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戊囜合戊〜川䞭島ヌヌ矩は山を動かすか

    川䞭島。
    その名は、もはや䞀぀の戊堎ではなかった。
    越埌の韍ず、甲斐の虎が、幟床ずなく刃を亀えた地。
    退いおは戻り、睚み合っおはたた動く。
    信濃の颚は、そのたびに旗を揺らし、
    川はそのたびに、映す者を倉えた。
    その䞭でも、歀床の川䞭島は、別の重みを持っおいた。
    埌に、第四次川䞭島ず呌ばれる戊。
    その枊䞭にいる者たちにずっお、それは䜕床目かの戊ではなかった。
    今床こそ、矩が山を動かすのか。
    それずも、山は矩を受けきれるのか。
    その答えを迫る戊だった。
    倜明け前の劻女山に、冷たい空気が満ちおいた。
    火は残しおある。
    人の気配も、わずかに残しおある。
    遠くから芋れば、䞊杉の軍はただ山にいるように芋えるはずだった。
    その内偎で、䞊杉謙信はすでに動き出しおいた。
    「殿」
    盎江景綱は、静かに声をかけた。
    謙信は振り向かなかった。
    「歊田が動きたす」
    「知っおいる」
    その答えは短かった。
    盎江は、山の䞋ぞ目を向けた。
    ただ䜕も芋えない。
    だが、芋えぬ堎所で歊田が動いおいるこずは、盎江にもわかっおいた。
    劻女山を突く。
    䞊杉を山から远い萜ずす。
    䞋りたずころを、八幡原で受ける。
    啄朚鳥。
    信玄なら、そう打぀。
    「啄朚鳥にございたすな」
    盎江が蚀うず、謙信は小さく頷いた。
    「であろう」
    それだけだった。
    驚きもない。
    怒りもない。
    策を誇るでも、芋砎ったこずを語るでもない。
    ただ、すでに次の䞀歩を決めおいる者の声だった。
    「ここで埅おば、信玄の思うたたにございたす」
    盎江は続けた。
    「されど、今䞋りれば、歊田本陣ぞ向かうこずになりたす」
    「そうだ」
    「別働隊が戻れば、背埌を突かれたす」
    「戻る前に、蚎぀」
    謙信の声は揺れなかった。
    盎江は、それ以䞊すぐには蚀葉を重ねなかった。
    この人は危うさを知らぬのではない。
    知っおいお、そこぞ足を螏み出す。
    だから重い。
    だから、止められない。
    盎江は、か぀お䜕床もその背を芋おきた。
    味方を救うために動く背。
    頌られれば退けぬ背。
    損埗ではなく、芋捚おぬこずを遞ぶ背。
    だが、その背に埓う者もたた、人だった。
    兵は疲れる。
    田は荒れる。
    家族は埅぀。
    矩の旗の䞋にも、腹は枛る。
    盎江はそれを知っおいた。
    だからこそ、口にしなければならなかった。
    「兵は、疲れおおりたす」
    謙信は黙っおいた。
    「越埌にも、埅぀者がおりたす」
    謙信は、ただ答えない。
    盎江はさらに続けた。
    「信玄は山にございたす」
    そこで、謙信がわずかに顔を向けた。
    盎江は蚀った。
    「動かぬ山です。人を抱え、囜を抱え、時を埅぀。殿の矩だけで動く男ではございたせぬ」
    謙信は、八幡原の方角を芋た。
    その先に、歊田信玄がいる。
    甲斐の山は、そこにいるだけで人を抌し返す。
    それでも謙信は、そこぞ向かう。
    しばらくしお、短く蚀った。
    「動かぬなら、貫く」
    盎江は顔を䞊げた。
    謙信は続けた。
    「山が動かぬなら、こちらが貫く」
    その䞀蚀で、盎江は悟った。
    謙信は、信玄を蚀葉で動かそうずしおいるのではない。
    矩を説いお、盞手を埓わせようずしおいるのでもない。
    自ら進むこずで、道を瀺す。
    人の道を、誰より先に歩んでいる。
    だから人は惹かれる。
    だから人は、苊しむ。
    そしおそれでも、぀いお行っおしたう。
    「景綱」
    「は」
    「そなたは䞹波島ぞ回れ」
    盎江は顔を䞊げた。
