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氞遠の子ども(最終章)

    第八章 未完のレクむ゚ム

    ──䞀䞃九䞀幎・䞃月から十二月 りィヌン──


    この章は第䞃章ず䞀郚時期が重なりながら進む。䞃月のレクむ゚ム䟝頌から、十二月の死たで。

    ──謎の䜿者──


    䞃月のある午埌、灰色の服を着た男が扉を叩いた。

    ノォルフガングが扉を開けるず、男は名を名乗らなかった。䟝頌䞻の名も明かさなかった。ただ、五十ダカットの金貚を差し出し、「レクむ゚ムを曞いおほしい」ず䜎い声で蚀った。

    垜子の぀ばが深く、顔立ちがよく芋えなかった。背が高く、痩せおいた。目が䜕かを避けるように、ノォルフガングの肩の少し䞊を芋おいた。

    ノォルフガングは金を受け取った。男は去った。

    石畳の䞊を、男の足音が遠ざかっおいった。

    扉を閉めた埌、しばらく動けなかった。手の䞭に金貚の重さがあった。五十ダカット。決しお少ない額ではない。完成した時にたた五十ダカット支払うずいう。レクむ゚ムを䞀曲曞くだけの、真っ圓な取匕だ。

    それなのに、あの男の陰鬱な気配が郚屋に残り、なかなか消えなかった。

    レクむ゚ム。

    死者のためのミサ曲。

    その蚀葉が、日が暮れおも頭から離れなかった。


    コンスタンツェがバヌデンから戻っおきたのは、数日埌の倜だった。脚の具合はただよくなかったが、倫の顔色が気になっお垰っおきた。扉を開けた時、机の前に座ったたた動かない倫の背䞭があった。

    い぀ものこずだず思っおいた。䜜曲䞭の背䞭は、話しかけおも返事がない。しかしその倜の背䞭は、䜕か違った。玙に䜕も曞いおいなかった。ただ座っおいた。

    「ノォルフガング」

    呌ぶず、ゆっくりず振り返った。

    「垰っおたのか」

    「垰ったわよ。ご飯は」

    「食べた  気がする」

    コンスタンツェは台所を確認した。䜕も枛っおいなかった。パンが朝のたたの堎所にあった。

    食事を甚意しながら、倫の話を聞いた。謎の䟝頌。灰色の男。レクむ゚ム。

    「自分のために曞いおいるような気がする」

    ノォルフガングが蚀った。

    「どういうこず 䟝頌䞻があるんでしょ」

    「いる。でも  曞き始めるず、誰かのためではなく、自分のこずを曞いおいる気がしおくる」

    コンスタンツェは皿を眮いた。倫の顔を芋た。目の䞋に疲劎の色があった。頬が少し削げおいた。それが最近ずっず続いおいるこずを、圌女は知っおいた。

    「䜓の具合が悪いのかしら」

    「そうかもしれない。気のせいかな」

    ノォルフガングは笑った。しかしその笑いには、い぀もの軜さがなかった。

    コンスタンツェは䜕も蚀わなかった。ただ、倫の前に皿を眮いた。

    笑いの質が倉わったこずを、圌女だけが知っおいた。

    ──魔笛・皇垝ティヌトの慈悲──


    䞀䞃九䞀幎のノォルフガングは、異垞なほど倚くの仕事を抱えおいた。

    シカネヌダヌから䟝頌されたゞングシュピヌル「魔笛」の䜜曲が䜳境に入っおいた。プラハからは「皇垝ティヌトの慈悲」の委嘱が来おいた。そしお机の䞊には、あのレクむ゚ムが埅っおいた。

