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BOAT PEOPLE生埌3か月で難民になった私が、船の䞊で泣いた日のこず


    䞡芪が2人の姉ずわたしを連れおベトナムを出たのは、1981幎4月の、月の無い倜のこずだったそうだ。
     
    その時私は生埌3ヶ月の赀ん坊で、圓然䜕も芚えおいない。
     
    これは、わたしが䞡芪や同じ船に乗った難民から聞いた話をもずにたずめた、蚘憶にはないけれど私自身が䜓隓した出来事だ。

    「難民」ずしお日本で育぀

     私の䞀番叀い蚘憶は歳ごろ。栃朚県烏山町珟圚の那須烏山垂の小さなカトリック教䌚の敷地にある難民たちの䞀時庇護斜蚭で過ごしおいたずきのものだ。敷地のすぐそばには教䌚が運営しおいる幌皚園があっお、わたしはそこに通わせおもらっおいた。
    䞡芪はカトリック信者で、毎週日曜日は教䌚のミサ祈りの儀匏に行った。
    烏山教䌚にはカナダ人のゞョヌゞ・クルヌチェずいう名の神父様がおり、ベトナム難民を倧切に面倒芋おくださった。幌皚園のあずに友達ず遊んでいおおでこに石をぶ぀けられた時に、わたしの泣き声を聞いお駆け぀けお病院に運んでくれたこず、誕生日䌚やパヌティヌを定期的に開いお、わたしたちに莈り物をくれたこずなどを思い出す。
    効が生たれるず、ゞョヌゞ神父は圌女にマリア様の花である「ゆり」ず名付けおくれた。
     
    私たちは、幌皚園ず教䌚の敷地から、ほんの数メヌトル降りた堎所にある、赀いトタン屋根の畳間぀ほどの建物で寝泊たりをしおいた。そこでは垞に、家族ほどのベトナム難民が出たり入ったりしおいた。
    トむレず台所は共甚で、朝起きるず掗面噚に氎を汲み顔を掗い歯を磚く。その隣で、他のベトナム難民のカップルがキスをする。そんな日垞だった。
     
    そこには幎ほど䜏んだだろうか。父の車の郚品を䜜る工堎ぞの就職が決たり、わたしがちょうど小孊校に䞊がる頃に斜蚭を出た。Kの狭い団地に家族人が暮らすようになり、その埌番目の効も生たれ家族人ずなった。
    わたしは人姉効の真ん䞭、女ずしお育った。
     
    子どもが人ずいうのは、ベトナムでは䞀般的でも、蚀葉もわからない日本で育おるにはかなりの数だ。䞡芪は「どうしおも男の子が欲しかったから人目も生んだ」ずよく語った。母はベトナムずフィリピンで流産しおいるが、どちらも男の子だったそうだ。
    母は男の子が産めない䜓だったのかな。
    戊争ず関係があるのかな。
    お兄ちゃんや匟がいたらどんな感じだったかな。
    などず考えたものだった。
     
    日本での暮らしは比范的貧しかったず思う。
    圓時の我が家の唯䞀の莅沢は、父のボヌナスが出たずきに行く「クロヌバヌステヌキ」ずいうお店。蝶ネクタむに黒のベストを着た玠敵な男性店員さんが䞁寧に接客をしおくれる高玚感のあるお店で、皆、䞀匵矅に着替えおランチに出かけるこずが幎に数回の楜しみだった。
    しかし今思えば、その時私たちが食べたのは「500円のお子様ランチ」だったのだけれど。
     
    家族みんなで旅行をした蚘憶はない。それでも、スむカやゆでたトりモロコシをもっお地元の花火倧䌚に行ったこず、父が那珂川でアナを釣る傍らで川遊びをしたこずなど、楜しかった家族の思い出はいく぀かある。
     
    私は物心぀くころから日本語を話し、日本の孊校に通った。
    日本人にもよくある「マむ」ずいう名前はずおも郜合がよかった。「マむ」はベトナム語で「梅」だ。南囜の梅なので日本のものより倧茪で明るい色をしおいる。日本ず同じ瞁起の良い花。぀たりベトナムだず私は「梅ちゃん」である。
     

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    黄梅はベトナム南郚のお正月の花

     
    私は日本語を母語ずしお話し、芋た目も日本人ず倉わらなかった。それでも、時折カタカナ名をからかわれ、「ベトコン」「ベトナムに垰れ」などずいわれたこずもある。
    今思えば男子が女子にちょっかいを出す皋床の意地悪だったのだず思う。幞いにも本気でいじめられるようなこずはなかったのだが、それでも子ども時代の私は、ベトナム人であるこずをコンプレックスに感じ、いかに日本人に近づくか、日本に適応するかばかり考えおいた。
    なぜベトナム人ずしお生たれたのだろう、難民ずはなんだろう――そう思いながら育っおきた。
     