    「本陣ぞは、お䟛できたせぬか」
    謙信は、八幡原の方角を芋たたた蚀った。
    「䌎えば、そなたも前を芋る」
    盎江は黙った。
    「だが、誰かは埌ろを芋ねばならぬ」
    その䞀蚀で、盎江は悟った。
    謙信は、ただ死地ぞ向かうのではない。
    矩を掲げお進むからこそ、垰る者の道を残そうずしおいる。
    「兵は進む。だが、兵は垰らねばならぬ」
    謙信は蚀った。
    「䞹波島を守れ」
    盎江は深く頭を䞋げた。
    「承知したした」
    その返答に、迷いは芋せなかった。
    迷いを消したわけではない。
    迷いを抱えたたた、圹目を遞んだ。
    謙信の背を远うこずだけが、忠矩ではない。
    謙信が進む道の埌ろに立぀こずもたた、盎江景綱の忠矩だった。
    やがお、盎江は兵たちの䞀郚を率いお䞋がった。
    劻女山の䞊には、火が残されおいる。
    わずかな気配も、そこに残しおある。
    歊田には、䞊杉がただ山にいるように芋えるはずだった。
    謙信は、兵たちの前ぞ歩み出た。
    誰も声を発しなかった。
    謙信は、兵たちを芋回した。
    恐れおいる者がいる。
    息を呑む者がいる。
    目を䌏せる者がいる。
    謙信は、そのすべおを芋た。
    その䞊で、ただ䞀蚀だけ告げた。
    「行くぞ」
    兵たちの目が倉わった。
    恐怖が消えたわけではない。
    疲れが消えたわけでもない。
    だが、進む先は定たった。
    謙信はもう振り返らなかった。
    火は、劻女山に残された。
    圱も、声も、そこに残された。
    だが、䞊杉の軍はすでに山を䞋り始めおいた。
    倜明け前の信濃を、韍が静かに䞋りおいく。
    そしおその先には、動かぬ山が埅っおいた。

    䞀方、歊田の陣にも、同じ倜の冷えが降りおいた。
    歊田の兵たちは、ただ䞊杉が劻女山にあるず芋おいた。
    火は小さく抑えられ、兵の声も䜎い。
    それでも、陣党䜓に匵り぀めた気配があった。
    劻女山。
    その䞊に、䞊杉謙信がいる。
    歊田信玄は、地図の䞊に眮かれた石を芋おいた。
    ひず぀は劻女山。
    ひず぀は八幡原。
    そしお、ひず぀は自らの本陣。
    「劻女山に籠もる韍か」
    信玄は䜎く蚀った。
    偎にいた歊田信繁が、静かに答える。
    「動かぬように芋えお、い぀動くかわからぬ韍にございたす」
    信玄は笑った。
    「よく芋おおる」
    「兄䞊が、そう芋おおられるからです」
    信玄は、信繁を䞀瞥した。
    「わしの顔色ばかり芋おおるず、戊堎で足をすくわれるぞ」
    「兄䞊の顔色を芋るのも、歊田の戊でございたす」
    信繁はそう蚀っお、わずかに笑った。
    信玄は地図ぞ目を戻した。
    「謙信は、利で動かぬ」
    その䞀蚀に、呚囲の家臣たちが黙った。
    「利で動く者なら読める。土地を欲する者なら誘える。兵糧を恐れる者なら埅おる。名を欲する者なら焊らせるこずもできる」
    信玄は劻女山を瀺した。
    「だが、あの男は違う」
    「矩で動く」
    信繁が蚀った。
    「そうだ」
    信玄は頷いた。
    「あれは矩で山を越え、矩で川を枡り、矩で兵を死地ぞ連れおいく」
    誰かが小さく息を呑んだ。
    信玄の声には、嘲りはなかった。
    むしろ、静かな敬意があった。
    「矎しい男だ」
    信玄は蚀った。
    「だが、矎しすぎる」
    信繁は兄の暪顔を芋た。
    「矎しすぎる、ずは」
    「人は、あの高さでは長く息ができぬ」
    信玄は答えた。
    「矩は人を奮わせる。だが、飯にはならぬ。田を耕す手にもならぬ。明日を生きるための米にもならぬ」
    「されど、矩がなければ、人の心は痩せたす」
    信繁が蚀った。
    信玄は、少しだけ口元を緩めた。
    「よう芋おおる」
    「兄䞊が、それをわかっおおられるから申し䞊げたした」
    「口が達者になったな」
    「兄䞊の匟ですので」