    䞉぀の倧仕事が、ほが同時に動いおいた。䜓の具合が良くない時期に。


    「どうしおこんなに曞けるの」ずコンスタンツェは蚀ったこずがある。

    台所で倕食の準備をしながら、曞斎から聞こえおくる矜根ペンの音を聞いおいた。止たるこずなく続いおいた。倜䞭の二時を過ぎおも。

    「音楜が来る。頭の䞭に降っおくる感じだ」

    倫はい぀もそう蚀った。

    コンスタンツェは眉を寄せた。「降っおくる」ずいう蚀葉を、倫は䜕幎も䜿い続けおいた。子どものような蚀い方だず思っおいた。しかし今幎の倏から、その蚀葉の響きが倉わったように感じおいた。「降っおくる」ではなく、「降っおくるうちに曞かなければ」ずいう切迫感に。

    その切迫感の正䜓が䜕なのか、圌女にはただ分からなかった。


    八月末、ノォルフガングはプラハぞ旅立った。「皇垝ティヌトの慈悲」の初挔のために。コンスタンツェずゞュヌスマむダヌも同行した。

    旅の途䞭から、ノォルフガングの顔色は優れなかった。銬車の䞭で青癜い顔をしお目を閉じおいた。

    コンスタンツェはその暪顔を、䜕床も芋た。目を閉じおいる時でも、唇がかすかに動いおいるこずがあった。䜕かを数えおいるのか、あるいは頭の䞭で旋埋をたどっおいるのか。それがどちらなのかを、圌女は聞けなかった。


    プラハに着いおからも、動きは止たらなかった。皜叀を぀け、指揮をし、初挔に立ち䌚った。九月六日、「皇垝ティヌトの慈悲」の初挔が行われた。

    終挔埌、楜屋で旧知の友人が駆け寄っおきた。

    「たた来おくれた プラハはい぀も先生を歓迎しおたすよ」

    「プラハは奜きだ。ここの人たちはちゃんず聎いおくれる」

    「䜓の具合が良くなさそうですね」

    「倧䞈倫。仕事があるから」

    コンスタンツェは少し離れたずころでその䌚話を聞いおいた。「仕事があるから倧䞈倫」——それが倫の長幎の健康法だった。仕事があれば動ける。動ける間は生きおいる。しかし今、その蚀葉が以前ずは違う響きを持っおいた。

    垰路の銬車の䞭で、コンスタンツェは倫の手を握っおいた。

    その手が少し冷たかった。

    「疲れた」

    「少し」

    「りィヌンに戻ったら、ゆっくりしお」

    「レクむ゚ムがある」

    「レクむ゚ムはゆっくりやっお」

    ノォルフガングは目を閉じた。銬車が揺れた。秋の野原が窓の倖を流れおいった。

    コンスタンツェは倫の冷たい手を、䞡手で包んでいた。枩たるたでそのたたでいた。

    ──魔笛の成功──


    九月䞉十日、「魔笛」の初挔がりィヌンのアりフ・デア・ノィヌデン劇堎で行われた。

    ノォルフガングは指揮台に立った。客垭は垂民で埋たっおいた。貎族のための劇堎ではない。普通の人々の、普通の倜の劇堎。その空気が、ノォルフガングは奜きだった。

    序曲が鳎り始めた時、客垭のざわめきが自然に消えおいった。

    オペラが進んだ。倜の女王が登堎し、パパゲヌノが笑わせ、タミヌノが愛を探した。そしお倜の女王のアリアが来た。

    コンスタンツェの長姉ペれヌファが舞台に立った。

    最高音ぞの跳躍。劇堎が䞀瞬、息を呑んだ。

    音が攟たれた。客垭の空気が、ぎんず匵った。

    アリアが終わった瞬間、割れるような拍手が来た。


    翌日から、街のあちこちでフィナヌレの旋埋が口ずさたれた。商店の前で。橋の䞊で。子どもが走りながら。

    友人が駆け蟌んできた。

    「昚日の「魔笛」、玠晎らしかった ペれヌファさんの倜の女王があの高さを」

    「あの人なら歌えるず思っおた。信じおた」

    ノォルフガングは嬉しそうだった。しかし以前なら確かにあった「やったぞ」ずいう高揚が、今回はなかった。満足しおいるのは䌝わった。しかしどこか、別の堎所を芋おいるような目だった。

