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小説「彼氏がお侍なんですが、私の愛を「忠誠」と呼んで過保護に甘やかしてきます。これって恋愛なんですか?」

    【ご案内】本作は約22,000文字(読了目安:約44分)の連作短編作品です。

    ​お時間に余裕のある時にゆっくりとお楽しみいただければ幸いです。

    もし「あらすじを読んで惹かれた」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひ「スキ」で応援をお願いします!


    【あらすじ】
    ​残業続きで疲れ気味の主人公の狭いワンルームに居候するのは、金髪碧眼の南欧青年・ルカ。彼の日本語は『深夜の時代劇』で構成された、ヘンテコな武士言葉だった!ある雨の夜、ルカが泥だらけの子猫「流浪の剣豪」を拾ってきたことから、奇妙で温かい同居生活が始まる。
    ​【登場人物】
    主人公:冷静なツッコミ役。仕事に疲れているが、ルカの無償の愛と子猫にタジタジ&癒やされ中。
    ルカ:南欧出身のイケメン。己を武士と思い込む勘違い侍だが、愛情深く家事万能。
    むさし:ルカが拾った茶トラの子猫。剣豪「武蔵」と命名されたが、ただの超甘えん坊。特技は頭突き。
    ​お侍が巻き起こす勘違いと優しさにクスッと笑える、ほのぼの日常ラブコメディ!


    【1話】お侍、オムライスを焼く。


    ​太陽に向かって前のめりに咲く向日葵のような私の恋人は、朝の光の中で真剣に座布団と向き合っている。

    ​「愛しの君よ。この四角い布の、どちらが『表』でござるか?」

    ​彼の澄んだサファイアの瞳には、まるでマシュマロで出来た爆弾の起爆装置を解除するような、悲壮な緊迫感が宿っていた。

    彼の名はルカ。私の狭いワンルームに転がり込んで三ヶ月になる

    南欧出身の陽気な青年。ただし、彼の日本語の主な供給源は「夏目漱石の英訳版」と「深夜の時代劇」である。

    ​「どっちでも座れればいいのよ。ただのクッションなんだから」

    私が呆れながらマグカップを置くと、ルカは大げさに肩をすくめた。

    「おお、なんという冒涜。おもてなしの精神は、細部の礼儀にこそ宿ると『武士道』にも……」

    「はいはい、武士は黙ってトーストを食べる」

    焼きたての食パンを口に押し込んでやると、彼は目を丸くし、やがてふにゃりと破顔した。サクッ、と小気味よい音が部屋に響く。バターの甘い香りと、彼の金髪に反射する陽だまり。

    ​文化の違い、という便利な言葉で片付けるには、ルカとの生活はあまりにも奇想天外だ。

    一緒に近所のスーパーに行けば、納豆のパックを両手で包み込み、「これは……自ら発熱し、粘り強い意志を持った未知の生命体では?」と神妙な顔で囁く。

    お風呂のお湯を抜こうとすれば、「まだ温かいのに! この湯船には小さな水の精霊が宿っているのに!」と全力で排水溝を塞ごうとする。

    彼はいつでも、私の当たり前を、未知の惑星の宝物のように扱う。

    ​ある夜。私が度重なる残業で、泥のように疲れ果てて帰宅した時のこと。

    暗い部屋の明かりをつけると、ローテーブルの上には、黄色い何かが鎮座していた。いびつな形をしたオムライス。そして、その傍らに正座で待機しているルカ。慣れない姿勢のせいで膝が悲鳴を上げているのか、子鹿のように小刻みに震えている。

    ​「……ルカ、足、崩していいよ。ていうか、作ってくれたの?」

    「否」

    彼はキリッとした顔で首を振り、オムライスに向かって深々と頭を下げた。

    「我が愛する姫君の、血と汗と涙の結晶。いざ、尋常に頂戴つかまつる!」

    「それ、食べる前のセリフだし。私が食べるんだけど」

    ​ため息をつきながら座り込むと、オムライスの表面にケチャップで歪な文字が書かれていることに気がついた。

    ​『アイ・シテ・マ・ス』

    ​途中の点は、いったい何なのだろう。暗号?

    私が笑いをこらえきれずに吹き出すと、ルカは不思議そうに首を傾げた。そして、スプーンを鉛筆のようなおぼつかない手つきで握り、私の口元へと運んでくる。

    ​「……Buono?(美味しい?)」

    ​その一言だけは、甘ったるい母国語だった。

    窓の外、遠くで国道を走るトラックの音がする。

    彼の高い鼻の頭には、赤いケチャップがぽつんと、まるで小さな非常ボタンのようにくっついていた。

    ​私はただ、その赤いボタンを指先でそっと押す。

    彼はまた不思議そうに首を傾げた。


    【2話】お侍、神社に行く。


    朱塗りの鳥居を見上げるルカの背中は、まるで主君の帰還を待つ忠犬のごとく真っ直ぐに伸びきっている。

    木漏れ日が彼のブロンドを斑模様に染める中、彼は深く、深呼吸を一つ。

    ​「いざ、神々の坐す聖域へ。拙者、粗相のないよう努める所存」

    ​普段のラフなTシャツ姿に、不釣り合いなほど悲壮な決意をにじませて、彼は深々と一礼した。角度はきっちり九十度。すれ違う参拝客たちが、何事かと振り返っていく。

    ​週末の神社。玉砂利を踏む小気味よい音が、静かな境内に響き渡る。

    私が少し前を歩き、彼がその足跡を正確にトレースするように続く。文化の違いを愛するルカにとって、ここは巨大なテーマパークよりも刺激的なワンダーランドなのだ。

    ​手水舎(ちょうずや)の前で、彼の足がピタリと止まる。

    青銅の龍の口から、絶え間なく澄んだ水が流れ落ちている。ルカのサファイアの瞳が、限界まで見開かれた。

    ​「おお……見よ、あの猛き水竜を。これはもしや、伝説に聞く『不老不死の霊薬』では?」

    「違うよ。ただの手を洗うお水。飲むとお腹を壊す霊薬ね」

    「なんというトラップ! 神域とはかくも過酷なサバイバル……」

    ​柄杓(ひしゃく)を両手で恭しく受け取ると、彼は刀の血を振るうような鋭い動作で水をすくい、私の見よう見まねで左手、右手と清めていく。口を漱ぐ手順では、水を含んだままなぜか目を閉じ、微動だにしない。「クチュクチュ」という音が、厳かな空気にシュールに溶け込んでいく。

    ​拝殿へ進むと、ルカはポケットから大事そうに何かを取り出した。

    ピカピカに磨き上げられた、穴の開いた五十円玉。彼曰く「菊の花の紋章が刻まれた、最も高貴なる硬貨」。

    賽銭箱に向かって、彼はそれをふわりと放り投げた。チャリン、という控えめな音。

    ​そして、鈴の緒を握りしめる。

    ​「神よ、我らの声をお聞き届けたまえ!」

    ​ガラガラガラガラッ!

