
親しい友達
【あらすじ】
莉子はささやかな暮らしを綴るだけのアカウントを持っていた。フォロワーの「ことり」は誰より優しく投稿のすべてに寄り添ってくれる唯一の理解者だった。けれどことりは莉子が書いていないことまで知っていた。窓の外の自販機。娘の通う小学校。眠る娘の寝相。ブロックしても別の名前で戻ってくる。夫は気のせいだSNSをやめなさいと繰り返す。莉子はアカウントを消し家にこもりようやく安全を手に入れた。はずだった。いちばん近くにいる人がいちばん怖い。SNS時代の"ありえる"恐怖を静かに描く後味の悪い人怖の一篇。
* * *
1
その人は私の書いていないことまで知っていた。
最初に気づいたのはいつだったろう。
たぶん私はずっと前から見られていた。
ただ気づかなかっただけだ。
気づかないようにしていただけかもしれない。
私の一日はとても静かだ。
朝。
拓海を送り出してひなを幼稚園に連れていく。
帰ってくると部屋には私ひとりになる。
洗濯を回す。
床を拭く。
冷蔵庫の残りで昼を済ませる。
そのあいだ誰とも話さない。
声を出さない日がある。
そういう日が何日も続くと自分の輪郭がぼやけていく。
鏡の前に立っても誰だか分からなくなる。
ここにいるのが本当に私なのか自信がなくなる。
こういう感覚を人に話したことはない。
話しても困らせるだけだ。
結婚して七年になる。
この町に越してきたのは去年の春だった。
緑の多い静かな住宅地。
スーパーまで歩いて十分。
拓海が「子育てにいい場所だ」と決めた町だ。
この町を決めたのは拓海だった。
会社を辞めたほうがいいと言ったのも拓海だった。
「莉子は家にいたほうがいい。外は危ないことばかりだから」
そう言われて私は仕事を辞めた。
独身のころの友達ともなんとなく会わなくなった。
拓海は私が誰かと出かけるのをあまり好まなかった。
「あの子たちといると莉子は変わる気がする」と言った。
最初はそれを愛だと思った。
こんなに私のことを思ってくれる人はいないと。
結婚式で拓海は言った。
「一生莉子のそばにいる。莉子がどこにいても必ず見つけるよ」
みんなが笑って拍手をした。
私も笑った。
すてきな言葉だと思った。
今になってその言葉を思い出す。
莉子がどこにいても必ず見つけるよ。
知り合いはいない。
実家は新幹線で三時間かかる。
ママ友と呼べる人もまだいない。
拓海は優しい。
でも帰りはいつも遅い。
だいたい日付が変わるころに帰ってくる。
夜になると窓の外は真っ暗で物音ひとつしない。
ひなの寝息だけがある。
私はその静けさが少しだけ怖かった。
結婚してから私の世界は少しずつ小さくなった。
仕事を辞めて。
友達と会わなくなって。
知らない土地に来て。
気づけば私の世界はこの部屋とひなと拓海だけになっていた。
それを家族の幸せというのだと思っていた。
狭いことと守られていることはよく似ている。
そのころの私はその二つの区別がつかなかった。
だからスマホの中に小さな声がほしかった。
誰かとつながっていたかった。
それだけのことだった。
本当にそれだけのことだったのだ。
今になって思う。
さびしさは扉だ。
さびしい人は扉を開けてしまう。
誰かに入ってきてほしくて。
分かってほしくて。
ほんの少しの優しさに鍵を渡してしまう。
私はその扉を自分で開けた。
いちばん危険な相手に。
いちばん優しい顔をしてそれは入ってきた。
2
私のアカウントは「りこの暮らし」という。
節約のことと小さな贅沢のことを写真にして並べるだけ。
特売で買った鶏むね肉。
半額のシュークリーム。
ひなの幼稚園の制作。
名前のない夕暮れ。
どこにでもある暮らしの切れはし。
そういう何でもないものを撮って短い文章を添える。
フォロワーは六千人くらいいた。
多いのか少ないのか私には分からない。
ただ写真に「いいね」がつくと少しだけ息がしやすくなった。