    コンスタンツェはその目を芋お、䜕かを飲み蟌んだ。䜕も蚀わなかった。

    倜、二人が残った時、ノォルフガングが蚀った。

    「魔笛は倧䞈倫だ。あれはずっず歌われる」

    「そうね」

    「レクむ゚ムも、そうなるずいい」

    「なるずいい」ずいう蚀い方が、コンスタンツェの胞に刺さった。なる、ではなく、なるずいい。自分がそれを確かめるこずができるかどうか、分からない、ずいう蚀い方に聞こえた。

    しかしコンスタンツェは「䜕のこず」ずは聞かなかった。

    聞いたら、答えを受け止めなければならない気がした。

    ──䜓が厩れおいく──


    十䞀月に入るず、ノォルフガングはほずんど動けなくなった。

    手足が腫れ䞊がっおいた。発熱が続いた。頭痛ず吐き気が亀互に来た。靎を履くこずも、鍵盀の前に座るこずも、難しくなっおいった。朝、目を芚たすたびに、昚日より少しず぀䜓が遠くなっおいった。

    医垫のクロセットが蚺察に来た。瀉血を行った。しかしノォルフガングはかえっお匱った。圓時の医孊では、血を抜くこずで䜓に必芁なものたで倱っおいるこずが分からなかった。医垫たちは誠実に、できる限りのこずをした。それでも䜓は応えなかった。


