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契約社員主婦の生存戦略記:子育てをマネジメントしてみた

    #創作大賞2026 #ビジネス部門

    ■はじめに


    私は子育てとビジネスが相反するものだと思えない。どちらも限られた資源で、最善の判断を探し続ける行為だからだ。時間もお金も、健康も有限だ。

    昔、テレビで閉業するデザイン会社の経営者が、「これを機にみんな独り立ちするんです」と、従業員さんたちを見つめ嬉しそうに語っていた。その顔は子どもの自立を喜ぶ、父親のように見えた。

    私は、早くに両親を亡くしている。親なんていつ死ぬかわからない。だからこそ、「自分で生き延びる力」を手に入れられる子に育てたかった。親亡き後も、困らないように。そしてあの経営者のように、我が子の自立を誇れる親になりたかった。

    これから、偉そうに語るが、私は決して良い母親でも、立派な母親でもない。感情に任せて怒ることもあるし、面倒くさくなってレトルトカレーやインスタントラーメンを食べさせることだってある。部屋の片付けも面倒くさい。
    ぶつくさ文句も言うし、人の悪口も大好きだ。背中で語れるほど、立派な背中なんか持ち合わせていない。

    親としての自信がない時期も長くあった。長女が生まれた時、育児が思うようにできなくて、私が母親で申し訳なくて仕方なかった。誰かの養子にしてもらったほうが幸せになれるのではないかと、本気で悩むほどだった。
    ふざけながらでも「私が親で良かっただろ」って言えるようになったのは、最近のことだった。

    長男がサッカーをしたいと言った時、保護者と関わるのが面倒で、後回しにした。そのせいで長男は周囲よりスタートが遅れ、必要以上に蔑まれる時間を長く過ごした。上手くいかなくて、悩んでいる息子の姿が忘れられないほど、後悔した。
    「もう少し早く始めさせれば」そう何度も悔やんだ。だからこそ、夢に少しでも近づけるように、なりふり構わずサポートし続けている。

    自分のことで後悔することはそんなに怖くない。私は、死なない限り儲けたと思って生きている。ただ、我が子に関する後悔はなかなか拭えない。

    子どもは一年、一年成長していく。だからこそやり直しが難しい。都度、最適な判断を求められる子育ては、私には高難易度の経営のように感じられた。

    判断の積み重ねの先に、スペインが見えた。

    昨年、スペインに行きたいと願い続けた息子を、ようやく長期留学させることができた。まだ第一関門しか通っていないが、ここまで来るのが長かった。これはコネなしで、サッカーもろくに見たことなかった私が、息子のために考え続けた思考法の備忘録である。

    夢は願っているだけでは、叶わない。

    第一章 出来なかったお前が決める「お前には出来ない」

    ■親が気づかず渡す「呪いの言葉」


    お前なんかには無理だ。

    現実を見ろ。

    所詮、私の子だから。

    悲しいけれど、こんな言葉を口にする親は実在する。この言葉は、何を守っているのだろうか。子どもの未来だろうか。それとも親の体裁だろうか。

    大人は往々にして、自分の見てきた世界だけを正解のように語る。
    知らない世界について、想像だけで真理でも知ったような口ぶりで話す。
    自分の考えと違うものは、今までの人生を否定されているように感じるのか、避け、自分の生きてきた世界を子どもに提供しようとする。
    私はそんな親になりたくない。

    私の息子はサッカー選手として、海外でデビューしたい子だ。バロンドールが心底欲しい。正直、習い事として、サッカーを楽しんでくれたなら、私の負担は格段に減る。

    それに、挑戦には失敗がつきものだ。挑戦しなければ失敗もしなくてすむ。
    周りと歩幅を合わせると、波風は立たないし、冷笑にもあわない。無謀な挑戦に、頭と胃を痛めずに済む。

    そんな状況でも、私は本気で応援している。無謀すぎて、頭がおかしいと思われるのは重々承知だ。
    北海道から関東に行っただけでも、ローカルネットワークの話題に上るような、土地柄だ。海外に行きたいなんて、口に出すことすらためらわれた。

    我が家はスポーツ一家でもなければ、裕福な家柄でもない。コネもなければ、金もない。それでも諦めないのは、私が息子の未来を決める権利が、どこにもないからだ。そして、我が家に生まれたことで、息子の将来が狭まって欲しくなかった。

    お前には無理だと辞めさせたほうが正直楽だ。

    息子に夢を諦めさせ、

    「これで良かったんだ」

    「これが正解だったんだ」

    そんな言い訳をして生きることを強要する気には、到底なれなかった。

    私自身は正直スポーツが嫌いだ。スポーツで飯を食うなんて、ハイリスクな願望にしか思えない。堅実に勉強したほうが、将来の可能性を高めるとも思っている。
    しかし、これはあくまで40年生きた私の今の答えでしかない。さらに40年生きたら、恐らく答えは変わる。
    だから、子どもの考えを否定できる材料は、常に持ち合わせていない。

    前人未到に怯む気持ちはわかる。でも、誰かが成功した道で、我が子が成功しないという確証はどこから生まれるのか疑問だ。

    子どもは「お前には無理だ」を素直に受け取る。
    私は、そんな悲しい呪いを子どもにかけたくない。

    ■お前のケツは、お前で拭え


    「あなたのためだから」

    それは本当に、子どものためになるのだろうか。親が差し出した答えに便乗すると、それが不正解でも、子どもは自分を責めなくてすむ。

    「親が間違っていた」

    「親が決めたことだから」

    私は、こんな言い訳の材料を、子どもに与えるつもりは全くない。誰かのせいにできる人生は、痛みが薄い。
    自分の人生は、痛みがあっても、誰かに委ねるものではない。

