
ハイターの匂いは海の匂い
「あっ」
洗面所のシンクに浮かぶモップを見て、一時間ほど前にハイター漬けしていたことを思い出す。
危ない。
ついこの間も、汚れたタオルを浸したことはさっぱり忘れて、仕事から帰宅した夫に「僕はどこで手を洗えばいいのでしょうか」と眉を下げられたばかりだ。
頭の中で思いつくままに家事をしていると、あと数分後には◯◯をする、というタスクがテトリスのように積み上がり、連結しないまま画面下の方に追いやられてしまう。
何分漬け置いたのかは重要ではなく、気づいた時がやりどきだ。
そう思ってゴム手袋に手を通して、静かに沈んだモップを取り上げた瞬間、ハイターの香りが鼻をかすめた。
──あ、海。
今この瞬間、本当に少しの間だけ、視界にビーチが見えた。
目の前にあるのはただのハイター漬けされたモップと、ざあざあと蛇口から流れる水。
──そういえば、明日の天気予報は雨だっけ。
そんなことを考えながら、私の気持ちは遠い昔に引っ張られていっていた。
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運動音痴ではないが、上手でもない。
そんな自認の私が唯一胸を張って得意ですと言えるのが、水泳だった。
スイミングスクールに通っていたのは小学校6年生の時分まで。
今でも時折、泳ぎたくなる。
プールサイドはいつも独特な匂いと温度で満ちていた。
更衣室で着替えて、学校や家のドアとはちがって重いドアを押すと、むわっとした空気がまとわりつく。
ついで、薬品の匂い。消毒薬を薄めたような、ハイターのような香り。
学校のプールの授業でも似た香りをよく嗅いだ。
だから正確に言えば、ハイターの匂いはプールの匂いなんだけど、私の中ではプールも海も、なんとなく一緒。
すう、と息を吸って肺に空気を溜め込み、水の中へ全身を委ねる瞬間は、同じだから。
泳いでいても浮かんでいても、目に見えてくるものが魚でも前を泳ぐ人のバタ足でも。
いつだって水の中は自由だった。
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海といえば、大学での英語の授業を思い出す。
大学一年生のころ、必修科目として受けた英語の授業は、個人的に苦痛だった。
学部関係なく集められた学生を前に、先生は「日本語は極力話しません」と言った。
いわゆる高校までの英語の授業ではなく、人前でスピーチをすることが多く、事前課題で与えられたテーマを英語で話していく。
聞き終えた先生は、英語で質問をし、それに学生は英語で答えるというスタイルの授業で、人前で恥ずかしい思いをしたくない私は、必死だった。
何回目かの課題は、将来の夢。
私はたどたどしい英語で、西洋美術の学芸員になりたいと話した。たしか、ラファエル前派とクリムトが好きだからとか、そんなことを言った記憶がある。
そのとき、先生にどんな質問をされたか覚えていない。必死だったから。
だけど、授業終わり、教室を出ようとする私を呼び止めた先生は、「本場の海を見なさい。日本の海とは、ちがう色をしているはずだから」とだけ言った。
私が話した絵画に海の絵があったのかもしれない。
もう、記憶はほとんど残っていないけれど、あの時言った先生の言葉だけが、残っている。
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大好きだった人と連絡が取れなくなり、いわゆる音信不通というものを経験した私は、一時期カウンセリングに通っていた。
いくつかのカウンセリングやコーチングを受ける中で、「あなたの前世は、海の生き物だったのかもしれませんね」と言われたことがある。
地上よりも水の中のほうがうまく動けるという私の発言によるもので、そこに1%の根拠も存在していないのだが、私はその言葉をなんとなく信じて生きている。
海は自由だ。
とてもチープに聞こえるが、海は広く、深い。
意思を持ってどこかへ行こうと舵を切ることもできるし、身を委ねて流れ着く先をゴールにすることもできる。おおらかさも兼ね備えている。
燦々と降り注ぐ太陽に照らされる海は、白。奥深く潜れば、漆黒の闇。
まるで陰陽。オセロの白と黒のように、ひっくり返せばとんでもない狂気にもなる、海。
どうしようもなく、海というものの引力に逆らえないでいる。
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結局、私は本場の海を見ることもなければ、学芸員の資格を取ることもなく大学を卒業した。
中学校以来、まともにプールに入ることも、海で泳ぐこともなくなり、海から遠ざかるばかり。
それでもハイターの匂いを嗅ぐたびに、海がこちらを振り返る。
先生の言った海は、どこの海だったのだろう。
地図に載っている海だったのか。
それとも、まだ私が辿り着いていない何かだったのか。
洗面所に立つ私は、まだ知らない。
ただ、ハイターの匂いだけが、潮風みたいに鼻をかすめていった。
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(ちゃんと会いに行きたいね、本物の海に)