    ある朝、コンスタンツェが目を芚たすず、倫はすでに目を開けおいた。倩井を芋おいた。

    「ノォルフガング」

    「うん」

    「どこか痛い」

    「手足が重い。党郚が重い」

    「薬を持っおくる」

    「いい。ここにいお」

    コンスタンツェは起き䞊がりかけた䜓を戻し、倫の隣に座り盎した。

    しばらく、二人は無蚀でいた。窓の倖から、十䞀月の灰色の光が入っおきた。

    「コンスタンツェ」

    「うん」

    「がく、死ぬのかな」

    コンスタンツェは息を呑んだ。

    「䜕を蚀っおるの」

    「分からない。でも、なんかそんな気がする」

    「病気のせいよ。䜓が匱るず、倉なこずを考える」

    「そうかな」

    「そうよ」ず蚀い切れなかった。口が動かなかった。

    代わりに倫の手を取った。

    ノォルフガングはしばらく倩井を芋おいた。それから静かに蚀った。

    「あのレクむ゚ムを、自分のために曞いおる気がしおならない。あの䜿者が来おからずっず」

    「それは違う。䟝頌䞻がいる」

    「いる。でも  曞いおいるず、自分のこずを曞いおいる。怖い、っお思う。怖いのに、手が止たらない」

    コンスタンツェは倫の手を匷く握った。返す蚀葉が芋぀からなかった。

    窓の倖で、颚が朚の枝を揺らす音がした。

    ──プラヌタヌ公園の午埌──


    十月のある日、コンスタンツェはノォルフガングを銬車に誘った。気晎らしのためだった。郚屋の䞭でレクむ゚ムず向き合い続ける倫を、少し倖に連れ出したかった。

    「少し出よう」ず蚀うず、倫は玠盎に぀いおきた。それ自䜓が珍しかった。以前のノォルフガングなら「仕事がある」ず蚀っお動かなかった。


    プラヌタヌ公園の䞊朚道を、銬車がゆっくりず進んだ。秋の朚々が色を倉えおいた。黄色ず橙ず、ただ残る緑が混じり合っおいた。萜ち葉が銬車の窓の倖を流れた。

    しばらく二人は無蚀だった。ノォルフガングは窓の倖を眺めおいた。その目が、朚々を芋おいるずいうより、朚々の向こうの䜕かを芋おいるようだった。

    コンスタンツェは䜕も蚀わずに隣にいた。この人ず䞀緒にいる時、蚀葉が必芁な沈黙ず必芁でない沈黙がある。今は埌者だず感じおいた。


    銬車が䞊朚の折り返し点を曲がった時、ノォルフガングが口を開いた。

    「コンスタンツェ」

    「うん」

    「がく、あたり長くないかもしれない」

    コンスタンツェは倫の方を向いた。

    「なんでそんなこずを蚀うの」

    「䜓だけじゃない。なんか  終わりに向かっお曞いおいる感じがずっずある。あのレクむ゚ムを曞いおいるず特に」

    「怖い」

    コンスタンツェは聞いた。聞いおから、埌悔した。しかし盎埌に、聞いお良かったず思い盎した。

    「  怖い」

    ノォルフガングは玠盎に蚀った。

    その蚀葉を聞いお、コンスタンツェはかえっお萜ち着いた。「怖い」ず蚀えるうちは、ただここにいる。

    「䜕が怖いの」

    「終わるこずが怖いんじゃない。  ただ曞けおいないものが、頭の䞭にたくさんある。それが曞けないたた終わるこずが怖い」

    朚の葉が䞀枚、窓の倖を流れた。銬車の揺れが続いおいた。

    「曞いおきたものは、ちゃんず残る」

    「残っおも、がくは聎けない」

    「私が聎く。ずっず聎き続ける」


    ノォルフガングはしばらく黙っおいた。

    コンスタンツェの蚀葉の重さを、枬るように。

    「ありがずう」

    それだけ蚀った。しかしその蚀葉の埌、コンスタンツェの手を握る力が、かすかに匷くなった。

    圌女はその力を手のひらで受け取った。䜕も蚀わずに、受け取った。

    銬車は䞊朚道をゆっくりず進んでいった。二人は窓の倖を芋おいた。同じ朚々を、それぞれの目で芋おいた。

    ──レクむ゚ムの倜々──


    十䞀月、ノォルフガングはベッドの䞭でレクむ゚ムを曞き続けた。

    起き䞊がれない日は、匟子のゞュヌスマむダヌに口で䌝えた。声がかすれおいおも、音皋は正確だった。頭の䞭で音楜は鳎り続けおいた。䜓が動かなくなっおも、それだけは止たらなかった。

    ゞュヌスマむダヌは傍に座り、垫の声を聞き取り、楜譜に曞き付けた。垫が口ずさむ旋埋が、どんなに断片的でも、楜譜の䞊では意味を持った。


    レクむ゚ムは十四の楜章から成る。

    最初の「入祭唱」——「䞻よ、圌らに氞遠の安息を䞎えたたえ」ずいう蚀葉で始たる。バセット・ホルンずファゎットが静かな前奏を奏でる。葬列のように、しかし急がずに。䞀歩䞀歩、確かめながら進む音楜。


    Requiem aeternam dona eis, Domine,

    䞻よ、圌らに氞遠の安息を䞎えたたえ。

    et lux perpetua luceat eis.

    そしお絶えるこずのない光が圌らを照らしたすように。


    この旋埋の栞心は、ニ短調の䞊に D、C♯、D、E、F ず動く音型にある。

    「D から C♯ に半音䞋がっお、たた D に戻る」——ノォルフガングはゞュヌスマむダヌにそう説明した。

    「この動きが、党郚だ」

    「どういう意味ですか」

    「䞀歩進んで、半歩匕き返しお、たた歩き出す。生きおいるずいうこずが、そういうこずだず思う。安息ぞ向かいながら、䜕床も匕き返す」

    ゞュヌスマむダヌは楜譜を芋ながらその蚀葉を曞き留めた。楜譜の䜙癜に。


    「キリ゚——䞻よ、憐れみたたえ」は二重フヌガだ。二぀の声郚䞻題が絡み合いながら展開する。技術的には最も難しい楜章の䞀぀で、バッハぞの深い傟倒なしには生たれなかった。


    Kyrie eleison. Christe eleison.

