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魔法の針


    #創作大賞2026 #お仕事小説部門

    あらすじ
    秀子は七十二歳、十年前に夫を亡くして一人暮らし。二十年間カルチャースクールでフランス刺繍を教えてきたが、受講生が減って講座が閉鎖になった。絵画のように豪華な秀子の作品は高度な技術が必要で、毎年展覧会で入賞するほどだったのに。ある日近所の小学生をあずかった縁で、その子の両親に勧められて刺繍の動画を発信するが、秀子よりずっとフォロワーが多い刺繍動画を発見する。未熟な技術で誰でもできる簡単な作品ばかりだ。動画の主はかつて課題についてこられず講座を辞めた亜矢子だった。商店街の小さな手芸店で亜矢子に再会した秀子は、思いがけず初心者向けの教室で教えてほしいと言われる。秀子の顔に再び笑顔が戻ってきた。


    「いってきまーす」
     甲高い元気な声がした。秀子は振り向いた。朝食の後、マンションの一階までゴミを捨てに行ってきたところだった。
     黄色い帽子と黄色いカバーのついたランドセル。同じ階に住む奥川さんの一人娘、花梨(かりん)ちゃんだ。
     そうか。一年生になったのね。
    「おはようございます」
     花梨の後ろに母親の奥川恭子がいた。スーツ姿で出勤するところのようだ。
     いってらっしゃい、と秀子は笑顔で二人を見送った。新学期だものね。四月だものね。
     二人を乗せたエレベーターのドアが閉まると秀子の顔からすっと笑顔が消えた。例年なら、四月は自分にとっても新学期だった。それなのに……。
     玄関には秀子の靴のほかに男物の革靴が一足置かれている。十年前に亡くなった夫、弘(ひろし)のものだ。ほかの遺品は全て処分してしまったが、この靴だけはお守りのように残してある。
     壁にかかる鏡で、玄関を出入りする度に夫と秀子が見繕いを確かめていた。今はすっかり白髪になって、艶のない老いを隠せない顔の女がこっちを見る。そう言えば昨夜は風呂に入らず髪も洗わずに寝てしまった。なんだか定年退職したあと毎日髭を剃らなくなった弘みたいだ、と思った。
     リビング・ダイニングの壁には大きなタピストリーが掛かっている。桜の木から花弁が散る様子を夜空の月を背景に描いた刺繍作品だ。クッションカバーにも赤い薔薇の刺繍。カップボードの上の敷物も刺繍。来客用の麻のランチョンマットにも刺繍模様がある。すべて秀子が刺した作品だ。
     秀子はフランス刺繡協会の指導資格を持っている。結婚してすぐ弘と住んだ社宅で、隣近所の専業主婦たちに誘われて始めた趣味だった。社交目的で入会したのだが、やってみると面白く、先生に「筋がいい」と褒められた。毎年フランス刺繍展に作品を出すようになり、社宅を出てマンションに住むようになっても教室に通った。子供はできなかったが、自分の作品が評価されるのが嬉しかった。
     タピストリーはいくつもある。季節ごとに替えている。お正月には門松や鏡餅、獅子舞や羽子板をあしらったもの。クリスマスにはクリスマスツリーの周りに集まる家族。どれも展覧会に出しては入選した作品だ。弘は会社で役付きになると部下を家に連れてくることがあった。秀子は手料理でもてなし、必ず誰かがタピストリーを話題にする。「主婦のおけいこの域を超えているよ」と言われたものだ。
     四十半ばで秀子は指導者の資格を取った。刺繍協会のイベントを手伝ったりするうちに、引退する指導者の後を継いで、教室で教えるようになった。以来、七十二歳になる今まで百貨店のカルチャースクールで刺繍講座の講師を続けて来た。
     刺繍の制作には時間がかかる。テーブルクロスやピアノかけ、クッションカバーなど、大作は完成するまで数か月かかる。技術と集中力、更に絵心や色彩的なセンスも必要だ。指導する立場になると、教室同士の競争が避けられない。より素晴らしい作品を作る指導者の下に受講者が流れるので、指導者はいつも大作の図案を考案している。
     毎年一度の展覧会に各教室から上級者は出品を許される。秀子の教室は上級者が多かったので、個人作品のほかに共同制作する作品の図案を秀子が考えた。今年は「世界」というテーマで大きなタピストリーの図案を描いていた。大きな帆船を真ん中に周囲を四つの大陸を象徴する景色で埋めるという案だ。波間に魚や鳥、貝やヒトデやクラゲなどの海洋生物、海の神様や人魚……。
     しかし今、図案は描きかけのまま止まっている。