知らない誰かが私の鶏むね肉を見て「おいしそう」と言ってくれる。
名前も顔も知らない人が「私も今日それ作りました」と書いてくれる。
それだけで私はまだここにいていいような気がした。
世界とまだ細い糸でつながっているような気がした。
夜。
ひなを寝かせたあとの一時間だけが私の時間だった。
台所の灯りを落として画面の青い光だけを見る。
コメントを一つずつ読む。
返事を書く。
今日もちゃんと生きた。
そう確かめるための一時間だった。
最初のころは知らない人ばかりだった。
名前も顔も知らない人が私の鶏むね肉に「いいね」を押す。
それだけのつながりが心地よかった。
深入りしないしされない。
ちょうどいい距離だと思っていた。
人と会うのはこわかった。
本当の私を見られるのがこわかった。
でも画面の向こうの人になら見せられた。
きれいに整えた暮らしのかけらだけを。
それなら嫌われない。
そう思っていた。
画面の中の私はいつも少しだけ本当の私よりやさしかった。
拓海はその時間の私を見て言ったことがある。
「またスマホ。そんなに楽しい?」
責める口調ではなかった。
ただ少しさびしそうだった。
「会ったこともない人の言葉がそんなにいいの?」
私は画面を伏せて笑った。
「ごめんね。すぐ寝るね」
拓海は私が誰とつながっているのか気にしているようだった。
ときどき私のスマホをのぞきこむことがあった。
「心配なんだよ」といつも言った。
私はそれを愛だと思っていた。
3
ことりさんが現れたのは去年の秋だった。
表示名はただ「ことり」。
アイコンは雲ひとつない空の写真。
プロフィールには何も書いていない。
投稿はゼロ。
フォローしているのは私ひとりだけだった。
最初のコメントを覚えている。
私が作り置きのおかずの写真を上げた日だった。
「毎日おつかれさまです。莉子さんのごはん見るだけであたたかい気持ちになります。」
たったそれだけの言葉で私は泣きそうになった。
誰かがちゃんと見てくれている。
それが分かっただけで救われる夜があるのだ。
ことりさんはそれから毎日コメントをくれた。
押しつけがましくない。
私がしんどそうな投稿をした日はそっと寄り添う言葉を。
楽しそうな日はいっしょに喜んでくれた。
ある夜私はめずらしく弱音を書いた。
「今日は少し疲れました。誰にも会わない日が続くと自分がここにいるのか分からなくなります。」
書いてすぐ消そうとした。
こんなこと書いてどうするんだろうと思った。
でも消す前に長い返信が来た。
「分かります。莉子さんはいつも頑張りすぎなんです。だから今日はもう何もしないでください。あたたかいお茶を飲んで早く休んでください。莉子さんがちゃんとここにいること私はいつも見ています。だから大丈夫。莉子さんは独りじゃないですよ。」
私はその文章を何度も読んだ。
画面に指で触れた。
拓海にも母にも言えないことを。
顔も知らない誰かだけが分かってくれた。
こんなことってあるんだと思った。
それからことりさんは私の毎日になった。
朝起きるとまずことりさんのことを考えた。
今日は何を投稿しよう。
今日はどんな言葉をくれるだろう。
そう思うと誰もいない部屋が少しだけあたたかくなった。
私はことりさんにだんだん多くを話すようになった。
ひなが熱を出したこと。
拓海と小さな喧嘩をしたこと。
眠れない夜があること。
本当はこの町が少しさびしいこと。
ことりさんはいつもちゃんと聞いてくれた。
否定もしないし励ましすぎもしない。
ただ「分かります」と言ってくれた。
それだけで十分だった。
拓海はそんな私を見て言うことが増えた。
「ずいぶん熱心だね。誰と話してるの」
私が画面を伏せると少しだけ眉を寄せた。
「責めてないよ。心配なだけ。莉子は人がいいから変なやつに騙されないか」
そう言ってときどき私のスマホを手に取った。
