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【メメント モリ 第二章】第19話 最終日

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     展示会の最終日は金曜日であったため、開店から来場者の出入りも多く、時間が過ぎるのが速かった。閉店の夕方六時を迎えても、ギャラリーの中にはまだ穏やかなざわめきが残っている。
     玲子は叔父であり画廊主でもある三浦佑蔵の様子をちらりと見た。佑蔵は時間など気にせず、作家たちや美術愛好家と会話を交わしながら楽しんでいる。なかには長年の常連客の姿もあった。玲子は小さな息をつくと、来場者が去るのを静かに待つことにした。
     時計の針が七時二十分前を指すと、ようやく来場者が少しずつ減り始め、やがてギャラリー内の明りが柔らかいアンバー色に切り替わった。白い壁に飾られていた十五点の絵画のほとんどが今日中に片付けられる予定になっていたため、梱包業者が丁重な手つきで作品を次々に取り外しにかかった。
     玲子はもう一度、一成の作品の前に立つと、無数の蝶の絵を目に焼き付けるように無言で見詰めた。今夜、この絵がギャラリーから離れれば、もう二度と見ることもない。
    「三浦さん、お電話です」
     年配の画廊員が声を掛けると、佑蔵は頷き、静かに奥の部屋へと消えた。
    「お疲れさまでした、玲子さん。本当にどうなるかと思いましたが、来てくださって本当に助かりました」
     画廊員がほっとしたような表情を見せた。
    「いいえ、こちらこそ楽しかったです。それに東京に出てくる理由にもなりますしね」
     そう云うと、玲子は微笑んだ。
    「まあ、三浦さんもすぐに新しい人を雇うと思いますから、大丈夫ですよ」
     画廊員はそう云いながら、奥の部屋にある事務所に目を遣った。
    「佐藤さんは、辞められたのですか?」
     玲子は何気なく尋ねた。佑蔵からは急遽、ギャラリーが人手不足になったとしか聞いていない。
    「あ、三浦さんから聞いていなかったのですね……」
     画廊員はバツが悪そうな表情を浮かべると、周囲に気を配りながら玲子にだけ聞こえるように小さく囁いた。
    「佐藤さん、水曜日の朝に亡くなられたそうです。急性心筋梗塞だったそうで……最近若い子の急死も増えてるみたいですね」
    「えっ?」
     玲子の驚いた様子に画廊員は頷くと、いそいそと作品の梱包に取り掛かっていった。
     ──何か持病があったのかしら?
     なんとなくぼんやりと考え込んでいると、梱包業者が二人がかりで一成の作品を取り外し始める姿が目に入った。
    「丁重にお願いしますね。これは夫の作品なんです」
    「もちろんです、西園寺さん。しっかりと梱包いたしますのでご安心ください」
     一成の絵は海外に送られるため、湿気や振動に対する保護材が追加され、特別仕様の木箱に梱包される。玲子は我が子を見送るような眼差しで、一成の作品が厳重に扱われる様子を見詰めていた。すると、背後から佑蔵の声が聞こえた。
    「玲子、少し話があるから事務室に来なさい」
     声のトーンは明るいが、佑蔵は慎重な表情を見せた。玲子は黙って頷くと、奥にある部屋へと向かった。
    「佐藤さんがお亡くなりになったと聞きました……」
     部屋のドアを閉じると、先ほど年配の画廊員から聞いた話を切り出した。自分が最終日に急遽穴埋めした理由に納得はしたが、あのはつらつとした元気の良い画廊員が突然亡くなったとは、にわか信じられなかった。
    「ああ、そうだ……」
     佑蔵は苦々しい表情で椅子に腰を下ろし、デスクの上に散乱していた書類を整理し始めた。
    「急性心筋梗塞だと聞きました」
    「鼠のように嗅ぎまわったから消されたんだろう」
    「え?」
     玲子は驚いて佑蔵を凝視した。
    「玲子があの子に何か吹き込んだのか?」
     佑蔵は鋭い眼差しを玲子に向けた。
    「何……を、ですか……?」
     玲子は訳がわからず、ただ茫然と佑蔵を見詰めるしかなかった。
    「まあ、ここでしばらく勤めていれば、一成の絵が海外に送られることぐらいは解るだろう。だが、あの子は私のいない間にこの事務所に入って、書類を漁っていた!」
    「なぜそんなことを!」
     思わず玲子の声が上がった。
    「こちらが聞きたいぐらいだ。とにかくインボイスの写真を撮っていた様子がこの部屋の監視カメラに収められている」
    「叔父さんのライバルが送り込んできた、スパイ……だったのでしょうか……」
    「一成の作品の取引先は特殊なのだ。彼らの仕事の邪魔をしてはいけない」
    「……何の……仕事ですか?」
     恐る恐る玲子は口にした。長年、佑蔵が一成の絵を何かに利用していることに薄々気づいてはいた。だがこうして佑蔵の口から直に聞かされると、思わず息を呑む。
    「今は詳細を言えん。だが、この国はあと二年もすれば内政ががらりと変わる。いわゆる戦後体制というものが終わるのだ。それまでに移動させなければならないものはどこかに移動させる必要がある。そのために我々は必死に動いているのだ。警察も手出しできぬ」
     佑蔵の異常なほどまでの真剣な眼差しに気押され、玲子の背中に冷や汗がつたった。
    「彼は……ただ、純粋に絵を、描きたいだけで……」
     玲子の言葉が虚しく響く。
    「一成の作品に価値がないのはわかっているだろう。玲子が一成の絵に〝指導〟を施さなければ、一成に価値は出ないのだ……例の特殊インクでちゃんと作品にサインしたのか?」
    「……はい、キャンバスの両面にサインしてあります」
     通常の光では無色透明だが、紫外線を当てると発色するインクでキャンバスの表裏に玲子の署名がしてある。一成の作品に玲子が加筆したことを証明するために忍ばせる仕組みだ。
    「まあ、あと数年の辛抱だ……そうしたら何でも自由に描いてどこにでも展示したらいい。だが、一成は後遺症から遠近法が把握できない。結局お前が加筆しないと、いくら色彩感覚に優れていても、誰も一成の作品など振り向きもしないぞ」
     佑蔵は少しだけ笑いを含ませた。玲子は押し黙ると、そのまま輸送業者と入れ替わるように事務所を出た。
     ギャラリーに戻ると、すでに作品のほとんどが壁から取り外されていた。がらんとした画廊を見渡しながら、玲子の心の中にはどうすることもできない思いが渦巻いていく。
     ──どうして叔父さんはこんな恐ろしいことに関わっているの!
     玲子の知らないところで人が死んでいる。しかも急性心筋梗塞として手際よく消されたことを、佑蔵に仄めかされた。その闇の深さに、思わず鳥肌が立つ。
     大学を卒業したあの頃は、たとえ一成に目を見張るような才能がなくても、彼が売れない画家になろうとも玲子は気にしなかった。ただ、十六年前の発作の後、手の痺れよりも、構図が掴めなくなってしまった後遺症が一成を苦しめた。そこで玲子は画廊主である佑蔵を頼ったが、佑蔵もまた、身近な画家を探していた。
    「一成さんが自分の絵を描きたいのなら、もうこれ以上、叔父さんを頼る必要なんてないわ」
     これまで一成の面倒を見てくれた佑蔵と袂を分かつならば、鎌倉のアトリエ付きの家を手放さなければならないだろう。それに、独立したところで、一成の作品が評価される保証などどこにもない。むしろ、これまで以上に厳しい状況に置かれるのが目に見えている。それでも、一成の作品が、これ以上、得体のしれない取引の道具にされるのだけは耐えられなかった。

