頼られるのが嬉しいだけじゃない|守っていたのは、殻の中の形だった
こんにちは、ゆきのです。
「先輩がいると、なんとかなる気がするんです」
申し送りの最後に、後輩がふとそう言いました。
今日はじめて一人で担当した案件の報告を終えたところで、声には、素直な安堵がにじんでいる。蛍光灯の白さだけが目立つ、遅い時間の事務所でした。
「そんなことないよ」と笑って返しながら、うれしさと一緒に、胸のどこかへ、小さな重みが乗るのを感じていました。
うれしさのほうは、すぐに理由がわかります。
重みのほうは、その日はまだ、名前のつかないままでした。
同じ日の午後、別のことがありました。
引き継ぎの連絡がうまく届いておらず、私が把握していたのと違う対応が、すでに進んでいる状態でした。
書類を読み返しながら、そのぶんの調整を、そのまま引き受けることになりました。
誰も謝りはしませんでした。
おそらく、私が引き受けるだろうと、はじめから思われていたのだと思います。
以前なら、胸の内側で何かが立ち上がっていたはずです。
言葉になる前の、まだ名前のつかない苛立ちのようなもの。
でもその日は、立ち上がりかけた気配だけがあって、すぐに見えなくなりました。
何も起きなかったように、時間だけが過ぎていく。
夜、歯を磨きながら鏡を見て、自分の輪郭がいつもより硬いことに気づきました。
顎の奥に、ずっと力が入っていました。
いつからそうしていたのか、思い出せませんでした。

大切に扱われたかった、という気持ちのせいだと、はじめは思っていました。
丁寧に扱ってほしかった。
急に頼み事をされる前に、一言だけでも聞いてほしかった。
それは本当だったと思います。
でも、それだけでは説明がつかない気がしました。
丁寧に扱われなかった日は、他にもあったはずです。
今日ほど顎に力が入る日と、そうでもない日の違いが、うまく言葉になりませんでした。
以前、訪問先の玄関先で、小さな水槽を見せてもらったことがあります。
ご家族の方が「よかったら」と、蓋を開けてくれました。
中には、ヤドカリが一匹だけいました。
指先で殻に触れただけで、脚も触角も、一瞬で殻の中へ消える。
爪だけが入り口にぴたりと収まって、隙間をふさいでいました。
しばらく待っていると、殻の奥から、触角の先がわずかに動きました。
それでもまだ、出てはきません。
安全だと確かめられるまで、長いあいだ、そのままでした。
あのとき塞がれていたのは、ヤドカリの身体そのものではなく、身体を包んでいる、借り物の殻の入り口でした。
中の身体を守るためというより、殻という形そのものを、崩さないためだったのかもしれません。
ヤドカリは、大きくなるたびに、今の殻を出て、次の殻へ乗り移らなければなりません。
乗り移るその一瞬だけ、身にまとうものが何もない時間になる、とその日聞きました。
だからこそ、その一瞬は、できるだけ短く終わらせるのだと。

顎に力が入っていたのも、似ていたのかもしれません。
苛立ちが立ち上がりかけた瞬間、感じるより先に、もう塞がれていました。
守ろうとしていたのは、後輩との関係だけではありませんでした。
丁寧に扱われたい、という願いより手前で、動いていたものがありました。
守っていたのは、「先輩がいると、なんとかなる気がする」と言われる、その形のほうでした。
崩れたところを見せたら、まだここにいていいのだろうか——その問いが動く前に、顎のほうが先に閉じていました。
崩れない人だと知られるほど、頼られる場面は増えていきます。
頼られるほど、崩れてはいけない理由も、その分だけ重くなっていきます。
安心させてきたはずの形が、気づかないうちに、自分自身を閉じ込める殻にもなっていました。
誰も心配してくれないのは、冷たいからではなく、心配される隙のない形を、こちらが差し出し続けていたからなのかもしれません。
崩れたところを見せた先に何があるのか、今もよくわかりません。
何かを失うのか、それとも、今とは少し違う形で、また立っていられるのか。
答えの出ないまま、顎だけが、先に閉じていました。
似たことを、別の場所でも見たことがあります。
長く現場に立ってきた同僚が、後輩の失敗を前にしても、表情ひとつ変えずに片づけていました。
「気にしなくていいよ」と、いつもの声で。
帰り道、その人が自動販売機の光の前で、何を買うでもなく、長く立ち尽くしているのを見かけました。
肩が、いつもより少し落ちていました。
声をかけようとして、かけられませんでした。
次の日会ったときには、もういつもの顔に戻っていて、あの時間のことは、二人のあいだで一度も話題になりませんでした。
崩れない人であり続けることが、その人にとっての居場所の形なのだとしたら。
あの立ち尽くす時間は、殻の中で、しばらく動かずにいる時間だったのかもしれません。

数日後、また似た場面がありました。
担当のご家族から、少し強い言い方で問い合わせの電話がかかってきた日でした。
顎に、また力が入りかけているのに気づきました。
今度は、そのまま塞がずに、少しだけ、力を抜いてみました。
何が違ったのか、はっきりとは言えません。
ただ、気づけたこと自体が、はじめてでした。
崩れたわけではありません。
ただ、輪郭が少しだけゆるみました。
殻の入り口が、ほんの少しだけ、開いたような感じがしました。
ヤドカリが、安全を確かめながら触角を伸ばすように。
まだ外には出ません。
閉じたままにはせず、少しだけ、動かしてみました。
頼られることで保てている形が、あなたの中にもあるでしょうか。
その形を、まだ手放さなくていいのだと思います。
壊す必要も、急いで脱ぐ必要もありません。
ただ、顎の奥に力が入っていることには、今夜だけでも、気づいていられます。
気づいたからといって、何かをすぐに変える必要はありません。
あの日の私も、変わったのは、ほんの少しだけでした。
咲かなくても、あなたは美しい。
ゆきの

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