    長女が小学校に入学した時、「忘れ物がないように親が確認してあげてください」と言われたが、私は担任の先生に断った。
    慣れるまで忘れ物はしてもいい。それをどう対処するかを考えるほうが重要だ。
    先生に忘れたと言うことも、誰かに貸してもらうことも、予防策を講じることも、自分でできないと困る。

    その結果、長女は何度も確認する子に育った。
    長男と次男は忘れ物をしても気にしない、「困っても、その時はその時」とメンタルの強い子に育った。
    親が整えていたら、「忘れ物は親のミス」で終わってしまっていただろう。
    仕事でも、上司の隣に座ってるだけで得た契約よりも、失敗に終わっても自分で行った商談の方が経験になる。

    自分でした失敗は、常に自分の責任だ。
    ただし、成功したら、自分の手柄にもなる。

    成功も失敗も自分で手に入れないと、それはただの思い出になる。
    悔しくて眠れない日には、何が間違っていたか考え続ける。
    嬉しくて心が跳ねあがる日には、またこの喜びを味わいたいと貪欲になる。
    誰かが決めた答えでは、上澄みを掬ったくらいの感情の起伏しか生まれない。
    抑えきれない感情の浮き沈みから、成長は生まれる。

    だから、何かに挑戦しようと思った時、決定を下すのはあくまでも本人でないと意味がない。
    挑戦をしなかった後悔も、
    挑戦が散った虚しさも、
    成功した喜びも、
    誰かに義務のように押し付けられているようでは、芽生えない。

    子どもだから、わからない。
    子どもだから、可哀想。
    子どもだから。子どもだから。
    そうやって、大人が勝手に決めつけているだけではないか。

    子どもは案外見ている。非力だが、無力ではない。
    自己もあるし、自我もある。

    「子どもだから」は、やってあげている感を出して、満足している親のためのものだ。

    ■守るより転ばせろ


    私が大人になって、自分の一番好きなところは、「命を取られるわけじゃないから、まあいっか」と、たいがいのことは許容できるところだ。
    頭の良い理屈ではないが、この短絡的な思考のおかげで、深刻に悩まないで済んでいる。

    40年生きてきて、山ほどの失敗をした。
    消えたくなるほどの恥もかいた。
    それでも私は今日も、生きている。
    大きな失敗も、恥も、1年経つと、たいして記憶には残らない。どれだけ苦しくても、記憶は薄れていく。さらには、都合よく美談に書き替えられていく。
    今そう思えるのは、私が子どものころから、失敗だらけの人生だったからだ。

    子どものころの失敗なんて、取り返しのつくものばかりだ。致命傷になるほどの失敗は、そうそう起きない。
    かすり傷をたくさん経験することで、重症化させない方法を学ぶ。
    いつしか、かすり傷程度なら気にならなくなる。大人になって、いきなり致命傷を負ってしまうと、立ち直るのは難しくなる。

    失敗させたくないのもわかるが、転ばぬ先の杖ではなく、転んだ時の起き上がり方を伝えるべきだ。
    いくら子どもの道を舗装し続けても、親はいずれ先立つ。いつか守れなくなる日が来るのは明白だ。

    私は大人で母親だけど、いつだって不安だ。何かを始める時には、当たり前に怖い。
    言い訳を並べて、やらない理由を作れたら、こんな楽な話はない。でもそれはいつだって、その場しのぎだ。
    誰かのせいにして、責任を放棄できたら、罪悪感に押しつぶされることも、後悔に苦しむこともない。

    ただ、その先に広がる道に、私はワクワクしないからお断りだ。

    ■夢の保険


    夢は叶うとは限らない。
    叶うと“だけ”信じる行為は、賭けに近い。

    叶えるためには、多くの時間とお金が必要になる。どれだけ努力を重ねても、報われる保証は何もない。夢が叶わなかった時、何も残らない。そんな状態にはしたくはなかった。

    夢は本気で手に入れようとしないと、夢を追う自分に酔いしれ始める。夢追いごっこにはしたくはなかった。
    「最初から本気じゃなかった」
    そんな予防線もいらない。叶わなくても恥ではない。結果は真正面から受け入れないと、本気な息子にも私にも失礼だ。

    ただ、私は夢は叶わない前提で動いている。夢破れた後のことも想定しないといけない。夢を追う時間そのものに付加価値が必要になる。ただの思い出や、言語化できない経験では、将来、戦える武器にはならない。
    スポーツをやっていた実業家が、「あの時の経験が、、」なんて語っているのを見かけるが、あくまでそれは成功したほんの一例にしか過ぎない。スポーツに多くの時間を費やし、後悔した人間の声は聞こえてはこない。語りたくない過去になるからだ。

    私がしたことは、願うことでも、運に任せることではない。夢そのものを一つのプロジェクトとして設計することだった。
    失策も多数あったが、それは大きな問題ではない。社会人になった途端に、能動的で効率的な働き方を求められる。
    だからこそ、考える習慣を身につけさせたかった。

