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【中編小説】桜が咲くまで、杭を打つ

    約38,000字の中編小説です。
    本記事に本文全て掲載しています。

    【あらすじ】

    「桜が咲かなくなった世界で、私たちは生きるために迷い続ける」
     遺伝子異常により桜が咲かなくなって五年。いつしか世間は、春に心のバランスを崩した人を「花見病」と揶揄するようになっていた。高校生・竹内真昼の母親もまた、そのうちの一人。母親の病気を誰にも言えない真昼の前に現れたのは、不登校の兄を持つクラスメイト・金井信也だった。「私の杭は、信也だよ」——二人を繋げたのは苦しみと、互いの後悔の涙だった。痛みの果てで目にした桜を前に、彼らは手を取り合う。満開の桜が再び春を彩るまで共に生きることを誓った、再生の物語。

    一. 四月下旬

    「さくら(桜) バラ科の落葉高木または低木。春に淡紅色の梅に似た花を開く。古くから和歌や絵画に取り上げられ、日本の国花とされるが——」

    「竹内、ここの意味答えられるか」

     タブレットに羅列された文字を指でなぞっていたら、先生に指名された。はい、と答えを述べると、先生は頷いてまた解説に戻る。

     先生が黒板に向き直ったのを見て、再びタブレットに目を落とした。辞書アプリに打ち込んだ「桜」の検索結果は、何の情緒もない無機質な文字列だ。最後に見た桜を思い出そうと目を瞑るも、小学生の記憶は予想より曖昧で上手く描けない。カッ、カッという板書が進むチョークの音に顔を上げると、俳句が一つ増えていた。

    「二三日はちりさかりけり山さくら」

     黒板に書かれた白色の俳句を色付ける「山さくら」は、四月の季語だと先生は語る。薄紅色の儚い花弁は、短い春を思い起こすにはぴったりだったけれど今やそれは叶わない。まさか一世紀以上先の未来で桜が絶滅危惧種に指定されるなど、俳人は想像しただろうか。

     つん、と背中を突かれて顔を向けると、後ろの席に座る友希が私のタブレットを無言で指差した。学校支給のそれにこっそりインストールしているアプリを開くと、新しいメッセージが投稿されている。スマホは授業中開けないから、こうしてやりとりをする生徒がほとんどだ。私も例外じゃない。

    「真昼はお昼どうする?」

    「パン買ったから教室で食べる」

     返信を打つ間に、先生の解説は次の俳句へと移っていく。まっさらなノートに書き写す板書の文字は、「山さくら」と綴ったきり止まっていた。窓に目を向けると青い空が広がり、校庭に植えられた菜の花が生き生きと黄色い花を揺らしている。澄んだ春の空に、薄紅色の花が舞わなくなってから五年。単なる枝と化した桜の代わりに菜の花を植えたのはここ数年のことだろうに、彼らはずっと前からそこにいるように鮮やかな自己主張をしている。

     ふとお母さんの一言が浮かんだ。鮮やかな菜の花を受け入れられない冷たい声音は、ざらりとした質感を持って今でも耳に残っている。

    「今年も桜は咲かないのね」

     去年の春、お母さんはそう呟いたきり寝室に閉じ篭もるようになった。病院での診断名はちゃんとあるにも関わらず、巷では「花見病」と揶揄される病気を発症したからだ。春に心を崩す人を、いつしか世間はそう呼ぶようになっていた。

     そんなことを思い返していると尚更、さらさらと流れていく先生の言葉が入ってこない。ぼうっとしている間に、解説はまた別の俳句に移っていた。季語は夏らしい。季節に置いていかれるような焦燥感に、細く息を吐き出す。どうしてお母さんのことを考えてしまうのか、その原因に目を向けた。

     自然と視界に入る、斜め前に座った彼の後ろ姿。机の下で本を広げ、こっそり読み耽っている痩せた背中からは授業への無関心が伺える。まさに読書家というイメージの彼だが、それ以上のことを多分クラスの誰も知らない。

     公園でも本、読んでたな。

     昨日、お母さんと近所の公園を散歩していた時だった。いつもは家に篭りきりだけれど調子のいい日、特に晴れた日なんかは少しだけ外を歩いてくれる。話しかけても「うん」くらいの小さな呟きしか返ってこないとしても、生気のない顔だったとしても、散歩をする姿を見ると多少はほっとする。

     日曜日の公園は快晴も相まって家族連れやカップルで溢れていた。彼らのほとんどは、眩しいほどの黄色を背景に写真を撮っている。新しい春の象徴となった菜の花は足首ほどの小さな花から、腰まで届くような背丈のものまで、様々にその花弁を揺らしていた。

    「綺麗だね」

     隣を歩くお母さんに声をかけるも返事はない。私の肩ほどにあるお母さんの頭には黒い帽子が乗っかっていて、表情は見えない。目深に被ったそれは自分を守る壁のようだ。

     帽子の下に浮かんでいる表情が少しでも明るくあってほしいと思いながら、もどかしいほどの速度で春に浮き立つ人々を通り過ぎる。何基かあるベンチではお年寄りがうたた寝をしていた。会話もなく手持ち無沙汰だったからか、何となく見つめていたベンチの中で一人、読書している彼に気がついた。目の端に映った彼に見覚えがあって、その横顔をじっと見つめる。

    「あっ」

     それはクラスメイトの金井信也だった。いつも静かで、誰かとつるんでいるところを見たことがない彼は、教室での姿と変わらず、黙々と本を捲っている。つい反射でお母さんが見えないように、彼に背を向けた。

    「真昼」

     急に呼ばれた名前に、うん? とお母さんの帽子のつばに目をやる。

    「思っていたより、人が多いわ」

     そのか細い一言が含む意味。人目が怖い。ご近所さんに見られている気がする。噂されているかもしれない。察してと言わんばかりの無言の声は、去年より聞こえやすくなった。病気になってからというものこうだ。目の前にある楽しみを受け取れずに、すぐ裏返しにしてしまう。嬉しいとか楽しいとか、ポジティブな感情にも受け止める余裕が必要なんだと初めて知った。途端に膨らむ不快感をギュッと押し込めて、私は笑顔を貼り付ける。

    「帰ろうか」

     目線をお母さんに合わせようと、膝に手をついて顔を覗き込む。見えた表情は血の気が引いていて、家の中ではそれほど目立たない青白い顔も、陽の下では目の隈まではっきり見えた。色を失ったその様子に、今日はここまでかと冷たい手を取る。そのまま公園の出口に足を向けようとした時、繋いだ手をぐっと引っ張る感覚が走った。振り向くと、お母さんが俯いたままその場で立ち尽くしている。帰りたいんじゃないのか。促すように私も手に力を込めた途端、やめて、と震える声で訴えてくる。

    「ごめんね……ごめんね……」

     そうしてお母さんはその場にしゃがみ込んでしまった。縮こまった小さな肩が、心許なく震えている。経験則でもう分かる——こうなると落ち着くまで動けない。ため息をつきたい気持ちを堪えて、私も一緒に座ると無心で背中をさすり続けた。呑気に新しい春を鑑賞する人々が気まぐれに向ける、心配と好奇心が混ざった視線が痛い。どうか誰も声をかけてきませんように、と祈りながら足元の雑草を見つめた。名前も知らないそれらは、何度踏みつけられても伸び伸びと生命を輝かせている。その力強さがちくりと胸を刺す。何も知らないくせに。八つ当たりと分かりつつ、その鮮やかな緑を千切ろうとした時だった。

    「これ、良かったら」

     頭上から降ってきた声に顔を上げると、ベンチにいたはずの彼——金井信也が立っていた。最悪だ、クラスメイトに見つかった。一瞬で顔が強張るのが分かった。

    「ほら」

     彼の手には小さなペットボトルが握られている。催促するようにその手が伸びてくると、さすがに無視するわけにもいなかった。躊躇いながらそれを受け取る。じんわり伝わってくる温かさは、買ったばかりであることを示していた。受け取った手をお母さんに渡すと、白い手がお茶を大事そうに抱えた。蓋を開けてゆっくりと口をつける動作を見て、強張った心が安心へと変わる。

    「深呼吸した方がいい」

     唐突なアドバイスに再び彼を見上げると、同情でも好奇心でもない目とぶつかった。不思議な助言はお母さんに向けたものかと思ったら、真っ直ぐ私を見ているので自分のことかと、きょとんとする。不思議に思いつつ一応言うことを聞いて、すぅと息を深く吸うと、穏やかな空気が身体を満たしてくれるのを感じた。どうやら無意識に呼吸が浅くなっていたらしい。

    「……ありがとう」

     お茶と不思議な助言にお礼を伝えると、彼は何も言わず無言で頷いた。そのままくるりと踵を返して、あっという間に公園の出口へと歩いて行ってしまう。慌ててお金、とポケットを探る間にも彼の背中は遠くなっていく。小銭をようやく探し出した時、その姿は随分小さくなっていた。迷った末、お母さんをその場に残すわけにもいかず、結局彼を見送るしかなかった。

     借りは返さなきゃな——その時チャイムが鳴り、再び黒板に目を戻した。先生が去った後の板書には俳句の解説が長々と残されている。中途半端に途切れたノートに続きを写すか一瞬迷って、そのままにすることにした。慌てて席を立つと、お財布から一五〇円を取り出しスカートのポケットに突っ込む。ようやく昼休みだと解放されたクラスメイト達が散り散りになる中、急いで彼の背中を探した。昨日のお金を返したい、というのは半分本当で、半分言い訳だ。少しの罪悪感を抱きながら、彼を見つけて追いかける。

    「真昼、どこ行くの?」

     引き止めようとする友希の声にすぐ戻る、と返して教室を出た。廊下に出ると彼は騒ぐクラスメイト達の間を滑らかに縫って歩いている途中だった。左手から下がるコンビニの袋と本が、ぶらぶらと自由に揺れるのが見える。人目のあるところでは声をかけたくなくて、その姿について行った。

     彼が向かったのは屋上だった。ごく稀に解放されるけれど、ほとんどは施錠されている場所だ。どうするんだろうと思ったら、階段の踊り場で立ち止まってくるりと振り返った。黙って後をつけた罪悪感から、思わず階段の影に隠れる。そっと様子を伺うと、彼は踊り場に座り込んで、おにぎりを齧りながら本を捲っていた。何て声をかけよう。勢いで来てしまったがゆえに第一声を決めかねていると、

    「誰?」

    と先手を打たれてしまった。おずおずと顔を出す。

    「なんだ。竹内さんか」

     彼は私の顔を一目見ると、また本に視線を落とす。話しかけるタイミングが分からずポケットに手を入れると、一五〇円の冷たい感触に手が触れた。それは早く終わらせろと告げてくるようで硬貨をぐっと握り込むと、駆け足で階段を登り、彼の横に立った。

    「昨日のお金、返しに来た」

     握り込んだ手を差し出すも、彼はゆっくりと首を横に振った。

    「いらない」

     端的な一言に、小銭を握った拳が僅かに震えた。屋上と踊り場とを遮る扉には小窓が付いている。そこから差し込む陽光が私を見上げる彼を照らすも、その目は真っ直ぐで鋭い。本心を見透かされたようで、思わずたじろいだ。彼に取ってはたかだか一五〇円でも、私には「病気のお母さんを助けてもらった」という大きな借りだ。もう一つお願いをしなければならない身としては、その借りくらい返したかったのに。くぐもって聞こえてきた階下ではしゃぐ生徒達の声に隠れてため息をついた。一向に取る様子のない浮いた手を諦めて引っ込めると、彼の隣にすとんと座る。

    「え、何」

    「本当は、誰にも言わないでって言いにきた」

     膝を抱き寄せ、白い上履きを見つめる。お金を返す代わりのそのお願いは、私にとって切実だ。受け取られなかったせいで、一方的な要求になってしまったけれど。それは私にとっては狡いことで、自然とお願いは小声になった。ところが彼はそんな私を気にする素振りもなく、開いていた本を閉じるとビニール袋の中から二個目のおにぎりを取り出した。

