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人間剥離

    あらすじ
    生まれた時から祝福も愛情も知らずに育った少年は、生きる意味も愛する方法も分からないまま孤独を抱えていた。
     女の子が欲しかった母は生まれてきた少年を理想の少女として作り変え、少年へと成長をし始めた瞬間に見放した。
     やがて父と二人で暮らし始め、初めて愛を得たと思った少年だったが、再び現れた母によってその居場所は揺らいだ。心の奥で膨れ上がった歪んだ愛情ともう一人の自分の囁きは、取り返しのつかない悲劇を招く。
     両親を失った少年は深い絶望の中で自らの存在と向き合い、静かに終焉へと歩み出す。愛を求め続けた少年の短く悲しい物語。

    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門


    1.循環する
    人間とは一体何の為に生まれ、何の為に死んでいくのだろう。ただただ生と死を繰り返すだけのこの世界に何の意味があるのだろう。
     僕は幼い頃から死について考える事が多かった。
     とある日の学校の帰り道、ふと目に止まった葉っぱを一枚手に取ると、それをゆっくりと捥いだ。僕の手の中に握られたこの葉っぱは、程無くして色を無くし枯れていくだろう。しかし他の葉っぱは何事もなかったかのように風に揺れ続ける。まるで初めからそこにこの葉っぱは存在していなかったかの様に。
     人間の世界も同じでは無いだろうか。例えば今、僕がこの場で死んだとしても、何事も無かったかのように世界は回り続ける。僕という存在など初めから無かったかのように当たり前の日常が過ぎ去っていく。
     毎日世界中の誰かがこの葉っぱの様にむしり取られている。どれだけ強く祈ろうが、抗おうがその運命を変える事は出来ない。
     運良くむしり取られる事が無かったとしても、巨大な幹に栄養を送り続けるだけの存在。いつか疲れ、枯れ果て散って行く運命。
     人とは何の為に生まれてくるのだろう?何かを成す為?子孫を繁栄させる為?それとも社会の歯車の一つとして自我を捨て、ただただこの世界を回す部品の一つとなる為だろうか……そんな人生だけは送りたくない。
     手のひらの中でしんなりと深緑色に色を変えた葉っぱを、力任せに握り潰すと、葉っぱは歪に形を変え変則的な軌道を描きながら地面へと落下していった。
     僕はこんな葉っぱとは違う。もっと意味のある明るい未来が僕を待っているはずだ。明るくて希望に満ち溢れた明日を迎えるんだ。明日こそ……きっと。

     僕の家庭は決して裕福な方では無かった。両親共に働きに出ていて、学校から帰っても誰もいない。
     玄関のドアの前に立つと僕はズボンのポケットを探った。
     (あれ?家の鍵が無い)
     学校を出る時にランドセルの中から取り出してポケットに入れたはずの家の鍵が見当たらなかった。
     (どこかに落とした?いや。しっかりとズボンの上から鍵の存在を手で確認しながら歩いていたからそんなはずはない)
     おかしいなと思いながらも、試しにドアノブに手を伸ばしてみると……ギィッと音を立て少しだけドアが開いた。
     鍵をかけ忘れたのか?それとも誰か帰って来ているのか?だが今まで一度たりともそんな事は無かった。不審に思いながらもゆっくりとドアを開く。
     窓から差し込む夕日に照らし出された室内は、いつもの見慣れた光景とは違っていた。いつもの僕の家ではなく、どこかの部屋の一室の様だ。
     ポタリポタリと蛇口からシンクに液体が垂れる音が響く部屋は、人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てていた。フローリングには吐瀉物なのか排泄物なのかも判別出来ない黒いシミの様なものが点々と広がっており、付近には割れた花瓶に土、恐らく植物であったであろう枯れた塊がそこら中に散らばっていた。
     水滴の音が耳に触る。蛇口を閉めようとキッチンに近付くとシンクには血液の様なドス黒い液体が入ったマグカップが一つ置かれていた。中身が何なのか気になるが確かめようとする気にはなれない。その時、白い薄手のレースのカーテンが揺れ、生暖かい風が室内に流れ込んできた。ギシギシと天井から吊るされた何かが揺れている……これは一体何なのだろうか?
     不気味な程真っ赤に染まった部屋で、僕は「それ」を見つめたまま立ち尽くしていた。
     なぜか分からないが両目から大量の涙が溢れ出してきた。
    分からない。
    「それ」が何なのか理解出来ない。でも涙が止めどなく溢れ出す。僕は何とか涙を止めようと両目を手で押さえ擦り続けそして目を開いた。
     真っ赤な世界から一転、目の前に広がったのは途方も無い闇だった。上も下も無い真っ暗闇の中で何かが鳴り響いている。闇の中に小さな光がポツリと点灯し、その音も少しずつ近付いてくるのが分かった。文字通り光の速度で一気に闇の世界から僕を包み込んだ光に目が眩む。それと同時に耳に飛び込んでくる不愉快な爆音で僕は目を覚ました。
     (あれ?ここはどこだ?)
     目を覚ました僕の目の前に広がった光景は、先ほどのリビングでもなければ僕の家でも無かった。大人になった僕が今住んでいる部屋。マンションの寝室だった。
     ジリジリとけたたましく目覚ましが音を立てている。僕はハッとなり急いで目覚ましを止めると時刻を確認した。午前七時。いつも起きている時間だ。落ち着いてもう一度部屋を見渡すが紛れもなく僕の部屋だ。
     夢を見ていたのかと目を擦り、壁に吊されているスーツを手に取るとリビングへと向かった。寝室から出て窓のない短い廊下を抜け、リビングのドアノブに手を伸ばしリビングへと入る。
     薄ら光の漏れるカーテンを開けると朝日が目に飛び込んだ。
    今日も快晴だ。眩しさに目を細めつつ電気ケトルのスイッチを入れ、窓際に置いてあるサボテンに水を差した。
     水をやりすぎるのもよくないので、朝にほんの少しだけ水を差すようにしている。亡くなった父が大事にしていたサボテンで、今の僕にとって唯一の家族と言ってもいい大事な存在だ。
     スーツに袖を通しながらグツグツと音を立てるケトルのスイッチを押し、粉末のコーヒーをマグカップに入れ熱湯を注ぎ込む。
     マグカップの中の真っ黒な液体をクルクルとスプーンでかき混ぜながらベランダへの扉を開いた。秋特有の肌寒くもほんの少し哀愁を纏った風が頬を撫でる。
     ベランダに出てコーヒーを一口含む。僕はここから見える景色が好きだった。海沿いに遊園地でもあるのか観覧車が回っているのが見える。無機質で無感情なビルだらけのこの街で唯一華やかな、生きた感情を感じられる場所だ。
     さすがに独り身の男一人であの観覧車のある所へ行ってみようとは思わなかったが、遠くから見ていてもワクワクと心が躍った。
     それとは対照的にマンションの下の道路に目を落とすと、駅に向かって歩いて行く人達が見える。皆同じ様に肩を窄め下を向き駅に吸い込まれていく……何の感情も感じない。まるでロボットのようだ。毎朝同じ時間に出勤して毎日同じような業務をこなし、そして同じ時間に帰って行く。
     周りから見たら僕もこの一団と同じ様に見えているのだろうか?こんな人生だけは送りたくないと思っていたのに、僕も社会の一つの歯車として動いている。
     本当にくだらない人生だ。
     残ったコーヒーを一気に口に流し込むと、あまりの苦さに顔を歪めた。空になったマグカップを睨み付けながら、振り返り室内に戻ろうとした時だった。
     ドンッ!!腹部に強い衝撃が走った。
     小さな……小学生くらいの女の子?の様な外見をした子供が僕の腹部に突撃して来た。
     (何故僕の部屋に子供が?誰だ?)
     様々な疑問が頭に流れ込んできた瞬間、激しい痛みが腹部に走った。急いで腹部を触ってみると深々と包丁が突き刺さっていた。腹に突き刺さった包丁の周りからじわりと血が滲み出し、激しい痛みに膝から崩れ落ちその場に倒れ込んだ。
     ゼェゼェと激しく呼吸を繰り返し倒れ込んだ僕を見て、その子供は僕を指差しながらカラカラと笑い声を上げている。出血と共に一気に体温が下がって行く感覚がする。
    (痛い。寒い。死にたくない。)
     途切れ途切れになる意識の中、子供の笑い声が響き渡る。視界が霞んでいるせいで顔がよく見えないが、白い歯を剥き出しにしてカラカラと音を立てて笑っている。
     ベランダの床に転がった飲み干したはずのマグカップからは、何故かコーヒーのような真っ黒な液体が流れ出している。
    僕の血液とマグカップから流れる真っ黒な液体が混ざり合わさった赤黒い液体で床が満たされて行き、階下にポタポタと溢れ始めていた。
     滴り落ちてくる血液の様な物に驚いているのか階下でドタバタと複数人が走り回っている様な物音が聞こえてくる
     (僕は死ぬのか?まだ死にたくない……助けて……)
     遠ざかる意識の中、子供の笑い声と秒針を打つ音だけが響いていた。

