
二つのお守り|七瀬ひまりと僕の物語
君との会話は、世界を少し近づけてくれる
【あらすじ】
「これ、私のお守り」
そう言って七瀬ひまりは、小さな三角の薬を水筒の水で飲み込んだ。人の声や視線、誰かの機嫌まで拾ってしまい、学校にいるだけで疲れてしまう彼女は、「人と人は分かり合えない」「言葉に気持ちは乗らない」と言う。サッカーの夢に挫折し、何かに本気になることをやめていた僕は、そんなひまりに惹かれていく。
雨の日の教室。下手なギター。少しずつ増えていく、二人だけの言葉。けれど僕は、ひまりが自分に戻るために描いていた絵を、善意のつもりで他人の目にさらしてしまう。
一番近いと思っていた僕の言葉さえ、彼女にはノイズになった。
「君はいつも、そんなつもりじゃないよね」
言葉を信じられない少女と、それでも言葉を手放せない僕。 二つの「お守り」をめぐる届かなさの恋の話。
夏が本格的に始まる、少し前。
空は毎日、濡れた灰色をしていて、
教室の窓には誰かのため息みたいな水滴が並んでいた。
ひまりは僕の隣で、小さな三角の薬を指先に乗せて言った。
「これ、私のお守り」
「お守り?」
「うん。これがあると、少しだけ世界が遠のくの」
「世界が?」
「うるさいものとか、怖いものとか。そういうのが、
ちょっとだけ離れてくれる」
彼女はそう言って、少し笑った。
薬をお守りと呼ぶ人を、僕はその時初めて見た。
でも不思議と、ひまりが言うと変ではなかった。
むしろその言い方は、彼女が世界となんとか折り合いをつけるための、小さな冗談みたいに聞こえた。
ひまりは、水筒の水でそれを飲み込んだ。
喉が小さく動く。
ただそれだけのことなのに、僕は見てはいけない秘密を見てしまった気がした。
「そんな顔しないでよ」
「どんな顔?」
「かわいそうなものを見る顔」
「してない」
「してた」
ひまりは少しだけ唇を尖らせて、それから自分の手のひらを見た。
「これで普通になれるの」
「普通って?」
「みんなと同じってこと」
その言い方があまりにも静かで、僕はすぐに返事ができなかった。
ひまりは窓の外を見た。雨は降っていなかった。
けれど、世界の全部が湿っているような日だった。
「私はね、人と人は分かり合えるなんて思ってないの」
突然、彼女はそんなことを言った。
「どうして?」
僕が聞くと、ひまりは少しだけ困ったように笑った。
「生まれた場所も、育った環境も、見てきたものも、嬉しいことも悲しいことも、全部違うでしょ。それなのに、同じ言葉を使っただけで同じ気持ちになれるなんて、変じゃない?」
「変かな」
「変だよ」
彼女は、当たり前みたいに言った。
「言葉って、意味を伝えるだけなの。気持ちは乗らない」
僕はその言葉を、すぐには受け取れなかった。
言葉に気持ちが乗らないなら、僕たちはどうして誰かに好きだと言うんだろう。
寂しいと言うんだろう。
助けてと言うんだろう。
でも、その時の僕はまだ、ひまりの言っていることを本当には分かっていなかった。
分かっていないくせに、分かりたいと思っていた。
「たとえばさ」
ひまりは続けた。
「ピンクのパンダを想像したらだめって言われたら、したくなるでしょ」
「今した」
「ほら」
「いや、今のは言われたから」
「私の病気はね、そのピンクのパンダがずっと私の周りをうろついてる感じ」
彼女は自分の膝を見つめた。
「見たくないのにいるの。考えたくないのに、いる。追い払おうとすればするほど、もっと近くに来る」
僕は、ピンクのパンダを想像した。
でも僕の頭の中にいるそれは、どこか間抜けで、少し可愛かった。
きっと、ひまりの見ているものとは違っていた。
「私さ、朝、目が覚めると絶望するの」
ひまりは言った。
「この世の終わりみたいな感じがする。理由なんてないのに、もう全部だめなんだって思う。そこから立てるようになるまで、すごく時間がかかる」
僕は何か言おうとした。
大丈夫だよ、とか。そんなことないよ、とか。
みんなそうだよ、とか。
でも、どれも違う気がした。たぶんひまりの見ている世界は、僕が見ているものとは違う。
「人と会うと、すごく疲れる」
ひまりは、両手を開いて見せた。
「私は常に、全身からアンテナが立ってるの。誰かの声とか、視線とか、機嫌とか、足音とか、そういうのを全部拾っちゃう。少し世界に触れるだけで、ずっと疲れちゃう」
そして彼女は、僕を見た。
「でも、君は少し特別。なんか、疲れない」
ひまりはそう言って、ふわりと笑った。
そのあと、言いすぎたと思ったのか、彼女はすぐに窓の外へ視線を逃がした。
「今の、変な意味じゃないから」
「変な意味って?」
「そういうところ」
「どこだよ」
「聞かないところ」
ひまりは少しだけむくれた顔をした。
でも耳の先が、ほんのり赤くなっているように見えた。
その赤さを見てしまった僕の方が、なぜか目を逸らした。
その日から、ひまりのことが頭から離れなくなった。
目を閉じるたびに、ひまりの横顔が浮かんだ。
濡れた灰色の空を見ていた、あの遠い目を思い出した。
ひまりには、この世界がどう見えているんだろう。
その時の僕は、ひまりの言葉をひとつひとつ否定したかった。
そんなことない。世界はそこまで悪くない。人と人は分かり合える。
言葉にはちゃんと気持ちが乗る。
君は一人じゃない。
そうやって正しそうな言葉を並べれば、彼女の周りをうろつくピンクのパンダを追い払える気がしていた。
今思えば、ずいぶん傲慢だったと思う。
*
ひまりは、夢の話が嫌いだった。
それを知ったのは、進路希望調査の紙が配られた日の放課後だった。
梅雨の雨は朝には上がっていたけれど、教室の空気はまだ少し湿っていて、黒板の隅には誰かが消し忘れた白い粉が残っていた。
ひまりは窓際の席で、配られたプリントを机の上に広げていた。
名前の欄だけは書かれている。
その下の「進路希望」という欄は、真っ白だった。
「みんなさ、小さい時って夢とか語らされるでしょ」
ひまりは、その白い欄を見たまま言った。
「あれって、けっこう罪だよね」
「罪?」
「うん。先生とか大人って、平気で言うじゃん。諦めなかったら夢は絶対叶う、とか」
ひまりは鉛筆の先で、プリントの端を小さく叩いた。
「あれって無責任だと思う」
「また落ちてる?」
僕が言うと、ひまりは少しだけ笑った。
「今日はかなりましな方だよ。お守りのおかげ」
そう言って、彼女は制服のポケットを軽く叩いた。
お守り。ひまりがそう呼ぶ、小さな三角の薬。
それがある日は、彼女の声が少しだけ地面に近くなる。それがない日は、言葉の端がどこか宙に浮いていて、目の前にいるのに遠く感じることがあった。
「大人になるにつれてさ、みんな夢を途中で置いていくんだよ」
ひまりは続けた。
