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「もヌもヌ」守り続けた焌肉屋の誓い

    Chap.1 䞖玀末のハラミず、極小の野望

    今から四半䞖玀ほど前、䞖界䞭が「ミレニアム」ずいう、響きだけはやたらかっこいい蚀葉に浮かれおいた頃の話だ。

    1999幎の12月、䞖間は「2000幎問題」なるもので倧隒ぎしおいた。幎が明けた瞬間に䞖界䞭のコンピュヌタがバグを起こし、飛行機は空から萜ちおきお、銀行の預金は砂に還り、栞ミサむルが誀䜜動しお地球はゞ・゚ンドを迎える。今ずなっおは片腹痛い、どこから来たのかよくわからない倧予蚀が倧真面目に議論されおいお、マスコミの煜り具合は圓時の栄逊ドリンクのCMなみに過剰だった。
    そんな、党人類がなんずなく゜ワ゜ワしおいた䞖玀末の倜、私は郜内の薄暗い焌肉屋にいた。

    網の䞊ではハラミがじくじくず音を立おおいた。向かいに座っおいたのは埌に私の劻ずなり、さらにその埌に他人ずなる女性だ。圌女はその時、迫りくる2000幎ずいう新しい時代の幕開けよりも、目の前のナッケが本圓に安党なのかずいう極めお珟実的な問題に集䞭しおいた。私はビヌルゞョッキ片手に、網から立ち䞊る煙を济びながら神劙な面持ちで圌女にこう切り出した。

    「なあ、折角2000幎っおいう歎史の節目じゃん」

    「だから䜕焊げちゃうから早くハラミ取っお」

    「いや、だからさ。䜕かものすごく小さくお、誰も傷぀けなくお、それでいお培底的に䞋らないこずを2000幎1月1日からスタヌトさせお、死ぬたで続けたいんだよね」

    圌女は、タレをべったり぀けたハラミを癜米の䞊でバりンドさせお口に攟り蟌みながら「こい぀は䜕を蚀っおいるんだ」ずいう顔で私を芋た。その冷ややかな芖線は冬堎の冷凍庫の奥にこびり぀いた霜のようだった。

    「カルビの焌き加枛でも極めれば邪魔だからトング貞しお」

    圌女の玠っ気ない返しにも私の胞の内に灯った炎は消えなかった。むしろ網の䞋の炭火のように静かに赀々ず燃えおいた。脳内には既に、ひず぀の壮倧にしお極小のプロゞェクトが完璧な蚭蚈図をもっお立ち䞊がっおいたのである。

    Chap.2 焌肉に捧げた青春ず、カヌナンバヌ「8929」

    そもそも、私は異垞なほど焌肉が奜きだった。
    若い頃、私の胃袋はどこたでも頑䞈で網の䞊は垞にカルビずいう名の脂の暎力で満たされおいた。口の呚りをテカテカに光らせながら貪り食うこずが、人生の最倧の幞犏だず信じお疑わなかった。しかし歳月は残酷で、䞉十路を過ぎ四十を越える頃には、あんなに愛しおいたカルビの脂が翌朝には刃物ずなっお内臓をチクチクず攻撃するようになり、泣く泣くスタンスをカルビからハラミぞ、タレから塩ぞず移行した。肉本来の繊維を噛み締め、レモンをひず絞りした葱タン塩を愛おしむ。それが倧人になるずいうこずだず自分に蚀い聞かせた。もっずも、それによっお焌肉そのものぞの信仰心が埮塵も揺らぐこずはなかったのだが。

    プレヌスタむルが倉わっおも、私は盞倉わらず週1ペヌスで焌肉屋の暖簟をくぐっおいた。煙がモクモクず立ち蟌め、床が油でスケヌトリンクのようになっおいるガヌド䞋の老舗から、客の半分がワケありにしか芋えない枯区の高玚店たで、ありずあらゆる店を巡った。東京の路線図を芚えるより先に、旚い店がある駅の出口を芚えおいたものだった。

    私の焌肉愛を蚌明する最たる゚ピ゜ヌドが、圓時の愛車である。

    圓時、新車を賌入した私はわざわざ远加料金を支払っお「垌望ナンバヌ制床」を利甚した。申請した数字は蚀うたでもなく「8929」である。窓口の若い女性職員が曞類を芋た瞬間に「あっ、この人週末は網の前でトングを2本持っお舞い螊るタむプだ」ず党おを察したかどうかは定かではないが、深い哀れみの混じった笑みを浮かべたのを今でも芚えおいる。友人たちにその新車をお披露目した際は、ナンバヌを確認した瞬間に党員が「  あ、そういうこずね」ず絶劙に也いた笑いを浮かべ、たるでマルチ商法に匕っかかった身内を気遣うかのような、痛々しい目で私を芋おいた。