    2.新しい朝
    僕は眠るのが嫌いだった。いや。嫌いと言うよりも怖いと言った方が正しいのかもしれない。
     眠ったまま目が覚める事がないのではないか?あるいは僕とは違う全くの別人として目覚めてしまうのではないだろうか?そんな恐怖が頭の中をグルグルと駆け回っていく。
     立っているのか横たわっているのか、フワフワと浮かんでいるのかズブズブと沈んで行ってしまっているのかも理解出来ない深い闇の中、無限にも近い時間の中を漂いながらただひたすら朝が来るのを待っていた。
     いつからだろうか?ちゃんと眠れなくなってしまったのは。
    眠るという行為は死を連想させる。最も死に近い形をしていると思っている。
     そういえば刺された傷口はどうなったのだろうか?思い出した様に腹部へと目をやった。
     傷口からはドクドクと脈を打つ様に赤い液体が噴き出していて、それが真っ暗な闇の中に流れ出し真っ黒な空間に不気味な彩りを与えていた。これだけ出血しているにも関わらず、不思議な事に痛みは全く感じなかった。
     永遠の闇をただただ漂う。これが死ぬという事なのであれば案外大したことはない。もしかしたら死とは、物凄く退屈な時間を永遠と過ごすだけなのかもしれない。
     誰かが言った。死とは誰にでも平等にやってくる。だが僕はそうは思わない。
     例えば、生きる事に絶望し死のうと思って死んだ人間と、一生懸命に毎日を生き、明日に希望を抱えていたにも関わらず不幸な事故で死んだ人間の命が平等だとは思わない。平等であっていいはずがない。
     分かっている。それは命の価値の話だ。ではその命に価値を付けているのは誰だ?人間だ。他の人間達がその人を評価し価値を付けている。
     僕の命にはどれだけの価値があったのだろうか?その答えを教えてくれる人はいない。所詮僕は大量にある葉っぱの一枚にすぎない。僕がこうして闇の中を漂っている間にも世界は何も変わらず回り続けている。誰一人として僕がいなくなった事に気付かない。それでも世界は何事もなかったかの様に続いて行く……意味を持たない命。それが僕の価値だったのだろうか……嫌だ……死にたくない……こんな意味の無い終わり方は嫌だ。
     まるで子供の様にジタバタともがきながら、どこかにあるかもしれない光を探した。
    「……意味の無い命だと自覚したならさっさと死ねばいいのに。みっともない」
     どこからか声が聞こえてくる。聞き覚えのある様な無い様な不思議な声。それがどこからか僕に語りかけてきた。
     周りを見渡してみると、僕の腹部から溢れ出していた血液が真っ暗な闇を人の輪郭をなぞる様に囲っていく。
    「……いっその事。俺が殺してやろうか?」
     真っ赤な輪郭を模られた人型のそれがニヤニヤと白い歯を剥き出しにして話しかけてきた。
     僕はゆっくりと首を横に振り、聞こえるか聞こえてないか分からないくらいの小さい声で呟いた。
    「……明日を生きたいだけなんだ」
     そう言うと真っ赤な輪郭の人型はケタケタと笑い声を上げると声を低くして言った。
    「無駄だよ。お前はもう死んでるんだから。お前に明日なんかやって来ないんだよ。理解したくないだけなんだろ?」
     そう言い終わると、遠くから耳障りな雑音が聞こえてくる。とても不快な音だ。この真っ暗闇の世界から僕を消し去る様に、光の奔流に攫われながらもその不快な音は鳴り響き続けた。

    3.二度目の朝
    ジリリリリ!
     けたたましく響く目覚ましの音で僕は目を覚ました。夢か?とても長い夢を見ていた様な気分だ。
     思い出した様に腹部へと手を当てるが、もちろん出血もしていなければ傷口も無い。
     僕を刺してきたあの子供は一体誰なのだろうか?闇の中で僕に話しかけて来たあの真っ赤な輪郭を持った人型は何者なのだろうか?夢を見ることなど稀で、大体は目を閉じ深い闇の中を漂っている内に目覚ましの音で目を覚ます。というのが僕にとっての睡眠になっていた。
     やかましく鳴り響く目覚ましのスイッチを軽く叩くと、重だるい体を無理矢理起こした。
     午前七時。いつもの時間だ。のそのそとベッドから抜け出し、遮光カーテンで光を遮断された薄暗い部屋の中を進み、吊るしてあるスーツを手に取ると寝室を出た。
     ひんやりとした空気が体を撫でる。秋口だというのに今日は随分と冷えている。天気も悪いのかどこか湿り気のある廊下はまだ夜の様な闇と静寂に包まれていた。
     窓のない真っ暗な廊下は、この世とは隔絶されたどこか違う世界へと繋がっている道なのではないかと言う感覚にさえ陥らせる。ガタガタと震えながら方向感覚を失いそうな手足で一歩一歩リビングの扉へと進んで行く。
     リビングのドアノブに手をかけ捻ると、ギィという嫌な軋み音と共に扉が開く。
     目の前に広がった光景は、少しだけ僕の予想とは違っていた。晴天だった。カーテンの隙間から光が溢れ、外からは爽やかな雀の歌声が聞こえていた。
     (よかった。また今日に繋がった)
     不思議な安心感に包まれながら毎朝のルーティーンをこなして行く。
     カーテンを開き朝日を取り込むとケトルのスイッチを入れる。ジョウロに少し水を汲み、窓際のサボテンに水を差そうと近づけた時、サボテンの変化に気付いた……少しだけ変色した部分がありサボテンが枯れて来ているような気がした。
     水をやりすぎたのか?土は乾いている様に感じるが今日は水を差すのはやめておこう。グツグツと音を立てるケトルのスイッチを押し、コーヒー粉末を入れたマグカップにお湯を注ぎベランダへと歩いた。
     ベランダの扉を開けると、モワッとした空気が体に覆いかぶさって来た。目覚めて廊下を進んだ時の感覚との違いに戸惑いつつもコーヒーを注いだマグカップを口に運ぶ。残暑と言うよりは初夏に近い気温に顔を顰めながらコーヒーを一口含む。
     熱湯を注いだはずなのだが生温く苦味が強い。マグカップを覗き込むとドロッとした黒い液体に自分の顔のシルエットが映り込む。
     人型に縁取られた真っ黒なシルエットが、夢で見た人型を連想させ、薄気味悪さを感じ視線を観覧車へと向けた。
     僕に彼女がいたり家族がいたのならば、あの観覧車を見に行けるのに。などと夢物語を考えながらゆっくりと回転する観覧車を眺めていた。
     下の道路は、相変わらずロボットの様に同じ動きを繰り返しながら歩く人間達が駅へと吸い込まれて行く。
     雄大な空へと伸びる巨大な遊具に興味を持つ事も目を向ける事もなく、地面を見つめ歩を進めている。僕はそれらを目の淵に捉えながらも視線は観覧車へ向けていた。
     この人間達は何を楽しみに生きているのだろうか?今日死ぬかもしれない。明日を迎える事が出来ないかもしれないなど考えながら生きているのだろうか?
     いや。こんな歯車としてしか動いていない連中はそんな事考えていないだろう。機械の様に毎日の業務を繰り返し、ただただ当たり前の毎日を消費しているだけに過ぎない。駅へと吸い込まれて行く人間達に苛立ちを感じボソリと呟いた。
     そんな無駄な毎日を繰り返すくらいなら死んでしまえよ。お前達の無駄な明日を僕にくれよ。
     何故そんな言葉を口にしてしまったのかは分からないが、普段の僕からは想像出来ない乱暴な言葉を発してしまった事に自分の事ながら驚いた。気まずい気持ちになった僕は、マグカップに残った残りのコーヒーを一気に口に含むと振り返って部屋へ向かおうと歩き出した。
     コーヒーの苦味が強すぎて顔が歪めたその時だった。背中に凄まじい寒気を感じたのだ。殺気と言うのだろうか、駅に向かっていた人間達が一斉に僕の背中を睨みつけている様な、殺気を込めた視線が突き刺さっている様に感じた。
     (もしかしてさっきの言葉が聞こえてしまったのだろうか?いや。ここは五階だ。大声で叫んだのならば聞こえてしまったかもしれないがボソリと呟いた程度に過ぎない。)
     気のせいだ。きっと気のせいに違いない。背中に突き刺さる殺気を振り払う様に急ぎ足で室内へと入った。
     白いレースのカーテンが生温い風を受けてカラカラと揺らいでいる。その音に混ざる様にキッチンから水の滴る音が聞こえてきた。さっき水を汲んだ時にしっかり蛇口を閉めていなかったのか?急ぎキッチンへ向かうと、蛇口から滴り落ちる液体がシンクを真っ赤に染め上げていた。
     (……錆?違う。これは血液か?)
     蛇口から不気味に滴り落ちる液体を止めようと慌てて蛇口を閉めるが、どれだけ力を込めようと液体が止まる事はない。むしろより量を増しボタボタと水量を増して行く。
     ボコッボコと音を立てる排水溝からは黒い液体が逆流して蛇口から漏れる赤い液体と混ざり合い、赤黒く量を増して行くとシンクいっぱいに溜まった液体は溢れ、ポタポタと床を濡らし始めた。
     必死に蛇口を握る僕の目の端にふと人の姿が映った。窓際に置いたサボテンの目の前に誰かが立っている。
     窓から差し込む光が逆光になって、顔は確認出来ないが明らかに男性とは違う少し丸みを帯びたシルエットに長い髪、女性だろう。
     小さなジョウロを持ちサボテンに液体を注ぎ込んでいる。鉢からはキッチンで汲んだものであろう真っ赤な液体が溢れ出していた。サボテンが枯れてきていた理由はこれかと女性に向かって叫ぶ。
    「やめろ!そのサボテンに触るな!」
     その声に反応した女性がこちらを振り返り、隠れた顔が露わになったその瞬間。激しい怒りが込み上げてきて僕は一目散にその女性に向かって走り出していた。