    意識したことは現状を把握して、問題点を洗い出す。それに対して現実的に可能なアプローチと最善と最悪と妥当な着地点を考える。

    あくまでも最終目標は「バロンドールを獲る」だが、その道にたどり着くまでに、どういった選手になる必要性と可能性があるのか、どこでデビューしたいのか、そのために育成期をどう過ごすか。
    大きな目標を少しずつ分解して、今できることに落とし込む。いきなりエベレストは目指せないから、可能な標高の山から攻めていく。
    夢は目標にしないと、霧がかかっている状態で、正体が掴めなくなる。そうなると戦意も落ちていく。

    努力の仕方だって重要だ。何も考えず、むやみやたらにボールを蹴っていても効率が悪い。
    私はよく息子に「1×1=2」と百回唱えてみても正解には辿り着かない。
    「間違った努力では、願った場所には届かない」そう伝えている。
    努力の方向性が間違っていると、無駄な時間を過ごすことになる。質より量と聞くが、質も量も求めるのが一番効率が良い。

    人生は有限であり、残された時間は確実に減っていく。減少していく資産だから何より貴重だ。
    特にスポーツ選手の寿命は、プロになれたところで短い。ならば何より時間を重要視しないといけない。

    この思考方法は、仕事にも、勉強にも応用できる。
    問題点はどこにあって、限りある時間と能力でどう着地させるか。

    この考えを定着させることができたら、夢を追った時間を資産にすることができる。
    夢の回収地点は複数あったって、かまわないはずだ。
    北海道でサッカーをしていても、スペイン語は学べない。しかし、スペインでサッカーをしていると、おまけにスペイン語の習得にもつながる。就職の選択肢が増えるかもしれない。

    これは夢の保険だ。

    「子どもの夢に保険」と聞くと、叶わない前提の嫌な親に聞こえるかもしれないが、全力で走る車に保険をかけないほうがよっぽど無責任だ。
    夢破れたときに、息子をサッカーが上手いだけのおじさんにはしたくない。
    仮にサッカー選手になれたとしても、選手として生きていく時間なんて、人生の前では、ほんのわずかな期間だ。選手生命が終わっても息子の人生は続いていく。その時になってから、新しい人生を考えるのでは遅い。

    プロサッカー選手になれても、なれなくても。
    バロンドールが獲れても、獲れなくても。
    所詮それは、ただの過程だ。
    自分を幸せにできる方法の一つでしかない。

    夢は一つでもいい。しかし、幸せに生きるためには、人生の保険は、複数必要だ。

    第二章 知らなかったは許されない、親の無知は罪

    ■無知は言い訳にならない


    「知らなかった」は、言い訳にならない。 その一言で、可能性がひとつ閉じる。情報は判断するための材料で、少なければ少ないほど、選択肢が減っていく。親の知っている範囲の中で子どもは生きている。
    自分の世界が広がって、親の知らない世界を知るようになるのは、もう少し大人になってからだ。

    「そんなやり方があったんだ、知らなかった」そんな言い訳で、間違ったやり方を提供され続ける側は、とんだ迷惑だ。試行錯誤もせず、正解だと渡し続けたら取り返しがつかなくなる。疑いもしなかったのに、不正解だと気づいた時、衝撃を受けるのは親ではなく、子どもだ。

    だからこそ、親の無知は許されない。
    世の中は知らないことで溢れている。ただし、現代社会は、検索するツールも溢れている。
    もちろん知らなくて、悔やむこともある。しかし、「調べきれなかった」と、「調べなかった」は別問題だ。

    知っていることが増えると、階段を上がるように、だんだんと視野が広がり、遠くまで見渡せるようになる。
    見えていた世界が、実は目の前のことだけだったと気づくのは、今より高い場所まで登ったあとだ。そうなると、次に求める情報のレベルが、少しだけ高くなる。
    1センチだって10回繰り返せば、10センチになる。サッカーが11人制のスポーツだということすら知らなかった私が、今ではスペインでの育成環境を調べている。スポーツ関係者でもない、無知な私たち親子にスペインへ行く道が存在しているなんて、4年前は想像もできなかった。4年後には今では想像もできないことを調べているかもしれない。そのために、私は今日も、無意味に見えることでも、ひたすら探し続けている。

    私はサッカーが嫌いだ。ワールドカップで世の中がお祭り騒ぎをしていても、私はサッカーを見ない。にわかファンにもなれないくらい、興味がない。私が好きなのはプロレスだからだ。それでもサッカーのことは調べられる。
    「知らないから」、「好きじゃないから」は絶対に言い訳にしてはいけない。そんな理由で、子どもの可能性を狭めたくない。

    ■情報の4つの分類


    情報収集は目的を明確にしないと、いらない情報に惑わされる。
    「知りたい」だけが目的になると、それはただのゴシップになる。
    調べて、知った気になって、安心しているときが、一番危ない。たまに、自分が何を知りたかったか、わからなくなる時がある。情報を集めると言っても、その精度も重要だ。

    私は集めたい情報を、大まかに分類している。集めた後も同じように分類する。
    情報迷子にならないために、必要な情報を4つに分類している。

    ①スペインに関する情報=最終目標

    ②Jリーグに関する情報=日本での現在地の確認のための指標

    ③関東のサッカー事情=現状との比較対象

    ④プロになれなかった時の保険=失策になった時の保険

    ①は説明するまでもなく、一番の目標地点だ。
    ②は、上ばかり見ていて現在地がわからなくならないための、より現実的な指標。
    ③は、北海道だけを基準にしないための比較対象だ。道外の同年代との比較や育成状況を知らなければ、北海道の中だけで判断してしまう。
    ④は、夢破れても生きていくための材料だ。

