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画面の向こう、同じ呼吸をしている誰かと

    十七歳で、恋をしていて、それは五月の真新しい日曜日で、当然ながらぼくは迷いというものを持たない。

    出典:村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社)

    最近読んだ本の中に、私を惹きつけることばの並びがあったとき、それを誰かに話したくなる。
    それで、誰に話そうかとキョロキョロと周りを見渡した後、ふと思い出して、誰かに話すという選択肢を取り下げるのは、それが村上春樹さんの作品だからだろうか。

    いつからか、ある作家の作品について、あるいは、ある作家について語ることのハードルが高くなってしまった。
    「街と不確かな壁」に登場する台詞を話題に出すからには、「街と不確かな壁」と「街と、不確かな壁」、そして「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」について正しい説明が出来なくてはいけない。
    なぜかそんな妙な責任感が湧き上がる。

    大学時代、友人が村上春樹の作品をいくつか紹介してくれて(鼠三部作だったと思う)それらを読んだ後、大学構内のカフェテリアでふとその話題が上がり、
    「井戸があったら、下りるよね」
    「そう。下りるよね、取り敢えず」
    なんて会話を交わした後、何の講義が休講になったとか、レポートの期日がどうとかの話題に遷移していく、そんな気軽さが今はない。

    この作品が好き、と言うための資格。
    間違った解釈を主張して、罰を受ける、極端な構図として思い浮かぶのは、小川洋子さんの「仮名の作家」だ。

    「仮名の作家」

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    出典:小川洋子『口笛の上手な白雪姫』(幻冬舎文庫)


    差し障りがあるといけないので、恋人の名前は仮にミスターMMとでもしておこうと思う。
    彼はその名を聞けば誰もが知っている作家だ。

    出典:小川洋子『口笛の上手な白雪姫』所収「仮名の作家」


    物語の輪郭を私なりにたどる


    語り手である『私』にとって、ミスターMMの小説を初めて読んだその日から、ミスターMMは永遠の存在となった。
    『私』はミスターMMの新刊が出ると、広範囲の本屋巡りをして一冊ずつ彼の新刊を買い、町のあちこちに置き去りにする。
    それは、ミスターMMの素晴らしい作品を世界に配置し、それを偶然手にした誰かに、かつて目にしたことのない風景を見せてあげるという奉仕だった。
    『私』は、ミスターMMの書いた小説すべてを暗記している。
    一冊、全部の暗記を完了し、最後のページを閉じると、全身にすっぽりとミスターMMが収まっているのを感じる。
    そして、こんなにも完璧に一体になれる恋人同士は他にいない、と確信するのだった。
    ミスターMMは時々、読者のための集まりを開いている。
    そのプログラムの最後の、読者からの質問コーナーで、誰も手を挙げる人がなく、気まずい空気が流れたとき、『私』はミスターMMを救うために手を挙げ、準備なしに質問をする。
    それをきっかけに、事態は思わぬ方向へ流れていく。

    好きという偏り

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    『私』はミスターMMを恋人と呼ぶが、ミスターMMにとって『私』は、読者の一人でしかない。『推し』と相思相愛の関係にあることを思い描いたり、ときには思い込んだりするのは甘く、微笑ましく、普遍的なことのように感じる。また、準備なしに発言することになり、焦りと混乱から自分でも予想のつかない言葉を連ねてしまうことも、それにも関わらず、予想外の寛容な反応が返って来て舞い上がる心境も、私は自分のことのように共感する。『私』が、彼の小説のどこにも書かれていない架空の場面について発言をするようになってしまったのは、純粋さと熱心さ故のことだと思う。そこに、ミスターMMを侮辱する意図や、彼の作品を尊重しない姿勢などの不純物が紛れ込む余地はない。そして、純度の高さ故、暴走は止まらなくなる。『私』は、読者の集いの参加者に、でたらめばかりを言ってミスターMMを侮辱していると糾弾され、押さえつけられる。

    『私』がとても特殊な人だと、ともすれば危険な人だと言われれば、反論はできなさそうだ。
    そして私は、この作品に登場する『私』のように、敬愛する作家――村上春樹さんも、小川洋子さんも――の小説を一冊丸ごと暗記したり、四十冊、五十冊購入して世界に配置し、新しい読者を開拓したりする熱心さはない。
    しかし、私はこの作品の中の『私』と自分を重ねてしまう。この作品ほど極端でなくても、私の感想を自由に述べることが、私を窮地に追い込む可能性があるということは、私にとっては現実的な問題だ。

    私は、国語という教科の現代文という科目で評価される『正確な読解』はできていないのだろうと思う。
    多数決で決まる正解を予想することは、練習を重ねることでできるようになった。しかし、小説を読むとき、特に好きな作品を読むときは、客観的な読解というものができない。
    むしろその小説を読んでいるというよりは、その小説を読んでいるときに自分の心に浮かぶものを咀嚼し、味わい、飲み込むことに幸せを感じていると言った方がよさそうだ。

    それならば、自分の心に浮かぶものを自分の中だけで楽しみ、誰かを不愉快にさせてしまうリスクなど冒さなければいい。
    そう分かっていても、『仮名の作家』に登場する『私』が、ミスターMMをまだ知らない人へ彼の作品を届けるように、
    ミスターMMの読者のための集いに参加し、手を挙げるように、
    「発したい」と望んでしまう。
    しかも、リスクが少なく、多くの人の共感を得られそうな「多数決で決まる正解」的な発し方ではなく、私なりの発し方で。