    4.真っ赤な怒り
    ……‥ちゃん。……ちゃん。
     誰かが呼んでいる。懐かく優しい声だがひどく嫌悪感を感じる。
     呼びかけに応じ目を開こうとするが、あまりにも眩い光にまともに目を開く事が出来ない。数度瞬きをしてゆっくりと目を開くと、ボヤけた視界の先ににこやかに微笑む女性が確認出来た。
    「……ちゃん!新しい服買ってきたから着てみて!絶対に似合うと思うから!」
     女性の手に握られていたのは、フリルのついたピンク色のワンピース。それを着るのを催促するようにこちらに突き出している。腕を前に突き出すタイミングに合わせて花の様な香水の香りも流れてきた。
     (あぁ。そうか……もう顔すらもはっきり覚えていない目の前のこの人間は僕の母親か)
    「それ」を母親だと認識した時、脳の中で蓋をしていた記憶の箱がゆっくりと開いていくのが分かった。
     僕の母親は子供が出来たら女の子が欲しいとよく言っていたらしい。しかしなかなか子宝に恵まれず、ようやく授かる事が出来て生まれてきたのが僕だ。男として生まれてきた僕を見た母親の顔に喜びの感情は宿っていなかった。
     髪を切る事を禁じられ、買ってくる玩具は人形やおままごと道具。着せ替え人形のように女の子の服を買ってきては僕に着せていた。僕を女の子に作り替え、僕で遊ぶ母親の顔は笑顔で溢れていた。
     元々小柄だった事も加味して、小学校に進む頃には誰がどう見ても普通の女の子に作り替えられていた。子供とは残酷なものだ。性別と見た目の異なる僕を見た児童達は一斉に私を虐め始めた。
     殴る者。蹴る者。言葉汚くなじる者。
    日々様々な暴力に晒され、僕の心は徐々に削れていった。
    「なんで……ちゃんを虐めるの?可哀想に……きっとみんな……ちゃんの可愛さに嫉妬してるのよ。だってあなたはお人形さんの様に可愛いんだから」
     そう言いながら涙を流して私の頭を撫でる母親の目には、憐れみや慈しみと言った感情は全く見られず、ただただ自分の玩具を汚されて悲しんでいるだけのように見えた。
     だがそんな日々も長くは続かなかった。母親によって女の子の様に育てられていた私の体は、少しずつ男性へと成長しつつあったのである。
     するとどうだろう。顔と体付きのギャップから女の子と言うにはほど遠くなっていく僕の姿を見て、母親は少しずつ僕と距離を置きはじめ、そして何の躊躇いもなく捨てた。飽きられてしまったおもちゃのようにただ「そこにあるだけ」の存在。誰も触れることもないし見ることもない。
     部屋の隅にポツンと置かれた僕は学校へ行く事も無くなり、ただ無意味な毎日を過ごしていた。
     僕は完全に感情というものを無くしてしまっていた。正確に言えば怒りや悲しみ、喜びと言った感情を僕の中の奥深くに封印してしまったという方が正しいのかもしれない。
     それが自分を守る一番の方法だと思ったからだ。誰にも感情を向ける事なく無関心で、人形の様にそこにいるだけの存在になってしまった方が生きやすいと感じたからだ。だが時にその封印した感情は、自分の中で別の人格として僕の中にもう一人の自分がいるようなそんな感覚に陥る事もよくあった。そいつが表に立てこない様、必死に抑え込んでいた。
     無感情に無関心に毎日を過ごしていく中、世界は少しずつ色を無くし、一枚の葉にすらなれず、枯れ落ちようとしていた僕を救ってくれたのは父だった。
    母に弄ばれ飽きて捨てられた僕を父だけは見捨てなかった。会社から帰ってきたらキャッチボールをしたり、バドミントンをしたり。夕食を食べる時も、僕に話題を振ってくれて、登校する事の無くなった僕に夕食後は勉強を教えてくれた。
     父のおかげで、少しずつ彩りを取り戻してきた世界に僕は勇気を出して飛び出した。中学生になった僕はそこら辺にいる普通の生徒と同じ様に生活する事が出来た。
     それが凄く嬉しかった。母に作り替えられ、女の子として過ごした小学生の頃とは比べ物にならないほどに、楽しい毎日だった。少しずつ感情を出す事も覚えて自分の中にいるもう一人の自分の存在も少しずつ溶けて消えて無くなろうとしていた。
     ある日、友人と寄り道をして少し遅い時間に自宅に帰った。
    玄関のドアを開けた時、母親の甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。
     僕は気付かれないように静かに部屋へと戻ると、聞き耳を立て両親の会話を聞いていた。母は父への不満を矢継ぎ早にぶつけているようだった。どうやら父が僕にばかり構っているのが面白くないらしい。あれやこれやと父や僕を事をなじり続けている。
     自分の事は黙って聞いていた父も、僕の事を言われると激しく反論していた。普段は大人しく温厚な父の怒鳴り声を初めて聞いた僕は、激しく動揺し隠れる様に布団に潜り込んだ。それでもなお耳元で怒鳴られているように響く声に、激しい頭痛と目眩を引き起こし、気を失ってしまった。
     次の日の朝、目を覚ますと僕の荷物と父の荷物がまとめられていた。後から聞いた話だが、父は僕を引き取る代わりに母に家を渡したのだと。
     家を後にした僕達は、これまで住んでいた田舎を離れ都会のビルに囲まれたマンションで暮らし始めた。
     裕福とまではいかなかったが、父と僕、そして窓際には父が大事に育てていたサボテン。何不自由のない暮らしを送っていた。仕事を変えた父は前にも増して忙しくなり、前のように僕に構ってくれる時間は少なくなったが、それでも父と二人の生活は、僕の人生の中でも一番幸せで満ち足りた時間だった。朝七時に起きてハンガーにかけてあるスーツを手にリビングへと向かう。ワイシャツ姿で朝食を作る父の横で僕はコーヒーを淹れる。毎日の日課だった。いそいそと朝食を平らげるとスーツを羽織り足速に駅へ向かって行く。僕はコーヒー片手に毎朝ベランダから父の姿を見送った。
     高校へ進学しなかった僕は、ほとんどの時間を家で過ごし、父の買ってきた問題集や参考書を読んで勉強していた。父は僕が勉強をしている姿を嬉しそうに眺めていた。そのにこやかな父の顔を見るだけで満たされた気分になり、更に勉強をする意欲が湧いた。こんな一日を、毎日をずっと過ごしていけるだけで僕は幸せだった。
     だが、僕と父の平和で幸せな時間は長くは続かなかった。僕が高校を卒業するであろう年齢になった時、突然現れた一人の人間によって僕達の生活は粉々に破壊された。

    5.失った日
    季節は冬を迎えたとある寒い夜。僕は父と雑談しながら夕食を取っていた。今日はこんな事を勉強したとか、昼間にこんなニュースをやっていたなど、他愛もない会話をしていた時、突然インターホンが鳴った。
     モニターを確認した父は僕に夕食を食べる様促した後、玄関へと向かった。何やら小声で会話している様だが、相手が女性だと言う事は分かった。
     しばらくは夕食を食べ進めていたが、やはり訪ねてきた女性が気になり静かに席を立ち聞き耳を立てた。
     女性は父に何かを懇願しているのか、今にも泣き出しそうな声で必死に訴えかけていた。父はそれを黙って聞いていたが一言、分かった。と言うとこちらに戻ってきた。
     慌てて席に戻り、夕食を取っているフリをしながら父の顔を見た。父は僕とは一切目を合わせずに、部屋の奥に行くと何かを手に持ち再び玄関へと向かった。
     どうしても気になった僕は、気付かれない様に玄関を覗き見した。その姿を見た瞬間、心臓が飛び出すのではないかと言うくらい高鳴り、先程食べていた夕食が全て逆流して口から溢れ出しそうになる程の嫌悪感を覚えた。少し皺は増えている様に感じたが、玄関に立っていた女性は間違いなく僕を、父を捨てた母であった。
     父は手に持っていた財布から、ありったけのお金を取り出すとそれを母に手渡した。母は挨拶もそこそこに現金を手にそそくさと帰って行った。
     その様子を見ていた僕は隠れる事をやめ、父の前に立ちはだかった。振り返った父は僕の姿を目にすると、気まずそうに笑い悲しそうな目をしたまま言った。
    「どうしようもない人間だよな。でもお父さんの愛した人だし、世界でたった一人のお前のお母さんなんだよ。お父さんにとって彼女は今でも大事な人なんだ。許してあげてほしい」
     そう言うと再び食卓へと着いた。納得は行かなかったが父の行動を諌める事も出来ず再び箸を手に取った。
     母は僕達が出ていって間も無く、別の男性を家に招き入れ暮らし始めた。最初こそ幸せに暮らしていたのだろうが、その男は倹約家であった父とは違い、金遣いが荒くろくに仕事もせずに昼間から酒に溺れている人間だ。と父は言っていた。
     どうしてそんな男にお金を渡すのか理解が出来なかったが、父は母の顔に残っていた暴行の後を見逃していなかったのだ。母を助けるためにお金を渡してしまったのだろう。
     だが一度お金を渡してしまったのが運の尽き。それからというもの、母は事あるごとに我が家にやってきては父からお金を奪って行った。
     毎日少しずつ食卓に並ぶ夕食が貧しくなって行くのを目にして、父はほとんど全財産を母に渡してしまったんだなと悟った。
     季節は夏へと差し掛かっていた。ジリジリと日差しが強くなる中、僕は久しぶりに外に出た。
     父から買い出しを頼まれたのだ。父は僕に一万円札を渡すと「これでお前が食べたい物や欲しい物を買えるだけ買ってきなさい」そう言って僕を送り出した。
     毎月母にありったけのお金を渡していた父のどこにこんなお金があったのか定かではないが、久しぶりに美味しいものが食べられる事に胸が高鳴っていた。
     まずは書店に行き、気になっていた本を何冊か買った。そして肉屋に行き父の好きなステーキ肉と僕の好きな唐揚げを買って自宅へと急いだ。思っていたより本を選ぶのに時間がかかりすでに時刻は夕方になっていた。
     玄関のドアを勢いよく開け、購入した物を早く見せたくて父の姿を探した。窓から差し込む赤みがかった夕日が薄暗い室内を不気味に染め上げていた。ベランダ側のカーテンが少し湿った空気を纏った風に煽られてカラカラと揺らいでいる。その奥、ベランダに立ち呆然と空を眺めている父の姿が目に入った。
     父の姿に違和感を覚えながらも買い物袋をキッチンへと運ぶ。ふと目に止まったシンクに赤いシミの様な物が飛び散っていた。それにほんのりと花の様な甘い香りと鉄の錆びたような臭いまで漂っている。
    一瞬、魚でも捌いて食べたのだろうか?という考えが頭をよぎったが、父はあまり魚が好きではなく食卓にもほとんど魚料理が並んだ事がない。それに綺麗好きな父がシンクをこんなに汚した状態で放置するはずがない。
     あれこれと考えているうちに、キッチンに置いた買い物袋から購入した本が溢れ床に落ちた。
     バタン。という音に気付いた父がこちらを振り返る。夕日に染められた父は真っ黒なシルエットを床に落とし、優しく語りかけてきた。
    「おぉ。帰ってきていたのか。おかえり……ダメだよな。父さんも。母さんも」
     呟く様に、ゆっくりとした足取りでベランダから部屋に入ってくる。薄暗い室内に入ってきた父の姿が露わになった。
     父の体は真っ赤に染まっていた。自分の血なのか誰かの血なのか。僕は全身が凍りつき言葉も発する事も出来ないまま父の姿を黙って見つめていた。
    「もう無理だって何度も言ったんだ。それでも母さんはここに来る事を辞めなかった。お金はもう無いと伝えると母さんは部屋に上がり込んで、父さんの財布や部屋を漁り始めたんだ……母さんはね。本当は凄く優しい人なんだよ。そんな優しさに付け込んだあの男や、甘やかした父さんが母さんを変えてしまった。父さんの責任だったんだ。もうこうするしかなかったんだよ。変わってしまった人間を元に戻す事は出来ない」
     そう言いながら父は立ち止まり床を見つめた。僕は少しだけ父に近付き、キッチンの死角になって見えなかった窓際の床を見た。
    真っ赤に染まった床には人形の様に力無く横たわる母の姿。揉み合いになったのだろうか、辺りの壁には血が飛び散って、窓際に置いてあったサボテンも血を浴び真っ赤に染まっていた。
     父は慈しむ様な表情で倒れた母の髪を優しく撫でると、ゆっくりとベランダへと歩いて行った。ベランダに出た父はいつもの優しい笑顔をこちらに向けて優しく語りかけてきた。
    「辛い光景を見せてしまったね。でもね。父さんが母さんを殺さないと今度は母さんはお前に迷惑をかける事になるんだ。さっきも言ったけれど……変わってしまった人間を元に戻す事は出来ない。怪物になってしまった人間はもうどうする事も出来ないんだ。それは父さんも同じだ。殺人者と言う怪物になってしまった父さんももう変える事は出来ない……最低な今日を作ってしまってごめんね。でもお前には明日がある。これだけ最悪な今日を乗り切ったお前の明日はきっと輝きに満ちた色とりどりな明るい日になる。明日を夢見る事を辞めないで。夢を見続けて希望に満ちた明日を繰り返しその夢を叶えるんだよ?」
     そう言うと父は、母を刺したであろう血の付着した包丁をベランダの床から拾い上げ、自分の腹部に深々と突き立てた。
     父さんは笑っていた。白い歯を剥き出し涙をボロボロと零しながら。涙でぐちゃぐちゃになった笑顔をこちらに向けると父さんはそのままベランダを乗り越え……飛んだ。
     ドスンと鈍い音が響いて間も無く、人の悲鳴が聞こえてきた。僕はあまりにも連続して衝撃的な出来事が起こった為、まだ頭が追いついていなかった。
     (父さんが死んだ?なんで?どうして死ぬ必要があった?)
     自分自身に問いかけるも答えが返ってくる事はない。考えれば考える程頭が痛む。それでもなお思考は止まる事なく、様々な理由付けをしようと脳は回転する。頭が痛い……頭が爆発してしまいそうだ。
     声にならない声を上げながら頭を抱えた。視界がおかしい。夕焼けがこちらに向かってくる。徐々に世界は滲み溶け始めた。ドロドロになった世界に飲み込まれる様に僕はその場に倒れ込んだ。