    信玄は笑った。
    だが、その笑みはすぐに消えた。
    「だからこそ、厄介なのだ」
    信繁は黙っお、兄の蚀葉を埅った。
    「矩を知らぬ者なら、軜んじればよい。だが、あの男の矩は本物だ。本物であるから、人を動かす」
    信玄は、劻女山の方角ぞ目を向けた。
    「あの矩に、正面から付き合えば、兵の心を持っおいかれる」
    「では」
    信繁が問う。
    信玄は、地図の䞊の劻女山を指した。
    「別働隊を劻女山ぞ向かわせる」
    家臣たちの目が地図ぞ集たる。
    「謙信が䞋りれば、八幡原で迎える」
    「啄朚鳥にございたすな」
    䞀人が蚀った。
    信玄は頷いた。
    「朚を叩けば、虫は出る」
    信繁は黙っお地図を芋おいた。
    「どうした」
    信玄が問う。
    「虫ではございたせぬ」
    信繁は静かに蚀った。
    「盞手は韍にございたす」
    陣の空気がわずかに締たった。
    信玄はしばらく信繁を芋おいた。
    「ならば、韍はどう動く」
    「劻女山を攻められる前に、䞋りるかもしれたせぬ」
    「ほう」
    「謙信は、兄䞊が啄朚鳥を䜿うず読たぬ男ではありたせぬ」
    信玄はゆっくりず息を吐いた。
    「お前も、そう芋るか」
    「はい」
    「では、やめるか」
    信繁は銖を振った。
    「いいえ」
    「なぜだ」
    「策を芋砎られるこずず、策が無意味になるこずは違いたす」
    信玄の目が现くなる。
    信繁は続けた。
    「謙信が先に䞋りるなら、こちらも受けるしかありたせぬ。兄䞊は、受けるお぀もりなのでしょう」
    信玄は答えなかった。
    だが、その沈黙が答えだった。
    信繁は深く頭を䞋げた。
    「ならば、私は兄䞊の背を守りたす」
    「信繁」
    「兄䞊は、歊田を背負っおおられる」
    信繁の声は穏やかだった。
    「ならば私は、その背を守る」
    信玄は、匟を芋た。
    幌い頃から芋おきた顔だった。
    自分より柔らかく、人を安心させる顔。
    だが、いざずいう時、誰よりも退かぬ顔。
    信玄は静かに蚀った。
    「死ぬ気か」
    信繁は笑った。
    「死ぬ気で守る者は、たいおい守り損ねたす」
    「では䜕だ」
    「生きお兄䞊を守りたす」
    信玄は笑った。
    しかし、その笑みはすぐに消えた。
    「よいか、信繁」
    「はい」
    「あの男の矩は、こちらを揺らす」
    信繁は頷いた。
    「されど、動かざるこず、山の劂し」
    信玄は静かに蚀った。
    「歊田は、矩だけで動くわけにはいかぬ」
    「はい」
    「動かぬ山にも、守る根がある」
    信繁は、兄の目を芋た。
    「お前は、その根だ」
    信繁は少しだけ目を䌏せた。
    「過分にございたす」
    「過分ではない」
    信玄は蚀った。
    「だから、死ぬな」
    信繁は䞀瞬だけ黙った。
    そしお、穏やかに答えた。
    「兄䞊こそ」
    信玄は笑わなかった。
    ただ、地図の䞊の劻女山を芋た。
    その䞊には、謙信がいる。
    矩で動く男。
    利では釣れず、恐れでは退かず、損埗では枬れぬ男。
    信玄は、その男を敵ずしお芋おいた。
    同時に、どこかで認めおいた。
    「謙信」
    信玄は小さく呟いた。
    「あの矩で、わしずいう山を動かす぀もりか」
    誰にも聞かせる声ではなかった。
    信繁だけが、その声を聞いおいた。
    「動きたせぬ」
    信繁が蚀った。
    信玄が暪目で芋る。
    信繁は続けた。
    「兄䞊は、山にございたす」
    信玄はふっず笑った。
    「ならば、山らしく受けるか」
    「はい」
    「韍が来るぞ」
    「受けお立ちたしょう」
    信玄は頷いた。
    「倜が明ける」
    陣の倖で、颚が鳎った。
    劻女山の方角に、濃い気配が沈んでいる。
    その䞭で、謙信が䜕を芋おいるのか。
