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短編小説_『泡立ちのコウカイ』

     プシュッと開いたプルタブの音が響く。缶ビールから生まれた泡は、人々の人生を垣間見ながら消えていく。
     長野県のスキー場を訪れた幼馴染三人組の大学生は、雪山のコテージで起きた不可解な殺人事件に巻き込まれる。事件の裏では、川辺に暮らす小人が、巨人たちの世界へ繋がる不思議な缶ビールを手に入れ、異界の冒険劇を繰り広げていた。
     やがて、小人の冒険と大学生たちの悲劇は、一つの事件として交錯する。泡、小人、刑事、被害者、加害者ーーそれぞれの視点から、後悔を抱えながら生きる者たちの群像劇が描かれる。
     現実と異界を繋ぐ一本の缶ビールが、ダークファンタジーミステリーを織りなす。

    第一話 雪山山荘の後悔

    🫧

     プシュッ。

     心地良い音と共に、缶ビールが開けられた。
     プルタブの近く、プツプツと泡立つ中で僕は生まれる。

     シュワシュワと包まれながら、僕は一面に広がる白の世界を泳ぐ。

     口元から缶を離した癖毛の男が、気持ち良さそうに喉を潤す。

     今日は波が強い。どうやらこの缶ビールは、新幹線に揺られているようだった。

     あっぷあっぷとなりながら、僕は波に身を任せる。

     やがて、タンパク質とホップの結合が限界を迎えて、泡立ちはなくなっていく。

     黄金色の輝きに沈んでいきながら、僕は今生の終わりを悟る。

     この一瞬の出来事の連続の中を、僕は生きているんだ。

    👤

     私は自動販売機で飲み物を購入する。
     プルタブを開け、喉を潤した。

     これから向かうスキー場に想いを馳せていた。

     この数日間の準備は入念に整えていた。

     私はカバンを開けて、徐にノートに挟まった写真をジッと見つめる。

     ーー彼女にもう一度会える。

     そう思うだけで、私の高揚感は高まっていく気がした。

     髪の毛を弄りながら、もう一度喉を潤す。

     「ーースケ!」

     誰かに名前を呼ばれた気がした。

    🫧

     夜の喧騒の中。友人宅のテーブルの上で。休日の晩酌。或いは旅先でーー僕は世界を移動しながら生まれては、消えていく。

     僕はヒトが一口でも泡を飲むことで、天寿を全うすることができた。

     プスッ。

     おやーー?
     微睡の中、僕は今日も生まれる。

     しかし、何とも中途半端な開け口でーー。

     おお?
     おぉ、わーー!

