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同年同月同日まで共に在ることを願う

     運命の相手は人ではなく三国志だった。
     故に私は、三国志のコスプレコンテストへ出るために仕事を辞めた。
     当時、私は23歳。12年前、大学を卒業し、新卒で正社員に就職してから半年後のことであった。

     小学4年生の時に、祖母から勧められた横山光輝先生の漫画『三国志』を読んだのが、私と三国志の出会いだった。
     元々、三国志の舞台となる約1800年前の中国の歴史や文化のことなど、私は全く知らなかった。
     三国志には大元の原典である歴史書の『正史三国志』や、史実に脚色を加えた娯楽作品として人気を博した『三国演義』など、実は様々な成り立ちのテキストがある。無論そういった基本的な知識も何一つ分かっていない私だったが、それでもこの横山三国志をひたすら夢中になって読み耽った。
     物語の細かい背景などは分からずとも、正義の主人公である劉備や諸葛孔明たちが乱世を終息させるために活躍する様を見るのが、ただただ面白くて仕方なかったのである。

     そうして横山三国志を読破し、更に他の三国志のゲームや小説などにも進んで触れていった結果、たちまち私は昼夜を問わず三国志のことで頭がいっぱいの男となった。
     英語の授業で「How are you?」と訊かれれば、元気があろうが無かろうが関係なく、ただ「曹操」と言いたいがためだけに「Soso」と答える。
     「三國連太郎」や「三国同盟」など、実際には三国志とは関係が無くとも、字面が三国志っぽい言葉が視界に入れば思わず二度見してしまう。
     中学に上がると同級生たちがこぞって塾へ通い出す中、一方私はゲームセンターへ通って三国志のアーケードゲームで遊んでいた。
     高校では友人たちが好きな女子を口説き落として恋人にする方法を研究していたが、その頃私は既に小学生の時から、三国志のシミュレーションゲームで好きな人材を口説き落として配下にする経験を何百回と積み重ねていたものである。
     大学への進学では、近畿大学文芸学部の創作・評論コースで物書きのイロハを教わり、三国志の知識を活用した文章を書けるようになることを目指した。
     当時の私は元々読書が好きだった所から、自分で文章を書くことにも興味を持ち、文芸の力で三国志の面白さを自ら世に広めたいと思っていた。すると三国志の専門的な知識を身に付けるだけでなく、表現という行為自体の技術や心構えを学ぶ必要があると考えたのだ。敢えて中国史や中国文学の専攻に進まなかったのはそのためだった。

     一事が万事、この調子である。
     三国志以外にも今まで嗜んだ趣味は色々とあるが、一度も心が離れたことが無いのは三国志のみである。私の生活には、常に三国志が存在してきた。
     三国志の登場人物たちの様々な生き様に対する憧れが、そのまま私自身が目指すべき人間像の象徴にもなり、私という人間の基盤を作ったのだ。
     三国志というコンテンツは、即ち私にとって人生そのものである。

     そんな私が、仕事を辞めてでも三国志のコスプレコンテストに出ようとしたのは、何も不思議なことではない。
     そもそも三国志のコスプレコンテストとは何なのか、そして何故コンテストに出るために仕事を辞める必要があったのかと言うと、事の次第はこうである。
     そのコスプレコンテストは、三国志がテーマのとある大きなイベントでの一企画として毎年開催されており、私は既に大学3年生から4年生の時にかけて2年連続で参加していた。そして大学を卒業し、就職して新社会人になった後も、変わらずコンテストに参加するつもりだったのだ。
     元来、私は幼い頃から文章のみならず、絵や工作、手芸など、とにかく何かを手作りして表現することが好きだった。小学生の時は漫画家になりたいと思って漫画を描いていたし、大学時代は物書きの練習だけでなく、消しゴムハンコ作りにも日々励んでいた。そんな私がコスプレという表現の技法に興味を持ったのは、言わば順当なことだった。
     しかし、いざコンテストの開催日が判明し、その日程に休日が重なるよう職場へシフトの調整を願い出た所、申請が却下されてしまったのである。