「ちょっと見せて」
私は笑って渡した。
やましいことなんて何もなかったから。
夫婦なんだからそれくらい普通だと思っていた。
その夜の食卓で私はことりさんの話をした。
「ことりさんっていうフォロワーさんがねすごく優しいの。私のことよく分かってくれて」
拓海はテレビを見ながら言った。
「ふうん。会ったこともない人だろ。あんまり入れ込むなよ」
それから少し笑って付け足した。
「まあ莉子が元気ならいいけどさ。誰と話してるのかおれにも教えてよ」
そのとき拓海の声がほんの少しだけ低くなった気がした。
気のせいだと思った。
拓海はすぐにいつもの笑顔に戻ったから。
「莉子が楽しそうでよかった」
そう言って私のスマホをちらりと見た。
画面に映ったことりの名前を。
私はその言葉をやさしさだと思っていた。
拓海はその夜もひなを寝かしつけてから私の髪をなでて言った。
「よく眠れますように」
拓海の口ぐせだ。
結婚する前からずっとそう言って電気を消す。
その声を聞くと安心した。
私は目を閉じた。
画面の中のことりさんの言葉を思い出しながら眠った。
4
冬になるころには私はことりさんを「親しい友達」に入れていた。
インスタには「親しい友達」というリストがある。
そこに入れた人にだけ見せられるストーリーがある。
緑の輪がつく特別な投稿だ。
世界ぜんぶに見せるものではない。
でも誰かに見ていてほしいもの。
私はそれをことりさんにだけ見せた。
家の中の何でもない動画。
作りかけの味噌汁。
窓の結露。
ひなの寝顔。
玄関の鍵を開ける手元。
雨の音だけを録った十秒。
どれも他の人には意味のないものだった。
でもことりさんはいつもすぐに見てくれた。
そして短く返してくれる。
「おうちの中あたたかそう。」
「ひなちゃんよく眠ってますね。」
「鍵の音なんだか安心します。ちゃんと戸締まりしてえらいです。」
私が落ち込んだ夜は必ず気づいてくれた。
私が無理して笑った日も見抜いてくれた。
「今日はちょっと無理してませんか。」
そう書かれてはっとしたことが何度もあった。
誰も気づかないことにことりさんは気づいた。
拓海でさえ気づかないことに。
私はそれを特別なことだと思った。
こんなに私を見てくれる人がほかにいるだろうかと。
今思えばそれはただずっと見ていたというだけのことだった。
朝も昼も夜も。
私が気づかないあいだも。
私はうれしかった。
この人は私の暮らしを丸ごと受け止めてくれる。
たった一人の理解者だ。
そう思っていた。
あれはいちばん寒い夜だった。
ひなが夜中に吐いてシーツを替えて私はくたくただった。
拓海はまだ帰っていなかった。
時計は一時を回っていた。
私は台所の床にしゃがんで少しだけ泣いた。
そのときことりさんからメッセージが来た。
私は何も投稿していなかったのに。
「大丈夫ですか。無理しないでくださいね。莉子さんはいつも一人で抱えすぎです。」
どうして分かったんだろう。
私はそうは思わなかった。
分かってくれたと思った。
それがうれしくてまた泣いた。
「ありがとう。なんで分かったの」
そう返すと少し間があってから返事が来た。
「莉子さんのことならなんでも分かりますよ。ずっと見ていますから。」
ずっと見ています。
あたたかい言葉だと思った。
見守っていてくれる。
そういう意味だと思った。
少しだけひっかかった。
ほんの少しだけ。
でも私はその小さなひっかかりに蓋をした。
こんなに優しい人を疑うなんて失礼だと思った。
この町でことりさんだけが私のそばにいてくれるのだから。
自分から扉を開けたのだ。
いちばん近くに。
いちばん奥の部屋まで。
どうぞと言って招き入れた。
鍵のかけ方まで見せて。
今になって思う。
親しい友達というのは妙な言葉だ。
親しいほど近い。
近いほど見える。
見えるほど。
逃げられない。
5