     玲子が七里ヶ浜の家に戻った時、時計の針はすでに夜の十一時を指していた。車のエンジンを切ると、思わずバックミラーを覗き込んだ。かなり疲労の色が濃い。窓越しに聞こえる潮風が、辺りの静寂を一層引き立てている。ふと目を遣ると、アトリエの窓から漏れる暖かな光が見えた。
    「ただいま」
     アトリエのドアを開けると、一成がキャンバスに向かい、次回作に取り組んでいた。部屋いっぱいに漂う油絵具の匂いが、なぜか玲子を安心させる。
    「おかえり。展示会はどうだった?」
     一成が振り返り、穏やかな声で話しかける。その無邪気な様子に、玲子はほんの少し微笑んだが、佑蔵との会話が頭を離れない。
    「あなたの絵を無事見届けましたわ」
     玲子は無難に応えながら、今夜のことを一成にどこまで話すべきか迷っていた。佑蔵が関わっている裏取引や、画廊員が亡くなったこと。どの話題も今切り出すには重すぎる。
    「佑蔵叔父さんは元気だったかい?」
     一成の問いかけは純粋そのもので、玲子の胸に何かが突っかかった。この困憊した状態で無理に説明しても、うまく伝えられる自信がない。玲子は心の中で深く息をつくと、明日の朝、一成と向き合うことに決めた。
    「元気でした。よろしくとのことです。一成さん、私はもう寝ます」
    「そうか、疲れただろう。お疲れさん」
     玲子は短く返事をし、一成をアトリエに残して階段を上がった。三階の寝室にたどり着くと、ベッドにゆっくりと腰を下ろし、疲れ切った身体を投げ出すように横たわった。暗闇の中、瞼を閉じると、次第に窓越しに聞こえる波音が玲子をそっと包み込んだ。

    【第20話『不手際』に続く】


     
     
     
    文筆家。埼玉県出身。アメリカ在住30年以上 ミステリーやサスペンスを中心とした小説を執筆 創作大賞2024&2025中間選考通過(ミステリー部門) お問い合わせ https://lit.link/hosino8

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