     休暇の調整が叶わなかったこと自体は、業務の都合上仕方の無い結果だったとも言えよう。しかしながら、生憎私が新卒で入社したのは、給料の出ない休日出勤の強要が横行している典型的なブラック企業であった。
     もちろん、当時社会に出たばかりの私とて、会社員としての責務を軽々しく放棄して良いと思っていたわけではない。とは言え、ただでさえ日頃から道理の通らぬ労役を強いられていた所に、コスプレコンテストという私と三国志の大切な逢瀬にまで水を差されたことで、とうとう我慢ならなくなった。
     三国志のために生きている私の人生の貴重な時間を安売りしてまで、これ以上そこに留まる必要は無いと判断したのである。

     こうして私は会社を辞め、無職となった。
     コンテストは関西で行われるのだが、新たな仕事を探すのも兼ねて、私は大学時代に住み慣れた大阪で、改めて一人暮らしを始めることにした。そして間もなく開催されるコンテストへの参加申請を済ませ、コスプレの準備に取り掛かった。
     3回目の出場となるこの年、私にはコンテストでリベンジを果たさねばならないという強い想いがあった。
     初出場の年は、赤い全身タイツを着用し、更に白馬を模した市販のマスクを赤色のペンキで塗装したものを被って、三国志に登場する赤兎馬のコスプレを披露した。
     これは会場でかなりのウケを得られ、審査員賞まで頂くことが出来た。更には、コンテストのステージ上で馬になりきって四つん這いになっている私を観客の誰かが撮影していたようで、後にその写真がネタ画像として当時の2ちゃんねるで勝手に晒される事態にまでなった。
     そして赤兎馬という動物ネタに味を占めた結果、翌年のコンテストでは狼のマスクを被ってコンテストに参戦した。
     魏の参謀である司馬懿は「狼顧の相」といって、まるで狼のように顔を真後ろまで振り向かせることが出来たと言われている。その逸話を狼のマスクで再現しようとしたのである。
     が、結果としてこのコスプレは大いに滑ってしまった。
     ステージ上ではマスクを真後ろまで回転させるパフォーマンスもきちんと行ったのだが、どうも元ネタ自体がマイナー気味だったためか、分かりやすい面白さに欠けていたようである。
     おまけにこの時のコンテストでは、特別審査員として中国から諸葛孔明の子孫の方がいらしていた。
     司馬懿と言えば、晩年の諸葛孔明に戦で立ちはだかり続けた、孔明の宿敵である。よりによってその孔明の子孫の方の前に、司馬懿を名乗ってノコノコ出て来てしまった私は、さぞかし空気の読めない狼マスクと化していたことだろう。

     こうした経緯で、仕事を辞めてまで臨んだ3回目のコンテスト出場は、私にとって前年の雪辱を果たさんとする大一番の勝負所だったのである。
     無論、このコンテストで仮に高い評価を得たからと言って、何か社会的なステータスを得られるわけではない。ましてや無職となった私が仕事にありつけるような伝手が見付かるわけでもない。
     新卒での就職から早々に仕事を辞めた上、その後も仕事探しよりコスプレの段取りに力を入れ、無職としての危機感を持たずにいるのだ。周りから見れば、私は社会に出た後も学生気分のまま、趣味に現を抜かしているように映っても無理は無かっただろう。
     しかし実際は、私は決して悪い意味での学生気分だったことは無いし、見るべき現実を蔑ろにした覚えも無い。
     そもそも、私にとっての学生時代とは、趣味としての表現技術を学ぶ楽しい時間であったと同時に、自分の人生設計の土台を築こうとする真剣な修練の期間であった。私が生涯に渡って三国志と共に歩んで行くために必要な表現活動の心得を、一つでも多く学ばねばならぬという思いで大学の4年間を過ごしていたのだ。
     それ故私は、自身の大学時代をいわゆるモラトリアムだと思ったことは一度も無い。社会に出る前の猶予期間などではなく、以後三国志の下で表現活動をしていく一生を送るために必要な、連続した人生の第一歩だったのだ。
     趣味に現を抜かすという表現は、私には一切当てはまらない。私にとっては趣味の三国志こそが紛れもない現実なのである。

