです」

    麻里恵は、よく通る声で言った。
    実希は値札を探したが、どこにも見当たらない。尋ねるまで価格を見せないところにも、この店と自分との距離を感じた。

    「こちら、おいくらですか」
    「八十九万一千円でございます」

    実希は思わず息だけで笑った。

    「やっぱり、そうですよね」

    一年間、毎月七万円ずつ貯めても届かない。実際には家賃も光熱費もかかるのだから、そんなふうに貯められるはずもなかった。

    麻里恵は購入を勧めなかった。バッグを棚へ戻しながら、現在の《シヤージュ》は創業期の旅行鞄に使われた金具をもとに設計されていること、革の裁断から縫製までをフランスの工房で行っていることを教えてくれた。


    実希は何も買わずに店を出た。それでも、麻里恵は店の外まで見送り、人懐っこい笑みを浮かべて小さく手を振った。

    「また、いつでも見にいらしてくださいね」

    帰りの電車で、実希はその言葉を何度も思い出した。
    商品を買わなかった自分も、あの店にいてよかったのだ。そのことが、バッグを持ったときよりもうれしかった。

    *

    七月に入ると、紗耶から結婚式の招待状が届いた。白い封筒に金色の文字が入り、返信はがきには、出席の二文字を丸で囲んだ。

    共通の友人たちとのグループメッセージでは、式に何を着ていくかという話が始まった。一人は夫に子どもを預けられるか相談すると言い、もう一人は二人目を妊娠しているので手持ちのドレスが入らないかもしれないと笑った。

    実希は画面を閉じた。

    その週末には、婚活アプリで知り合った男性と二度目の食事をした。相手は同い年の公務員で、遅刻もせず、店員への態度も丁寧だった。条件だけを見れば申し分がない。

    「服がお好きなんですね」

    実希がファッションの展覧会へ行きたいと話すと、彼はメニューを閉じながら言った。

    「見るのが好きなんです。高い服をたくさん買うわけじゃなくて」
    「ブランドものも?」
    「好きなブランドはあります。ヴォレンヌっていうフランスのーー」
    「結婚したら、そういうのって我慢できます?」

    冗談めかした口調だったが、その響きには相手を試すような、かすかな嘲りが滲んでいた。

    「いや、女性は何かとお金がかかるって聞くから。最初に価値観を確かめておいたほうがいいでしょう」

    まだ結婚するどころか、互いの下の名前にも慣れていない。けれど彼の中で、実希が好きなものは、すでに結婚後に制限されるべき支出として計算されていた。

    実希は曖昧に笑った。
    帰宅してから、彼に断りのメッセージを送った。自分から断ったのに、またひとつうまくいかなかったという疲労だけが残った。



    翌日の仕事帰り、実希はヴォレンヌへ向かった。
    《シヤージュ》は、以前と同じ場所にあった。麻里恵は実希を覚えていて、すぐにバッグを棚から下ろしてくれた。

    「これって……分割払いもできますか」
    「はい。回数によって手数料が異なりますので、試算をお出しできます」

    三十六回にすれば、ひと月の支払いは二万数千円だった。外食を減らし、服を買わず、美容院へ行く間隔を延ばせば払えなくはない。そのバッグを持てば、紗耶の隣に立っても惨めに見えないかもしれない。婚活で会う男性にも、価値のある女だと思われるかも、と実希は思った。

    「これ、買わせてください」

    口に出した瞬間、胸が高鳴った。うれしいのか、恐ろしいのか、自分でも分からなかった。
    麻里恵はすぐには頷かなかった。

    「もう一度だけ、お持ちになってみますか」

    バッグを腕に掛け、姿見の前に立つ。以前は鏡の中の自分が少し違って見えた。ところが今は、黒いバッグだけが身体から浮き、何かを必死に主張しているように感じられた。

    麻里恵が、鏡越しに実希を見た。

    「最初にいらしたとき、このバッグをご覧になっているお顔が、とても楽しそうでした」
    「今日は違いますか」
    「私には、少しご無理をなさっているように見えます」

    見透かされた羞恥で、実希の頬が熱くなった。

    「買えないわけじゃありません。分割なら払えます」
    「はい。もちろんです」
    「私だって、これくらい持っていてもいいでしょう」

    誰に向けた言葉なのか、分からなかった。麻里恵は否定も肯定もせず、しばらく黙っていた。

    「このバッグをお持ち帰りになったら、明日の朝、笑顔になれそうですか」

    実希は鏡の中のバッグを見た。

    明日の朝、自宅の小さなテーブルに《シヤージュ》が置かれている。その光景を想像しようとしたのに、浮かんだのは紗耶の顔だった。結婚式に持っていけば、紗耶はきっと気づく。ほかの友人たちも驚くだろう。

