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他人の顔は、見えていた


    「怒りは帰り道で追いついた。」


    会議で自分の提案が却下された教師が、 「あ、そうですよね(笑)」と言う。
    その場では笑っていたのに、 午後になると、 別の誰かの小さなミスを必要以上の強さで責めている。
    ああ、と私は思う。 さっきのあれが、まだ残っているのだ。

    理不尽な校務分掌を押しつけられた教師が、 「はい、わかりました」とにこやかに引き受ける。
    しばらくすると、机に向かったまま小声でぼやき始める。
    自分では気づいていない。

    私は、ああはならないと思っていた。

    *

    私は思ったことを率直に言うほうだった。

    会議で、おかしいと思えば 「それはおかしいと思います」と言った。 納得できなければ 「納得できません」と言った。

    校長の取り巻きの一人だった学年主任は、 それが気に入らなかったようだ。

    ある日、校長室に呼ばれた。

    校長は机の向こうに座ったまま、 こちらを見なかった。
    手帳のような小さなノートを開いて、 そこに目を落としたまま話し始めた。

    「協調性がない」
    「周囲と足並みが揃っていない」
    「もう少し考えて発言してほしい」

    私は何か言おうとした。
    あの会議で何を言ったのか、 なぜそう言ったのか。
    理由があった。

    口を開きかけたとき、校長がノートから目を上げた。
    初めて、こちらを見た。

    「上司の言うことには従うように教育されてこなかったのですか」

    低く、重い声だった。 そのまま、上から降ってきた。

    口の中が乾いた。 開きかけた唇を、そのまま閉じた。

    校長はノートを閉じた。

    「いいから。わかったね」

    立ち上がった。 膝に置いていた手にだけ、力が残っていた。

    「失礼します」

    声は、いつもと同じ高さだった。

    校長室のドアを閉め、廊下を歩いた。
    すれ違った同僚に軽く会釈をして、職員室の自分の席に戻った。
    机の上の採点途中のプリントを手に取り、赤ペンで丸をつけ始めた。

    手は止まらなかった。

    *

    帰りの車の中だった。

    信号で止まったとき、 不意に視界がぼやけた。

    涙だった。

    赤信号がにじんで、二重に見えた。 涙が頬を伝って、顎から落ちた。

    次の瞬間、声が出た。

    「くそじじー」

    車の中で、ひとりで、ハンドルを握ったまま叫んでいた。

    窓は閉まっていた。 外に漏れていたかもしれない。 でも構わなかった。

    信号はまだ赤だった。

    「くそっ、くそっ」

    何度も言った。

    自分の声なのに、少し遅れて耳に届いた。

    校長室では何も感じなかった。
    廊下でも、職員室でも、プリントに丸をつけているあいだも、 自分は平気なのだと思っていた。

    でも、違った。

    信号が青に変わった。

    涙を手の甲で拭って、アクセルを踏んだ。

    その日から、自分の「平気」を前ほど信用しなくなった。


    「聞いていたよ」と言った。聞いていなかった。


    生徒が聞いていないのは、見ればわかる。

    目を見れば、入っているかどうかは、だいたいわかる。
    こちらを向いていても、目の焦点が少しだけ遠い子がいる。
    頷いていても、そのリズムが話の内容と合っていない子がいる。