     であればこそ、大学を卒業し社会に出てからも、あくまで私は三国志のために生きることが目的でしかない。むしろ、在学中に文章以外の様々な表現にも興味を持った私は、社会に出てからは適度に仕事をしつつ、稼いだお金を活用してより一層三国志の表現活動に邁進する気しか持っていなかった。
     最初から私は学生や社会人である前に、「三国志好きの男」という自身の本質を全うしているに過ぎなかったのだ。仕事を差し置いてまで三国志のコスプレにこだわっていたのは、私がこうした価値観の持ち主だったためであった。
     三国志と出会って以来24年間、私のこの本質が揺らいだことは皆無である。




     愛。




     ふはははは。
     やった、やったぞ。
     最高のタイミングで「愛」と書くことが出来たぞ。
     直前の文章と脈絡も無しに、いったい何の話かって?
     いやいや、確かに唐突な展開かもしれないが、無論これには理由がある。
     今、いきなり一文字だけ書いた「愛」は、このエッセイの本文の最初から数えて、ちょうど3594 三国志文字目に当たるのだ。
     エディターに付いている文字数のカウント機能だけに頼らず、きちんと自力でも一文字一文字数えたから間違い無い。
     私が三国志への愛を告げるのに、これ以上相応しいタイミングがあろうものか。
     ここまでの文字数の調整のために、このエッセイ全体の執筆に要した時間の半分以上を費やすこととなったが、私の三国志への愛を示すためなら安い代償である。
     満足した。非常に満足した。

     とまあ一人で勝手に盛り上がっているように見えるだろうが、仕事を辞めた直後の私も、社会のレールを無視して三国志への愛を取ったことへの達成感に浸っていた。
     三国演義の序盤に次のような話がある。初めて得た官位で地方の役人をしていた劉備の所へ、中央から悪徳高官がやって来て劉備に賄賂を要求する。劉備がそれを拒否したことで高官から逆恨みを受けると、劉備は自身の官位を突き返して出奔する、という痛快なエピソードである。
     新卒でブラック企業から足を洗った時の私は、まさにこの劉備の行動に自分を重ねていたのだ。
     劉備が世の理不尽を毅然と突っぱねたのと同じこと。例え職歴に傷が付いて世間から白い目で見られようと、三国志を愛する力がみなぎる私を止められるものなどありはしない。
     何なら「白い目で見る」とは、三国志に登場する阮籍という人物が由来の慣用句なので、三国志好きの私にとって白い目で見られるのは、むしろ三国志への愛を昂ぶらせる燃料にしかならない。
     そうして気概をあふれさせながらコスプレの準備を進めていた私の下に、コンテストの運営からメールが届いた。

    「今回のコンテストは、参加希望者が小宮さんを含めて2名しか集まらなかったので、開催を中止することになりました」

     目を疑った。
     何なら私の方が白目を剥きそうだった。
     神も仏もないとは言うが、よもや同業のコスプレイヤーまでも居なくなっているとは想像だにしていなかった。
     前回と前々回の開催では、どちらも参加者はそれなりの人数が居たというのに、いったいどうしてしまったのか。
     仕事を辞めてまでコンテストに出ようとしていた熱意が、完全に空振ってしまった。
     退職したこと自体は、ブラック企業に見切りを付けただけの話なので何も問題は無い。
     しかし、官位を返上して大義に生きた劉備に自分をなぞらえて悦に入っていた所が、一転してただ仕事を辞めただけの無職となったわけである。
     三国志風に言えば、ブラック企業とは言え会社に対しては不忠を成し、親に対しては退職に際して心配をかけて不孝を働き、おまけに大義名分だったコスプレコンテスト参加も果たせないという不義を犯しているのだ。これでは最早劉備どころか逆賊の類いである。
     コンテストでのリベンジが叶わなくなったことと合わせて、この盛大な空回りは私に割と重いショックを与えた。
     こうして、大学時代までは上手く行っていた私の生涯三国志生活は、社会人編一年目にして大きくつまずくこととなった。