    いつ買ったの、すごいね、似合っているね。そんな声ばかりが頭を埋めた。
    自分一人の部屋で、そのバッグを眺める場面だけが思い浮かばなかった。

    「売らなくて、いいんですか」

    実希が小さな声で尋ねると、麻里恵は微笑んだ。

    「できれば、長くお使いいただける方へお届けしたいと思っています。ですが、誰かに見せるために買ったものは、私たちの手を離れたとき、急に重みを持つことがありますから」

    麻里恵はバッグを受け取り、元の棚へ戻した。それから周囲にほかの客や店員がいないことを確かめるように少しだけ声を落とした。

    「これは店の人間としてではなく、私個人の独り言です。銀屋町の角に、古い質屋さんがあるのをご存知ですか」

    実希にも見覚えがあった。昔ながらの商店が並ぶ通りに、時計や宝石を置いている小さな店がある。

    「ヴォレンヌの古い品を扱っていることがあります。《シヤージュ》も、まれに入ります。状態はそれぞれですけれど、一度覗いてみてもいいかもしれません」
    「そんなこと、私に教えていいんですか」
    「大きな声では言えません」

    麻里恵はいたずらを打ち明けるように笑ったあと、穏やかな声で続けた。

    「素敵な出会いがあるといいですね」

    *

    土曜日、実希は銀屋町の質屋を訪れた。
    店の正面には、日に焼けた赤い暖簾が掛かっていた。ショーケースには古い腕時計や金のネックレスが隙間なく並び、ヴォレンヌの店とは違う意味で、入るのに勇気がいった。

    自動ドアは途中で一度止まり、遅れて残り半分が開いた。店内の奥にいた女性が、老眼鏡を額へ上げた。

    「何かお探しですか」
    「リュシアン・ヴォレンヌのバッグがあると聞いたんですけど」
    「ああ。それなら……」

    女性はカウンターの下から、大きな布袋を取り出した。しかし現れたバッグを見て、実希は言葉を失った。

    それは確かに《シヤージュ》だった。しかし、ヴォレンヌのショーウインドウで見たものとは、同じ名前を持つだけの別物に見えた。
    革は乾いて艶を失い、四隅は白っぽく擦れている。金具は曇り、持ち手の付け根には細かな皺が入っていた。

    女性が留め具を外すと、古い香水と湿気が混じった匂いが立ち上った。実希は思わず顔を引いた。

    「保管がよくなかったんですよ。内側にも染みがあります」

    値札には、二十五万円と書かれていた。実希は思わず声を上げた。

    「これで……二十五万円?」
    「ヴォレンヌですからね。状態がよければ、うちではこの値段で出せません」

    女性は手袋をはめ、バッグの底を押して見せた。

    「でも、革はまだ死んでいません。型崩れも少ないし、縫い目も生きてる。見た目ほど悪くはないですよ。ただ、ここから手をかけて使いたいって人が少ないんです」

    実希はバッグを持たせてもらった。現行品より少し小さく、革も柔らかい。持ち手は、知らない誰かの手に長く馴染んだ形をしていた。
    鏡はなかったが、ショーケースのガラスに、バッグを持つ自分の姿がぼんやりと映った。

    新品には手が届かず、使い古されたものさえ、自分には安くない。そう思うと、急に惨めになった。

    「少し、考えます」

    実希はバッグを返し、店を出た。
    外は晴れていた。六月の雨が嘘だったような強い日差しの下で、商店街のアスファルトが白く光っている。実希は駅まで歩きながら、何度も自分の手の匂いを嗅いだ。触れただけなのに、あの古い香水が移った気がした。

    買うわけがない。
    そう思ったはずなのに、自宅へ戻ると《シヤージュ》について調べ始めた。

    質屋で見たものは、二十数年前に作られた旧型だった。現在のモデルより持ち手が短く、留め具には創業者が旅行鞄に使っていたものと同じ意匠が残っている。製造番号から年代を照合すると、一九九七年前後に作られた可能性が高かった。

    実希が生まれた年だった。

    同じ二十九年を過ごしてきたのだと思った途端、あの傷んだバッグが、急に他人とは思えなくなった。もちろん、バッグと人間を同じにするのはおかしい。バッグは持ち主に選ばれなければ、棚の上から動くこともできない。