     次の瞬間、天地がひっくり返る。

     回転する視界の中、吃驚した顔の女性が、缶ビールの手を滑らせるのが映る。

     ーーボチャン。

     初めて味わう冷たさだった。

     泡がわずかに開いた飲み口から、少しずつ漏れていく。

     まずい。このままでは天寿を全うすることができない。

     どうすればいいのだろうーー。

    🙎‍♀️

     私たちは、長野県のスキー場に来ていた。

     「わぁー!すごいね!」

     一面に広がる白の景色を見て、私は感嘆の声を漏らす。

     「ははっ。驚きすぎだよ。佳澄は本当にスキー初めてなんだね」

     受付から板を担いできた、賢介がそう言う。

     「良いよなぁ、賢介は毎年長野で滑ってたんだろー?」

     私の隣に立つ優太が、おどけた顔で賢介にそう返した。

     優太と賢介、3人は幼馴染だった。

     「まあまあ、こうして僕は皆んなの元に帰ってきた訳だし。今日はトコトン、スキーのイロハを教えてあげるよ」

     賢介はニコッと笑った。

    ポ

     一日中スキーを滑り、足がパンパンだった。

     今日はスキー場のコテージに泊まることになっていた。

     入浴を済ませて着替えた私は、一足先に飲み会の準備を進める。

     「えーっと買ったお酒はーー」

     ビニール袋から缶ビールとレモンサワーを取り出し、コテージのベランダで冷やすことにした。

     「うわっ!川近っ!」

     扉を開けると、目の前には薄暗い森が広がっており、下には川が流れていた。

     「すごい……涼しいなぁー」

     自然の景色を前にして、何となく風流な気持ちになる。

     優太たちは、まだ着替えているようだし、ここは一足先にーー

     「佳澄ぃ!」

     扉が急に開く。

     「ーーうわっ!びっくりした〜」

     私は優太に声をかけられ、慌てて振り返った拍子に、手を滑らせてしまう。

     「あ……!」

     冷えた缶ビールは、綺麗な放物線を描いて、夜のベランダから真っ逆さまに落ちていく。

     ーーボチャン。

    🪡

     大河のほとりで、ワタシは今日も戦う。

     襲いかかる紫色の大蛇の群れを払いのけ、ワタシは駆け抜ける。

     大蛇たちが住まうこの地には、武具や衣類など、ワタシの生活に関わる品がたくさん眠っていた。

     ーームムッ。今日は足場が悪い。

     突っ込んできた大蛇をバックステップをして躱すと、どうやら泥水に片足を取られてしまったようだった。

     まずいぞ。マントで身を守り、しばらく睨み合いが続く。

     かくなる上はーー。

     懐から取り出した自慢の針で牽制する。

     すると、どうしたことか、恐れをなした大蛇達は一斉に地面を潜り、身を隠した。

     「ーーわはは!ワタシの勝ちだなっ」

     静まり返った水辺で、辺りを警戒しながら奥へと進む。

     「今日のお宝はーーむ?何だあれは」

     何やら大河へと続く道から、巨大な筒が流れてくるではないか。

     ズズズンーー

     やがて、巨大な筒はワタシの目の前まで漂着する。

    ポ

     「何なのだ。これは」

     その円柱状の筒の前面に回り込むと、何やら白いシュワシュワとしたモノが溢れ出している。

     ワタシは慎重に近づく。
     恐る恐る針で突くと硬質な音が響く。

     「ムムッ。これは危険だ。未来からやってきた兵器だろうか」

     筒の周りには何やら神代の力で描かれたような、文字が刻まれている。

     しかし好奇心に駆られたワタシは、マントで身を庇いながら、不思議な形をした城門の杭に針を通した。

     テコの原理で、全身を思いっきり後ろに倒す。

     ググッ。グググッーー。

     「もう、ひと息だぁーー!」

     ブシャーーーッ!!!

     お、おわぁーー!

     ワタシは白い濁流に呑み込まれる。

    ‍🙎‍♀️

     「乾杯ーー!」

     プシュッと、プルタブが開く音と共に私たちは乾杯する。

     賢介は下戸のため、ソフトドリンクだった。

     「にしても、さっきさぁ」
     と優太が可笑しそうに切り出す。

     「何ーー?どうしたの?」
     賢介がそう聞き返す。

     私がベランダで先に缶ビールを開けようとして、川に落っことしたことを、面白おかしく語っている。

     あのあと川辺からしばらく歩き、下流まで降りていった辺りを一通り探しに回ったけれど、缶ビールは中々見つからなかった。

     浅瀬の泥の溜まった水溜りに蚯蚓がのたうち回っているのを見た私は、慌てて引き返した。

     「でもさっきの用事って結局なんだったの?」

     優太が、ベランダで私を呼んだ理由を問いただす。

     「あー、そうそう。皆んなで持ってきたお肉なんだけどさ、なんか腐ってたみたいで……」

     「え?そうなの。あれ買ったばかりだったんだけどなぁ」

     賢介が少し申し訳なさそうに言う。

     「ま、結局夕飯は外でカレー食べてきちゃったし、問題ないっしょ」

     優太が明るくそう返した。

     「ーーでもさぁ、佳澄が落っことした時のその顔と言ったらっ」

     優太は酔っぱらうと少し人に絡みやすくなるきらいがあった。

     「もう、蒸し返さないでよっ」

     皆んなで笑っている。

     飲み会は始まったばかりだった。

     ーーコンコンッ。扉がノックされる音が響く。

     誰かやってきたようだ。

    🪡

     ーーはっ!