    毎年、同じような顔を見ているうちに、そのくらいは見えるようになっていた。

    朝のホームルーム。
    連絡事項を言い終わる。
    一分もたたないうちに、誰かが来る。

    「先生、日誌は集めないんですか?」

    さっき言った。

    「帰りに集めるって、今言ったでしょう」

    「え、そうでしたっけ」

    別の日。
    「今日は短縮です」と言った。
    後ろの黒板にも赤いチョークで大きく書いた。
    ホームルームが終わる。
    やはり、すぐ来る。

    「先生、今日短縮なの?」

    「もう、人の話、聞いていないんだから」

    言いながら、少し呆れて、少し笑った。

    どの学年でも、どのクラスでも、同じだった。
    聞いていない子は、いつもいた。

    *

    休み時間に、生徒がやってくることがあった。

    部活の話。友だちの話。
    昨日あった出来事。週末の予定。

    生徒は楽しそうに話す。
    私は頷く。

    「うん」
    「うん」
    「へえ」
    「そうなんだ」

    そう返しながら、頭の中では別のことを考えていた。

    五時間目のプリント、印刷したっけ。
    あの子の保護者に電話しなきゃ。

    生徒はまだ話している。

    「——でね、そのとき先輩がすごくて」

    「うん、うん」

    「——で、最後の最後に逆転して」

    「へえ、すごいね」

    相槌の高さも、頷きの角度も、身体が勝手にやっていた。
    何年も繰り返してきた動きだった。

    それが、完璧に作動していた。
    聞いていないときにも。

    生徒が一息ついたところで、私は聞いた。

    「それ、いつの話?」

    生徒の声が止まった。

    「……だから、この前の日曜日の試合って言ってるじゃん」

    言っていたらしい。

    返事はしていた。
    目線も外していなかった。
    「聞いている人の形」は保たれていた。

    だから私は、それで足りていると思っていた。

    *

    ある日の休み時間だった。

    生徒が話しかけてきた。
    何の話だったか、覚えていない。

    私は向き合っていた。 聞いている人の顔で。

    「うん」
    「うん」

    「そうなんだ」

    頭の中では、次の授業の段取りを組み立てていた。

    生徒が、ふいに黙った。

    それから、少しだけ口元をゆるめて言った。

    「先生、今、聞いてなかったでしょ」

    「ちゃんと聞いていたよ」

    いつもの調子で返した。 相槌と同じ速度で。

    生徒の目が、笑っていなかった。

    「先生、興味ないとき、目が変わるんだよ」

    「変わらないよ」

    「変わる。こっち見てるけど、見てない目になる」

    口の中が、すうっと乾いた。

    それは、私が朝のホームルームで見ていた目だった。
    こちらを向いていても、焦点が遠い目。
    頷いているのに、入っていない顔。
    何年もかけて見分けてきた表情を、私がしていた。