    「ボヌトピヌプル」

    そんななか、高校2幎の秋、図曞通で䜕気なく手にした「囜際問題」に぀いおの本が私の人生を倧きく倉えるこずになった。
    そこには、「ボヌトピヌプル」に぀いおの蚘茉があった。これが自分の家族のこずであるず気が付いたずき、䞀瞬頭が真っ癜になり、䞖界がひっくり返るような思いがした。
    自分の家族が難民だず知っおはいたが、そんな名称が぀いおいたずは。私の家族は「囜際問題」だったのか――。
     
    そうしお私は、倧孊に進孊をする決意をし、幎間の浪人生掻を経お、地元の囜立倧孊に進んだ。
    倧孊では囜際瀟䌚孊を孊び、卒業論文はベトナム難民に぀いお調べ、自分のルヌツを蟿るためにベトナムやフィリピンを蚪れた。
    曎に、䞡芪や関係者ぞのむンタビュヌを重ねるこずで、少しず぀、家族の過去や私が日本に来るたでの軌跡が茪郭を持ちはじめた。
     


    父のいた「A30」ず母の甘い「チェヌ」

    私の父は、生たれおすぐに故郷を远われた人だった。祖父父の実父は政治的な理由で呜を萜ずし、家族は逃げるように南ぞ移っおいた。
    曎にベトナム戊争が終結するず、敬虔なカトリック信者であった父の䞀族は自由を奪われ、父は1977幎に最初のベトナム脱出を銖謀する。しかしそのこずが公安譊察に知られ、長いあいだ収容所で過酷な劎働を匷いられるに至った。
    父は、アバムむベトナム語で「A30」の意ず呌ばれる収容所に送られ、2幎半にわたる匷制劎働の日々を送った。田で氎牛のように鍬を匕き、森で倧きな䞞倪を運ぶ。幎に数回地雷陀去䜜業も行った。たずもな食事も䞎えられず、父は「4本足のものなら䜕でも食べた」ず語った。監芖員らは気に入らないこずがあればい぀でも囚人を殎り、殺すこずもあった。自殺をする囚人も倚く、わたしの父も䜕床か自殺を考えたそうだ。
    父はこの時の屈蟱が忘れられず、ベトナムを出おいくずいう決意を曎に固くしたのだった。
     
    母は、時折父が収容所にいた頃の苊劎話をした。
    お腹に姉がいるなか、母はチェヌず呌ばれるベトナムの甘味を路䞊で売るなどしお日銭を皌いだ。毎朝時に起きお準備をし、日が沈むたで道端で商売をした。
    「お母さんのチェヌはずおも人気でよく売れたのよ」ず、料理䞊手を自負する母は自慢げに語ったものだった。
    母は神経質で堅実な性栌だったため、呜がけで囜を脱出するのは反察だった。その母がよく小さい子どもを連れお倧海原に出お行ったなず思う。
     


    脱出

    1980幎12月、䞉女の私が生たれおすぐに、二床目の脱出蚈画が持ち䞊がった。
     
    䞡芪は、圓時生埌100日の赀ん坊だった私を䞀緒に連れお行くか迷ったようだ。海の䞊で死んでしたうかもしれないからず父は芪せきに預けるべきだず䞻匵したが、母が、「絶察に連れお行く」ず匷く蚀っおくれたのだ。

    1981幎月䞊旬、私たちはベトナムを脱出した。公安譊察の目を逃れるため、月の無い真倜䞭を遞んだ。

    父は、週間ほど前から、早朝や深倜の持に出かける振りをしお、航海に最䜎限必芁な食料や燃料を少しず぀運んでいった。
     
    圓日の晩、二人の姉は、倜䞭に隒がないように、睡眠薬を飲たされた。
    しかし、予定よりも出発時間が遅れ、睡眠薬が切れお二人の姉が泣き出したようだ。
    「『おばあちゃヌん』っお倧泣きされお困ったわ」
    埌に母が蚀っおいた。
    母の䞡芪の家で生掻しおいた私たちは、祖母にな぀いおいたらしい。
     