    だからこそ、気になった。

    翌日、実希は革製品の修復店を調べ、写真を見せて概算の費用を尋ねた。大がかりな塗り直しをしなければ、洗浄と保湿、角の補修、金具磨きを合わせて四万円から五万円程度。匂いは軽減できても、完全に消える保証はないという。

    実希は預金残高を確かめた。二十五万円と修復費を払っても、当面の生活費と、何かあったときのために残している金額には手をつけずに済む。安い買い物ではない。けれど、三十六回払いで新品を買うより、ずっと現実的だった。

    それでも一週間考えた。

    紗耶に見せたいからではないか。婚活で会う男性に、価値のある女だと思われたいからではないか。二十九歳の焦りを、黒い革で覆い隠したいだけではないか。

    どの問いにも、完全な否定はできなかった。

    ただ、あのバッグが誰にも選ばれないまま、乾いた革をさらに硬くしていくところを想像すると、胸の奥がざわついた。きれいになった姿を見てみたい。それを持って、どこかへ出かけてみたい。

    週末を迎えて、実希は質屋へ向かった。バッグはまだ同じ場所に佇んでいた。

    「これ、買います」

    女性は老眼鏡の奥から、実希を見た。

    「匂いも染みもありますよ。返品はできませんけど、いいですか」
    「分かっています。直して使います」

    二十五万円を一括で支払った。
    紙袋を抱えて店を出たとき、誇らしさよりも恐ろしさのほうが大きかった。自分は本当に、この匂いのする古いバッグに二十五万円を払ったのだ。

    けれど、後悔はしていなかった。

    *

    修復店の職人は、《シヤージュ》を明るい作業台に置き、革の状態を時間をかけて確かめた。

    「全部きれいに見せるなら、全体を塗ってしまう方法もあります。ただ、革の表情まで均一になります」

    五十代くらいの女性で、爪を短く切った指先が、バッグの擦れた角を丁寧になぞった。

    「洗浄して油分を戻し、目立つところだけ補色するほうが、このバッグには合うと思います。傷は残りますけどね」

    実希は、金具の近くにある細い傷を見た。前の持ち主がいつ、どこでつけたのかは分からない。その傷の理由を知る人は、もうこのバッグのそばにはいなかった。

    「残るものは、残してください」

    口にしてから、それが自分のことのように聞こえ、実希は少しだけ恥ずかしくなった。見積額は四万四千円。仕上がりまで、一か月かかると言われた。

    バッグを預けると、部屋には何も増えていないのに、不思議な空白が生まれた。実希は帰宅するたび、クローゼットの中へ目を向けた。

    ある夜、黒いパンプスの踵が白く擦れているのに気づき、靴墨を買った。休日には、取れかけていたブラウスのボタンを縫い直し、買ったまま着ていない服を整理した。安かったから、流行していたから、婚活で男性受けがよいと雑誌に書かれていたから。そういう理由で買った服が、いくつも出てきた。

    反対に、何年も着ている水色のシャツや、肘の形が少し馴染んだ薄手のカーディガンは、捨てようとは思わなかった。


    七月の終わり、実希は一人で服飾史の展覧会へ行った。

    本当は誰かと行くつもりで、何週間も前から展示の情報を保存していた。けれど、婚活相手を誘うには趣味が偏っている気がして、紗耶は結婚式の準備で忙しそうで、結局そのままになっていた。

    展示室には、百年以上前のドレスが並んでいた。色褪せた絹や、欠けたビーズ、補修されたレース。古いから美しいのではない。傷んでいてもなお、そこにしかない線や、作った人の手の痕跡が残っているから、目を離せないのだと思った。

    帰りに喫茶店へ入り、実希はスマートフォンのメモに、質屋で買ったバッグのことを書いた。

    二十五万円の、まだ使えないバッグ。そう題をつけ、なぜ買ったのか、自分でも分からないまま書き進めた。

    書き終えると、長く放置していた投稿サイトのアカウントへ載せた。誰にも読まれなくていいと思っていたのに、翌朝には十七個の「スキ」がつき、知らない人から短いコメントが届いていた。

    〈バッグが戻ってきたら、また見せてください〉

    実希は通勤電車の中で、その一文を二度読んだ。

    誰かに選ばれたわけではない。人生が変わったわけでもない。それでも、自分が好きだったものについて書いた言葉が、会ったこともない誰かへ届いた。その事実は、朝の身体に差し込む細い光のようだった。