「忘れたふりをして、現実と折り合いをつけていくしかないの。なのに子どもには、夢を持ちなさいって言う。叶うかどうかなんて知らないくせに」
相変わらず、ひまりはネガティブだった。
でも、その言葉をただ暗いだけだとは思えなかった。
ひまりの言っていることは、わかる気がした。
夢で生きていけるほど世の中は甘くない。
それくらい、高校生になれば痛いほどわかる。
僕にも、昔は夢があった。ついこの間まで。
サッカー選手になりたかった。
小学生の頃なら、男子の何人かに一人は言うような、よくある夢だった。
でも、その「よくある夢」がどれほど遠い場所にあるのかも、僕はわりと早く知ってしまった。
プロになれる人間なんて、ほんの一握りだ。プロになったとしても、テレビで見るようなスター選手になれる人間は、その中のさらに一握り。
小学生の大会にも、中学生のクラブチームにも、同じ年齢とは思えないような化け物みたいな選手はごろごろいた。
速くて、強くて、うまくて、当たり前みたいに点を取るやつ。大人が見ても目を引くようなやつ。
そんな選手たちでさえ、いつの間にか名前を聞かなくなっていく。
サッカーをやめてから、僕の放課後には空白ばかりが残った。
グラウンドからボールを蹴る音が聞こえてくるたびに、少しだけ胸がざらついた。でも、そのざらつきに名前をつけるのが嫌で、僕はいつも気づかないふりをした。
本気で何かを追いかけることは、思っていたより覚悟がいる。
叶わなかった時、自分の全てが間違っていたみたいな気がする。
だから僕は、高校に入ってから、何かに本気になるのをやめた。
本気を出せば叶うけど、本気を出してないだけ。
そういうずるい生き方を無意識に選んだ。
夢なんて持たない方が楽だった。
期待なんてしない方が傷つかずに済んだ。
だから、ひまりの言うことは身にしみてわかった。
夢は美しい。
でも、その美しさだけで生きていけるほど、現実は優しくない。
だけど。
だけど、と思った。
「でもさ」
僕は言った。
「最初から無理だって決めてたら、誰も夢なんか叶えられないじゃん」
ひまりは、ゆっくり僕を見た。
「そうだね」
「いや、そうだねって」
「うん。そうだと思う」
まただ。
ひまりは時々、こうやってあっさり頷く。
僕の言葉を否定しない。
反論もしない。
でも、納得しているようにも見えない。
それが僕には、どうしようもなく歯がゆかった。
「プロになった人って、諦めなかったからプロになれたって言われるじゃん」
僕は少し早口になった。
「でも、諦めなかったのにプロになれなかった人も、たぶんめちゃくちゃいる。人生かけて頑張って、それでも届かなかった人たちの話って、あんまり誰も聞かないだろ」
「うん」
「そういうの、生存者バイアスっていうらしい」
「おっ、急に難しい言葉出してきたね」
「からかうなよ」
「からかってない。ちょっと感心した」
ひまりは口元だけで笑った。
「成功した人の物語は、すごく綺麗に見える。諦めなかったから叶ったんだって、みんな思いたがる。でも本当は、諦めなかったのに叶わなかった人たちの方が、ずっと多いのかもしれない」
「じゃあ、ひまりは夢なんか追うなって言いたいのか?」
「違うよ」
ひまりはすぐに首を振った。
「私は夢を追うなって言ってるんじゃない。そもそもそんな偉そうなこと言える立場じゃないし」
「じゃあ、何が言いたいんだよ」
「うーん」
ひまりは窓の外を見た。
グラウンドには、雨上がりの水たまりがいくつも残っていた。
誰もいないサッカーゴールが、薄い光の中で静かに立っている。
「夢ってさ、現実の中にちゃんと立っている人が、そこから頑張って叶えようとするものじゃん」
「まあ、そうかもな」
「でも私は、現実の中にうまく入れないの」
ひまりの声は、さっきより少し遠かった。
「毎日が夢みたいにふわふわしてる。ちゃんと起きてるのに、どこか眠ってるみたいで。みんなと同じ教室にいるのに、私だけガラスの外から見てるみたいな時がある」
「それって、この世界にいるけど、いないってこと?」
「たぶん、そんな感じ」
ひまりは自分の手のひらを見た。
「体はここにあるの。でも心が別のとこにある」
「心が?」
「うん。体だけ先に学校に来て、心はまだ家のベッドにいるみたいな日がある。もっとひどい日は、心がどこにあるのか自分でもわからない」
僕は何も言えなかった。
ひまりはこういう時、いつも変なことを言う。
でも、その変さはふざけているわけではなかった。
むしろ彼女は、普通の言葉ではうまく届かないものを、自分なりの表現で伝えようとしているように思えた。
「だからね」
ひまりは言った。
「もし今ここで、この体だけが急に消えても、心はどこか別の場所でまだぼんやり生きてるかもしれないって思うことがある」
「ますます意味わからない」
「でしょ」
「それがお守りのご加護?」
僕がそう言うと、ひまりは少しだけ吹き出した。
「なにそれ。急に宗教っぽい」
「お守りって言ったのはひまりだろ」
「そうだけど」
ひまりは笑った。
その笑顔を見ると、僕は少しだけ安心する。彼女がどこか遠い場所へ行ってしまいそうな時、その笑顔だけが、ぎりぎり彼女をこの教室に引き戻してくれる気がした。
ひまりと僕のやりとりは、いつもこんな調子だった。
ひまりは、最初からよく話す子だったわけじゃない。
むしろ、最初はほとんど話さなかった。話しかけても、必要な分だけ返事をして、それで終わり。クラスの誰かと笑っているところも、僕は見たことがなかった。
今でも、彼女が僕以外の誰かと長く話しているところを見たことがない。それがちょっと誇らしくもあった。
「どうせ話しても、言葉を交換してるだけだから」
前にひまりは、そんなことを言っていた。
「意味ないの?」
「意味がないっていうか、意味しかないの」
「どういうこと?」
「言葉は意味を渡せる。でも、気持ちは渡せない」
人と人は分かり合えない。
言葉は意味を伝えるだけで、気持ちは乗らない。
最初、僕にはそれがただの諦めに聞こえた。
でも、ひまりと話すようになってから、少しずつわかってきた。
ひまりは、言葉そのものを嫌っているわけではない。
言葉を信じたいのに、信じきれないのだ。
「たとえばさ」
ひまりは、机に頬杖をついた。
「幸せって言葉があるでしょ」
「あるな」
「私は、静かに心がここにあることが幸せだと思う」
「静かに心があること?」
「うん。朝起きて、絶望しなくて、誰かの声に飲み込まれず、頭の中がざわざわしなくて、ちゃんと自分の中にいられること」
ひまりは、窓の向こうの水たまりを見ながら言った。
「でも、誰かにとっては、友達と騒いだり、みんなで笑ったり、好きな人と出かけたりすることが幸せかもしれない」
「まあ、人それぞれだな」
「そう。人それぞれなのに、同じ『幸せ』って言葉を使うの。変じゃない?」