    こうやって分類することで、必要な情報を集めることができる。

    注意したいのは、自分と似た境遇にいる人が集めている情報が、必ずしも自分に必要であるとは限らない点だ。
    「サッカーをやっている子の保護者だから」は、共通項のように見える。しかし、目標や目的が違うと、別競技をしているくらいの開きがある。

    私が欲しかったのは、今日勝つための情報ではない。息子の将来につながる情報だけだ。
    札幌近郊でどこのチームが強いとか、どの指導者の評判がいいとか、同年代の上手い選手の名前には、情報価値を感じない。
    上手い選手が、どのような育成を受けているかなら、話は別だ。
    ただ単に上手い選手の名前を聞いても、どう扱うかわからない。聞いた情報の扱い方がわからない時は、それは不要な可能性が高い。

    ただし、どれだけ足掻いても、サッカー嫌いの私に致命的な欠陥があった。
    それは熱量だ。
    いくら時間をかけても嫌いなものは、好きになれない。そうなると、検索の精度は低いし、整合性も取れなくなる。
    プロレスを調べるときは興味が先立って、次から次に知りたいことが浮かぶが、サッカーにはこれがない。

    私一人で調べ続けても、たどり着ける場所には限界があった。知らない世界を、知らない言葉で検索することはできない。だからこそ、知っている人の力を借りる必要があった。

    私がすべてを理解する必要はない。ただ、必要な知識を持っている人に、繋げることは必要だった。自分が知らないなら、知っている人を探せばいい。自分に熱量が足りないなら、熱量のある人に託せばいい。情報は量ではない。目標に近づくために集めるものだ。
    私がすべきことは、誰の知識を借りるべきかを選択することだ。

    知識のある人に教わることは、贅沢ではなく投資だ。息子の知識が増えると、息子自身の見える世界も変わる。息子が得た知識を共有してもらい、私が次に必要となる情報を探せばいい。

    親が無知であることは避けられない。ただ、無知のまま放置してはいけない。

    ■正当に接近せよ


    コネがないなら作ればいい。知りたい情報があるなら、近づけばいい。

    色々と調べて、息子は小学4年生から、YouTuberたちが運営するオンラインスクールに入った。
    夫は「YouTuberなのか」と懸念を示したが、私としてはYouTuberであることにも価値があった。

    息子はプロになれなかったとき、指導者になりたいと願っている。息子が大人になったとき、少子化が進んで、サッカー少年が減ると予想していた。そうなったら指導者として食っていける人数も減る。自分のプラットフォームを持っていることが、武器になると考えた。

    私は発信力がない。なので発信力のある人と接点を持ちたかった。あわよくば、どうやって発信力を手に入れたのかも知りたかった。
    これは四つ目の「プロになれなかったときの保険」だ。

    いきなりDMを送っても、相手にされるわけなどない。何の接点もない人と関係を作る方法として、一番簡単なのが、正当な「お金を払う立場」になることだ。
    もちろん、教えている内容そのものにも価値を感じていた。しかし、それだけではない。
    「いつか、何かの接点ができたら儲けもの」そんな打算もあった。

    もう一人オンラインスクールには、若いコーチが一人いた。
    珍しい苗字だったので、検索すればある程度の情報が出てきた。それをもとに「J関係者の家族ではないか」と推測した。
    Jの情報が知れるならと、このコーチに近づきたかったのも、決め手になった。
    私が情報をくださいと言って、Jの門を叩いても門前払いに遭うだけだ。近づける可能性がほぼ無いときは、遠回りに見える動きが、案外、近道だったりする。

    今思えば無謀な理論だと思うが、長男は、登録者が10万人を超えているYouTubeに出演させてもらった。念願叶って、J関係者であるお父さんと食事に行く機会もいただいた。
    その時に「息子は、指導者としてきちんとやれていますか?」と聞かれた。私が選んだコーチは、お父さんにとって大切な息子だった。このときに罪悪感がピークに達した。

    「肩書」や「利用価値」からあなたの息子を選んだとは、口が裂けても言えなかった。
    今は指導者として、誰よりも信頼しているが、それは後付けの理論でしかなかった。

    私は過去、彼らを「インフルエンサー」、「J関係者の家族かもしれない人」として見ていた。
    調べすぎるとこんな弊害もある。

    あの時、何も知らなかった私が、情報弱者にならないために動いたこと自体は、間違いではなかった。
    ただ、この罪悪感は打算をし続けた人間への罰だ。それでも動かないよりは、100倍マシだと信じていたい。これは少しの懺悔だ。

    ■長期戦に持ち込める設計


    この目論見は失敗しても、息子はオンラインスクールで技術を学べる。だからこの作戦が失策になっても、何も得られないわけではない、そんな構造だった。
    一番欲しいものは副産物を用意しながら準備しないと、結果を焦ってしまい、中途半端な状態で回収してしまう。これでは、よい結果が得られない。そこに確実に手に入るものがあれば、目先の結果に囚われず長期戦に持ち込める。心が耐えられる状態を意図的に作っておくと、待てる期間に余裕が出る。
    想定できる心理状態は、あらかじめ回避しておくと負担が少ない。

    スクールに入って、技術を学ぼうとするのが当たり前の姿勢だ。そこに、別の目的があると、行動が変わってくる。大切なのは一つの投資で、最大限のリターンを想定しておくことだ。
    同じ環境でも得られるものの量や、価値が違うのは、想定が不足しているからだ。想定がないと行動に変化が起きない。少しの行動の差が、得られる結果を変えることになる。
    リターンは「リターンです」と名乗ってやってこない。こちらから探さないと見落としてしまう。
    最小のコストで最大のリターンを。