     買い物から帰って来ると、郵便受けに「不在配達票」が入っていた。差出人はカルチャースクールの名前だ。なんだろう?
     秀子は電話をかけ、再配達を頼んだ。もしかすると……。
     後刻、宅配人はドアまで来ると「高橋秀子様ですね?」と確かめ、大きな平たい包みを差し出した。段ボールシートで厳重に包まれている。受け取ると重かった。
     ご苦労様、とドアを閉めかかると、「すみません、着払いなんで」と言われた。
     着払い?
     秀子は言われた送料を現金で払い、重い包みを引き摺るように廊下を進んだ。
     ハサミで切って包みを開けてみた。端っこが見えると額だということがわかった。きちんと表装され、ガラスが貼られた刺繍の額。
    「……」秀子は無言で見つめていた。
     アルプスの風景。湖のほとりに立つ赤い屋根の山小屋。昨年の展覧会で最優秀賞に選ばれた作品だ。ベテランの受講生と一緒に四人で刺したものだ。
     この作品の写真は刺繍講座の紹介のためにスクールの冊子に載っていた。毎年のように入賞する作品があるので、いつも新しい作品がカルチャースクールの廊下に飾られていた。その廊下は秀子の講座の受講生だけでなく、他の講座に来る人達の目にも触れる。絵画教室の作品と並んで廊下の一角を占めていた。はっきり言って、他の絵画や写真よりも、よほど華やかで美しい額だった、と秀子は思っている。
     私はあの教室で二十年以上教えていた。
     怒りなのか屈辱なのか悲しみなのか、もうわからない。
    「不在配達票」を見て、カルチャースクールから餞別でも送られて来たのかと、一瞬でも期待した自分が哀れだった。