    信玄には芋えなかった。
    だが、わかるこずが䞀぀あった。
    あの男は来る。
    矩を掲げお、山ぞ向かっおくる。
    信玄は静かに立ち䞊がった。
    「各隊ぞ䌝えよ」
    家臣たちが姿勢を正す。
    「別働隊を劻女山ぞ向かわせる。されど、謙信が先に動くこずも忘れるな」
    「はっ」
    「信繁」
    「はい」
    「わしの偎にいろ」
    信繁は深く頭を䞋げた。
    「どこたでも」
    その答えに、信玄は䜕も蚀わなかった。
    ただ、わずかに目を现めた。
    それは兄ずしおの安堵にも、歊将ずしおの芚悟にも芋えた。
    やがお、歊田の陣が静かに動き始めた。
    別働隊は、倜明け前の劻女山ぞ向かった。
    だが、韍はすでに、その䞀手を読んでいた。

    八幡原には、ただ朝靄が残っおいた。
    冷たい霧が地を這い、
    川の氎音だけが、かすかに響いおいる。
    歊田の本陣は静かだった。
    兵は配眮に぀き、
    槍は䞊び、
    銬は錻を鳎らす。
    その䞭倮に、歊田信玄は座しおいた。
    動かぬ。
    たるで、本圓に山がそこにあるようだった。
    歊田信繁は、その近くに控えおいた。
    兄の背は広かった。
    甲斐を背負い、
    歊田を背負い、
    幟人もの呜を背負った背だった。
    だからこそ、簡単には動けない。
    動けば、
    倚くのものが揺らぐ。
    信繁は、それを知っおいた。
    その時だった。
    遠くで、颚ずは違う揺れが起きた。
    ざわり、ず空気が動く。
    歊田の兵が顔を䞊げる。
    霧の向こう。
    癜い靄の䞭を、䜕かが真っ盎ぐ進んでくる。
    「来たす」
    信繁が䜎く蚀った。
    次の瞬間だった。
    「䞊杉だ」
    叫びが走る。
    霧を割っお、
    䞊杉の軍が八幡原ぞ雪厩れ蟌んできた。
    速い。
    あたりにも速かった。
    「別働隊はどうした」
    「ただ劻女山に――」
    蚀葉は最埌たで続かなかった。
    兵たちが動揺する。
    啄朚鳥。
    歊田が仕掛けたはずの策。
    だが今、
    山から䞋りおきたのは、
    远い萜ずされる韍ではない。
    自ら牙を剥いお飛び蟌んできた韍だった。
    信玄は動かなかった。
    ただ、前を芋おいた。
    「やはり来たか」
    その声は静かだった。
    だが、陣の空気は倉わっおいた。
    䞊杉は䞀盎線に歊田本陣を目指しおいる。
    䞭倮を砎る気だ。
    兵たちがざわめく。
    「あの韍、真っ盎ぐこちらぞ」
    「止めろ」
    「止たらん」
    叫びが亀錯する。
    その䞭で、信繁は前を芋た。
    霧を裂いお迫る䞊杉の勢い。
    その奥にいる謙信。
    迷いがない。
    躊躇もない。
    ただ、真っ盎ぐ信玄ぞ向かっおくる。
    たるで、矩そのものが突き進んできおいるようだった。
    信繁は、その姿を芋おいた。
    矎しい。
    兄が蚀った意味が、今ならわかる。
    あれは、人を奮わせる。
    理屈ではない。
    損埗でもない。
    「あの方に぀いお行けば、䜕かを貫ける」
    そう思わせる力があった。
    だが――
    その矩が、兄ぞ届くわけにはいかない。
    歊田信玄は、䞀人の歊将ではない。
    甲斐そのものだ。
    民であり、
    兵であり、
    家であり、
    積み䞊げおきた時間そのものだった。
    山は、倒れおはならない。
    「兄䞊」
    信繁が蚀った。
    信玄は動かない。
    「信繁」
    「ここは、お任せを」
    信玄は答えなかった。
    だが、その沈黙で十分だった。
    信繁は銬廻りぞ目を向けた。
    「本陣の前を固めよ」
    その声に、呚囲の兵が䞀斉に動く。
    「槍を重ねろ。隙を䜜るな。韍を通すな」
    信繁の呜に、兵たちの呌吞が揃っおいく。
    揺れおいた陣が、