    渾身の力を込めたその一振りは、境内の鳩を一斉に飛び立たせるほどの爆音を生み出した。隣で祈っていたおばあちゃんが、ビクッと肩を震わせる。私は慌ててルカの背中をつついた。

    ​二礼。二拍手。

    パンッ、パンッ! と、空気を切り裂くような見事な柏手。

    そして、一礼。

    ​目を閉じ、長い睫毛を伏せた横顔は、彫刻のように美しい。いったい、彼はどんな壮大な願い事を神様にぶつけているのだろう。世界平和か、それとも武士道精神の復興か。

    ​「何をお願いしたの?」

    ​帰り道、おみくじの紙片を握りしめながら尋ねると、彼はふわりと笑った。

    「秘密でござる。しかし……神の思し召しは、しかと受け取った」

    ​彼が広げたおみくじには、『大吉』の文字が誇らしげに躍っている。

    ​「見よ。『待ち人、来る』『争い事、勝つ』。すなわち、我が元へ刺客が放たれるが、見事これを返り討ちにするという神の啓示!」

    「いや、待ち人は恋人とか運命の人のことで、刺客じゃないから」

    ​初夏の風が吹き抜け、神社の森がざわわと揺れる。

    ルカが結び所に結ぼうとして、不器用な指先で紙を破りそうになっている。その横顔の、なんと真剣で、愛おしいことか。

    ​私はただ、彼の手元から白い紙片をそっと受け取る。

    ​「……手伝おうか、お侍さん」

    「かたじけない、姫君」

    ​五十円玉の願い事が何だったのか、私はもう聞かない。

    風に揺れる無数のおみくじの中に、彼の不器用な祈りも、静かに混ざり合っていく。

    ​

    【3話】お侍、命を拾う。


    ​玄関のドアが勢いよく開き、びしょ濡れの大型犬……ではなく、我が家の居候である金髪の南欧人が転がり込んできた。

    ​「姫君! 一大事でござる!」

    ​水滴を滴らせたルカは、大切そうに抱えていた自分の上着を、まるで国宝でも披露するかのようにそっと開いた。

    中から現れたのは、泥まみれになって震える、手のひらサイズの茶トラの子猫だった。

    ​「……ルカ。その、かろうじて息をしている泥団子みたいなのは、なに?」

    「道端で雨に打たれ、天を仰いで鳴いておったのだ! この小さき体から発せられる覇気、そして気高き瞳。まさに乱世を生き抜く剣豪の如し。ゆえに拙者、この御仁を『武蔵(むさし)』と命名つかまつった!」

    「むさし」

    ​私が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえると、ルカは「いかがかな?」と誇らしげに胸を張った。

    ​「いかがかな、じゃないよ。絶対にダメ。飼えないよ」

    「な、なんと……! このようないたいけな浪人を、再び冷たい雨の降る修羅道へ戻せと仰るか!」

    「そういうことじゃないの。生き物を飼うって、ぬいぐるみを買ってくるのとは訳が違うんだよ」

    ​私はバスタオルをルカの頭にバサッと被せながら、できるだけ真剣な声で告げた。

    「毎日ご飯をあげて、トイレの掃除をして、病気になったら病院に連れて行く。お金も時間もかかる。途中で『やっぱり無理』は通用しない。命を預かるって、そういう重いことなんだよ。……今の私たちに、その責任が持てる?」

    ​私が正論をぶつけると、ルカは濡れた髪をタオルで拭くのも忘れ、ハッとしたように目を丸くした。そして、武蔵(仮)を抱き抱えたまま、フローリングに正座した。

    ​「……命の重さ。真にその通りでござる。姫君の仰ること、五臓六腑に染み渡りました」

    ​ほっ、と私が胸を撫で下ろし、里親探しの段取りを考えようとした次の瞬間だった。

    ​「しかし姫よ」

    ルカの澄んだサファイアの瞳が、真っ直ぐに私を射抜いた。

    ​「見知らぬ異国の地で途方に暮れ、雨の路上で野垂れ死にそうになっていた流浪の民を拾い上げ、温かい寝床と美味しいオムライスを与えてくださったのは、どこのどなたでありましょうか」

    「……え?」

    「拙者という名の厄介な『命』を拾い、責任を持って飼い慣らしている姫君の器の大きさ、マリア様もかくやと日々感服しておりました」

    「ちょっと、ルカ……」

    「なればこそ!」

    ​ルカは床に額がつくほどの勢いで平伏した。腕の中の子猫が「ミャア」と気の抜けた声を上げる。

    ​「この小さな浪人にも、我が藩(ワンルーム)の庇護を与えてはいただけないだろうか! 世話は拙者が、誠心誠意、このルカの命に代えても必ずや!」

    ​ずるい。

    自分を拾った時のこと(正確には、公園で道に迷っていた彼に声をかけたら、なし崩し的に住み着かれただけなのだが)を引き合いに出されたら、何も言えなくなってしまう。それに、「命に代えても」だなんて、オムライスのケチャップ並みに大げさだ。

    ​私は深いため息を吐き、マグカップをテーブルに置いた。

    ​「……命には代えなくていいから、まずはその子を温かいお湯で洗ってあげて。それから、明日の朝イチで猫用のトイレとご飯、買ってきてもらうからね」

    ​「おおお! ありがたき幸せ! 姫君の慈悲深さ、後世の歴史書に必ずや……!」

    「はいはい、お侍は黙ってお風呂場へ行く」

    ​感極まって泣き出しそうなルカの背中と、彼に抱かれた武蔵が、揃って「ニャア」と返事をしたような気がした。


    【4話】お侍、城下町へ、と、姫の乱心。


    ​「では姫君、拙者、これより城下町(近くのホームセンター)へ、武蔵殿の御用聞き(猫用品の買い物)に参ってまいる!」

    ​ルカは、昨日私が手渡した詳細な買い物リストを、あたかも将軍からの密書のように恭しく懐にしまい、大げさな敬礼を残して家を出た。ドアが閉まると、途端にワンルームは静寂に包まれる。

    ​「……さて。むさし?」

    ​私は、リビングの隅に置かれた、借り物のバスタオルに包まれた小さな塊に声をかけた。

    昨日、ルカが泥だらけで連れてきた「武蔵(仮)」は、お風呂に入って見違えるほど綺麗になり、今は安心しきった顔で眠っている。

    ​私はそっと、武蔵の隣に這いつくばった。

    ​(……可愛い。)

    ​昨日は「飼えない!」と強く言った手前、冷静を装っていたけれど、この小さくて温かい、無防備な寝姿は、反則だ。ピンク色の小さな肉球が、タオルの端から覗いている。

    ​「……んんわぁー、かわいい……」

    ​気付けば、声が勝手に溶けていた。

    ​「なにこの肉球……ちっちゃい。……しっぽ、短っ。はぁぁ、尊い……」

    ​普段の私なら絶対に口にしないような単語が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。私は床に這いつくばったまま、武蔵の顔の数センチ横まで自分の顔を近づけた。

    ​「むさし、うちに来てよかったねぇ……。ちょっとだけ、匂い嗅いでもいい……?」

    ​理性は完全に家出していた。私は、ふわふわの小さな背中にそーっと自分の鼻先を押し当てて、深く息を吸い込んだ。

    ​「ん〜……日向の匂い……」

    ​その時だった。

    ​「ただいま戻り申した! 武蔵殿のための、新たな城(猫タワー)も……」

    ​ガシャーン。

    ドササッ。

    ​玄関のドアが勢いよく開き、威勢のいいルカの声と共に、大量の荷物が床に散らばる音がした。

    ​私は、床に這いつくばって子猫に鼻を押し当て、だらしない笑顔を浮かべた体勢のまま、フリーズした。首だけをドアの方に向ける。

    ​そこには、猫タワーの大きな箱を抱えたまま、目と口を限界まで見開いたルカが、石像のように固まっていた。

    ​「ひ……姫……?」

    ​ルカは、散らばった猫砂を踏みしめながら、一歩、私に近づく。その瞳は、何か重大な異変を目の当たりにしたかのように、真剣で、そして少し怯えていた。

    ​「拙者……幻を見ておるのか? あの、凛々しく、冷静沈着な姫君が……床に這いつくばり、得体の知れぬ妖術にでもかかったような、ふにゃふにゃの笑顔で……浪人を、吸っておる……?」