     一カ月前、カルチャースクールは刺繍講座の閉鎖を決めた。
     パンデミック中、スクールは一年間休止した。刺繍講座はマスクをしたままでも支障がないので一番早く再開できた方だ。しかし再開した時、以前の人数は戻らなかった。
     かつては定員三十名を超える入会希望者がいて、追加のクラスをつくったこともあった。しかし再開の通知を出してから直近の一年は、九人登録があっただけで、増えることがなかった。
     閉鎖を告げられた日の教室に出席していたのはわずか三人。皆永年の受講生で六十代と七十代の上級者だ。教室の本来の目的はフランス刺繍の普及であるのに、若い新規登録者がないまま一年が過ぎたのだった。
     刺繍講座の後は、「マネーの基礎教室」という投資指南のような講座になるという。「四月の新学期からカリキュラムを順に学べるのですぐ定員に達した」と聞いた。
     秀子の教室でも、新入会の受講生のために、レベルに合わせて刺し方の基礎から学べる教科書がある。四月の新学期には必ず何人か初級者が入ったものだ。四月に限らない。刺繍はいつ始めてもいいのだ。初級から上級まで刺し方を覚えてしまえば、それぞれの刺したい図案を自由に選んで刺せばよいのだ。
     毎年いつも四月の新学期に備えていた。新しい人が入るのは、いつも楽しみだった。でももう秀子の刺繍教室に新学期は来ない。
    「ご自宅で教室開いたらどうですか、先生?」
     最終日に出席した三人が口々に言った。秀子が属するフランス刺繍協会では、「大先生(おおせんせい)」と呼ばれる理事が数人いて、それぞれ個人で教室を開いている。場所は自宅だったり地域の公共施設だったりする。それには受講生の募集から会費の管理など全て自分でやることになる。刺繍協会の看板で受講生を集める以上、協会への活動報告義務など、これまでカルチャースクールがやってくれたことが自分の仕事になるのだ。
     秀子先生が教室続けるならそちらに行きます、と三人は言う。そうでなければ他の先生の教室に入るのだ。
    「ちょっと考えるわ」秀子にはそう答えることしかできなかった。
     秀子は帰る前に手芸用品売り場に寄った。カルチャースクールが入る百貨店の中にあるこの店は、秀子と受講生がよく刺繍糸などを買う店だ。思えば毎週教室があるから、一時間電車に乗ってこの百貨店まで来ていた。でももう来なくなるのだ。足りなくなりそうな色番を思い出し、見慣れた糸の棚を指で辿った。二十五番の刺繍糸、ピンクの2115、3115……
    「その色、先生よくお使いになりますね」
     店主の大貫幸子が笑顔で立っていた。秀子がここで教えるようになってからの付き合いだから二十年になる。互いに年を重ね、幸子は六十代になったろうか。
    「薔薇に使うのよ。薔薇は誰でも喜ぶから」
    「高橋先生の作品は華やかで素敵ですよね」
     幸子は丁寧に糸の束を包装紙で包む。
    「ほかはよろしいですか? 麻の布やオックスフォード地も、各色ありますよ」
     そうね……。毎年夏に備えて麻のハンカチに刺繍をする。プレゼントに喜ばれるからだ。オックスフォード地はテーブルセンターにもできるし、裏生地を貼ってポーチや手提げ袋にもできる。生地の棚に明るいブルーのオックスフォード地の裏に合いそうな小花模様の木綿生地があった。秀子は幸子に頼んで、ロットを生地の棚から引き出してもらった。
    「素敵ですねえ」幸子が言う。
     秀子は表の刺繍柄をどうしようかと考えながら――はっとした。でも、もう教室はないじゃない。
    「実は、うち三月末で閉店するんです」幸子が言った。
    「えっ?」
    「このフロア、エステティック・サロンが三つ入ることになって。あとはアロマ関連の店とか。先生の教室の方たちには随分ごひいきにしていただいていたんですけど……」
     店内には大きなテーブルがあって、時々編み物愛好者が集って一緒に編み物をしていることもあった。あの人たちも、ここには来られなくなるのか。
    「時代と言うか、ね。練習して練習して上達して丁寧に物を作るのは、時間がかかりますものね。今はこういうのが却って売れるんです」
     幸子が見せたのは、洋裁キットのパッケージだった。材料も使用する針やその他の道具も全て入っている。同じ形の同じ柄のポーチを作ることはできるだろうが……。
    「作り方通りに作業すればちゃんとポーチができるっていうね。材料や道具をそろえる手間も要らないし。タイパとかコスパとか言うでしょ、今は。一応手作りなわけだから、とりあえずいいのかな」
     自分に合う道具を見つけるのも楽しみの一つだった。失敗を繰り返して次にもっとうまく作品を仕上げようと挑戦することも。とりあえず、でいいのか。だから洋裁キットは売れているのか。
     でも自分はそういう生き方はしてこなかった、と秀子は思う。
     この「違う」という感覚は、前にも感じたことがあった。ずっと前、秀子の教室が三クラスもあって盛況だったころだ。
     河田亜矢子という二十代の受講生がいた。幼い子供が一人いて、その子の服や持ち物に刺繍をしたいと言っていた。
     受講生が多かったので、初心者の亜矢子につきっきりで教えてあげるわけにいかなかった。彼女は熱心で、自分で刺してきたものを教室で見せるのだった。秀子の目にはお世辞にも美しい出来栄えとは言えなかった。技術が未熟なのに選ぶ図案が高度で、見栄えがする構図を選んでいた。
     ある日大きな薔薇一輪を図案化した構図で手提げを持ってきた。「どうですか?」とにこやかに見せられた。
    「そうねえ……」
     刺し方が未熟だから花弁に艶がない。ほんの少し針の位置がずれている箇所があるためにいびつになっている。本来刺し終わった後にドローンワークという技術で透かし模様を作るのだが、それができないために平凡な絵柄に見える。
    「だめですか?」亜矢子の目に不安が宿った。
    「まだこの図案は無理なんじゃないかしら」
     大丈夫よ、練習すれば、と言ったはずだが、亜矢子はそれからすぐ教室を辞めてしまった。
     時々辞める受講生はいたが、すぐ次に入る人がいるので特に気にしていなかった。上級者の一人、村岡かおりから聞く迄は――
    「先生、スマホ持ってます?」
     持ってはいるが、あまり使っていなかった。村岡が自分のスマホで動画を見せた。
    「これ、前にここにいた河田さんですよね」
     それは、小学生が持つ手提げ袋にワッペンのように貼り付ける刺繍柄をどう刺すかを撮影した動画だった。刺繍と言ってもごく簡単なステッチで、単純に線を描く手法。刺繍ではなく「縫い取り」だと秀子は思う。でもウサギが花畑で人参を齧っている図案がかわいい。動画は、亜矢子が使った刺繍糸の番号や、布とそれを挟む円形の枠、針などを紹介して終わる。
    「これ、けっこう“イイね“マークがついているから、人気あるんですよ」村岡がハートマークの下にある数字を指した。
     よくもまあ、この程度の技術を人様に見せられるものだ、と秀子は思った。
    「河田さん、辞める前に言ってたんですよ。高橋先生の教室は難易度が高すぎて、ちょっと子供の持ち物に刺繍したいだけの人には敷居が高いって」