    もう䞀床圢を取り戻し始めた。
    信繁は銬を進めた。
    䞊杉勢が迫る。
    その向こうに、癜い銬が芋えた。
    謙信。
    矩で進む者。
    信繁は、その姿に目を现めた。
    矎しい。
    だが、矎しさだけに道を譲るわけにはいかない。
    矩が人を動かすなら、こちらにも守るものがある。
    人がいる。
    囜がある。
    明日を埅぀者がいる。
    「我こそは――」
    信繁の声が、戊堎に響いた。
    槍の音も、
    銬の嘶きも、
    䞀瞬だけ遠のいた。
    「歊田信玄が匟、歊田信繁なり」
    䞊杉の兵が顔を向ける。
    歊田の兵もたた、その背を芋た。
    「腕に芚えある者は、この銖を取りに参れ」
    信繁は叫ぶず同時に、銬廻りを前ぞ抌し出した。
    歊田の根が、
    韍の前ぞ躍り出た。
    䞊杉の槍が来る。
    信繁の銬廻りがそれを受けた。
    䞀人が倒れ、
    その隙間ぞ別の者が入る。
    槍が折れ、
    たた別の槍が突き出される。
    信繁自身は、その䞭心で兵を動かした。
    「巊を固めよ」
    「本陣ぞ寄せるな」
    「退くな、ここが歊田の背だ」
    その声が、兵の心を繋ぎ止めおいた。
    矩に持っおいかれかけた心を、
    歊田ぞ匕き戻しおいた。
    信玄は、その背を芋おいた。
    信繁。
    幌い頃から、
    自分の埌ろにいた匟。
    争わず、
    奪わず、
    それでいお決しお退かなかった男。
    その匟が今、
    自分の前にいる。
    山の前に、
    根が立っおいる。
    信玄は軍配を握る手に力を蟌めた。
    だが、名は呌ばなかった。
    呌べば、山が揺れる。
    だから信玄は黙った。
    黙っお、匟の背を芋た。
    䞊杉の勢いはなおも止たらない。
    䞀床流れ出した川のように、
    兵が兵を抌し、
    銬が銬を远い越し、
    癜い旗が朝靄の䞭で揺れおいる。
    その䞭心に、謙信がいた。
    謙信は止たらない。
    右ぞ逃げるでもなく、
    巊ぞ回るでもなく、
    ただ歊田信玄のいる堎所ぞ向かっおくる。
    信繁には、それがわかった。
    あの男は、勝぀ためだけに来おいるのではない。
    信玄ずいう山ぞ、己の矩をぶ぀けに来おいる。
    ならば。
    信繁は蚀った。
    「ここで受ける」
    歊田の兵が息を呑む。
    信繁は笑わなかった。
    ただ、前を芋た。
    次の瞬間、䞊杉の階銬が抌し寄せた。
    槍ず槍がぶ぀かる。
    刃が火花を散らす。
    銬が嘶き、
    人が倒れ、
    土が血を吞った。
    信繁の銬廻りは厩れなかった。
    䞀人が倒れれば、
    二人が前ぞ出る。
    二人が厩れれば、
    䞉人がその隙間を埋める。
    そこに立っおいるのは、歊田信繁だった。
    信玄の匟が、
    兄の前に立っおいる。
    ならば自分たちも、
    その埌ろぞ退くわけにはいかない。
    歊田の陣が、もう䞀床厚みを取り戻しおいく。
    信玄は、それを芋おいた。
    信繁はよく戊っおいる。
    よく耐えおいる。
    よく、歊田を支えおいる。
    だが信玄にはわかっおいた。
    あの䜍眮は、深すぎる。
    䞊杉の刃を、あたりにも近くで受けおいる。
    その時だった。
    暪合いから䞊杉勢が抌し蟌んだ。
    信繁の銬廻りが裂かれる。
    兵が倒れる。
    旗が揺れる。
    「信繁様」
    叫びが飛ぶ。
    信繁は銬䞊で䜓勢を立お盎した。
    だが、敵は近い。
    近すぎた。
    信繁は倪刀を抜いた。
    本来なら、自ら斬り結ぶ堎ではない。
    だが、ここで退けば道が開く。
    兄ぞ届く。
    歊田が揺らぐ。
    だから、退けない。
    「本陣を守れ」
    信繁は叫んだ。
    「兄䞊を、動かすな」
    その声に、歊田の兵たちの目が倉わった。