    「一緒にいたのは、お母さん?」

     さっさと開封すると、大きな口を開けて齧る。その様子に教室にパンを置いてきたことを思い出して、お腹を軽くさすった。

    「そう。なんて言うか、ちょっと……心が参ってるの」

     病名を口に出すのは躊躇われた。病院で告げられた鬱病と言って伝わるのかもよく分からないし、ましてや花見病かと鼻で笑われもしたら恩人を平手打ちしてしまいそうだ。ところが彼は深く尋ねる様子もなく、ふんふんと咀嚼に合わせて頷くだけだった。

    「いい表現だな。意外と読書家?」

     閉じた本の表紙を見せられるけれど、生憎昔から読書とは縁がない。

    「知らない。身体動かす方が好きだから」

    「ああ、バスケ部だっけ」

     さらりと正解を告げられてびっくりした。一度も話したことがないのに、なぜ知っているんだろう。驚きにほんのりと恐怖が混ざって余程微妙な顔をしていたのか、彼は慌てた様子で手を振った。

    「違うって。体育の授業で先生が言ってたから」

     そういえばこの間の授業はバスケだった。チーム分けの時、バスケ部員が均等に分かれるように采配されたことを思い出して、安堵する。一方で冷静に見える彼が慌てた様子を見せたのが少し面白くて、何となく親近感が湧いた。

    「そう、昔からバスケが好きだったから。部活は?」

    「入ってない。帰宅部」

     イメージ通りの回答にふうんと相槌を打った。一瞬、沈黙が落ちる。

    「言わないよ、誰にも」

     静かなその言葉にはっとして顔を上げる。もう一度、あの真っ直ぐな目とぶつかった。鋭いけれど、その代わりに嘘をついたことがないような視線だった。彼が言わないと言うのなら、本当なんだろうとすんなり思えるほどに。

    「ありがとう」

     自然と滑り出た言葉には、感謝と信頼が滲んでいた。不思議な気分が広がっていく——彼にだったら、安心して話せると思わせるような何かがそこにはあった。改めて見つめた彼は、色白の肌に切れ長の目が細い月のように浮かんでいて、素直に綺麗という形容詞が胸に浮かぶ。

    「何か?」

    「ううん、何でもない」

     不思議そうな表情を浮かべる彼から慌てて視線を外したその瞬間、お腹が勢いよく鳴いた。ぐぅという低い響きを押さえるように縮こまるも、音が消えるわけではない。

    「昼ご飯は?」

     含み笑いをする彼に、顔が熱くなるのが分かる。

    「教室に置いてきたの」

     そろそろ戻らねば。空腹もさることながら、友希を待たせたままだ。恥ずかしさを打ち消すように勢いで立ち上がると、スカートをパンとはたいた。

    「そろそろ戻る。じゃあね」

     早く戻って友希とお昼ご飯を食べよう。案外悪い会話じゃなかったことへの安心と、心配事が減ったことで足取りは来た時より軽い。彼に背を向けて階段を降りかけた時だった。竹内さん、と呼び止められて、くるりと振り返る。

    「お母さんのこと、何か話したくなったら来なよ」

     その一言に、心臓がふわりと浮かぶ心地がした。それは私の弱いところが喜んでいるみたいで、そんな自分にびっくりする。余程弱音を吐きたいように見えたのだろうかという不安と、暖かい安堵が同時に広がって、戸惑っているうちに後者が深く染み渡ってくる。それをどう受け取っていいのか迷っているうちに、彼は口の端で微笑みを作って続けた。

    「俺も使わせてもらう」

     何を、と尋ねる。

    「心が参ってるって」

    二. 五月下旬(一)

     その異変が見つかったのは突然だった。ある年の春、桜の名所と呼ばれる並木道に並んだのは裸の木々で、それから各地で同様の現象が起きていることが報道された。原因は遺伝子異常と推測されるも、それ以上のことはよく分からず、明確な原因究明も再起をかけた栽培もまだ叶っていない。

     そんなことを生物の授業で習ったけれど、その中で花見病については触れられなかった。それもそのはずで、花見病とはネット発祥の言葉だ。一般人の「桜が咲かないとかほんと鬱」という一言がネタにされて生まれたらしい。元々春は環境の変化が起こりやすく、気候も不安定で自律神経のバランスが崩れやすい。桜が咲かなくなったことが直接的な原因とは考えにくいにも関わらず、春に心を崩す人をそう揶揄するようになっていた。

    「会社の後輩が病んで休職。私も花見病ですって会社休みたーい笑」

     スマホをスクロールする手が止まった。おすすめに表示された見知らぬ誰かの呟きに苛立つけれど、それは抱いても仕方がない感情だ。刺々しい気持ちを放り捨てるようにベッドに身体を投げると、ぎゅっと目を瞑った。

     いつもネットはいい加減だ。当事者が抱えるものなど素知らぬふりをして、面白おかしくおもちゃにする。まさしく花見病はその代表で、そうした投稿を目にする度、たかが桜で、という人々の嘲笑が聞こえてくるようで耳を塞ぎたくなる。

     その時、部屋の扉ががちゃりと開く音がした。お父さんはまだ帰ってきていないから、お母さんしかいない。多分食事を取りにきたのだろう。作ってテーブルの上に置いておいたカレーライスを思い浮かべる。話しかけるチャンスなのかもしれないが、それはもうやらない。去年は部屋から出てくるとなるべく声をかけていたけれど、その度怯えたような表情を浮かべるので話しかけるのをやめたのだ。

     今度は扉が閉まる音がして、再び静寂に包まれる。部屋の中でどんな風に過ごしているのだろうとぼんやり考えた時、ふとした疑問が浮かんだ。お母さんは寝室に閉じ籠る前、「桜は咲かないのね」と言った。けれど桜がただの裸の木になったのは私が中学に上がるかどうかの頃だ。咲かなくなって久しいのに、どうして今になってそんなことを気にしたんだろう。

     ただそんな小さな疑問は、握っていたスマホの通知音でどこかに押しやられた。画面を覗くと、友希からのメッセージが光っている。可愛らしい絵文字は、彼女の容姿をそのまま表しているようだ。ぽちぽちと返信しながら、前に友希が笑いながら言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。

    「お姉ちゃんの友達が花見病っぽくて、病んでるんだって」

     軽い口調で放たれた話題に深い意味はない。友希とは中学からの仲だから、ただ悪気なく発せられた表現だとも分かっていた。それでも花見病という言葉に押し込められた「お姉ちゃんの友達」に身につまされる思いがしたし、足元が揺らぐような怖さを感じた。私の状況を打ち明けても理解されないかもしれない。結局、私はお母さんの病気のことを誰にも話せずにいた。

     それが変わったのは、いつも冷静で本ばかり読んでいる、彼のおかげだ。

     お母さんを見られた開き直りか、拠り所が欲しかったのか。お金を返しに行ったあの日以来、私は週に一度か二度、階段の踊り場に向かうようになった。最初はクラスのこととか、授業がどうとか当たり障りのない話をしていたのに、一歩踏み込んだ話をしたのは私からだった。我が家の惨状を告白すると彼は無言で頷き続けた後、

    「手強いな」

    と一言呟いた。その簡潔で的確な表現に、蓄積された澱みが静かに流れていく気がした。その感覚が心地よくて、つい色々話してしまう。それまでろくに会話したことがなかったのに、ここひと月の間に名前で呼び合う仲になったほどだ。

    「見ず知らずの他人に心を割くほど、余裕がないんだよ」

     彼——信也は、花見病という言葉を使う人たちをそう表現した。

    「寄り添うより、揶揄する方が楽だろ」

     信也の言葉には、いつも説得力があった。一言一言が鋭くて優しい。たくさん本を読んでいるからだろうか。彼の言葉は、私の中に渦巻くあらゆる感情を仕分けしてくれる。

     今日の、両親の話題もそうだった。

    「元々お母さんは優しくて穏やかな人なの。仲もそれなりに良かったんだよ」

     私がやりたいことを大事にしてくれる、本当はそういうお母さんだ。バスケ部に入ると言った時は、一生懸命良いシューズを探してくれた。お弁当は栄養が付くようにと工夫してくれていたのも知っている。それが今や引きこもり同然、出てきたかと思えば何かに怯えたようにおどおどしている。血色のない顔を見る度、締め付けられるような苦しさと、大きな声では言えない仄暗い思いが滲む。それを自覚したのは、ここ最近だ。

    「今は顔を見ると……苛々するの。なんでそう思うのかよく分からないけど」

    「お父さんは何してる人?」

     信也から尋ねられた質問に言葉が詰まる。パンを齧る手を止めて、うーんと唸った。

    「新聞社で働いてる。すごく忙しくて、あんまり家にいない」

     掃除が甘いのかざらざらする床を見つめる。鈍色のそれはぼんやりと私を映しているけれど輪郭がぶれていて、表情までは分からない。

    「晩御飯は私が作る。その他の家事はお父さんが家にいる時にやる。お小遣いはお父さんからもらう。そういう必要なことだけ決めたの。それきり」

     すごく義務的な話し合いだった。生活のためには必要だと思う。でも自分が感情を捨てた駒になったみたいだった。お父さんはこの局面で勝つために、私を必要なところに配置する。私は置かれた場所で、役割を果たす。そこに感情とか思いやりは存在しない。義務的なルールは生活を助けてはくれるけれど、ある意味の無関心にがっかりしなかったと言えば嘘になる。

    「真昼とお父さんは普段話さないのか?」

    「しない。てか、ほぼ顔合わせないし」

     体育座りの膝に顔を乗せて、もう慣れた味の焼きそばパンを頬張った。前はお母さんが作ったお弁当を持ってきていたけれど、私に再現できるスキルはない。

    「真昼に矢印が向いてない気がするよな、そういう態度」

     矢印——昔は違ったはずだ。両親から受けていた愛情という名の矢印は私の中に残っているのに、いつの間にかお父さんは仕事ばかりに、お母さんはああなってしまった。

    「私からの矢印も、誰に向けたらいいか分からないや」

     そう言いながら思い出したのは、リビングに飾られた家族写真だ。お父さんが忙しくて旅行なんかにはあまり行けないけれど、その代わり節目には三人で写真を撮ることが行事の一つになっていた。誕生日やクリスマス、学校行事。季節を切り取ったような色とりどりの写真たちは笑顔に溢れているけれど、それも高校の入学式を最後に途切れている。

     すでに咲かなくなった桜の代わりに、菜の花が植えられた校舎で撮ったハレの日の写真は、お母さんが病気になる直前のものだ。体育祭やバスケの試合など、中学生の頃に撮ったようなイベントの写真は一枚もない。

     家族写真が飾られていることが何となく恥ずかしくて、お母さんに仕舞ってほしいと言ったことがある。その度、「どの写真も可愛らしくていいじゃない」とややずれた返しで却下されたことが最早懐かしい。途切れた写真は両親からも、私からの矢印も、宙ぶらりんになったままであることを示すかのようだった。

    「そうだよな、難しいな」

     相槌を打つ彼をそっと盗み見ると、信也をよく知らなければ冷淡にも感じられるような色白な肌があった。愛情を「矢印」と表現したその横顔に、ちょっとした疑問が湧き上がる。そういう信也は自分の矢印を誰かに向けたことがあるんだろうか。ただし聞く勇気はなくて、パンとともに流し込んだ。

    「いつもおにぎりだよね、ご飯派?」

     代わりに尋ねたその問いは、それなりの回数お昼を共にしている中で彼がパンを食べているところを見たことがないからだった。信也はおにぎりを口にしようとして手を止めると、まだ山が崩れていないおにぎりを見つめた。

    「腹持ちがいいから。親忙しくて、弁当作れないんだ」

     言葉少なに終わった説明にふうんと曖昧に頷いた。彼は自分の話をあまりしない。口数が少ないというのもあるかもしれないが、私の話には色々と突っ込んで聞いてくれる。多分信也の中には明確に他人と自分を分ける線があって、そこには薄いけれど決して破れない膜があるように感じていた。

