
窓辺の遊び人③マダムは今日も歩いていた
朝。
窓辺には、まだ夜の名残が少しだけ残っていた。
ランプの灯は小さく揺れ、
黒猫は窓枠の上で丸くなって眠っている。
遊び人は静かに窓を開けた。
冷たい朝の空気が、
部屋の中へゆっくり流れ込む。
遠くでパンを焼く香り。
石畳を掃く音。
鳥のさえずり。
町は今日も、
昨日と同じように目を覚ましていく。
遊び人は湯を沸かしながら、
窓の外を眺めていた。
すると。
石畳の向こうから、
一人の女性が歩いてくる。
帽子をかぶり、
小さな籠を腕に掛け、
歩幅は驚くほどゆっくりだった。
毎朝。
同じ時間。
同じ道。
町の誰よりもゆっくり歩く人。
みんなは、その人を
「マダム」
と呼んでいた。
遊び人は小さく会釈する。
「おはようございます。」
マダムは目を細める。
「おはよう。」
それだけだった。
でも、
その一言だけで、
朝が少し柔らかくなる気がした。
黒猫が目を覚ます。
窓から飛び降りることもなく、
今日はマダムの方へ歩いていく。
マダムは自然にしゃがみ、
黒猫の頭をそっと撫でた。
「今日も元気ね。」
黒猫は目を細めるだけ。
鳴かない。
遊び人は思う。
この町では、
黒猫も、
マダムも、
言葉をたくさん使わない。
それでも、
ちゃんと会話になっている。
「お茶でもどう?」
遊び人が言う。
「いただこうかしら。」
窓辺にもう一つカップが置かれる。
湯気が静かに立ちのぼる。
しばらく二人とも話さない。
窓辺の金魚草が、風に合わせて小さく揺れた。
マダムはその姿を見て微笑む。
やがてマダムがぽつりと言った。
「急いで咲く花より
風と話せる花の方が長く楽しめるのよ。」
「最近ね。」
「みんな急いでいるの。」
遊び人は黙って続きを待つ。
「花も。」
「仕事も。」
「恋も。」
「答えも。」
「全部、今日中に欲しがるのね。」
遊び人は少し笑った。
「確かに。」
マダムも笑う。
「昔から人は急いでいたけれど。」
「最近は、
待つことが苦手になったみたい。」
黒猫は窓辺で伸びをする。
マダムはその姿を見ながら言った。
「この子は急がない。」
「だから迷わない。」
遊び人は聞く。
「急がないと、
遅れてしまいませんか?」
マダムは少し考えた。
そして窓の外を見つめながら答える。
「遅れることと。」
「育たないことは違うの。」
その言葉に、
遊び人の手が止まる。
食器を片付けたあと、
二人は小さな花壇の前へ向かった。
色とりどりの金魚草の花が咲いている。
その中で一本だけ、
花びらを落とした花があった。
マダムは、
その花を抜いた。
遊び人は聞く。
「新しい苗を植えるんですか?」
「いいえ。」
マダムは首を振る。
「今日は植えない。」
「どうして?」
マダムは土を指でそっと触れた。
「まだ疲れているもの。」
遊び人は黙る。
「土にもね。」
「休む時間があるの。」
「休んだ土の方が、
春にはきれいな花を咲かせるのよ。」
その瞬間。
遊び人は、
昔の自分を少しだけ思い出した。
急いでいた日々。
結果ばかり追いかけていた頃。
早く答えを見つけたくて、
立ち止まることが怖かった頃。
でも。
あの時間があったから、
今こうして、
窓辺に座っている。
マダムは帰る支度を始めた。
「今日はありがとう。」
遊び人は頭を下げる。
マダムは笑う。
「ありがとうは、
花が咲いてからでいいの。」
遊び人は首をかしげる。
「まだ咲いてないもの。」
そして歩き出す。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
でも。
その背中は、
誰よりも迷いがなかった。
夕方。
黒猫は窓辺で眠っている。
ランプに火が灯る。
遊び人はノートを開いた。
今日の日付を書く。
そして。
一行だけ残した。
「花は急がない。」
それだけで十分だった。
ページを閉じる。
窓の外では、
マダムが今日も、
いつもの道を歩いていた。
その歩幅は、
昨日と同じ。
今日と同じ。
そしてきっと、
明日も変わらない。
窓辺の金魚草が、風に合わせて小さく揺れた。
マダムはその姿を見て微笑む。
「急いで咲く花より、風と話せる花の方が長く楽しめるのよ。」
今日も、窓辺では誰かの物語が静かに始まる。
窓辺の遊び人④に続く