    ​「……おかえり、ルカ。……違うの。これはちょっと、武蔵の健康状態を、至近距離で入念に確認していただけで……」

    ​私は、顔が爆発するほど熱くなるのを感じながら、ロボットのような動きで立ち上がった。ルカの驚きの表情が、昨日のオムライスのケチャップ以上に目に痛い。

    ​床には散らばった荷物と、フリーズしたままのルカ。私はわざとらしく咳払いを一つして、必死にいつものクールなトーンを取り繕った。

    ​「……ほら、荷物が散らかってるよ。これじゃあ武蔵の城が建たないじゃない」

    「あ、い、いや、しかし姫のその……妖術にかかったようなお顔は……」

    「はいはい、お侍は黙ってお片付けする」

    ​私が顔を背けてピシャリと言い放つと、ルカは「ハッ!」と我に返り、慌てて床の猫砂やご飯の袋を拾い集め始めた。

    ​「お、御意! ただちにこの城下町の惨状を復興いたす! 姫は引き続き、武蔵殿の『けんこうしんだん』をお頼み申す!」

    ​耳まで真っ赤にしながらじたばたと動く金髪の背中を横目に、私は熱くなった頬を両手で挟んでしゃがみ込んだ。

    ​足元では、武蔵が「ミャア」と、すべてを見透かしたような小さなあくびをしていた。


    【5話】お侍、姫の誉れを説く。


    「大丈夫、気にしないで。ここは私たちがカバーするから」

    「誰にでもミスはあるよ。次から気をつければいいんだから」

    ​同僚たちの言葉は、どこまでも優しかった。

    けれど、その優しさが今の私にはチクチクと胸に刺さる。いっそ「何やってるんだ!」と大声で怒鳴られた方が、ずっと楽だったかもしれない。自分の不注意でチームに迷惑をかけたのに、誰からも責められない居心地の悪さは、私の心にじっとりと重い泥をまとわりつかせた。

    ​まだ少し肌寒い春の夜。泥のように重い足取りで、私は自宅のドアを開けた。

    ​「……ただいま」

    ​「お帰りなさいませ、我が姫君!」

    「ミャッ」

    ​玄関の明かりをつけると、エプロン姿の金髪の青年と、彼の足元にまとわりつく茶トラの子猫が、いつものように出迎えてくれた。

    ​「むさし、ただいま……。ルカも、お留守番ありがとね」

    私が弱々しく笑って靴を脱ぐと、ルカはパッと大げさな笑顔を引っ込めた。彼のサファイアの瞳が、私の顔をスッと覗き込む。

    ​「……むむ。姫の御顔に、深い暗雲が立ち込めておる。さては城(会社)にて、何やら一大事がござったな?」

    「ううん、ちょっと疲れちゃっただけ。手を洗ってくるね」

    ​誤魔化して洗面所へ向かおうとする私を、ルカは引き止めなかった。ただ、静かに「御意」とだけ言って、キッチンへと戻っていった。

    ​着替えてリビングに戻ると、ローテーブルの上には、すっかり見慣れた黄色いオムライスが湯気を立てていた。今日のケチャップは文字ではなく、歪な、けれど力強い『💮(はなまる)』が描かれている。

    ​「ささ、まずは腹ごしらえでござる。悲しき時も、腹は減る。それが命の理(ことわり)というもの」

    「……ありがとう」

    ​スプーンで黄色い卵を崩し、一口食べる。バターの香りと、少し甘めのチキンライスの味が口に広がった途端、張り詰めていた糸がふつっと切れてしまった。

    ​「今日ね……仕事で、すごく初歩的なミスをしちゃったんだ」

    ぽつり、ぽつりと、自分でも驚くほど素直に言葉がこぼれた。

    「みんな優しくて、誰も私を責めなかった。でも、それが逆に申し訳なくて。私、こんな初歩的なこともちゃんと出来ないんだって、情けなくて……」

    ​言いながら、視界が少し滲んだ。足元では武蔵が、慰めるように私の靴下をごろごろと頭突きしている。

    ​ルカは私の向かいに正座し、真剣な顔でウンウンと頷きながら話を聞いていた。やがて、静かに口を開いた。

    ​「姫君。姫は今、己を『恥』じておられるのですね」

    「……うん。すごく、恥ずかしい」

    「武士道において、恥を知るは強き者の証。己の非を認め、悔いる心があるのは、姫が真に高潔なる御魂を持っておるからです」

    ​ルカは私の目を真っ直ぐに見つめた。

    ​「しかし、同僚の侍たちが姫を咎めなかったのは、決して『哀れみ』ではござらん。彼らは、姫が日頃からどれほど『誠』を尽くして戦っているか、その忠義を知っておるのだ」

    「私の、日頃の……」

    「左様! 名刀とて、激しい戦の最中には刃こぼれをするもの。たった一度の刃こぼれで、これまでの姫の武功(がんばり)が消えるわけではござらぬ! 味方の優しさを素直に受け取り、明日への活力とするのも、また大将の器というもの!」

    ​ルカの言葉は、相変わらず大げさで、時代錯誤で、めちゃくちゃだ。

    けれど。

    ​「だから姫よ。己を斬る刃は、もう鞘に収めるがよい。今はただ、このオムライスという名の兵糧を食らい、英気を養うのです!」

    ​その真っ直ぐすぎる言葉の熱量は、私の胸にこびりついていた冷たい泥を、綺麗に洗い流してくれた。

    鼻の奥がツンとして、私は慌ててオムライスをもう一口かき込んだ。今日のオムライスは、いつもより少しだけ、しょっぱく感じた。

    ​「……そっか。そうだね。くよくよしてたら、カバーしてくれたみんなに申し訳ないもんね」

    「その意気でござる! さあ、涙を拭いて! 姫が望むなら、このルカの胸に飛び込んで、大いに泣き濡れても一向に構いませぬぞ! いざ、我が胸元へ!」

    ​ルカがドンッと自分の胸を叩き、両手を広げて待ち構える。そのオーバーアクションのおかげで、さっきまでのしんみりした空気が吹き飛んでしまった。私は小さく吹き出し、スプーンを置いた。

    ​「はいはい、武士は黙って食後のお茶を淹れる」

    「お、御意! ただちに極上の茶を点ててご覧に入れよう!」

    ​パタパタとキッチンへ駆けていく金髪の背中を見つめながら、私は足元の武蔵をそっと撫でた。明日からまた、頑張れそうだ。


    【6話】お侍、異国の妙薬を献上する。


    ​朝、目覚めると喉が焼けるように痛かった。

    体が鉛のように重く、関節のあちこちが軋むような感覚。どうやら、連日の残業による寝不足で、まんまと風邪を引いてしまったらしい。

    ​「姫! 朝餉(あさげ)の支度が……むむッ!?」

    ​寝室からリビングへ這い出た私の顔を見るなり、エプロン姿のルカが目を見開いた。

    ​「ひ、姫えええ! 顔が! 顔が茹でダコのように赤うござる! さ、さては……流行り病(はやりやまい)に取り憑かれたか!」

    「……うん。ちょっと、熱あるかも」

    ​かすれた声で答えた瞬間、ルカは「おのれ病魔め!」と叫び、ドタバタとキッチンへ駆け込んだ。そして数秒後、なぜか『長ネギ』を一本、日本刀のように両手で掲げて戻ってきた。

    ​「姫、安心めされよ! 拙者、書物(ネットのまとめサイト)にて、極東の秘術を学んでおります! この霊草(ネギ)を首に巻けば、病魔など一息に退散すると……!」

    「……待って。それそのまま巻く気? 絶対やめて。首がネギ臭くなる」

    ​私がソファに倒れ込みながら弱々しくツッコミを入れると、ルカは「な、なんと……霊草の結界を拒むとは……!」と肩を落とした。

    足元では、むさしが「ミャッ?」と不思議そうにネギの匂いを嗅いでいる。

    ​「とりあえず……会社に休むって連絡するから……水、ちょうだい」

    「ハッ! 直ちに!」

    ​その日の午前中、私は熱に浮かされながら泥のように眠った。

    途中で何度か目を覚ますと、その度にルカが氷枕を替えてくれたり、額の汗を拭ってくれたりした。彼の大げさな騒ぎ声は不思議と聞こえず、代わりに、キッチンからコトコトと何かを煮込む、優しい音が聞こえていた。

