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Cogwheel Chronos

     こんばんは、お客様。当店をご利用でしょうか?

     ──はい、ありがとうございます。

     この店で交わされる会話は、明るいお話ではございません。ときに、人の命すら賭してしまうほどの、恐ろしい物語が繰り広げられることもございます。

     御心の準備がございましたら、どうぞ。

     ──ゆっくりと扉が開かれる。


     ようこそ、バー百夜堂へ。

     バーテンダーの時任、と申します。以後お見知り置きくださいませ。

     さぁ、どうぞそちらのカウンター席へ。一杯のカクテルをお出し致しましょう。

     飲むか、飲まないかは、あなたの自由です。ただし──その結果について、私は一切責任を取りません。


     さあ、お気の済むまで、存分にお楽しみくださいませ。


     今宵、一人の女性が入店され、カウンターの端に腰を下ろします。

    「いらっしゃいませ。こちらがメニューでございます。」

    「ありがとうございます。」

     彼女はメニューを開き、ひとつを指しました。

    「水割りで。」

    「承知いたしました。」

    グラスを差し出すと、彼女は言いました。

    「バーテンダーさん、良かったら一杯いかがですか? 乾杯してください。」

     彼女の選んだ『ふしぎ屋』を、私もロックで頂くことにしましょう。

    「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、頂きます。」

     カチンとグラスが触れ合い、ゆっくりと口をつける。

    「……ねぇ、バーテンダーさん。少し愚痴をこぼしてもいいかしら?」

    「ええ。私でよければ。」

    「先日、私は母を看取りました。母はとても勝手で、ひどい人でした。あの日、死ぬ間際に運命がどうのこうのって、そんなことを言っていたの。」

     グラスを傾け、透明の液体を飲み干す。

    「愛していたなんて……ひどい。」

     その瞳に、涙が滲む。

    「運命って……何なんでしょうね。私は母の言う運命なんて、クソ食らえだと思ったんです。」

     私もグラスを飲み干し、彼女の瞳をまっすぐ見つめる。

    「運命、ですか。あるひとりの女性のお話をしてもよろしいですか?」

     彼女は涙を拭い、静かに頷いた。

    「初めてお会いしたとき、その方は、ご自身の運命とは何かと、思い悩んでおられました──。」



    ──ピッ、ピッ、ピッ。

     白い天井の部屋。

     緑色の線が三角の山を描きながら、ゆっくりと流れていく。体と機械を繋ぐ管が、いくつも伸びていた。

     私はもう長くないと解っている。恐らく、今日か明日には空へ還るのだろう。それは受け入れていた。

     けれど、私は──。

     病室の扉が開き、息子が荷物を持って入ってきた。ネクタイを緩め、サイドテーブルに置き、椅子に腰を下ろす。

    「母さん。今度の日曜、子どもたち連れてくるよ。」

     どことなく、あの人に似ている優しい瞳。

    「ありがとうね、楓。」

    「いいんだよ、あいつらも母さんに会いたがってるから。」

     息子は優しく育ってくれた。義娘も穏やかな人だし、孫も可愛い。あの人には心の底から愛され、私は恵まれた人生だったと思う。

     これが私の“運命”だとしたら──だが。

    「楓……。」

    「どうした、母さん?」

    「今日は少し話をしたいの。聞いてくれる?」

    「ああ、無理しない程度にしてくれよ。」

    「ふふ、ありがとう。どうしても今、話しておきたいの。

     あれは、私が今のあなたくらいの頃。育児から解放されて、羽根を伸ばそうと、あるバーに飲みに行った夜のことだったわ──。」


     あの夜の私は、少し気分が落ちていた。それでも、育児の重圧から解放され、大きく呼吸ができた夜だった。

     ずっと心に引っかかっていたものを、吐き出したかった。友人と別れたあと、家に向かうはずの足が違う方向へ向かっていることに、違和感はなかった。

     ──そうね。もう少しくらい、いいわよね。スマホを取り出し、あの人に連絡を入れる。

     足の向くまま歩いていると、落ち着いたデザインの看板が目に入る。黒いボードに白い文字で「百夜堂」と書かれていた。

     こんなお店、あったかしら?