冬の終わりごろからことりさんの「いいね」は少しずつ早くなった。
私が投稿する。
すると数秒で「いいね」がつく。
ことりさんだ。
いつも一番だった。
何時でも。
どんな写真でも。
最初はうれしかった。
そんなにいつも見てくれているのかと思った。
でもある夜のことだった。
ひなが熱を出して私は明け方まで起きていた。
氷枕を替えて額に手を当てて。
やっと眠ったひなの横で私も眠れなくなった。
何となく古い写真を一枚だけ上げた。
去年の桜の写真だった。
時計は三時八分だった。
投稿した。
その瞬間に「いいね」がついた。
ことりだった。
三時八分に。
私はスマホを置いて寝室を見回した。
カーテンは閉まっている。
ひなは眠っている。
隣で寝ているはずの拓海の布団がめくれていた。
いない。
廊下のほうから薄い灯りがもれていた。
リビングだ。
トイレかな。
私はそう思うことにした。
しばらくして拓海が戻ってきた。
そっと布団に入る気配がした。
私は寝たふりをした。
なぜそうしたのか分からない。
ただそうしなければいけない気がした。
息を殺していた。
朝になって私は聞いた。
「ゆうべ夜中に起きてた?」
拓海は牛乳を飲みながら答えた。
「いや。ぐっすりだったよ。なんで」
「ううん。なんでもない」
私はことりさんのことを話さなかった。
三時八分のことも話さなかった。
話してはいけない気がした。
理由は分からなかった。
夫に話せないことが増えていた。
ことりのこと。
夜中の「いいね」のこと。
胸の奥の小さな黒い染みのようなもの。
私はそれを誰にも見せずにひとりで抱えた。
ことりにだけは話せた。
皮肉な話だった。
私を怖がらせている相手にだけ私は本当のことを話せた。
ほかに聞いてくれる人がいなかったから。
気づけばことりは私のいちばんの理解者でいちばんの恐怖だった。
それが同じ一人だった。
私はことりに何を話したかを思い出そうとした。
ひなが熱を出した夜のこと。
拓海と喧嘩した日のこと。
眠れなくて朝まで泣いた夜のこと。
玄関の鍵のかけ方のことまで。
ぜんぶ話していた。
うれしくて話していた。
ちゃんと聞いてくれる人がことりしかいなかったから。
私は自分の手で自分の暮らしを差し出していた。
いちばん見られてはいけない相手に。
どうぞと言って。
笑いながら。
毎晩少しずつ。
知らない人に見られるのはこわい。
でも誰にも見られないのはもっとこわかった。
私はその二つのあいだで溺れていた。
ことりはそれを分かっていた。
私が逃げられないことを。
だからあんなに優しかったのかもしれない。
6
ことりさんは私の書いていないことを書くようになった。
ある朝のストーリーズだった。
私は人混みを避けてベランダから空を撮った。
空だけの写真。
ビルも道も写していない。
文字も場所も何も入れていない。
ただの水色の四角だった。
すぐにことりさんからメッセージが来た。
「今日はいい天気ですね。下の青い自販機の前朝はいつも誰もいなくて気持ちよさそう。」

青い自販機。
うちのマンションの真ん前にある自販機だ。
でも私は写していない。
空しか写していない。
どこにも自販機なんて入っていない。
私はベランダに出て下を見た。
自販機は朝の光の中に立っていた。
青い箱。
その前には誰もいなかった。
ただ朝の道があるだけだった。
息が浅くなった。
心臓が嫌な音を立てていた。
私はベランダの手すりをにぎったまましばらく動けなかった。
朝の光がまぶしかった。
ふつうの朝だった。
子どもの声。
車の音。
遠くの踏切。
何もかもがいつもどおりだった。
なのにその「いつもどおり」の景色のどこかに私を見ている目がある。
そう思うと世界ぜんぶがこわくなった。
青空も。
自販機も。
向かいの窓も。
ぜんぶが誰かの目のように見えた。
私は部屋に戻ってカーテンを閉めた。
それからもう一度そっと開けて下を見た。