     外から雨が騒ぐ音がする。朝よりも酷くなった雨足が連れてきた曇天のせいか、もう五月も下旬だというのに隙間から吹き込む風が冷たくて、ブラウスの上から腕をさすった。

    「一人っ子?」

     何気なく尋ねたその質問はてっきり膜の外側にあるものだと思ったけれど、すぐに言葉は返ってこなかった。彼は少し考え込んだ後、また静かに口を開いた。

    「兄貴がいる」

     聞いたらまずかったかな。再び口を閉ざす雰囲気を感じて答えられずにいると、

    「二つ上なんだ」

     そう彼の方から言葉を続けた。

    「勉強もスポーツも何でもこなす、すごい人だった。小さい頃は兄貴兄貴、って後ろをついて回ってさ。自慢の兄って感じ」

     微妙に混ざる過去形と影のある表情に嫌な予感がしたけれど、止める前に彼はその理由を打ち明けてくれた。

    「三年前、兄貴が高二に上がった春の日だった。学校を休み始めたと思ったら、いつの間にか不登校になってた。今じゃ立派な引きこもりだ」

     引きこもりという言葉に心臓がぎゅっと締め付けられる心地がした。血の気のない顔をして部屋に籠るお母さんの姿と、会ったこともないお兄さんが勝手に重なる。そうなった人がいる家の雰囲気というのは独特だ。姿を見せないのに、彼らの纏う空気は扉の隙間から漏れ出すかのように家全体を覆って、やがて一緒に住んでいる人を侵食していく。私はこの一年でそれを嫌というほど味わった。それが、三年も。

    「うちは親が機能しているし、大丈夫。もう慣れたよ」

     ふっと鼻で笑った彼の横顔は、暗い影が落ちていてよく見えない。慣れる、ものなんだろうか。このまま状況を飲み込み続ければ、受け入れられる日が来るのだろうか。想像できないけれど、それを口にするのは躊躇われた。どんな相槌も信也が抱えてきた三年という月日を軽んじるようで、何も言えなかった。

     瞑っていた目を開ける。部屋の明かりがなだれ込んできて、チカチカと瞬いた。いくつか瞬きをしてぼんやり天井を見つめる。見慣れたそこにところどころ浮かぶ薄いシミを数えながら、信也はどうやって耐えてきたんだろうと彼の暗い横顔を思い浮かべた。

     そうしているうちに今度は玄関の鍵が開く音がした。お父さんが帰ってきたのだろう。荷物をどさりと置き、電子レンジが動く気配がする。かちゃかちゃと食器がぶつかる音すら聞こえる小さな家なのに、寝室からは物音一つしない。そういう小さな心配を、お父さんの口から聞いたことは一度もなかった。

     やがて食器を洗う水音が流れた。時計を見ると、二十三時を指している。もう寝てしまおうかと寝返りを打った時、部屋の扉が控えめに叩かれた。思わぬ音に一瞬固まる。続いて真昼、と私の名前を呼ぶ低い声が聞こえてきて、ますます戸惑いは深くなった。

    「起きてるか」

     返事をする代わりに部屋の扉をそっと開くと、スーツ姿のままでお父さんが立っていた。特別格好いい訳ではないけれど、年の割にそれなりに見られる容姿ではあると思う。

    「ちょっといいか」

    「どうしたの」

     自分から呼び出したにも関わらず、眉根を寄せて難しい顔をしたままで黙り込む。慣れない無言に居心地が悪く、目を逸らした。

    「お母さんのことなんだが」

     ようやく出てきた一言に、ぱっと顔を上げる。

    「さっきお隣の方に声をかけられたんだ。ちょうどゴミ捨てに行くようだった」

     どうでもいい情報にもどかしく感じながら、それで? と先を促す。

    「この間、奥さんを見かけたけど、何だ、その……挨拶をしても返さないし、様子が変だったって言うんだ。ご心配をかけるのも何だから、外に出る時はちゃんとしろって」

     そこまで言ったあと、お父さんの顔がはっきりと強張った。多分、私が心の底から失望したことが伝わったんだろう。その表情を読み取る力があるなら、少しでいいから想像してほしかった。体裁ばかり気にする自分が家族にどう映るか、と。

    「分かった。言えるほど体調良かったらね」

     お父さんはまだ何か言いたげだったけれど、無理矢理扉を閉めた。向こう側に立っている気配は感じても、頑なに扉は開けない。しばらくして去っていく足音が聞こえて、私はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

     期待などしていないはずだった。それなのにお父さんの口から「お母さん」と出てきた時、ほんの一瞬嬉しかった。そう感じた自分に、一番がっかりする。ほらね、お父さんの視野に私たちは入っていないんだよ、と胸の内から声が聞こえてくる気がした。

     ねえ、信也。やっぱり慣れるなんて想像できないよ。

     どのくらいそうしていただろう。お尻がじわじわと痛みを訴えてきて、私は明かりの消えた台所に水を飲みに向かった。誰もいないかのような静寂の中、水道水が流れる音が響く。その時、流し台の横に置かれている白い袋に気がついた。それなりの厚みを持ったその袋にはお母さんの名前と「内服薬」「一日一回 三錠」と書かれている。お母さんが飲んだ後、ここに忘れたんだろう。部屋に持っていくか一瞬迷って、何となく中身を覗いた。

     銀色のシートに薬が一錠ずつ包まれている。つるりとした表面には青い字で「睡眠薬」とあった。小さなこの三錠が睡眠を本当に助けているのだろうか、とお母さんの生気のない顔が浮かぶ。

     だからそれは確認のつもりだった。この薬を飲むことでどんな効果があって、どんな気持ちになるのか。手早くシートから一錠取り出すと、口に放り込んで水で流し込んだ。白くて少し粉っぽい錠剤が喉を通っていく。シートを元通り袋の中に入れ直すと、そのまま部屋に戻る。再びベッドに寝転ぶと、睡魔がやってくるまで薄いシミを見つめた。

     それは、初めて盗みを働いた日だった。

    三. 五月下旬(二)

    「……ひる、真昼!」

     後ろから呼びかけられた声に振り向くと、友希が心配げに私の顔を覗き込んだ。

    「どうしたの、具合悪い?」

    「ううん、ちょっと眠たくて」

     どんよりと重たい頭を軽く振って、苦笑いを浮かべる。昨日こっそり飲んだ睡眠薬の効果は絶大だった。いつの間にか寝入ってしまい、今朝のアラームにも危うく気がつかないところで初めて寝坊しかけた。午前中の授業もこの調子で、ほとんど頭に残っていない。眠たいというより頭がぼうっとして、微睡と現実の間を行ったり来たりしているようだ。一錠でこの効果なら、三錠なんて飲んだら丸二日は寝込んでしまいそうで恐ろしい。

    「わかるー、雨の日ってなんか眠くなるよね」

     ばたばたと大きな雨粒が窓を叩く。友希は憂鬱そうにそれを見つめ、例年より早い梅雨入りかもだって、と口を尖らせた。的外れな共感に笑う気力もなく、曖昧に頷く。

    「眠いし、怠いし、これ遅めの花見病ってやつ?」

     ころころと笑いながら「あ、花見じゃなくて梅雨病かな」と続ける友希の言葉に嫌な予感がした。その瞬間、彼女の顔が突然ぐにゃりと歪む。違う、友希は悪くないと自分に言い聞かせるけれど、黒いどろどろとした澱みが、私を暗いところに引き摺り込んでいく。ぼんやりとした視界の中で黒いものだけが鮮明に浮かび、私に囁く。今ここで、お母さんはその花見病なんだと打ち明けたら。この軽々しい笑顔を凍りつかせたい、と。

    「早く学食行こう、混んじゃうよお」

     友希が私の腕を引いた瞬間、何かが破裂しそうになるのを感じた。思わずその手から逃れるように身体を引く。友希は少し驚いたような顔をして、すぐにいつもの笑顔で小首を傾げた。可愛げのある彼女の仕草は、普段であれば愛らしいと微笑ましくても、余裕がない時に受け止めるには、少し、甘ったるい。

    「どうしたの? 今日の昼は学食で食べようねって約束したじゃん」

    「ちょっと食欲なくてさ。友希は行って来なよ」

     ええーやだあと声を上げて、再び彼女が腕を絡めようとしてくる。薄いネイルが施された指は家のことなど何もしなくていい象徴だと気がついた時、全てが耐えきれなくなった。

    「放っておいてよ!」

     友希の声を遮るように言い放たれた言葉は、想像の何倍も大声だった。語気の強さに周囲がしん、と一瞬静まる。彼女は熱いものに触れたかのように腕を引っ込めた。

    「ごめん。違うの。やっぱり、ちょっと、具合悪い」

     取り繕うとするも、まとまりのない言葉には説得力がない。さっきまで自分を突き動かしていた黒い熱はいつの間にか消え去っていて、代わりに冷たい後悔が押し寄せてくる。友希は役目がなくなった腕をさすると、私から目を逸らしながらも優しい声で言った。

    「じゃあ先行ってくるけど……無理しないでね」

     ぱたぱたと遠ざかっていく足音が消えるまで、その場に立ち尽くす。私、何やってるんだろう。自己嫌悪が胸に広がると同時に、一滴の声がそこに落ちる。

     一体、誰のせい?

     全部病気のせいだと思えたら、どれだけ楽だろう。いっそ花見病が本当で、お母さんもそうだったらよかった。桜のせいだと糾弾できるのなら、誰も傷つかずに済む。でも現実は違う。何が原因か分からないまま、治る見込みもないトンネルを歩かされる苦痛。

     苦しみを叫ぶ声は、やがて別の疑問を連れてきた。

     本当に、私のせい?

     それはぐるぐると渦を巻いて広がっていく。どんどん大きくなって、やがてずっと考えないようにしてきた声に姿を変えた。

     全部、お母さんのせい。

     それがはっきり聞こえた瞬間、私はあの踊り場へと走り出した。わいわいと廊下で賑わう生徒達がうるさくて、邪魔で、羨ましい。私だってそっち側でいたいのに。ごちゃごちゃになった感情が今にも破裂しそうだった。嫌いだ。あれもこれも全部、大っ嫌い——

    「どうした?」

     はっと顔を上げると、信也の驚いた顔と目がぶつかった。階段の途中で立ち止まる。あと三、四段で彼に届くのに足が動かない。頬に濡れた感触があって、慌てて袖で拭った。

    「真昼、どうした」

     焦りが混ざった心配の声に答えたいけれど、複雑に絡まった言葉が喉に詰まって出てこない。代わりにぐうっと悲鳴とも叫びともとれる音が出て、崩れるようにしゃがみ込んだ。冷たい床は私を拒否するように硬い。足元に小さな水たまりができていく。それが一体何の涙なのかすら分からなかった。

     やがて隣に座る気配がすると同時に、背中に彼の手が乗った。ゆっくりとさすってくれる優しさが温かくて、酷く悲しい。それでもなお立ち上がれない自分が情けなかった。

    「しんどいな」

     信也の声はいつもより低い。憐れみではない、重みを伴った声音は同じ立場の人しか出せない音だ。そうして初めて自分の呼吸が乱れていることに気がついた。背中に感じる手がとん、とんとリズムを取るように優しく動く。

    「しんどいよな」

     うん、と頷くのが精一杯だった。私達の世界は学校と家庭で成り立っている。どちらも高校生という肩書きで生きるはずが、家庭においてはそれ以上の背伸びを求められている。

    「疲れたの」

     お母さんの体調を気遣うことに。お父さんの無関心に傷つくことに。友達とはしゃぐ普通の高校生でいることに。世界に振り回される中で感じないように、考えないようにしていた理不尽は、確実に私を蝕んでいた。

     その時目の前が一段と暗くなって、身体が人の暖かさに覆われた。信也に抱きしめられている、と気がつくも恥ずかしさより安堵が広がる。私をぐるりと包む彼の腕に縋って、それからしばらく泣き続けた。見た目よりもしっかりとした腕だけが、世界と私を繋ぎ止める楔だった。

    「ありがとう、大丈夫そう」

     やがて涙も枯れてきた頃、顔を上げる。離れる気配のない彼に、掠れた声でおどけてみる。

    「おかげさまで泣き止みました」

     信也は自分の腕と私の顔を見比べると、ああとかうんとか口の中で転がすようにしてその身体を離した。そのまま階段の真ん中で二人並んで座る。硬い床の感触が伝わってきても、今はもう寂しくない。