    6.赤黒く染まる日
    何かが鳴っている音が聞こえる。インターホン?不気味な音階が室内に響き渡りその音で目を覚ました。
     何かが体にまとわりついている様に重く動かない。重い瞼を強引にこじ開けようとするが、それを拒否する様に頑なに瞼は開こうとしない。
     尚も急かす様にインターホンは鳴り続ける。脳内に直接響いてくる様な不快感、ズキズキと痛む頭を抱えながら体を起こした。体から何か液体が滴っている様な違和感を感じ、へばりついた様に開かない瞼を無理矢理引き剥がした。ボヤけた視界が次第に部屋の有様を映し出す。
     目の眩む様な鮮やかな夕焼けが差し込む室内には、暖かみと虚しさが広がりシンクから溢れ出した液体は、いつの間にか床を満たし僕の動きに合わせて波打っていた。
     クリアになっていく意識。手に握られていた液体の滴る包丁に気付き、驚きのあまりその包丁を手離すと床に満たされた液体の中にポチャリと沈んでいった。
     (なんだこの状況は?確か窓際に女性が立っていて……そしてサボテンに何かを……もしかしてこれも夢なのか?)
     思い出そうとすると激しい頭痛と眩暈が襲ってくる。ふらりとよろけ、前屈みに倒れそうになるのを何とか耐えるが両手がぽちゃりと液体に浸かり、手を中心に二つの波紋が広がっていく。赤黒い水面に二つの波紋がぶつかり合い不気味に揺れ動いていた。映し出された影は自分自身なのか、それとも全くの別人なのか。ユラユラと波紋に揺れる影が不気味な何者かに見えて思わず息を呑んだ。少しずつ穏やかになっていく水面と同時にしっかりとしたシルエットが映し出される。
     まるで別の世界からワープでもしてきたかの様に現れた影にジッと見られている様な、笑われている様な感覚に陥り両手を液体から引き抜こうとした……しかし腕は微動だにしない。液体の中で誰かに掴まれているかの様にぴくりとも動かない。
     どうにか引き抜こうと上体を逸らし渾身の力を込めると、ズブズブと赤黒い液体を吹き上げながら両手が水面から飛び出し、その勢いのまま僕は後方へとひっくり返った。液体に浸かってしまったら体を引き摺り込まれてしまう様な恐怖を覚え、倒れた後すぐに体を起こした。
     先程腕を引き抜いた水面からはポコポコと気泡の様な物が浮かび、何か物体の様なものが浮かび上がっていた。赤黒くドロドロとした液体がその物体から流れ落ち、徐々に姿を露わにする。……顔?まさか!
     僕は急いで液体の中から現れたその物体に近寄ると、やはりその物体は母の顔だった。安らかに目を閉じたその顔はあの日血を流し倒れ、父さんに優しく髪を撫でられていた母の顔そのものだった。
     (そんな。どうして母さんがここに……)
     悲しみにも怒りにも似た感情が、体の奥底から湧き上がってくる感覚を覚え、僕は膝をつきその感情を押し殺そうと必死に深呼吸を繰り返した。その時だった。
     安らかに眠る母の目が突然カッと開くと僕を睨みつけこう言った。
    「記憶を作り替えて被害者ヅラするのは楽しいか?」
     顔は母そのものなのだが、発せられた声は低く、男性の様な声色で僕を憎々しく睨み付け言い放った。
     どこかで聞き覚えのある声……ダメだ。思い出そうとすると激しい頭痛が襲ってくる。フラフラと目眩を引き起こしながら後退りすると、母は赤黒い液体を撒き散らしながら水面から体を起こし立ち上がった。液体が体を伝い床にこぼれ落ちていく。
     (え?母さんはこんなに小さかったか?)
     立ち上がった母の姿は子供の様に小さく、男性の中では小柄な僕と比べても胸ほどの高さしか無かった。
     赤黒く染まった母は俯いたままゆっくりとこちらに歩いてくる。何かおかしい。大人というにはあまりにも小さく頼りない子供の様な姿をした「これ」が母だとは到底思えない。
     僕の前まで来ると「それ」は顔を上げ剥き出しにした白い歯をこちらに向け、先ほどの低い声とは違う子供の様な高い声でケタケタと笑い声を上げた。
     (違う。これは母さんなんかじゃない。これは……僕だ。)
     記憶がクリアになっていく感覚だった。この目の前に立っている女児の様に幼く、子供の様な笑い声をあげている「これ」は僕の幼い日の姿。母に好かれたくて愛されたくて、言われるがまま女の子として生きようとしていた小学生の頃の僕。そして、夢の中で僕を刺し殺したあの子供。僕は幼い頃の僕に殺されたのだ。
     はっきりと「それ」を認識した時、突然腹部が激しく痛み出し血が吹き出し始めた。
     僕は腹部を抑え激痛に悶えながら「それ」から遠ざかろうと後退りしていると、いつの間にかベランダの前まで来ていた。僕を追いかける様にして「それ」はニヤニヤと笑いながら包丁を片手にゆっくりと僕に迫ってきた。
    「ほら?早く飛べよ!お前の父親のように!」
     包丁をブンブンと振りながら僕をベランダへと追いやると、嫌な笑い声を上げながら「それ」は叫んだ。
     全身から冷や汗が吹き出し、腹部からはダラダラと真っ赤な血が溢れ、立っているのもままならずベランダの柵を背に座り込んだ。
     その時、誰かが激しく玄関のドアを叩き、ドアノブをガチャガチャと回す音が響いた。僕はその音に驚き玄関の方へと目を向けた。
    「あの日もそうだったな?お前の父親が死んでしばらくしてここに警察が流れ込んできた」
     先程とはまた声色を変え、見た目からは想像も出来ない低い男性の声で「それ」が語りかけてくる。
     座り込む僕に包丁を手渡すと「それ」は再びケラケラと笑い声をあげ煽る様に言葉を投げつけてくる。
    「ほら?あの日と同じ様にやってみせろよ?流れ込んでくる警察達に刃を突き立て威嚇して見せろ?その後お前はベランダから飛ぶつもりだったんだろ?ならば今度はやり切って見せろ?」
     そう言い切ると玄関のドアが激しく音を立て開き、複数の人間がバタバタとこちらに向かってくる音が聞こえた。鼓動が高鳴り、気がつくと僕は立ち上がり包丁を握り締めやってくる者達を待ち構えた。
     やがてゲラゲラと笑い声を伴いながら、警察官の服装をして真っ白な歯を剥き出しにした顔のない者達が、ドタドタとベランダにやってきた。
     近付かない様に包丁を振り回し威嚇するが、ゲラゲラと笑い声をあげた警察官達は言葉を発する事なく一定の距離を保ちながらベランダの柵へと僕を追い詰める。その間にも腹部からはドクドクと血が噴き出し意識が朦朧とする中、警察官の笑い声と自分の鼓動だけが耳の奥で響き続けていた。
     ベランダの柵を背に警察を威嚇する僕の頬に何かが伝ってきた。ふと上を見上げると上の階から血の様な液体が流れてきていた。再びその液体が見上げた僕の顔に落ちてきた瞬間、血を流しベランダで倒れ込んだ僕の姿が頭の中に流れてきた。
     (これはあの夢の映像?上の階で僕は幼い頃の僕に刺し殺されたのか?何がどうなっている?)
     とても理解出来ない状況に、錯乱した僕が再び正面を見るとさっきまで笑い声をあげていた警察官達が、人形の様に静かにそこに立っていた。
     その警察官の間からスルリと現れた幼い僕が僕を突き飛ばす。その衝撃で片足が宙に浮き上がる。耐えようと反対の足に力を込めた時、ベランダを満たしていた血液の様な液体で滑りそのまま後ろに倒れ込んだ。
     柵に体がぶつかるはずと目を閉じ衝撃に備えたが、ふわりと体が宙に浮く感覚。あるはずの柵は無くなっていて僕の体は空中へと投げ出されていた。
     こちらを指差しゲラゲラと笑う警察官達と幼い僕。その光景を見た直後、体に痛みを伴わない衝撃が走った。動かない体からは赤黒い液体が溢れ周りに人の歩く音が聞こえる。
     思考が止まる。視界が明滅する。一瞬、目に周りの景色が入り込む。
     そこには僕がベランダから眺めていたスーツ姿の人間達がいた。僕が落下してきたというのに何事もなかったかの様に目の端で倒れた僕の姿を捉え、助ける事はおろか気に留める事もなく駅へと吸い込まれて行く。
     その光景を最後に僕の意識は遠のいていった。微かに聞こえるケラケラという笑い声と、スーツ姿の人間達のコツコツという靴音だけをその耳に残して。