自販機の前にはやっぱり誰もいない。
でも誰もいないことが今はいちばんこわかった。
姿が見えないだけでそこにいる。
私にはもうそうとしか思えなくなっていた。
その日から私は窓をふさいだ。
昼でも電気をつけた。
外の光より誰かの目のほうがこわかった。
家の中はどんどん暗くなっていった。
それでも見られている気がした。
暗くしても。
隠れても。
ことりはいつでも私を見つけるのだから。
私はためしにスマホの電源を切ってみた。
それでも見られている気配は消えなかった。
機械を切っても誰かの目は消えない。
そんなはずないのに。
暗くなった画面に自分の顔が映った。
その顔がこちらをじっとのぞき返していた。
まるで画面の奥に誰かがいるみたいに。
私は急いで画面を伏せた。
伏せてもまだ見られている気がした。
私はことりさんに返信しなかった。
代わりにその夜の食卓で拓海に話した。
「ねえ。ことりさんがねうちの下の自販機のこと知ってたの。私空しか写してないのに」
拓海は箸を止めなかった。
「偶然だろ。このへんの天気なんて近所の人ならみんな分かるよ」
「でも自販機の色まで知ってたの。青いって」
「莉子さ」
拓海はゆっくり私を見た。
「そういうの気にしすぎだよ。前から言ってるだろ。SNSなんてやめたほうがいい。知らない人に暮らしを見せていいことなんかないんだ」
やさしい声だった。
怒ってはいなかった。
ただ静かにそう言った。
私はうなずいた。
たしかに気にしすぎかもしれない。
そう思おうとした。
思おうとして眠れなかった。
7
次の朝だった。
ことりさんが私の前の日の投稿にコメントしていた。
「室外機の上猫が来るんですね。莉子さんちのベランダ居心地がいいんだろうなあ。」

室外機の上に猫が来る。
それは本当だ。
朝になると野良の三毛が一匹来て丸くなる。
でも私は一度もそれを投稿していない。
写真にも撮っていない。
ストーリーにも上げていない。
私がその話をしたのは拓海にだけだった。
ゆうべの食卓で。
自販機の話のついでに。
「そういえば室外機に猫が来るのよ。かわいいの」と。
それだけだ。
口に出しただけだ。
ことりさんはそれを知っていた。
翌朝には。
私は台所に立ったまま動けなくなった。
包丁を持つ手が止まっていた。
鶏肉の上で。
ことりさんは私を見ている。
聞いている。
家の外から。
それとも。
私は窓を見た。
カーテンの隙間。
向かいのマンションの窓。
ベランダの手すり。
どこかに目があるような気がした。
誰かが息をひそめてこちらを見ているような気がした。
私はカーテンをぴったり閉めた。
それでも布の向こうに誰かが立っている気がした。
見えないだけでずっとそこにいる気がした。
私が見ていないあいだも。
私が眠っているあいだも。
カーテン一枚隔てただけのすぐそこに。
でもどこにもなかった。
あるはずがなかった。
その日から私はカーテンを少しも開けなくなった。
昼でも。
晴れていても。
家の中は一日じゅう薄暗かった。
私は夜が来るのがこわくなった。
ひなを寝かせて台所の灯りを落とすと部屋がやけに広く感じた。
誰かがこの部屋のどこかにいる気がした。
でもいない。
いるはずがない。
鍵はかけた。
チェーンもかけた。
何度も確かめた。
確かめるたびに思った。
鍵は外から入ろうとする人を止めるためのものだ。
でももし。
もしその人がもう中にいるのだとしたら。
鍵をかけることは私をその人と同じ部屋に閉じ込めることになる。
私はその考えを振り払った。
ばかげている。
ここには私とひなと拓海しかいない。
それだけだ。
それだけのはずだ。
8
私はことりさんのプロフィールを何度も見た。
何もない。
写真もない。
投稿もない。
ただ私を見ている。
ストーリーズには閲覧者の一覧が出る。
誰が見たか分かる仕組みだ。
私はそれを開いた。