    「睡眠薬って飲んだことある?」

     鼻を啜りながら尋ねると、信也はかぶりを振りながら、ポケットからティッシュを出して私に差し出した。遠慮なくいただくけれど今さっきあったことよりも、ティッシュを持っていないことの方が少し恥ずかしい。

    「昨日、お母さんの睡眠薬を飲んでみたの。眠れすぎて怖かった。朝からずっと怠いし」

     ちっぽけな白い薬を思い出す。手のひらに乗ったそれは、無害のような顔をしてとてつもない睡魔を連れてきた。それを毎日、三錠も。それなのに飲み続けているであろうお母さんの顔色がいい時を見たことがない。

    「どうして飲んだんだ?」

     純粋な質問にはすぐ答えられなかった。ふと手元を見ると、真っ白なティッシュを強く握り込んでいた。

    「お母さんのこと理解したかった、のかな。同じことすれば気持ちも分かるかなって」

     喋っている間に握っている手はどんどん色を失っていく。ぐちゃぐちゃの心も真っ白に漂白されたらいいのに。泣き腫らして熱をもつ瞼が重たくて、手すりに頭を預けた。

    「でもやっぱり、分からないや。あんなに強い薬、たくさん飲んでも良くならないなんて」

     物音ひとつしない寝室でお母さんがどう過ごしているのかは見えない。ひとつ屋根の下に住んでいるのにたった扉一枚隔てるだけで、私と家族の距離は手が届かないほど遠くなってしまった。目を瞑ると、ばたばたと雨が扉を叩く音が薄く聞こえる。その音にしばらく身を預けていると、信也の低い声が静かに滑り出した。

    「時々、兄貴の部屋から怒号が聞こえるんだ」

     どごう、という音がすぐに漢字変換できなくて少し考える。怒号、とようやく思い当たった時、彼は言葉を続けていた。

    「なんていうか、くそとか馬鹿野郎とか、口汚い感じ。最初の方は親と心配したけど、今じゃすっかり慣れてBGMだ」

     彼は日常を語るように平然としているけれど、慣れるほど罵声を聞き続けるのはどれほど苦しかっただろう。それは私が感じている痛みとはまた違った種類のもので、想像するだけで辛かった。

    「でも、兄貴がそういう行動を取るのは、繋ぎ止めるためなんじゃないかって思うんだ」

    「繋ぎ止める?」

     言葉の意味を掬い取れず、首を傾げる。信也は頷くと、切れ長の目を切なげに細めた。

    「なんて言うかさ、こう……現実と、自分を繋ぎ止める杭っていうのかな。そんで真昼のお母さんの薬も似てるのかもしれない。効果っていうより、迷子にならないための、杭」

     繋ぎ止める杭。自分がいる世界が揺らぐ感覚なら知っている。その中で自分を保つのが難しいことも。方法が違うだけで、お母さんも信也のお兄さんも、私も、同じように暗い世界の中で迷っているのかもしれない。

    「信也も迷ったこと、あるの?」

     繋ぎ止める、という表現は迷っている私にしっくりきた。そういう表現ができるということは、彼もまた同じ経験をしたのだろうか。それとも今もまだ迷っているのだろうか。

    「あったよ」

     思いの外、信也はあっさりと肯定した。

    「どうやって抜けたの?」

     少し食い気味に尋ねた。私はまだ正解という道を探し続けている。晩御飯の献立。お母さんが部屋から出てきた時の息の潜め方。お父さんが帰ってきた時の気まずさの躱わし方。生活の小さな問いですら正解が分からないまま、時間だけが積み重なっていく。それと同じだけの時間、私は迷い続けている。

     けれど、彼の答えは到底明るいものではなかった。

    「迷い続けてたら、いつの間にかそれに慣れたんだ」

     昨日も聞いた、「慣れる」という言葉。信也の横顔にまた暗い影が落ちているのを見て、彼に答えを求めたことを悔いた。どれだけ言葉が鋭くても、説得力があっても、信也はクラスメイトだ。同い年だ。いつか彼が言ったように、これほど手強い問題に簡単に答えを出せるのであれば、私達は迷ったりしない。

    「ごめん」

     私が期待したことを彼は察していた。その一言が重たく心にのしかかる。

    「違うの。私……」

     その先の言葉は出てこなかった。何を言っても言い訳になるような気がして、そのまま俯くと握りしめていたティッシュが再び目に入った。真っ白なそれが、さっき私の身体を包んだブラウスと重なる。

    「私の杭は、信也だよ」

     心を整理するように落ちてくる優しい言葉。ぐらぐらと揺れる足元をしっかりと包んでくれた体温。そういうひとつひとつが、迷ってばかりの私の道を確かなものにしてくれる。

     信也は一瞬驚いたような顔をして、目元を赤く染めた。

    「そう言ってくれるのは真昼だけだ」

     珍しく照れたように笑う彼に、鋭さはなかった。もしかしたらこれが普段の彼の表情なのかもしれない。こうやって笑い続けられるように、私が彼の杭になれたいいと、おこがましいことをふと思った。

    四. 六月上旬

     六月は旧暦で水無月と呼ぶらしい。習ったのは古文だったか、現代文だったか。学習机に縦書きのノートと教科書を広げたまま目線を上げると、窓の向こうでしとしとと小雨が降っているのが薄らと見えた。水有月の間違いじゃないの、と寒いとも暑いともつかない湿度にうんざりする。梅雨入りを果たしたのはつい二、三日前だけれど、今年は五月も中旬から雨続きだった。もう三週間近くこんな天気と睨めっこしている気がする。

    「やだなぁ……」

     独りごつも静かな雨音の中に消えていく。手元のスマホを意味もなく開いたとて、こういう時に限って誰からもメッセージは送られてきていなかった。日曜日は部活もないから友希たちとスイーツを食べに行ったりするけれど、ここ最近の雨でそんな気力も吸い取られてしまったのかもしれない。

     何となく落ち着かないのは、珍しくお父さんが家にいるからだろう。仕事三昧のお父さんは休日出勤も多く、土日も当たり前に家を空けている。不在なら仕事ばかりだと不満に思うのに、家にいるとそれはそれで居心地が悪いのは我儘だろうか。

     黙って宿題でもやろうと開いたノートたちを空白のままにして、ベッドに寝転ぶ。ぼんやりした思考を手放すように目を瞑ったその時、部屋の扉が叩かれた。

    「真昼、少しいいか」

     お父さんの呼ぶ声に、少し前の出来事を思い出して返事を躊躇った。また世間体に塗れた会話だったらと、諦めと警戒が入り混じった感情で閉じたままの扉を見つめる。

    「この間のこと、すまなかった」

     無言を貫いている間に聞こえてきたのは、思いもよらぬお父さんの悔いたような声だった。やがてずるずると布が擦れる音がして静かになる。何だろうとドアノブに手をかけて伝わってきたのは人の重みで、さらに扉を引くと慌てたようにふっと軽くなった。

    「真昼」

     そこにしゃがみ込んでいたのはお父さんだった。首元がよれたTシャツに色褪せたズボン。スーツを着ている時とはまるで違う雰囲気に、ぼんやり「お父さんだなあ」と感じる。

    「入りなよ」

     立ち上がったお父さんがゆっくりと私の部屋に足を踏み入れる。どこに座ったらいいか戸惑う姿がちょっと面白くてふっと息が漏れた。お父さんは学習机と合わせて買ってもらった椅子に座り、私はベッドに腰掛ける。

    「すまなかった。真昼と……お母さんの気持ちを、考えていなかった」

     しゅんと肩を落とす姿から見えた、旋毛から広がる黒髪には白いものが目立っていた。記憶にある髪よりもグレーに近づいた色。

    「それよりも」

     項垂れるように沈んでいた半分グレーの頭がゆっくり上がる。

    「私は、お母さんのこと、どう思ってるのか聞きたい」

     事務的に家のことを決めてからずっと感じられなかったお父さんの温度が、目の前にある。今なら聞ける気がした。

     お父さんは眉根を寄せて黙り込む。そして慎重に、その口を開いた。

    「ずっと、どうしたらいいか考えてたんだ」

     膝の前に置かれた手。互い違いに組まれた指にはタコができている。新聞の編集者を勤めている証だろうか。ゴツゴツとした指が行ったり来たりとそのタコをさする。

     しばらくの沈黙の後、顔を上げたお父さんはどこか遠い目をしていた。

    「すまない、真昼……」

     言葉を止めた瞬間、スマホが振動する低い音が響く。机の上に目をやると、私のそれは黒い画面のままだ。お父さんが慌てた様子でポケットから取り出すと、画面をしばらく見つめた後、低いため息をついた。

    「真昼はお母さんのこと、よく見てくれているから知りたいというのも分かる。ただ……少しだけ時間をくれないか」

    「仕事が入ったから?」

     手元の画面が見えたわけではないけれど、何となくの勘で尋ねる。無意識に混ざった諦めの色を感じてか、お父さんは慌てた様子で続けた。

    「違う。いや仕事なのはそうなんだが。お父さんも、話す内容に整理をつけたいんだ」

     真昼の気持ちを無碍にはしない、と言うお父さんの目はいつになく真剣だった。初めて見るその眼差しは、どことなく信也のそれに似ていて——だからか一旦その目を信じてみる気になった。

    「分かった」

     お父さんはすまない、と一言告げると、私の部屋を後にした。やがて慌てて身支度する音が続いたかと思うと、家の鍵がガチャリと閉まる。その音を聞いて、ふぅといつの間にか浅くなっていた息を深く吐いた。

     人気のなくなったリビングに向かうと、テーブルには新聞や本が積んであり、お父さんが過ごしていた気配が残っている。それらを整えながら、さっきの会話を反芻した。はっきりとこれまでの会話と違った、お父さんの目。信也の言葉を借りるなら、お父さんに向けた矢印が初めて通じた気がしたのだ。整理をしたい、と言った真剣な眼差しを思い返すと、私の思いに応えてくれたんだと信じたい。

     整えた新聞紙たちを、テレビ台の収納スペースに押し込む。四箇所に区切られたスペースには本や雑誌らが詰め込まれており、その中に佇む古い冊子があることに気がついた。前からあったかなと記憶を探りながらパラパラと捲ると、どうやらアルバムのようだった。年季の入った写真たちが丁寧に貼り付けられており、セピア色に近いそれらには、どれも几帳面な字で名前と年齢などが書かれている。

    「陽子 十三歳 中学入学式」

     恐らく桜だろう満開の木と「入学式」と書かれた看板の前で、幼いお母さんと女性が並んで笑っていた。ほとんど会ったことはないけれど、きっとおばあちゃんだ。

     ただそのアルバムは中学校の卒業式を最後に途切れていた。正確には、文字を最後に写真がなくなっていた。

    「陽子 十六歳 高校入学式」

     そう綴る字の上に、写真はない。ただ長方形を描くようにして紙の色が変わっていた。その跡は多分写真の大きさだろう。剥がれてしまったのか、誰かが剥がしたのか。いずれにせよそれを最後に、残りのページは全て白紙で終わっていた。

     書かれた文字はどれも同じ筆跡で、四角張った字をしている。お母さんの丸みを帯びた字とは大分違うから、もしかするとおばあちゃんのものかもしれない。そうやって見つめているうちに、そういえばと当たり前のことに気がついた。

    「あ……」

     お母さんの名前は「陽子」と書いて「はるこ」と読ませる。桜の木の下で微笑む小さなお母さんは、その名の通り春を連れてきたようだった。

    五. 六月中旬(一)

     思いの外、お父さんと話す機会は早く巡ってきた。

     部活がある日は十九時近くまで練習をしているので、帰宅するのは十九時半近い。そういう時はネットで見つけた時短の晩御飯を作るのがここ一年の日課になっていたけれど、その日は違った。学校を出る間際になって、お父さんからメッセージが届いたのだ。

    「今日は駅前でご飯を食べよう」

     駅前といっても私たちの最寄り駅はそう栄えている場所ではない。あるのは小さなスーパーと、コンビニ、そしてチェーンのファミレスくらいだ。それでも久しぶりの外食にほんの少し足を弾ませながら、改札前でお父さんを待つ。置いてけぼりのお母さんには申し訳ないと思うも、冷凍庫にレンジで温められるお弁当が入っているから大丈夫だろう。そうしているうちに小雨が降ってきて、折り畳み傘を開いた時だった。