     さしあたって収入がなくなってしまうが、幸い弘の遺族年金と退職金があるので生活には困らない。「定年退職したら退職金で旅行しよう」と言っていたのに、本人はほとんど使わないうちに亡くなってしまった。
     このぽっかり空いてしまった時間をどうするか、秀子はまだ決めていない。
     とりあえずはこれまでと同じように朝起きて、朝食を食べ、掃除と洗濯をしたら普段着のまま近所に買い物に行く。これまでと違うのは、革靴をはいてよそ行きの服を着て、バッグを持って電車に乗る必要がないことだ。
     弘の不在に慣れるのにどのくらいかかっただろう。思えば相続手続きなどに忙殺されているうちに紛れてしまったような気がする。あの時は、ぽっかりと空いた時間を持て余す暇などなかった。刺繍教室も盛況だったから、あまり教室を休むことはしたくなかった。
     四月も半ばを過ぎ葉桜の季節になった。近所で買い物をして五時頃帰宅すると、マンションのエントランスホールのソファに花梨が座っていた。黄色い帽子をかぶったまま、ランドセルをテーブルに置いて、手に持ったスマホを夢中で操作している。
    「花梨ちゃん、どうしたの?」
     花梨はスマホから顔を上げた。学校の後は学童保育に行って、母親の恭子が迎えに行くのを待ち一緒に帰宅すると聞いていた。
    「おうちに入れないの? ママは?」
    「ママ、ちょっと遅くなるって」
    「おうちで待っていれば?」
     花梨は目を逸らし、口を噤んだ。秀子は買い物した袋を持ち替えた。
    「おばさんちで待ってる? ケーキ二つあるから、食べる?」
     弘が亡くなって以来、自宅に誰かを招いたことがない。でもなぜか、常に食器は二人分あり、ケーキを買う時も二つ買ってしまう。
     ママには秀子の家にいることを知らせるように言うと、花梨はスマホで何かやった。スポン! という明るい音がした。
     ダイニングのテーブルで、かつて弘が座っていた椅子にクッションを敷いて高くして、花梨が座り、苺のロールケーキを食べた。紅茶にミルクと砂糖を入れた。
    「おばさんち、ひとりなの?」
    「そうなの。前はおじさんもいたんだけど」
     花梨は紅茶のカップを両手で持って飲んでいる。ブラウスの袖口のボタンが一つ取れかかっていた。
    「あら、そこ取れそうよ」
     花梨が手首を回して見る。既製品はこれだから。工場から出荷した後の検品が十分でないからこうなるのよ。
    「ちょっとそこで待ってて」
     花梨にブラウスを脱いでもらった。花梨はソファに座り、刺繍クッションの表面をなで、タピストリーを眺めている。
     秀子は刺繍で使うソーイングセットを出し、花梨の隣で手早く取れかかったボタンをつけなおした。
    「はい、できた」
     花梨はソーイングセットを不思議そうに見ていた。折りたたんで持つ革製の携帯用セットだ。太さの違う針が十三本、鶴の意匠が柄に施された小さな糸切りバサミ、安全ピン五本、消しゴムと短い色鉛筆と鉛筆が四本、など。ドイツ製のハサミは四十年以上使っているが全く不具合がない。
    「こういうの、見たことない?」
     花梨は首を振った。
     玄関の呼び鈴が鳴った。
    「ママだ!」
     奥川恭子は恐縮して何度も頭を下げた。
    「すみません、ちゃんと家の鍵は持っているのにお邪魔して。会社を出るのが遅くなってしまって……」
    「たまたま下で会ったから。気にしないで下さい」
     花梨は秀子に笑顔を向けバイバイと手を振った。

     秀子は最後まで教室に来ていた村岡かおりたち三人を家に招いた。
    「先生、教室やりましょうよ」
    「上級者だけでいいじゃないですか」
     この三人は指導者の資格が取れるくらい習熟している。刺し方がわからないステッチはない。毎年の展覧会に出品する大作には欠かせないメンバーだった。
    「協会に許可を取らないと」
    「そんなのすぐにもらえますよ、先生」
    「それで、展覧会の作品をやりましょうよ」
     描きかけのタピストリーの図案を居間のテーブルの上に広げ、四人で構図の残りを考えた。ステッチの種類や糸の色番などを決めていく。
     一休みしながらお茶を飲んでいる時、村岡かおりが言った。
    「今って、なんでもオンデマンドなんですよ」
     毎週決まった時間に教室に行って習うのではなく、時間のある時に自分が習いたい部分を習いたい人が多いのだ。指導する側が決めた目標ではなく、各自のレベルにあった部分で。
    「だからほら、あの河田さんでもできるレベルなら、やってみたい人はたくさんいるんですよ」
     そうなのね……。秀子は気のない相槌を打った。河田亜矢子の動画を思い出す。あれと一緒にしてはもらいたくない。彼女はすぐに辞めてしまったから、基本のステッチもマスターしていないのだわ。教本通りに一つ一つやっていけば、糸に艶を出せるようになるのに。線をペンで描くかわりに糸で縫っただけでは刺繍とは呼ばない――秀子はそう思った。