一番上にことりがいた。
いつも一番上だった。
何を上げても数十秒で一番上に並ぶ。
私が寝ている間も。
私が出かけている間も。
たぶん私が画面を見ていないあいだもずっと。
そういえばと思い出したことがある。
少し前に私は自撮りを一枚だけ上げた。
めずらしく顔を出した日だった。
メガネをかけていた。
その日ことりさんはこう書いた。
「メガネに映ってる夕焼けきれいですね。公園の観覧車かな。」
私はそのとき気にしなかった。
でも今は分かる。
ことりさんは私のメガネのレンズに映った景色まで見ていた。
小さな小さな反射の中の世界まで。
拡大して。
どこの公園か当てるために。
私は怖くなって調べた。
スマホで「SNS 居場所 特定」と打ち込んだ。
出てきた記事に血の気が引いた。
ある男は自撮りの瞳に映った景色を拡大した。
駅の屋根の形。
線路の本数。
それだけで最寄り駅を割り出した。
そして待ち伏せた。
ある男は配信の窓から入る光の角度で部屋の階を当てた。
そしてその階の部屋のチャイムを端から順に押していった。
本人が出るまで。
写真に写った電柱には小さな住所の札がある。
マンホールの絵柄は町ごとに違う。
宅配の送り状には名前と住所がそのまま書いてある。
数千円払えば他人の住所を教える「特定屋」がいるという。
本名がいくら。
住所がいくら。
誰でも買える。
私の住所も。
私は検索の画面を指で閉じた。
知らなければよかったと思った。
でも知ってしまったらもう戻れなかった。
道を歩く人がこわくなった。
スマホのカメラがこわくなった。
誰かのサングラスに映る自分の姿がこわくなった。
世界じゅうのつるつるした表面が私を映していた。
そのどれかの中にことりがいる気がした。
私は自分の過去の投稿をさかのぼった。
何百枚もあった。
窓に映った向かいの建物。
ひなの上着に貼られた名前のシール。
スーパーのレシート。
玄関に置いた宅配の箱。
雨の日の「今ひどい雨」の一言。
地震のときの「揺れた」の一言。
全部そこにあった。
私は自分で自分の居場所を毎日少しずつ差し出していた。
何年もかけて。
笑顔で。
ありがとうと言いながら。
私は眠れなくなった。
夜中に何度も起きて自分の過去の投稿を確かめた。
この写真から何が分かるだろう。
この一言でどこまでバレるだろう。
犯人の目で自分の暮らしを見直した。
そうすると何もかもが手がかりに見えた。
ベランダから見える向かいの非常階段の形。
ゴミ出しの曜日が分かる朝の一枚。
ひなの図画に書かれた幼稚園の名前。
私は自分のすべてを知らない誰かの前に並べていた。
何年も。
毎日。
これを見てと言いながら。
私はアプリを開くのがこわくなった。
でも開かずにもいられなかった。
ことりが今日も見ているか確かめずにいられなかった。
見られているのがこわい。
なのに見られていないと不安になる。
私はもう自分でも自分が分からなくなっていた。
9
私は対策を打った。
まずアカウントを鍵にした。
承認した人にしか見えないようにする。
これでもう知らない人には見られない。
そう思った。
でもことりは中にいた。
とっくに承認した相手だった。
親しい友達の。
いちばん奥の。
私が自分で入れた人だった。
私はことりをフォロワーから削除した。
次の日にはまた中にいた。
名前のうしろの数字だけが少し変わって。
私は投稿する時間を変えた。
朝のものを昼に。
昼のものを真夜中に。
規則性をなくせば生活が読まれない。
そう思った。
でも何時に出しても数十秒で一番に「いいね」がついた。
ことりだった。
まるで私がいつ投稿するか分かっているみたいに。
私自身がボタンを押す前から待っているみたいに。
私は古い写真を消しはじめた。
住所の手がかりになりそうなもの。
窓。
レシート。
箱。
表札。
一枚ずつ消した。
何百枚も。