    7.憧憬
    ベランダから景色を見るのが好きだった。
     父と母がいなくなってから三ヶ月。頬を撫でる風が肌寒く感じるようになり、季節は秋を迎えようとしていた。
     こうして風に当たっているとあの日の事を思い出す。インターホンが鳴り響く中、真っ暗な部屋で僕は座り込んでいた。インターホンの音が耳に入っていなかったわけでは無い。鳴らしている相手が警察だと言う事も分かっていたし、血まみれで倒れている母や血液の飛び散った部屋を見られるのが怖かっただけだ。
     何の反応もない状況に痺れを切らした警察は、マスターキーでロックを解除し部屋へと上がり込んできた。真っ暗な部屋で懐中電灯の光が揺れ動き、複数人の何かを呼びかける声とドタドタとこちらに向かって来る足音が聞こえたその時、部屋の灯りが灯された。
     一気に明るくなった事で目が眩み、あまりの眩しさに目を覆おうと手を上げた瞬間、何かを手にしている事に気付いた。
     警察官は声を荒げ何かを投げつける様に、早口で捲し立てる様に話しかけて来るが、突然複数人で威圧的な言葉を投げつけられた事で気が動転した僕は、ボヤける視界で周りを確認しながらベランダへと逃げだした。
     ベランダの床には父の流した血が黒いシミの様に残っていて、それが点々と柵の方へと続いていた。この世に唯一残された父の生きていた痕跡に少し心が穏やかになるような感覚を覚えた。
     警察官達が僕を追い詰める様にベランダへと詰め寄って来る。
    「早くそれをこちらに渡しなさい!」
     何の事を言っているのか理解出来なかったが、自分が握りしめていた物に気付いた瞬間、それを渡すとか捨てると言う選択肢は思いつかなかった。いつから握りしめていたのか、いつこれを手にしたのかも覚えていないが、僕の手には母を殺し、父の腹を裂いた包丁が握られていた。
     僕はベランダの柵を背にして、手に持った包丁を警察官達に突きつけた。警察官達は驚いた表情をして僕をなだめようと、先程とは別人かと思うほどに穏やかな声で諭す様に語りかけてきた。だが警察官達の声は吐いた瞬間に空に流れて行く様に僕の耳に届くことは無かった。
     このままではきっと僕は逮捕されてしまう。そうなったら父が残してくれた明日……僕に明るい明日がやって来る事は無くなる……父もいない、誰からも愛されることの無い世界で生きていく事に意味はあるのだろうか。今日よりも良い明日を繰り返せばいつか幸せな明日を迎えられるのだろうか?分からない。考えれば考えるほど闇の中に引き摺り込まれる感覚に陥って行く。
     そうだ。一枚の葉っぱにも毎日を繰り返すロボットの様な人間達にも出来ない事を僕はしよう……自分で終わらせよう。
     僕は包丁を投げ捨てるとベランダの柵に足をかけた……だがあまりの高さに足がすくみ飛び降りる事を躊躇してしまった。その瞬間を見逃さず、警察官達は柵から僕を引き摺り下ろし室内へと移動させた。
     飛び降りたくない。死にたくない。僕にはまだ死ぬ覚悟が出来ていなかったのだ。
     室内へと移動させられた僕はそこで、帰宅したら父が母を殺していた事。その後、自分の腹部を刺し飛び降りた事を涙ながらに語った。自分でも驚く程饒舌に。この凄惨な事件を目の当たりにした被害者を演じる役者のように感情たっぷりと。僕ではない誰かが僕を演じている様に事の顛末を詳細に語った。
     人の死と言うものは案外簡単に処理されるものだ。本当か嘘かも分からない僕の証言を、疑う事もなく警察はこの事件を終わらせてしまった。
     逮捕されたかったわけではないけれど。でも……もっと必要とされたかった。もっと僕の話を聞いて欲しかった。警察に対して虚無感にも似た、苛立ちにも似た感情を抱いたのを覚えている。
     感傷に浸る間も無く次は葬儀が待っていた。葬儀は一度も会った事のない親戚達が仕切り、僕は人形の様に何の感情もなく、凄惨な事件で両親を失った悲劇の青年と言うラベルを貼られてただそこに置かれているだけだった。
     淡々と葬儀は進み、同じ様な服装をして同じ様な顔をした人間達が、椅子に置かれた僕に向かって頭を垂れて行く。どこか無機質で業務的に行われるその行為は、あの駅に吸い込まれて行くスーツ姿の人間達を彷彿とさせる。
     この人間達からしたら僕の両親など、アクシデントで小さな葉っぱが大木から二枚剥がれ落ちた程度で、大して気にする事でもない至極どうでもいい事なのだろう。
     だが僕にとっては……小さな小さな小枝の様な今にも折れてしまいそうな僕を、唯一支えてくれていた大事な葉っぱだった。葉を失った木はゆっくりと枯れて行くのを待つだけ。僕もやがて枯れて行くのだろう……違う。僕はもう既に枯れてしまっていた。
     枯れていたから葉も枯れてしまった。空虚な心に愛という名の空想を注ぎ込み続けた結果、僕は枯れ果ててしまった。
     父と母の死。愛でも悲しみでも満たされることはない。それならば一体何なら満たされるのか?そっと左右の棺で眠る父と母の手を握り目を閉じた。心臓がぎゅっと締め付けられる感じがして心に何かが注ぎ込まれて来るのが分かった。
     これだけでよかった。本当は知っていたんだ。これだけで満たされる事を。
     何もかもが滲んで見える。棺で眠る両親の顔も。僕自身の存在も。
     葬儀は無事に終わり、父と母は天へと狼煙を上げながら旅立っていった。葬儀中は憐れみの声をかけてくれていた親戚達も誰一人として一人きりになってしまう僕を心配する事なく、それぞれの生活へと、いつもの日常へと戻っていった。
     誰からも必要とされない。心配してくれる人もいない。そんな僕に生きて行く意味などあるのだろうか?明るい明日を迎える日がやってくるのだろうか?
     夕焼けに染まる駅からスーツ姿の人間達が流れ出してきた。
    一日の役目を終えたその顔に、達成感や喜びという感情は見受けられず、皆一様に無機質な機械の様に頭を垂れたまま家路へと向かっている。
     ああ。きっとこの人間達も僕と同じ様に枯れ果ててしまったのだろう。明日に希望を持てず、ただただ毎日を無意味に垂れ流して行くだけ。生きながらも屍と化した人間達……でもこの人間達には歯車として社会を回す役目がある。僕には無い。誰かの葉にもなれず、社会の歯車にすらなれない僕を誰が必要としてくれるのだろうか。
     誰かに必要とされていれば、きっと明日も頑張ろうと思えるのに。
    沈む夕日を眺めながらそんな事を考える日々が増えていった。