「変かな」
「変だよ」
ひまりは、やっぱり当たり前みたいに言った。
「同じ言葉を使ってるのに、見てる景色はぜんぜん違う。だから私は、言葉だけで人の気持ちを理解するのは難しいと思う」
「じゃあ、自分にとって何が幸せかを言葉で伝えればいいんじゃない?」
僕は言った。
「今みたいに」
ひまりは一瞬だけ僕を見た。
そして、少しだけ目を細めて笑った。
「そうだね」
また、その言い方だった。
肯定している。
でも、受け入れているわけではない。
僕が反論すると、ひまりはいつもこうやって、やわらかく頷く。
それ以上は戦わない。
まるで、最初から分かり合えないと知っているから、これ以上話しても意味がないとでも言うように。
僕はそれが、どうしようもなく悔しかった。
「何か言いたそう」
ひまりが言った。
「うん」
「言えばいいじゃん」
「いつも、ひまりはそうやって終わらせるだろ」
「終わらせる?」
「そうなればいいね、とか。そうかもね、とか。反論しないけど、本当は認めてない。納得してないくせに、話を閉じる」
ひまりは黙った。
少し言いすぎたかもしれないと思った。
でも、ひまりは怒らなかった。
ただ、ふわっと笑った。
どこか寂しそうな顔だった。
「認めてるよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、なんでそんな顔するんだよ」
ひまりは、少し考えるように目を伏せた。
それから、ゆっくり言った。
「君との会話は、私のもう一つのお守りってこと」
意外な言葉に、胸の奥で変な音がした。
「……お守り?」
「うん」
ひまりは制服のポケットを軽く叩いた。
「こっちのお守りは、世界を少し遠ざけてくれる」
それから、僕を見た。
「でも、君との会話は、世界を少し近づけてくれる」
僕は何も言えなかった。
それが、ひまりにとって本当のことなのかは分からなかった。
聞きたかった。
でも、聞けなかった。
ひまりの言葉を借りるなら、聞いたところで、きっと言葉は途中で形を変えてしまう。
意味だけが届いて、気持ちは届く前のどこかに落ちてしまうかもしれない。
ひまりは、二つのお守りに支えられて、なんとかこの世界と繋がっているのだと思った。
それはまるで、いつ切れてしまうかわからない細い糸が、彼女の両手に一本ずつ結ばれているようなものだった。
片方の糸は、小さな三角の薬へ。
もう片方の糸は、僕との会話へ。
そのどちらかが少し緩んだだけで、ひまりはこの教室から、現実の外側へふっと離れてしまうのではないか。
そんな気がした。
*
その日の帰り、古い楽器屋の前で立ち止まった。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、ひまりの言葉がずっと頭に残っていた。
言葉は意味を渡せる。
でも、気持ちは渡せない。なら、言葉だけで届かないものを、何かと一緒に渡せばいいんじゃないか。
そんなふうに思った。
店の奥には、埃をかぶった中古のアコースティックギターが何本か並んでいた。
僕はギターなんて弾いたことがなかった。
コードも知らない。
弦の押さえ方も分からない。
でも、久しぶりに思った。
できるようになりたい、と。
サッカーをやめてから、僕は練習というものを避けていた。
できるようになりたいと思うことは、できなかった時の自分を想像することでもあったから。
それでも、その日だけは違った。
ひまりに届くかもしれない。
たったそれだけで、痛くなる指先も、鳴らないコードも、少しだけ意味を持つ気がした。
僕は、その中でいちばん安い一本を買った。
最初の一週間はひどいものだった。
弦は指に食い込むし、コードはすぐに迷子になる。
歌おうとすれば音程は外れる。
英語の曲なんて選んだせいで、発音もひどかった。
練習していたのは、古い洋楽だった。
詳しい背景を全部分かっていたわけじゃない。
ただ、天国に行ってしまった大切な人へ向けた曲だと知った時、僕はひまりのことを思い出した。
ひまりを、どこかへ行ってしまった人みたいに思ったわけじゃない。
ひまりはここにいる。
ちゃんと同じ教室にいる。
僕の隣で、水筒の水を飲んで、プリントの空欄を見つめて、変な比喩を使って笑う。
でも時々、心だけ、僕の言葉が届かない特別な場所にいるみたいに見える時があった。
だから、この曲が合うと思った。
言葉だけじゃ、ひまりのいる場所まで届かない気がした。
でも、音に言葉を乗せたら、少しは届くんじゃないかって思った。
ひまりに初めて歌ったのは、七月の初めだった。
場所は屋上へ続く階段の踊り場。
屋上には鍵がかかっていて入れない。
だからそこは、空にいちばん近いのに、空へは出られない場所だった。
ひまりにぴったりだと思った。
「何それ」
ギターを抱えて現れた僕を見て、ひまりは目を丸くした。
「ギター」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「なんでギター持ってるの?」
「パンダ退治」
「正義の味方?」
「そんな感じ」
ひまりは少しだけ笑った。
「君って、たまに変なことするよね」
「ひまりに言われたくない」
「それはそう」
僕はギターを抱え直した。
心臓がうるさかった。
世界のノイズが大きい、とひまりはよく言う。
この時の僕には、自分の心臓だけで世界がいっぱいになっている気がした。
僕は歌った。
たぶん、音程は少し外れていた。
右手は震えていたし、コードは二回ほど迷子になった。
英語もきっと変だった。
それでも、途中でやめなかった。
言葉にならないものを、言葉になる前のまま、ひまりの方へ押し出した。
歌い終わったあと、ひまりはしばらく何も言わなかった。
雨上がりの匂いが、階段の踊り場に薄く残っていた。
遠くで、運動部の掛け声が聞こえた。
僕の指先だけが、まだ少し痛かった。
「……下手だったね」
ひまりが言った。
「知ってる」
「コード、途中で迷子になってた」
「知ってる」
「英語も、たぶん変だった」
「そこはわからないふりしてほしい」
ひまりは小さく笑った。
それから、ギターの弦にそっと指を触れた。
弦はもうほとんど震えていなかった。
でも、彼女の指が触れた瞬間、僕の胸の奥だけが、もう一度小さく鳴った。
「なに」
ひまりが言った。
「いや」
「見すぎ」
「見てない」
「見てた」
ひまりはそう言って、弦から指を離した。
その指先が、ほんの少しだけ僕の手に近づいた気がして、僕は意味もなくギターを抱え直した。
「なんていう歌?」
ひまりが聞いた。
「エリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘヴン』って曲」
「どんな歌?」