    情報で人生が変わると言っても過言ではない。
    これが私の情報との向き合い方だ。

    第三章 無調理を主張する、ありのままで

    ■親が捻じ曲げる「ありのまま」


    「うちの子、我慢が苦手で。思い通りにいかないと怒ってしまうんです。でも、そんなありのままの我が子を愛しているんです。」
    これが一般的だとされる意見なら、私は一般的でなくてよい。
    無条件に愛することと、その課題を課題として認めないことは、同じではない。
    そして、ありのままは免罪符ではない。

    先天的に変えようがないものを、ありのまま許容するのは理解ができる。
    後天的に変えていけるものまで「ありのまま」ですませると、何もしない言い訳に聞こえる。修正の過程で発展途上なだけなら、ありのまま愛そう。
    手つかずでありのままは、怠慢だ。

    息子は、背が高い方ではなかったが、小さくて可愛かった。これならありのまま愛そう。
    ただ、適当でだらしなくて、めんどくさがり屋なところをありのまま受け入れることはできない。
    少しずつ、適当にしないように、なんでも面倒くさいと言わないように改善中だ。すぐに変われなくても、変えようとしている姿勢を愛そう。それが現時点のありのままだから。

    子どもを過度に、子ども扱いする行為も疑問だ。そんなに赤ちゃんではない。話せば理解できる。頑張れば自制も効くのに、「子どもだから」で一掃される。
    子どもだからと、能力や考えを受け止めていない。思った以上に考えがあって、意見があることだって大いにある。

    子どもを過度に褒めるのも、ある種、過度な子ども扱いだ。
    中学生にもなって、一人で靴を履けたと褒めていたら、違和感でしかない。
    どれだけ家庭で過剰に褒められて育っても、社会では、ほかの子と同じ基準で評価される。
    「こんなに頑張ったのに、どうして褒められないんだ」と不満を抱くようになる。

    褒められたくて頑張ることは、決して悪いことではない。ただ自分の成長のために、努力をした結果を褒められる。
    目的が「褒められること」になると、褒められないと努力をしなくなる。
    過度に褒める行為は子どものためではなく、褒めている自分に満足しているように見える。「ありのまま」をはき違えると、子どもの能力まで小さく見積もることになる。叱らない育児の延長は、過度に褒めたたえる育児なのか。

    ■かぼちゃは生で食べられない


    私はネガティブだとか、自己肯定感が低いとか、よく言われる。 それの何がいけないのか、本気でわからない。心配性の不安症と言って欲しい。

    そして世間で言われている「自己肯定感」が、私は好きではない。
    世の中では、自己肯定感が高いほうが素晴らしいとされている。 「ありのままあなたを受け入れて。あなたはそのままで価値がある」らしい。
    私には末恐ろしくて、できやしない。 現状を肯定できるほど、立派な人間だとも思えはしない。せめて悪あがきぐらいはしていたい。
    「ありのままで、そのままで」なんて思えるほどの、仕上がりにはなっていない。

    私の中での【自己肯定感】は、「自身の能力に対する、根拠のない信頼」だ。
    似たような言葉で【自己受容】がある。
    自己受容は「持って生まれた性質への、諦めと許容」

    対義語で【自己否定】がある。自己否定は「能力も性質も、存在そのものを、なんの根拠もなく否定すること」

    この三つは、まったくの別物だ。 わかりやすいかは疑問だが、かぼちゃで例えるならこんな感じだ。なぜ、かぼちゃなのかはここでは、問題にしないで欲しい。

    • 自己肯定感:素材そのままですばらしい。泥付きのままでも、美味しいと言い張っている。

    • 自己受容:私はかぼちゃだ。生のままでは硬くて食べられない。どう料理すれば美味しくなるかを考えたい。

    • 自己否定:私はかぼちゃだからダメなんだ。メロンになりたい。メロンになれないなら腐ればいいんだ。

    未調理で、泥付きの素材を提供しようとする行為は、許されるのか。
    レストランで生のかぼちゃが出てきても怒らない人ならそれでいいかもしれないが、私はパンプキンスープかプリンにして欲しい。

    自己肯定感は自己を肯定できるだけの積み重ねをして、初めて肯定されるべきだ。そこには無数の失敗と、恥が折り重なっている。調理をせずに手に入れた肯定感は、ただの肯定感ごっこでしかない。

    ■不納得が原動力、肯定感は後付け


    自己肯定感が低くネガティブな私だが、行動力だけはある。唯一の長所だ。思い立ったが吉日を真に受けているタイプだ。
    自己肯定感もなくネガティブなのに、なんで行動力があるのか不思議に思われることも多いが、私のは行動力と少し違う。

    自分自身の能力が高いほうでも、持って生まれた運がいいほうでもないことは、本人が一番よくわかっている。
    受け身でいて好転してくれる人生ではなかった。なので金銭的なコストが低く、時間のロスが少ないことはやらない理由がなかっただけだ。昔から安易に納得できない性質だから、動かざるを得なかった。

    高校生のころ、アルバイトをしたかったが、当時のアルバイト情報誌は有料だった。
    私はお金が欲しくて働きたいのに、「誰かの売り上げに貢献しないといけないのか」と、納得できなかった。
    確か350円くらいだったので買えないわけではなかった。ただ腑に落ちなかった。