    「待たせたか」

     グレーのスラックスに、上着を小脇に抱えたお父さんが走ってやってくる。そうでもないよと言いつつ、私たちは唯一のファミレスに向かって歩き始めた。

    「傘、ないの」

    「忘れた」

     小さな傘をお父さん側に少し傾ける。すまんな、と身体の半分を預けたその背は私よりずっと高く、ちぐはぐな傘の高さに手が少し痛くなった。

     夕飯時とはいえ悪天候だからか、ファミレスの中は比較的空いていた。クラスメイトがいないかそっと確認する自分に、体裁を気にするのは私もかと内心ちくりとする。がらんとした店内で案内されたのは、窓際の四人席だった。私が手前側に座ったので、お父さんは自然と奥に座る。メニューを見る間も特に会話はない。共通の話題がお母さん以外ないのは、私たちだからなのか、年齢ゆえなのか。浮き足だった気持ちは降り出した雨と共にすっかり冷えて、静かに注文を済ませた。

     無言で料理を待つ間、口火を切ったのはお父さんだった。

    「この間の続きを話そうと思ってな」

     ゆっくりとそう告げると、お冷に口をつける。不思議な緊張感がそこにあった。

    「お母さんが今の状態になった理由は、分かってるんだ」

     知っているとは予想外で、思わず膝の上に乗せた手に力が入る。私の知らない、病気のきっかけ。窓を濡らす小雨が、ガラスを伝って流れ落ちていく様子が目の端に映る。

    「だからこそ何も言えなかった。言う権利がないと思っていた」

     誰かを傷つけることを恐れるかのように、慎重に紡がれる、心の奥の言葉。それを語るその表情は父親ではなく、夫としての顔に見えた。

    「真昼だって知りたいよな。ただ……」

     区切られた間に、私もお冷を口にする。唇がやけに乾いていた。

    「話を聞いても、自分のせいだと思わないでくれ」

    「……うん」

     嫌な予感がする前置きを聞いても、頷くしかなかった。それくらい、聞きたかった。

     お母さんがこうなった理由も、お父さんがどう思っているかも。

    「多分、きっかけはおばあちゃんのことなんだ」

     父方の祖父母は物心つく頃に亡くなっている。だから「おばあちゃん」が母方の祖母であることはすぐに分かった。古びたアルバムに書かれた几帳面な字が思い浮かぶ。

    「お母さんとおばあちゃんは、元々仲が良くなかった。いくら親子と言えど、結局は人と人だ。合わないなら距離を置く。そういう風に、お母さんなりに折り合いをつけてきた」

     確かに我が家は、正月やお盆によく聞く帰省というイベントがほとんどない。それはお母さんなりの「折り合い」の表れだったのだろう。

    「真昼が中学に上がる頃、お母さんは節目の挨拶を兼ねて、おばあちゃんに電話をしたんだ。そこで喧嘩になった。おばあちゃんは教育に熱心な人で、真昼を中学受験させた方がいいと考えていたから」

     この流れで自分のことが話題になると思っておらず、反射で怪訝な表情が浮かぶのが分かった。気がついたお父さんが慌てた様子で話を続ける。

    「真昼がどうってわけじゃない、二人はあらゆる場面で意見が食い違ってきたんだ。そういう関係は、違う話題でも同じ状況になったよ」

     そうかな、と呟くものの胸の中に残ったざらつきは唐突に、小学生の頃の記憶を連れてきた。もうすぐ晩御飯よとお母さんに呼ばれてダイニングテーブルに着いた私に、お母さんが尋ねてきた、あの夜。

    「真昼。もっと勉強して、私立の中学校に行きたいって思う?」

     シリツ、という言葉はその頃クラスで度々耳にしていた。勉強をして、頭のいい学校に行くんだと誰かが話していた気がする。けれど小学生の私は、勉強するよりも部活に力を入れたかった。進学予定の公立中学校は、運動部が有名で全国大会に出ることもあるという。バスケ部に所属していた私は、中学校でも同じ部活に入って大会を目指すんだ、とわくわくしていた。

    「ううん。私、もっとバスケ頑張りたい」

     それは揺るがない真っ直ぐな意見に聞こえたんだろう。お母さんはそれ以降、受験の話題を持ち出すことはなかった。

    「そういえば受験のこと、お母さんに一回聞かれたことがある」

     呼び起こされた記憶をお父さんに話すと、ああと頷いた。

    「お母さんは真昼のやりたいことを優先したいと思ったんだな。おばあちゃんもその時はあまり強く言わなかったらしい……でも、高校に上がった時だった」

     高校受験でも、私は運動部の活躍が目覚ましい公立高校を選んだ。中学受験を勧めるおばあちゃんがその選択に何を言ったか、大体予想はつく。

    「高校が決まった頃、今度はおばあちゃんから電話があったんだ。進学先を聞いて、おばあちゃんはお母さんを責めた……もっといい学校に行かせるべきだったと」

    「いい学校」。偏差値や大学への進学率が高いとか、そんな意味だろう。「行かせるべき」という表現には絶対的な正解とでも言いたげな圧迫感が潜んでいて、選択しなかった私とお母さんをその枠に押し込めようとする。

    「その日の夜、お母さんは話していた。おばあちゃんは桜を背景に、『制服』姿の真昼と写真を撮りたかったって」

    「いい学校」に限定された「制服」に加えて叶うことのない景色を持ち出したのは、おばあちゃんからの当てつけだろうか。そこに忍ばせた皮肉は、切れ味の悪い刃物のようにじわりと私たちを刺してくる。その鈍い痛みに顔を顰めている間に、話はお父さんとお母さんの会話に移っていた。

    「そう話した後、お母さんは悩んでる様子だった。それで、もし桜が咲いていれば、と言ったんだ。そんなお母さんに、俺は……」

     言葉を止めたお父さんはしばらく俯いた。薄くなった旋毛が力なくこちらを向いている。

    「お父さんは、だから何なんだ、と返したんだ」

     それは紛れもない、お父さんの懺悔だった。

     放たれたのは冷たく、温もりの欠片もない相槌。それを真正面から受けたお母さんは、一体どんな気持ちだったんだろう。

     今ここで唇を噛むお父さんは、お母さんが抱えていた、おばあちゃんに対する傷の深さを知っていたんじゃないのか。それなのにどうして。比べるべきではないと分かっていても、父親として、夫としての後悔とお母さんの傷をどうしても天秤にかけてしまう。

    「翌朝、お母さんは寝室から出てこなかった。次の日も、その次の日も……病院に連れて行った時も、一言も喋らなかった。おばあちゃんへの恨み事も、お父さんを責めることもせず、ただ静かに車に揺られるだけだった」

     許されるわけでも、怒られるわけでもない。宙ぶらりんになったお父さんの後悔は、解消することなく今日まで続いている。

    「それ以来、どうしたらいいのか分からなかった。何を言っても、あの日の返答を取り繕うような気がして。でも、違ったな。真昼にしんどい思いをさせてすまない」

     もう一度見えた旋毛は項垂れることなく、意思を持って下げられていた。

    「……何があったか分かって良かった、かも」

     ここでお母さんの代わりに、許すとか詰るとかすればお父さんの気持ちは多少なりとも晴れるんじゃないか。そう分かってはいても、何も言えなかった。ここで私が白黒付けてしまえばこの一年の迷いを、お母さんの傷を帳消しにするような気がして、それはできないと拒絶に襲われたからだ。お母さんに対する言葉やこれまでの無関心が蘇ってくる。怒りとも、悲しみともつかない何かが、胸の中でどろりと熱を持って占めていた。

     複雑な思いに手一杯になった私はそのまま口を閉ざす。お父さんは迷子になった子供のような表情で、見計らったかのように運ばれてきた湯気の立つハンバーグを見つめた。

    「とりあえず、食べるか」

     それから私たちは一言も発することなく、ご飯を食べ始めた。

     ちらりとお父さんを盗み見ると辛そうな面持ちの中に隠しきれない、美味しいという顔が混ざった、何とも中途半端な表情をしていた。

     その曖昧な表情に、もしかするとお父さんは私が思うより、ただ素直な人なのかもしれないと諦めにも似た気持ちが湧いてきた。

     さっきの話もきっとそうだ。ふと思ったことを口にして、無意識にお母さんを傷つけてしまった。そうやって浮かんできた可能性は、どこか腑に落ちるものだった。

     かちゃかちゃと食器が当たる音だけが響くうちに、胸の中の熱が冷めていく。それを感じながら、ぼんやりと思った。

     私も、お父さんと同じことしてたのかな。

     日常の小さな喜びですら受け止められなくなってしまったお母さん。部屋に閉じこもる直前に言った「今年も咲かないのね」という言葉。その時お母さんの目には叶うはずもない、おばあちゃんと私とお母さんの三人で撮る写真が映っていたんじゃないだろうか。

     お父さんの言葉は、その微かな夢を消し去ったに違いない。なら、私はどうなんだろう。知らずとは言え、おばあちゃんが望む選択を取らなかった自分。私が「いい学校」に入っていれば、お母さんはこうならずに済んだのだろうか?

     心のどこかで、変わってしまった生活を「お母さんのせい」だと思ってきた。言葉に出さずとも伝わっていたとすれば、それはお母さんを追い詰めていたのだろうか。

     空になったお皿の代わりに、大きな窓ガラスを見つめる。いくつもの雨水は細く長い線を描いて、下の方で合流すると大きな水たまりを作っていた。

     多分、原因は一つじゃないんだろう。

     お父さんの言葉も、私の態度も、それからおばあちゃんとの関係も。

     ほとんどが白紙だった古いアルバム。文字だけが残り、ぽかんと空いた高校の入学式。あそこにはどんな写真が載っていて、なぜ剥がれてしまったんだろう。何にせよ、あの文字を最後に途切れたアルバムが続くことはきっとない。

     そして、それは私も同じかもしれないと思い至る。

     高校の入学式で途切れた、家族写真。セピア色の古いアルバムと同じように、これ以上増えることがなかったら、どうしよう。

     雨音の間にたどり着いた一つの答えは、言いようのない不安を連れてきた。お会計を済ませて家路に着く間、その不安を見つめ続けたせいで胃がむかむかする。玄関前に到着した時、私は耐えきれずお父さんに白状した。

    「お母さんが、ずっとこのままだったら、どうしよう」

     折り畳み傘も畳めず足元の水たまりを見つめているうちに、泣きそうな自分がいた。まるで幼い子供に戻ってしまったかのような心細さに震える。

     お父さんはしばらく何も言わず、やがて私の頭を優しく叩いた。

    「大丈夫。帰ろう」

     一言告げると、玄関の鍵を開けて中に入っていく。

     ちっとも大丈夫なんかじゃなかった。何も解決なんてしていない。それなのに頭に触れた暖かさが、雨に濡れた私を包んでいく。広がる僅かな安堵に悔しく思いつつも、先に家に上がった大きな背中を追いかけた。吐き気は少しだけおさまっていた。

     部屋に戻ると制服を脱ぐのも面倒で、そのままベッドに身体を預ける。ずぶずぶと布団に沈み込んでいく気だるさに身を任せて、ぎゅっと目を瞑った。暗い視界の中で感じた安堵と、あの日私を包み込んでくれた白いブラウスが、どこか重なる。

     連絡先を交換していない彼が今、何をしているのか少し気になった。

    六. 六月中旬(二)

     翌日も小雨は続いていた。雨は静かであればあるほど、周囲の音を吸い取る。教室も同じようで、いつもより大人しい朝の空気の中で信也の背中を探した。いつしか他の誰にも気づかれないように彼を目で追うことが日課になっていたけれど、その日は珍しく彼の席は空白だった。

    「真昼、英語の宿題分かった? もう全然だめなんだけどぉ」

     友希に背中を突かれて、なんてことなさそうに振り返る。間もなく朝のホームルームが始まる。遅刻か、欠席か。信也は寝坊なんてしなさそうだから、何かあっただのだろうか。

    「私より友希の方が英語の成績いいじゃん、分かるわけないっしょ」

     考えても仕方がない、と友希が広げたノートを覗き込んだ。一度彼女に八つ当たりをしてしまって以来、私を気にかけてくれる素振りが増えた。あのあと謝ったけれど、理由までは話していない。