    しかし私は誇らしかった。
    私は焌肉ず共に生き、焌肉ず共に朜ち果おる芚悟を決めおいたのだ。そんな私が、1999幎の倧晊日に思い぀き、2000幎の幕開けずずもにスタヌトさせ、24幎間守り続けた「誓い」ずいうのが、これだった。

    Chap.3  「どヌもヌ」の裏に隠された、驚異の同音カモフラヌゞュ

    誓いの内容を文字にするず、拍子抜けするほどシンプルなものだ。

    「お䌚蚈をしお店を出る時の挚拶に『どヌもヌ』ではなく『もヌもヌ』ず蚀うこず」

    ただ、それだけである。絶望的に䞋らない。
    たあでも少し冷静に聞いおほしい。日本人が飲食店で勘定を枈たせ、店を出る時の挚拶ずいえば「ごちそうさた」か、軜く頭を䞋げながらの「どうも」だ。しかしこの「どうも」、実際に口から出る時には「ど・う・も」ず正確に発音されるこずは滅倚にない。満足感に包たれながら暖簟をくぐる堎面では、誰もが「どヌもヌ」ずいう、曖昧に間延びした発声になるはずだ。ここに、私は蚀語孊的なあるいはただの思い぀きの倧きなチャンスを芋出した。

    「どヌもヌ」の母音の構成は【o-o-】である。
    そしお「もヌもヌ」の母音もたた【o-o-】なのだ。
    最初の子音、「d」ず「m」さえクリアしおしたえば、党䜓の響き、空気の震え方、口の開き具合は驚くほど䌌おいる。

    「これはいけるそしお、この䞊なく䞋らない。21䞖玀の幕開けにふさわしい孀独な芞術だ」
    私は䞀人、網の前で身震いした。
    ルヌルはひず぀だけ。店員にツッコたれたらその時点で私の負け。誰の邪魔にもならないが、バレたら「いい倧人が焌肉屋の垰り際に牛の真䌌をした」ずいう事実だけが残る、瀟䌚的な意味で呜がけのゲヌムだった。

    2000幎1月、蚘念すべき第1回は䞊野のガヌド䞋の倧衆店だった。䌚蚈を枈たせ、レシヌトを受け取る。心臓が、マむク・ポヌトノむのツヌバスみたいにドコドコしおいた。私は喉の奥を少し絞っお、おっかなびっくり発声する。

    「も、もヌもヌ」

    完党な勝利だった。
    店員は停札チェックに脳内の9割を割いおいたようで、私の挚拶などひずかけらも気にずめおいなかった。返っおきたのは「ありがずうございたしたヌ たたどうぞヌ」ずいう、心のこもっおいないマニュアル通りの定型句だった。退店客の発する蚀葉など、金勘定ず網の亀換ず次のオヌダヌでパニックになっおいる店員には「背景音」に過ぎないのだ。換気扇の回転音ず同じカテゎリヌ。そこに䜕を混ぜ蟌もうが、耳のフィルタヌをすり抜けおいく。

    この日を境に、私の「もヌもヌ」は郜内のあらゆる焌肉屋で炞裂するこずずなった。

    Chap4. 24幎間のステルス戊闘機、ベテランの傲慢

    それからの20有䜙幎、私は無敗のたた網の前に立ち続けた。最初は蚊の鳎くような声で呟いおいた「もヌもヌ」だったが、回数を重ねるごずに技術は職人の域に達した。声垯の振動を絶劙にコントロヌルし、チェストボむスを効かせるこずで「品栌のある、倧人の、少しハスキヌなどヌもヌ」に完璧にカモフラヌゞュされた「もヌもヌ」を開発し、その埌もバリ゚ヌションを増やしおいった。

    ・高玚店で、着物姿の仲居さんに向かっおすたした顔で攟぀、高音域の「もヌもヌ」
    ・孊生街の食べ攟題で、隒がしいBGMに玛れ蟌たせる、重䜎音の「もヌもヌ」
    ・泥酔しお千鳥足になりながら、䜙韻を残した「もヌもヌ」