    ​…

    ……

    ​「……ん」

    ​お昼過ぎ。鼻をくすぐる良い匂いで目を覚ますと、ソファのすぐ脇に、ルカが正座して待機していた。むさしも、ルカの膝の上で丸くなっている。

    ​「おお、目覚められましたか! 具合はいかがでござるか?」

    「うん。薬が効いたみたいで、少し楽になった。……なんか、いい匂いがする」

    ​私が身を起こすと、ルカは待ってましたとばかりにお盆を差し出した。

    風邪の時の定番といえば『お粥』や『うどん』だが、ルカがうやうやしく捧げ持ってきたのは、鮮やかな黄色いスープだった。ふわふわの卵と、粉チーズの香りが食欲をそそる。

    ​「我が故郷に伝わる、秘伝の霊薬『ストラッチャテッラスープ(卵とチーズのスープ)』にござる! 滋養強壮に優れ、傷ついた兵士(マンマ)の心と体を癒やす、魔法の汁物!」

    ​「……すごい。美味しそう。でもルカ」

    「ははっ!」

    「なんで、渋い抹茶茶碗に入ってるの?」

    ​そこはマグカップかスープ皿でいいじゃないか。なぜわざわざ、食器棚の奥に眠っていた黒塗りの抹茶茶碗になみなみと注いだのか。

    ​「フッ。これぞ『侘び寂び』の心。異国の霊薬も、この器で飲めばより一層の薬効が期待できるというもの!」

    ​得意げに胸を張るルカにため息をつきつつ、私はスプーンでスープを一口すくった。

    ​「……あ」

    ​チキンブイヨンの優しい旨味と、チーズのコク、そしてふわふわの卵。温かいスープが、痛む喉を滑り降りて、冷え切っていた胃袋をじんわりと温めていく。

    本当に、魔法みたいに美味しい。

    ​「……Buono?(美味しい?)」

    ​ルカが、出会った日と同じように、母国語で小さく尋ねてきた。その顔はさっきまでの時代劇のノリではなく、純粋に私の体調を心配する、年相応の青年の顔だった。

    ​「……うん。すごく美味しい。ありがとう、ルカ」

    ​私が素直にお礼を言うと、ルカの顔がパッとひまわりのように明るく綻んだ。

    ​「おおお! 姫に笑顔が戻った! なれば拙者、病魔が完全に退散するまで、この御傍(おそば)を片時も離れませぬぞ!」

    ​ルカは再び武士の顔に戻り、むさしを抱えたまま、私のソファの横にドスンとあぐらをかいた。大きな体がすぐそばにあるだけで、不思議と安心してしまう自分がいる。

    ​熱のせいか、少しだけ心細かった私は、抹茶茶碗を両手で包み込みながら、ぽつりと呟いた。

    ​「……はいはい。武士は黙って、看病する」

    「お、御意! このルカめが、姫の盾となり矛となり、病魔からお守りいたす!」

    ​相変わらずのトンチキな返事にクスッと笑いながら、私は二口目のスープをゆっくりと飲み込んだ。どうやら、この特効薬のおかげで、明日にはすっかり元気になれそうだ。


    【7話】お侍、暗殺者の影に怯える。


    ​「武蔵殿、見事な食いっぷり! その意気でござるぞ!」

    ​我が家のリビングに、ルカの威勢の良い声が響き渡る。

    むさしが我が家に来て数週間。すっかりこの城(ワンルーム)にも慣れ、食欲も旺盛になってきた。ルカが用意した子猫用のご飯を、むさしは「フガフガ」と鼻を鳴らしながら、まるで掃除機のような勢いで飲み込んでいく。

    ​「ルカ、あんまり煽らないで。むさし、落ち着いて食べなー」

    ​私がソファから声をかけた、その数分後だった。

    ​「ケコッ、ケコッ……オウェッ」

    ​むさしが突然背中を丸め、床の上に、食べたばかりのご飯をそのまま吐き戻してしまったのだ。

    ​「な、ななな……ッ!?」

    ​ルカの顔から、一瞬で血の気が引いた。

    ​「ひ、姫ええええ!! 一大事でござる!!」

    ​ルカはむさしに触れることもできず、その周りをオロオロと這い回りながら絶叫した。

    「毒でござる! 何者かが武蔵殿の兵糧に毒を仕込んだのだ! 忍びの者か!? 己、姿を現せ! 姫、危険でござる、拙者の背後に!」

    ​ルカは立ち上がり、両手を広げて私を庇おうとする。そのサファイアの瞳は、見えない暗殺者への怒りと、小さな命を失うかもしれない恐怖で本気で潤んでいた。

    ​「……ルカ、ストップ。深呼吸。忍びも毒もいないから」

    ​私は箱ティッシュとペット用のウェットティッシュを手に、パニックに陥る南欧の侍の横を冷静に通り抜けた。

    ​「で、ですが姫! 武蔵殿が、我々を庇って自ら毒見を……!」

    「ただの早食い。慌てて噛まずに丸飲みしたから、胃がびっくりして戻しちゃっただけ」

    ​私が床の惨状を拭き取っていると、当のむさしは完全にケロッとした顔で「ミャア(もうご飯ないの?)」と鳴き、なんと自分の吐いたものに再び顔を近づけようとした。

    ​「あーダメダメ、それは食べないの」

    ​私がむさしをヒョイと抱き上げると、ルカは膝の力が抜けたように、へなへなと床に座り込んだ。

    ​「ま、丸飲み……? 毒では、ない……?」

    「子猫にはよくあることなんだよ。次からは、ご飯を何回かに分けて少しずつあげるか、早食い防止用のデコボコしたお皿に変えないとね」

    ​ルカはしばらく放心状態だったが、むさしが私の腕の中で元気いっぱいに私の指を甘噛みし始めたのを見て、ようやく深く、長〜い安堵の息を吐いた。

    ​「……おおお。神よ……いや、八百万の神々よ、感謝いたします。武蔵殿が健やかで、真に良かった……っ」

    「うん、元気すぎるくらいだね。というわけで、お侍さん」

    「ハッ!」

    ​私が汚れたティッシュの束を差し出すと、ルカはビシッと正座の姿勢で背筋を伸ばした。

    ​「はいはい、武士は黙ってゲロの処理をする」

    「お、御意! 暗殺者の始末(ゴミ捨て)、必ずやこのルカめが!」

    ​相変わらず物騒な解釈でティッシュを受け取るルカの横顔は、まだ少し青ざめていたけれど、その不器用な優しさが、やっぱり少しだけ頼もしかった。


    【8話】お侍、南蛮の刺客と心を通わす。


    ​初夏の心地よい休日。

    私たちは、新調したリュック型のキャリーバッグにむさしを入れ、近くの大きな公園へ散歩に出かけていた。

    ​「おお! 見事な庭園(ただの芝生広場)にござるな! 武蔵殿も、この城下町の平和な光景にご満悦の様子!」

    ​ルカは、透明なドーム窓から外をキョロキョロと見渡すむさしを背負いながら、大げさに胸を張って歩いている。すれ違う子どもたちが、金髪のイケメンが背負う宇宙船のようなリュックと中の子猫を見て、目を輝かせていた。

    ​平和な午後だ。……そう思っていた、その時だった。

    ​「Excuse me? Do you know the way to this museum?」

    ​突然、前方から歩いてきた外国人の老夫婦に声をかけられた。

    スマートフォンの地図画面を見せられ、私は完全にフリーズした。

    ​「えっ、あっ、あー……ディス・ウェイ? いや、ゴー・ストレート、アンド……ええっと」

    ​英語の成績は悪くなかったはずなのに、いざネイティブの発音を前にすると、頭の中が真っ白になる。地図が示す美術館は、ここからバスに乗らないと行けない場所だ。それをどう説明すれば……!