     ところで、もしも「三国志の魅力とは何か?」と問われたなら、私は「逆境の中でも懸命に生きようとする登場人物たちの生き様」と答える。
     例えば諸葛孔明は最終的に丞相という官位にまで上り詰める。これは現在の日本で言えば総理大臣に相当するほどの立場であるが、そんな孔明も幼い頃から逆境に身を置くことが多かった。
     父親は早くに亡くなっているし、戦乱から逃れるために生まれ故郷から遠方へ移住する羽目にもなっている。それを受けてか、孔明自身が書いた『出師表』と呼ばれる文章の中では、「私はこの乱世で辛うじて命を保つばかりでした」という旨を記している。そして晩年は宿敵の魏を打倒するために何度も出兵するも、念願適わず戦の途中で陣没してしまう。
     一国の皇帝に次いで位人臣を極めた孔明ですら、こうした逆境の中で藻掻き続けていたのだ。当然、孔明の他にも、何らかの苦難に遭いながら抗おうとする人物たちが、三国志には数え切れないほど登場する。私が三国志から感じた魅力の根源は、そのような力強く生きようとする人物たちの姿に胸を打たれた所にある。

     三国志からこうした薫陶を受けた私である。コンテストに出られず不完全燃焼で落ち込んでいようと、いつまでもへこんではいられない。日々の生活のため、改めて仕事を探さねばならない。それにコスプレ以外にも様々な表現を試行錯誤するための時間は、いくらあっても足りはしないのだ。
     なお結論から言うと、それから現在に至るまでの12年間に渡り、私が再び正社員での就職を目指したことは一度も無かった。
     結局の所、例えブラック企業ではないにしても、正社員となれば仕事や会社に対して何かと軽くない責任を負わねばならない。そうした立場での労働は、私の三国志至上主義とは致命的に相反していると判断したのだ。
     その為、大阪での生活を再開して以降、私は職に就いても常に非正規雇用にて、週4日程度働くか、あるいは日雇いでより融通を利かせられる日程でのみ働いてきた。
     この働き方では潤沢な収入はとても得られない。しかしあくまで私の最優先事項は三国志を楽しみ、三国志で表現をすることである。いくら貧しい生活になろうとも、最低限の収入があった上で三国志のための時間を確保出来るのであれば、そもそも苦労は感じなかった。
     では、この12年近く、徹底して労働を切り詰めてきた私は、プライベートでいったい何をしていたのか。

     まず、三国志をテーマにした論文を書き始めた。三国志に関してどうしても主張しなければ気が済まない考察がいくつかあったのだ。論文が書けたとしても、専門的な査読を乞うアテは特に無かったが、とにかく書いた後のことは書き上げてから考えるつもりだった。
     公共の図書館だけでなく、近隣の大学の図書館なども利用させていただきつつ、執筆に必要な資料を集めていた。最初は順調に資料を収集出来ていたが、途中で思わぬトラブルが生じた。
     コロナウイルスの蔓延である。こうなってしまうと、どこの図書館も利用が出来なくなり、資料集めがひどく困難になってしまった。特に中国で発行されている資料を参照しようとなると、専門性の高い資料が揃う大学図書館が利用出来ないことで手詰まりとなったのだ。