「遠い天国にいる子供へ向けた歌、らしい」
「私、死んじゃってる?」
「そういう意味じゃない」
言われて初めて、選曲のまずさに気づいた。それでも僕は、言い訳するように続けた。
「でも時々、ひまりだけ、僕の言葉が届かない場所にいるみたいに見えることがある」
ひまりは、少しだけ目を伏せた。
「だから、音なら少し届くかもしれないと思った」
ひまりは小さく笑った。
音はもう止まっているのに、僕だけがまだ、さっきの曲の中に取り残されているみたいだった。
「また聞かせてくれる?」
ひまりがぽつりと言った。
僕はすぐには答えられなかった。
それは、届いたという意味なのだろうか。
それとも、ただ次も下手な歌を笑いたいだけなのだろうか。
たぶん、どちらでもよかった。
ひまりがもう一度聞きたいと言った。
それだけで、その日の僕には十分だった。
「うん」
僕は言った。
「何回でも」
ひまりは、少しだけ困ったように笑った。
「何回でもは、ちょっと重い」
「じゃあ、たまに」
「うん。たまにがいい」
そう言って、ひまりは窓の外を見た。
雨はもう止んでいた。
けれど、世界の全部がまだ少し湿っていて、光だけがゆっくり乾き始めていた。
その帰り道、僕たちは駅まで並んで歩いた。
ひまりはいつもより少し遅く歩いた。
僕もそれに合わせた。
歩幅を合わせるというのは、不思議なことだった。
何も言っていないのに、こちらが少し変わるだけで、二人の間の距離が変わる。
「今日のパンダ軍団は?」
僕が聞くと、ひまりは少し考えた。
「数匹」
「いつも通りか」
「うん。でも、少しだけ変」
「変?」
「胸の奥だけ、まだ音が残ってる」
ひまりはそう言ってから、自分で言ったことに気づいたみたいに、すぐに前を向いた。
「今の、忘れて」
「無理だろ」
「忘れる努力をして」
「努力は苦手なんだ」
「ギターは練習してるくせに」
「それは、まあ」
そこで言葉が詰まった。
ひまりは僕の横顔を見た。
その視線に気づいているのに、僕は前だけを見て歩いた。
「それは?」
「言わない」
「言葉にしないと伝わらないよ」
「ひまりがそれ言うのか」
「今のは嫌味」
ひまりは少しだけ笑った。
好きだ、なんて言葉はもちろんどこにもなかった。
けれどその帰り道、僕たちは互いに少しだけ、言わない言葉の輪郭を見ていたのだと思う。
見えているのに触れない。
触れないまま、隣を歩く。
それだけで、僕には十分すぎるほどだった。
*
それから、僕は少しずつ、ひまりの言葉を覚えていった。
「今日は世界のノイズが大きい」
それは、音だけの話ではない。
人の声も、足音も、視線も、誰かの機嫌も、全部がひまりに近づきすぎている日だった。
「心はガラスの向こう」
それは、現実が遠い日だった。
同じ教室にいても、同じ雨の音を聞いていても、ひまりだけが分厚いガラスの向こうにいるような日。
「パンダ軍団到来」
それは、見たくないものが近づいている日だった。
考えたくないことが、考えないようにするほど大きくなる日。世界中の矢印が、全部自分に向いているように感じる日。
ひまりは直接「苦しい」とは言わなかった。
でも、僕には少しずつ分かるようになっていった。
分かる、という言い方は、正しくないのかもしれない。
ひまりの見ている世界を、僕が同じように見ることはできない。
ひまりの耳に届く音を、僕が同じ音量で聞くことはできない。
それでも、彼女の独特の言葉を通して、少しだけわかるようになってきた。
それが嬉しかった。
ひまりが「世界のノイズが大きい」と言った時、その意味を知っているのは僕だけだと思えた。
それは甘い気持ちだった。
苦くて、甘くて、少しだけ危ない気持ちだった。
僕はひまりに届きたかった。
サッカーでは届かなかった。
夢には届かなかった。
でも、ひまりには届きたい。
ひまりは、夢ではない。
目標でもない。
僕が頑張って攻略するものでもない。
そんなことは分かっていた。
分かっていたのに、僕は時々、ひまりをこっち側へ引っ張ることを、自分の新しい夢みたいに思ってしまった。
ひまりが絵を描いているところを初めて見たのは、その少しあとだった。
放課後の教室に、彼女はひとりで残っていた。
窓際の席に座って、授業で使うノートの端に、小さな絵を描いていた。
僕が近づくと、ひまりはすぐにノートを閉じた。
「見た?」
「少し」
「最悪」
「最悪ってほどじゃないだろ」
「私にとっては最悪」
ひまりはノートを胸に抱えた。
その仕草が、誰かに秘密を奪われないようにしているみたいで、僕はそれ以上近づけなかった。
「そんなに見られたくないのか?」
「うん」
「上手いのに」
「そういう問題じゃない」
ひまりは少しだけ目を伏せた。
「絵を描いてる時だけ、頭の中が静かになるの」
「静か?」
「うん。世界のノイズが消える。パンダ軍団もいなくなる」
ひまりは閉じたノートを指先でなぞった。
「だからこれは誰かに見せるものじゃない。私が私に戻るための方法」
その言葉を、僕はその時、ちゃんと聞いたはずだった。
ちゃんと聞いたはずなのに、どこかで都合よく置き換えてしまった。
ひまりの絵は、ひまりの世界へ続く扉なのだと。
なら、その扉を少しだけ開けば、誰かにも彼女が見えるのではないかと。
それが僕の勝手な解釈だったことに気づくのは、もう少し先のことだった。
*
七月の終わり、ひまりが珍しく、放課後に駅前まで行くと言った。
「絵の具、切れた」
「通販じゃだめなのか?」
「色は見ないと分からない」
「職人みたいだな」
「職人に失礼」
そう言ったひまりの声は、いつもより少しだけ軽かった。
僕は一緒に行くとは言っていなかった。
ひまりも、一緒に来てとは言わなかった。
でも、気づくと僕たちは同じ電車に乗っていた。
「ついてきた」
「たまたま行く方向が同じだった」
「嘘が下手」
「ギターよりはましだろ」
「同じくらい」
ひまりはそう言って、少しだけ笑った。
その日の電車は空いていた。
ひまりはドアの近くに立って、窓に映る自分の顔ではなく、その向こうの流れていく景色を見ていた。
「今日はノイズ、大丈夫そうだな」
「うん。昼間だから」
「昼間だと平気なの?」
「平気っていうか、世界がまだ寝ぼけてる感じがする」
「世界が?」
「夜になると、みんなの輪郭が濃くなるの。声も、匂いも、考えてることも。昼は少しぼやけてるから、まし」
相変わらずよく分からない表現だった。
でも、よく分からないまま、僕はその言葉を覚えた。
駅前の画材店は、小さな店だった。
古い木の棚に絵の具や筆が並んでいて、店の奥には紙の匂いが溜まっていた。
ひまりは店に入った瞬間、少しだけ呼吸が変わった。
学校にいる時より、電車に乗っている時より、ずっと自然にそこにいるように見えた。