     地面に寝そべっていたワタシの目に、木漏れ日が差し込み、起き上がる。

     何やら意識が朦朧としており、口の中が臭う感じがした。腹が妙に膨れているようだった。

     いつものほとりに立っている。目の前には大きな筒があった。

     どうやらこれは幻覚を見せる毒ガス兵器の類だったのかも知れぬ。

     まだ霞む視界の中、開かれた暗がりの入口を見やる。

     ーーしかし昨日見た光景はなんだったのか。

     見知らぬ広大な空間に、ワタシは立っていた。

     不自然なまでに平坦な巨木の上に、沢山の筒が並んでいる。

     どうやらワタシは横倒しになった一つの筒の中から転がり出てきたようだった。

     暗がりの中を、巨人たちの影が揺れ動いていた。

    ポ

     ワタシはその後も何度か、兵器の入口に足を踏み入れた。

     それはワタシに様々な景色を見せてくれた。

     光輝く巨人たちの街並み、腐敗臭の漂うゴミ山ーー以前見た不自然に平坦な巨木も至る所に存在した。

     うーむ。

     これはどうやら異界へと繋ぐ扉の入口らしい。或いはそういった類の兵器なのか。

     ワタシの活動領域は、大蛇たちの棲家から、圧倒的な広がりを見せた。

     中でも最初に訪れた広大な空間には、度々訪れていた。

     幾度目かの来訪。
     巨人たちの手によってか、当初とは違い、筒は美しい透明な板の近くに集っていた。

     近くから聞こえる川の音に耳を澄ます。
     この音を聞くと、大蛇たちとの戦いを思い、気を奮い立たせる気持ちになる。

     ーードスン。

     世界を震わすような音がする。

     突如として、巨人たちの戦いが目の前で繰り広げられていた。

     巨人が腕を振り下ろす。

     遠目から観察するワタシは風圧を感じ、マントで身を守る。

     しばらくその場でじっと耐え、マントの隙間から巨人たちを見やる。

     やがて、一柱の巨人が倒れ、片方は去っていった。

     気がつくと、ワタシの目の前には、腐敗した大きな肉塊が置かれていた。

    🙎‍♀️

     ーー二日目。

     私たちは、再びスキー場に繰り出した。程よく頭にアルコールが残っている。

     「じゃあ、僕は上級者コースを滑ってくるよ」

     賢介は、私たち二人に気を遣ってか、そう言って別れた。

     優太は賢介の方をじっと見つめて、何かを呟いた。
     ーー恰好つけやがって。そう聞こえた気がした。

     「俺たちは中級者コースに挑戦してみるかっ」

     うんーーと答えようとして、振り返った視線の先を見て立ち止まる。

     遠くにいる癖毛の男を、どこかで見たことがある気がした。

     「はやくー、リフトに向かうぞー」

     優太が呼んでいる。

     眩い程の銀世界が視界いっぱいに広がり、私は目を細める。

    🙎‍♂️

     私は昨日から、落ち着かない気持ちでいた。
     昨夜の飲み会で、佳澄が優太と付き合っていることを打ち明けられた。
     二人にしては、何気ない話だったのだろう。
     しかし、東京を離れ、幼い頃から佳澄を想っていた私からすると衝撃的だった。

     久しぶりに会った優太は、私より優れているようには思えなかった。

     もしーー。

     もし、長野に引っ越したのが、私ではなく、優太だったならば。

     「……僕は何を言っているんだ」
     自嘲気味に笑う。

     「じゃあ、僕は上級者コースを滑ってくるよ」

     昨夜と同様、居た堪れなくなった私は、彼らを置いて、ぎこちなく別れた。

     一人になりたかった。

    👤

     夜が更ける。
     時計は深夜二時を指していた。

     コテージの窓やテーブルには空き缶が散乱し、室内は静まり返っている。

     気がつくと、優太が床に転がり、頭から血を流している。

     私は手に持った冷凍肉を強く握り締めていた。

     どうして、こんなことになってしまったんだろう。

     どれくらいボーッとしていたのか。

     私は慌てて外へ飛び出す。

     ーーパリンッ。
     遠くで何かが割れる音がした気がした。

     本気ではなかった。ただ、そばで見ているだけのつもりだったのにーー。

    🙎‍♀️

     翌朝、私は大きく混乱していた。

     コテージの居間で倒れている優太を賢介が発見した。

     賢介は酷く狼狽しているようだった。

     騒ぎは広がり、間も無く警察たちが到着した。

     ーー凶器は見つからなかった。

    ポ

     「ーー杉本佳澄さん。君は昨夜、殺害された猪道優太さん、それから他の友人たちと、このコテージで飲み会をしていた。そうだね?」

     刑事を名乗る男性が、私たち一人ずつに取り調べを行った。

     「はい……」

     私は小さく答える。

     「猪道さんが殺害されたのは、推定時刻深夜二時頃。この時、君は何をしていたのかな?」

    🚨

     「君たちは二月八日にこのスキー場に来た。そうだね?」

     目の前に座った青年に、私は淡々と質問を続ける。

     「ええ、そうです。三人でレンタカーを借りて、東京から来ました」

     青年は少し狼狽しているようだったが、質問にはしっかりと受け答えをした。

     「ーーレンタカー?」

     先ほどの癖毛の男は、新幹線でやってきたという話ではなかったか。

    🪡

     ムム!この腐敗した肉塊を大蛇たちのもとへ持ち運べば、奴らを一蹴できるのでは?

     ワタシはこの大河一帯の支配権を巡り、版図を広げるために画策する。

     しかし、肉塊を異界の扉に通すには、サイズが大きすぎた。

     ワタシは一度ほとりに戻り、様々な世界より取り寄せた部品を持ってくる。

     手にした縄をくるくると回し、頭上にある透明な板目掛けて振り下ろす。

     括り付けた巨人の拳ほどの大きさの岩が、真っ直ぐに飛翔してーーバリンッ。

     砕け散った。

     ワタシは縄を一度引っ張り、固定されているのを確認する。

     「うむ」

     手にした方の縄を固定するために、周囲を見回す。

     ちょうど良く、近くに巨人が横たわっていた。

     ーープスッ。

     ワタシは自慢の針を構え、巨人の首筋に強く刺し込む。

     即席の梯子が出来上がり、砕けた透明の板までの道が開かれる。

     もう一つの縄は肉塊に括り付けた。

     ワタシは縄の梯子を一気に駆け上がる。

     持ち寄った杭を壁面に突き刺したワタシは、透明のガラスにぶら下がる岩に更に錘を括り付けていった。

     腐敗した肉塊が、杭を中心に滑車のような原理で徐々に浮き上がっていく。

     やがて透明の板に到達した肉塊はすり抜け、外界の大河に落ちて行った。

     ワタシは遥か下方に見える倒れ臥した巨人を見つめる。ワタシが駆け上がった衝撃で、針はぽろりと抜けてしまったようだった。

     ーー大蛇の群れが肉塊に殺到する音が聞こえる。

    🚨

     その後、コテージの内部を調べた。猪道優太と何者かが争った形跡はあれど、事件当日に居合わせた人物たちの証言に不審な点はなかった。

     ふと窓ガラスの小さな割れ目が視線を過ぎる。
     しかし、それよりも大きな違和感に私は囚われる。何かに抵抗するような姿勢で倒れる、猪道優太の遺体をもう一度確認する。

     「なんだこの首の傷は……」

    🫧

     プシュ。

     新幹線の中で揺れながら、僕は生まれる。

     ーーおや?