    八月の初め、修復店から連絡が来た。
    作業台の上に置かれた《シヤージュ》を見て、実希はすぐには触れられなかった。


    革には、夜の水面のような深い艶が戻っていた。白く擦れていた角は黒く整えられ、曇っていた金具は柔らかく光っている。形も少し起こされ、滑らかな輪郭を取り戻していた。

    それでも、新品には見えなかった。細い傷は残り、持ち手の皺も消えていない。内側の染みは薄くなっただけで、顔を近づけると、古い香水の匂いもかすかにした。

    「きれいになりましたね」

    実希が言うと、職人は頷いた。

    「ずいぶん元気になりました。でも、若返ったわけじゃありません」

    その言葉に、実希は笑った。
    バッグを腕に掛け、店の隅にある鏡の前へ立った。別の人には見えなかった。二十九歳の自分が、傷の残った二十九年前のバッグを持っている。

    これでいい。
    これが、いいんだ。

    そんな気持ちが、胸の中にすとんと落ちた。修復店を出たあと、実希はそのままリュシアン・ヴォレンヌへ向かった。

    麻里恵は接客中だった。実希は店へ入らず、以前と同じようにショーウインドウの前から《シヤージュ》を眺めた。ガラスの向こうには、傷ひとつない現行品がある。

    やがて接客を終えた麻里恵が、店内から実希に気づいた。扉が開き、あの明るい声がする。

    「見つけられたんですね」

    実希は腕のバッグを見せた。

    「二十五万円でした。修理に四万四千円」
    「なかなか立派なお買い物です」

    麻里恵は笑いながら、触れてもよいかと尋ねた。実希がバッグを渡すと、底や金具を確かめ、留め具の裏に刻まれた番号を見た。

    「一九九七年頃の品ですね。今より革が少し柔らかい時期のものです。きれいに直してもらいましたね」
    「匂いも傷も、少し残っています」
    「それも含めて、お選びになったのでしょう?」

    麻里恵からバッグを返され、実希はもう一度腕に掛けた。

    「前に新品を買おうとしたときは、これを持った自分を人に見せたかったんです」
    「今はどうですか?」
    「このバッグを持って、どこかへ出かけてみたい」

    麻里恵は目元を緩め、穏やかに微笑んだ。

    「よくお似合いです」

    以前にも言われた言葉だった。けれど今度の実希は、照れて否定したり、バッグが良いからだと逃げたりしなかった。

    「ありがとうございます」

    そう言って、まっすぐ受け取った。

    *

    十一月、紗耶の結婚式の日は、雲ひとつない秋晴れになった。
    実希は手持ちの濃紺のワンピースに、新しく買った銀色のイヤリングを合わせた。靴は磨き直した黒いパンプス。そして腕には、《シヤージュ》を掛けた。

    披露宴の受付で友人たちと合流すると、子どもの話や夫の仕事の話に混じって、予想していた質問が飛んできた。

    「実希は最近どうなの?」
    「どうって?」
    「結婚だよ。紗耶の次は実希じゃない?」

    以前なら、笑いながら自分を貶しただろう。誰からも相手にされない、アプリには変な人しかいない、一生独身かもしれない。先に自分を笑いものにしておけば、誰にも深く踏み込まれずに済んだ。実希はグラスの水を一口飲んだ。