    8.終わりに近付いた日
    父がいなくなってからも、毎朝のルーティンは変わらず続けていた。朝七時に起きてハンガーにかけてあるスーツを手にリビングへ向かう。父のいた頃はリビングに入ると朝食の匂いがしていたのだが、今は薄暗くどこか物悲しい空間が広がっているだけだ。
     カーテンを開けるといつもと変わらない世界、何も変わらない生活が繰り広げられていた。変わってしまったのは僕だけだ。忌まわしげに空を見上げた後、僕はケトルのスイッチに手を伸ばした。そういえば一つだけ新しくルーティンに加わった事があった。それはお湯が沸騰する間にスーツに着替える事だ。
     別に仕事を始めたわけではないのだけれど、父の愛用していたスーツに袖を通すだけで、どこか大人の仲間入りが出来たような、社会の一員になれたようなそんな気分にさせてくれた。サイズの合っていない少し大きめのスーツに袖を通しながら窓際のサボテンに近付く。
     不思議な事に、あれだけ血を浴びていたサボテンは枯れる事もなく、今もなお凛として以前までの姿を保ち続けていた。僕はサボテンの針に軽く触れた後、少しの水を鉢に注ぎ沸騰するケトルからコーヒー粉末を入れたマグカップへとお湯を注ぐと、それを片手にベランダの扉を開いた。部屋に充満した香ばしい香りが風に乗り散って行くのが分かった。
     父の血で染まっていたベランダの床は、シミ一つ残すこと無く綺麗に掃除されていた。僕が警察に取り調べを受けている間に特殊清掃が入ったらしく、あれだけ血で染まっていた部屋も元の姿へと戻っていた。
     警察や親戚からも何度も引っ越す事を勧められたのだが、父との思い出が残ったこの部屋を出る事など考えられなかった。この部屋だけがこの世界で唯一、僕を受け入れてくれる空間。僕が存在していても許される世界。外界から隔絶されたこの部屋だけが僕の唯一の居場所だった。
     なんだか今日は少しだけ気分が良い。鼻歌混じりにコーヒーを一口含みながら外の世界を見下ろす。
     そこにはいつもと変わらない、夢遊病のようにフラフラと歩き駅に吸い込まれて行くスーツ姿の人間達。
     この人間達と同じスーツ姿になっている自分がその一員になれたような気がして、嬉しい様な可笑しい様な。くすぐったい気持ちになって自然と笑みが溢れていた。
     一人で微笑んでいる事に恥ずかしさを覚えた僕は、コーヒーを口いっぱいに流し込み、苦味で無理矢理顔を歪めた。その歪んで狭まった視界に妙な光景が映り込んだ。
     駅へと流れるスーツの群れの右端に、ぽっかりと空間が空いているのが見えた。まるで障害物でも避ける様に、人々は膨らみながらその場所を避けて通って行く。
     (あれはなんだ?……人?人が倒れているのか?)
     僕は自分の目を疑った。あれだけの人ごみの中で一人の人間が倒れているのに、誰一人として倒れている人を助ける事もせず声もかけず、まるで障害物でも避けるかの様に気にする事なく駅へと歩いている。よく見てみるとその人間は女性で、倒れている体型から妊婦だと判断出来た。
     (なぜ誰も助けないんだ!早く助けないと大変な事になってしまう)
     僕はすぐさま部屋から飛び出そうとしたが、ふと頭に今まで僕の身に降りかかった出来事がよぎった。
     (この人を助けたとして僕にとって何になる。本当に何かあって倒れているのか?僕が向かったら何事も無かったかの様に歩き去っているかもしれない)
     (そもそも妊婦も含めこの人間達は僕が倒れていたとして助けてくれるのか?僕が辛い時誰も助けてくれなかった。両親でさえも口では慰める様な言葉を吐いてはいたけれど助けてくれることは無かった……馬鹿らしい。僕には関係のない事だ。だってお前達は僕を助けてくれなかったから)
     そう思い、振り返ろうとしたその時だった。倒れた妊婦が目を見開き僕の事を睨みつけている様に見えた。
     先程まで意識を失っている様に見えた女性は倒れたまま、それはそれは憎々しげに僕の事を睨みつけ、今にも立ち上がり襲いかかってきそうな殺気を僕に向けた。その瞬間全身に寒気が走り僕は逃げる様にして部屋へと戻った。
     心臓が爆発しそうなくらい激しく動いているのが分かる。手が震え持っていたマグカップからコーヒーがポタポタと床に溢れた。
     あれは男へと成長してしまった僕を見る時の母の顔そのものだった。忘れることが出来ないあの目。実の息子に向ける目ではない敵意に満ちた目だった。額からは冷や汗が吹き出し激しい眩暈と吐き気に襲われ、僕はそのまま意識を失う様にして床に倒れ込んでしまった。
     どれくらいの時間が経ったのだろう。目を覚ました時には完全に日は落ち、部屋は暗闇に沈んでいた。
     (あの妊婦はどうなったのだろう。あの後誰かに助けられたのだろうか)
     フラフラと立ち上がり、レースのカーテンを少し捲って妊婦が倒れていた場所を覗き込んでみた。
     人通りの途絶えた道に妊婦の姿はなく、ただ無機質で冷たいアスファルトが広がっているだけだった。
     きっと誰かに助けられたか、誰かの通報した救急車で運ばれていったのだろう。きっとそうだ。そう思わなければとても正気を保っていられなかった。仮にあの妊婦があのまま亡くなってしまったとしたら、僕は助けられたかもしれない二人の命を間接的にとはいえ奪ってしまった事になる……また人を殺してしまった事になる。手足がガタガタと震え始め、再び激しい頭痛と眩暈が襲いかかってきた。
     (違う。僕が殺したというのなら助けようともせず通り過ぎて行ったあの人間達も同罪だ。僕は殺してなんかいない!)
     側から見たら真っ暗闇の中、体育座りで頭を抱えブツブツ呟きながらガタガタと震える姿は異様そのものだろう。だがそうして自分を正当化しなければ今にも発狂して、ベランダから飛び出してしまいそうな気がするのだ。
     この部屋に一人きりで生活を始めてから毎晩こうだ。夜が怖くて仕方なかった。この暗闇に飲み込まれてしまいそうで恐ろしかった。部屋の片隅でガタガタと震えていれば、そのうち落ち着いてくる。そうなればようやく寝室に行くことが出来る。両親を失ってから患った発作の様なものだ。
     少しずつ頭痛が遠のいていくのが分かった。ボヤけていた視界が次第にクリアになり、ようやく僕という存在がこの部屋に存在出来る様になる。しっかりとした足取りで寝室に向かいベッドに倒れ込む。
     あの日から全然眠れていない。両親を亡くしたあの日から目を閉じれば血まみれになった二人の姿が浮かんでくる。瞼の裏にでも焼き付いているかの様に浮かび上がる。
     僕の今の状況に比べたら、死の方が遥かに楽に思えてくる。死んだら楽になるのかな?何度も何度もそう問いかけた。もちろん返事が返ってくる事はないが、永遠にも近い闇に浮かび上がる両親の死体にそう問いかけ続けることしか出来なかった。

    9.二度目の死
    ジリリリリ……
     闇の片隅で目覚ましの鳴る音が聞こえる。ようやく朝を迎えられた。決して気持ちの良い目覚めではないが、夜を乗り越えられた事に安堵する。
     午前七時。目覚ましに軽く触れ、立ちあがろうとするが足元がおぼつかない……そういえば最近コーヒーくらいしか口にしていない。食欲も湧かないし、冷蔵庫もほとんど空に近い状態だった。
     何とか壁を使い立ち上がると、スーツを手に取りフラフラとリビングへと歩いて行った。
     薄暗い廊下を進みリビングのドアを開けると、一気に眩しい光に包まれた。昨日カーテンを閉めずに寝てしまったのか。目の眩むほどの光に照らされた部屋に入りケトルのスイッチを入れた。
     疲れの取れていない体で、ゆっくりと寝巻からスーツへと着替えながらベランダの扉を開こうと近付くと、付近の床に真っ黒なシミがいくつも出来ているのに気付いた。
     (そういえば昨日ここでコーヒーをこぼしてしまっていたな)
     枯れてしまった血の様な真っ黒なシミを気にすることもなくベランダの扉を開けた。肌寒い乾いた風が部屋に流れ込んでくる。季節は秋。毎日少しずつだが確実に四季が流れようとしていた。
     フラフラとジョウロを手に取り、窓際のサボテンに水を注ぐ。父のサボテンは今日も元気に太陽の光を吸い込み、色鮮やかにそこに存在していた。このサボテンだけが僕の生きがいなのかもしれない。部屋も景色も僕自身も色褪せてしまったこの空間で、唯一このサボテンだけが色彩豊かに存在感を放っていた。
     明日もきっと。父のサボテンに水を注ぐために僕は生きるだろう。明日こそはきっと。明るく色鮮やかなサボテンの様な希望に溢れた明日が僕を迎え入れてくれる。そう信じて今日を繰り返した。
     グツグツと水が沸騰する音が聞こえてきた。僕はケトルのスイッチを止め、ドス黒く汚れたマグカップに粉末のコーヒーを入れお湯を注ぐ。マグカップを片手にベランダに出て通りを見下ろしコーヒーを一口含む。苦い。この世のものとは思えないほどの苦味に顔が歪む。
     色彩を失ったスーツ姿の人間達が、彩り豊かな駅へと吸い込まれていく。
     あぁ。この人間達は自分自身に彩りを与えるために、毎日あの場所に吸い込まれていくのだな。
     だから毎日同じ行動を繰り返しているのだ。ロボットなんかじゃない。歯車なんかじゃない。みんなより良い明日を迎えるために、自分自身に色を与えるために毎日を繰り返している。そんな毎日を繰り返していけば、様々な色が自分に付いてくる。色とりどりに装飾された人間は希望に満ち溢れ、より明るい明日を迎えられる。
     (なんだよ。それ。僕が見下していたなりたくもなかったこの人間達の行動こそが明るい明日への答えなんじゃないか)
     そう思った時、いつも肩を落とし頭を垂れたスーツ姿の人間達が、真っ直ぐ前を向き希望を宿した目で軽やかに駅に向かって行っている様に見えた。その姿はまるで父のようだった。
     苛立ちにも羨ましさにも似た感情が溢れ出しそうになり、それを必死に押さえつけ振り返ろうとした瞬間、足元がふらつき手に持っていたマグカップがベランダの床に転がり、ドロドロとした真っ黒な液体が床へと染み渡っていった。
     マグカップを拾いシンクに乱暴に置くと、蛇口からマグカップに向けて水を注ぎ込んだ。水を注いだにも関わらずマグカップの中はドス黒い液体で満たされていた。
     なんだか今日は最低の気分だ。ここ最近でこんなに心が騒つく日があっただろうか?
     父が言った。最低の今日を乗り切った僕には輝かしい明るい明日が待っていると……いや。本当に父はそう言ったのか?ぼんやりとベランダに立つ父の姿が浮かび上がってくる。何かに怯えた様な顔をして、何かを必死に訴えかけているが声が聞こえてこない。
     父は一体何にこんなに怯えていたのだろう。何を訴えかけているのだろう。ダメだ。この時の記憶が曖昧で全てが滲んでしまっている。風景も、父の顔も。思い出そうとすればするほどひどい頭痛が襲ってくる。
     (違う。思い出せないんじゃない。僕は思い出したくないんだ。自分の都合のいい様に記憶をいじくり回して、被害者を演じているだけ。本当の自分を認めてしまうのが怖いから。
    怪物になってしまったのは父でも母でもない。僕自身が怪物になってしまっていたんだ)
     分かっている。だけど理解しようとするが理解させない様にする自分もいる。頭の中をぐちゃぐちゃと音を立ててかき混ぜられている気分だ……気持ちが悪い。思考を止められたらどれだけ楽だろうか、体力は少しずつ衰えていっているのが分かるが、頭だけは栄養を与えなくてもフルスピードで回転している。少しでも頭に隙間が出来ると、そこを必死に埋めてくる。余計な事を考えない様に。最悪な選択肢を選ばない様に。
     だがそれもこれまでのようだ。力を失いはじめた体は、ゆっくりと床にへばりつき、激しい耳鳴りと頭痛を伴いながら僕の視界を奪い始めた。完全に止まりかけた思考と、徐々に狭まっていく視界に最後に映り込んだのは、窓際に凛と立つ色鮮やかなサボテンだった。僕の最後の希望で生きる意味。父が死ぬな!と叫んでくれた様な暖かさを感じたまま、僕の意識はシャットダウンした。