     やあ、君か。

     小さな人間が僕の内部からやってくる。

     どういう因果か。僕が天寿を全うできない危機にあった時、救ってくれたのはこの小人だった。

     僕は天寿を全うさせてくれたお礼に、小人に向けて異界渡りの旅のチケットを贈った。

     ーーどうしたのだろう。

     小人は缶ビールの飲み手をじっと見つめていた。

    第二話 其々の航海

    🪡

     夜半、ワタシは巨大な蔵書に囲まれている。
     月明かりを頼りに、ワタシはガラスの板の側で巨大な紙の束ーー小説なるものを地面に広げる。

     針に括り付けた糸の先の鉤を手繰り寄せ、頁を捲ると、未知の渓谷が開かれる。

     「ふむふむ。アリバイ、ガイシャ、トリックーー」
     ワタシは神代の文字ーーニホンゴを学んでいた。

     精緻に描かれた文字の上で、ワタシは恐ろしい神話に何度も震え上がる。
     「巨人たちよ。何という獰猛な生き物なのか……」

     月明りが雲に隠れるまで、ワタシは地面の文字列を読み耽っていた。

    ポ

     ……ム。

     気がつくと、遥か下方で巨人たちが活動を始めている。
     この場所はどうも、巨人たちが蔵書から知識を蓄えるための迷宮のようであった。

     このごろのワタシは、天井に組まれた巨木の裏陰で暮らしていた。

     ワタシは糸で編み込んだ寝床から降りて足をつき、周囲を見回す。

     ややっ。

     寝床付近に編み込んだワタシの格子状の防壁が、突破されていた。
     どうやら奴の仕業らしい。

     奴は微細な虫たちを踏み潰し、飛翔する黒き者たちをいやらしく罠で絡めとった。

     彼らを食すことで、ここら一帯の木組みの地に君臨した奴の正体は、ドス黒い身体をした八本足の怪異である。

     ワタシと同じく糸を自在に操り、度々縄張り争いを繰り広げていた。

     奴め……ワタシの領域に踏み込んだこと、後悔させてやるわーーッ!
     ワタシは来たる決戦に胸を滾らせる。

    🙎‍♂️

     社会人となり、再び東京に居を構えることとなった私は、小金井市の図書館に来ていた。
     幼い頃、母親に連れられてよく来たものだ。

     事件があってから、私は新聞記事を漁った。
     当時居合わせた刑事は、犯人を特定することは出来なかった。
     それ程大きな事件として取り上げられた訳ではないが、世間はこの未解決事件をどう捉えているのか。私は気になっていた。

     佳澄のこともある。彼女の精神的苦痛を想うと、私は居た堪れない気持ちだった。

     ふと、新聞を捲っていると、黒い影が視界を過ぎる。

     ーー蜘蛛だった。

     私は大袈裟に振り払う。

     蜘蛛は新聞紙が置かれたラックの側にあるテーブルに飛んだ。木目調の中でひっくり返っている。

     よく見ると、足が二本欠損していた。

     私は思わず、手にした新聞で叩こうとしてーー。

     何かに絡め取られた。

    🪡

     巨木の木組みの上ーー対峙した奴は、それなりの威容を誇っていた。黒い体躯に八本足。眼をギラつかせている。

     ーーハッ。

     ワタシは先制攻撃とばかりに、奴の前面に自慢の針を繰り出す。
     しかし奴の手数は多く、どれも弾かれてしまう。

     バックステップで一度後退し、様子を伺う。

     すると奴はワタシに向かって糸を吐き出してきた。
     同時にワタシは天井に向かって、鉤のついた縄を放り、突き刺した。

     ワタシの視界一杯に網が広がるが、ワタシは地面のない空中に向かって、横向きに跳ぶ。
     天井に突き刺さった鉤を起点に身体は宙に浮き、半円を描くように奴の背後に着地する。

     この行動は予想外だったようで、奴は反応できないでいた。

     ワタシは容赦なく、背後から針を突き出し、右側の後ろ脚を狩り獲る。

     奴は混乱しており、奇声を発する。

     脚を欠損し、バランスを崩した奴は巨木を滑り落ちるかのように思えた。しかし、驚くべきことに、奴は巨木を抱えるように逆さまの状態で底面にしがみ付いた。

     ぬ、悪あがきか!