    私たちはこの日から結局祖父母に䌚うこずはなかった。

    沖から数十メヌトル先に甚意される持船に向かっお、難民たちは小船に乗り蟌んだ。この日、集たった難民の数は76名に及び、その分のが子どもだった。持船は、幅メヌトル、長さ13メヌトルほどしかなく、そこに76人がすし詰め状態ずなった。
     
    76人を乗せた船は、かなりのボロ船で、穎は空いおいたし、よく故障するこずで有名だったらしい。
     
    人数も、30名皋床を予想しおいたのに、その倍以䞊になっおしたった。远い返すわけにもいかなかったため仕方なく、船の重量を少しでも軜くするために、持に䜿う網やロヌプなどの重いものを海に投げ捚おた。
     
    ずりあえず、ベトナムの領海から出お行こうず船は挕ぎ出した。
    船の䞊では、子どもが時々泣きだす以倖、誰も話さなかった。
    穎の空いた船に氎が入るず、男たちがかわるがわるバケツで海ぞ投げる。そんなトラブルず䞍安芁玠ばかりの出航であった。
     


    2日目゜連の船

    日目には疲れ果おお、皆ぐったりしおいた。
    そのずき、目の前に倧きな船が珟れた――。
     
    救助しおもらえるかもしれないず倧きな船に近づくず、それは゜連船籍のタンカヌだった。゜連は共産䞻矩の囜。ベトナムに突き返されやしないかず皆が䞀瞬恐れた。
    しかし、゜連の乗組員は、救助するこずも突き返すこずもなく、私たちに50キロほどのタマネギや猶詰を提䟛し、船からホヌスでたっぷりの飲料氎を噎射しおくれた。
    みんなここでようやく、氎をたっぷり飲むこずが出来たのだそうだ。
    しかし、生のタマネギは食べようもなく、猶詰を開けるものを持っおいる人もおらず、もらったタマネギも猶詰もみな、海に捚おざるを埗なかった。

    たた、あおもない挂流が始たった。


    日目嵐

    ベトナムを出お日目。
    倩候が悪化した。
    波がどんどん高くなる。
     
    むルカの䞍気味なたでの倧矀が泳いでいた。
     
    嵐がくるのではないかず皆恐れたが、それを口にはしなかったそうだ。
    口に出したら本圓になりそうで怖かった。

    波がだんだん高くなる――。
     
    そのずき、男たちが、持の目印に䜿われるオレンゞ色の浮き玉が海に浮いおいるのを芋぀けた。難民たちは、どこかの船がいずれ魚を回収しにくるのではないかず考えた。

    そしお、自分たちの船に、浮き球を繋いでいたロヌプをくくり぀けた。
    波はだんだん高くなっおくる。
    陜は沈んでいく。

    時間ほどたった頃、遠くから船の灯りが近づいおきた。
    マグロの遠掋持業の船であった。

    すこしず぀、すこしず぀、船は魚を釣り䞊げながら近づいおくる。

    いよいよあず10メヌトルほどにたで近づいたずき、船はいきなり方向を倉えお去っおいっおしたった。

    「いけない海賊船ず思われたか」

    私の父ず数人の男が、助けを求めるために海の䞭に飛び蟌んだ。
    母はそんな父をみお激しく泣いた。
    サメに襲われはしないかず心配したのだ。

    いきなり、船の提䟛者の男が母から赀ん坊の私を奪った。

    「泣け泣け」
    私の尻を激しくたたき出した。
    赀ん坊がいるんだ
    お願いだ。
    私たちは海賊じゃない。
    助けおくれ

    それでも持船はどんどん遠ざかっおいった——。


    呜の恩人

    「あのずき、日本の船に助けおもらわなかったら、私たちは死んでいたんだよ」
    子どもの頃、母は䜕床もそういった。

    日本人が助けおくれたのか——呜の恩人か。

    私は、倧孊を卒業する前に、呜の恩人にどうしおも䌚いたくなった。

    なんずか探せないものか。
    難民事業本郚に連絡をし、蚘録が残っおいないかたずねた。昔䜏んでいたフィリピンの難民キャンプに情報があるのではないかず蚀われた。

    フィリピンにも行った。フィリピンの圓時の新聞も調べた。それでもダメだった。

    そしお、日本の新聞で芋぀けた。

    私たちが日本に来た時のこずが、長厎県の新聞で蚘事になっおいた。そこに曞いおあった船の名前は「第58枅豊䞞」。

    そこから恩人の船長を捜し出すたでに曎に半幎かかった。船は沖瞄の糞満船籍だった。

    圓時の船長はただ生きおいた。
    私は、家族党員を誘い沖瞄たで䌚いに行った。


    沖瞄での再䌚

    「䞀床逃げおいったのに、どうしお匕き返しおくださったんですか」
    私の問いに察し、圓時、第58枅豊䞞の船長だったYさんはこう答えた。
    「赀ん坊の泣き声が聞こえたんだ」
     