    䞻よ、憐れみたたえ。キリストよ、憐れみたたえ。


    「䞻に蚱しを求めおいる」ず、ノォルフガングはある倜コンスタンツェに蚀った。郚屋に二人だけになった倜のこずだった。

    「キリ゚を曞いおいる時、䜕を考えおるの」

    コンスタンツェは聞いた。普段は聞かないこずを聞いた。

    「蚱しを求めおる。がくは散々なこずをしおきた。金の䜿い方も、人ずの付き合いも、父さんずの関係も。でも音楜だけは、ずっず誠実にやっおきたず思う。だからその誠実さで、蚱しおもらえないかず」

    「神様に」

    「誰に、ずは蚀えない。でも  䜕かに向かっお」

    コンスタンツェは黙っお聞いおいた。この人は長い間、音楜の蚀葉でしか自分の内偎を語れなかった。しかし今、音楜の倖の蚀葉で語ろうずしおいた。

    それはこの人にずっお、倧倉なこずだった。

    「蚱しおもらえるず思う」

    コンスタンツェは蚀った。

    「なんで」

    「だっおあなたは、本圓に䞀生懞呜だったから。誰が芋おも分かる」

    ノォルフガングはしばらく倩井を芋おいた。それから、かすかに笑った。

    「それはコンスタンツェが䞀番、近くにいたから蚀えるこずだ」

    「そうかもしれない。でも近くにいたから知っおる」

    沈黙が萜ちた。ランプの炎が揺れおいた。

    ──怒りの日ず、涙の日──


    続唱は六぀の楜章で成り、最埌の審刀を描く。

    「ディ゚ス・むレ——怒りの日」は激しい。匊楜噚が嵐のように走り、䜎匊が地を打ち、合唱が叫ぶ。䞖界が灰になる日の恐怖が音楜そのものになっおいる。


    Dies irae, dies illa, solvet saeclum in favilla,

    怒りの日、その日は䞖界が灰に垰す。


    「この楜章を曞いおいる時、手が震えた」ずノォルフガングは蚀った。

    「怖かったから」

    「怖かったから。でも、震えながら曞いた方が正盎に曞けた。䜓の震えが、音楜の震えになった」

    「音楜が来おいるうちに曞かなければ」——コンスタンツェはその蚀葉を聞きながら、倫のその切迫感が、い぀からか倉わっおいた気がした。今それが、この楜章の震えになっおいる。


    「レックス・トレメンデ——恐るべき嚁光の王よ」では、神の圧倒的な倧きさの前に人間が膝を぀く。しかしその盎埌に「Salva meわれを救いたたえ」ずいう柔らかな嘆願が来る。恐怖の䞭に、救枈ぞの瞋り぀きがある。

    「レコルダヌレ——思い出しおください」は穏やかだ。匊楜の柔らかい䌎奏の䞊に、四声の独唱が重なる。裁かれる人間が、神に向かっお懇願する。


    Recordare, Jesu pie, quod sum causa tuae viae.

    思い出しおください、慈しみ深きむ゚スよ、あなたが私のためにその道を歩たれたこずを。


    そしお「ラクリモサ——涙の日」。

    続唱の最埌のこの楜章を、ノォルフガングは八小節たで曞いた。

    䞉拍子のゆっくりずしたリズム。旋埋が䞀粒ず぀、涙のように萜ちおいく。


    Lacrimosa dies illa,

    涙の日よ、その日は、

    qua resurget ex favilla judicandus homo reus.

    塵の䞭から蘇る、裁かれる眪の人間。

    Huic ergo parce Deus.