     ワタシは奴の左脚を順に突き刺していく。巨木から奴の脚が離れていく。

     身体は徐々に下に落ちていくが、それでも奴の糸で何とか持ち堪えておりーーワタシは鉤のついた縄を再び放り、断ち切った。

     今度こそ奴は下界に落ちていく。

     巨木には一本の脚が張り付いたまま蠢いていた。

    ポ

     下界に落ちた怪異を追う。

     奴は足を二本失っていたが、ワタシはトドメを指す腹づもりであった。

     とはいえ下界は巨人たちが蠢き、危険である。

     ワタシは蔵書を溜め込んだ巨木のブロックの上に身を置き、様子を伺う。

     すると、一柱の巨人が、奴を振り払い大きな腕を振り下ろそうとしていた。

     ワタシは獲物を横取りされるのを恐れ、反射的に糸を繰り出してしまう。

     糸が絡まった紙状の筒は空中に飛散し、巨人は慌てている。

     地面に落ちた紙を掻き集めていた。
     周りの巨人たちも集まってくる。

     再度奴を見る。瀕死だった。
     いずれ、地に臥すだろう。

     ワタシは拠点に戻ろうと踵を返す。

     ーームッ。

     そういえば、あの巨人をどこかで見た気がしていた。

    🙎‍♂️

     一体何が起こったのか、私にはわからなかった。
     新聞紙で蜘蛛を潰そうとしたら、腕があらぬ方向に引っ張られそうになり、私は混乱する。

     「まさか、瀕死の蜘蛛が糸を飛ばした訳でもあるまいし……」

     結果的に、図書館の資料で虫を潰さなくて正解だったが、私は疑念を持ち続けた。

    ポ

     家に帰ると、デスクにノートを広げる。

     開かれた紙には一面に事件の詳細が書かれている。

     長野、東京のありとあらゆるニュース、新聞記事、交通履歴を一心不乱に洗っていた。

     ーーアイツに辿り着くために。

    ▼▼▼

     ーーコンコンッ。扉がノックされる音が響く。
     誰かやってきたらしい。

     佳澄と優太以外の来訪者を想定していなかった私は疑念に思いながらも、玄関に向かう。

     扉を開けると、一人の男が立っていた。

     「あ、突然すみません。私、丹東と申します」

     男は癖毛の髪を触りながら、話を続ける。

     「私、佳澄ちゃんと東京で同じ大学に通っているんですが、スキー場で偶然見かけたもので、つい足を運んでしまいました」

     不思議な話だった。

     佳澄を偶然見かけたということだが、わざわざコテージまで押し掛けるものだろうか。

     それとも相当仲の良い人物なのか……?

     「あの、それでご用件は?」

     「ーー佳澄ちゃん、中にいますか?」

     佳澄に声を掛けるべきか、私は逡巡する。

     「いえ、今は不在でして」

     私がそう言うと、丹東は一瞬目を鋭くして、去って行った。

    ▲▲▲

     ーー丹東涼介。

     奴は二日目の夜もコテージにやって来た。
     優太が扉を開け、誰にでもフランクに接する彼は、中に招き込んでしまったのだ。

     二日目の飲み会にいたのは、私、佳澄、優太、そして丹東涼介の四人だった。

     奴は危険な人物に違いない。
     そう思った私は、事件の後、彼について調べ始めた。

    🪡

     暗闇の中、ワタシは衣の中から這い出る。

     『湯田中駅行』、『大学』、ーー『丹東涼介』。

     ワタシは地面に描かれたそのニホンゴを視覚的に捉えた。
     『カンジ』というものだ。ワタシにはまだ全てを把握するのは難しかった。

     すこしずつーー少しずつ理解していく。

     巨人たちの日常は、戦いに明け暮れている。執拗なまでに詳細な潜入調査を行い、敵の特徴を捉える諜報活動を得意としており、緻密な手法で相手を討ち倒すこともある。
     どの歴史でも、『タンテイ』を務めるものが登場し、勝者を見極めるのだ。

     寝静まった巨人の鼾を聞きながら、ワタシはこの巨人を認識していた。

     ーーケンスケ。それがこの巨人の呼称である。

     巨人には、異界へと渡る筒を生み出す術技を持つ者と、持たない者の二種類存在した。

     持たぬ者は、白きものを歓迎していないのだろうか。

     ケンスケは生み出さない者であった。

     はて、ワタシはどこから帰ろうか。

    🙎‍♀️

     社会人となり、私は都内の営業職として働いていた。

     仕事は大変だけれども、順調だった。
     何かに一生懸命取り組むことで、大学時代に行った、スキー場のことを忘れられる気がしていた。

     帰り道。今日も仕事が遅くなってしまった。コンビニで夕飯を調達した私は帰路に就く。

     一本道をしばらく歩き、足を止める。
     電信柱の近くにある光源が、鈍く光っていた。

     ーーまただ。

     ここ最近、誰かにつけられている気がしていた。

     私はこれまでの人生でも、ストーカー被害を経験していた。
     大学時代、スキー場までついてきた彼は今思い出すと異常だった。
     当時はそれ以上に大きな事件に記憶を塗り潰され、それほど気にしていなかった。

     もしかすると、まだ彼が?

     私は勇気を出して振り返るが、誰も見当たらない。

     気にしすぎなのだろうか。
     私は足早に自宅に向かった。

    🪡

     フム……。

     ワタシは罪の意識に苛まれていた。
     巨人たちにとって、どの武器で相手を倒したか、というのは重要な情報らしい。

     ワタシはそれを、自身の版図を広げるという目的で、大蛇たちをやっつける兵器として利用した。

     結果として、彼らの戦闘の勝者をワタシは捻じ曲げてしまったのかもしれない。

     ケンスケの捜査記録は詳細だった。

     どうやら、このタントウリョウスケという巨人が、ワタシの棲家がある竜王スキー場に足を踏み入れたのは間違えないようだ。
     彼はワタシと同様、シンカンセンと呼ばれる即座に移動する旅のチケットを保有していたらしい。