     不思議に思いながらも、引き寄せられるように茶色い扉へ手をかける。

    ──チリンチリン。

    「いらっしゃいませ。」

     店内はカウンター席のみの、薄暗い空間だった。ボトルが並び、端には蓄音機が置かれている。

    「今時、珍しい……。」

     思わず呟くと、バーテンダーはくすりと笑い、椅子を引いた。

    「ありがとうございます。」

    「初めまして。百夜堂のオーナー、時任と申します。」

     差し出された名刺は、白と黒のシンプルなものだった。

    「お決まりでしたら、お飲み物を。」

     少し迷ってから、好きな麦焼酎「ふしぎ屋」をロックで頼む。

    「かしこまりました。」

     蓄音機から流れる優しいピアノに合わせ、しなやかな手つきでドリンクを作っている。ここ、雰囲気いいな。家も近いし、たまに来てみようかな。
     そんなことを考えていると、いつの間にか目の前に酒が置かれていた。

    「ありがとうございます。良かったら、時任さんも一杯どうぞ。」

    「ありがとうございます。では、遠慮なく。」

     時任さんは、私と同じふしぎ屋のロックを用意する。

    「本日はご来店、ありがとうございます。頂きます。」

    「こちらこそ。これからよろしくお願いしますね。」

     カチンとグラスが触れ、口をつける。グイッと飲み干し、大きく息を吐いた。

    「いい飲みっぷりですね。もう一杯いかがですか?」

     同じものを頼み、氷をしばらく転がしてから、思い切って顔を上げる。

    「ねえ。あなたは、自分の運命の人って、一目見て解ると思う?」

    「運命の人……でございますか?」

     琥珀色の瞳を細め、一瞬伏せてから、私を見る。

    「私ね、運命の人がふたりいたの。でも、本当の相手がどちらか解らなくて。」

     再び酒をあおる。酔ってしまうと解っているのに、止められなかった。

    「あの人と、あの人を亡くしてから出会った夫。その夫は、全てを解ってくれて、あの人ごと私を愛してくれたの。」

     時任さんは何も言わず、静かに酒を作っている。

    「でも──ねぇ、聞いてる?」

     もう酔いが回っている。ひどくなる前に帰ったほうがいいのかもしれない。それでも、私は帰らなかった。

    「私は、知りたかった。なくす前に、知りたかったの。」

     時任さんは微笑む。

    「解らないことをそのまま心にしまい込める人と、解明せずにはいられない人がいます。あなたは後者。ならば、私がお渡しできる答えは──。」

     すっと、目の前に新しいグラスが置かれた。

    「……きれい。」

     青と赤が重なり合い、歯車の形をした大きな氷が浮かんでいる。今にも回り出しそうだった。

    「Cogwheel Chronos。運命の歯車でございます。半分飲めば昔の心残りを、すべて飲めば今の心残りを動かせる、と言われております。」

    「運命の……歯車。」

    「今宵のあなた様には、こちらがお似合いかと。」

     そのカクテルを見た瞬間、私は迷わずグラスを手に取った。本当の運命の人を知りたかったから。

     目を閉じ、半分を流し込む。


     あの頃──。

     あの人と過ごした時間は、私にとってすべてだった。すべてを掛けて愛し、そして愛された。けれど、私はあの人を死なせてしまった。あの時、もっと強く引き止めていたら。

    「心残りを……動かす。」

     あの人が生きている未来を、一緒に歩けるのだろうか──。


     目を開けると、見覚えのある古いアパートの一室に立っていた。

    「ここは……ふたりで過ごした、あの部屋?」

     隅には古いギター。海外バンドのポスター。伸びきったカセットテープと、傷だらけのレコード。

     すごく懐かしかった。

     お金はなかった。でも幸せだった。喧嘩もしたし、たくさん愛し合った。いつもどこへ行くにも一緒だった。

     背後から腕が伸び、身体を包む。そのぬくもりに振り向く。あの頃と同じ優しくて凛々しい顔。
     私を呼ぶ声と抱きしめる力、笑い合った日々のまま。

    「ねぇ、あの曲弾いてよ。」

    「ああ、いいぜ。」

     私を椅子に座らせ、彼が隣でギターを抱える。

     ポロン、と軽快なアルペジオ。伸びやかな声が部屋を満たす。私は目を閉じ彼の声に身を委ねた。優しく弦を弾きながら、彼は唐突に言った。

    「俺、ギターでお前を食わせてやりたい。絶対に成功してみせる。ついてきてくれるか?」

     彼のバンドは地元では有名で、ライヴには業界人が来ることもあった。私は、そんな彼の成功を信じて疑わなかった。

    「うん、もちろん。あなたを信じてる。」

     やがて、デビューが決まり、すぐに売れたわけではないが、少しずつ名前が広まっていった。レコードも売れ、ライヴは小さなライヴハウスからホールへ。音楽番組にも出演するようになった。