     数日後、秀子が夕方帰宅すると、またエントランスホールに花梨がいた。
    「ママが遅くなるの?」
    「おばさんち、行っていい?」
     玄関に出しておいた兜と菖蒲と鯉のぼりをあしらった額に花梨は気が付いた。
    「これ、描いたの?」
    「違うわ。糸で縫ってつくるの」
     二人で柏餅を食べた。花梨が玄関の額を見たいと言ったので、秀子が持ってきた。
    「どうやってつくるの?」
     秀子はソファの前のテーブルに額をのせた。
    「まず、布に絵を描くの」
     刺繍道具一式が入っている引き出しから兜の図案を持ってきた。その上にトレーシングペーパーを置く。刺繍を刺すとき必ずかける眼鏡をかけてから、図案を鉛筆でなぞってトレーシングぺーパーに兜を描いた。
    「これ、紙だよ」
    「見てて」
     小さめのオックスフォードの白い布を広げ、その上に兜の絵を写したトレーシングペーパーを安全ピンで二か所刺して留めた。布とトレーシングペーパーの間にコピーペーパーという複写紙を差し込む。更に透明セロファン紙をのせた上から専用の鉄筆で図をなぞった。
    「ほら」
     花梨は白い布に写った兜の絵に目を見張る。
    「あとは糸で色を塗るのよ」
     秀子は兜が入る大きさの枠をはめて布をピンと張った。額の中の兜を見て糸の色番に検討をつけ、糸の箱からその色を出すと針に通した。
    「すぐできるわよ」
     サッサッサッ。スッスッスッ。刺した針を素早くくぐらせ、0・1ミリの狂いもなく次の場所から針を出す。スピードを一定に速く。一色で塗りつぶすサテンステッチという刺し方だ。艶を出すためにスピードが肝心だ。クワガタの部分に色がついた。
    「わあ」
    「花梨ちゃんもやる?」
     花梨はトレーシングペーパーに鯉のぼりの図を写し、それを秀子がやった通りに白い布になぞってみた。少しいびつになったが、鯉のぼりの絵が布に写された。
     その日はママの帰りは七時近くになった。恭子が迎えに来るまでに兜は半分できあがっていた。
     その週末、奥川夫妻が訪ねて来た。夫の啓太は仕事で仙台に単身赴任中なので、週末帰って来る。花梨がお世話になりまして、と仙台土産の蒲鉾の包みを差し出した。
    「花梨は一人で家にいるのが嫌みたいなんです」
    「そういうことってありますよ。子供の頃は色んなことに敏感ですから」
    「学童のあとのシッターさんを探しているんですが……」と恭子が言う。
    「私なら、気にしないで下さいね。たまたまなんですから」
     恭子は玄関の兜の額を見た。
    「花梨が、おばさんと兜を作ったとか言ってたんですけど……」
    「ああ、刺繍なんですよ。まだ途中ですけど」
    「家の中にお花の絵がいっぱいあるんだって言ってまして……」
     よろしかったら、どうぞご覧になって。秀子は夫妻を招じ入れた。
     
     秀子は個人でフランス刺繍教室を開く許可を協会からもらった。とはいえ、自宅に大勢の受講生を迎えるスペースはない。当面は村岡かおりたち三人と来年の展覧会に出品するタピストリーの制作を続けることにした。
    「前の教室の受講生の中で、先生が声かけたい人がいたら、言って下さいね」かおりが言う。
     そうねえ……と言いながら秀子は思いつかない。最後の生徒は九人いたはずだが、いつも来ていたのはかおりたち三人ばかりだ。
    「場所は公共の施設とかに申し込んで借りましょう」
    「区の施設だったら、ホームページに告知させてもらえますよ」
     でも、希望者が来るのだろうか。秀子の不安をよそに三人は段取りを考えていく。
     しかし、公共施設の教室はどこも予約でいっぱいで、今から抽選に参加しても再来年になってしまうとわかった。商業施設の中にあるホールを借りる手もあるが、どこも料金が高い。どのくらい受講生が来るか未知数では、教室の広さも決められない。
    「口コミで人数を確保しましょう」
    「うちの近所の人にも声かけてみるわ」
    「作品の見本を見せた方がいいわよね」
     でもそれは、今までもカルチャースクールでやっていたことだ。秀子は思った。たくさんある講座の一覧表とともに、秀子の作品の写真を載せて広告してもらっていた。
     秀子はかおりたちの提案を遮った。
    「やっぱり、今はまだ、いいわ」
     え? と三人が怪訝そうに秀子を見る。
    「まず、作品を完成させましょう」
     秀子は笑顔で言った。かおりたちの気持ちは嬉しい。でも、受講生が集まらなかった時の惨めさを、また味わうのはいやだ。特にかおりたちにそれを悟られるのは……。秀子は黙々と針を動かした。

