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俺がロケットを飛ばすまで ――秒速十一キロメートルの計算(最終章)

    第九章 三人の風

    ── 一 ──


    帰還ルートを進みながら、修一は時間を計算し続けていた。


    モニターに表示される QPh-Ti64 の光子保持率を、二時間おきに記録する。後部区画の数値は、緩やかに下がり続けていた。急激な低下ではなかった。でも下がっていた。


    修一はその変化のペースから、大気圏突入時の状態を予測した。


    モニターの数値は正確だった。センサーが光子保持率をリアルタイムで計測して、数値として表示している。その数値を信頼することで、修一は「見えない部分」を「見える計算」に変えることができた。


    宇宙では、直接見えないことが多い。金属の内部で光子が何をしているか、目では見えない。でも計測値がある。計測値から計算できる。計算できれば、対応できる。


    それが修一の基本的な考え方だった。


    現在の低下速度が続いた場合——突入時に後部区画の光子保持率は、正常値の六十パーセント程度になる計算だった。


    六十パーセント。


    通常の QPh-Ti64 の耐熱性は 600,000 度まで。六十パーセントでも、単純計算で 360,000 度程度の耐熱性が残る。大気圏突入時の最高温度は通常で 1,500 度から 2,000 度程度だから、それだけ見れば問題ない数字だった。


    でも「単純計算で」という部分が、修一の気になるところだった。


    光子保持率と耐熱性の関係は、単純な比例ではないかもしれない。実験データはあるが、それは 77K での測定値だ。宇宙環境での、この状況での保持率低下が、耐熱性にどう影響するかの実測値は持っていない。


    修一は計算式を書いた。書いて、見直して、また書き直した。


    「神崎さん」と末永が言った。「また計算していますか」


    「しています」と修一は言った。


    「大気圏突入の」


    「そうです」


    「何か問題がありそうですか」


    「問題になるかどうかを、計算で確認しています」と修一は言った。「問題がないと確認できれば、問題ありません」


    「それは少し循環していませんか」と末永は笑いながら言った。


    「確かに」と修一は言った。「でも計算で確認できることは確認します。できないことは、実際に起きてから対応します」

    ── 二 ──


    帰還まで残り二十時間になった頃、修一は一つの問題に気づいた。


    後部区画の光子保持率の低下ペースが、わずかに速くなっていた。


    最初に気づいた時点では、六時間で一パーセント程度の低下だった。それが今、五時間で一パーセントに変わっていた。


    誤差の範囲かもしれない。でも誤差でないとすれば、低下が加速している。


    修一は計算した。


    このペースが続いた場合、大気圏突入時の後部区画の光子保持率は——五十五パーセント程度になる。


    六十パーセントから五十五パーセントへ。数字の差は小さいように見えるが、これが「安全圏内」と「リスクゾーン」の境界に近い部分だった。


    修一はモニターから目を離して、窓の外を見た。


    地球が見えた。青い球体が、少しずつ大きくなっていた。


    帰れる。帰るための計算を続けている。でも余裕が確実に減っている。


    修一は末永に声をかけた。「予備エンジンの状態を確認してもらえますか」


    「予備エンジン?」と末永が言った。「緊急時用のものですか」


    「そうです。使う可能性があるので確認したい」


    末永が確認した。「正常です。出力は通常の三十パーセント程度ですが、起動可能です」


    「三十パーセント」と修一は繰り返した。


    予備エンジンは通常の光子推進エンジンではなく、より小型のバックアップ用だった。出力は低い。でも、そこから光子を照射することはできる。


    修一は新しい可能性を計算し始めた。

    ── 三 ──



    予備エンジンから後部区画に光子を照射することで、保持率の低下を遅らせる——。


    修一はその計算を、三十分かけて行った。


    予備エンジンの出力は通常の三十パーセント。それを後部区画に集中して照射した場合、光子保持率の低下速度をどれだけ遅らせることができるか。


    計算結果が出た。


    低下速度を、現在の半分程度に抑えることができる可能性がある。


    半分になれば——大気圏突入時の後部区画の光子保持率は、六十パーセント以上を維持できる。


    「これは使える」と修一は思った。


    でも問題があった。


    予備エンジンを起動して光子照射を行う場合、同時に本エンジンを最大出力で動かすことができなくなる。電力を両方に分配する必要があるからだ。帰還の推進力が、わずかに落ちる。