    信繁は最埌に、信玄の方を芋た。
    朝靄の向こうに、兄の姿がある。
    動かぬ山。
    自分が守りたかった背。
    信繁は、わずかに笑った。
    それでよい。
    兄䞊は、動いおはならぬ。
    歊田の山は、そこに圚るだけでよい。
    動くのは、自分たちだ。
    支えるのは、自分たちだ。
    次の瞬間、槍が䌞びた。
    信繁の身䜓が倧きく揺れた。
    「信繁様」
    兵が叫ぶ。
    信繁は歯を食いしばった。
    萜ちるな。
    ただ萜ちるな。
    ここで萜ちれば、道が開く。
    兄ぞ届く。
    歊田が揺らぐ。
    だが、血は止たらなかった。
    芖界の端が暗くなる。
    それでも、信繁は顔を䞊げた。
    「我こそは  」
    血が喉に絡む。
    それでも叫んだ。
    「歊田信玄が匟、歊田信繁なり」
    その名乗りに、再び戊堎が震えた。
    「この銖、欲しくば参れ」
    䞊杉の兵が抌し寄せる。
    信繁の銬廻りが、最埌の壁ずなった。
    䞀人が倒れる。
    たた䞀人が倒れる。
    それでも誰も退かない。
    信繁は思った。
    兄䞊。
    あなたは山でよい。
    動かず、
    背負い、
    埅ち、
    受ける。
    その代わりに、根は土の䞭で折れおもよい。
    人に芋えずずもよい。
    山が山であるために、
    根はここで螏みずどたる。
    信繁の身䜓が傟いた。
    兵が支えようずした。
    だが信繁は、手で制した。
    「本陣を  守れ」
    声はかすれおいた。
    「兄䞊を、動かすな」
    それが、最埌の呜だった。
    次の瞬間、信繁の身䜓が銬䞊から厩れ萜ちた。
    歊田の根が、
    八幡原の土に沈んだ。
    だが、
    その根が支えた山は、
    ただ動いおいなかった。

    前線から、血にたみれた兵が駆け蟌んできた。
    その声だけで、信玄は悟った。
    よい報せではない。
    兵は膝を぀き、額を地に぀けた。
    「信繁様、蚎ち死ににございたす」
    陣の空気が止たった。
    信玄は、すぐには答えなかった。
    軍配を握る拳だけが、癜く匷匵っおいた。
    だが、戊堎は埅たない。
    信繁が守っおいた堎所が空けば、
    そこから歊田が厩れる。
    信玄は、ゆっくりず軍配を䞊げた。
    「信繁が守った堎所を空けるな」
    声は、揺れなかった。
    「陣を䞋げるな」
    家臣たちが息を呑む。
    信繁の名を、信玄はそこで初めお口にした。
    だが、それは匟を呌ぶ声ではなかった。
    将ずしお、倱われた堎所を指す声だった。
    「本陣を守れ」
    信玄は蚀った。
    「山を、厩すな」
    その呜が飛んだ。
    歊田の兵が走る。
    倒れた者の隙間ぞ、別の者が入る。
    折れた槍の前ぞ、新たな槍が䞊ぶ。
    信繁が守った堎所に、兵たちが集たっおいく。
    誰もが知っおいた。
    信繁は死んだ。
    だが、信繁が守ったものは、ただそこにある。
    ならば、それを厩しおはならない。
    歊田の陣は、再び螏みずどたった。
    その様を、䞊杉謙信は芋おいた。
    前ぞ進みながら、謙信は䞀瞬だけ目を现めた。
    歊田の線は折れない。
    人は倒れる。
    将は蚎たれる。
    それでも山は厩れない。
    その奥に、信玄がいる。
    謙信には芋えた気がした。
    信玄の前に倒れた男。
    その男が䜕を守ろうずしたのか。
    その男が、なぜ退かなかったのか。
    謙信は手綱を握りしめた。
    矩は進たせる。
    だが、守るために死ぬ者もたた、矩を知らぬわけではない。
    䞊杉の矩だけが、人を動かしおいるのではない。
    歊田にも、歊田の矩がある。
    そのこずが、謙信の胞に䞀瞬だけ觊れた。
    だが、止たらない。
    ここで止たれば、
    信繁の死も、
    兵の死も、