     花梨が秀子の隣に座り、素早く動く針に見入っている。針が布を通るたびに色がついて行く。今、兜の最後の仕上げだった。深い紅色の糸で緒を作る。
    「さあ、できた」
     秀子は枠から布をはずす。洗濯室で桶に張った水に晒し、複写の痕を落とすのだ。花梨がトコトコついてくる。
     バスルームに干して乾いたら、裏からアイロンをかける。自然乾燥で乾くまで待たないと。
    「鯉のぼりもつくって」花梨が言った。
     花梨が来るたびに刺繍をするうちに、作品が増えて行った。ママがいても秀子のところに来たいと言ったらしく、恭子が一緒に来た。
    「すみません、刺繍をなさるところを見るのが大好きみたいで……」
     ソファの前のテーブルは、出来上がった作品と出来かけの作品、刺繍の道具でいっぱいだった。
    「花梨ちゃんが下絵を写してくれるから、私は刺すだけなの」
    「この子ったら、いつもはゲームばっかりやっているのに」恭子は心底驚いているようだった。
    「おもしろいもん」花梨が言う。
     秀子は笑顔になる。今度一番簡単なステッチを教えてあげよう。
     今刺しているのは花梨が選んだ薔薇の花束の図案だった。ロングアンドショートというステッチで、何種類かのピンクを使って陰影を作るように花弁を埋めていく。
     恭子も花梨と同じように秀子の針の動きに見入っていた。
    「失礼ですが、お仕事でなさっていたんですか?」
    「ああ、ええ、フランス刺繍の講座で教えていたんですけどね……」
     秀子は講座が閉鎖されたことを話した。案外淡々と話すことができた。
    「もったいないです」
     恭子は一度家に戻り用意していた夕飯を鍋ごと持ってきた。秀子の家で三人で夕飯を食べながら話をした。
     夫の奥川啓太はテレビ局の記者で、スマホで撮影しながら取材することがあるという。
    「刺繍を刺すところを動画撮影して、配信したらどうですか?」
    「そんなの配信してどうするの?」秀子は笑いながら、河田亜矢子のことを思い浮かべた。
    「今は、普通の人がちょっとしたことを配信する時代なんですよ。なんてことない手芸作品でも素人が堂々と見せています。高橋さんの刺繍はプロの作品ですから、配信されたら見る人多いと思います」
     そう言われると秀子は、河田亜矢子でもあれだけ見られているのだから、自分の動画も見てもらえるかもしれないと思った。
    「だって、この子がこんなに好きなんですから」恭子は花梨を見て微笑む。花梨も笑顔を秀子に向けた。
     土曜日、花梨と恭子と啓太は秀子の家にやってきて、刺繍するところを撮影しましょう、と言った。
    「こんなおばあさんなのに……」
    「顔をお出しになるのがお嫌でしたら、手元だけでも」
    「こんな皺々の手だし……」
    「お嫌でしたら、映像処理で手も消せます」
     啓太は三脚を立て、その上にスマホを乗せて着々と準備を進める。秀子はソファに座り、枠にはめた布と針を持つ。背後の壁には大きなタピストリーがかかっている。半信半疑だったが、言われるままに体の向きを変え、カメラが枠の中を写せるように平らに持つ。
     動画撮影は一時間ほど続き、啓太が映像の処理をした。不思議なことに、啓太が手の部分をマーカーで塗るように色を付けると、動画の中で秀子の手と指が薄くぼやけた。
     スッと針が動き布をくぐる。針先が顔を出し布に色がつく。針が素早く動きあっという間に薔薇の花弁になる。濃淡のついたピンクのバラ。映像処理で手がぼやけたので、針が独りでに動いているように見える。
    「わあ、魔法の針だー」
     出来上がった動画を見た花梨が声を上げた。
     それがヒントになって、動画の名前は『刺繍工房・魔法の針』にした。