     しかしワタシは当時、巨人の容姿を識別することはできなかった。

     大戦に勝利したのは、ケンスケなのか、リョウスケなのか……。

     どうしたことか、今回は『タンテイ』を務める者が現れる気配がなかった。

     ワタシはしばらくケンスケに近づき、捜査を進めることにした。

    🙎‍♂️

     私は佳澄と都内のカフェに来ていた。

     「久しぶり、賢介」

     土曜日で人は混んでいたが、店内は落ち着いて雰囲気だった。

     「久しぶり佳澄。会うのは学生時代以来になるかな、元気にしているかい?」

     そう言うと、当時のことを思い出しているのか、佳澄は少し翳りのある顔を覗かせる。

     「そうだね……。実は今日、相談があって来てもらったの」

     ーー相談。事件のことか。それともまた別の何かだろうか。

     「実はね。私、最近誰かにつけられているの。ううん、最近だけじゃない。学生の時にも、そんなことがあって」

     ストーカー被害の相談であった。
     どんな相談にせよ、佳澄に頼られていることを嬉しく感じる。

     「もしかして、それって丹東涼介のことかい?」

     佳澄の目が驚きに見開かれる。
     その反応が痛快で、少し暗い悦びを感じる。

     「ーー知っていたの?」

     知っているとも。まさに私がずっと夢中になって調べている人物だった。

     「ああ、丹東は危険な人物なんだ。思い出したく無いだろうが、僕は当時の事件のことも調べていてね。彼が関わっていると思っているよ」

     再び佳澄は驚きを示し、恐怖の色が浮かんでいた。

     「でも、安心してほしい。僕が絶対に彼を追い詰めるから」

    ポ

     帰り道。人混みの中、JR中央線の駅のホームを進む。
     携帯電話の充電が切れかけており、家路を急ぐ。

     ふと前方に、特徴的な癖毛を見た気がした。

     懐から携帯を取り出し、携帯のカメラ機能を前に翳し、ズームアップする。

     ーー奴だ。奴に違いない。

     佳澄と会っていた私をつけ回す魂胆だろうか。
     私は急いで改札を抜けて、奴を追う。

     日は傾いており、見失わないように慎重に進んでいたが、路地を曲がったところで、奴がいなくなる。

     プツーー。携帯の充電が切れーー

     私の視界もブラックアウトした。

    第三話 事件の公開

    🚨

     二年前の竜王スキー場で起こった奇妙な事件。
     担当を外れた私は、未だあの雪の中に取り残されている気分だった。

     当時あのコテージには、旅行に来ていた大学生三人組、それから突然来訪した、杉本佳澄と同じ大学通っていた丹東涼介。

     その後それぞれの素性を調べ、一番目立ったのは丹東だった。大学時代から杉本佳澄にストーカー行為を繰り返し、学校内では有名な話だったようだ。

     五十嵐賢介。彼は一見怪しい点はなかった。しかし事件のあと、東京に越してきてからの彼の動向は私も把握していた。

     彼の事件への執拗さは少し異常だった。
     丹東涼介を怪しみ、つけ回しているようで、まるで彼こそがストーカーのような有様だ。一度街で見かけた彼の顔つきは、どこか茫洋としていた。
     まるで現実を直視できていないかのようなーー。

     被害者の猪道優太は杉本佳澄と交際をしていた。嫉妬に駆られての衝動的な犯行。しかし、それだけでは犯行の証拠とならない。

     何度も繰り返した情報整理を改めて行う。
     状況の証言も揃っていた。

     私は何を見落としているのだろうかーー。

    🙎‍♂️

     ーー意識が戻ると、私の視界は暗闇に囚われていた。椅子に座らされた状態で目隠しをされているようだ。

     辺りは静かで、ジメジメとした湿気を感じる。

     両手は椅子の背面で縄で縛らている。

     「なんだこれは……!おい、お前なんだろう!」

     声が反響する。それなりに広い空間なのかもしれない。

     コツコツと足音が聞こえる。

     「ーー五十嵐賢介」

     声が聞こえる。奴だ。丹東涼介だった。

     「君の罪は三つある」

     罪だと?何を言っているんだコイツは。

     「一つ、佳澄さんに近づいたこと。二つ、あの日私をコテージに入れなかったこと。三つーー君が猪道優太を殺したことだ」

     「何を言っている。私が優太を殺した?逆だろうっ!ふざけやがって」

     「ーー違うっ!」

     奴は叫びながら続ける。

     「彼女は猪道優太を殺されたことで、心を病んでしまった。君らがスキー場に来た初日から私をコテージに入れててくれれば、彼女は私に心を開いていたはずた。そしたら私は彼女に警告できたんだ、君が危険な人物だと!加えて君は人を殺害したその手で、その手で彼女に差し伸べるように近づいたっ!それは私の役目なのにっ!」