彼女は何本も絵の具を手に取って、蛍光灯の下で光にかざした。
「これ、少し違う」
「同じ青に見えるけど」
「全然違うよ」
「全然か」
「こっちは朝の雨。こっちは夜になる前の雨」
「雨にも種類があるのか」
「あるよ。君は雑だから気づかないだけ」
「雑で悪かったな」
ひまりは青い絵の具を一本選び、もう一本、灰色に近い色を手に取った。
「それは?」
「教室の空気」
「空気に色があるのか?」
「ある。だいたい濁ってる」
そう言ってから、ひまりは少しだけ僕を見た。
「でも、君がいる日は、少しだけ薄い」
僕は返事に困った。
ひまりはすぐに棚の方へ視線を戻した。
「今の、変な意味じゃないから」
「それ、前にも聞いたな」
「じゃあ忘れて」
「無理だろ」
「努力して」
「努力は苦手なんだって」
「じゃあ、覚えててもいい」
小さな声だった。
僕は聞き間違いかと思った。
でも、ひまりの耳の先が少し赤くなっていたので、たぶん聞き間違いではなかった。
店を出ると、雨が降り始めていた。
予報にはなかった雨だった。
ひまりは空を見上げて、少しだけ眉をひそめた。
「傘、持ってない」
「僕も」
「使えない」
「天気に文句言うなよ」
「天気はいつも一方的だから嫌い」
駅までは走れば五分くらいだった。
でも、ひまりは走りたくないと言った。
「たまには雨を感じたい」
「じゃあ歩くか」
僕たちは雨の中を歩いた。
制服の肩が少しずつ濡れていく。
買ったばかりの絵の具が入った紙袋を、ひまりは両手で大事そうに抱えていた。
人通りの少ない道だった。
雨の音が、ひまりの周りに薄い膜を張っているように見えた。
「今日の雨は?」
僕が聞くと、ひまりは少し考えた。
「やさしいふりをしてる」
「ふり?」
「うん。本当は冷たいのに、音だけやわらかい」
「難しいな」
「雨ってだいたいそうだよ」
「ひまりが言うと、天気の話に聞こえないな」
「天気の話だよ。たぶん」
「たぶんか」
「うん、たぶん」
そう言って、ひまりは僕の少し前を歩いた。
濡れた髪が頬に張りついていた。
僕はその横顔から、しばらく目を離せなかった。
手を伸ばせば、髪についた雨粒を払えそうだった。
でも、しなかった。
ひまりが選んでいない距離を、僕が勝手に縮めてはいけない。
その代わり、僕はただ歩幅を合わせた。
駅に着く少し前、ひまりがぽつりと言った。
「今日は、あんまり疲れてない」
「よかった」
「たぶん、君が一緒だったから」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん多いな」
「さっき言ったでしょ」
ひまりはそう言って、紙袋を抱え直した。
「でも、今日は少し楽だった」
その一言だけで、雨の中を歩いたことも、制服が濡れたことも、全部どうでもよくなった。
僕は何か言いかけて、やめた。
言葉にすると、今の距離を壊しそうだった。
黙って隣を歩く方が、今は正しい気がした。
*
余計な一言を口にしたのは、美術準備室の前だった。
美術の先生に呼び止められ、文化祭の展示が足りないとぼやかれた時だった。
「七瀬って、絵がすごく上手いんです」
考えるより先に、口が動いた。
先生は少し驚いたように、「へえ」と言った。
その反応に、自分の発見を褒められたような気がした。
その時の僕は、何を差し出したのか分かっていなかった。
二日後、先生がひまりに「一度見せて」と頼み、彼女がためらいながらスケッチブックを渡すのを見た。
そこで初めて、胸に鈍い予感が生まれた。
それでも、まだ言わなければよかったとは思わなかった。
ひまりにとって絵は、夢でも進路でもない。
誰かに評価されるためのものでもない。
自分に戻るための場所だった。
僕は、その場所のありかを勝手に教えた。
数日後、美術の先生がひまりに言った。
「この前見せてもらった絵、すごくよかった。文化祭で展示してみない?」
ひまりは一瞬だけ、僕を見た。
その目で、僕は全部分かった。
ばれた。
僕が言ったのだと、ひまりは分かったのだ。
「……そうですね」
ひまりは笑った。
また、話を閉じる時の返事だった。
先生はそれを了承と受け取り、展示申込書をひまりに手渡した。
先生がいなくなったあと、ひまりはその紙を鞄にしまいながら言った。
「やってくれたね」
「ごめん。ここまでのことになると思ってなくて」
「大ごとだよ」
ひまりは静かに言った。
「私にとっては」
「本当にごめん」
「謝るなら、最初からしないでほしかった」
その声は、いつもより冷たかった。
返す言葉がなかった。
「君はさ」
ひまりは、窓の外を見たまま言った。
「みんなに私の絵を見てほしかったの?」
「うん」
「それとも、私のことを見つけた君を、誰かに見てほしかったの?」
息が詰まった。
「そんなつもりじゃない」
「そうだね」
ひまりは笑った。
その笑顔が、いちばんきつかった。
「君はいつも、そんなつもりじゃないよね」
言い返せなかった。
*
文化祭当日、ひまりの絵は校舎二階の展示室に置かれていた。
青と灰色を重ねた、雨の日の教室の絵だった。
窓の外はぼやけていて、教室の中には椅子が二つ描かれている。
片方の椅子には誰も座っていない。
もう片方の椅子の足元には、小さなピンクのパンダがいた。
僕はその絵を見て、しばらく動けなかった。
ひまりの世界が、そこにあった。
言葉ではなく、色と線で置かれていた。
でも、通りかかった生徒たちは、そんなことを知らない。
「これ、七瀬さんの絵なんだ」
「ああ、やっぱり」
「どういうこと考えてたら、こういう絵描くのかな」
「私らには分かんないよね」
悪意はなかったのだと思う。
たぶん、本当にただ、絵を見て思ったことを口にしただけだった。
でも、ひまりの顔から、少しずつ色が引いていくのが分かった。
「ひまり」
僕が呼ぶと、彼女は笑った。
「大丈夫」
その大丈夫が嘘だと、僕には分かった。
「出よう」
「うん」
僕たちは展示室を出た。
廊下は人でいっぱいだった。
笑い声。
呼び込みの声。
紙コップが落ちる音。
誰かの香水。
濡れた傘の匂い。
スマホのカメラ音。
ひまりは黙ったまま歩いていた。
「ごめん」
僕は言った。
「もういい」
ひまりは歩きながら答えた。
「でも、僕が言わなかったら、こんなことには」
「だから、もういいって言ってるじゃん」
ひまりの声が少しだけ尖った。
廊下のざわめきの中で、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
「君はさ、すぐ分かった顔するよね」
「そんなつもりじゃ」
「ほら、それ」
ひまりは立ち止まった。
「そんなつもりじゃない、って言えば済むと思ってる」
僕は息を飲んだ。
「私の絵は、君が私をこっち側に引っ張るための道具じゃない」
その言葉は、まっすぐだった。