     やむを得ず論文の執筆は中断することとなったが、次に力を入れたのは音楽活動だった。
     中国の民族楽器に「阮咸」というものがある。簡単に言えばギターの仲間であり、奏法はクラシックギターに近い部分がある。
     実はこの「阮咸」とは、ちょうど三国志に登場する阮咸という人物が得意な楽器だったらしく、阮咸自身の名前がそのまま楽器の名前として定着したと言われている。
     これほど三国志と直接関係のある楽器が存在しているならば、私も習得しないわけにはいかない。大学時代からこの楽器のことを知っていた私は、阮咸の演奏を学べる機会を常々窺っていたのだ。すると、たまたま大阪で専門家の先生が運営されている教室を見付けて入門することが出来たのだ。
     このレッスンもコロナの影響で休止せざるを得ない期間があったが、元々論文の執筆に充てるつもりだった時間を阮咸の練習に回すことにも繋がった。更にそこから教室の先生と受講者の方々で編成された楽団に私も加えていただけて、これまでに二度、演奏会に出演することが出来た。
     とは言え、決して私は演奏が上手いわけではない。むしろ大変に下手である。楽団での出演も、先生の温情で演奏が容易なパートを割り当てていただけたに過ぎなかった。
     初めは、私は中国音楽どころか小・中学校の音楽の授業の内容すら正確に理解していなかった。他の楽器を習った経験も無く、ただ三国志に関係がある楽器だからという理由だけでレッスンをお願いするという、向こう見ずな挑戦だったのだ。そして結果は既に何年もレッスンへ通ったにも関わらず、未だに初級者レベルの腕前を卒業出来ていないのである。
     私が音楽そのものに向いていなかったのであれば諦めが付いたかもしれない。
     ところが、大学時代からの友人たちの影響で始めたピアノやドラムは、どういうわけか阮咸よりもまだマシに演奏出来るようになってしまった。どちらも阮咸のように長期間のレッスンへ通ったわけではないのだが、これはもう相性としか言いようが無い。
     元々私は三国志をテーマにした自作のインスト曲を作りたいとも思っていた。どの楽器の経験も、全てそのために役立てられているのは良かったが、悲しいことに最も上手くなりたい阮咸だけが下手の横好きとなってしまっている。
     三国志の楽器を演奏することが出来る、と胸を張って言えるようになるには、まだしばらく時間がかかりそうである。

     その他、消しゴムハンコのクオリティを上げるためにデッサンのレッスンも受けた。作曲をしていた中で、たまたまボーカル付きの曲を思い付いたのでボイストレーニングにも通ってみた。思っていたよりも自分が音痴だったことが判明した。また、諸々の一芸を世に披露出来ればと、動画を撮影しネットに投稿するための勉強も行ったりした。とにかく、三国志に活かせる面白そうなことは思い付いた端から何でも挑戦してきた。
     こうして見ると、物書きだの、コスプレだの、手芸だの、音楽だのと、私はやりたいことがあちこちに目移りして迷走ばかりしているように思われるかもしれない。実際、フリーターとして今日に至るまで、「将来どうするつもりなのか?」と周りから問われたことも一度や二度ではない。
     しかし、私は何一つ問題だとは思っていない。将来のことなどは言われるまでもなくとうに考えが決まっているし、その上で私は今の自由気ままに三国志を楽しむ生活を送っている。問題無いと言い切る理由は、当然ある。