    「秀子先生、無料で配信なんて、ダメですよ!」
    『刺繍工房・魔法の針』の動画を見た村岡かおりたちは口々に言った。
    「あら、河田さんだって無料でやっているんでしょう?」
    「河田さんはいいんです、指導者じゃないんですから。先生はプロですよ。ただで刺し方公開するなんて、ダメです」
     秀子は苦笑した。無料で見てもらっていても、「イイね」マークは河田亜矢子には遠く及ばない。一桁違うのだ。
     秀子の動画を見ると、河田亜矢子の動画が関連動画として上がる。逆も同じだ。刺繍や手芸の動画が好きな人向けに、同じようにリストされる。
    「なんか、この河田さんの図案、教室でやったものに似てません?」かおりが言った。
     みんなでかおりのスマホを見る。花籠に入った花束の図案だ。そういえば似ている。同じかもしれない。でも亜矢子はできないステッチを省いて簡略化している。白いTシャツの胸に刺繍したハートとイニシャルのワンポイントや、トートバッグのポケットに刺したフルーツバスケットの柄も紹介している。これらも教室で使った図案の簡略版だ。
    「これきっと、問題になりますよ」かおりが言った。
     それから間もなく、河田亜矢子の動画は配信されなくなった。

     梅雨が終わって夏が始まる気配があった。秀子は玄関に金魚鉢と花火をあしらった額を飾った。
     あれから奥川啓太に何度か刺繍を刺す動画を撮ってもらい、配信動画が増えた。しかし、アクセス数や「イイね」マークは百にもなっていない。世の中は何でも簡単ですぐできる物を推奨するようだ。自分は毎年タピストリーやテーブルクロスなどの大作を刺し、展覧会で入賞してきた。でも今は、コスパだのタイパだの言って、修練が必要な技術の価値を認めないのか。
     秀子の動画の視聴者が増えないことを村岡かおりたちも知っているだろうが、敢えてそのことを口に出さない。秀子はこうなることを内心恐れていたのだった。教室なんかすぐ開かなくてよかった、と思った。
    「そういえば、河田さん、協会からクレームが来たんですって」タピストリーの刺繍を刺しながらかおりが言った。
     著作権侵害、と言われたらしい。
    「図案を使う許可をもらえばよかったのにね」秀子は言った。
    「もらえませんよ。あの人指導者の資格ないんだから」
    「あんなレベルの低い刺繍を見せられて、フランス刺繍を本格的にやっている人たちは迷惑だったんですよ」
     でも、彼女の動画はあんなに人気があったのに。千を超えるアクセス数があって、「イイね」も千を超えていた。小さなモチーフの刺繍を服や持ち物に簡単につけられる方法を、彼女なりに考えていた。あの人なりに刺繍の普及をしていたと言えるんじゃないの。
     河田さんは熱心だった。ただ、こちらが教えることはできなかった。でも彼女は刺繍が好きなのだ。だから教室を辞めてもずっと続けているのだわ。
     だけど技術が劣っている。刺繍を知らない人は気にしないのかもしれないが、糸に艶が出ていない。多分基本的な針の刺し方がわかっていないのね。
     私の教室に通っていた間に十分教えてあげられたはずだ。でも、生徒が多すぎて、見てあげられなかった。もっとちゃんと教えてあげればよかった。
     亜矢子が簡略化した図案についても、秀子は自分ならもう少し見栄えよくステッチを加えると思った。イニシャルの刺繍は初心者に向いている。ロングアンドショートに自信がないなら、ショートだけでもいい。糸にグラデーションを入れるだけで奥行きが出るのだ。アルファベットを空洞にしないで青なら青のグラデーションで埋める。自分なら五種類の青を使うだろう。
     既製服のミシン刺繍よりずっとボリュームがあって豪華になる。河田さんがここにいれば、今すぐにでも教えてあげられるのに。