     狂っていた。何を言っているんだ。やはりこいつが佳澄のストーカーで間違えなさそうだった。

     しかし、この状況はまずい。謂れのない罪で、下手に丹東が暴れ出すと、今の私にはどうすることもできなかった。

     下手に刺激をしないように、何とかここから脱出しなければ。

     プスッーー。何か、針が刺さるような音が聞こえた。

     「ーーそれから私のことも散々つけ回してくれたようだったなっ。このストーカーめ!」

     丹東はまだ喚き散らかしている。

     縛られている腕に違和感を覚える。
     どうしたことか、縄が緩んでいるようだった。

     「ーー聞いているのか、このっ!」

     グサッーー。

     脳が白み始める。太腿を刃物で刺された。

     「ぐ、ああああああーーーッ!!!」

     私は絶叫する。痛い痛い痛い痛い痛い。

     なんだ。何でーー。こんなことが、こんなことが許されるか。
     頭の中を掻き回される程の痛みと混乱が私を襲っている。

     私は丹東の腕を掴む。

     目隠しが外れる。

     丹東の驚いた顔。

     太腿から血が吹き出す。

     私は奴が驚いている隙にナイフを奪い取ること成功し、牽制するように振り回す。

     腕を前に出して防ごうとした丹東の右の手のひらに線が入る。

     「ま、待て」

     余程痛かったのか、丹東は手を抑えて、怯えた顔を見せる。

     逃げるように足を縺れさせて転び、まるで、殺人犯を見るかのような目で私を見ている。

     私は椅子から転び、丹東に乗り掛かるようにして、ナイフを後頭部に振り下ろそうとしてーー。

    ▼▼▼

     「おい、何でアイツをコテージに入れたんだ」
     私は丹東涼介を中に引き入れた優太を詰め寄る。

     「ん?だって佳澄の知り合いなんだろ?かわいそーじゃん」
     危機感が薄過ぎる。奴はどう考えてもおかしな人物だった。

     「賢介も無理矢理帰らすなんて酷いよな」

     暗闇の中、酔った優太が絡んでくる。

     「昨日もコテージに入れなかったんだろ?まさか佳澄を守っているつもりか?」

     ーー守っているつもり。私は頭に血が登るのを感じる。

     「賢介、もしかしてお前、佳澄のことーー」

     怒りに我を忘れる私。

     私は側に置いてある何かを掴み取る。

     優太は豹変した私を怖れるような目で見てーー。

    ▲▲▲

     「殴ったんだ……私が……」

     私はあの時、逃げ惑う優太を背後から殴っていた。

     ーー茫然自失となる。

     視界の端で、丹東涼介が喚きながら逃げて行く。

     私か……犯人は、私だったのかーー。

    第四話 小人と泡の公海

    🪡

     ワタシは版図を拡大する。

     長野県竜王スキー場の大河。小金井市の大図書迷宮ーー。これからもどんどん世界は広がっていく。

     白きものが齎した旅のチケットにより、ワタシの世界は豊かになった。

     その後、リョウスケは一目散に逃げていき、ケンスケは勝利した。

     両者の大戦を見守ったワタシは、やはり巨人たちは獰猛であると実感した。

     しかし、どうやらワタシの思い違いもあったようだ。『タンテイ』とは勝者を見極める者ではあるが、どうやら巨人たちの勝者とはワタシの世界とは意味合いが異なるようだった。

     彼らは生き延びるために戦いを繰り返すのではなかった。
     何かを勝ち取るため、仕方なく戦いに挑むのだ。

     そして、何故か彼らは勝利したことをひけらかすことはしない。

     うーむ。ワタシは何かを間違えてしまったのだろうか。巨人たちを理解するには、分からないことがまだまだあるようだった。

     それもそのはず。彼らの世界の版図は恐ろしく広大である。彼らの歴史は長い。

     ワタシには巨人を討ち倒す程の大きな力は持っていない。しかし、ケンスケと同じようにこれからも勝利を掴み、強くなっていくのだ。

     ーーワタシが後悔の念を抱えるのは、もう少し先の出来事であった。

    🚨

     私は例のコテージに再びやってきていた。
     事件があってから、この一棟は使われなくなっており、管理者に特別に入れてもらう。

     現場は当時のままで、二年前に倣うように私は検証を進める。

     床やテーブルに不審な点は無い。
     当時は空き缶が散乱している印象だったが、流石に今は片付けられている。

     窓の外を見ると川が流れている。
     ふと、左下に目をやると小さな穴が空いている。

     私は手帳を開く。そういえば、当時もこれが気にかかっていた。

     スキー場にやってきた丹東涼介。彼は一日目、五十嵐賢介に断られ、室内に入れてもらえなかったと言う。
     彼が何らかの道具を用いて穴を開け、窓からの侵入を試みたのだろうか。

     彼は、新幹線で先回りして一日早くこの地にやって来ていた。ある種周到なストーカーである彼ならば、そこまでやってのける気もした。

     私は検証を続ける。

     やはり何よりも猪道優太の遺体。
     背後からの何者かによる殴打によって昏倒し、致命症を負ったと見られるが、出血量はそれほどではないと考えていた。

    ポ

     事件は思わぬ展開を迎えた。

     東京に戻り数日。目の前にいる五十嵐賢介が自首をしてきたのだ。男女の縺れによる衝動的な犯行。彼はショックのあまり、当時の記憶が混濁していたようだった。

     当時、発見できなかった凶器は、その日使われなかった冷凍肉。溶けて肉だけが残ったことで、当時の捜査では凶器として判別されなかったのだろう。私はそんな肉を見かけた記憶はなかったが、物証の記録はこれから精査する予定だ。

     ーーしかし、あのとき見た猪道優太の首の傷。妙に掻きむしられたような跡が、私はどうしても気になっていた。
     その違和感の正体ーー本当の死因は、首の小さな刺し傷による頸動脈損傷……失血死だ。
     だが、衝動的な犯行であったはずの五十嵐賢介が、なぜわざわざ細い針を持ち出してまで、トドメをさしたのか。