    10.潰えた明日
    気がつくと僕は暗闇の中を歩いていた。
     右も左も前も後ろも分からないまま、ただひたすら真っ直ぐに歩き続けた。いつから歩き続けていたのか、どれくらい歩いたのだろうか。目的地の無い暗闇の旅はいつか終わりを迎える事が出来るのだろうか。
     ただ一つ確かな事はこの真っ暗闇の中、薄らと。ぼんやりと見えてきた光に向かって確実に進んでいるという事だけ。
     思考も働かずフラフラと歩き続ける。光に魅了された蛾の様にただ一直線に光を目指し続ける。あの光に辿り着けばこの暗闇から抜け出せる様な気がしていた……だが唯一の救いにも思えた光はそんな大層なものではなかった。
     ようやく辿り着いた光。その正体は暗闇の中ポツンと置かれたテレビ。砂嵐の様なザラザラとした不鮮明な映像を映し出し、ゆっくりと不規則に明滅を繰り返している。
     そしてそのテレビの前には、体育座りの格好で一心にモニターを見つめている少年の姿。この少年に僕の姿は見えているのだろうか?ただただひたすらモニターを見続けている。
     僕はこの少年の後ろからテレビのモニターを見ていた。不鮮明だが何か映像が流れている。
     首から下しか見えていないが、スーツ姿の人物がモニターの中で力無くユラユラと揺れている。だらりと肩を落とし左右にフラフラと振られている姿はとても生きている人間とは思えない。見えにくいがチラリと映る首元には何か絡まっている様に見えた。
     (これは。誰かの首吊り映像?)
     こんな衝撃的な映像を見続けている少年の顔を見て僕は驚愕した。
     一切目を逸らさずに両目から大粒を涙を流し続け、一心不乱にモニターを見続ける少年は……僕自身だった。
     小学校の高学年くらいだろうか。成長期を迎え母に愛されなくなった頃の僕。感情なくさめざめと涙を流し、揺れるスーツ姿の人間を見続ける君は何を思う?
     やがて命を燃やし尽くした様に、ゆっくりと消えていく映像。再び闇に覆われそうになる中、少年はゆっくりと立ち上がり闇の中へと歩いて行く。僕もついて行っていいだろうか?いや。きっと彼と同じ道に進む事は出来ない。だって彼は僕と違って理解してしまったのだから……僕は少年が向かった方向とは逆に歩を進めた。飲み込まれてしまいそうな闇の中、力無くフラフラと横たわった。
     暗い地面の中、孵化を夢見る虫の様に。希望に満ち溢れた明日を夢見る少年の様に。
     この空間に時間という概念があるのか分からないが、かなり長い時間横になっていた。いつから見えていたのか、気がつくとポツンと星の様な光が輝いていた。
     横たわりながらその光をぼんやりと眺めていた。ゆっくりとだが確実にその光はこちらに向かって来ていた。闇を照らす様な眩しすぎるその光に、目を閉じその光の到着を待った。
    やがて到着したその真っ赤な光に全身を包み込まれ、温かな光の中で僕は目を開いた。
     寝ていたのか。気絶していたのか。目覚めた僕は部屋の中で倒れ込んでいた。辺りはもう真っ暗で月の光が部屋に差し込んでいた。
     まだ意識の混濁している僕の目に飛び込んできたのは、月明かりに照らされ血の様に真っ赤な花を咲かせたサボテンだった。
     (咲いた。父さんのサボテンが。ようやく花をつけてくれた!)
     僕はフラフラと立ち上がるとサボテンに近付いた。秋の始まりを感じさせる肌寒い空気に包まれた室内で、真っ赤に色をつけたサボテンが色鮮やかに咲き誇っていた。
     その希望の様な鮮やかな色に触れてみると、わずかだが心が満たされた気持ちになって、その場で跪き鉢を優しく抱きしめた。ふと花から甘い香りが漂っている事に気付き少しだけ顔を近付けた。
     その匂いを嗅いだ瞬間、激しい不快感と拒絶感に襲われその場で嘔吐してしまった。
     この香りは間違いない。忘れられるはずもない……母の付けていた香水の匂いだった。
     (どうしてサボテンから香水の匂いがするんだ……まさかあの時母さんの血を吸っていたのか?確かにサボテンにはかなりの血が付着していたのは覚えている)
     (また邪魔をするのか。僕から父さんを奪っただけでは飽き足らず、唯一僕に残された父さんを感じさせてくれる物。それすらも奪ってしまうのか)
     激しい苛立ちを感じ、僕は力任せにサボテンの花をむしり取った。その衝撃で植木鉢は床に転がり土が溢れた。
    「いたっ」
     花と同時にいくつもの針もむしり取ってしまったのだろう強く握りしめた拳からは真っ赤な血が滲み、拳の中でぐちゃぐちゃになった花と混ざり合って行くのが分かった。
     (母さんがいけないんだ。僕と父さんを捨てたくせに……勝手な都合でまた僕から父さんを奪い去ろうとした。あんたがいなければ僕と父さんは今も幸せに暮らせていたんだ!)
     月明かりの下、無惨にも床に転がる花を失ったサボテンを憎々しげに睨み付けると、拳の中で僕の血と混ざり合った花を床に叩きつけた。
    激しく激昂したからだろうか。頭痛と眩暈が襲ってきた。おぼつかない足取りでフラフラと寝室に向かい倒れ込む様にベッドに横たわった。
     やってしまった。怒りに囚われていたとはいえ自分で希望の花を摘んでしまった。またいつか花は咲いてくれるだろうか?いや。もうどうだっていい。だって希望に溢れた明日なんてもうやってこないのだから。あの日から……父と母を失ってしまったあの日から、永遠に最低の今日を繰り返しているだけ。いつかこのループを終わらせないといけないのは分かっていた。だけど……僕だって希望に溢れる明日を夢見たっていいじゃないか。いつかそんな日が来るって夢見て眠ったっていいじゃないか!
     激しい頭痛と眩暈、そして全身が倦怠感に包まれ徐々に思考は低下していき、眠ったのか気を失ったのかそれすらも分からないまま、僕は闇の中を漂い続けた。

    11.自らを殺した日
    ジリリリリ……
     耳障りな目覚ましの音が鳴り響いている。音階を無くした無機質な音が耳から侵入し、痛みの残る脳を刺激する。まともな睡眠と食事の取れていない体は弱りきっていて、目覚ましに手を伸ばす事さえ億劫に感じてしまう。
     しかしこの不愉快な音を止めてしまわなければ、頭がおかしくなってしまいそうだ。重だるい腕を伸ばし目覚ましの上に腕を落とすが目覚ましが鳴り止む事はなかった。その後も数回その動きを繰り返したが目覚ましが鳴り止む事はなく、次第に腹立たしさを感じた僕は、一度舌打ちをして上半身を少し起こし激しく音を立てる目覚ましを手に取ると、力任せに床に叩きつけた。
     粉々に割れたガラスが飛び散り叫ぶ事を辞め、時を刻む事を諦めてしまった文字盤は午前七時を指していた。静寂を取り戻した薄暗い寝室は冬の朝の様に凍えきっていた。
     荒くなった呼吸を整え、ほとんど感覚を無くしかけている足で床の感覚を確かめて、慎重に立ち上がった。
     今まで何度も僕を闇の中から救ってくれていた目覚まし時計が無残な姿で床に転がっている。抑え付けていた感情が最近ふとした事で溢れてしまう事がよくある。
     僕の体に何かが起こっているのだろうが、もうどうだってよかった。これまで起こった出来事全てが夢であればどれだけ嬉しい事か。どれだけ救われる事か。
     割れたガラスを踏まない様に、一歩一歩としっかりと床を確認しながらスーツを手に取り寝室から出る。夜中の様な暗さの廊下を慎重に進み、リビングのドアノブを捻った。
     カーテンを閉め忘れた事で、部屋にはこれでもかと太陽光が注ぎ込まれ、部屋の惨状をまざまざと見せつけられる事になった。目の前に広がる光景が改めて現実に起こった出来事だという事を再確認させてきた。
     床には出血した手の平の血液が点々と落ちていて、それを辿るとそのままにしていた吐瀉物が散らばり、その近くに植木鉢が転がっていた。土が溢れ、もぎ取られた真っ赤な花が薄茶色に変色して散っていた。
     僕は何とかスーツに袖を通すも、いつものルーティンなどこなす気力が湧かず枯れたサボテンの前に跪き、ただただ呆然と見つめる事しか出来なかった。
     (最後の希望を失ってしまった。僕の生きる希望を自らの手で摘み取ってしまった。もう僕に残された選択肢は一つだけ)
     ようやく落ち着いてきていたのに、再び激しい頭痛が襲いかかってきた。ガンガンと内部から直接脳を叩かれている様な衝撃に耐えられなくなった僕は蹲る様に横になり悶えた。自分の中に封印していたもう一人の僕が脳を叩いている様な錯覚を起こす。そして頭の中で声が響いた。
    「もういいだろう?いつまで俺を無視し続けるつもりだ?お前は十分頑張ったよ。後は俺に任せろ。父親を殺した時の様に。警察に上手く話した時の様に。サボテンを握りつぶした時の様に」
     僕はその声を聞いた瞬間、弱っていたとは思えないほどの力で起き上がり寝室へと駆け込んだ。
    「幼い頃から俺を封印して俺の言葉に一切耳を貸さなかった。少しでも俺の言葉を聞いていれば。俺と一緒に生きていく道を選んでいればこんな事にはならなかったんだ。だから決めたんだ。おまえの大事にしているものを奪ってやろうと」
     もう抑えつける事が不可能になっていた。急いで寝室のクローゼットから父のネクタイを複数本手掴みにして、それを結び合わせた。
    「お前の事を大事にしていた両親の命を自らの手で奪った気分はどうだ?お前は愛されていた。だがお前はその愛を受け止める大事な部分を俺と共に封印していた。受け止める事が出来なかったんだ。だからせっかく注ぎ込まれた愛を歪ませ垂れ流しにしてきた」
    (うるさい!黙れ!)
     寝室で割れたガラスを踏んだのだろう。ベチャベチャと血を滴らせながら、ロープ状にしたネクタイを手に再びリビングへと急いだ。
    「父親は母親を男の元から救い出した。もう一度ここでやり直そうとしてる事に気付いたお前は父親が奪われるのではないかと思い母親を殺したんだろう?お前は壊れてるんだよ。お前は人間にとって最も大事な物を封印したんだよ。そう俺だ」
     椅子に乗りリビングの照明を弱っている人間とは思えない程の力で引き摺り出し、石膏で出来た天井の板を剥がし剥き出しになった配管のパイプにネクタイを通した。
    「お前こそ封印されなければいけなかったんだよ。お前の存在が全てを歪ませた。お前は無なんだよ。何も無い何も感じない人間の姿をした抜け殻だ」
     その言葉が頭に響いた瞬間、僕の中から何かが抜け出そうとしているのが分かった。「それ」は僕の無表情な顔を剥ぎ取るようにベリベリと爪を立て捲り始めた。
     僕は急いでロープにしたネクタイに首を通すと力の限り椅子を蹴飛ばした……そこで僕の記憶は途切れた。
     あいつと入れ替わってしまったのか、それとも死んでしまったのか分からない。この選択が正しかったのかも分からない。ただあいつが表に出てしまう事だけが怖かった。今更感情というものを思い出すのが怖かった。自分にさえ無関心でいるくらいが丁度いい。
     でも。本当は分かっていたんだ。自分の中にもう一人完全に僕から剥離された自分がいる事を。泣いたり笑ったり怒ったり喜んだり。そんな感情豊かな僕が僕に語りかけている事も。
    「お前も楽しめよ!みんなと同じ様にお前も笑ったっていい。悲しい時は泣いて、腹が立った時は怒っていいんだ。それこそが人間なんだよ。俺とお前は元々一つなんだ。俺を受け入れろ」
     何度も何度もそう語りかけてきた。でも僕は耳を貸さなかった。いつしか僕はもう一人の僕を完全に無視し声すらも届かない奥深くに封印した。その結果が今だ。
     全てを失ってしまった僕にはこの選択肢しか残されていなかった。
     フワフワと真っ暗闇の中をただただ漂う。朝も昼も夜もない。音もない。これが死だと言う事ならばあまりにも虚しいものだ。
     自分自身で「死」と認識した瞬間、燃え盛る様な真っ赤な炎の様な光が全身を包み込んだ。