    それゆえ、この者を赊したたえ、神よ。


    ノォルフガングはこの楜章を曞きながら、声を出さずに泣いおいたず、ゞュヌスマむダヌは埌に語っおいる。

    八小節目の最埌の和音。

    その埌が、曞けなかった。


    「来ない」

    ノォルフガングはゞュヌスマむダヌに蚀った。

    「続きが来ない。曞けないんじゃない。来ないんだ」

    ゞュヌスマむダヌは䜕も蚀えなかった。楜譜を芋おいた。八小節目の埌の、空癜のペヌゞを。

    垫はい぀も「音楜が来る」ず蚀っおいた。来る日も来る日も、その蚀葉を䜿っおいた。それが来なくなった。

    その空癜の重さを、ゞュヌスマむダヌは筆を握ったたた、ただ感じおいた。

    ──十二月二日の倜——レクむ゚ムを歌った──


    十二月二日の倜、ノォルフガングは少しだけ起き䞊がれるほどに回埩しおいるように芋えた。

    コンスタンツェ、ゟフィヌ、そしおゞュヌスマむダヌず匟子たちが郚屋に集たっおいた。

    「続唱の郚分を歌おう。がくもできる限り䞀緒にやる」

    ノォルフガングが蚀った。コンスタンツェは止めようずしたが、倫の顔を芋お止めるのをやめた。その顔には、久しぶりに「やりたい」ずいう衚情があった。それを止める暩利は、自分にはないず思った。


    四人で歌い始めた。ノォルフガングはアルトのパヌトを担圓した。声は现く、かすれおいた。しかし音皋は正確だった。

    「ディ゚ス・むレ」の激しい郚分を歌い、「レコルダヌレ」の柔らかな郚分を歌い、そしお「ラクリモサ」に差し掛かった時だった。


    Lacrimosa dies illa...

    涙の日よ、その日は...


    ノォルフガングの声が、止たった。

    泣いおいた。

    声が出なくなったのではなかった。泣いお、歌えなくなっおいた。


    「どうした」

    コンスタンツェが蚀った。

    「なんでもない。  続けよう」

    しかし声が戻らなかった。歌は止たった。郚屋に沈黙が満ちた。ランプの明かりだけが揺れおいた。


    なぜノォルフガングがラクリモサで泣いたのか——コンスタンツェには分かった気がした。

    自分が八小節しか曞けなかった楜章が、今、他者の声で歌われおいる。続きは曞けなかった。しかし音楜は——自分の曞いた八小節は——ここに存圚しおいる。声になっお、この郚屋の空気を震わせおいる。

    䜜者が倒れおも、音楜は残る。声さえあれば、どこでも鳎る。

    フィガロが生き、ドン・ゞョノァンニが生き、魔笛が今倜も街のどこかで歌われおいる。そしおこのレクむ゚ムも、自分が死んだ埌も、誰かが歌い続ける。

    その確信ず、それでも「自分が終わる」ずいう恐怖が、ラクリモサの旋埋の䞭で重なった。だから泣いた。


    誰も䜕も蚀わなかった。しばらく、その沈黙に党員がいた。


    「コンスタンツェ」

    「うん」

    「母さんに䌚いたい」

    コンスタンツェは答えなかった。アンナ・マリアは䞀䞃䞃八幎にパリで死んだ。十䞉幎前のこずだ。

    「父さんにも。最埌の頃、あたり良くなかったから。でも䌚いたい」

    レオポルトも、䞀䞃八䞃幎に死んでいた。

    「䌚える」

    コンスタンツェは囁いた。

    「きっず䌚える」

    「そうかな」

    「そうよ」


    レクむ゚ムの最埌の楜章には、こんな蚀葉がある。


    Cum sanctis tuis in aeternum, quia pius es.

    あなたの聖人たちずずもに氞遠に。あなたは慈しみ深い方であらせられるから。


    「あなたの聖人たちずずもに氞遠に」——母ず父ず、幌くしお倱った子䟛たちず。

    コンスタンツェの「きっず䌚える」が、その蚀葉ず重なった。


    「子䟛たちを頌む」

    「分かっおる」

    「がくの音楜も」

    「分かっおる」

    「コンスタンツェ」

    「なに」

    「ありがずう」


    コンスタンツェは倫の手を握り返した。その指が以前より现くなっおいた。それでも握り返した力は、確かなものだった。

    ノォルフガングはその力を感じおいた。

    九幎間の結婚生掻の䞭で、互いにたくさんのこずがあった。金の苊劎、匕越しの繰り返し、子䟛を倱った倜、返っおこない手玙、療逊のために離れおいた倏々。しかしこの倜、ベッドの端で手を握り合いながら、初めおすべおが同じ方を向いおいる気がした。

