【完全版】ミニマムワンオペ飲食店経営のススメ
こんにちは!ミニマムワンオペ飲食店、ホルモン専科ちゃんの現役店主、和泉直樹と申します。
今回、3年ぶりに【完全版】として本を書かせていただきます。
なぜ今更【完全版】なのかと言いますと、現場で日々試行錯誤しているうちにこの3年間で更に自分にしっくりくる形に進化していきました。
それが世の中の個人経営飲食店の中で人材不足に悩んだり、人一倍頑張っているのに利益が上がらない飲食店オーナーの方々にとって必ずヒントになると思ったからです。
もう一つは僕の目論見が外れただけなんですが、前作を読んで興味を持っていただいた方に直接やり取りで指南出来れば間違いない!
と思っていた所、その様なニーズはあまり無かったようでこの3年間に至ります。
結論:ワンオペ営業は工夫次第で可能
40席ほどの規模のお店なら、工夫次第でスタッフに頼らずにワンオペで営業することが可能です。
実際に僕のお店は4テーブルで20名、カウンター6名の合計26席の規模を11年間ワンオペで営業しています。
前作からの3年間は苦労する事も余りなく、お客さんの予約のLINEやりとりが定着して来たおかげで暇な日は安心して早仕舞い出来るようになりました。
それはそうですよね。僕1人の食い扶持を稼げば良いだけですから。
2026年。僕のお店は創業18年を迎えますが、僕は
目指せ 創業50年!!
のスローガンを掲げて、
お客さんにも協力してもらいながらあと32年続けていくために
更に働き方を変化させていきます。
例えば、遅い時間帯の新規のお客さんはもう無くていいや。と看板の電気も早めに消しちゃいますし、そもそもお店の電話も止めちゃいました。
予約はLINE会員さん限定にしたんですね。
そしたら今までよりもはるかに疲れない!
ウチのお店のファンのお客さんが集まって下さるだけでこんなに毎日笑顔で働けるのか!と。
そして今回の【完全版】では、進化したセルフ飲み放題のお話しも余す事なくお伝えしていきます。
第一章から第六章までは前作の内容と同じですので読まれていない方は是非ホルモン専科ちゃんのミニマムワンオペ飲食店経営の成り立ちを読んでください。
第七章から『セルフ飲み放題2.0』のやり方をお伝えしていきます。
第一章:僕のお店の成り立ち
2008年7月23日江東区亀戸で「ホルモン専科ちゃん」を創業しました。
2008年の年明けの時点では僕は2店舗しかない小さな焼き鳥屋のNO.2で取締役兼店長、それなりの評価もしてもらい、体は大変ながらもそこそこ充実した日々を過ごしていました。
そんな時に2月の頭の社員旅行で社長のホンの小さな裏切りを知ってしまいます。
その時にもうこの会社には僕の居場所は無いな。やっぱり独立に向けて動き出そう!
そう思いました。
近くのお店のホルモン屋オーナーから「ウチのホルモン屋で3年間店長をやってくれたら独立の面倒見るよ!」
と声を掛けられていた事も有り、そちらでお世話になる決心がつきました。
ところが焼き鳥屋の取締役辞意を伝えると小さな裏切り社長(人としては小さくありません!)から「和泉さんには本当にお店の売上上げてもらったからもし独立するなら焼き鳥屋FCで独立したら?」
と声をかけて頂きました。
まさかの展開でしたが、ホルモン屋の修行からの3年間店長をせずに今、
僕は独立出来るのか?。。。。
・・・ ・・・ ・・・
・・・ ・・・ ・・・
・・・・・・オレ出来るかも。
と思ってしまったんです。
一回そう思ってしまったらもう止まりません。
独立の資金は自分で借金して、物件が見つかり次第ホルモン屋として独立したい!!
そこから僕の人生は大きく動き始めたんです。
焼き鳥屋の店長を辞めたのは3月いっぱい。4月の頭からホルモン屋で見習いをしながら物件を探す時間をもらいました。
そのおかげでホルモン屋の給料は月10万円だけ。
早くお店を見つけないとどんどん手持ちのお金も目減りしていきます。
そんな中、6月の中旬に亀戸駅近くの好立地のまだ営業中テナントの極秘撤退情報が入ります。
それからあれよあれよと話しは進み、2008年7月11日正式にテナント契約して7月23日に晴れてオープンする事が出来ました。
独立して1番思った事。
言葉では『独りで立つ』と書いて『独立』なのに自分1人では絶対に出来なかった。
周りの人達の応援やサポートのお陰で『独りで立てた』まるで赤ちゃんが初めて立った時の様ですが、その想いは今も変わりません。
サラリーマン時代に先輩にご馳走になった後に先輩に奢り返すのではなく、
自分はまた、自分の後輩にご馳走していくのと同じ様に独立したい、誰かの背中を押したり、勇気をあげたり出来る存在になりたいというのが今でも僕の目標です。
第二章:創業以来最大のピンチ
晴れて飲食店オーナーになった僕はお店を出した時の成功体験も有り、思った事はまず行動していこう!
