
空に繋げられたもの 12
― 春香というノイズ ―
◇
それから一週間が何事もなく過ぎていった。
彼女は少しずつ変わっていって、夜にどこかに泊まってくる事も無かった。朝起きると顔を洗って歯を磨き、僕が作った朝食を食べた。いつのまにかアルバイトを探してきて、昼間は朝の九時から夜の五時までマクドナルドで働いていた。
僕の方はというと、いつもと変わらずではあったが体に痛みが走る間隔がだんだん狭くなっていた。今のところ彼女といる時には発作は現れなかったがいつ起こるとも分からないこの痛みが彼女に知れるのは時間の問題だった。
僕はそれからさらに一週間ほど経ったある日、夕食が終わってからテレビを見ている彼女のそばに座った。
「少し話してもいいかい?」
「なに? 改まっちゃって」
「君のことについてなんだけど」
彼女は僕の方を向いて疑り深そうな表情でじっと見つめていた。
「いろいろ考えたんだけど、君はそろそろ家に戻った方がいいと思う」
彼女は僕の突然の申し出に少しうろたえるような表情をした。
「どうして?」
「君とこうして暮らしていることは、やっぱり普通に考えるとおかしな事だと思うんだ」
「私と暮らすのが嫌なの?」
「そういう訳じゃない。でも君には君の家があってその家はこの部屋じゃない」
「私はここの生活が気に入ってるの。それでどうしてだめなの?」
「恋人同士でもない男と女が一つ屋根の下でいつまでも暮らすべきじゃないよ。まして、君はまだ十六で僕は三十五だ」
「じゃあ恋人同士になればいいことでしょ?」
「それは無理だよ」
「私のことが嫌いなの?」
「別に嫌いじゃないさ。でも君の恋人には一生かかってもなれそうにないよ」
彼女は今にも涙をこぼしそうな綺麗な瞳で真っ直ぐに僕の方を見ていた。時折目を伏せて床を眺めると、暫く経ってまた僕の方を見た。
「お金ならバイトで何とかするわ」
「お金の問題じゃないよ」
「じゃあなに?」
僕は暫く考えた後、少し間をおいて答えた。
「君は自分でも気付かないくらい良いところをいっぱい持ってる。嘘が嫌いで真っすぐでとても素直ないい子だよ。でもやっぱり今の生活は君にも僕にも良い事じゃない。わかるかい?」
「じゃあもう一度あの家に戻れって言うの? 暖かい朝御飯も、会話も、笑いもないあんな家でいったい何ができるっていうの?」
「それでもそこが君の家なんだよ。嫌なこともいっぱいあるだろうけど、君はそれを乗り越えなくちゃいけないんだよ。確かに君の両親は普通に考えていい親とはいえないかもしれない。悪い親なのかもしれない。でもね、それでも君の親であることは確かなことなんだよ。以前の君ならすぐに嫌になって飛び出しちゃうだろうけど、今の君なら大丈夫だよ。僕はそう思うんだ」
「私はそんなに強くないわ」
「君はやさしくて、素直で、強い女の子だよ」
「そんなの嫌」と言うと自分の部屋に閉じこもってしまった。
やはり少し唐突すぎたのだろうかと思ったけれど今しかなかった。今言わなければ僕には時間がないことははっきりしているのだから。
その夜僕は夜の一時になっても眠ることができなかった。窓から見える月明かりを眺めていると眠ることを遮られているようにさえ感じた。仕方なく枕元の電気をつけて煙草に火を付けると薄明かりの中で先端の赤く燃えさかる部分だけが宙に浮かんでいた。
暫くそんな光景をぼんやりと眺めているとコンコンとドアを叩く音がした。
「おじさんまだ起きてる?」
「どうしたのこんな時間に?」
「眠れないの。部屋に入ってもいい?」
僕は少しだけ考えていいよと答えた。
彼女はドアを開けて布団のそばのクッションの上にちょこんと座った。そして小学校の体育座りのような格好で僕の方を向いていた。月の薄明かりが彼女の横顔を照らし陰影を作ると、少しだけ彼女が大人びて見えた。
「今日言ったことを気にしてるんだったら謝るよ。ぼくも少し言い過ぎたかもしれない」
「ううん、いいのそのことは。おじさんが言ってることは正しいことだし、私も本当はそれが一番良いんだってことはわかってるから」
窓の外ではアパートの前を歩くハイヒールの足音が周りの建物に反射して辺り一面に鳴り響いていた。近くの野良猫が勢力争いでもするかのようにうるさく騒いでいた。
「私ね。おじさんと一緒に住んでとても楽しかったの。今まで何でこんなにいらついているんだろうって自分でもわからなくて、友達と遊んだり、男と寝たりして過ごしてみたけど、結局何処にも居場所がなくて、何だかどうでもよくなってた。でも、やっと今になってこういう家族みたいな生活に憧れてたってことに自分で気付いたの。朝起きるとね、お味噌汁と卵焼きと暖かいご飯がテーブルに並べられてて、私の向かい側でおじさんが一緒にご飯を食べてるの。茶柱が立ったから今日は良いことが起きるねなんて話をして笑いながらご飯を食べるのってなんて楽しいんだろって生まれて初めて思ったの。夜帰るとね、おかえりって誰かが迎えてくれるの。最初のうちはなんだか変な感じがしてくすぐったかったんだけど、いつのまにかそれが暖かくて、嬉しくて、家族っていいなあって思えたの」
「僕は普通のことをしただけだよ」
煙草の煙がゆらゆらと揺れて窓の外に向かって流れていた。
「ねえ、おじさん?」
「なに?」
「私、おじさんが好きなの」
彼女の透き通った瞳が僕の顔を照らした。
「ありがとう。でもね……それはたぶん恋人に対する気持ちじゃなくてお父さんのようなものじゃないかな。だからあまり今の気持ちは本気にしない方がいい」
「おじさんは私のことが嫌いなの?」
「大好きだよ。本当だよ。でもそれは娘のような感覚なんだろうね」と僕は答えた。
彼女は唇を尖らせて僕の前に突き出すと
「けち」と言った。そして続けた。「じゃあ一つだけお願いがあるの」
「何だい?」
「今日だけ一緒に寝てもいい? エッチとかそういうんじゃなくて横で一緒に寝たいの」
「……いいよ。でも今日だけだよ」
「うん」
彼女は僕の布団の中に潜り込んできた。僕は彼女の髪を子供をあやすように優しくゆっくりと撫でた。
「あったかい」と彼女が言った。
「僕はカイロじゃないんだけどな」
「誰かの鼓動を聞きながら眠るのって安心するね。今までそんなこと思ったこともなかった」
「人はいつだって誰かに包まれて眠りたいって思うからね」
「おじさんはそういう風に思ったことないの?」
「僕だってあるよ。でも随分前にどこかに置き忘れて来ちゃったんだよ」
「寂しくないの?」
「……寂しくない人間なんてどこにもいない」
「おじさんが今度そう思ったときには私が包んであげるからね」
不意に涙が出そうになった。遥か遠い世界に消えてなくなった懐かしい思い出が蘇ってきて、僕の体の空洞を埋めていくように感じられた。
「おじさん?」
「なに?」
「私……あした家に戻るね」
「……うん」
「寂しい?」
「そうだね」
「寂しいって聞いてるの?」
「寂しいよ」
「私がいなくて寂しいって言って」
「君がいなくなると僕の心が凍り付きそうなくらい寂しくなるよ」
「だからおじさん大好き」
「ありがとう」
「なんか眠くなってきた」
「眠るまで起きててあげるよ」
「おじさん……お休み……」
「お休み」
続く