    帰還時間が、計算上で三時間ほど延びる。


    三時間延びた場合の光子保持率を再計算した。


    予備エンジンで補充しながら三時間遅れて到着した場合と、予備エンジンを使わずに予定通り到着した場合を比較する。


    計算の結果——予備エンジンを使って補充した方が、大気圏突入時の保持率は高くなる。


    三時間の遅れを補って余りある効果があった。


    「これだ」と修一は思った。


    ペンを走らせた。


    「患者搭乗と同時に予備エンジンを起動し、機体内部から後部区画へ光子を照射することで、QPh-Ti64 の光子保持時間を最大で二日延長できる」


    修一は数値を確認した。計算を別の方法で確認した。同じ答えが出た。

    ── 四 ──



    「田村さん、繋いでもらえますか」と修一は末永に言った。


    「地上との通信ですか」


    「倉持に繋いでほしい。田村さんにも同時に聞いてもらいたい」


    末永が通信を繋いだ。


    倉持がすぐに出た。「何だ」


    「計算を確認してもらいたい」と修一は言った。「今から送る」


    通信越しに、修一は計算の内容を説明した。予備エンジンからの光子照射による保持率補充の効果、帰還時間の延長との比較、最終的な大気圏突入時の推定保持率。


    田村も通信に入っていた。田村は黙って聞いていた。


    倉持が「数値を送れ」と言った。


    修一は計算の数値を読み上げた。


    しばらく沈黙があった。


    倉持が計算していた。


    修一にはそれがわかった。倉持が黙っているときは、考えているか計算しているかのどちらかだ。こういう沈黙のときは計算している。


    三分ほど経って、倉持が口を開いた。


    「計算は合っている」と倉持は言った。「数学的には問題ない」


    「物理的にはどうだと思いますか」と修一は聞いた。


    「物理は俺の専門ではないが——計算の構造は正しい。出力が三十パーセントでも、後部区画に集中照射すれば補充の効果は出るはずだ。ただし前提条件が正しければ、という話だ」


