4月28日_記憶の作用、記録の反作用
数日間、日記をやめた。書かなかった。
1日目、2日目は少し不安だった。もったいないことをしていると思っていた。書かなかったことは次々と時間からこぼれ落ちる。いつの間にか、記憶より記録の確かさに充実感を見出すようになったのだと思った。
三日、四日経つ頃には一体最後に「日記を書いた」と思ってからどれくらいの時間が経ったのかがわからなくなった。日々、頭に浮かんでは消え、また浮かぶ事の繰り返しが記憶とするならば、それを文字として確かに残すことが記録だった。記憶が機能だとするならば、記録は意志の力だった。記録に閉じ込めた記憶はいつまでも残った。記録することは時の流れから目覚めることだった。目に見え、増えていく記録は力があった。記憶が作用なら、記録は反作用だった。
書くこと、書こうと思うこと、そしてパソコンを開き文字を打ち始めることは、過去と未来と現在の狭間にいることだった。今書いている瞬間と、次また書く瞬間の間に現在と過去と未来があった。
今この瞬間を、次の瞬間に振り返った時、それを過去と呼ぶのだろうか?
過去が過去になるにはとても長い時間が必要だった。
「今この瞬間」が過去になる前は、それは「その時点での現在」だった。
「次また書く瞬間」が遠くなれば遠くなるほど、時間の流れに埋没した経験が増えていくようで、そこは宝箱にも墓場にも思えた。
一週間経ったあと、書く手を止めたことが思いがけず大切だったと思えた。書かないことで消えてしまった日常の断片はあるかもしれないが、何かを忘れることで目の前のことを新しく捉えられるように感じた。意識して忘れようとしたわけではない。単純に忘れてしまった。そのことがとても大切に思えた。充実感があった。