
境界線を歩く、三都旅 #3親鸞聖人のMBTIを考える
正午、諦めかけていた東本願寺へ到着。
どうしてここにそんなに来たかったのか。今回は三度目になるのだが、やはり過去の記憶によるものだと思う。本堂だと思っていた場所、実際には違うようなのだが、とにかく御影堂という誰にでも開かれている空間があり、そこに座すのが好きなのだ。
畳敷きの、広い空間。私が知る中で一番広く、落ち着く場所だ。私は一人でいるとけっこう人目が気になってしまうのだが、この場所では一人でどれだけでも座っていることができる気がする。他の誰も、静かに座している。本当は心を無にするべきなのかもしれないと思いながら、雑念の多い20分を過ごした。
例えば目の前、視線をあげると金の天女の左右に舞う欄間。誰の作ったものだろうか。その奥に座すお人は、仏様と言っていいのか。聖人様なのか。いや、そもそも同じ意味合いの言葉なのだろうか。空間を区切るように何本もそびえる柱は、近づくととても大きい。自然の一本木なのか。おそらくそうなのだろうが、どうやってここまで運び、立てて柱としたのか。誰がどうやって建てて、どうやってこんなに美しく維持しているのか。あの柱の上のほこりをどうやってはらうのか。
調べたらすぐに分かるかもしれないが、まあ、実際にはどうでもいいことであるとも思っている。いつかの時代の人が何らかの思惑で建てたこの荘厳な空間が、今も美しく丁寧に維持され、何の縁もなかった私を感動させてくれる。宗教の偉大さを感じる。それだけで十分だから。
例えば他にも、悟りを開くとはどういうことなのかも考えた。今の自分自身に思うことなのだが、生きることの理由が分からない。これって、とても贅沢だと思うのだ。そんなことを考える時間があるのだから。考えて立ち止まっても、すぐに飢えて死ぬことは別にない。少なくとも、今のところは、だが。
生きてきて、多分私って考えすぎちゃう人間なんだなって思う。悟りを開いたとされる方たちも、そうなのではないだろうか?だとしたら、INFJだったのではないか?なんて、不敬なんだか尊大なんだか、別になんてことのないことなのかよく分からないことを考えた20分だった。
あとは、願掛けでもしようかと思ったが、ここには神はいないのだから、祈るのは違うかとやめておいた。
もっともっといたかったが、私には鴨川でも同じようにただ座っている時間が必要であるので、あまり長居はしなかった。
外に出ると晴れ間がのぞいていた。肌寒かったはずが、少し暑い。
地下鉄の駅へ向かうべく、門を出たところにあった標語が印象的だった。
「人に迷惑をかけないことはできません。大切なのは、人に迷惑をかけている自覚です」
なるほど、人はちょうどいい時にちょうどいい言葉に出会うようにできているらしい。