    ​私が冷や汗をかき始めた、その瞬間。

    ​「姫。ここは拙者に」

    ​ルカがスッと私の前に出た。いつものヘンテコな時代劇のポーズではない。自然な身のこなしで老夫婦の前に立つと、ルカは小さく微笑んだ。

    ​「Scusi, vi siete persi? Se dovete andare qui, è meglio prendere l'autobus.(すみません、道に迷われましたか? ここへ行くなら、バスが良いですよ)」

    ​「……え?」

    ​私の口から、間の抜けた声が漏れた。

    今、ルカが口にしたのは、聞き慣れた「ござる」でも「拙者」でもない。滑らかで、歌うような、美しいイタリア語だった。(英語で話しかけられたのに、老夫婦のイタリア訛りに気づいて咄嗟に切り替えたらしい)。

    ​老夫婦の顔がパッと明るくなり、彼らもイタリア語で堰を切ったように話し始めた。

    ルカはそれに相槌を打ちながら、身振り手振りを交えて丁寧に道を説明している。

    ​(……誰、この人)

    ​私は目を丸くして、ルカの横顔を見つめた。

    彫りの深い整った顔立ちに、太陽の光を反射する金髪。低くて甘い声で母国語を操るその姿は、さっきまで「城下町がどうの」と騒いでいたトンチキな同居人とはまるで別人だった。ただそこに立っているだけで、まるで映画のワンシーンのように絵になっている。

    ​(……なんか、ずるい)

    ​いつもは私がツッコミを入れているのに。今のルカは、どうしようもなく「大人の男性」で、私は自分の心臓が、少しだけいつもより早く跳ねるのを感じていた。

    ​「Grazie mille!(本当にありがとう!)」

    「Prego. Buon viaggio!(どういたしまして。良い旅を!)」

    ​老夫婦は嬉しそうにルカと握手を交わし、私にも笑顔で手を振って去っていった。

    ​「ふう……手強い刺客であった」

    ​老夫婦の背中が見えなくなった途端、ルカはくるりと私を振り返り、大げさに額の汗を拭う仕草をした。

    ​「……刺客って。ただの道に迷った観光客でしょ」

    「油断は禁物でござる! もしや我々の陣(ワンルーム)を偵察に来た忍びやも……!」

    「ルカ」

    ​私は、まだ少しだけ高鳴っている心臓を悟られないよう、小さく咳払いをした。

    ​「……その。今の、ちょっとカッコよかったよ。イタリア語で案内するの」

    ​私が素直に褒めると、ルカは目をパチクリと瞬かせた。そして、不思議そうに首を傾げる。

    ​「イタリア語? はて、姫は何を仰っておるのか。拙者、南蛮の言葉など存じませぬぞ」

    「……はい?」

    「言葉など通じなくとも、武士たるもの『気』を練れば、相手の魂と対話できるのでござる! 先ほどの老人たちも、拙者の放つ『気』に当てられ、道を見出したに過ぎぬ!」

    ​ビシッ! と無駄に美しいポーズを決めるルカ。

    ​(……あ、ダメだ。この人、本当に自分が無意識に母国語を喋ってたことに気づいてないんだ)

    ​さっきまでのトキメキは、音を立てて崩れ去った。背中のリュックの中で、むさしが「ニャア」と呆れたような声を上げる。

    ​私は深く、深いため息をついた。

    ​「……前言撤回。私のドキドキを返して」

    「ど、ドキドキ!? 姫、もしや心臓の具合が……やはりあの者たちは毒の手妻(てづま)を……!」

    「はいはい、武士は黙って散歩を続ける」

    ​私がルカの背中をドンと押し出すと、ルカは「お、御意!」と慌てて歩き出した。

    爽やかな初夏の風の中、相変わらず騒がしい南欧の侍と、揺れるリュックの中の猫と共に、私たちの休日は続いていく。


    【9話】お侍、刀狩りを決行する。


    ​むさしが我が家にやってきてから、数週間。

    よく食べ、よく眠る小さな茶トラは順調にすくすくと成長していたが、それに伴い、ある重大な問題が発生していた。

    ​「……痛ッ」

    「姫! またしても武蔵殿の斬撃を浴びたでござるか!」

    ​休日の昼下がり。むさしと猫じゃらしで遊んでいた私の手の甲に、また一本、赤いミミズ腫れが増えた。

    ルカの腕にもすでに無数の引っかき傷があり、本人は「名誉の負傷でござる!」と誇らしげだが、このままでは人間たちの身が持たない。それに、賃貸のワンルームの壁紙やソファがボロボロにされるのも時間の問題だ。

    ​私は洗面所へ向かい、買っておいたペット用の小さなハサミを取り出した。

    ​「ルカ、いよいよアレをやるよ」

    「そ、それは……! もしや、武蔵殿の研ぎ澄まされた妖刀(ツメ)を封じるという、伝説の……!」

    「そう、爪切り。ルカ、むさしを押さえるの手伝って」

    ​私のただならぬ気配を察知したのか、むさしは「ニャッ」と短い声を上げ、ソファの下へスルリと逃げ込んだ。

    ​「逃がしはせぬ! 観念なされよ、武蔵殿おォォッ!」

    ​ルカがソファに向かって見事なヘッドスライディングを決め、這い出てこようとしたむさしを、クッションごとガバッと抱え込んだ。

    ​「捕らえ申した! 姫、今のうちに!」

    「ミャアアアッ!」

    ​むさしが「放せ!」とばかりに身をよじって大暴れする。普段は天使のように可愛い子猫の、信じられないほどの抵抗だった。

    ​「ひええっ、ぐはっ! さ、さすがは稀代の剣豪、なんという凄まじい反撃……!」

    「ルカ、しっかり押さえてて! 動くと危ないから!」

    「姫、構いませぬ! 拙者の肉を裂こうとも、ひるんではなりませぬぞ! いざ、拙者の腕ごと、その妖刀を斬り落とすがよいッ!!」

    「腕ごと切ったら大惨事だよ! もう、大げさなんだから動かないで!」

    ​ルカが無駄に悲壮な叫び声を上げる中、私はむさしのプニプニした肉球を指で軽く押し、ニュッと出てきた白くて細い爪の先を、慎重にパチン、パチンと切っていく。

    ​(……怖い。神経まで切っちゃいそうで怖い)