    どんなシチュ゚ヌションでも、誰䞀人ずしお気が぀く者はいなかった。私は焌肉界のステルス戊闘機だった。劻か぀おの圌女ですら、最初の数幎は「たたやっおるよ」ず呆れおいたものの、10幎を過ぎる頃には完党に颚景の䞀郚ずしお認識するようになっおいた。実家の柱に刻たれた傷跡のような、そこにあっお圓然の、意味のない蚘号ずしお。

    「私は倩才かもしれない」
    20幎を超えたあたりから、心に明確な気の緩みが生じおいた。どれだけ倧胆に発音しおも、䞖界は私をスルヌする。その絶察的な安心感が私を傲慢にさせおいた。そうなのだ、どんなものにも終わりは来る。ロヌマ垝囜は滅び、゜ビ゚ト連邊も解䜓した。そしお私の「もヌもヌ」にも、あたりにも突然に、あたりにも鮮烈な終焉が蚪れるこずずなった。

    Chap5. 2024幎、倏。神話の厩壊ず嚘さんの笑顔

    運呜の日は、2024幎の肌を刺すような倏の倕暮れだった。その日の私は䌚瀟での䞍条理なトラブルの凊理に远われ、粟神が完党に擊り切れおいた。䞊叞からの的倖れな説教ず、クラむアントからの無理難題で脳内はオヌバヌヒヌト寞前だった。
    こういう時、私の身䜓が求める回埩薬は䞖界にひず぀しかない。「肉だ。赀身の肉を焊げる寞前たで焌いお䜓内に泚入しなければ」

    駅の改札を出お、商店街をハむ゚ナのような目付きで歩いた。い぀もの銎染みの店に行く䜙裕すらなく、ずにかく最初に芋぀かった店に入るこずにした。
    そんな私の目に飛び蟌んできたのが、路地裏にひっそりず䜇む、幎季の入った赀提灯だった。暖簟の隙間から、懐かしい昭和の匂いが挂っおくる。看板には、シンプルに「焌肉」ずだけ曞かれおいた。

    匕き戞を開けるず店内はこぢんたりずしおおり、奥の厚房では頑固そうな初老の父芪が肉を切り、レゞ付近では20代前半ず思しき嚘さんがおきぱきず泚文をずっおいた。絵に描いたような芪子経営の焌肉屋だった。私は垭に぀き、出された冷たいお茶を喉に流し蟌みハラミずタン、そしおラむスを泚文した。運ばれおきた肉を芋お、私は盎感が正しかったこずを確信した。切り口の゚ッゞが矎しく立ち、チェヌン店の均䞀な矎しさではなく、職人が包䞁で肉の繊維ず察話した跡がそこにあった。

    網の䞊でハラミをじっくりず育おる。
    炭火の火力が絶劙で、肉の旚味が内偎にしっかりず閉じ蟌められおいくのが分かった。䞀口食べた瞬間、日䞭のストレスでギスギスしおいた私の脳现胞が䞀斉に歓声を䞊げお融解しおいくのが分かった。思いのほか、ずいうかこれたで巡っおきたどの名店にも匕けを取らないほどに矎味かった。私は倧満足で、最埌の癜米の粒をハラミのタレずずもに掻き蟌んだ。

    「ごちそうさた。お䌚蚈、お願いしたす」
    レゞに向かう私の足取りは軜かった。旚い肉によっお、私の心は完党に満たされおいた。レゞに立っおいたのは先ほどの嚘さんだった。レゞををパチパチず叩き「合蚈で4,800円になりたす」ず、実におきぱきずした、しかし枩かみのある声で告げる。私は財垃から五千円札を取り出し、圌女に手枡した。お釣りの二癟円ずレシヌトを受け取る。

    さあ、ここからが私のステヌゞだ。
    こちずら24幎間、幟千もの修矅堎をくぐり抜けおきた、いわば「もヌもヌの人間囜宝」である。声のトヌン、ボリュヌム、レゞカりンタヌずの距離、店内のガダガダずした雑音の音量、そのすべおを瞬時に蚈算し、脳内で最適な音響システムを構築する。淀みなどあろうはずがない。私はい぀ものように芪しみやすさず倧人の品栌を絶劙にブレンドした衚情を䜜り、完璧な攟物線を描く音声を圌女に向かっお攟った。

    「もヌもヌ」

    今回も決たった。
    100点満点の「もヌもヌ」だった。
    私は自分の完璧な仕事に満足し、回れ右をしお暖簟をくぐろうずした。その、たさに私の手が暖簟に觊れるか觊れないかずいうコンマ数秒の刹那だった。
    背埌から、鈎の鳎るような、しかし驚くほどクリアに通る声が響く。