    「その予定は、今のところ空欄」

    友人が気まずそうな顔をする前に、実希は続けた。

    「でも、今度パリへ行こうかなって思ってる」
    「あれ? 紗耶と行くんじゃなかった?」
    「その予定だったけど、あの人、先に結婚しちゃったから」

    実希が笑うと、友人たちも笑った。笑いながら胸の奥が少し痛んだけれど、いつまでも苦しめてはこなかった。


    やがて扉が開き、ウェディングドレスを着た紗耶が現れた。

    実希は息を呑んだ。シルエットが際立つ、美しいデザインのドレスだった。悔しいほど、幸福がよく似合っている。

    新郎の隣で笑う紗耶を見ながら、実希は六月のカフェを思い出した。雨の向こうで光った指輪。二人で待っていた場所から、自分だけが取り残されたように感じたこと。

    けれど、紗耶は自分を置き去りにするために結婚したのではない。紗耶の人生に起きた幸福を、自分の不幸へ翻訳したのは、実希だった。

    誓いの言葉を聞きながら、実希の目には熱いものが込み上げた。
    寂しさは消えない。いつか私も愛されたい。誰かと幸福な生活を築きたい。

    その願いはまだ、胸の中にある。それでも、友人の幸福を祝う気持ちと、自分の寂しさは、どちらも打ち消し合わなかった。


    披露宴が終わり、紗耶が見送りのために並ぶ頃には、窓の外が茜色に染まっていた。

    「今日は来てくれてありがとう」

    紗耶は一人ずつにオーガンジーの小袋に入ったドラジェを渡しながら、実希の顔を見ると、少し泣きそうに笑った。

    「すごくきれいだった」
    「ありがとう」

    紗耶の左手で、ヴォレンヌの指輪が光った。実希の胸は、やはり少しだけ疼いた。六月より小さく、けれど確かに残っている痛みだった。
    紗耶の視線が、実希の腕へ落ちた。

    「それ、ヴォレンヌ?」
    「うん。《シヤージュ》」
    「買ったの?」
    「質屋で二十五万円。それからクリーニングで」

    紗耶は目を丸くしたあと、声を上げて笑った。

    「実希らしいね」
    「古臭いってこと?」
    「ううん。実希って昔から、みんなが欲しがっているものより、誰も見ていないものを見つけるのが上手だったでしょう」

    紗耶はバッグの傷を指先でなぞりかけ、触れてもよいかと尋ねるように実希を見た。実希が頷くと、擦れの残る角へそっと触れた。

    「素敵だね。きっと、こっちの方が実希に似合ってる」

    同じ言葉を、麻里恵にも言われた。今度も実希は、素直に受け取った。

    「ありがとう」

    少し迷ってから、実希は続けた。

    「六月に結婚するって言うの、反則じゃない?」
    「え?」
    「ジューンブライドなんて、こてこてすぎる。しかもヴォレンヌの指輪まで」

    紗耶の顔から笑みが消えた。結婚式場の賑やかな声が響く中、二人だけがあの六月のカフェに戻ったようだった。

    「ごめん。実は私……実希に言うの、ちょっと怖かった」
    「どうして?」
    「ずっと一緒に独身だったから。私だけ先に約束を破るみたいで」

    実希は、紗耶のパステルブルーのドレスを見た。

    「正直に言えば……少しだけ、置いていかれたと思った」

    紗耶が唇を結んだのが見えて、実希は微笑んで彼女の左手を包み込んだ。

    「でも、それは私の寂しさだから。紗耶が悪いわけじゃない」

    実希は六月に心から言えなかった言葉を、もう一度口にした。

    「結婚、おめでとう」

    今度は、笑顔を作る必要がなかった。紗耶は泣きながら笑い、実希の肩を抱いた。二人の間で、《シヤージュ》の金具が小さな音を立てた。


    式場を出ると、冬に差し迫る秋風が頬に心地よかった。実希は駅とは反対の方向へ、少しだけ歩くことにした。

    バッグを開くと、内側には口紅とスマートフォン、紗耶から渡された小さなドラジェが入っている。鼻を近づければ、古い香水の名残に、実希がいつも使っているハンドクリームの匂いが混じっていた。

    知らない誰かが手放したあと、このバッグは暗い店の棚で長い時間を過ごした。そして今、実希の腕に掛かり、夕暮れの街を進んでいる。


    週明けには、パリへ行くための積立を始めようと思った。三十五歳まで待つ必要はない。紗耶と一緒でなくてもいいし、一人旅でなくてもいい。誰と行くのかは、今はまだ決めなくていいだろう。

    《シヤージュ》は、実希の歩調に合わせて静かに揺れた。

    磨き直された黒い革に、暮れてゆく街の光が流れていた。その表面には、消えなかった傷と、これからつく傷のための余白が、どちらも同じように残されていた。


    <完>

    ▶︎創作のきっかけは、「ルイ・ヴィトン」でマネージャーをされていた篠田さんのお話を聞いたことでした。篠原麻里恵のモデルとしてご登場いただきました。
    パワフルで愛に満ち、エネルギッシュさがとても印象的でした。一回お話ししただけで、「またお話ししたいな」「会いたいな」と思わせる素敵な女性です。

    ▶︎実希ちゃんのモデルはみくまゆさん

    篠田さんとのスペースを聴いてくださり、「ブランド店を舞台に小説できますよね〜」「みくさん主人公にしちゃおうかな?」と盛り上がってたら、「みくまゆはフリー素材です」と言ってくださったので、楽しく調理しちゃいました🤣(そのやりとりから深夜1時まで書いたクレイジー)

    👇モデルになったお話

    👇創作大賞にも多数ご参加しておられます

    ありがとうございました!


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