彼女
ぼくが連れて行かれたのは、まっしろい部屋。
何もないばしょ。
ガラス張りの研究室には、大きなモニターがいくつもあって。
白衣の研究者たちは、黙々と、働いていた。忙しなく、日々を過ごした。
ガラス向こうの部屋にいる、彼女がぼくに手を振った。
どきっ。とした。
ぼくが近づくと、彼女は飛び跳ねて喜んだ。
どきっ。とした。
ある日、彼女は言った。
『連れて行って』
と。
その日から、ぼくたちの逃避行が始まった。
まっしろい部屋から出て、何もない平原をひた走る。
どこまでも、走った。
その当時は、ぼくらのせいいっぱいの現実で、青春だった。
僕たちはいつまでも、手を離さなかった。寝るときも、しっかりと手を繋いでいた。僕たちはまさに、一心同体だった。
ある町に入った時、彼女は石をぶつけられた。
ぼくにも石が当たった。でも、痛くなかった。
彼女の真っ黒な帽子の下の、真っ白な肌。
ぼくの真っ白な洋服の下の、真っ黒な肌。
旅を続けながら、ぼくは思う。
あの時、連れて行ってと言われたのが彼女じゃなかったら。ぼくはきっと、一緒に逃げようなんて思わなかっただろう。それはきっと、たぶん、彼女だったから、なんだと思う。
その空色の瞳が、その瞳の奥の赤黒い瞳孔が、ぼくを捉えて離さなかった。
僕たちは、どこまでも逃げた。見つからないように。
だれにも、見つからないように。息をひそめて。
逃げ続けた。
あるときから彼女は、食事を受け入れなくなっていった。水も、飲まなくなった。ぼくは、それでも元気になって欲しくて、毎日、毎日、花に水をやるように、飲ませ続けた。でも、日に日にやつれていく彼女を見て、ぼくは思った。
——これ以上はもう、きっとなんの意味もない。
やがてぼくは、彼女を生かすことを諦めた。
最後に、この手記を君に託そう。
ハハ、大袈裟だな。僕が彼女に喰われたって? どうしてそう思うんだい?
いやいや、推理をするまでもない。簡単なことさ。僕の肉体はもうないが、こうしてブレインだけは残っているのだから。
おや。君は彼女のことが気になるのかね。熱心なことだ。結論から言えば、彼女は研究所に囚われていた魔物だったんだ。人の皮を被った、肉食植物。君はこんなおとぎ話を知っているかね? ある町の植物園の話だ。その植物園にはそれはそれは美しい、多肉植物があったそうだ。ある時、それは願いを持ってしまった。植物が願いを持つことなどあり得ないと。そうだね。だが、そのおとぎ話はそういう設定なのだ。
上弦の月の光を浴びた多肉植物が、美しい女性になったそうだよ。ふむ。それでいうなら、人魚姫が近いと? そうかな。いや、そうだろうね。話を続けても? 助かるよ。
それからその植物——いや、女性は健気に一人の男に付き添い続けたそうだ。惚れていたんだよ。
いや? 僕の話とは全く関係ないよ。
それで、君にお願いなんだが。
はは、大したことはない。彼女の破片。そうだな、葉っぱとか枝とか。そういうのが残っていたら、どうか跡形もなく燃やしてほしい。
二度と、僕の前に現れないようにと願うばかりだ。
ん? この白い花は? いつからここにあった? ああ、君が持ってきてくれたのか。ふむ。月光を浴びて、開花した、と。そうか。いやいや、猫も食わないんだから大丈夫さ。僕はこんな可憐な花に食べられたりしない。ハハハハハ! 大袈裟だなぁ。
約束してくれるね? 何を言っているんだ。僕がさっきお願いしたことさ。
じゃあ、頼んだ——。
その瞬間、僕は嫌な予感に、どきっ。とした。
最後の一文字を言い終わる前に、僕のはそれに喰われたようだ。
終わり