    音楜でも、才胜でも、成功でも、倱敗でもなく。

    ただ二人で、ここにいるずいうこずが。

    ──最埌の倜々──


    十二月四日の深倜、ゟフィヌが倜通し付き添っおいた。

    コンスタンツェは少し離れた怅子で眠っおいた。䜕日も眠れおいなかった圌女を、効が䌑たせおいた。ゞュヌスマむダヌは隅の机で、楜譜を芋おいた。ランプの光が䞉぀、郚屋の䞭に小さな炎を䜜っおいた。


    ノォルフガングは目を閉じたたた、唇が埮かに動いおいた。指が毛垃の䞊を、ゆっくりず叩いおいた。

    タン——タン——タン。

    それはレクむ゚ムのティンパニヌのリズムだった。「怒りの日」の、最埌の審刀が到来する時のリズム。䜓が蚀うこずを聞かなくなっおも、そのリズムだけは続いおいた。


    ゞュヌスマむダヌが机から離れ、垫のそばに近づいた。

    「先生」

    ノォルフガングが目を開けた。

    「先生がずっずおっしゃっおいた「来る」ずいう感芚——ラクリモサの続きが、今、頭の䞭に来おいたす」

    ノォルフガングは目を開けたたた、倩井を芋た。

    「曞かなくおいい。もう曞けない。でも分かった。分かったから、いい」

    「先生  」

    「君に頌む。君が曞いおくれ」

    「はい。必ず完成させたす」

    「頌む」

    たた目を閉じた。指のリズムが続いおいた。


    頭の䞭で音楜が続いおいた。入祭唱から始たり、キリ゚になり、ディ゚ス・むレの嵐になり、レコルダヌレの柔らかさになり、ラクリモサの涙になった。そしお最埌に——


    Lux aeterna luceat eis, Domine.

    䞻よ、氞遠の光が圌らを照らしたたえ。

    Requiem aeternam dona eis, Domine,

    䞻よ、圌らに氞遠の安息を䞎えたたえ。

    et lux perpetua luceat eis.

    そしお絶えるこずのない光が圌らを照らしたすように。


    最埌の楜章は、最初の楜章の旋埋を繰り返す。

    始たりに戻るこずで、終わりになる。

    それがただ䞀぀の指瀺だった。「最初に戻れ。始たりの音楜で終わる」

    安息を求める蚀葉が、氞遠の光ぞの蚀葉になる。同じ旋埋が、違う意味を持っお戻っおくる。

    ノォルフガングは頭の䞭でそれを聎きながら、指でティンパニヌのリズムを打ち続けた。

    ──䞀䞃九䞀幎十二月五日 午前零時五十五分──


    コンスタンツェが目を芚たしたのは、郚屋の空気が倉わった瞬間だった。

    䜕が倉わったのかは分からなかった。音が消えたのかもしれない。あるいはずっず聞こえおいた䜕かが、聞こえなくなったのかもしれない。

    圌女はゆっくりず立ち䞊がり、ベッドのそばに歩いた。

    ノォルフガングは目を閉じおいた。毛垃の䞊の手が、静かだった。

    その静けさが、い぀もの眠りの静けさずは違った。

    コンスタンツェはその手を取った。

    冷たかった。

    しかし冷たさの䞭に、ただ枩もりの蚘憶があった。぀い数時間前たで、ここにあった枩もりの。




    「おやすみ」

    コンスタンツェは囁いた。

    「よく働いた。もう䌑んでいいよ」


    返事はなかった。

    郚屋の隅でゞュヌスマむダヌが頭を䞋げた。ゟフィヌが静かに泣いおいた。

    コンスタンツェは倫の手を攟さなかった。  ゟフィヌが埌に曞き残しおいる。「亡くなる盎前たで、口でティンパニヌのパヌトを打っおいたした。レクむ゚ムのために。最埌たで、音楜がありたした」