    ​冷や汗をかきながら、二人がかりで必死の攻防戦を繰り広げること十分。

    最後の一本を切り終えた瞬間、私は「ふうっ」と大きく息を吐き出した。

    ​「お、終わった……!」

    「……解放でござる」

    ​ルカが腕の力を緩めると、むさしは「プイッ」と不満げな顔をしてルカの胸を蹴り飛ばし、部屋の隅へトコトコと歩いていって、何事もなかったかのように毛繕いを始めた。

    ​「……」

    「……」

    ​残された私たち人間二人は、フローリングの床に大の字になって仰向けに倒れ込んだ。エアコンの効いた部屋なのに、二人とも妙に汗ばんでいる。

    ​「……戦は、終わったのですね」

    「うん……終わったよ……」

    ​天井を見つめながら、私たちはまるで本当の合戦を生き抜いた戦友のように、静かに言葉を交わした。ルカの「ござる」が抜けてしまうほどには、精神力を消耗したらしい。

    ただの爪切りひとつでこれだ。これから先、お風呂や病院など、どれほどの試練が待ち受けているのだろうか。

    ​「……さて」

    ​私はゆっくりと身を起こし、床に散らばった半透明の小さな爪の破片を見つめた。

    ​「はいはい、武士は黙って、落ちた爪をお掃除する」

    「……ハッ! 御意! ただちにこの合戦の跡地を清め、武蔵殿の妖刀の欠片を封印(ゴミ箱へポイ)いたす!」

    ​床から跳ね起きたルカが、コロコロ(粘着カーペットクリーナー)を片手に勇ましく立ち上がる。

    その背中を眺めながら、私はまだ少し震える自分の手をギュッと握り、平和が戻ったワンルームで小さく笑い声をこぼした。


    【10話】お侍、新参者に嫉妬する。


    ​「むさしー、こっちおいで。あー可愛い、今日も最高に可愛いねぇ」

    ​休日の午後。私はソファに寝転がりながら、むさしのお腹をモフモフと撫で回していた。

    我が家にやってきてすっかり安心しきった小さな茶トラは、私の手の中で「ゴロゴロ……」と大きな喉の音を鳴らしている。まさに天使だ。

    ​そこへ、洗濯物を干し終えたルカがベランダからリビングに戻ってきた。

    彼は私とむさしの甘い空間を見るなり、ピタリと足を止め、ワナワナと肩を震わせた。

    ​「……姫」

    「んー? お洗濯ありがとう」

    「姫ッ!!」

    ​ビクッとして振り返ると、ルカが悲痛な面持ちでフローリングに膝から崩れ落ちていた。

    ​「拙者という筆頭家老がいながら……なんという事! 最近の姫は、その新参者(むさし)ばかりを寵愛しておられる! 拙者が丹精込めて南蛮の布(シャツ)を干している間も、ずっとその浪人と戯れておいでだった!」

    「浪人って言わないの。だってむさし、今すっごい甘えん坊モードなんだもん」

    「ぐぬぬ……!」

    ​ルカはハンカチを噛むような仕草(実際には自分のエプロンの裾を握りしめている)で、わかりやすくジェラシーを爆発させた。

    ​「拙者とて! 姫のためにオムライスを焼き、風呂の湯加減を見極め、城の防衛(戸締まり)に命を懸けているというのに! 姫からの『恩賞(モフモフ)』の配分が、あまりにも不平等でござる!」

    「いや、ルカは人間だし。成人男性のお腹をモフモフしたら私が捕まっちゃうから」

    ​正論で返すと、ルカはずりずりと膝行(しっこう:膝をついたまま進むこと)で私に擦り寄り、むさしの隣に自分の大きな頭をドスッと差し出した。

    ​「ならば頭! 拙者の頭も、その慈愛に満ちた御手で撫でてくだされ! さあ!」

    「ええ……」

    「さあッ!!」

    ​ものすごい眼力と圧に負け、私は深くため息をつきながら手を伸ばした。

    ルカの金色のサラサラした髪に指を入れる。

    ​(……うわ、柔らかい)

    ​シャンプーの爽やかな香りがふわりと漂う。外国人の細くて柔らかい髪質は、むさしの毛並みとはまた違う、シルクのように心地よい感触だった。

    私が少しぎこちなく頭を撫でてやると、ルカは「ん……っ」と小さく吐息を漏らし、大型犬のように目を細めて私の手にすり寄ってきた。

    ​「おお……姫の御手は、やはり魔法のようでござる……。日々の戦の疲れが、溶けていく……」

    ​完全に脱力し、うっとりと目を閉じるルカ。

    普段のトンチキな発言さえなければ、ただの彫刻のように美しい南欧の青年なのだ。その無防備で幸せそうな顔がすぐ目の前にあることに、私は自分の心臓が「ドクン」と大きく跳ねるのを感じた。

    ​(……ヤバい、ちょっと可愛いとか思っちゃった。悔しい)

    ​顔が一気に熱くなるのを感じ、私はそれを誤魔化すように、わざと少し乱暴に彼の髪をわしゃわしゃと撫で回した。

    ​「はーい、おしまい! はいはい、武士は黙って……大人しく撫でられてる!」

    「お、御意ぃ……。どうか、もうしばらくこのままで……」

    ​むさしに嫉妬して甘えてくる大きな金髪の侍と、そんな彼にまんまとときめいてしまった私。

    足元では、むさしが「仕方ないニャ」とでも言うように、ルカの膝にすりすりと頭を擦り付けていた。


    【11話】お侍、南蛮の甲冑と煩悩に散る。


    ​バケツをひっくり返したような、突然のゲリラ豪雨だった。

    最寄り駅から走って帰ってきたものの、ワンルームのドアを開ける頃には、私は頭の先から靴の中まで、見事にずぶ濡れになっていた。

    ​「ただいま……」

    ​「ひ、姫ええええッ!? いかがなされた、水龍の襲撃にでも遭われたか!?」

    ​玄関の惨状を見るなり、エプロン姿のルカが悲鳴を上げて飛んできた。手には素早くバスタオルが握られている。

    ​「通り雨に降られちゃって……。最悪、冷房で体が冷えきってる」

    「一大事でござる! すぐにその濡れた甲冑(スーツ)を脱ぎ捨て、温かい湯浴みを! さもなくば風邪という名の病魔に付け入られますぞ!」

    ​ルカに背中を押されるようにしてお風呂場へ直行し、熱めのシャワーでどうにか人心地をついた。

    ……が、脱衣所で体を拭きながら、私はある重大なミスに気がついた。

    ​(着替えがない……)

    ​昨日から洗濯機を回しそびれていて、私の部屋着はすべてカゴの中だ。かといって、明日着ていく予定の外出着を今から着るのも気が引ける。

    ​「あー……ルカ? ちょっとごめん、私の部屋着、そこの引き出しに入ってないかな?」

    脱衣所のドアを少しだけ開けて声をかけると、バタバタと探す音のあと、申し訳なさそうな声が返ってきた。

    ​「姫! 姫の衣はすべて、洗濯カゴという名の牢獄に囚われております!」

    「だよねぇ……どうしよう」

    「なれば姫! 拙者の『南蛮胴具足(シャツ)』をお貸しいたす! 洗い立てゆえ、霊的な汚れ(雑菌)は一切ござらぬ!」

    ​ドアの隙間から、ルカの大きな白いリネンシャツがスッと差し入れられた。

    背に腹は代えられない。私はありがたくそれを受け取り、袖を通した。

    ​(……でっか)

    ​身長百八十センチを超えるルカのシャツは、私が着ると完全にワンピース状態だった。

    袖は指先まで隠れてしまうし、裾は太ももの真ん中あたりまである。中にショートパンツを穿いているとはいえ、シャツが大きすぎて完全に隠れてしまい、パッと見は「何も穿いていない」ように見える、いわゆる『彼シャツ』状態だ。

    ​(まあ、ルカなら気にしないか)

    ​シャツから漂うルカと同じ柔軟剤の香りに少しだけドキッとしながら、私は脱衣所のドアを開けた。

    ​「お借りしまーす。助かっ……」

    ​「お風呂上がりでござるか! 温かい麦茶を……」

    ​振り返ったルカは、私の姿を見た瞬間、カチャンッ!と手に持っていた麦茶のグラスをテーブルに落とした。(幸い割れなかったが、中身が少しこぼれた)。

    ​「……ルカ?」

    ​「……ッ!!!」

    ​ルカは目と口を限界まで見開き、顔をボンッと音が出そうなほど真っ赤に染め上げた。

    そして、自分の両手でバシッと顔を覆い隠し、クルリと私に背を向けてしまった。

    ​「ひ、ひ、姫ッ!!」

    「えっ、何、どうしたの?」

    「そ、そのような無防備な格好……! まるで、布一枚の天女……いや、破廉恥な……いやいや、眼福……ッ!」

    ​指の隙間からこちらをチラチラと見ながら、ルカは一人で悶絶している。

    どうやら、南欧の陽気なDNAよりも、彼の中にインストールされた謎の『純情な武士道』が勝ってしまったらしい。

    ​「いや、ちゃんと下にショートパンツ穿いてるからね?」

    「見えませぬ! 拙者の眼力(視力2.0)をもってしても、姫の素足しか見えませぬ! お、おのれ……拙者の奥底に眠る『煩悩』という名の魔物が、武士の魂を試しておる……ッ!」