    それにアルバイトを募集したいタイミングで私が電話したら、広告費がかからずアルバイトが雇える。それなら私でも雇ってもらえる確率が上がるのではないかとも考えた。
    そこで私は、近所のスーパーやコンビニの電話番号を調べて、通える範囲のお店すべてに電話をした。
    家の固定電話でかければ、電話代を親が支払ってくれるので実質無料だ。

    どこのお店もアルバイトは募集していなかったから、採用には繋がらなかったが、私は学んだ。やり方を少し考えると、アルバイト情報誌を買わなくてすみ、更に採用確率が上がるルートも見つけられる。この経験が今でも私の根底にある。

    息子がスペインに行くとき、スポンサーが欲しくて道内企業50社ほどに電話をしてみた。結果は全敗に終わったが私は失敗だとは思っていない。

    つたない説明でも企業の方はきちんと聞いてくれて、お断りの連絡を丁寧にくれた。
    「会社としてはお断りで申し訳ないが、息子さんのチャレンジを応援しています」と、嬉しい言葉をもらえた。
    まだ息子は無名で、スポンサーになってもらうにはリターンが薄すぎた。
    すべて、動かないとわからなかったことだった。この先、息子にスポンサーが欲しいなら、日ごろからリターンを意識しないといけない。未来につながる考えが生まれた。

    こうして「私だってやればできる!」と思えると、小さな自信が積みあがる。
    積みあがった自信で次のチャレンジのハードルが少しだけ低くなる。
    私にとって自己肯定感とは、動いた結果として後から付いてくるものだ。

    第四章 「なんで病」と「どうやったら病」

    ■問いの違いは財産になる


    私と夫は高卒だ。夫は偏差値低めの工業高校。私も偏差値低めの私立高校。私は受験の前夜に深夜番組を見ていても、合格できるレベルの高校を卒業している。私は中学校三年間一度もノートをとったことがないほど、残念な子どもだった。

    そんな夫婦の子どもにしては、長女はそこそこの進学校に通い、長男も単身でスペインに行けるように育った。自分で言うのもなんだが、思った以上に上出来である。なにが良かったのかずっと考えてきた。特別な教育ができる能力は持ち合わせていない。

    ただ、最近一つの仮説にたどり着いた。偶然の産物だが、これが我が家の子育てに影響を与えた可能性が高い。

    問題や課題にぶつかった時に、「なんで」と原因を考える夫。私は「どうやったら」と解決策を考える。
    この些細な違いが、思考の幅を大きく広げた。

    子どもたちと話していても、夫は、
    「なんでそうしたの?」、
    「なんでそう思ったの?」が多い。

    一方私は「どうやったら、防げたと思う?」、
    「どうやったらうまくいったと思う?」と尋ねる。
    同じ話でも、微妙にニュアンスが違う。

    聞かれる子どもたちは、自然と原因を探し解決策を考える癖がつく。
    親の問いかけで、何年もかけてこの思考方法を刷り込まれていった。

    もう一つ私たち夫婦には特徴がある。それは、子どもたちの答えを待つタイプだ。そして、「わからない」は答えにならないので、やり直しになる。
    出した答えが間違っていても、見当違いでもそれは問題にならない。
    何も答えず、親が諦めるのを押し黙って待つようなことは許されない。何時間だって待つし、難しかったらいくらでも一緒に考える。
    子どもたちにとっては、うっとおしかったと思う。
    しかし考える力は、答えの提示ではなく、問いの積み重ねで育っていった。

    ■片側だけでは足りない、「なんで」と「どうやったら」


    子どもが風邪を引いたとき、夫は
    「なんで風邪ひいたの?原因は?」と尋ねてくる。
    私は「どうやったら風邪が早く治るか」を考える。

    結婚当初はこの違いでよく喧嘩をした。
    原因を知り、再発防止をしたがる夫。今すぐ解決策が欲しい私。解決したい時に原因を問われても、見当違いにしか思えていなかった。

    しかし、長男がサッカーを始めてからはこの思考のズレが長男育成のヒントを多く生んだと思う。
    ドリブルができない時に夫は
    「なんであの子はできているのに、長男はドリブルができないのか」考える。
    一方私は、
    「どうやったらドリブルができるようになるのか」考える。

    現時点から考え始める夫と、ゴールから考える私。同じ事柄と出くわしても、考え方がまるで違う。
    優劣の話ではなく、思考の癖の話である。

    「なんで」だけだと、理由を知れたことで満足してしまう。目的は原因追及だからだ。手に入れた「なんで」に対する、対応策が手薄になりがちだ。

    「どうやったら」だけだと、大まかな道筋や、着地地点が見えた段階で満足してしまう。知りたいのは大まかな先行き。そうなると原因追及の範囲が狭くなる。

    思考の癖は、とっさにで出てくるものだから、その場でのコントロールは難しい。ただ一拍置くと後発的に、足りないほうの思考を補うことができる。

    私と夫もかれこれ15年以上一緒にいる。だんだんとお互いの考え方がうつってきている。
    私も夫も「なんで」も「どうやったら」も両方を考えられるようになってきた。

    ドリブル一つをとっても、なんでそのドリブルを覚えるんだろう、どうやって使うんだろう。最近になってようやく両方の意味を探す癖が身についた。

    子どもたちが考える力を身につけたのは、 私たち夫婦に違いがあったからだ。 違いは欠点ではなく、子どもにとっての資源になる。
    喧嘩しているだけでは、もったいない。