    *

    友だちとの会話でも、同じことをやっていた。

    旅行の話を聞いていた。

    「朝市がよくてね」

    「へえ」

    「干物を買い込んじゃって」

    聞きながら、頭の中に別のものが浮かんでいた。
    仕事のことではなかった。 自分の話だった。

    そういえば私も、前に朝市に行ったことがある。あのときは——

    友だちはまだ話している。

    「旅館の露天風呂がまた——」

    あのとき買った干物、おいしかったな。どこの朝市だったっけ——

    「朝、誰もいなくて、貸し切りみたいで」

    あ、思い出した。あれは——

    友だちの声が割り込んだ。

    「聞いてる?」

    「聞いてるよ」

    「じゃあ、露天風呂、何が良かったって言った?」

    答えられなかった。

    「で、どこに行ったの?」

    友だちが少し間を置いた。

    「だから、最初に言ったでしょう」

    笑ってごまかした。

    帰りの車の中で、自分が何をしていたのか考えた。

    友だちの話を聞きながら、自分の記憶を引き出していた。

    聞いていなかった。
    ただ、生徒の話を聞いていないときとは、少し違っていた。

    *

    「もう、人の話、聞いていないんだから」

    何百回、その台詞を言っただろう。

    言うたびに、少し呆れて、少し笑っていた。

    最近、その台詞を言う前に、 ほんの少しだけ間があく。

    自分がどんな顔をしているか、
    気になる。


    「言われたからじゃない、と思いたかった。」


    参加します、と打つ前だった。

    清掃ボランティアの募集だった。
    日程を確認して、空いていた。 行ってもいいかな、と思った。

    返信欄に触れた指の上に、もう一つ通知が重なった。

    トモちゃんだった。

    「まだ定員に届いていません。みなさん、参加してください。これは圧です(笑)」

    スマートフォンを持つ指が、止まった。

    「これは圧です(笑)」の(笑)だけが、やけに軽く見えた。
    その軽さのぶん、文面の奥にあるものだけが残った。

    さっきまで、行ってもいいかなと思っていた。
    その気持ちが、指先から抜けていくのがわかった。

    画面を閉じた。

    *

    翌日、別のグループのチャットを見ていた。

    同じ清掃活動の募集が出ていた。
    別の人が「一緒にやりませんか」と声をかけていた。

    日時も場所も、同じだった。

    私はそちらから申し込んだ。

    やることは同じだった。
    同じ日に、同じ場所で、同じゴミを拾う。
    何も変わらない。

    ただ、トモちゃんの「参加してください」から申し込んだのではない。
    それだけが、違った。

    *

    当日、集合場所に着くと、トモちゃんがいた。

    私より先に来ていた。 受付の机を出して、名簿を並べて、ゴミ袋の束を軍手と一緒にまとめていた。
    参加者が来るたびに、「おはようございます、ありがとうございます」と声をかけていた。
    その声は、チャットの文面とは別のものだった。

    目が合った。

    「あ、ソラちゃんも参加してたのね」

    「うん」

    それだけだった。

    トモちゃんはすぐに次の参加者のほうに体を向けて、名簿を確認していた。

    私は軍手をはめて、ゴミ袋を受け取った。

    同じ道を歩いて、同じゴミを拾った。
    誰から申し込んだかなんて、ゴミ袋にはわからない。

    わかっているのは、私だけだった。

    *

    似たようなことが、他にもあった。

    イベントの手伝いを募集していたときだった。
    人が集まらず、トモちゃんがまた書いた。

    「協力お願いします。本当に人が足りません」

    画面を見た瞬間、胸のあたりが硬くなった。

    人を集めるのがどれだけ大変か、知らないわけではなかった。

    それでも、指が動かなかった。

    別の知り合いに声をかけた。
    「あのイベント、まだ手伝い要るかな」
    「要るよ、ありがたい」

    そこから申し込んだ。

    今度は、自分が何をしているか、わかっていた。
    清掃のときと、同じことだった。わかっていて、やめられなかった。

    当日、トモちゃんと並んで作業した。
    椅子の脚が床に当たる音が、ぱたん、と響いた。
    この人の「お願いします」から来ていれば、少しは楽だったろうと思った。