    「前提条件は」


    「光子保持率と耐熱性の関係が、計算で使った比例式通りかどうかだ。それが実験値と合っているなら、この計算は正しい」


    「実験値と合っています」と修一は言った。「77K での測定値です。今の状況と完全に同条件ではないが、最も近い実測データです」


    「なら使えると思う」と倉持。


    「ありがとう」と修一が返す。


    田村が「私もそう思います」と言った。「試してください」


    「了解」と修一は言った。


    「最後に」と倉持。


    「何だ」


    「計算の末尾に一行書き忘れたが、言葉で伝える。お前がそういう奴だと思ったから計算した。行ってこい」


    修一は少し笑った。


    「もう行ってるよ」と修一は言った。


    「帰ってこい、だったな」と言い、もう一度、倉持ははっきりと言った。「帰ってこい」


    「帰ります」

    ── 五 ──


    通信を切って、修一はすぐに動いた。


    倉持の確認を得たことで、修一の中にあった「もしかしたら間違いかもしれない」という感覚が消えた。消えた、というより、確認によって払拭された。


    間違いの可能性が消えたから、実行に踏み切れる。


    確認なしに実行することは、修一にはできなかった。計算が正しいと思っていても、確認なしに人の命に関わる判断をすることはしたくなかった。倉持がいたから、確認できた。


    「予備エンジン、起動します」と修一は全員に告げた。「後部区画への光子補充照射を開始します」


    「了解」と末永が言った。操作パネルで予備エンジンの起動手順を始めた。


    「患者の状態は問題ありませんか」と修一は田口に確認した。


    「安定しています」と田口は言った。「急な加速変化がなければ、問題ありません」


    「予備エンジンの起動で、急加速は発生しません」と修一は言った。「推力には影響しませんので」


    「了解しました」


    「予備エンジン、スタンバイ」と末永が言った。「起動準備完了です」


    「起動します」と修一は言った。


    予備エンジンが起動した。


    音は小さかった。本エンジンより出力が低いから、稼働音もほとんど聞こえなかった。


    モニターで光子照射の状態を確認した。


    後部区画への照射が始まっていた。


    光子保持率の数値をモニターした。


    数分後、低下のペースが、わずかに落ちた。


    計算通りだった。


    「保持率の低下速度が下がっています」と修一は末永に言った。


    「確認します」と末永が言った。「……下がっていますね。設計通りです」


    「計算通りです」と修一は言った。

    ── 六 ──


    予備エンジンの起動から四時間が経った。


    光子保持率の低下ペースは、起動前の約半分に抑えられていた。


    修一は再計算した。


    このまま帰還した場合の、大気圏突入時の後部区画の光子保持率——六十三パーセント。


    予備エンジンを使わなかった場合の予測値が五十五パーセントだったから、八パーセントの改善だった。


    小さく見えるかもしれない数字だったが、修一には違って見えた。


    五十五パーセントと六十三パーセントの差は、「やや危険な領域」と「安全圏に近い領域」の差だった。計算上は両方とも大気圏突入に耐えられるが、余裕が違う。余裕がある方が、想定外への対応力が高い。


    「少し楽になりました」と修一は言った。


    「楽になった、というのはどういう意味ですか」と坂本が聞いた。


    「余裕が増えた、ということです」と修一は言った。「五十五パーセントと六十三パーセントでは、数字は似ていますが、突入時の対応余裕が違います」


    「具体的には」


    「二枚目の耐熱タイルを使う可能性が、少し下がりました。一枚目のタイルで済む可能性が上がっています」


    「それは良いことですね」と坂本は言った。


    「良いことです」と修一は言った。

    ── 七 ──


    帰還まで残り八時間になった。


    修一は帰還手順の最終確認を始めた。


    大気圏突入角度、突入速度、機体の姿勢制御の設定。一つひとつを確認して、設定値を入力した。


    坂本が「私は何かできることがありますか」と聞いた。


    「突入中は操縦補助をお願いします」と修一は言った。「私が操縦に集中する間、計器の読み上げを担当してください」


    「了解しました」と坂本は言った。


    「末永さんは電力系と予備エンジンの監視を」


    「了解」


    「田口さんは患者と乗員全員の医療管理を」


    「了解しました」


    「私は操縦と、全体の判断を担当します」


    四人の役割が決まった。


    「一つだけ言わせてください」と田口が言った。


    「どうぞ」と修一は言った。


    「月面から帰る途中で、急病人を助けるために寄り道をした。それで今、ギリギリの状況になっている。でも——」と田口は続けた。「私は、その判断が正しかったと思っています。医師として」