まっすぐすぎて、痛かった。
「ごめん」
「謝られると、私が許さなきゃいけないみたいになるから嫌」
ひまりはそう言って、少し笑った。
その笑顔は、泣きそうにも、怒っているようにも見えた。
「今日は、君の言葉もノイズに聞こえる」
そう言って、ひまりは人混みの方へ歩いていった。
僕は、しばらくそこから動けなかった。
*
その日は、駅の改札の前で別れた。
僕はいつものように同じ電車に乗るつもりでいた。
でも、ひまりは改札の手前で足を止めた。
「今日は、一人で帰る」
その声は静かだった。
拒絶というより、自分の周りに細い線を引くみたいな言い方だった。
本当は、送ると言いたかった。
さっきの展示室のことも、廊下で言われたことも、何かひとつでも取り返したかった。
でも、その言葉は今のひまりにはうるさい気がした。
「分かった」
僕がそう言うと、ひまりは少しだけ驚いた顔をした。
「追いかけてこないんだ」
「追いかけた方がよかった?」
「分からない」
「じゃあ、今日は追いかけない」
ひまりは何か言いかけて、やめた。
それから改札の向こうへ歩いていった。
僕はその背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、そこに立っていた。
*
翌日、ひまりとの間に薄い膜のようなものができた。
挨拶はする。
返事もする。
でも、それだけだった。
昼休み、ひまりは机に伏せていた。
放課後、いつもの踊り場に、彼女は来なかった。
僕は何度もメッセージを打っては、送信する前に消した。
ごめん。
大丈夫?
話したい。
ギター、練習してる。
どれも違う気がして、送れなかった。
ごめん、はもう使い切っていた。
大丈夫、は僕が聞きたいだけの言葉だった。
話したい、は僕の都合だった。
ギターなんて、今のひまりにはたぶんうるさい。
ひまりの言葉を借りるなら、僕の言葉はまだ近すぎるのだと思った。
だから、待つことにした。
待つことしかできなかった、というのが正しいのかもしれない。
*
その次の日、ひまりは学校に来なかった。
翌日も、来なかった。
担任は「体調不良」とだけ言った。
クラスの誰かが「七瀬さん、また休み?」と何でもない声で言って、別の誰かが「文化祭疲れじゃない?」と笑った。
その言葉に悪意はなかった。
悪意がないことが、かえって嫌だった。
悪意のない言葉は、本人のいない場所でも平気で積み重なっていく。
放課後、僕は屋上へ続く階段の踊り場へ行った。
ギターケースを持っていた。
でも、開けなかった。
そこは、僕がひまりに初めて歌った場所だった。
空にいちばん近いのに、空へは出られない場所。
ひまりにぴったりだと思った場所。
今思うと、その考え方も少し嫌だった。
僕は何にでも意味をつけたがる。
ひまりの言葉にも、絵にも、沈黙にも。
その意味が正しいかどうかより、自分が意味を見つけられたことに安心していたのかもしれない。
階段の窓から、グラウンドが見えた。
サッカー部が練習していた。
雨上がりの土にスパイクの跡がいくつも残っていて、ボールが跳ねるたびに、湿った音がした。
僕はしばらくそれを見ていた。
ひとり、やけに足の速い一年がいた。
細い体なのに、ボールを持つと空気が変わる。
相手を抜く一歩目が、僕の知っている一歩目とは違った。
ああいうやつがいる。
昔から、どこにでもいた。
努力ではどうにもならない距離を、最初から持っているやつ。
こちらが息を切らして登っている坂道を、何でもない顔で駆け上がっていくやつ。
ボールが大きく外れて、校舎の方へ転がってきた。
気づいた時には、僕は階段を降りていた。
フェンス越しにボールを拾うと、一年の部員が駆け寄ってきた。
「すみません」
「いいよ」
僕はボールを返そうとして、少しだけ足元で止めた。
革の感触。
土の匂い。
濡れたボールの重さ。
体が、まだ覚えていた。
軽く蹴り返すつもりだった。
でも足が勝手に、昔の癖でインサイドを作った。
ボールは思ったよりまっすぐ飛んで、一年の胸元に収まった。
「うま」
誰かが小さく言った。
僕は聞こえないふりをして、踵を返した。
階段を上がる途中、胸の奥が少しざらついた。
まだ覚えている。
やめたはずなのに。
届かなかったはずなのに。
本気になることをやめたはずなのに。
体だけは、まだ忘れていなかった。
踊り場に戻ると、ギターケースが壁にもたれていた。
サッカーをやめた僕が、今度はギターを持っている。
誰かに届きたくて、また下手な練習をしている。
懲りないな、と思った。
でも、今度は勝ちたいわけじゃなかった。
選ばれたいわけでも、認められたいわけでもない。
ただ、ひまりにとってノイズにならない距離で、音を鳴らせるようになりたかった。
その日も、僕はメッセージを送らなかった。
家に帰ってから、僕はギターケースを開けた。
弾くつもりだった。
でも、弦に指を置いたまま、しばらく音を出せなかった。
ひまりに聞かせるために始めた音が、今はひまりに届いてはいけないもののように思えた。
彼女の耳に届く前から、もううるさい気がした。
僕はスマホを開いた。
メッセージ欄には、まだ何も書かれていなかった。
ごめん。
打って、消した。
今日は、音を鳴らさないでおく。
打って、やっぱり消した。
そんなことを言われても、ひまりは困るだけだろう。
僕が我慢していることを知らせるのは、我慢ではなくて、別の形の要求かもしれない。
結局、スマホを伏せた。
その時、部屋の隅に置いたサッカーボールが目に入った。
捨てられずに残していた、昔のボールだった。
もう空気は少し抜けている。
白かった部分は黄ばんでいて、黒い模様の端は擦れていた。
僕はそれを足元に転がした。
軽く踏むと、柔らかく沈んだ。
本気だったものは、放っておくとこうなるのかもしれないと思った。
急になくなるわけじゃない。
少しずつ空気が抜けて、触ればまだ形はあるのに、昔みたいには跳ねなくなる。
ひまりとのことも、そうなるのが怖かった。
だから何か言いたかった。
何かして、まだここにいると伝えたかった。
でもその夜、僕は何もしなかった。
何もしないことを、初めて練習した。
*
二日休んだあとの朝、ひまりは学校に来た。
でも、僕の方を見なかった。
席はいつも通り窓際で、彼女はいつも通り、必要なものだけ机の上に出していた。
水筒。
筆箱。
小さな文庫本。
いつもと違ったのは、スケッチブックがなかったことだった。
昼休み、僕は彼女の席へ行かなかった。
行きたかった。
でも、行かなかった。
ひまりは机に伏せていた。
眠っているのか、眠っているふりをしているのか、分からなかった。
その背中に、何度も声をかけそうになった。
ひまり。
ごめん。
今日は世界のノイズ、大きい?