    *

    ある夜、布団の中で目を開けていた。

    トモちゃんの一文がなければ、私はあのチャットからそのまま申し込んでいた。 何も考えずに。

    トモちゃんの一文があったから、別のルートを探した。

    逆らったつもりだった。

    でも、同じ場所に着いていた。 向きが違うだけだった。

    逆らったのではなかった。 反応していた。

    天井を見ていた。

    *

    次の募集が来たとき、 私はまた、スマートフォンの画面を見ていた。

    トモちゃんの名前があった。
    今度は何も強い言葉は書いていなかった。
    「よかったらどうぞ」とだけ書いてあった。

    素直に申し込もう、と思った。

    親指が画面に触れた。

    触れたまま、止まった。

    頭では、わかっていた。
    トモちゃんは悪くない。
    素直に返信すればいい。

    指が、返信ボタンの上から動かなかった。


    「忙しい」と言っておけば、何も考えなくてよかった。


    職員室に、いつも「忙しい」と言っている同僚がいた。

    成績の締め切りが近づくと、彼はいつも同じことを言った。

    「すみません、ちょっと忙しくて、まだできてないんです」

    悪びれているようには見えなかった。申し訳なさそうな言い方だけは、きちんとしていた。

    こちらは彼の分が揃わないと、次の作業に進めない。でも、「忙しい」と言われると、それ以上は言えなかった。

    ある学期末、私は言った。

    「来週の締め切りに間に合わせてね。こちらも忙しいんだからね」

    彼は手元の作業から目を上げずに言った。

    「土日、部活の試合があって忙しいんですが、がんばります」

    間に合わなかった。

    その学期末だけではなかった。
    次も、その次も、同じだった。

    周囲はだんだん諦めていった。
    誰かがため息をついて、誰かが代わりにやった。

    ある日の放課後、締め切りを過ぎた彼の書類を私が代わりに仕上げていたとき、ふと顔を上げると、彼が給湯室でコーヒーを淹れながら、もう一人の同僚と旅行の話をしていた。

    沖縄がいい、いや北海道だ、と言っていた。

    しばらくして、彼は私の机にコーヒーを置いた。
    「お疲れさまです」と言って、自分の席に戻っていった。

    私は彼の書類に赤ペンを走らせながら、そのコーヒーを飲んだ。

    *

    でも——自分はどうだったか。

    「今日は仕事が遅くなるから」
    「今週は行事があるから」
    「今月は成績処理があるから」

    そう言っているうちに、一年が過ぎ、また一年が過ぎた。

    家族のことを、ずっと後回しにしていた。

    母から電話があった。

    遅く帰宅して、疲れて横になっていたときだった。

    着信画面に「母」と表示されているのを見て、一瞬だけ指が止まった。出なければ、明日かけ直せばいい……そう思いながらも、電話に出た。

    「帰ってこれないの?」

    声は穏やかだった。責めている調子ではなかった。ただ尋ねている、というだけの声だった。それがかえって、胸の奥の柔らかいところに触れた。

    「忙しくて、帰れない」

    口にした瞬間、自分の声が職員室で聞いたあの声と重なった。

    悪びれているようには見えない。申し訳なさそうな言い方だけは、きちんとしている。

    沈黙があった。

    一瞬、というには長かった。何かを言いかけて、飲み込んだ沈黙だった。
    受話器の向こうで、母がどんな顔をしているのか、わかるような気がした。わかるような気がしたのに、私はその沈黙に何も返さなかった。

    「そう」

    母はそれだけ言って、電話を切った。

    電話を切ったあと、暗い窓ガラスに自分の顔が映っていた。部屋の明かりもつけず横になったままの姿が、ぼんやりと見えた。

    帰省したほうがいいと、わかっていた。

    でも疲れていて、帰らなかった。

    たぶん、忙しくなくても、私は帰らなかった。

    帰れば、年を重ねた母の顔を見なければならなかった。自分がそこにいなかった時間の分だけ、変わっている顔を。

    *

    翌週も私は、帰らなかった。

    母から電話はなかった。あの「そう」のあと、母はしばらくかけてこなくなった。

    私のほうからかけることもなかった。

    かけようと思うことはあった。
    夜、布団に入ってから、天井を見ながら、明日の朝かけよう、と。

    朝になると、忘れていた。

    忘れていたのではない。
    一限目の準備をして、出席を取って、授業をして——そのあいだに、昨夜の「明日かけよう」は、いつの間にか机の下に落ちていた。

    拾おうとしなかった。

    気づいているのに拾わないのは、気づいていないのとは違う。

    違うはずなのに、結果は同じだった。

    ある日、夕方のスーパーでふと立ち止まった。
    母の好きだった惣菜が、棚に並んでいるのが目に入ったからだ。

    手に取った。

    裏返して、賞味期限を見ていた。

    三日後だった。今日食べるなら確認する必要はない。三日以内に届くかどうかを計算している自分に、少し遅れて気づいた。

    籠に入れた。

    レジに並んだ。

    駐車場に出て、車に乗って、助手席に買い物袋を置いた。

    母に電話をかけた。

    「今度、帰るよ」

    声に出してみると、思ったよりも軽かった。

    帰ると伝えることは、こんなに簡単だった。

    それなのに私は何年も、「忙しい」の一言でそれを後回しにしてきた。



     
     
    元教師。教壇に30余年、のべ数千人の生徒と向き合う。ヒプノセラピスト。 これまでこちらでエッセイを読んでくださった皆さま、ありがとうございます。今後の新しい小説とエッセイは、こちらでお届けします。 「そらかぜあまね」→https://note.com/real_fox6602

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