短編小説|雨の日だけ開く喫茶店:第六十三杯「傘立ての奥」
入口の傘立てに、一本だけ古い傘が残っていた。
その日、店に入ってきた男性は、自分の傘を傘立てに入れてからそれに気づいた。
少し色あせた、紺色の傘だった。
「いらっしゃい。」
「こんにちは。」
男性はいつもの席に座った。
「ブレンドを。」
「はい。」
マスターが珈琲を淹れる。
男性はカップを両手で包み、窓の外を眺めた。
雨は、細く降り続いていた。
しばらくして、男性が入口を振り返る。
「傘立ての奥にある傘、ずっとありますよね。」
マスターはカウンターから目を上げた。
「ええ。」
「誰のものなんですか?」
「分かりません。」
男性は少し驚いた顔をした。
「分からないんですか?」
「長いこと、そこにありますから。」
男性は笑った。
「持ち主が取りに来るかもしれないのに。」
「そうですね。」
それだけ言って、マスターはカウンターへ戻った。
男性は珈琲を飲みながら、もう一度その傘を見た。
骨が少し曲がっている。
持ち手にも、小さな傷がいくつかある。
けれど、まだ使えそうだった。
「使えるのに、置いたままなんですね。」
「使わなくなったのかもしれません。」
「そういうものって、ありますよね。」
男性は自分のカップを見た。
「昔はよく使っていたものなのに、いつの間にか使わなくなってる。」
マスターは何も言わなかった。
男性はしばらく黙っていた。
やがて、珈琲を飲み終える。
「ごちそうさまでした。」
「ありがとうございました。」
男性は傘立てから自分の傘を取り出した。
そのとき、もう一度古い傘を見た。
「まだ、置いておくんですか?」
「ええ。」
「持ち主が戻ってくるかもしれないから?」
マスターは少しだけ考えた。
「そうかもしれません。」
男性は笑った。
「じゃあ、僕も忘れないようにします。」
「何をですか?」
男性は答えなかった。
自分の傘を開き、雨の中へ出ていった。
扉が閉まる。
マスターは入口へ目を向けた。
古い傘は、今日も傘立ての奥にある。
雨に濡れることもなく。
誰かに使われることもなく。
それでも、そこからなくなることもなかった。
マスターはカウンターへ戻った。
空になったカップを片づける。
そして、次の珈琲を淹れる準備を始めた。