     花見病のことは悪意があるわけじゃないと分かっているからだ。多分お母さんのことを打ち明けたら、彼女は心配してくれるだろう。だからこそ伝えないことにした。友希とは平等な友達でいたい。甘えたな言動の中に見え隠れする、彼女の優しさに甘えていたいだけかもしれないけれど。

    「あ、先生来た」

     始まったホームルームは大半が代わり映えのしない内容で、静かにしていても聞いている生徒は多分少ない。今日も今日とてかと思いきや、一つだけ気になる事があった。詳しく知りたい人は後で職員室に来るように、とホームルームを終わらせ教室を出た担任の後を追いかける。

    「先生、さっきのパンフレット、欲しいです」

     彼はああ、と気怠げに手元のファイルから一枚の用紙を取り出した。

    「全国でも数少ない事例らしいから、観に行ったらいいよ」

     パンフレットには確かに「全国で三例目」と謳っている。ありがとうございます、軽く頭を下げて立ち去ろうとした時、担任の後ろに信也が立っていることに気がついた。

    「先生、すみません。遅刻しました」

     学生鞄を肩にかけた彼は私に見向きもせず、生徒手帳を担任に差し出す。遅刻や早退の履歴を書いてもらうためだ。担任は変わらず怠そうにそれを受け取った。

    「書いておくから休み時間に取りに来るように」

     はい、と信也が頷くと担任は私たちを置いてさっさと去っていった。

    「遅刻、珍しいね」

     彼は目を逸らしながらああ、と低く呟いた。何か言いたげな、けれど立ち去りたいような曖昧な沈黙が落ちる。信也の後ろでは男子生徒たちがぎゃあぎゃあと騒いでおり、ますます私たちの静寂が際立った。

    「また、後で」

     耐えきれなくなったのは私の方だった。くるりと踵を返して教室に戻ると、本当に宿題が分らなかった様子で唸っていた友希に笑いかける。信也といる中で気まずい空気になったのは、初めて話した日以来だ。窓の外で一層強くなった雨足を見て、そういえば彼の肩が片方だけ濡れていたことが気になった。

     結局、次に信也と話せたのは数日後だった。

     お昼を友希に誘われたり、忘れていた宿題を解いていたりであの踊り場に行くことができなかったのだ。その間彼の様子が気になってはいたけれど、あれ以来遅刻することもなく、ただ静かに席に座り続けていた。

     ようやく用事のないお昼が巡ってきて、いつものように階段の踊り場に向かう。信也もまた変わらない様子でおにぎりを口にしていた。

    「やっほ」

     やっと来れたよ、と彼の隣に腰を下ろす。信也をじっと見つめるけれど、一見変わったところはなさそうだった。

    「え、なに」

    「ううん、この間ちょっと変だったから。遅刻した日」

     今日は普通だねという意味を込めたつもりが、彼はおにぎりを齧る手を止めてうん、と小さく呟いた。その横顔にはあの翳りがあった。その様子から、何が起きたか何となく想像がついた。

    「お兄さんに、何かあった……?」

     彼に触れていい膜の境目を探しながら慎重に尋ねる。立てた片膝を軽く抱えながら、信也もまた言葉を探しているように目を伏せる。しばらくの迷いの後、彼の中で整理がついたのか静かに口を開いた。

    「兄貴はいつも通り。それじゃあ困るんだけど、それは置いといて……母さんが倒れた」

    「えっ大丈夫なの⁉︎」

    「大丈夫、ただの疲労だって。入院もなし。点滴だけ打って、あとは自宅安静」

     淡々と答える口調からはとっくに解決したようにも受け取れるけれど、信也の横顔はずっと曇っている。私は静かにその続きを待った。彼には彼の膜があり、今きっと私は内側に入ろうとしている。その繊細な行為は、彼の冷静さの裏返しだと知っているから、彼が口を開くまで黙った。

     やがて、信也の薄い唇から小さな声で続きが語られた。

    「母さんはパートと兄貴の世話を両立してた。兄貴が何か言ったのか、積み重ねの疲れかは分からないんだけど、病院に連れて行った日……遅刻した日、傘差しながら母さんを抱えて思ったんだ」

     あの日、片方だけ濡れた彼の肩が浮かぶ。

    「全部、兄貴が悪いって」

     前に言っていた、お兄さんの存在。耳馴染みになるほど吐かれ続けた罵声は、確かに信也とその家族を侵食していた。

     ——全部、お母さんのせい。

     信也の言葉に被せるように、それは自分の中から浮かんできた。そんなことを言える立場でない責任転嫁の声は、自分がしたことを棚に上げるようで苦しい。——信也の横顔は一層影が深まったように見える。床に付いた彼の片手は酷く色が抜け落ちていて、私は迷うことなく、その手を握りしめた。

     彼の手は一度怯えたように跳ねたけれど、それから私の手を受け入れたように見えた。白く、冷たい手に温度を送り込むように、ぎゅっと力を込める。

     私は、ここにいる。

     私を包んでくれた時のように、体温を伝える。今信也が迷っているなら、私が杭になる。ここに信也はいるのだと、掌から伝わる僅かな体温が、揺らぐ足元を固めるように。そのうち二人の手は同じ温度に溶け合って、やがてどちらが支える側なのか分からなくなった。

     それからしばらくして彼が少し照れたように、ありがとうと微笑んだ。掠れた声は心許なかったけれど、暖かさを感じられたことに安堵して、重ねた手をゆっくりと離した。

    「前とは逆だな」

     苦笑する信也に、思い出してることは同じだったねと笑った。いざ離してみると若干の気恥ずかしさが残る。誤魔化すかのように会話を続けようとした時、彼が呟いた。

    「ありがとう。でも——」

     かき消えそうな声で続いたのは「資格がない」という言葉だった。
     どういう意味か分かりかねて問いかけようとした途端、彼は慌てたように何でもない、と終わらせた。信也の横顔は口を硬く結んでおり、これ以上話すことはないと意思を感じる。私はその話を追うことを諦めて、話題を変えた。

    「そういえばこれ」

     言いながらスカートのポケットから四つ折りにしたパンフレットを引っ張り出す。信也が遅刻した日、担任がホームルームで告知したこと。彼はパンフレットを広げると、怪訝な顔でそれを読み上げた。

    「『満開の春をもう一度 桜の接ぎ木プロジェクト』?」

    「そう。東京で桜が咲いた樹があって、それを親にして樹を増やそうってことみたい。そのうちの一本が近くの植物園に来てるんだって」

     東京で咲かせたという桜にどんな技術を使ったのかは分からないけれど、それを近くで鑑賞できるというのなら絶好の機会だ。何故なら私たちには桜に由縁がないわけではない。

    「信也、前に言ってたでしょ。お兄さんも春に引きこもりになったって」

    「え、じゃあ真昼のお母さんも」

     そう、と頷きながら話していなかったと思い当たった。

    「お母さんも去年の春だった。部外者が言う『花見病』なんてクソ食らえだけど、桜がどんなもんか見てやろう。それで大したことなかったってお兄さんたちに言ってやろうよ」

     本当は桜がどうかなんて慰めにもならないことは、分かっている。それでも「今年も桜は咲かない」と言ったきり沈黙を続けているお母さんに教えてあげれば、何かが変わるんじゃないかと、そんな淡い期待が胸で燻っていた。

    「……どうかな」

     信也にとってはあまりピンとこないようで、むしろ苦い表情を浮かべている。その中には上手く言い切れない思いがあるのかもしれない。それでも私は誘いを諦めなかった。

    「私に付いてくるってだけでいいから。一緒に行こうよ」

    「なんでそんなに俺を連れて行きたがるんだよ」

     彼の怪訝そうな顔に私は、何の飾りもない本心を口にした。

    「私は信也と桜が見たい。それだけだよ」

     少なくとも私にとって桜は、単に綺麗とか好奇心とかそれだけではない、複雑な意味を持つ。これまで手強い家族の重荷を分け合ってきた彼となら、それを共有できる気がした。

    「私の我儘かもしれないけど」

     信也はパンフレットをしばらく見つめて、ふっと気が抜けたように笑った。

    「いいよ、一緒に行こう」

     根負けしたのか、それとも諦めたのか。どちらなのかはよく分からなくとも、今週末にしようと提案した彼の笑顔が暖かかったことに酷く安心した。

    七. 六月下旬(一)

     約束の土曜日は、梅雨の合間に太陽が顔を覗かせた日だった。

     急な雨に注意という天気予報に備えて折り畳み傘を鞄に忍ばせ、待ち合わせ場所の駅に向かった。歩いて十五分ほどの道のりに、じっとりとした嫌な汗を背筋に感じる。水に濡らすと冷たく感じるという冷感タオルで首元を押さえながら、信也の到着を待った。

    「お待たせ」

     現れた彼は、半袖の青いブラウスにゆとりのある黒いデニムを履いていた。全体的にだぼっとしているが、それほど大きくない彼の身体にはちょうどよく見えて、初めて目にした私服に目を瞬かせる。

    「え、何」

    「思ったよりおしゃれなんだなあって」

     素直な感想に、どうも、と苦笑する彼の表情は照れ隠しなんだろうか。少なくとも適当なTシャツに、スキニーパンツを合わせた私よりはずっと洗練されている。友希たちと出掛ける時と変わらない格好にも関わらず、もっと服装を考えれば良かったと薄ら後悔した。

     お互い気恥ずかしさの中、どちらともなく改札をくぐった。目的地の植物園は市街地に向かって走る電車で三駅ほど離れたところにあり、かつて家族でも行ったことのある場所だ。そういえばあの頃はまだ桜が咲いていたな、と窓の外を流れる河川を眺めながらふと思い出す。

    「ねえ知ってる? 植物園、昔は桜が綺麗だったんだよ」

    「観たことあるよ。家族で行ったから」

    「本当? 私もだよ」

     その植物園は家族連れで散策するにはちょうどいい広さで、花木の展示や新種の栽培実験を見ることができる。お父さんに出かけ先を伝えた時も、「久しぶりに行きたいなあ」と懐かしい目をしていたから大人でも楽しめるスポットなんだろう。

     そうこうするうちに電車は目的の駅に停車した。ここから歩いて三十分程度だから、本格的な夏が始まる前で良かったかもしれない。限られたお小遣いで来ている私たちに、タクシーという選択肢はありえない。

     住宅と小さな田畑が混じるアスファルトの道を二人並んで歩くうち、横に立つ信也は私より頭一つ分背が高いことに気がついた。学校で会う時は座ってばかりだから、とそこでようやく、クラスの男の子と出かけている、というむず痒い実感が湧いてくる。

    「一緒に出かけること、躊躇いとかなかったの」

     自分から誘ったくせに妙な質問だとは思ったけれど、湧いてきた痒さから逃れたくて尋ねる。信也は私を一瞥すると、いつもの冷静な口調で答えた。

    「真昼ならいいと思った」

     一体それはどういう意味なのだろう。けれど私自身、彼を誘ったのは同じく「信也ならいいと思った」からだと思うと、その言葉を深追いすることはできなかった。

     沈黙のまま数分歩き続けていると、急に道が開けて大きな通りに出た。視界に映る空は、雲間から青空が見え隠れしている。通りを横断する川に沿って右に曲がると、大きな建物とビニールハウスが並ぶ敷地が現れた。そこが、私たちの目的地とする植物園だった。

     高校生にはありがたく入館料は無料で、受付をくぐるとすぐ大きな花壇が私たちを迎えた。そこは花々が大きな円形を形作っていて、白や橙、紫などの色鮮やかさが目に明るい。

    「すごい、綺麗だね」

     素直な感想を口にすると、信也は「ああ」とどこか遠くを見るような眼差しで呟いた。

    植物園の中はまばらに人がいて、そのほとんどが家族連れかカップルだった。同じ年代の人とすれ違う度、クラスメイトだったら気まずいと肩が跳ねるも、見知った顔はいなさそうで安堵する。

