
『Michael』を観た
帰りの車で、すぐにマイケルの声が聴きたくなった。スマホを取り出してタップした。これも、映画の一部に入っていたのだろうか。
私の好きだった曲は、こういう構造だったのかもしれない。
父に使われる自分から、自分を取り戻そうとすること。父に似た顔から離れたい。管理された身体から離れたい。父の物語の中の息子ではなく、自分で自分を作り直したい。その痛みが混じっていたのが、私にとって『Thriller』だったのかもしれない。
恐怖、変身、夜、身体の違和感。自分の中にある何かが、自分ではないものに変えられていく怖さだろうか。
そして『Bad』
才能、身体、顔、お金、キャリア、家族の湿った領域に取られていたものを、もう一度、自分のものとして取り戻す意欲。「僕は悪い奴だ」と言っているのではなくて「もう、あなたたちの都合のいい子どもではない」と言っているように聞こえた。愛情と利用が混ざると、子どもは混乱する。
愛されていたのか。使われていたのか。守られていたのか。所有されていたのか。はて、私にも、その根っこに似たものを感じる。
映画では、マイケルは、父を切った。マネージャーだった父を。一枚のファックスで。1枚の紙切れというのが懐かしく感じた、好きだ。家族と仕事の境界のなさと、愛情と支配の曖昧さ。そこから離れるために、彼は法と現実を使った。自分の人生の管理者を、自分に戻そうとしたのだろうか。
1988年のワールドツアーのシーン。観客に向かって、これが最後のツアーだと告げる。同時に兄弟たちには「愛している」と伝える。映画の中ではそう描かれていた。離れることと、愛していないことは違う。
『Bad』の衣装でエンドロールになった。ここで終わっちゃうの?と寂しく感じたけど、いいじゃん、Badで終わったんだから、というふたつが私の内側で交差した。
1988年夏と言えば、アメリカのディズニーランドでキャプテンEOに長時間並んで、3Dのマイケル・ジャクソンに無邪気に手を伸ばした。EOとは、夜明け・曙というギリシャ語の意味らしい。変容についての物語だったことを今ごろ知った。