    「ありがとうございます」と修一は言った。


    「後悔はありませんか」と田口は聞いた。


    田口は医師として、また乗員として、この問いを持っていたのだと修一は感じた。


    自分の判断で寄り道をした。その結果、状況がギリギリになった。そのことへの後悔が、修一にあるかどうかを聞いていた。


    修一は正直に考えた。


    修一は少し考えた。


    「ありません」と修一は言った。「あの時、助けに行かなかった場合の方が、後悔が大きかったと思います。計算が正しければ帰れます。計算を信頼しています」


    「信頼する根拠は」


    「今まで全部計算通りだったので」と修一は言った。


    田口は静かに笑った。「それは根拠になりますね」

    ── 八 ──


    帰還まで残り五時間の頃、修一は少し眠ることにした。


    突入の前に短い仮眠を取る。疲れた状態で突入に臨むより、短時間でも休息を取った方がいい。


    田口に「三時間後に起こしてください」と言って、シートを倒した。


    眠れるかどうかわからなかった。


    でも目を閉じた。


    頭の中で、帰還の手順が何度も流れた。大気圏突入角度、速度、姿勢制御。その流れを確認しながら、意識が遠のいていった。


    夢を見た。


    種子島の丘だった。


    八歳の自分が、空を見上げていた。白い機体が炎を吐きながら飛んでいく。


    「かっけぇー」


    その言葉を言った瞬間に、目が覚めた。


    目が覚めると、機体の中だった。窓の外に地球があった。


    三時間経っていた。田口が「神崎さん、起きてください」と言っていた。


    「起きました」と修一は言った。


    「すぐに眠れるんですね」と田口は言った。


    「必要だったので」と修一は言った。


    シートを戻した。モニターを確認した。


    光子保持率——後部区画、六十二パーセント。予定通り。


    大気圏突入まで、あと二時間だった。

    ── 九 ──



    「大気圏突入まで一時間」と修一は全員に告げた。


    四人全員がシートに座り直して、シートベルトを確認した。患者も田口の補助でしっかりと固定された。


    「これから大気圏に入ります」と修一は言った。「突入の間、約二十分間は強い加速度がかかります。それが終われば速度が落ちて、降下に入ります」


    「二十分間ですか」と末永が言った。


    「最大で二十分です。機体の状態次第ではもう少し短くなる可能性もあります」


    「その間に何かが起きた場合は」と坂本が聞いた。


    「私が判断します。指示に従ってください」


    「了解」


    「一つだけ言います」と修一は続けた。


    全員が修一を見た。


    「設計段階から、あらゆる事態を想定して余裕を組み込んできました。二重の耐熱タイル、制御系の余裕、予備エンジンによる補充、2席の余裕。全部が今日のためにあります。計算は正しいと思っています。計算を信頼して、手順を信頼して、進みます」