でも、どれも僕の声だった。
今のひまりには、僕の言葉もノイズ。
そう言ったのは彼女だった。
だから僕は、何も言わずに自分の席へ戻った。
放課後、ひまりはすぐに帰った。
僕は追いかけなかった。
*
その翌日、廊下ですれ違った。
ひまりは僕に気づいて、ほんの少しだけ立ち止まった。
僕も立ち止まった。
何か言わなきゃいけない気がした。
でも、何か言ったら、また間違える気がした。
先に口を開いたのは、ひまりだった。
「今日は、心はガラスの向こう」
それだけ言って、彼女は目を伏せた。
僕は一瞬、分かった、と言いそうになった。
でも、飲み込んだ。
「そっか」
僕は言った。
「じゃあ、近づきすぎないようにする」
ひまりは少しだけ僕を見た。
その目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……うん」
それだけ言って、彼女は歩いていった。
僕はその背中を見送った。
追いかけなかった。
電話が鳴ったのは、その日の夕方だった。
画面には、七瀬ひまりの名前が出ていた。
それを見た瞬間、指先が冷たくなった。
「ひまり?」
電話に出ると、しばらく何も聞こえなかった。
いや、何も聞こえなかったわけじゃない。
電車の走る音。
車内アナウンス。
誰かの笑い声。
ブレーキのきしむ音。
スマホ越しの雑音。
その全部の奥に、ひまりの浅い息があった。
「ひまり、聞こえる?」
返事はなかった。
車内アナウンスの駅名を聞き取ろうとしながら、僕は家を飛び出した。
「今、電車?」
「……うん」
やっと声が返ってきた。
ひどく小さな声だった。
「どの電車?」
「分からない」
「何が見える?」
ひまりは黙った。
少しして、途切れ途切れに言った。
「白いドア」
「青い広告」
「人の靴」
「音が、近い」
やがて車内アナウンスが、次の駅名を告げた。家から走れば十分ほどの駅だった。
「次の駅で降りられる?」
「降りたら」
「うん」
「戻れなくなりそう」
何に戻れないのか、僕には分からなかった。
それでも、今は電話を切ってはいけないことだけは分かった。
「無理なら、そのままでいい。でも降りられそうなら、ホームで待ってて。今、向かってる」
ひまりの息が震えた。
「声は、聞いていたい」
「うん」
「でも、今は繋がってるだけで言葉はいらない」
責めるような言い方ではなかった。
僕は声を落とした。
「分かった。ここにいる」
「……でも」
「うん」
「切らないで」
電車の音が、一瞬大きくなった。
ひまりの声は、それに飲み込まれそうだった。
「声だけでいいから」
ひまりは言った。
「そばにいてほしい」
僕は一瞬、息を詰めた。
その普通の言葉が、ひまりには簡単ではないことだけは分かった。
そばにいてほしい。
それは許しではなかった。
仲直りでもなかった。
ただ、今ここで必要な言葉だった。
「いるよ」
僕は言った。
「電話、切らない」
それ以上、言葉を足さなかった。
大丈夫とも、落ち着けとも、分かるとも言わなかった。
僕には分からない。
ひまりの耳の奥で鳴っている音も、胸の中でほどけそうになっている糸も、世界が近づきすぎる怖さも。
それでも、切らずにいることはできる。
電話の向こうで、ひまりが長く息を吐いた。
それは泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。
次の駅で、ひまりは降りた。
僕がホームに着いた時、彼女は白い柱のそばにしゃがみ込んでいた。
スマホを耳に当てたまま、目を閉じていた。
「ひまり」
電話越しではなく、目の前で名前を呼ぶと、彼女はゆっくり目を開けた。
「……ほんとに来た」
「来るだろ」
「言葉だけなのに」
「言葉だけじゃない」
僕は言った。
「ひまりが言ったから、来た」
「お守りの効果?」
ひまりはそれだけ言って、スマホを耳から離し、息を吐いた。
僕は手を伸ばしかけて、止めた。
引っ張るんじゃない。
勝手に救うんじゃない。
ひまりが差し出した言葉を、握り返すだけでいい。
「手、出せる?」
僕が聞くと、ひまりは頷いた。
ひまりの手が、ゆっくりこちらへ伸びてきた。
その手を、僕はそっと握った。
強く引かない。
急がせない。
ただ、そこにいることが伝わるくらいの力で。
ひまりの指は冷たかった。
でも、確かにそこにあった。
僕はそのまま隣に座り、ひまりの呼吸が整うのを待った。
しばらくして、ひまりは自分で家へ連絡した。
*
その翌日、ひまりは学校に来た。
朝の教室はいつも通り騒がしかったけれど、ひまりは眠そうな顔で席に座っていた。
僕が近づくと、彼女は鞄から一枚の便箋を出した。
「何これ」
「手紙」
「僕に?」
「他に誰がいるの」
「読むの、今?」
「あとで」
ひまりはそう言って、窓の外へ目を向けた。
昼休み、僕は屋上へ続く階段の踊り場でその手紙を読んだ。
君へ。
昨日はありがとう。
あれから、うまく言葉にできなくて、黙ったままでいました。
先に書いておきます。
私はまだ怒っています。
私の絵は、誰かに見せるためのものではありませんでした。
少なくとも、あの日の私にとっては。
君が先生に話したことは嫌でした。
忘れないでほしいです。
それでも、このまま君と話せなくなるのは嫌だと思いました。
本当は、手紙なんて書かない方が楽でした。
言葉にしても、気持ちは全部伝わらないと思っているからです。
それでも君には、言葉で伝えたいと思いました。
あの時、誰かにそばにいてほしいと思いました。
でも、思い浮かんだのは君だけでした。
そんな私のそばに何も言わず君はいてくれました。
それから、本当に来てくれました。
私には、お守りが二つあります。
一つは、小さな三角のお守りです。
あれは、近すぎる世界を遠ざけてくれます。
朝の絶望も、人の声も、怖いものも。
でも時々、楽しいものまで遠くなる日があります。