という行動指針の基、色々な試行錯誤をしながら店舗運営していきます。
2008年当時はMIXI全盛期で僕の地元、千葉県の酒々井中学校の同級生コミュが最高潮に盛り上がっており、本当に多くの友達に平日の水曜日だったにも関わらず、オープン当日からサポートをしてもらいました。
また、独立前に名刺交換した方々にお店のオープンのご挨拶レターを300通ほど送ったらオープンから40日間、毎日どなたかが来て下さって毎日元気や勇気を頂きました。
そしてそのサポートしてくれていた同級生の内、中学時代からの1番の親友2人から『和泉の店で働きたい!』と言われた事により僕も『よし!これで多店舗展開出来るかもしれないぞ!』
と思ったモノでした。
2人が働き始め1周年フェアも盛況に終わり、今後のお客さんもどんどん増えていくだろうなぁ〜
なんて呑気な事を考えていた僕に人生最大の裏切り行為が降りかかります。
9月の最終日曜日、お客さんのラストオーダー確認をし、それをスタッフに伝えトイレに入りました。
(今月も何とかなりそうだな)なんて事を考えつつ。
トイレから出ると神妙な顔をした同級生2人が「イズミ、コレ」と封筒を渡して来たのです。表紙には『辞表』。。。
確かに最近、 疲れている様子だな。テンション低いな。
とは思っていました。
でも、まさか夢を共有したはずの2人が同時にそんな事を言うなんて。。。
51年生きてきて未だにこれ以上のショックな事は有りませんね。
当然、2人とは親友でもなんでも無くなり、僕の人生に親友は居なくなりました。
その後、東日本大震災 ユッケ事件。
なんて暗黒な時代でしょう⁉️
ユッケ事件の後は本当にお客さんが来てくれなかった。
同時辞表事件からユッケ事件までの3年間は、辛い、それは辛い時期でした。
こんなに畳み掛ける様に悪い事が起こるのに「ホルモン専科ちゃん」は潰れなかったんですよ?
実は僕はお店の開業資金にオフクロの老後資金を借りていたんです。
僕が中3の時に親父がガンで亡くなりその後、母親1人頑張って、僕と妹を育ててくれました。
その母親のなけなしの老後資金1000万円を借りたお陰で僕は経営者になれたんですね。
だから僕はオフクロに2回産んでもらっているんですね。
人一倍ヤンチャでしたから親孝行も人より沢山しなければ!
と心に誓っています。
話しを元に戻しますが、僕はオフクロの老後資金を借りていたお陰で気持ちが切れずに粘り強くお店の繁盛に向けて努力出来たのだと想います。
とはいえ、この時はまだワンオペ経営をやろうという所までは来ていませんでした。
今ほど求人募集にお金がかかるという事も有りませんでしたし、ホルモン屋がアルバイトに人気が無いという事も知りませんでしたので。(笑)
第三章:何かが生まれる予感
最初にワンオペ営業したのはユッケ事件の年でした。
もうあの年のことは思い出したくも無いくらい辛い日々だったんですが、
こうやって問題が解決して月日が流れるとあの苦しい時間も
今の成長の為には必要な経験だったな。と思えます。
当時働いてくれていた広島出身のゴエモン君(仮名)がダラダラ片付けをしていたので
「そんなにやる気ないなら明日から来なくていいよ‼︎」
と言い放ったんです。
そしたらゴエモン君、「分かりました!今日で辞めます!」
と言って本当に翌日から来なかったんですね。
本当に未熟な経営者でしたね。
そのお陰で翌日から何日間か1人営業をワタワタと経験したわけです。
まだ何も準備出来ていない状態でのワンオペ営業ですから、お客さんにも大変迷惑をかけました。
でもその時に気づいた事も沢山ありました。
まず、1番大きかったのは一生懸命やっていれば、お客さんが理解してくれる、協力してくれるという事。
元々、最悪1人で回せるサイズのお店と思って物件を探していた事もあり、
ワンオペ営業自体にはそんなに抵抗はありませんでした。
1番抵抗感があったのがワンオペ営業をいつまでもしていたら従業員も育たないし、多店舗展開なんてムリだ‼︎という事でした。
それに対しては焦燥感がありましたね。
ちょうどこの頃、『おもてなし』のプレゼンテーションで東京オリンピックが決まった頃でしたので、『2020年かぁ〜、その時まだ1店舗だったら俺、終わってるな』
と心の中でも思っていたほど。
まだ目先の事で精一杯でお金を稼ぐには多店舗展開としか考えていなかった頃でした。
実は、東日本大震災の教訓で家賃は払う側じゃなくてもらう側じゃなきゃダメだ。と思い、不動産投資の勉強を始めて築古戸建を現金で購入したのもちょうどこの頃(2012年秋)でした。
この築古戸建不動産投資も僕のミニマムワンオペ経営や、
目指せ 創業50年‼︎
には必要不可欠なので何処かの機会でお伝えしたいです。