    ■違いは諦めて利用する


    自分とまったく同じ考え方をする人間とは、そうそう巡り合わない。
    私たち夫婦も、お互いの違いに苛立っていた時期が長かった。しかし今振り返ると、不毛であった。
    どちらもお互いを思っていない訳ではないが、そもそもの頭の作りが違う。その差に腹を立てるよりも、有効活用できる形に落とし込んだほうが有益だった。

    「なんで」と「どうやったら」
    どちらかに偏って考える癖がある人は、仕事でもプライベートの友人でもいいので、自分と違う思考を持つ人と接してみるといい。

    どちらかが正しいのではない。両方あるから見落としが減る。
    最近、私は意図的に夫の意見を聞くようにしている。違う視点が見つかるので、Wチェックのように使っている。

    一つの結論を出すまでに、原因を探す時間と、解決策を探す時間の両方があったほうがいい。

    考え方の違いは優劣ではなく、差分として利用するのが堅実だ。

    第五章 「選民意識」と「神童モドキ」

    ■その特別はただの選民意識


    選民意識。それは根拠のない特別感で人を見下す行為。

    誰だって時には、自分を特別な存在だと思いたい時がある。
    しかし、特別はある日突然、訪れはしない。特別になるためには、積み重ねた時間が必要だ。
    それは不安で、面倒で、いいことが少ないかもしれない。それでも続けた先に、ようやく見えてくるのが特別だ。自分の求める特別に辿り着こうとする日々が、後から考えると特別だったりする。それが私の思う正しい特別だ。

    不正解の特別は、何もしてこなかったのに自分だから許される。自分はこんなに優れているといった、根拠のない特別だ。これはただの驕りだ。

    不正解の特別が発動するときは大抵、誰かと比べて「自分のほうが優れている」が引き金になる。比べる対象は大抵、勝てそうな相手を選ぶ。勝ち前提で勝敗の判定をして、不利な戦いには持ち込まない。
    しかもその勝敗は自分で決められる。

    比べる相手を自分にすると、努力しない限り勝てない。だから人は、自分より少し劣って見える誰かを探して、安心したくなる。
    お手軽に、「自分が特別だ」と思い込むと、歪んだ選民意識を生むだけだ。

    その根本の原因は、身近なところにある。子どもの世界なんてそんなに広くない。おそらく家庭だ。
    些細なことで褒めたたえ、悪いことをしても叱らない。
    学校でトラブルが起きた時には、我が子の言い分だけを鵜呑みにして相手の責任にする。結果が出なかった時には、教え方や、見る目がないと指導者に矛先を向ける。

    そんな大人の空気感を敏感に察すれば、子どもは自身の落ち度に目を向けなくなる。努力をせずに特別だと言い聞かせることになる。

    その子は誰かに勝つことだけが、価値ある行為と学習する。親に優越感を提供して、褒められようとする。時には、出来ない子を引き合いにしてバカにする。
    こうやって選民意識は作られる。

    しかし、子どもたちが悪いわけではない。大差ないことで、優劣をつけ、それに親が便乗する環境にいる限り仕方がない。

    私は息子に、お手軽な選民で終わってほしくない。誰かと比べて優越感を得る選民ではなく、昨日の自分と戦い続ける「戦民」であってほしい。

    ■神童モドキは親が作り出す


    親は子どもに期待をする生き物だ。私だって子どもに、期待している。
    ただし、結果にだけ目を向けた期待は、プレッシャーでしかないし、評価基準があまりにも狭くなる。私は結果ではなく、過程で息子に期待したい。

    プロサッカー選手になれる未来は、とてつもなく魅力的だ。一番の願いだ。ただ、プロ選手になるために、何が課題で、何の改善が出来るかを考える時間にも期待したい。
    親が、ドリブルが上手くなった、試合に勝った。それだけを褒めると、子どもは目先の変化だけに囚われる。
    私はドリブルが上手くなったからではなく、ドリブルが上手くなる方法を考えたことを褒めたい。もし、試合に負けても、最後まで、どう勝つかを考えて負けたなら、それは称賛に値する。

    親が「○○君より上手くなった」、「○○君はレギュラーじゃないのに、あなたはスタメンだった」
    そんな風に周りと比べて、褒め称え、目先の結果だけを追い求めると、「神童もどき」が生まれる。

    狭い世界しか知らず、狭い世界での勝敗に満足する。大きな目標が立派なわけではない。ただ大きなゴールを目指してる風で、小さいゴールを目指してるがよくないだけだ。結果と満たされる承認欲求が釣り合わない。

    この方法で育てられると、負けが見え始めた時に、真正面から負けを認められなくなる。自分の実力を受け止め、正当に負けを認めないと、次に繋がらない。親が誰かに負けることを、許さない弊害だ。
    誰だって人より、自分が劣っていると認めたくない。ただそれを避けると、現実から目を背けることになる。そうなると、自分の問題点が正しく、あぶり出せない。

    敗北を認めて、足りない物を考え、それでも答えが出なかった時に、自ら頭を下げて教えをもらう。これが出来ないと、人としての成長が望めない。
    自分より優れている人を見た時に、正しく悔しがり、そこから何かを盗もうとする姿勢が必要だ。

    神童もどきに、それは難しい。完成する前に褒められすぎていて、上には上がいることを知らないからだ。
    いや、知ろうとしないからだ。

    ■限りあるカードは大切に

    ネットなどでは「セカンドに落とされた」、「もうサッカー辞めさせたい」、「親が辛い」などとよく目にする。気持ちはよくわかる。
    かつて、私も息子をセカンドに入れ評価しなかったコーチを、内心クソコーチと腹の中で、ずっと思っていた。大人げなく顔も見たくなかった時期も長かった。