     そして人々の目的は私たちと同じようで、その流れは緩やかにある場所に続いていた。受付でもらった館内マップと見比べながら、その流れに合流する。温室と称したビニールハウスが立ち並ぶエリアの端に建つ、ベージュの小さな平屋。館内マップによれば、そこは新しい栽培方法や新種開発のための実験棟で、その中に桜の樹が保存されているという。  

     建物の中に入ると、プランターに入れられた咲かけの花や、名前の分からない木々、どういう仕組みかも分からない機器に支えられた植物が並べられていた。すごいね、何だろうね、という鑑賞する人々の声はどこか浮ついていて、意識がこの最奥の桜に向いていることが分かる。

    「きっとみんな、桜を見に来たんだ」

     ぽつりと溢した私の声もまた、どこか浮き足立っているように聞こえて内心驚く。

     大したことない、と思うために来たはずなのに。何年振りかに見る植物の力なのか、それとも一緒に来た人がいるからなのか。いずれにしても不本意で、その感情には見ないふりをした。

     指示があったわけではないけれど、桜を一目見ようとする人々は自然とそこに向かって列を作っている。私たちも黙って並びながら、そっと信也の横顔を盗み見た。今日は一段と口数が数ない彼は、もうすぐ目にする桜に何を思うんだろう。私に付いてきただけで、意外と冷静だったりして。

    「真昼」

     だからいきなり名前を呼ばれて、咄嗟に目を逸らした。心の内を勝手に覗いていたような罪悪感でなに、という相槌が素っ気なくなる。

    「連れてきてくれて、ありがとう」

     予期せぬ感謝に、言葉が詰まった。

     家族と来たことがあると言っていた。桜を見たとも。その時はお兄さんも一緒だったのだろうか。こうなる前の信也の家族は、彼は、どんな気持ちでそれを見上げたんだろう。

    「見えてきた」

     信也の声で、正面に向き直る。やがて鑑賞を終えた人々が出口に向かって捌けていき、ゆっくりと足を進めてしばらくすると、それが私たちの前に現れた。

     目線の高さに据え置かれた台の上に、土が盛り上げられ、桜はそこに根を張っていた。思っていたほどの大きさではない。高さは多分私よりも少し低く一.五メートルくらい、幹も十数センチ程度に見える。

     それでも、精一杯伸ばした枝には、紛れもない薄紅色の花弁が色を添えていた。

     満開には程遠い。裸の枝の方が目立つのに、目は自然と懐かしい花びらに吸い込まれていく。わずかに咲いたその花から感じるのは、紛れもない、渾身の生命力。

     気づけば、なんだよと呟いていた。なんだよ。大したものじゃないって、言いに来たのに。

    「信也……」

     自覚したくない感動と、敗北感をどうにかしたくて、彼の横顔に目を向ける。

     信也は、泣いていた。

     音もなく、ただ涙を流していた。

    「どうしたの——」

     言いかけて、ふと後ろからの視線に気がつく。私たちの背後にも列は続いている。とりあえず彼の左手を取ると、出口の方へとゆっくり連れて行った。

     建物を出ると、再びビニールハウスが続く景色が広がった。手近なベンチを見つけて一緒に座るも、彼はひたすら泣き続けている。時折繋いだ手に落ちてくる涙は、音にならない沢山の感情が詰め込まれているようで、沈黙のままそれを受け止めるしかできなかった。

    八. 三年前

     兄貴は俺の光だった。

     本人に伝えたことはないし、口に出すのもむず痒いが、心からそう思っていた。俺は小さい頃から人見知りで、内向的で、読書が好きだ。兄貴は社交的で、運動が得意で、いつも人の輪の中心にいた。

     そんな二歳年上の兄貴に劣等感を感じずに済んだのは、ひとえに兄弟仲が良かったからに尽きる。そもそも両親とも俺たちを変に比較することはしなかったし、平等に可愛がってくれたと思う。そして兄貴もまた、自分の顔を見上げる弟の頭をよく撫でてくれた。

    「信也はすげぇよ、俺そんな難しい本読めねえもん」

     いつだったかリビングで読書をする俺を指して、言われたことがある。まだ小学生だった俺は、中学に上がった兄貴から褒められて鼻高々だった。一方で兄貴はといえば、陸上部の短距離走で確実に力をつけており、県大会に出場を決めるほど打ち込んでいた。高校に上がっても似たような日々が続くものだと、信じて疑わなかった。

     様子がおかしくなったのは、高校に進学してすぐのことだ。

     具合が悪い、と言って学校に行かない日が増えた。最初は季節の変わり目だからと楽観視していた両親も、それが一週間と続けばさすがに違和感を覚え始める。病院に連れて行くために兄貴を部屋から出そうとした母親はこう言われたという。

    「ふざけんな、お節介なんだよ」

     その時兄貴に振り払われた腕が壁に当たってできた青あざは、何かが大きく変わってしまったことを俺たち家族に見せつけるようだった。

     梅雨に入る頃、兄貴はとうとう学校に行かなくなった。部屋からも出てこなくなった。

     リビングに飾られた高校の入学式の写真に映る鮮やかな菜の花が痛々しくて、いつの間にかどこかへ仕舞われた。

    「せめて桜が咲いていれば……」

     変わってしまった兄貴を見て、憔悴した様子の母親はそう溢した。なんの慰めにもならないその言葉が苦しかった。兄貴が登校拒否になった理由を学校側に尋ねると、休み始めた直接の理由は分からないが、そんな兄貴を「花見病」だとせせら笑いする奴がクラスにいたらしい。全く登校しなくなったのはそれが原因ではないか、と言われたのだ。

     兄貴とは顔を合わせない日々が続いたにも関わらず、徐々に彼の機嫌が分かるようになっていた。部屋は隣同士だから、気配は感じる。苛ついて何かに八つ当たりしている日もあれば、物音一つしない日もある。後者の日は一日寝ているのだろう。母親が部屋の前に食事を置いても手をつけない日は、大体そういう時だ。父親は散々頭を悩ませた結果、何とか兄貴を病院に連れて行くことに成功した。診断されたのは、不安障害という初めて聞く病名だった。両親も俺も何をしたらいいのか見当も付かず、呆けた顔をしていたと思う。

     とりあえずいくつかの薬を処方されたが、何かが変わることはなかった。

     兄貴が引きこもりになり三年も経つと、家の空気が澱むようになった。一向に開かれることのない兄貴の部屋から漏れ出る陰鬱さと、時折聞こえる暴言は小さな家庭の中に蔓延する。朗らかだった母親の顔は常に疲労が浮かび、お喋りな父親の口は重たく閉ざされることが増えた。鉛のような空気の中での呼吸はままならず、俺は家を空けるようになった。

     だからクラスメイトを公園で見かけた時、あの空気を纏っているとすぐに気がついた。彼女——竹内真昼のことはよく知らない。中学は他校だったし、去年は別クラスだった。今年からクラスメイトになったものの、いつも賑やかな女子達と一緒にいる、俺とは関わりのない人だと思っていたくらいだ。

     だが公園での彼女は、背中に鉛を背負っているかのような重苦しさを宿していた。鮮やかな菜の花が揺れる爽やかな公園の中で、その雰囲気は彼女を浮き立たせているようだった。見覚えのあるその様子に、ページを捲る手が止まってしまったのも仕方ないと思う。

     その原因は彼女の隣を歩く、帽子を目深に被った女性だとすぐに分かった。女性は背を丸めて歩いており、何かに怯えているように見えた。その危うさはごく稀に部屋から出てきた時の兄貴と重なる。服装や仕草から妙齢の女性に見えるから、家族だろうか。いずれにせよ介抱する側の負担を想像すると胸が詰まる。見続けるのも失礼か、と目線を外そうとした時、ゆっくりと歩いていた女性が急にしゃがみ込んでしまった。それに合わせて彼女もその場に座り、女性の背中をさすり始めた。

     見て見ぬふりをしてその場を去ることもできた。彼女は俺に気づかれたくないかもしれない、とも思った。それでも足は自然と自動販売機に向かう。暖かいお茶を購入すると彼女達の目の前に立った。

     彼女の目は、どこか遠くを見つめていた。その目が宿す感情を、俺は知っている。どうしてこんなことに、と怒りと諦めが混ざった何か。整理し切れないそれを吐き出さないと、自分の方が息もできずに溺れてしまう。俺は買ったお茶を差し出した。

    「深呼吸した方がいい」

     彼女はきょとんと目を丸くした後、そっと深く息を吸って、吐き出した。その姿に素直な人なんだなと思いつつ、俺はその場を後にした。これ以上、女性と彼女に関わってほしくないだろうと慮ったつもりだった。

     にも関わらず、翌日律儀にお茶のお金を返しにきたのには驚いた。たかが百数十円と公園での話を蒸し返す気力を天秤に掛ければ、後者の方がきついに決まっているからだ。

    「いらない」

     断ると彼女は差し出した手を所在なさげに引っ込め、俺の隣に座る。そうして観念したような小さな声で本当のところを明かした。

    「本当は、誰にも言わないでって言いにきた」

     やっぱり素直な人だと、むしろ微笑ましいとすら思えた。

     お金を返すことを口実にすること自体、罪悪感を持っていたのだろう。そんなこと、気にしないのに。その時、彼女は病に罹った母親——公園で一緒にいた女性がそうだと教えてくれた——を「心が参っている」と表現した。その言葉の優しさに、俺はこの人とだったら仲良くなれそうだと心が解けていくのを感じた。

     その感覚は確かだったようで、いつの間にか彼女のことを真昼と呼ぶようになった。真昼は不思議な人だ。大声ではしゃいだり、ゲラゲラと笑うことは少ないものの、言葉の端々に暖かさを感じる。その名前の通り、太陽のような明るさ、という表現は気恥ずかしくて言えたもんじゃないが。喋ることが得意でない自分であっても、和やかな表情で拙い言葉を聞いてくれることが新鮮で、彼女と過ごす時間が好きになっていた。

     そんな真昼の姿からは想像出来ないが、話を聞くに家庭環境はなかなかに厳しかった。彼女の努力で成立する一方で、両親の関心は真昼に向いていない。

     それは高校生が抱えるには重すぎる環境だ。真昼の明るさが消えずに済んでいるのは、生来のものか、それとも無理をしているのか。彼女の暖かさが消えないようにしたいと思う反面、俺は恵まれていると負い目を感じていた。家の空気がどれだけ澱んでいても両親は健在だ。親が親として耐えてくれている分、俺は高校生としての振る舞いができる。だから彼女に自分の環境を打ち明けることを躊躇い、兄弟のことを聞かれた時も兄貴の惨状を「慣れた」と口にした。真昼よりも俺は軽傷だという思いを込めて。それを聞いた彼女は何故かとても辛そうな表情を浮かべて、けれどそのまま口を噤んだ。

     初めて真昼が折れたところを目にしたのは、梅雨に入る少し前だった。気温はそれほど上がらないのに、湿度のせいで空気が重たく纏わりつく。憂鬱な温度に嫌気がさしながら、今日彼女は来るだろうかとぼんやりしていた時だった。

     真昼が、泣きながら階段を駆け上がってきた。

     どうした、と問うと同時に、彼女はその場に崩れ落ちる。その姿を見て、初めて声をかけたあの公園を思い出した。あの時真昼は支える側だったが、今はあの女性のような危うさを孕んでいる。

    「しんどいよな」

     背中をさすると、声にならない悲鳴が伝わってきた。本来支えてくれる側の家族に振り回される辛さ。それを恨み、悲しみ、理解できず、それでも嫌いにはなれない矛盾。

    「疲れたの」

     それでも真昼は恨み言も言わず、全ての悲鳴をその一言に込めた。消えてしまいそうな彼女の声を、暖かさを、ここに繋ぎ止めなければならないとただそれだけを思って、俺は真昼を抱きしめた。彼女もまた、この腕を受け入れてくれたように見えた。

     落ち着いた彼女が教えてくれたのは、病気の母親を理解したいと思う一方で、受け止めきれない葛藤だった。その葛藤に答えを出せるほど大人ではないが、ずっと思っていたことを口にした。真昼の母親における薬や、兄貴における罵声は、彼らなりの杭なのではないか、と。