    ​ルカはついにフローリングに正座し、壁に向かってブツブツと念仏のようなものを唱え始めた。

    「心頭滅却すれば火もまた涼し……南無……いやアーメン……拙者は武士、拙者は武士……」

    ​そんなルカの背中が面白くて、私はわざとスリッパをパタパタと鳴らしながら、彼の背後に近づいてみた。

    ​「ねえルカ、麦茶こぼれてるよ?」

    「ひゃああっ! ひ、姫、近うござる! 芳しい香りが拙者の理性を削りに来ておる!」

    ​ビクッと肩を震わせ、壁にぴったりと張り付くルカ。

    その横で、キャットタワーから降りてきたむさしが「何してるの?」と不思議そうにルカの背中をチョイチョイと猫パンチしている。

    ​大きな図体をして、壁に向かって必死に耐えている金髪の侍。

    その不器用すぎる純情さが、なんだかたまらなく可愛くて、愛おしい。

    ​私は、ルカの背中越しに少しだけ笑い声をこぼした。

    ​「ふふっ。わかったわかった、早く髪乾かしてなんか羽織るから」

    「お、おお……どうか一刻も早く、拙者の煩悩を鎮めてくだされ……」

    「はいはい、武士は黙って煩悩と戦う」

    ​「御意ぃ……ッ!」

    ​壁に向かって涙声で返事をするルカを背に、私はドライヤーを取りに洗面台へ向かった。

    ルカの大きすぎるシャツの袖をまくりながら、私の頬も、シャワーのせいだけではない熱で少しだけ赤くなっていた。


    【12話】お侍、真夜中の大合戦に参戦する。


    ​午前二時。静まり返ったワンルームに、突如として不穏な音が鳴り響いた。

    ​パタパタパタパタッ!

    ガシャーン!

    ​「……ん、なに?」

    ​眠りの淵から引きずり出された私が目を開けた瞬間、隣の布団から凄まじい勢いで何かが飛び起きた。

    ​「姫ッ! お下がりくだされ! 敵襲でござるッ!!」

    ​金髪を振り乱したルカが、座布団を盾のように構え、鋭い眼光で暗闇を睨みつけている。

    ​「……ルカ? 敵って何、泥棒……?」

    「判りませぬ! されど、先ほどから屋根裏を駆ける忍びの如き足音、さらには城壁(本棚)を崩さんとする衝撃音……! さては、我らが城の秘密を狙う、曲者の仕業に相違なし!」

    ​ルカは私の前に立ちはだかり、その大きな体で私を庇うように構えた。

    その時だった。

    ​「ミャーーーーッ!!」

    ​闇の中から、オレンジ色の閃光が走った。

    むさしだ。

    さっきまで丸くなって寝ていたはずの小さな茶トラは、今や瞳孔を限界まで見開き、完全に「野生」へと回帰していた。

    むさしはフローリングを猛スピードで駆け抜けたかと思うと、壁に向かって一直線に跳び、見事な三角跳びを決めてカーテンレールの上へと着陣した。

    ​「な、なんという身軽さ……! あの足さばき、さては甲賀の者か!?」

    「ルカ、落ち着いて。ただの『夜の大運動会』だから。猫にはよくあることなの」

    ​私が眠い目をこすりながら説明しても、ルカの耳には届かない。

    ​「油断は禁物! 姫、見られよ、あの武蔵殿の構えを! あれは間違いなく、一撃で首を獲りに来る者の動きでござる!」

    ​カーテンレールの上のむさしは、お尻をぷりぷりと振り、再びルカの頭上を飛び越えて、今度はソファの上で回転レシーブのような動きを見せている。

    ドタバタ、バサッ、ニャーーーッ!

    静かだった部屋は、一瞬にしてカオスな戦場と化した。

    ​「おのれ、拙者の目を晦ますつもりか! いざ、尋常に勝負――」

    「ルカ、待って。追いかけっこしたら余計にテンション上がっちゃうから……」

    ​しかし、ルカは「姫をお守りせねば!」という謎の使命感に燃え、座布団を手にむさしを追いかけ回し始めた。

    狭いワンルームで繰り広げられる、金髪の侍と子猫の真夜中の大合戦。

    私はただ、布団の中で枕を抱え、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

    ​十五分後。

    嵐は突然、止んだ。

    ​「……はあ、はあ。流石は、武蔵……殿……。拙者の体力が……」

    ​肩で息をしながら、ルカがフローリングに座り込む。

    すると、あんなに暴れていたむさしが、トコトコとルカに近寄ってきた。そして、電池が切れたようにルカの膝の上でコテッと横たわり、数秒後には「スピー……」と幸せそうな寝息を立て始めたのだ。

    ​「……えっ。あ、あの、武蔵殿?」

    ​ルカは困惑したように、膝の上の小さな塊を見つめた。

    さっきまでの殺気(?)はどこへやら、そこにあるのは、世界で一番無防備で愛らしい、ただの子猫の寝顔だった。

    ​「……ルカ、終わったみたいだよ。むさしのバッテリー、切れたから」

    「な、なんと。戦いの最中に眠りに落ちるとは……。これぞ正に、明鏡止水の境地……」

    ​ルカは感銘を受けたように呟き、そっと、壊れ物を扱うような手つきでむさしの背中を撫でた。

    毒気を抜かれたルカの表情は、いつの間にかいつもの優しい、少し間抜けた「お侍さん」に戻っていた。

    ​「……もう、明日も仕事なんだから。早く寝てよね」

    「……御意。武蔵殿のこの寝顔、真に……癒やされるものでござるな」

    ​ルカはむさしをそっと抱き上げ、自分の布団へと戻っていった。

    暗闇の中、私の心臓もようやくいつものリズムを取り戻していく。

    ​「……はいはい。武士は黙って、二度寝する」

    「……お、御意。姫も、良き夢を」

    ​窓の外では、遠くで国道を走るトラックの音が静かに響いている。

    再び平和が訪れたワンルームで、私はルカとむさしの寝息を子守唄代わりに、深い眠りへと落ちていった。


    【13話】お侍、獅子と陣取り合戦を繰り広げる。


    ​むさしが我が家にやってきてから、ひとつだけ劇的に変わったことがある。

    それは、私の「膝の上」の争奪戦だ。

    ​休日の午後。私が読みかけの小説を片手にソファに腰を下ろすと、どこからともなく茶トラの小さな弾丸が飛んでくる。

    ​「ニャッ」

    ​見事な跳躍で私の膝に着地したむさしは、そのまますぐに丸くなり、「ゴロゴロ……」と大きな喉の音を鳴らし始めた。その柔らかさと温かさに、私は思わず頬を緩める。

    ​「あー……至福。むさし、可愛いねぇ」

    ​そこへ、淹れたての麦茶とお茶請けを持ったルカがキッチンからやってきた。

    ​「姫、お茶の支度が……ぬぬッ!?」

    ​お盆を持ったまま、ルカがピタリと足を止める。彼の視線の先には、私の膝の上で完全にくつろいでいるむさし。

    ルカのサファイアの瞳に、明らかな「ジェラシー」の炎が灯った。

    ​「む、武蔵殿! またしてもそこを占拠しておられるのか!」

    「ミャア?」

    「とぼけても無駄でござる! そこは本来、拙者が姫の御傍(おそば)でお守りするための最前線! いわば拙者の領地……! 退かれよ!」

    ​ルカがお盆をテーブルに置き、ずいっとソファに詰め寄る。

    以前は、私がソファに座ると、ルカも大型犬のようにすぐ隣に陣取ってテレビを見たりしていたのだ。だが、今はむさしという強力なライバルがいる。

    ​むさしはルカの抗議などどこ吹く風で、私の太ももに顔を擦り付け、さらに甘えた声を出した。

    ​「ンニャーン……」

    「……はい、むさしの勝ちー」

    ​私がむさしの頭を撫でながらあっさりと判決を下すと、ルカは「ガーン!」と効果音が聞こえそうなほどショックを受けた顔をした。

    ​「ひ、姫……! この拙者という忠義の士がいながら、たかだか数週間前にやって来た新参者に寝返るとは……ッ!」

    「だってむさしの方がちっちゃくて温かいし。ルカが私の膝に乗ったら重くて折れちゃうでしょ。ほら、ルカはそこ(床)に座って麦茶飲んで」

    ​私が冷酷(?)に言い放つと、ルカは「おおお……無情なり……」と悲痛な声を上げ、フローリングの床にいじけたように正座した。そして、私とむさしに背を向け、体育座りのように膝を抱え込んでしまった。