     その違和感だけが、私の心に残り続けた。

    🙎‍♀️

     仕事が終わった。

     私は暗い足取りで、コンビニを出る。
     手下げたビニール袋には、お弁当と缶ビールが入っていた。

     優太は人と飲むのが好きだったなぁ。

     そんなことを思う。

     何気ない瞬間に、優太のこと、賢介のこと、そして事件のことを思い出す。

     スキーで転んでいる私。
     笑いながら手を差し伸べる優太。
     一生懸命に教えてくれる賢介。

     あの瞬間に戻れるならば、どんなに良いだろう。

     現実は悲惨だった。

     受け止めるのに時間がかかった。

     いや、まだ受け止めることもできていないのかもしれない。

     私は賢介にまだ会えていない。
     面会に行こうとするけれど、立ち上がろうとすると、どこか心が竦んでしまう。

     夜風にあたりながら、自宅に到着する。

     着替えるのもままならないまま、リビングのテーブルで、ビニール袋を広げる。

     缶ビールを手に持ち、プルタブに手をかけた。

    🫧

     ーープシュッ。

     僕は生まれる。飲み手は、どこか暗い顔をした女性だった。

     しばらくじっとしていた彼女は、ゆっくりとした動作で、僕を持ち上げる。

     しかし、口には含まなかった。

     どこか茫洋としており、何かを忘れてしまうことを踏みとどまっているような、そんな顔をしていた。

     ーーこのままでは天寿を全うすることができない!

     おや。こんなことが前にもあった。
     僕の集合意識体が記憶を遡る。

     ーーなるほど。これはあの時の女性か。

     女性は目を強く瞑り、再び開く。

     おわっ。ぐわんぐわんと世界が揺れる。
     僕は彼女の口の中に含まれた。

     「ーーおいしい」

     もう一度見た彼女の表情は、先ほどよりも弛緩していた。真っ直ぐな目をしている。

     ありがとう。僕は天寿を全うした。

    🚨

     私は署内で、小さな針を見つめる。

     これが、猪道優太を致命傷に至らしめた本当の凶器だった。

     五十嵐賢介は、当時のことを思い出すと苦しみ、針のことは覚えていなかった。

     遺体の写真、首筋を改めて見る。

     どうにも違和感がある。
     二人の人間が言い争いになり、逃げる被害者を背後から殴ってしまう。ーーそれはわかる。

     しかし、この針だけが冷静だった。

     理解はできる。犯人は現れた。証拠もある。

     なのに私は、どうしても真実が見えている気がしなかった。

    🙎‍♀️

     一枚のガラスを挟んで、賢介と対面する。

     賢介の顔は茫洋としていた。

     お互いに沈黙している。何を話せば良いのか、わからなかった。

     「ーー来てくれるとは、思わなかったよ」

     賢介が小さく言葉を発する。

     「……うん」

     何かを言わなければならなかった。

     「まさかこんなことが起こるなんてーーいや、そうじゃない。僕は事実から逃げ続けていたんだ。現実を都合の良い解釈で捻じ曲げた」

     賢介が辛そうに俯いている。

     「そうだね。賢介はしてはいけないことをしたと思う」

     私は一拍言葉を置いた。

     「私も何度も思った。あのときの私たちに戻れたらって。でもね後には戻れない」

     賢介が私を見ている。悔いている顔だった。

     「だからね。私はここに来たの」

     賢介が自首を決意したように、私も現実と向きわないといけないって。

     暗い後悔を抱えながらも、私たちは現実という海に向かい舵を取り、漕ぎ進めなければならない。

     私は賢介の目を見つめた。

    🩸

     夜中、朦朧とした意識で、床に転がっている。

     賢介に殴られた。まさか殴るなんて思っても見なかった。幼い頃から遊んできた彼を想う。

     本当に佳澄が好きだったのか。少し僕もからかい過ぎた。あとで仲直りをーー。

     ゆっくりとした動作で、後頭部を触ると、ドロリとした血が流れている。

     恐ろしくなった僕は助けを呼ぼうとするが、喉が絡んで声にならない。

     ーープスッ。

     首に違和感を覚える。
     針のような何かが頸動脈に侵食していく。

     「おい、やめ、ろ……」

     針は奥深くまで刺さっており、抜けて血が漏れることを恐れ、少しも動けなかった。

     やがて、トントントンと針が何かに揺らされる。素早く振動しながら、ゆっくりと抜けていく。

     それを抜かれると、僕は致命的なーー

     血が静かに弾け飛び、僕の器から生命が抜かれていく。

     ーー佳澄。

     もう何も感じることはないはずの僕は、生死の狭間で僅かに瞳孔を開く。

     顔の周りを彷徨う小さな精霊を見た気がした。

     暗い絶望に沈んでいきながら、僕は今生の終わりを悟る。

     母と自転車に乗る練習をして転ぶ僕。
     賢介と初めて喧嘩して泣いている僕。
     佳澄と出会い、いつも笑っている僕。

     この一瞬の出来事の連続の中を、僕は生きていたんだ。

     
     

    蝸牛

     
     
    思想や哲学といった抽象テーマで短編小説を書いています。20代社会人の初心者です。よろしくお願いします。

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