    「はい」と全員が言った。


    修一は前を向いた。


    地球が窓いっぱいに広がっていた。

    ── 十 ──


    大気圏突入が始まった。


    機体の外が、徐々に変わっていった。


    空が黒から紺色に変わり始めた。大気が増えてきた証拠だ。速度が高いまま大気の中に入るから、周囲の空気が圧縮されて熱くなる。その熱が耐熱タイルに当たる。


    「高度百キロメートル通過」と坂本が読み上げた。


    「正常」と修一は言った。


    カーマンライン。往路で通った境界を、今度は逆向きに通っていく。行きは「宇宙に入る」、帰りは「地球に帰る」。同じ線が、方向によって意味が変わる。


    往路と復路では、気持ちが違った。往路は行き先に向かっていた。復路は帰る場所に向かっている。帰る場所がある、ということが、温かさを作っていた。


    「高度八十キロメートル」


    「正常」


    窓の外が、少し赤みを帯び始めた。機体の周囲に発生するプラズマの光だった。


    「高度六十キロメートル」


    「正常。温度センサーを確認してください」


    「確認します」と末永が言った。「前部区画、正常。中部区画、正常。後部区画——」


    末永が少し止まった。


    「後部区画、上昇しています。設計範囲内ですが、前部・中部より高い値です」


    「数値を読んでください」と修一は言った。


    末永が数値を読んだ。


    修一は頭の中で計算した。


    設計範囲内だった。一枚目の耐熱タイルが機能している。


    「一枚目のタイル、機能しています」と修一は言った。「続けます」

    ── 十一 ──


    「高度五十キロメートル」


    機体への減速Gが強くなってきた。


    1.90 Gで上昇した時と同じくらいの負荷が、今度は逆向きにかかっていた。シートに体が押し付けられる。視界の端が少し暗くなる。でも訓練で経験した範囲内だった。


    「後部区画温度、上昇継続」と末永が報告した。「現在、一枚目のタイルの設計上限の七十パーセント」


    「了解」と修一は言った。「まだ余裕があります」


    アラームが鳴った。


    甲高い電子音だった。


    「何のアラームですか」と修一は言った。声は落ち着いていた。


    「後部区画の温度センサーが警告値を超えました」と末永が言った。「一枚目の耐熱タイルが設計上限に近づいています」


    「何パーセントですか」


    「九十五パーセントです」


    「まだ一枚目の範囲内です」と修一は言った。「継続します」


    「了解」


    アラームが鳴り続けていた。


    坂本が「大丈夫ですか」と聞いた。


    「大丈夫です」と修一は言った。「計算の範囲内です」

    ── 十二 ──


    「高度四十キロメートル」


    アラームの音が変わった。


    「後部区画、一枚目のタイルが融解しています」と末永が言った。声が少し変わっていた。落ち着こうとしているのに、少し上ずっていた。


    「融解開始を確認しました」と修一は言った。「二枚目のタイルに切り替わります。正常な手順です」


    「正常な手順」と坂本が繰り返した。


    「最初から、一枚目が融解した場合のために二枚目を用意しています。今、その手順に入りました」


    アラームが変わった。別のアラームが加わった。


    「二枚目のタイル温度が上昇しています」と末永が言った。


    「数値は」


    「設計上限の四十パーセントです」


    「余裕があります」と修一は言った。「速度が落ちれば、温度上昇も止まります。もう少しです」


    機体への負荷が、わずかに変わった気がした。減速が効いてきている感覚があった。速度が落ちてきている。


    「高度三十五キロメートル」と坂本が言った。


    「速度はどうですか」と修一は聞いた。


    「設計値に近づいています。減速が効いています」


    「正常です」と修一は言った。

    ── 十三 ──


    「高度三十キロメートル」


    アラームがまた変わった。


    「後部区画、二枚目のタイルが融解し始めています」と末永が言った。今度は声が変わっていた。抑えようとしていたが、抑えられていなかった。


    機体の中が静かになった。


    全員が修一を見ていた気がした。修一は前を向いたまま、操縦桿を握った。


    「数値を読んでください」と修一は言った。声は平静を保った。


    末永が数値を読んだ。


    修一は計算した。


    二枚目のタイルの融解率と、現在の高度と速度。速度がどれだけ落ちているか。あと何キロメートル降下すれば、熱環境が緩和されるか。


    計算の途中で——機体が、減速した。


    今までより大きく、速度が落ちた。


    「速度が下がりました」と坂本が言った。驚いたような声だった。


    修一は計算した。


    速度低下のペースが上がっていた。高度が下がったことで、大気密度が増して、抵抗が大きくなっていた。それが減速を加速させていた。


    熱環境が変わった。


    発熱量が減り始めた。


    「高度二十五キロメートル」と坂本が言った。


    「後部区画温度——」と末永が言った。「——低下し始めています」


    部屋の空気が変わった気がした。


    「突入フェーズを抜けました」と修一は言った。「姿勢制御フェーズに入ります」

    ── 十四 ──


    大気圏突入が終わっていた。


    速度は設計通りまで落ちていた。熱環境は緩和されていた。後部区画の温度センサーは、警告値を下回っていた。


    修一は操縦桿を握り直した。


    降下姿勢に入る。垂直着陸のための姿勢制御を開始する。


    「着地姿勢に移ります」と修一は言った。


    「了解」と全員が言った。


    光子エンジンを起動して、降下速度を制御する。高度を確認しながら、ゆっくりと降りていく。


    「高度五千メートル」


    「三千メートル」


    「一千メートル」


    「五百メートル」


    窓の外に、館山の景色が見えてきた。


    海が見えた。基地の建物が見えた。発射台が見えた。あそこに降りる。発射したのと同じ場所に、同じ状態で降りる。