    「オリコン初登場30位?! 凄いじゃない!」

     有名になるにつれ、私たちの時間は減っていき、彼が部屋に帰る日が少なくなった。それでも彼の成功のためだと、自分に言い聞かせていた。

     そんなある日。

    「聞いてくれよ! イギリスのバンドが、俺たちの曲を聴いてくれたんだ。一緒にやらないかって!」

    「凄いじゃない! あなたならできるって、信じてたわ!」

     私は彼を見送った。

     もしあの時引き止めていたら、せめて一日遅らせてほしいと、強く言っていたら……。

     イギリスへ向かう飛行機が、太平洋沖で行方不明になった。乗客は全員消息不明。

     ニュースは連日報じられた。

     私は部屋で彼の無事を祈り続けた。生きていても、そうでなくても、消息がわかるまでは泣くまいと決めていた。

     やがて全員死亡の記事が出た。私の世界の色が失われた。

     だから──もう彼を連れて行ってほしくない。その一心で、彼が再び海外へ行くと言ったとき、泣きながら頼み込んだ。一日でいい、出発を遅らせてほしいと。どうしても、その日には行ってほしくなかった。

    「解ったよ。お前がそこまで言うなら、次の日の便にする。」

     実際のニュースを観た瞬間、彼は震える手で私の手を握った。私は握り返し額を寄せて静かに泣いた。

    「ど……どうして? お前は……知ってたのか?」

     その問いかけに、私は答えることが出来ず、夢で見て嫌な予感がしたと誤魔化した。

    「そうか……ありがとう。お前のおかげで、俺はここにいるんだな。」

     ふたりで抱き合い、震えながら喜んだ。

     そしてその年の秋、私たちは結婚した。このまま彼の夢を追いながら、ずっとふたりで生きていけると信じていた。子どもには恵まれなかったが、それでも構わなかった。


     ──信じていたかった。

     けれど、そう思っていたのは私だけだった。彼は私の気持ちを重たく感じ始め、帰る日が減り、やがて戻らなくなった。

     テレビのニュースで、彼の浮気を知る。その時に、彼の子どもまでいることも。それでも私は耐えていた。会いたくても、子どもが欲しくても、彼を信じて待つと決めていたから。


     これが、私の運命──?

     彼との人生は、運命ではなかったの? 泣きながらバスルームで、手首に刃物を当てる。


    カチ、カチ、カチ……。

    「……ハッ!」

     顔を上げる。ここは──百夜堂?

    「気が付かれましたか?」

     目の前には水の入ったグラス。その横には、Cogwheel Chronos。

    「ご気分はいかがですか? よかったらお水を。」

    「あ、いえ……それより、このカクテル。」

    「先ほど召し上がる前に、眠っておられました。ふしぎ屋で少し酔われたのでしょう。」

    「でも、このカクテル、青と赤の……。」

    「こちらは真紅でございます。青いものをご所望でしたら、お作りいたしますが。」

    「……い、いえ。このままで。」

     飲んでいない? 夢だったのだろうか。

     心臓がどくどくと音を立てる。左手首を見るが、何も変わっていない。

    「どうされました? やはりこちらはお下げいたしましょうか。」

    「い、いえ。頂きます。」

     飲んでしまおう。さっきのは夢だ。きっと妄想だ。あの人はもういない。いくら悩んでも戻らない。あの日、あの時に亡くなってしまったの。
     それなら、いっそ彼を人生から追い出してしまえば、この痛みも軽くなるはず。