    専任教諭だった頃、私が担任をしている高校生のクラスで、毎月学級通信を作っていた。
    そこには『今月のお薦め本』コーナーがあり、生徒が投稿してくれることもあれば、投稿がない月に私のお薦め本を載せることもあった。
    私がそこで最初に紹介した小川洋子さんの作品は、短編『バックストローク』だった。
    周囲の人たちからは、高校生に最初に薦めるなら『ブラフマンの埋葬』か、『博士の愛した数式』だろう、と指摘された。

    また、友人に薦められて、知らないアーティストが歌う知らない邦楽を聴き、その歌詞の一節がとても気に入って、機会がある毎にその歌詞の一節を紹介していた時期があった。

    「人の優しさに触れたとき、自分の弱さを知りました」

    しかし、その曲を知っている人に出会い、私が誤って記憶していたことを教えてもらった。正しくは、

    人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました

    出典:MONGOL800「あなたに」(作詞:上江洌清作/作曲:MONGOL800)

    だった。
    私が好きな作家や、好きな作品について語る時、それが事実であることや情報の正確さの優先順位は低い。
    好きであればあるほど、理性よりも「好き」という感情が優位になるからだ。

    暗闇を照らす言葉、曇り空を笑い飛ばす空間

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    人気作家の作品の感想をSNSで述べるハードルの高さを感じると同時に、SNSでの思いがけない嬉しい出会いに、度々驚き、嬉しい興奮につい笑顔がこぼれてしまう私がいる。それは、「自分だけだ」と思っていた気持ちが、実は誰かの胸の中にもあったと知る瞬間との出会いだ。そう気づいた瞬間、恥ずかしさよりも、静かな安心が先に、私の胸を満たす。

    例えば、noteで活躍されている芥さんは、匿名で「誰にも言えなかった苦しみ」を受け取っている。
    思いを手紙として送ると、芥さんが丁寧に返事を返してくれる。
    手紙のやり取りは基本的に mond で行われ、そこからさらに深めたいものが、note にそっと公開される……そんなシステムであったと記憶している。
    その手紙を読んだ人たちが、
    「自分も同じだ」と声を上げたり、
    「自分のことかと思った」と反応しているのを見ると、私の胸の奥は少しだけ温かくなる。
    誰かの痛みに、別の誰かが静かに頷く。
    「私も同じだった」と。
    その光景を見て私は、自分の沈黙が孤独そのものではなかったと知る。


    TikTokで活躍されている下等さんは、等身大の日常や日々思うことを、コメディタッチで投稿している。
    「育ちが良すぎて」
    と、『おすすめ動画』の中で彼が語り始めたとき、満員電車やジャンクフードを新鮮に感じるとか、騙されやすいとか、そういう話が始まるのかと思った。

    「育ちが良すぎて、誰にでも挨拶をするんです。
    挨拶を返さないって分かってる相手にも。育ちが良すぎて、挨拶外しってことができないんですよ、育ちがいいから。品位があるから、行動だけは。」
    彼の滑らかな口調と、くるくる変わる表情から『笑いを取りに来ている』と気付く。

    「でも心の広さが伴わないんです。
    例えば、駅で人とぶつかりかけた他人にも、条件反射で謝罪しちゃう。「あ、すみません」って。育ちがいいから。
    でも、相手が「チッ」とか舌打ちして睨んでくると、「なにを被害者ヅラしてんだ」って思っちゃう。
    心の許容量が足りないぃ。
    育ちが良すぎる~。でも心の広さがついていかないぃ。苦しい~」

    コメディアンの重要な要素の中のひとつに、表情の豊かさがあると思う。
    下等さんはジム・キャリー顔負けの表現力とテンポのよい語り、絶妙の間で、哀愁を漂わせながらも笑いを誘う。
    たまたま電車を待ちながらスマホでその投稿に出会った私は、笑いをかみ殺すのに苦労した。
    笑いを堪えながら、私は何度も頷いた。
    挨拶に限らず、何の見返りも求めずに与えたものについても、相手が「与えられて当たり前」という態度を取ると、与える意欲が下がるとか、そういう『恥ずかしい愚痴』として心の奥に隠すべきだと思っていたことを、下等さんは「これは人間の普遍的なばかばかしさだよ」と教えてくれる。
    私はその日から、彼のことを密かに「人類のめんどくさい感情の翻訳者」と呼ぶことにした。

    @katosan5mx

    これは世にいういい子症候群なのだろうか…悩み 雑談

    ♬ オリジナル楽曲 - 下等さん - 下等さん


    芥さんが作る居場所と、下等さんに笑わされてしまう時間。
    全く異なるものだし、私がこうしてお二人のことを一行の文字列にして綴ることに、否定的な考えを抱く人もいるかも知れない。
    でも、今の私がお二人の投稿から得ている静かな安定と、ふっと灯る光は、比較できるものではなく、どちらも必要でいつも大切だ。

    痛みを溶かし、孤独を抱きしめる真摯な救いと、小さな違和感を吹き飛ばす軽快な笑い声。
    それらの破片をネットの海から拾い集めて、何とか立ち上がって、また歩き出す。歩き出そう。いや、歩き出せそう、多分。













     
     
    やっと「社会に適応している風」に振る舞えるようになった気がしている(たぶん)社会不適応者です。今は、映画と小説とコーヒーが好きで、数学もちょっと好きな普通の人って顔をして生きている私ですが、荒んでいた過去ときちんと向き合えるようになりたくて、noteを始めました。

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