
33歳の切り株
頂上を目指していないと、帰り道は、なんとなく気楽だ。
行きは、オリンどんが前を歩いていた。帰りは、自然と、私が前になった。特に、二人で決めたわけではない。ただ、下りは、オリンどんがあまり得意ではないらしい。
前を歩いていたから、それに気づいた。
道の真ん中に、切り株があった。

年輪を、数えてみる
たぶん、道の途中で邪魔だったか、変な方向に曲がってしまったので、切られたのだろう。低い切り株が、道のまんなかに、ぽつんと残っていた。
なぜか、その前で立ち止まって、年輪を数え始めた。
これまで、木の年齢を数えたことなど、一度もなかった。たいていの切り株は太くて、年輪が細かすぎて、とても数えきれない。でも、これは比較的細めだったので、数えられそうだった。
中心のあたりは、年輪が厚い。外側にいくほど、薄くなっていく。だから、中心から数えるのは、なかなか難しい。何度か見失いながら、どうにか数えてみると、だいたい三十三本あった。正確かどうかは、保証できない。
数え終えて、後ろのオリンどんに言った。
たぶん、三十三歳だと思う。
すると、こう返ってきた。
年下だね。
先輩と、後輩の森
その一言で、世界が、少し変わった。
私はこれまで、木が、年上か年下か、などと考えたことがなかった。それどころか、木というのは、自分が生まれるよりずっと前から、ただそこに在るもの、くらいに思っていた。いや、思ってすらいなかった。背景のように、見ていなかった。
でも、木も、生き物だ。生まれて、育って、いつか死ぬ。さっきの切り株は、三十三年生きて、切られた。私は、もう四十年以上、生きている。だとすれば、私が生きてきたあいだに、この山道沿いの木々も、生まれたり、枯れたり、太くなったりしてきたはずだ。今、私が歩いているこの道も、私が生きているあいだに、少しずつ変わってきたのかもしれない。
そう思うと、急に、目の前の景色の解像度が上がった。
それまで、ろくに見ていなかった木々を、注意して見るようになった。木の種類も名前も、私には分からない。それでも、太いやつもあれば、細いやつもある。太いのは、私より長く生きた先輩たちで、細いのは、後輩かもしれない。まっすぐ伸びたのもあれば、途中で曲がったのもある。曲がったまま止まったのもあれば、曲がりながらも、なお高く伸びていったのもある。
そうやって見ると、木の一本一本が、それぞれの人生を生きてきたように見えてくる。風に耐え、何かをよけ、こんな形になったのだろう。先輩たちと、少しの後輩たちに、囲まれて立っている。そういう土地として、目の前が見えてきた。
大先輩には、行きに会っていた
そこまで考えて、ふと、行きのことを思い出した。
登りの途中に、ものすごく太い木が、何本も生えている場所があった。屋久杉のような、と言ったら大げさかもしれないが、とにかく、見上げるような巨木だった。そばには看板も立っていた。何が書いてあったかは、よく見もしなかった。ただ、立派な木だな、と思って、通り過ぎただけだ。
あれは、とんでもない大先輩たちだったのだ。
三十三歳の切り株を見て、ようやく木に年齢があると気づいた、その目で振り返ると、行きに見たあの巨木たちは、私など足元にも及ばない、ずっと長く生きてきた先輩だった。すぐそばを通って、わざわざ看板まで立っていたのに、私は、何も見ていなかった。年齢という物差しを持っていなかったから、大先輩が、大先輩に見えなかった。
見ていたのに、見えていなかった。物差しを一つ手にしただけで、すでにそこに在ったものが、急に立ち上がってくる。
エールを送る
切り株を見つけたのは、下山の終盤だった。
それからまもなく、私たちは山を降りきって、今日の山登りを終えた。
帰りぎわ、立派な装備の中年が二人、なんとなく、木々にエールを送った。長く生きてきた先輩たちにも、少しの後輩たちにも。行きには見えていなかった、あの大先輩たちにも。名前も知らない、ただそこに立って、それぞれの形で生きてきた木々に。
たぶん、向こうは、何も気づいていない。