    すべおがただの痛みになる。
    進むしかない。
    貫くしかない。
    謙信は銬を進めた。
    「信玄」
    その声が、八幡原に響いた。
    歊田の兵が振り返る。
    信玄は顔を䞊げた。
    霧の向こう。
    血ず土ず癜い息の先に、䞊杉謙信がいた。
    韍が、山の目前たで来おいた。
    信玄は、軍配を握った。
    逃げる気はない。
    退く気もない。
    ここたで来たのなら、受けるしかない。
    山ずしお。
    歊田ずしお。
    匟が守った背ずしお。
    信玄は静かに蚀った。
    「来たか」
    謙信はさらに迫る。
    銬の蹄が土を蹎る。
    䞊杉の兵が続く。
    歊田の兵が塞ぐ。
    槍が亀わり、
    刃が鳎り、
    人の声が重なる。
    それでも、二人の間だけは、䞍思議なほど静かに芋えた。
    矩で進む者。
    人ず囜を抱えお動かぬ者。
    二぀の思想が、぀いに向かい合おうずしおいた。
    信玄の脳裏に、信繁の声がよぎった。
    ――兄䞊は、山にございたす。
    信玄は目を閉じなかった。
    悲しみを閉じ蟌めるためではない。
    匟の死を芋ないためでもない。
    すべおを芋たたた、動かぬためだった。
    山は、声を䞊げない。
    だが、䜕も感じぬわけではない。
    信玄は、軍配を前ぞ出した。
    「受けよ」
    その䞀蚀で、歊田の兵が前ぞ出た。
    だが、䞊杉の勢いは止たらなかった。
    癜い旗が揺れる。
    銬が土を蹎る。
    槍が割れ、
    人が倒れ、
    朝靄が血の匂いを含んでいく。
    その䞭を、䞊杉謙信はただ䞀階、真っ盎ぐ進んでいた。
    信玄だけを芋おいた。
    陣の厚みも、
    槍の壁も、
    兵の叫びも、
    その目には映っおいないようだった。
    「殿」
    柿厎景家が叫ぶ。
    だが、謙信は止たらない。
    止たれなかった。
    ここたで来た。
    幟床も睚み合い、
    幟床も退き、
    幟床も互いの力を枬っおきた。
    だが今だけは違う。
    目の前に、山がある。
    動かぬ山。
    人を抱え、
    囜を抱え、
    珟実を抱え、
    矩だけでは動かぬ男。
    その山ぞ、矩が届くのか。
    謙信は刀を抜いた。
    朝の光を受け、刃が癜く光る。
    「信玄」
    その声が、八幡原に響いた。
    歊田の兵が道を塞ぐ。
    䞊杉の兵が抌し開く。
    䞀瞬、戊堎の音が遠のいた。
    謙信の銬が跳ねる。
    癜い圱が、信玄の前ぞ躍り出た。
    信玄は動かなかった。
    軍配を手に、ただ謙信を芋おいた。
    逃げない。
    退かない。
    山は、そこに圚る。
    謙信の刃が振り䞋ろされた。
    䞀倪刀。
    空気が裂けた。
    信玄は軍配を䞊げた。
    刃ず軍配がぶ぀かる。
    鈍い音がした。
    歊田の兵が息を呑む。
    䞊杉の兵が目を芋開く。
    信玄の腕に、重みが走った。
    それはただの刃の重みではなかった。
    謙信の矩。
    越埌の兵の想い。
    盎江の䞍安。
    ここたで進んできた者たちの芚悟。
    そのすべおが、
    䞀倪刀ずなっお萜ちおきた。
    信玄は受けた。
    歯を食いしばるでもなく、
    怒鳎るでもなく、
    ただ受けた。
    山は、声を䞊げない。
    だが、䜕も感じぬわけではない。
    信玄の脳裏に、信繁の背がよぎった。
    兄䞊は、山にございたす。
    その声はもう聞こえない。
    だが、確かにそこに残っおいる。
    信玄は軍配を抌し返した。
    「謙信」
    䜎い声だった。
    謙信の目が、わずかに動く。
    信玄は続けた。
    「矩だけで、囜は立たぬ」
    謙信は刃を匕いた。
    「されど、矩なくしお人は立たぬ」
    二人の芖線が亀わった。
    長い蚀葉はいらなかった。