     花梨は夏休みになると宿題を持って秀子のところに来るようになった。花梨が宿題をするテーブルの反対側で、秀子は刺繍を刺す。花梨が持ってきた白いタオル地の小さなハンカチだ。リンゴの刺繍がいい、と言うので、秀子はハンカチの一角に花梨のイニシャルと赤いリンゴのモチーフを刺すことにした。
     なんだか河田さんがやりたそうな図案だわ、と秀子は思う。しかし秀子はステッチの手を抜かないので、リンゴは艶々と赤やオレンジのグラデーションで埋まる。イニシャルのKは木の枝に見立てて三色の茶色と黒を使い、緑の葉と白い小さな花を散らせてリンゴの木のように仕上げた。
    「花梨ちゃんのママはこういうことしないの?」
    「うん……ママ、忙しいから」
     コスパとかタイパとか、よね……。
     でも、河田さんのやり方なら、時間はかからない。
     八月のお盆があける頃、「新規開店のお知らせ」と書かれた葉書が届いた。あの百貨店で手芸用品店を営んでいた大貫幸子からだった。場所は電車で二駅先の商店街の中、とある。「刺繍糸も以前と同じように揃えておりますので、是非いらしてください」と添え書きがあった。
     幸子の店が開店する日、祝いの花籠を持って秀子は出かけて行った。
     アーケードのある大きな商店街の奥にその店はあった。間口は狭いがガラス張りで、正面のディスプレーには晩夏ものの手編みのカーディガンが飾られている。何人かの客が既に中にいるのが見えた。
    「先生、ようこそおいで下さいました!」
     おめでとうございます、と秀子は花籠を渡す。店内は毛糸の棚、刺繍糸の棚、生地の棚が壁にびっしり並んでいる。百貨店にあった時より狭いが同じ趣だ。
     奥に大きな木のテーブルがある。これも以前と同じだ。木のスツールがいくつかあって、編み物をする人たちが座っていたものだ。
    「高橋先生?」
     見ると、刺繍糸の棚の方に小さな女の子を連れた若い女性がいた。見覚えのある顔だった。髪型が違うようだが……。
    「河田さん?」秀子は言った。
     河田亜矢子だった。女の子が持つ手提げに流れ星が刺繍してある。
    「先生、覚えていてくださったんですね」
     秀子はええ、と曖昧に笑った。亜矢子も大貫幸子の店でよく刺繍の材料を買っていたので、新規開店の案内をもらったのだった。
     じゃあ知ってるのね、講座がなくなったこと。この人にまで自分は哀れまれるのだろうか。秀子は目を逸らした。
    「先生、お教室なくなっちゃったの、残念です」
    「あら、そう?」
    「辞めた私が言うのもなんですけど」
    「でも、あなたは刺繍を続けているんでしょう?」
    「どうしてそれを?」
     秀子は内心慌てて、しかしそれが顔に出ないようにつとめて言った。
    「だってほら、お嬢ちゃんの手提げに」
     ちょっと見せて、と女の子の手提げを手に取り、流れ星の刺繍を間近で見た。糸目がほんの僅か揃っていないのが秀子にはわかる。艶が足りない。
     亜矢子が心配そうに見ている。だめですか? と問いかけているようだ。
    「ずっと続けていたのね」秀子は安心させるように微笑んだ。
    「私、実は……こういう刺繍の動画配信をして、刺繍協会から叱られちゃったんです……」
     あら、そうなのと秀子は微笑した。亜矢子は『魔法の針』の動画を見ていないのだろうか。もし見ていたら、自分よりずいぶん視聴者が少ないと知っているだろう。
    「まあ、協会は色々と規則がうるさいのよ」
     大貫幸子がやってきて言った。
    「高橋先生、よろしかったら、ここでお教室やりませんか? 編み物教室は来週から始まるんですよ」
    「でも、習いたい人が集まるかしら……」秀子は口ごもる。
    「ここの商店街で生徒募集しましょう。初めての人でもいいんですよね?」
    「集まりますよ、きっと」亜矢子が言った。
    「初心者でもいいなら、私、もう一度習っていいですか?」
     え? 秀子は目を見張った。
    「……やっぱり、私なんかだめですか?」
    「まさか、そんな。もちろんいいわ」秀子は言った。
    「じゃあさっそく、曜日と時間を決めましょうか」幸子が言う。
    「わあ、そしたらまた、レパートリーが増えそう。先生に教えていただきたいステッチがあるんです」亜矢子が言う。
    「いいわよ。初心者向きに教えるなら、河田さんが動画で紹介していた図案もやりましょう」
    「ええー、なんかすごく簡単なものばっかりなんですけどー」
    「簡単だからいいのよ」
     それは本当に、秀子の心からスッと出てきた言葉だった。
    「ほんとですかー? じゃあ、私、友達を誘います」
     私よりもっと下手ですけど……。
    「大丈夫」秀子はにっこり微笑んだ。ずっと笑顔のままいられそうな気がした。(了)


     
     
    作家を目指しています。ちょっと笑えるクライムノベルや日常に潜むホラー、エイジズムなど、今書きたい作品を書いています。

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