夜中じゅうかけて。
消し終えて画面を見た。
真っ白に近くなった私のページ。
そのとき新しいメッセージが来た。
「写真消しちゃったんですね。少しさびしいです。でも大丈夫。だいじなものは全部もう見ましたから。ぜんぶ覚えています。」
私は何もできなくなった。
逃げ道を塞ぐたびに。
塞いだことごと見られていた。
先回りされていた。
ずっと。
何をしても無駄だった。
鍵にすればもう中にいた。
時間を変えれば待っていた。
消せばもう見たと言われた。
名前を変えれば翌朝には見つけられた。
私は檻の中にいるみたいだった。
どこにも逃げ場がなかった。
そしてその檻を作っているのは私自身だという気がした。
私が何かするたびに格子が一本ずつ増えていく。
ことりはただそれを見ていればよかった。
私が自分で自分を閉じ込めていくのを。
私はもう戦うのをやめたかった。
でもやめたらことりにぜんぶ明け渡すことになる。
やめてもやめなくてもことりはそこにいた。
私の毎日のまんなかに。
気づけば私は一日じゅうことりのことを考えていた。
怖がりながら待っていた。
今日は何を言ってくるだろうと。
私の世界はいつのまにかことりでいっぱいになっていた。
憎んでいるのか頼っているのか自分でも分からなくなっていた。
10
「お礼をさせてください」
ことりさんからのメッセージはいつも夜に来た。
ひなが眠ったあとの時間に。
まるで私が独りになるのを知っているみたいに。
「莉子さんの投稿にいつも元気をもらっています。ささやかですがプレゼントを送らせてください。よかったらご住所を教えていただけませんか。お返しがしたいんです。」
ていねいな言葉だった。
悪意なんてどこにもないように見えた。
善意そのものの顔をしていた。
でも私は記事を読んだあとだった。
住所を聞き出す。
それがどういうことか分かってしまった。
私は震える指で返した。
「お気持ちだけで十分です。ありがとうございます」
既読がついた。
返事はなかった。
その沈黙がいちばん怖かった。
返事がないほうがこわかった。
怒鳴られたほうがまだよかった。
何も言わずにただ見ている。
私が断ったことを。
私が怯えていることを。
ことりは黙って見ていた。
画面の向こうで。
たぶんすぐ近くで。
その夜ことりさんから最後にもう一通だけ来た。
「すみません。困らせてしまいましたね。でも一つだけ言わせてください。莉子さんは眠るとき左の頬を枕につけるでしょう。子どもみたいでかわいいなっていつも思っています。よく眠れますように🌙」

私は声を上げそうになった。
口を手でふさいだ。
左の頬を枕につけて眠る。
私の寝方だ。
子どものころからの癖だ。
誰にも言ったことがない。
写真にも撮れない。
寝室の窓にはカーテンがある。
夜はいつも閉めている。
誰も見ていないはずだ。
私はスマホを伏せて寝室を見回した。
カーテンの隙間。
クローゼットの扉。
ベッドの下の暗がり。
何もない。
あるはずがない。
でもことりさんは知っていた。
私がどう眠るかを。
眠っている私を間近で見たことのある人だけが知っていることを。
その夜私は一睡もできなかった。
ひなを抱いてリビングの隅で朝まで座っていた。
電気はぜんぶつけた。
それでも暗い場所があるような気がした。
クローゼットの中。
ベッドの下。
カーテンのうしろ。
夜が明けるころ拓海が起きてきた。
「どうした。こんなところで」
私は何も言えなかった。
寝方のことを話したら。
あの人が私の眠る姿を見ていると話したら。
拓海はどんな顔をするだろう。
なぜかそれを見るのがこわかった。
だから私は「眠れなかっただけ」と言った。
それから三日後だった。
玄関のチャイムが鳴った。
宅配だった。
小さな箱が一つ。
差出人の名前はなかった。
ただ「いつもありがとう」と書いた紙が貼ってあった。
私は受け取ってしまってから手が止まった。