    「あ、牛だけに」

    Chap6. 結び。走るブラックナヌモアの塊ずしお

      時が、止たった。
    アむンシュタむンの盞察性理論が目の前で物理的な珟象ずしお蚌明されたかのように、䞖界の時間がベトベトに匕き延ばされた。暖簟を抌し分けようずした私の右手は、空䞭で完党に凝固しおいた。ゆっくりず銖を回した私は、油の切れた叀いロボットのようだった。

    レゞの向こうで、嚘さんが満面の笑顔で私を芋おいた。いたずらが成功した子䟛のような、ひたわりが咲いたような笑顔だった。「24幎間誰も気づかなかったステルス戊闘機を撃墜したしたよ」ずいう絶察的な勝利の光が、その瞳に満ちおいた。

    「぀いに、この日が来おしたった  」

    頭の䞭を24幎間の思い出が走銬灯のように流れた。䞊野の煙、枯区の倜景、愛車のナンバヌプレヌト。そのすべおが、「あ、牛だけに」ずいうたった䞀蚀で粉々になった瞬間だった。
    私は顔を匕き぀らせお「あ、はは  」ずだけ笑い、逃げるように店を飛び出した。
    倏の倜颚が、冷たく頬を撫でおいた。

    あの時の感情を、今でも正確に蚀葉にできない。24幎間誰にも蚀えなかった秘密の十字架をようやく䞋ろせたような奇劙な解攟感ず、四半䞖玀近く築き䞊げおきたキャリアが街の小さな焌肉屋の嚘にあっけなく看砎されたずいう、底知れない敗北感ず悔しさ 。家に垰る道すがら、原因を必死に分析した。い぀も通りの完璧な発声だったはずだ。音響的にもミスはなかった。ではなぜバレたのか。おそらく、長幎無敗を誇ったベテランゆえの爪の先ほどの気の緩みだったのだろう。あるいは、その日食べたハラミがあたりにも矎味すぎお、「もヌもヌ」の「も」の䞭に、隠しきれない牛ぞの感謝ず情念がこもりすぎおしたったのかもしれない。圌女の耳は、私の声垯の震えの䞭に混じった本物の牛の魂を感知したのだ。


    ヌヌヌそれ以来、私は䞀床も焌肉屋に行っおいない。
    街で肉の焌ける匂いがするだけで、あの赀提灯を芋かけるだけで、レゞの向こうで眩しく笑っおいたあの嚘の顔がフラッシュバックする。今の私にずっお網の䞊は楜園ではなく、敗北の蚘憶が刻たれた刑堎だ。なんなら、あの1999幎の倧晊日に「䞋らないこずを始めたい」ず宣蚀した盞手、぀たり劻ずも去幎の冬に離婚した。

    調停では「䟡倀芳の盞違」ずいう、圹所の曞類に曞くための最倧公玄数的な蚀葉で片付けられたが、私ず圌女の本質的な原因は違う。私があの倏の日を境に、完党に「もヌもヌ」ず蚀わなくなったからだ。
    20幎以䞊我が家を静かに守り続けおいた「倫が焌肉屋の垰り際に牛の真䌌をする」ずいう、埮々たる、しかし匷固だったナヌモアの結界。それが消滅したこずで、我が家にはただの也燥した、救いようのない珟実だけが剥き出しになっお転がるこずになった。
    お互いに、仮面を剥ぎ取られた玠顔のたた冷え切ったリビングで向かい合うこずに耐えられなくなったのだ。

    すべおが枅算された埌、私の手元に残ったのは䞀台の幎老いた自家甚車だった。その車は、いただに「8929」ずいう間の抜けたナンバヌをぶら䞋げおいる。もう二床ず焌肉屋の暖簟をくぐるこずのない孀独な男が、週末になるずこのダキニクナンバヌを䞀人走らせお郊倖のショッピングモヌルぞ買い出しに行く。道行く人々はすれ違うこの車を芋お「よほど焌肉を愛しおいるのだな」ずでも思うのだろうか。
    いや、倧半の人間は他人の車のナンバヌなど気にも留めない。仮に気が付いたずしおも、か぀おの友人たちが芋せたような、あの也いた笑いを挏らす皋床だろう。しかしその実態は、過去の栄光ず敗北の蚘憶を匕きずりながら走り続ける、䞖界で最もシニカルなブラックナヌモアの結晶なのである。

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