    12.命の観覧車
    (また明日に繋がったのか?死んではいなかったのか?)
     目を閉じているのにまるで太陽が目の前にあるかの様に眩しい。僕はそっと目を開き周りの様子を確かめた。
     僕が目覚めた場所は寝室のベッドの上では無かった。これまでとは全く違う、想像すらもしていなかった空の上で目覚めた。
     横たわったまま雲の様にフワフワと浮かびながら、真っ赤な炎の様な太陽とその光を浴びて真っ赤に染まる街に目を下ろした。
    「よぉ。目が覚めたか?」
     突然隣から聞こえたその声に驚き目を向けると、真っ黒な人型の影の様なものが真っ白な歯を剥き出しにしてこちらを見ていた。
    「随分と足掻いたみたいだがようやく死を受け入れたんだな。見ろ?」
     そう言うと影の様な人型はマンションを指差した。そこは僕の住んでいたマンションだった。だが様子が明らかにおかしい。
     僕が住んでいたのは五階なのだが、一体どれだけの人間が飛び降りたのだろうか、階下には五階にも届くのではないかというくらい折り重なって積み上げられた山の様な死体。その死体を見て駅へと向かっていたスーツ姿の人間達がゲラゲラと声を上げ指を差して笑っていた。僕と同じ様に感情の無い機械の様なサラリーマン達がまるで喜劇でも見ているかの様に皆、大口を開け涙を流しながらゲラゲラと笑っていた。
     変わり映えのしない毎日に、ただ繰り返すだけの毎日に少しでも彩りが与えられるのならば彼らにとってはこの光景も可笑しな物に見えるのだろうか。
     ふと上の階に目をやると、ベランダにも大量の死体が転がっていた。どうやら五階以外の階も全て死体で埋め尽くされているらしい。
    「どうだ?壮観だろう?お前が明日を夢見て今日を繰り返し続けた結果がこれだ。お前は死んだ事を認めずただひたすらに来る事のない明日を向かえようと生き続けた。結果お前は俺に殺され続けひたすら死に続けた。この世界はお前が死を受け止められなかったせいで出来た夢の残骸だ」
     僕は言葉を失った。目の前に転がっている全ての死体が僕?理解出来ない。この世界は一体何なんだ……僕が死を繰り返した事で作られた世界?フワフワと漂いながら目の前に広がる凄惨な光景から目を逸らす様に空を眺めた。
     真っ赤な太陽の光が滲む空がヒビ割れているのに気付いた。少しずつだが確実にそのヒビは広がっていき無限の闇へと溶け出して行く。
    「始まったな。お前が死を受け入れた事でこの世界も終わる……後悔は無いか?」
    「観覧車……最後にあの観覧車を近くで見たい」
     僕は遠くでゆっくりと回る観覧車を指差し言った。
    「お前が俺の問いかけに答えるなんて久しぶりだな。分かった。じゃあ最後に見に行くか」
     人型の影は嬉しそうに白い歯を剥き出しにして笑うと僕の腕を掴み、風のような速さで観覧車へ向けて飛んでいった。
     無機質なコンクリートだらけの街中で、あれだけ光り輝き希望にも似た華やかさを放っていた観覧車は間近で見ると想像とは程多い姿をしていた。
     錆だらけの支柱からギィギィと醜い音を立て今にも崩れ落ちそうなその観覧車からはお世辞にも希望など感じ取る事は出来なかった。
    「ゴンドラの中を覗いてみろ」
     ギシギシとぎこちなく回転するゴンドラを指差して人型の影は言った。
     外観は色褪せてボロボロのゴンドラだが、窓からはそれぞれ色とりどりの光が漏れていた。丁度目の前にやって来た弱々しい朝日の様に光るゴンドラの中を覗いてみた。
     目の前に広がる光景に自分の目を疑った。そこにはスーツ姿の僕が腕時計で時刻を確認しながらスーツ姿の人間達の間を駆け抜け駅へと走っている姿だった。額に汗を滲ませながら忙しそうに走るその姿は生きる希望に満ち溢れていた。
     そのゴンドラが通り過ぎると次は暖かい太陽の様な光が溢れるゴンドラがやってきた。僕は眩しさに手をかざしながらそのゴンドラを覗いた。
     そこには、見たことの無い女性と小さな子供、そして大きく口を開けて笑う僕が食卓を囲み談笑している様子だった。
    「この観覧車はお前に起こり得たかもしれない未来達だ。この命の揺籠はお前の到着を待っていた。お前が普通に生活を続け普通に生きていたらこのゴンドラのどれかに辿り着き新しい命を繋げて行っていただろうな。だがそれももう終わった事だ。お前がここに辿り着く事は無かったのだから。さて。そろそろ向かおうか?俺達が最後に行かなければいけない場所に」
     そう言うと人型の影は僕の腕を掴み、再びヒビ割れ崩壊を始めた空へと飛び立った。僕達が飛び立つと同時に不安定な回転を支えていた観覧車の支柱が、大きく音を立て折り曲がって行く。色とりどりに輝きを放っていたゴンドラは深い闇に飲み込まれゆっくりと地面へと落下して行った。
     血の様に真っ赤な太陽に照らされた街に闇が注がれて行く。夕暮れを迎えたわけでは無い。ヒビ割れ崩壊を始めた空が闇へと溶け出しているからだ。この世界はもう終わる。元々そこに何も無かった様に暗い闇の底に沈んで行く。
     太陽すらも闇に沈めようとしている街は夜を迎える様に薄暗くなり、赤と黒の混ざり合う街を抜けると僕達は一つの建物へ入った。そこはよく知っている場所。僕の住んでいたマンションだ。
     野次馬の様に群がっていたスーツ姿の人間達の姿はなく大量に転がっていた僕の死体は綺麗に無くなっていた。乗り慣れたエレベーターに乗り五階へと向かう。歩き慣れた廊下を抜け何度も開閉を繰り返したドアを開ける。
     闇に吸い込まれる様な真っ暗な廊下を歩きリビングの扉を開いた。まるで夕焼けに染まった様に赤黒く照らされた室内が目の前に広がった。ポタポタと蛇口から液体が垂れる音が響く、シンクにはドス黒い液体の溜まった汚れたマグカップ。フローリングには僕の血と吐瀉物。茶色く枯れた花。そして無惨に転がる枯れたサボテン。
     カラカラと白い薄手のレースのカーテンが風を受け止めて揺れる。僕はゆっくり近付くと天井から吊るされた僕を見つめた。
     気付かなかった。こんなにも僕は痩せ細っていたのか。ブカブカのスーツから伸びた枝の様に細った指。伸び放題の髪にこけた頬。天井から伸びる父のネクタイに首を通し土気色の顔をしてぶら下がっていた。
     人型の影も何も言わず僕の死体を眺めている。リビングの机の上に一枚の紙が置かれていた。何かを書いた後、グシャグシャと塗り潰されていて何を書いていたのか分からない。僕自身覚えていない。僕は一体誰に何を伝えたかったのだろう。
     天井からぶら下がる僕をゆっくりと引き寄せ抱き締めた。ギシギシと天井から音が鳴る。
    「ごめんね。辛かったよね。ありがとう。最後まで僕でいてくれて」
     両目から大粒の涙が溢れ出していた。もう戻る事は出来ない。太陽が闇に飲み込まれ静寂に包まれた真っ暗な室内に僕の嗚咽が響く。
    「……そろそろ時間だ。世界が崩壊する。俺もお前もこれで終わる。最後にお前にもう一度死を認識させなければいけない。お前が命を失ったここで」
     そう言うと人型の影は僕の首を両手で力の限り締め上げた。
    「ぐっ……がっ!」
     苦しい。痛い。一瞬だが死の際に味わった苦しみが再び全身を駆け巡る。いや。正確に言えばあの時味わった苦しみが人型に首を絞められている事で永遠と繰り返されている。
    「苦しいか?辛いか?だがお前だけじゃない。俺だって苦しいんだ。痛いんだ」
     人型の影は相変わらず笑っている様に白い歯を剥き出しにはしているが、僕にはそれが歯を食いしばって泣いている様に見えた。
    「助けて。死にたくない。机に置かれた紙にそう書いたのは俺だ。それに対するお前の返事はそれを黒く塗り潰す事だった。絶望したよ。最後の最後にお前に宛てたメッセージも届く事は無かった。」
     より一層力を込めて僕の首を締め上げて行く。永遠にも感じられる苦しみに身が悶える。
    「だがもういい。もういいんだ。俺もお前ももう苦しまなくていい。じゃあな。叶希(ともき)」
     叶希。そうだ。僕の名前だ。両親以外から呼ばれた事の無いその名を僕自身も忘れていた。希望、そして叶う。両親はどんな想いを込めてその言葉を僕に与えたのだろうか。忘れかけていたその名を呼ばれた瞬間、全身を包み込んでいた苦しみから解放された。
     明るい光に導かれる様に体が浮き上がって行く。やがてその光が全身を包み込みそのあまりの眩しさに目を閉じた。
    (ああ。これが死か。なんて暖かくて穏やかな光。もう後悔は無い。最後に……一つだけ望みを言うのであれば)
     どうか。次目を開く時は……優しい光に包まれて暖かい笑顔と喜びの声で迎え入れられますように。


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