
完全自論 コミュニケーション学力 ⑧ おわりに——身につけようと思えば、身につけられる
ここまで、長い道のりを、付き合ってくれてありがとうございました。
「コミュニケーション能力」という言葉に違和感を覚えていた私が、自分なりにその違和感の正体を言葉にする旅を、ようやく終えた気がします。
4本の柱——届ける、受けとめる、にじませる、察する。
そして、その全部を貫く、ひとつの姿勢——主語は、自分。
これだけが、この記事で私が伝えたかったことのすべてである。
最初に、かつて私の前を去っていった、あの後輩たちに、もう一度だけ言葉を渡したい。
「コミュ力ないんで」と私に言って、業界を去っていったあなたへ。
あのとき、君に渡せなかった言葉を、ようやくここに書いた。
君のは能力じゃなかった。学力だったんだ。
だから、いまからでも、間に合う。
もう、彼らのもとにこの記事は届かない。
けれど、こうして書いたという事実だけは、私のなかに、確かに残った。
子を持つ親として、書き残しておきたいことがある。
子どもがいま身近に学んでいるコミュニケーション学力は、たぶん、私たち親が見せている日常そのものだ。
私が父の家と母の店で学んだのと、まったく同じ構造である。
不機嫌をまき散らさない。
話を最後まで聞いてあげる。
「いま、よろしいですか」と相手を確認してから話しかける。
そういう、たった一つ一つの動作を、子どもは見て、聞いて、知らないうちに身につけていく。
学力を渡すために、特別な授業はいらない。
親が自分の日常で、その学力を体現してみせる——たぶん、それだけだ。
そして、誰かの先輩・上司である、すべての読者へ。
あなたの目の前にいる後輩や部下は、いまも、4本の学力をどこかで学ぼうとしている。
「コミュ力がない」と肩を落としている人ほど、たぶん、いま、いちばん学べる場所に立っている。
そこに必要なのは、励ましでも、慰めでもない。
「これは能力ではなく、学力だ」と言い切ってあげる一言である。
そして、その先で、4本の柱を一緒に稽古する場をつくる——それが、リーダーの仕事のなかでも、いちばんやりがいのある部類に入ると、私は本気で思っている。
最後に。
身につけようと思えば、身につけられる。
これは、きれい事ではない。
私自身が、母の店と父の家で、知らないうちに学んできた事実から、はっきり言える結論である。
そして、現場で何人もの後輩たちが「学んで、変わった」のを、私はこの目で見てきた。
学力なのだから、誰でも、いつからでも、学べる。
そして、学ぶための姿勢は、ひとつだけだ。
主語を、自分にすること。
明日、ひとつだけでいい。
「私は、いま、どう届けたか」
「私は、いま、どう受けとめたか」
「私のにじみは、いま、どう見えているか」
「私は、いま、どう察したか」——どれか一つでいい。
自分に、問うてみてほしい。
それだけで、現場の景色は、静かに変わり始める。
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「コミュ力ないんで」と諦めかけている誰かの背中が、ほんの少しでも軽くなったなら、私が書いた意味はあった。
読んでくれて、本当に、ありがとうございました。
——現役支配人ーー