    「あのずき、救助しおよかった。もし救助しおなかったら、ずっず心の䞭に眪悪感が残っおいたず思う」
    Yさんはそう蚀っおくれた。

    Yさんは若干34歳で第58枅豊䞞の船長を぀ずめおいた。
    私たちが乗っおいた船を芋お、圓時東シナ海を暪行しおいたタむの海賊ず思い蟌み、䞀床は矛先を倉えお走り去った。

    しかし、「赀ん坊の泣き声が聞こえた」のだずいう。

    「えそれっお、私だったんでしょうか私、生埌ヶ月で船に乗っおいたんです。生たれたばかりの赀ん坊の声でしたか」
    「おそらくあなただよ。よく芚えおいる。日差しを济び続けお、肌が赀く焌けおいたから、クリヌムを塗っおあげたんだ」

    こんなにドラマティックな話があっおいいのかず思った。
    私は小さい赀ん坊だったから、䜕も芚えおいない。
    ぞたをするず、ベトナムに眮いおいかれおいたかもしれなかったくらいだ。

    そんな私が、難民船の船長の思惑で尻を叩かれ、船の䞊で泣いた。
    その声が、荒波の䞭でもYさんの耳に届いた。
    そしお、船は救助されたのだった。

    蚘憶にない物語。
    しかし私はその堎所に確かにいお、それたで存圚も知らなかったYさんの蚘憶の䞭で確かに生きおいた。

    そしお、私の蚘憶にない難民船に乗っおいた人々は、私の存圚があったから、Yさんに救助しおもらえたのだ――。


    走り去るか、匕き返すか

    海賊船かず思い走り去ったYだったが、必死に泳いできた男たちず赀ん坊の声が気になった。

    これたでベトナム難民の話は聞いおいたが、難民船に遭遇したのは初めおのこずだった。

    Yは船員らず話し合った。第58枅豊䞞には名の持垫が乗り蟌んでいた。

    圌らは䜕者だず思うか。
    このたた走り去った方がいいのか。
    戻っおやった方がいいのか。

    Yは無線で近くにいる仲間の船にも盞談した。

    隻の船が近海でマグロ持をしおいたが、そのうち隻の船長も、「それは難民かもしれない」ず蚀った。

    Yには圓時、歳ず歳、そしお歳の子䟛がいた。
    子煩悩で、家に垰れば片時も子䟛たちを離さないほど、かわいがっおいた。

    「戻ろう」
    Yは決断した。

    船員らは誰も反察しなかった。


    埅぀か、あきらめるか

    走り去っおしたった第58枅豊䞞の灯りを遠くに芋ながら、難民たちは話し合った。

    どうする
    このたた埅぀か
    進んだ方がいいのか

    ただ遠くに船の灯りが芋える。

    消えないうちは垌望があるかもしれない。

    難民たちは埅぀こずに決めた。

    20分も埅っただろうか。
    船がたた、少しず぀自分たちのもずに近づくのが芋えた。

    「たすけおくれヌ」
    「たすけおくれヌ」

    みなが必死で叫んだ。


    救助 

    「男の人たちが女性や子どもたちよりも、我先にず乗っおきたよ。これで終わりかず思ったら、䞋からもどんどん人が出おきた。」
    Yは苊笑しながら圓時のこずを話しおくれた。

    たさか、そんな小さな船に76人も乗っおいたずは思わなかっただろう。

    難民たちは皆、泣いお喜んだ。

    「お父さんが泣いおるのを芋たのはあの時が最初で最埌だわ」
    母は圓時を思い出しお語っおくれた。

    呜をかけた脱走劇がこのずき終わったのだ。

    第58枅豊䞞の乗組員のひずりが、党おの難民が乗り蟌んだのをみお、難民船に飛び移り、カッチャヌずいう朚補のハンマヌで船の底を打ち砕いた。

    難民たちを日間乗せた船は、儚く海の䞭ぞ沈んでいった。
     


    日本で生きる 

    Yさんたちはその埌、本瀟の指瀺でフィリピンのパラワン島に私たちを連れお行っおくれた。
    そのころ日本はただ難民を受け入れおおらず、移䜏先が決たるたでそこで埅ったのだ。
     
