
余裕論<⑤ 〜関わる人の余裕を生み出すことを、一つの指針にする〜>
私は放課後児童クラブのクラブ長として働いている。
日々、子どもや職員、保護者と関わる中で、最近ひとつの仮説にたどり着いた。
それは、
「関わる人の余裕を生み出すこと」を、一つの判断基準にすると、多くの働きかけが建設的になるのではないか。
ということである。
もちろん、安全は大切だ。
ルールも必要だ。
責任もある。
成果も求められる。
だから私は、「余裕だけを考えればいい」と言いたいわけではない。
ただ、そこにもう一つ、
「この関わりは、相手の余裕を生み出しているだろうか。」
という問いを加えるだけで、見える景色が変わるように感じている。
例えば子どもが失敗した時。
叱ることは簡単だ。
でも、その関わりは次の挑戦への余裕を生み出しているだろうか。
職員がミスをした時。
原因を追及することは必要かもしれない。
しかし、その関わりは報告しやすい空気をつくっているだろうか。
保護者対応でも同じである。
「理解してもらう」ことだけを目的にするのではなく、
「保護者が少しでも安心して帰れる関わりになっているだろうか。」
そう考えるようになる。
家庭でも同じだと思う。
子どもに早くお風呂へ入ってほしい。
宿題をしてほしい。
片付けをしてほしい。
もちろん、それらは大切なことである。
しかし、その関わりは子どもの余裕を生み出しているだろうか。
そして、自分自身の余裕も守れているだろうか。
余裕を失った親は苦しい。
余裕を失った子どもも苦しい。
だから私は、「正しく関わる」だけでなく、「余裕を生み出す関わり」を考えたい。
これは甘やかすことではない。
社会に対して望ましくない行為は止める。
危険な行動は止める。
境界線は引く。
しかし、その後に、
「どうすればこの人は、もう一度楽しく前向きに歩き出せるだろう。」
という問いを持ち続けたい。
それが余裕論でいう「より良さ」である。
私は最近、人生の理念らしきものが見えてきた。
「関わる全ての人が、楽しく前向きに生きられる余裕のある文化をつくる。」
その文化は、大きな改革から始まるものではないと思う。
目の前の一人との関わり方。
一つの声かけ。
一つの会議。
一つの判断。
そんな小さな積み重ねから生まれる。
もし組織の中で判断に迷ったら、一度こんな問いを立ててみる。
「この選択は、関わる人の余裕を生み出しているだろうか。」
正解は一つではない。
時には厳しい判断も必要だろう。
それでも、この問いを持ち続けることで、私は少しずつ「正しさ」だけではなく、「より良さ」を選べるようになった気がしている。
余裕とは、自分だけのために持つものではない。
誰かに渡すことができるものでもある。
だから私は、今日も目の前の人の余裕を、少しでも増やせる人でありたいと思う。