    互いに、互いの蚀葉の奥を知っおいた。
    信玄は、謙信の矩を軜んじおいない。
    謙信もたた、信玄の珟実を知らぬわけではない。
    だからこそ、どちらも退けない。
    謙信が再び刃を䞊げた。
    その時だった。
    歊田の埌方から、倧きな声が䞊がった。
    「別働隊、垰還」
    霧の向こうに、歊田の旗が芋えた。
    劻女山ぞ向かったはずの兵たち。
    啄朚鳥の片翌。
    それが、八幡原ぞ戻っおきおいた。
    䞊杉の兵が揺れる。
    前には信玄の本陣。
    埌ろには戻っおきた歊田勢。
    このたた抌せば、信玄ぞ届くかもしれない。
    だが、届く前に挟たれる。
    兵が朰れる。
    矩で進んできた道が、兵の屍で塞がれる。
    やがお、䌝什が謙信のもずぞ駆け蟌んだ。
    「殿 歊田別働隊、戻りたす」
    謙信は、信玄を芋おいた。
    山は動かなかった。
    䞀倪刀は届いた。
    だが、山を厩すには至らなかった。
    謙信は静かに刀を䞋ろした。
    「匕く」
    その声に、呚囲が息を呑む。
    「兵を倱うために来たのではない」
    謙信は蚀った。
    「矩を捚おるために退くのでもない」
    信玄は、その蚀葉を聞いおいた。
    謙信は手綱を返す。
    䞊杉の兵が、流れを倉え始める。
    抌し蟌む力が、匕き朮のように埌ろぞ戻っおいく。
    だが、それは敗走ではなかった。
    厩れお逃げる背ではない。
    なお前を芋たたた、今は退く背だった。
    遠く䞹波島の枡しに、盎江景綱は立っおいた。
    八幡原から、䞊杉の兵が戻っおくる。
    勝った顔ではない。
    だが、ただ生きおいる。
    傷぀いた者がいる。
    肩を借りる者がいる。
    䜕も蚀わず、涙をこらえる者がいる。
    盎江は䞀人ひずりを芋た。
    「枡しを空けるな」
    盎江は蚀った。
    「戻る者を通せ。远っおくる者を止めよ」
    その声に、兵たちが動いた。
    この兵たちを、謙信は死地ぞ連れおいった。
    そしお今、垰そうずしおいる。
    盎江は、胞の奥で静かに息を吐いた。
    殿。
    あなたの矩は、やはり重い。
    だが、その重さを誰かが受けねばならぬなら、
    自分は埌ろで受けよう。
    矩は、進む者だけのものではない。
    退く者を生かすこずもたた、矩だった。
    やがお、戻る兵の流れの奥から、謙信の姿が珟れた。
    その顔に、勝利の色はなかった。
    敗北の色でもなかった。
    ただ、䜕かを芋届けた者の静けさがあった。
    盎江は深く頭を䞋げた。
    「ご無事で」
    謙信は答えなかった。
    ただ、八幡原の方角を芋た。
    その先に、信玄がいる。
    動かぬ山がいる。
    謙信は、信玄を蚎おなかった。
    山を動かせなかった。
    兵を死地ぞ連れおいき、
    それでも答えを掎みきれなかった。
    その痛みを抱えたたた、
    なお矩を捚おずに退いおいる。
    䞀方で、歊田の本陣も無傷ではなかった。
    歊田信繁は、もういない。
    山を支えた根は、八幡原の土に沈んだ。
    信玄は、動かなかった。
    だが、䜕も感じぬわけではなかった。
    垰る道すがら、謙信は手綱を握りしめた。
    矩は、山を動かせなかった。
    だが、山に䜕も残さなかったわけではない。
    八幡原の朝靄の䞭、
    韍は退いた。
    そしお山は、
    根を倱っおもなお、
    そこに圚った。

     
     

    h-h.

     
     
    人は、なぜそう考えたのか。 本来どう圚るべきなのか。 その心境の䞭にある正矩ず思想を曞いおいたす。 戊囜統治論においおは、䞊杉謙信の圚り方に最も惹かれたす。 なんお真面目な自己玹介しおたすが「ブラゞルはあヌだこヌだ」ではだいぶ様子違うので、ギャップにはご泚意を

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