    「三百メートル」


    「百メートル」


    「五十メートル」


    「二十メートル」


    「十メートル」


    「着地」


    衝撃はなかった。


    機体が、発射台の上に戻った。


    しばらく誰も声を出さなかった。


    修一は操縦桿を離した。


    手が、少し震えていた。

    ── 十五 ──


    「着地、成功しました」と修一は言った。管制室に向けて。


    田村の声が聞こえた。


    「了解——」と田村は言った。そこで声が止まった。しばらく間があった。「——着地確認しました」


    田村の声も、いつもと違っていた。


    「全員、状態を確認してください」と修一は言った。


    「私は問題ありません」と坂本が言った。


    「同じく」と末永が言った。


    「患者は安定しています」と田口が言った。「乗員全員、問題なし」


    「わかりました」と修一は言った。


    「帰還しました」


    机の上の計算書を見た。


    帰還まで残り何日、という欄に数字があった。今日の時点で、打上げから十一日と半日。14日制約まで、二日と半日の余裕があった。


    予測の範囲内だった。


    ギリギリだったが、予測の範囲内だった。

    ── 十六 ──



    タラップが接続されて、ハッチが開いた。


    外の空気が入ってきた。


    冬の館山の空気だった。冷たくて、潮の匂いが混じっていた。


    修一は目を閉じた。


    その匂いを、確かめるように吸い込んだ。


    地球の空気だった。


    外に出た。


    タラップを一段ずつ降りた。


    最後の一段を降りて、地面に足を踏み出した。


    地球の重力が、体全体に戻ってきた。月の六倍の重力。足が重かった。でも悪い重さではなかった。馴染んだ重さだった。


    地面に立った。


    発射台の前に、宮内部長が立っていた。田村が立っていた。若林が立っていた。中島が立っていた。福島が立っていた。チームの全員が、そこにいた。


    そして——倉持がいた。


    白衣のまま、館山まで来ていた。


    修一は倉持のところに歩いた。


    「計算通りだったか」と倉持が言った。


    「ギリギリだった」と修一は言った。


    「お前らしい」


    「倉持の計算が助かった」


    「あれは俺の計算じゃなくて、お前の計算だ。俺は確認しただけだ」


    「確認があったから、実行できた」と修一は言った。「ありがとう」


    倉持は何も言わなかった。


    でも少し、表情が変わった。


    修一にはそれがわかった。倉持は感情を表情に出さない人間だったが、長年一緒にいると、わずかな変化が読めるようになっていた。


    今の変化は——安心した、という感じだった。


    修一が帰ってきたことへの、安心。


    倉持が「帰ってこい」と言っていた。その言葉の重さを、今更ながら修一は感じた。計算できないことへの、感情的な重さがあった。


    「ありがとう」と修一はもう一度言った。計算の確認へのお礼ではなく、別の意味で。


    倉持は「うん」とだけ言った。


    チームの人間たちと握手して、田村と少し話して、宮内部長に報告の約束をして——修一は人の輪の中を動いた。


    そこで、足立を見た。


    少し離れた場所に立っていた。チームの他の面々と一緒に来ていたが、前には出ていなかった。修一と目が合うと、少し頷いた。それだけだった。


    修一は足立のところに歩いた。


    「帰りました」と修一は言った。


    「良かったです」と足立は言った。「計算通りでしたか」


    「ギリギリでしたが、計算通りでした」


    足立は少し笑った。修一はその笑顔を見て、帰還中に自分の頭に浮かんでいたものの名前がわかった気がした。


    「足立さん」と修一は言った。


    「はい」


    「一つ、言っていいですか」


    足立は少し首を傾げた。「どうぞ」


    「会いたかったです」と修一は言った。「宇宙にいる間、あなたのことを考えていました。最初はなぜかわからなかった。帰ってきて、今わかりました」


    足立は何も言わなかった。でも目が、少し変わった。


    「食事に行きませんか」と修一は言った。「帰還の報告が終わったら。二人で」


    少し間があった。


    「行きます」と足立は言った。


    修一は「ありがとうございます」と言った。


    計算では出てこない答えが、今日一つ出た。


    ── 十七 ──


    倉持が発射台の方向へ歩き始めていた。


    修一と足立は少し遅れてついていった。自然に、二人で並んで歩いていた。


    発射台の前に、三人で立った。


    機体がそこにあった。銀色の機体が、冬の午後の光を受けて輝いていた。後部区画に、タイルが融解した痕跡があった。でも機体は立っていた。飛んで、戻ってきた。


    しばらく誰も話さなかった。


    波の音がした。館山の海から来る音だった。


    「写真は持ってきたのか」と倉持が言った。


    「ああ、さっき親父にも見せた」と修一は言った。


    隣で足立が小さく頷いた。


    「これも計算通りか?」と倉持が呟く。


    その後、倉持は機体を見たまま何も言わなかった。でも修一には、倉持がわかっていることがわかった。「計算通り」の二重の意味を、全部わかっていて言っている。


    風が吹いた。


    海から来る風が、三人の背中を押した。


    「また計算が始まる」と修一は思った。


    でも今日だけは、それを声には出さなかった。




    (第九章 了)

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    東京・池袋で赤ちゃんの頭の形を専門とした鍼灸マッサージ治療院「べびきゅあ」を営みながら、論文や小説を書いています。実用書60冊のほか、歴史小説、楽曲構成小説、英語長編小説など。専門は計算解剖学と量子情報幾何学 治療院ホームページ https://www.akatyan.jp/

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