    本気ではない子も、今日チームに加入した子でもセカンドに入る。
    何度も、チームメイトに腹を立て、うまくいかない日々にもどかしさを感じていた。

    あの時、私と息子も、「こんなに努力しているのに」と選民意識を持っていた。息子より上手いと思えない選手が、息子に偉そうにしていることに腹を立てた。コーチの見る目がないと、1ミリも疑わなかった。

    そんな状態でも、毎日は続いていく。簡単に変えられない物を恨むより、今あるものに目を向けるしかなかった。
    私が気づいたのは、サッカーでは案外セカンドにも、大きなメリットがある点だった。
    今では綺麗ごとのように話せるようになったが、当時の感情は人には言えない。

    やりたいサッカーはあるのに、足並みがそろわなくできない。それでも勝つためには、一人で頑張っても無理だった。
    息子なりに理解してもらえる言い方に気を付け、指示を聞いてもらうために、圧倒的にチーム内で上手くなろうと努力した。
    同レベルもしくは、劣っている人間の言うことは、聞き入れてもらえないと学んだ。

    チーム全体の総合能力が高くないから、技術だけで勝てることはほぼない。戦術を考えないといけない。
    勝率を少しでも上げるために、試合相手の偵察に出向き、上手い選手と相手の戦術を確認していた。相手を分析する力がついた。

    そして、常にチャレンジャーでいられた。トップチームなら楽勝なチームでも、苦戦を強いられるのはいつも目に見えていた。
    さらに、チームの中でも、セカンドの癖にと言われたり、偉そうにされることも多々あった。
    その度、親子で今に見とけ!絶対に負けない!と誓い合っていた。
    いつだって寝首をかいてやる準備は、怠らなかった。

    人間、いつだって思い通りになんかいかないし、隣の芝生はいつだって青い。
    不思議なもので、誰かの持っているものを羨ましく思っているときは、自分の持っているものに、目が向かない。
    本当は素敵な物を持っているのに、それが目に入らない。

    それが選民意識を持った、神童もどき成長できない要因になる。息子のおかれた環境を恨んでいるだけでは、なにも変わらなかった。あのまま、コーチを恨み、チームメイトを憎んでいたらと思うと末恐ろしい。

    手持ちのカードは簡単に変えられないことが多いけど、カードの切り方はいつだって考えられる。
    持っているものを最大化するのが、手っ取り早い。

    息子が戦民になれるように、私はいつも手持ちのカードの確認を怠らない。

    最後に

    私はよく「子どものために大変だね」と言われることがある。

    そこには、「そんなに息子に期待してバカみたい」と、「よくやるねー」が見え隠れしている。私は、息子のために時間を使っている今を、悪くはないと思っている。好きではないサッカーに時間を使って、色々悩んで、息子の相棒のように過ごす日々を、特別だと感じている。

    正直、とてつもなく大変だ。 スペイン行きの費用の足しにするために、40歳で転職もした。 夫が稼いだお金の多くは息子の留学費用に消え、 私が稼いだお金もほぼ全額なくなった。

    年収のわりに自分に使えるお金はほとんどない。 でも私は幸い、貴金属にもブランド品にも興味がない。 映画を観られれば機嫌が取れる。 苦労は多いけれど、不幸ではない。 息子のために必死な自分を、私は嫌いじゃない。

    私は昔、いいお母さんごっこをしていた。 世間一般の“素敵なお母さん”のまね事をした。 驚くほど性に合わなかった。 言葉遣いは悪いし、声も態度もでかい。 ママ友はいないし、他の保護者とは苦笑いでしか会話できない。 不適合マザーだった。

    今はそれでいい。 私は私として子どもたちと向き合いたい。 それが私が幸せでいるために選んだことだ。
    子育てのせいで、犠牲になっているとは思われたくなくて、私自身が幸せになると決めている。

    私が幸せに生きるためには、後悔をしないことが一番だ。 「あの時こうすればよかった」の“あの時”は二度と来ない。
    私の不幸の根源は、お金がないことでも、承認欲求が満たされないことでもなく、後悔がつのることだ。
    未来の“あの時”を、今、生きている。そう思うとなんだって頑張りたいと思えるようになった。

    学校のテストには明確な答えがある。 でも、生きていくうえで正解があることなんて、ほとんどない。 その場で正解がわからないから、暫定正解を探すしかない。 その暫定正解は途中で変わったってかまわない。 むしろ変わっていくのが自然だ。

    考え方が変わったと責める人もいるけれど、 それの何が悪い。 色々考えた結果、考え方が変わるほうが正常だ。 むしろ「これだけが正解だ」と決めつけるほうが、よっぽど危険だ。

    私は考えることしかできない親だから、 調べて、 迷って、 悩みながら選ぶ。
    私は立派な親ではない。 優秀な人間でもない。 ただ、後悔が怖い臆病者だ。
    未来の私が「あの時、できることはやった」と言い訳できるようにしたい。

    だから今日も、 私なりの“暫定正解”を探している。


     
     
    本気でバロンドールを目指す中1息子と、スポーツ嫌いの母が挑む世界。 育成の舞台はラ・リーガ1部【ラージョ・バジェカーノ】へ。 技術や戦術の話ではなく、“育成と思考”をテーマにした挑戦記録です。 未来に母がいなくなっても、ここが息子のための「思考の武器庫」になるように。

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