    ​大きな背中から、哀愁という名のキノコが生えそうだ。

    ​「……あ、ちょっとごめん」

    ​数分後。私はスマートフォンを取りに寝室へ行こうと、そっと立ち上がった。

    急に温かいベッド(私の膝)を奪われたむさしは、「ミャッ」と不満げに鳴き、新たな暖を求めて周囲を見渡した。

    ​そして、むさしの視界に入ったのは――床でいじけて丸くなっている、金髪の大きな背中。

    ​トコトコトコ。

    ​「……ん? 姫、もはや拙者に掛ける言葉も……ぬあっ!?」

    ​ルカが驚きの声を上げた。

    むさしは迷うことなくルカの広い背中に飛び乗り、服のシワを前足でふみふみと整えると、そのまま「くるん」と丸まっておやすみモードに入ってしまったのだ。

    ​「む、武蔵殿!? な、なんという暴挙……! 拙者の背中を新たな陣地とするおつもりか!」

    ​ルカは慌てて背中を振り返ろうとするが、変に動いてむさしを落としてはいけないと思ったのか、ピタッと不自然な体勢で固まった。

    ​「ふ、不敬でござるぞ! 早く降りられよ……!」

    ​口では文句を言いながらも、ルカの体はピクリとも動かない。むしろ、背中から伝わる子猫の温もりと小さな寝息に、ルカの表情がみるみるうちに緩んでいくのがわかった。

    ​寝室から戻ってきた私は、その光景を見て思わず吹き出した。

    ​「ふふっ。ルカ、すっかりむさしのベッドになってるね」

    「ひ、姫! 違うのでござる、これは武蔵殿の奇襲に遭い、やむを得ず……!」

    「はいはい」

    ​顔を真っ赤にして弁解するルカの背中で、むさしが気持ちよさそうに寝返りを打つ。するとルカは「おおっと」と小声で言いながら、むさしが落ちないようにそっと背中の角度を調整した。

    ​相変わらず、口と行動が全く伴っていない。

    ​「……はいはい。武士は黙って、猫の寝床になる」

    「……お、御意。真に……武蔵殿には敵わぬ」

    ​初夏の心地よい午後。

    いじけていたはずの大きなお侍は、背中の小さな命の重さにすっかり機嫌を直し、床の上で幸せそうな「猫の寝床」へと成り下がっていた。


    【14話】お侍、木漏れ日の下で幸せを噛み締める。


    ​雲一つない青空が広がる、夏の午後。

    私たちは、リュック型のキャリーバッグにむさしを入れ、ルカ特製のお弁当(本人は「特上兵糧」と呼んでいる)を持って、近くの大きな公園へやってきた。

    ​「姫、この大きな木の根元などいかがかな! 敵の矢(直射日光)を防ぎつつ、周囲を広く見渡せる、絶好の陣地にござる!」

    「うん、そこにしよっか」

    ​木漏れ日が落ちる芝生の上にレジャーシートを広げると、ルカはリュックからむさしをそっと取り出し、猫用の小さなハーネスをつけた。

    ​「さあ武蔵殿、思う存分、この広大な領地を視察されるがよい!」

    ​芝生の上に降り立ったむさしは、最初こそ「ここはどこニャ?」と戸惑っていたが、すぐに尻尾をピンと立てて、短い足でトコトコと探検を始めた。

    鼻先をヒクヒクさせながらクローバーの匂いを嗅ぎ、ひらひらと飛んできたモンシロチョウに向かって、短い前足で「えいっ」と猫パンチを繰り出す。

    ​「おお! 見事な太刀筋! 武蔵殿が未知の飛来物を退けられたぞ!」

    「ルカ、リード引っ張りすぎないでね。むさしのペースに合わせてあげて」

    「御意!」

    ​しゃがみ込んでむさしの後をゾロゾロとついていく、大きな金髪の青年。

    私はシートの上に足を伸ばして座り、水筒の冷たい麦茶を飲みながら、その平和すぎる光景をぼんやりと眺めていた。

    ​(……なんか、信じられないな)

    ​数ヶ月前までの休日は、平日の残業の疲れを引きずり、泥のように眠って終わることがほとんどだった。休日に公園でピクニックなんて、考えたこともなかった。

    それが今、私の目の前には、私のためにお弁当を作ってくれるヘンテコで優しい同居人と、世界で一番可愛い小さな家族がいる。

    ​ただ、日向ぼっこをしているだけ。

    特別なことは何も起きていないのに、胸の奥がじんわりと温かくて、満たされている。

    ​「……姫」

    ​不意に声がして振り返ると、むさしの警護を終えたルカが、私の隣にドスンとあぐらをかいて座った。

    彼に抱き抱えられたむさしは、遊び疲れたのか、ルカの腕の中ですでにウトウトと目を閉じかけている。

    ​「どうしたの? むさし、もう眠くなっちゃった?」

    「ええ。流石の剣豪も、大自然の『気』にあてられて休息の時を迎えたようでござる」

    ​ルカはむさしの背中を優しく撫でながら、ふと、前を向いたまま目を細めた。

    木漏れ日が彼の金髪をキラキラと照らし、サファイアの瞳が優しい光を帯びている。

    ​「……良き日和にござるな」

    「うん。風が気持ちいいね」

    ​「異国の地で、このように穏やかな時を過ごせるとは。……姫と、武蔵殿と共に」

    ​ルカの声は、いつもの大げさなトーンではなかった。

    ただただ純粋に、心の底から湧き上がってきた思いを言葉にしたような、静かで、優しい響き。

    ​「拙者、今、果てしなく幸せでござる」

    ​ルカが私の方を向き、ふわりと柔らかく微笑んだ。

    その笑顔を見たら、なんだか少しだけ泣きそうになってしまった。

    私も、全く同じことを考えていたから。

    ​「……私もだよ。ルカとむさしがいてくれて、すっごく幸せ」

    ​私が素直にそう答えると、ルカは少し驚いたように瞬きをして、それから、耳の先をほんのりと赤く染めて嬉しそうに笑った。

    ​「ニャァ……」

    ​二人の間で、むさしが寝言のように小さく鳴いた。

    吹き抜ける初夏の風が、私たちの間を優しくすり抜けていく。遠くで遊ぶ子どもたちの声と、葉っぱの擦れる音だけが聞こえる。

    ​「……さ、お弁当食べよっか」

    「お、御意! 拙者の魂を込めた南蛮風おにぎり、とくとご賞味あれ!」

    「はいはい。武士は黙って……今の幸せを噛み締める」

    「……ははっ。御意にござる」

    ​まぶしい太陽の下、私たちは小さく笑い合い、穏やかな木漏れ日の中で、唯々、幸せな時間を過ごした。

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

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