     目を閉じ、グラスの中身を飲み干す。


     あの頃──。

     あの人と過ごした時間は、私にとってすべてだった。そう思っている。

     私は愛され、その愛に包まれて生きていた。

     好きだったバンドのギタリストがイギリスへ向かい、飛行機ごと消息不明になったとき、隣で一緒に悲しみ、献花に付き添ってくれた人。

    「君が望むことは、僕にできることなら全部叶えてあげたい。」

    「……ありがとう。」

     その言葉を信じ、私は彼と結婚した。やがて男の子を授かり、楓と名付けた。

    「ママ、僕にギターを教えて。」

     小学生になった楓にギターを教える。隣で彼が微笑み、成長を見守っていてくれる。
     ある日、楓が軽快なアルペジオを弾いた瞬間、胸が跳ねた。

     何かを忘れている。胸の奥にぽっかりと穴があいたような感覚。気づけば涙があふれていた。

    「ママ?」

    「どうしたんだい?」

    「わ、私……!」

     私は、言葉にならない何かに向かって叫ぶ。彼は優しいし、私を心から愛してくれている。

    それでも、違う……。

    ──違う。

    カチ、カチ、カチ……。


    ──息を荒くして顔を上げる。

     ここは……百夜堂。そう、私は……。

    「私は、知りたかっただけなの。あの人が運命の人かを。」

     時任さんは微笑む。

    「解らないことをそのまま心にしまい込める人と、解明せずにはいられない人がいます。あなたは後者。ならば、私がお渡しできる答えは──。」

     すっと、グラスが置かれる。

    「……きれい。」

     青と赤の液体の中に、歯車の形をした氷が浮かんでいる。

    「Cogwheel Chronos。半分飲めば昔の心残りを、すべて飲めば今の心残りを動かせる、と言われております。」

    「運命の……歯車。」

    カチ、カチ、カチ。

     私は財布を取り出した。

    「頂きたかったけれど、酔いが回りすぎて、もう飲めないみたいです。そちらのお代もお支払いします。今夜はこれで。」

    「そうですか。またお待ちしております。」

     私は百夜堂を後にした。

    カチ、カチ、カチ──。


    「……。」

    「お母さん、眠っちゃった?」

    「ううん、大丈夫──。」

     言いかけて、息が止まる。長い髪。細い指。高い声。楓であって、楓ではない。
     あの人も、もうどこにもいない。

    「ねぇ、さっきの話なんだけど。そのバーでのこと、本当なの?」

    「ええ。妄想でも何でもないの。」

     視界が滲む。

    「ねぇ……それじゃあ、お母さんにとって、お父さんと私は何だったの?」

    「……とても、愛していただけなの。」

    「ひどい人よ、あなたは。」

     私は微笑み、涙を一筋こぼす。

    カチ、カチ、カチ。

     ゆっくりと目を閉じる。

    カチ、カチ……カチリ。


    ──私は視線を上げる。

    「これが、そのお客様のお話です。」

    「もしかして……お母さんは……。でもそれだと、時任さん、あなたは……?」

    「信じるも信じないも、あなた様次第です。」

     彼女の前に、グラスを差し出す。 青と赤が重なり合い、歯車の形をした大きな氷が浮かんでいる。

    「あなたの運命の人は──どなたですか?」

    カチ、カチ、カチ──カチッ。


    観察記録
    記録者:時任
    調査対象:女性(故人)および娘
    報告日:記録日不詳
    観察地点:バー百夜堂 カウンター席および病室(終末時)

    ◆概要
     対象女性は、過去に当店を訪れ、「自らの運命の人が誰であったかを知りたい」と望んだ。提示したカクテルは《Cogwheel Chronos》。対象は二種の人生を体験した後、三度目の提示において摂取を拒否した。現在軸において、対象は娘に対し「とても、愛していただけなの」と言い残し、死亡。娘は後日、当店を訪れている。

    ◆記録要点
    ・第一体験:恋愛中心の人生。強い情熱と高揚を伴う。ある一日の選択により恋人の死を回避。しかし後年、裏切りが発生。精神的破綻に至る兆候を確認。
    ・第二体験:安定的婚姻関係。子の誕生あり。情緒的安定を維持。ただし、対象は長期的に説明不能の欠落感を自覚。
    ・第三提示:対象は「証明」を断念。摂取を拒否。
    ・現在軸:家族構成および時間経過に関して、体験内容と一致しない点を確認。記憶の保持状況は対象のみと推定。

    ◆考察
     対象は「運命の人」の特定を目的として来店したが、二種の人生はいずれも完全な解答とはならなかった。体験された時間は、選択と感情により明確に分岐していたが、対象は最終的に第三の確認行為を拒否した。
     重要なのは、対象が「どちらが正しかったか」を決定しなかった点である。
     最期の発言は、選択の優劣ではなく、感情の事実のみを残している。

    ◆補足
     《Cogwheel Chronos》は、摂取量に応じて時間認識へ干渉する性質を持つ。ただし、干渉範囲および持続条件は個体差が大きく、完全な再現性は確認されていない。対象の拒否行為は、自発的判断によるものと考えられる。

    ◆総括
     対象は運命を証明しなかった。その代わりに、「愛していた」という一点のみを残した。歯車は停止していない。


    おしまい。
    それでは、おやすみなさいませ、お客様。

    画像
    AIに作成してもらいました。


    百夜堂表紙はこちら↓


     
     
    ようこそ、百夜堂へ。 扉を開いて下さりありがとうございます。 この場所では、少し不思議な物語を扱っております。 どうぞ、ごゆるりとお聴きください。

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