    1982幎に日本が難民条玄に批准するず、日本船籍に助けられた私たちは優先的に日本に行くこずが蚱された。
    あの嵐の日、助けおくれたのが日本の船だった。だから私たちは日本に来るこずになった。
     
    Yさんはわたしたち家族が日本にいるずは思っおもいなかったそうだ。
    フィリピンに着いたずき、匕き枡した囜連職員にYは「この人たちはこの埌どこに行くのか」ず質問した。「おそらくアメリカに行くこずになるず思う」ず蚀われたのだそうだ。
     
    自分が助けたから、この家族は、その少女たちは日本にいる。それを知っおずおも嬉しそうだった。
    Yさんは緘黙でシャむな印象だった。䞭肉䞭背で60に迫り髪は癜い。これたで䌚ったこずのある本土の持垫ずはたるで違う。沖瞄の海人うみんちゅは穏やかなんだなぁず感じた。
    䞀方、Yさんの劻はずおも明るくかわいらしい女性だった。
    「これもご瞁だから、これからは芪戚だず思っお仲良くしたしょう」ずいっおくれた。

     
    珟圚、日本で育った私たち人姉効は、皆元気に日本で働き、それぞれが結婚をし、家族を持った。䞡芪は今も烏山に暮らしおいる。
     
    第58枅豊䞞の船長だったY氏は、わたしたちが䌚いに行っおからしばらくはむカを釣っおいた。むカずいっおも沖瞄のものは1メヌトルにもわたる倧きさで肉厚だ。圌が釣ったむカを䜕床か頂いたこずがある。
     
    あの時ボヌトに乗っおいた76人のおよそ半数は珟圚日本で暮らしおいる。私は䞡芪に連絡を取っおもらい、その䜕人かからも圓時の話を聞いた。

    カンボゞアずの玛争での城兵逃れのために身を隠しながら日本にやっおきた青幎は、カトリックの叞祭になっおいた。

    恋人に別れも蚀えないたた、䜕も知らずに船に乗るこずになった女性がいた。

    譊察眲長ずしお立掟に働いおいた父を政府軍による過酷な劎働によっお亡くし、囜を出るこずにした青幎もいた。

    ――それぞれに物語があった。

    さらに、2名は日本での暮らしに適応できず、うち1名は「あか぀きの村」ずいう粟神を病んだベトナム難民の斜蚭で暮らしおいた。
     
    そしおあるものは欧州ぞ、あるものはアメリカぞず分かれた。
     
    船に乗っおいた76人の䞭でも、私は幞犏な存圚だ――倧孊卒業をたじかにしたころ、わたしはそう実感した。
    倧孊で奜きなこずを孊ぶこずができた。家族みんなが元気に生きるこずができおいる。
     

    「難民」ずはなんだろうずいう問いを掲げお旅をし、取材をした私だったが、それぞれにたったく違う人生があった。
    粟神を病んでしたったあの人ず、わたしの家族の違いは䜕だったのか、そんなこずを考えるようになった。
    難民ずいう倖偎の区別よりも、人ずしお倧切なこずが他にあるのかもしれない。
     
    倧孊卒業埌はゞャヌナリストになる぀もりだった。䞀冊の本が私の人生を倉えおくれたように、わたしも、知るこずや䌝えるこずを仕事にしおいきたいず考えおいた。
     
    氷河期のあおりが残るなか、なんずかテレビの制䜜䌚瀟に就職したが、2幎で退職し、珟圚は人の子の母芪をしながら倫ず家族5人、南信州で暮らしおいる。
    ここに来るたでにもいろんなこずがあった。
    それでも生埌ヵ月の自分が䜓隓したこずのドラマチックさには到底及ばないだろう。
     
    赀ん坊のころに難民船に乗っおいたこず、
    自分の泣き声が76人の呜を救うこずになったこず、
    そんな独特すぎる生い立ちにはきっず䜕か「意味」があっお、自分にしかできない「圹割」があるのではないかず信じおきた。
    けれど今、私が確かに匕き受けおいるのは、呜を繋いでいくずいうこずなのかもしれない。
     
    私が母に船の䞭で抱かれ、守られたように。
     

     
     
    占星術垫。時々有料の星読み蚘事。 24幎床修士人間発達孊取埗。 基本は星読み蚘事やマガゞン。 時々自閉スペクトラム症の息子や日垞に぀いおの゚ッセむ。 ステップファミリヌで䞊に高校生2人♀・♂。 LINEで星読み週間、月間メッセヌゞ配信しおたす。

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