     私の人生の最終目的は「三国志」になることである。三国志の研究者や作家、コスプレイヤー、音楽家等々になることではない。三国志という、1800年以上積み重ねられてきた巨大な概念の一部に、私自身も加わることが望みなのだ。
     「三国志」という言葉を聞いた時、人は何をイメージするか。三国志を知る人であれば、一人一人がそれぞれ様々なものを連想するだろう。登場する人物や出来事の名前はもちろん、1800年前当時の事柄だけでなく、後世に生み出されてきた三国志に関する多種多様な資料や娯楽作品、研究者に作家の名前などが思い起こされるはずである。例えば私をこの道に引き込むきっかけになった横山三国志は、日本における三国志のイメージの代表的な例となっている。
     私は、まさにそのような存在になりたいのだ。世の人々がふと三国志という言葉を耳にした時、「ああ、三国志と言えばあんなものがあるよね」とすぐに連想されるような、そんな「三国志的なイメージの何か」になりたいのだ。顔も名前も知らないどこかの誰かが、三国志という言葉を介して私の名前や私が生み出した作品の存在に思い至る。そうなるほどに私自身が人から認知され、愛される「三国志」となり、三国志の魅力を広める一助となる。それが私に人生の形も中身も全て与えてくれた三国志への報恩となり、同時に私の三国志愛の極致ともなるのだ。
     三国演義に「桃園結義」というエピソードがある。劉備、関羽、張飛の三人が義兄弟の契りを結んだ際、彼らは「我々は同年同月同日には生まれなかったが、同年同月同日に死ぬことを願う」といった内容の宣誓を行うのだ。三人の結束の強さを象徴する名場面として特に有名である。
     ここで同じ言葉を借りて言うなら、私は自身が三国志になることで、三国志という概念がこの世にある限り、いつまでも三国志と共に同年同月同日を歩み続けることが出来る、そんな存在になりたいと思っている。

     そうなると、私にとって重要なのは三国志を用いて優れた表現を生み出せる人物になることである。そしてそれは、一つの表現方法に限られるものではないし、研究者や作家といった、社会的な職業、立場、肩書きとは必ずしも直結しない。
     もちろん、自身の知名度を上げる効率の良さを考えれば、何か一つの道に集中して取り組み、社会的な肩書きを得て評価される方が理に適っていただろう。
     しかし、大前提として私はどこまで行っても「三国志が好きな男」であり、まず私自身が自由に三国志を楽しまなければならない。だからこそ、三国志を用いた表現に役立ちそうな技法で、面白いと思ったものは何でも学ぼうとしてきた。今となっては多様な技法を織り交ぜて新たな「三国志」を生み出せることが、私の強みになっていると思っている。
     世間の評価を得るための効率は良くないかもしれないが、私自身が楽しんでやっていることを発信し、その楽しさを周りにも感じ取ってもらう。それが、私が生涯を通して成し遂げたいと思っている三国志の布教活動である。
     私にとって社会的な立場や収入といった、一般的な意味での「将来」は、三国志を優先した上で、その場その場でなるようになれば良いだけのことに過ぎない。どんな形であれ、一人でも多くの人に三国志の魅力を伝えられればそれで良し。そんな自由で型に嵌まらない表現活動を実現するために、大学卒業後も数々の表現技法を習得しようとしてきた。

     そして今は、こうしてエッセイを書いている。
     実は私が持つ表現技法の中で、最も得意なものがエッセイの執筆である。大学では評論文や小説など、様々なジャンルの文章を書くことに挑戦したが、最大の収穫がエッセイを書けるようになったことだった。
     大学卒業後は、文章以外での表現に取り組む時間の方が多かったが、この度久々にエッセイを書いてみることにした。ちょうど現在、阮咸の教室での活動が一段落付いたこともあり、そろそろ表現技法の「習得」だけでなく、本番の「制作」にも力を入れてみようと思ったのだ。
     エッセイを書くのが最も得意と言っても、あくまで私が持つ表現の手札の中では一番というだけである。それが本当に、客観的にも面白い文章だと思ってもらえるかどうかは、改めて世の評価を待たなければならない。これで満足な評価が得られなかったら、また修行をし直すのみである。

     ひとまず今回はこのエッセイを1編書いてみたが、ゆくゆくは三国志で120編のエッセイを書くことを目標にしている。これは三国演義が全120回という章立てで構成されていることにあやかっての目標である。
     そんな決意表明を兼ねて、実は一つ、ここまでの文章に仕掛けを忍ばせておいた。と言うのも、演義の全120回構成になぞらえて、このエッセイは全120段落で収まるように書いてきたのだ。
     最後を飾る120段落目に書くのは、もちろんこの一文である。
     私は三国志を愛している。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門 #自分らしく生きる

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