     それは自分に都合のいい解釈かもしれない。彼らもまた俺たちと同じように葛藤し、苦しんで、こっちの世界に戻ろうとしているのではないかという希望的観測。それはいつか元に戻る日が来るかもしれないという儚い願いも込めている、のかもしれない。

     それが伝わったのかは分からないが、真昼は真っ赤になった目で明るい笑顔を浮かべた。

    「私の杭は、信也だよ」

     その言葉は陰鬱な空気に飲まれそうな俺を照らすと同時に、ずっと怯えていた影を浮かび上がらせた。

     直視するのが怖かったのだ。

     病気になるきっかけを作ったのは、兄貴から杭を奪い取ったのは、自分ではないか。

     兄貴が高校に進学する少し前の、春休みだった。自室からリビングに飲み物を取りに行くと、ソファでぼうっとする兄貴が座っていた。

    「うわっ、いたのか」

     明かりもテレビも付けず静寂の中に身を置く兄貴を見て、驚いた声を上げた。兄貴はそんなことはどうでもいい様子で、真っ暗なテレビを見つめながら呟いた。

    「なあ、俺、身体が変なんだ」

     中学生だった俺は何の話か捉えきれずに黙っていた。初めて見る様子のおかしい兄貴に、困惑していたんだろう。すると兄貴の黒い髪がゆっくりとこちらに回って、日に焼けた横顔が棒立ちの俺を見つめた。

    「タイムも出ない。俺、どうしちゃったんだろう」

     夕暮れの日差しに照らされた兄貴は、道に迷った子供のように心許なかった。いつも頼もしく俺の前に立つ兄貴とは別人と思うほどで、脆い表情を見た瞬間、そんな顔をする人じゃないと決めつけた。兄貴は兄貴でいてほしかった。だから俺は、言い切った。

    「やめてくれよ、兄貴らしくない」

     その時の顔が、はっきりと目に焼き付いている。

     瞬間、兄貴の表情は凍りついたように固まって、ふっと瞳から光が消えた。暗く窪んだその眼は取り返しのつかない何かが起きたように訴えてきて、思わず目を逸らした。「そうか」と吐息のような相槌を最後に、身体を引きずるようにしてリビングを後にした兄貴。残ったのは奇妙な緊張が解けたことに対する少しの安堵と、ざらりとした後味の悪い静寂だった。

     兄貴が学校を休みがちになったのは、それからほどなくしてのことだ。

     いつだったか、兄貴の不調を耳にして、中学の部活の顧問がうちに連絡してきたことがあった。母親が父親に話している内容をこっそり盗み聞きして知ったのは、兄貴が三年生の時からずっと身体の不調に悩んでいたということだ。このまま高校でもタイムが出なかったらどうしよう、と顧問に相談していたらしい。

     そんなこと、家族の誰も知らなかった。

     うちにとって兄貴は、何でもできる光のような存在だった。だから、兄貴は家族の誰にも相談できなかったのだろうか。

     それを知ってから、ずっと怖かった。あれは兄貴が初めて見せた悲鳴だったのではないか。不安を打ち明けることで、こっちの世界に残るための杭を残そうとしたのではないか。だとしたら「立派な兄」という像でそれを抜き取ったのは、俺だ。

     その出来事を自分のせいじゃないと否定しては、怯えることを繰り返すうち、自分の感情が迷子になっていた。いつか真昼に言った「慣れるよ」という言葉は、この繰り返しに慣れたという意味だったのだと、今更のように気がついた。

     迷子になった俺は、いつの間にかこの状況を「兄貴のせい」と思うことで楽になろうとしていた。母親が倒れた時、はっきりとその声を自覚して襲ってきたのは、困惑と自己嫌悪だ。真昼が俺の手を握ってくれた時、そんな資格はないと思った。思ったのに、どうしようもない安心感に甘えて手を振り払えない自分に嫌気がさした。

     真昼に桜を見に行こうと誘われた時も、俺は迷っていた。

    「桜がどんなもんか見てやろう。それで大したことなかったってお兄さんたちに言ってやろうよ」

     彼女の言い分は破綻しているし、本人も分かっていたと思う。俺たちの問題に桜はほとんど関係ない。ただ自分や家族にのしかかる重荷を、桜という無害なものに乗せたいだけだ。でも俺がそれをしてしまったら、兄貴にしたことからまた逃げることになる。それは許されるんだろうか。ぐるぐると渦を巻く躊躇を絶ったのは、真昼の一言だった。

    「私は信也と桜が見たい。それだけだよ」

     彼女らしい、あまりにも真っ直ぐな一言。難しいことはいいじゃないかという表情に、俺は迷いを脇に置くことにした。

    「いいよ、一緒に行こう」

     そうして二人で見た桜は、あまりに小さく、儚く、それでも生きているという命だった。それは昔見た桜を彷彿とさせ、横に並ぶ少し背の高い兄貴の姿を確かに感じさせた。

    九. 六月下旬(二)

    「俺のせい、なんだ」

     ほとんどの雲が消え、青空が広がるベンチの下で信也が落ち着くのを待っていると、彼がふと口を開いた。繋いだままの左手を見つめたまま、微かな声で語ってくれた。

    「兄貴が引きこもりになる少し前、多分俺に助けを求めたんだ。俺はそれを、『兄貴らしくない』って切って捨てた」

     色白の頬には薄く涙の跡が残っていた。泣き腫らした赤い目元に、再び薄らと雫が盛り上がり、この告白が彼にとって痛みを伴うことを教えてくる。

    「学校を休みがちになった兄貴はクラスメイトから『花見病』だと揶揄われたんだ。それが決めうちになったんだろうけど……でも、最初の一押しをしたのは俺だ」

     その声に混ざるのはひたすら後悔だ。その音を私はお父さんから、そして私自身から聞いた。誰にも責められることなく過ぎてしまった時間の分だけ、自責の念が積み重なって私たちを押し潰そうとする。信也はそうやって何度も、何度も自分を責めてきたんだろう。

    「それなのに、いつの間にか、自分が苦しい理由を兄貴のせいにしてた……無茶苦茶だよ」

     身に覚えのある声が、心を刺してくるようだった。しょうがないよ、と甘い言葉でお互いを救いたくなる。けれど痛いからといって逃げては、目の前の告白の意味がなくなってしまう。彼の後悔を、私は受け止めたい。

    「お母さんが病気になったのは、私のことでおばあちゃんと喧嘩したからなの。私はそんなこと知らずに、自分だけが大変みたいな顔して、心の中でお母さんを責めてた」

     信也と同じだよ、と笑おうとしたけれど、頬が引き攣って酷い顔になったのが分かる。

     私に後悔を告白したお父さんや信也の方が、一押しをしたことの重さを背負ってきたと言えるのかもしれない。言葉にせず、内心お母さんのせいだと思ってきた私は、これまで一体何と向き合ってきたんだろう。

     僅かに残った雲が私たちの頭上で影を作って、ふっと気温が下がったように感じた。信也の手を握る右手に力が籠る。その瞬間、掌の中の体温がするりと逃げて、今度は私の手を覆った。

    「お父さんは、お母さんのことを傷つけたの。それが多分、最初の一押し。でも私はその一押しのきっかけだった。それに、向き合ってすらこなかった」

     今更気がついたところで、悔いたところで、何か変わることはあるのだろうか。

     先程まで私たちが居た平屋に目を遣ると、桜を鑑賞した人々がぽつりぽつりと出てくる。その中に、家族連れが見えた。両親と、小学生くらいの小さな女の子と男の子。みんなで手を繋いで歩く暖かい姿に、懐かしい記憶が過ぎる。

     春の日に訪れたこの植物園は、幼い私にとって目がチカチカするほど鮮やかな場所だった。豊かに命を延ばす花木は美しいけれど、主張が激しい。そんな中に現れた桜の木々は薄紅色の花弁を散らす、儚い生命に感じた。

    「桜はすぐに散ってしまうからなあ」

     もったいないね、と返した私に、お父さんは笑って言った。

    「だから大事にしなければと思うんだろう」

     そうか。

     再び雲が去って、太陽が私たちを照らす。それは春の陽気とは程遠い強い陽光だったけれど、あの日の桜はありありと思い浮かんだ。桜なんて、と思いたくてここに来たけれど、逆なんだ。

    「信也、さっきの桜、綺麗だったでしょ?」

     彼はああ、と頷いて、私が見つめていた家族連れに目を遣った。信也はあの光景にどんな思い出を重ねているのだろう。

    「大したことあるんだよ。まだ咲き切ってないのに、綺麗なんだよ。だからいつかみんなで、家族で、満開の桜を見なきゃいけない」

     中学校の卒業式が最後になった、古いアルバム。

     高校の入学式から撮っていない、リビングの写真。

     おばあちゃんとの時を動かすことはもうできないけれど、新しい写真を重ねていくことはできる。時計の針を動かすのはきっと、薄紅色の花弁になるだろう。

     信也の切れ長の目がゆっくりと私に戻ってくる。

    「俺たち、小学生くらいまでは、家族で桜を見る機会なんて山ほどあった。あの時はその時間が消えるなんて思いもしなかったよな」

     春になれば桜が私たちを迎えてくれる、それが当たり前だった。その当然は五年前に消えてしまったけれど、再びその枝に花を咲かそうとしている。

    「私も信也も、もしお母さんやお兄さんの一押しをしてしまったのなら……今度は戻って来られるように、私たちで杭を作ろう」

     信也は驚いたように目を見開くと、観念したかのように空を見上げた。

    「真昼はさ、誰よりも向き合ってきたと思うよ。向いてる方向が、俺と違うだけ」

    「向いてる方向?」

    「俺はずっと後悔しながら後ろを向いてきた。出口が見えなかった。でも真昼は、悩みながら前を見てる。だから、杭を作ろうって言えるんだ」

     ——迷い続けてたら、いつの間にかそれに慣れたんだ。

     いつの日か信也が言っていた、「慣れる」。出口が分からなくなるほど、彼は迷って、悩んで、苦しんできた。私もそこに並んで良いのだろうか。

     そんな私を見透かしたように、信也は柔らかく微笑んだ。

    「俺と自分を比べるなよ。苦しさは自分だけのものだ」

     何だか、許されたかのように肩が軽くなる気がした。誰のものでもない、私だけの後悔。それは自分の首を絞めることもあれば、こうして前を向くきっかけにもなるのだろう。

    「やっぱり、信也はすごいよ」

     彼の微笑みにそう返すと、何故かさらにその笑みを深めた。

    「俺は、真昼に敵わないって思う」

    「どうして?」

    「出口を探せるところ。明るくて、光って感じだ」

     抽象的な表現に誉められているのか分からず、中途半端な表情を浮かべる。ただ彼の笑顔にあの翳りはなかった。積み重なっていた重荷が少しでも軽くなったなら、まあいいかと静かに肩をすくめる。

    「近いうち満開の桜が見られるようになるかもな。そうしたら兄貴が何と言おうと外に連れ出す。いい口実になりそうだ」

     いつになるか分からないけれど、それでいい。満開の桜が再び春を彩るまでの、光になれば良いのだ。私たちは、一人じゃない。たとえまた迷ったとしても、今この手から感じる体温が、互いを繋ぎ止めてくれるのだから。

    「それまで、私にとっての杭は信也だよ」

    「お互い様だな」

     私たちはお互いの顔を見遣って、それから初めて一緒に笑った。

     何かが大きく変わったわけではない。ただ私たちはかつての春の象徴に、思いを乗せた。迷いを、後悔を、この先あるかもしれない未来を乗せて、そうして明日もこれまで通りの日常を歩いていくのだ。

     梅雨の合間に見せた晴れ間が、また雨に戻るように、陰鬱な日々はきっと訪れる。それでもいつか長雨は終わりを告げ、夏がやってくる。そうして季節が巡って再び桜を感じられるようになるまで、私たちは手を繋いで杭を打つのだ。

     無力な私たちができる、精一杯を二人で生きようと、繋いだ掌にぐっと力を込めた。
                                   (完)

     
     

    穂積

     
     
    日記的な、エッセイ的な文章を中心に、小説や動画など創作活動の記録として投稿します。

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