    倖には、十二月の空があった。ただ倜明け前だった。りィヌンの街はただ眠っおいた。

    しかしどこかで、アりフ・デア・ノィヌデン劇堎では今倜も「魔笛」が䞊挔されおいた。ノォルフガングの音楜が、ただ鳎っおいた。

    ──残されたもの──


    レクむ゚ムは未完のたた残った。「ラクリモサ」の八小節目の埌が、空癜だった。

    コンスタンツェは残された。二人の幌い子䟛。膚倧な借金。そしお倫が曞きかけた楜譜。

    最初にペれフ・アむブラヌに補筆を䟝頌した。しかし圌はラクリモサの途䞭で断念した。「私には重すぎる」ず蚀った。倩才の残した断片の前で、誠実な音楜家ほど恐れを感じた。

    最終的にゞュヌスマむダヌが匕き受けた。垫の最埌の倜に聞き取った指瀺を手がかりに曞いた。「サンクトゥス」を曞き、「ベネディクトゥス」を曞き、「アニュス・デむ」を曞き、そしお最埌の楜章を——垫の蚀葉通りに、入祭唱の旋埋で締めた。「氞遠の光が圌らを照らしたたえ」ずいう蚀葉に、「氞遠の安息を䞎えたたえ」の旋埋を乗せた。同じ音楜が、違う蚀葉で戻っおくる。始たりず終わりが同じ旋埋になる。

    円環が閉じられた。


    コンスタンツェはプフベルクぞの借金を党額返枈した。倫が生涯かけお返せなかったものを、圌女は数幎で返した。

    倫の楜譜を守った。未発衚の䜜品を出版した。「モヌツァルト䌝蚘」を曞いた。

    そしお䞀䞃九䞉幎䞀月、完成したレクむ゚ムの挔奏を聎いた。


    入祭唱が始たった。バセット・ホルンの前奏。匊楜噚の葬列。「䞻よ、圌らに氞遠の安息を䞎えたたえ」——倫の旋埋が、ホヌルの空気を震わせた。

    コンスタンツェは涙をこらえなかった。

    あの倜、プラヌタヌ公園の銬車の䞭で「私が聎き続ける」ず蚀った。その蚀葉を守っおいた。

    最埌の楜章が来た。入祭唱の旋埋が戻っおきた。「氞遠の光が圌らを照らしたすように」ずいう蚀葉に乗せお。

    始たりに戻るこずで、終わりになる。安息が光になる。

    コンスタンツェはその旋埋を聎きながら、プラヌタヌ公園の䞊朚道を思い出しおいた。朚の葉が流れ、銬車が揺れ、倫の手を䞡手で包んでいた午埌を。


    五歳で最初の小品を曞き、八歳で亀響曲を曞き、十四歳でオペラを曞き、䞉十歳でフィガロを曞き、䞉十五歳でレクむ゚ムを曞きかけお、八小節目の先を曞けないたた逝った男。

    しかし圌は、終わり方だけは知っおいた。

    始たりに戻れ——それだけを䌝えお、眠りに぀いた。


    et lux perpetua luceat eis.

    そしお絶えるこずのない光が圌らを照らしたすように。


    氞遠の光が、圌らを照らしたすように。

    そしお圌自身を。



    ——了——


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    東京・池袋で赀ちゃんの頭の圢を専門ずした鍌灞マッサヌゞ治療院「べびきゅあ」を営みながら、論文や小説を曞いおいたす。実甚曞60冊のほか、歎史小説、楜曲構成小説、英語長線小説など。専門は蚈算解剖孊ず量子情報幟䜕孊 治療院ホヌムペヌゞ https://www.akatyan.jp/

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