普通になれる代わりに、私から私が少し離れる日があります。
それでも、まだあのお守りは必要です。
もう一つは、君との会話です。
君との会話は逆です。
怖いものを消さないまま、遠くなりすぎた世界の輪郭を戻してくれることがあります。
昨日、私は「そばにいてほしい」と言いました。
君は勝手に分かったことにせず、言葉を増やさず、そこにいてくれました。
それが、うれしかったです。
言葉に気持ちは全部乗らない。
それは今も思っています。
でも、言葉にしたから君は来てくれました。
だから私は、言葉そのものより、それを受け取ろうとしてくれる人を、少しだけ信じてみたいと思えました。
君は私のお守りじゃありません。
でも、君との会話は、私のもう一つのお守りです。
また、聞かせてください。
下手なギターでもいいです。
ひまり
読み終えても、僕はしばらく動けなかった。
手紙の文字は丸く、ところどころ線が揺れていた。
君は私のお守りじゃありません。
その一文だけを、何度も目でなぞった。
ひまりは、僕を許したわけではなかった。
でも、怒ったまま、切り捨てずに言葉を渡してくれた。
そのことが、僕にはいちばん眩しかった。
その日の放課後、僕はギターを持って屋上前の踊り場へ行った。
ひまりは先に来ていた。
「読んだ?」
「読んだ」
「最後まで?」
「最後まで」
ひまりは少しだけ目を伏せた。
「……変じゃなかった?」
「何が?」
「全部」
「全部は広すぎるだろ」
「結構、何回も書き直したんだけど」
ひまりは唇を尖らせた。
「うまく書けなかった」
「言葉じゃ、全部は伝わらないんだろ」
「うん」
「でも、伝えようとしてくれたことは分かった」
ひまりは僕を見た。
「それも、言葉だけどね」
「たしかに」
ひまりは、視線をわずかにやわらげた。
「じゃあ、少しだけ伝わったことにする」
「少しだけか」
「全部って言うと、嘘になるから」
「まだ怒ってる?」
「少し」
「少しか」
「もう少し」
「増えたな」
「今、からかったから」
ひまりはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
「でも、もう話したくないほどじゃない」
「それならよかった」
「よかったって言わないで。許したみたいになる」
「難しいな」
「人間関係ってだいたい難しいよ」
「ひまりが言うと説得力あるな」
「今、また笑ったでしょ」
「少し」
「じゃあ、少し許さない」
ひまりはそう言って、指先でギターケースのふちを軽くなぞった。
「弾く?」
ひまりが聞いた。
「今日は、前の曲じゃない」
「そうなの?」
「うん」
「逃げた?」
「ちょっと」
「正直だね」
「前の曲を選んだ時、僕はひまりを遠い場所にいる人みたいに見てたんだと思う」
「遠い場所?」
「うん。僕が何かすれば、そこからこっちへ戻せると思ってた」
ひまりは何も言わなかった。
「でも、違った。隣にいても届かないことはあるし、届かないまま隣にいることもできる」
「それ、余計に難しくない?」
「難しい」
僕はギターを抱え直した。
「だから、別の曲にした」
「どんな曲?」
「CHAGE and ASKAの『SAY YES』」
「昔の曲?」
「うん。昔のラブソング」
「急に重い」
「重くない。たぶん」
「たぶんって何」
僕は笑った。
「うまく言えないままでも、相手へ言葉を差し出そうとする歌だと思った」
ひまりは目を伏せた。
「……うん」
「それ、私に?」
「ひまりに、というより」
僕は考えた。
「僕が、ひまりの前で弾きたい曲」
ひまりは困ったように笑った。
「やっぱり重い」
「じゃあ、少しだけ重い」
「少しならいい」
僕はギターを抱えた。
窓の外では、雨が降り始めていた。
梅雨はまだ、完全には終わっていなかった。
僕は弾いて、歌った。
相変わらず下手だった。
音程は外れたし、指も痛かった。
でも、途中でやめなかった。
ひまりは黙って聞いていた。
目を閉じて、肩の力を抜いて。
その横顔を見ていると、僕たちは今、確かに同じ場所にいると思えた。
同じ雨を聞き、
同じ頼りないメロディの中にいて、
それぞれの沈黙を、壊さずに抱えている。
弾き終わると、ひまりはゆっくり目を開けた。
僕をじっと見てから、そっと肩に頭を寄せた。
言葉はなかった。
初めてこの踊り場で歌った日、ひまりの指先が僕の手に近づいた気がしたことを思い出した。
あの時は、気のせいかもしれなかった。
今は、確かめる必要がなかった。
しばらく、雨の音だけがあった。
「前よりは、少しよかった」
先に口を開いたのは、ひまりだった。
「本当?」
「少しだけ」
「少しだけか」
「うん。少しだけ」
ひまりは窓の外を見た。
雨は静かに降っていた。
「だから」
「うん」
「これからも聴いてあげる」
僕はすぐに返事ができなかった。
褒め言葉か、からかいか、ただの気まぐれかは分からない。
けれど、ひまりは「これからも」と言った。
その言葉の先に、次の放課後があった。
「じゃあ、もう少し練習する」
「うん」
ひまりは笑った。
「下手すぎると、耳が疲れるから」
「厳しいな」
「私、人より疲れやすいので」
「知ってる」
「でも」
「うん」
「君の音は、あんまり疲れない」
そう言って、ひまりは窓の外へ目を向けた。
僕はその横顔を見た。
さっき肩に触れていた重みは、もうそこになかった。
それでも、確かにあったことは分かっていた。
今は、それで十分だった。
これから僕は、下手な音を少しずつましにしていくのだろう。
上手くなるためでも、誰かに認められるためでもない。
次にひまりが「聴いてあげる」と言った時、彼女の選んだ距離にいられるように。
頼りない音が、屋上前の踊り場に残っていた。
空へは出られない踊り場の窓で、雨粒が一つ、遅れて光った。
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