住所。
誰にも教えていないこの部屋の住所。
それなのに箱はちゃんとここに届いた。
私の名前で。
この部屋に。
私は箱を開けられなかった。
食卓に置いたままずっと見ていた。
中で何かが動く気がした。
そんなはずないのに。
夜帰ってきた拓海が箱に気づいた。
「なにこれ」
「分からない。差出人がなくて」
拓海は少しのあいだ箱を見ていた。
それからひょいと持ち上げた。
「気持ち悪いな。捨てとくよ。莉子は見なくていい」
そう言って箱を持って外に出ていった。
私は中身を見ていない。
今でも何が入っていたのか知らない。
拓海は「ただのいたずらだよ」と言った。
私はそれ以上聞かなかった。
聞きたくなかった。
11
おかしくなったのは私の周りだった。
ある日母から電話が来た。
めずらしく怒っていた。
「あんた夜中に変なメッセージ送ってきたでしょう。お金を貸してほしいとか。どうしたの。何かあったの」
「送ってないよ」
「莉子の名前だったよ。写真もあんたとひなちゃんのだったよ」
私は送っていない。
私の名前と私たちの写真で誰かが母にメッセージを送っていた。
幼稚園で一度だけ話したママ友からも連絡が来た。
「莉子さんのアカウントからDM来たんだけどこれ本物? なんか家族のこといろいろ聞かれて」
送られてきた画面には私のアイコンがあった。
私の名前があった。
でも私が打っていない言葉が並んでいた。
私の口調をまねた言葉が。
私になりすました誰かがいた。
私の顔をして。
私の名前をして。
私の知り合いにひとりずつ近づいていた。
私のふりをして情報を集めていた。
私はぞっとした。
ことりは私を見ているだけではなかった。
私になろうとしていた。
私の代わりになろうとしていた。
なりすましのアカウントを私は見つけて見てしまった。
私のアイコン。
私の名前。
私が昔あげたひなの写真。
そこに私が書いていない言葉が並んでいた。
私の口調で。
私のふりで。
「最近こんなことがあって」
「うちの主人がね」
「ひなが今度の学校で」
知らない私が知らない誰かと親しげに話していた。
私の人生を勝手に生きていた。
私よりずっと上手に。
ぞっとした。
あれは私だった。
でも私じゃなかった。
鏡の中の自分が勝手に動き出して笑っているみたいだった。
私という人間をまるごと誰かが着ていた。
その朝のことだった。
ひなを送り出してふと下を見た。
青い自販機の前に人が立っていた。
こちらを見上げているように見えた。
私はカーテンを閉めた。
もう一度そっと開けたときには誰もいなかった。
気のせいかもしれない。
でも足が震えていた。
その週私はどうしても外に出なければならなかった。
ひなの薬が切れていた。
拓海は仕事だった。
私はひさしぶりに玄関を出た。
歩きはじめてすぐ背中がぞわりとした。
誰かに見られている。
振り返ってもいつもの道があるだけだった。
郵便配達。
犬を連れた老人。
ベビーカーの母親。
みんなふつうの人だった。
でもそのうちの誰かが私を見ている気がした。
薬局でも感じた。
レジに並んでいるあいだ。
背中に視線があった。
振り返ると棚のあいだに誰かが立っている気がした。
目が合った気がした。
でもすぐにいなくなった。
帰り道は走った。
鍵を開ける手が震えた。
ドアを閉めてチェーンをかけてやっと息をついた。
そのときスマホが光った。
ことりだった。
「おかえりなさい。今日は寒かったでしょう。風邪ひかないでくださいね。」
私は外に出たことをどこにも書いていなかった。
ことりは知っていた。
私が外に出たことを。
私がいつ帰ってきたかを。
まるでずっと私のうしろを歩いていたみたいに。
あるいはずっと私の前にいて私の行く先を先に知っていたみたいに。
その夜も拓海は私を抱きしめてくれた。
「ひどいやつもいるもんだな。でも大丈夫。おれがいる」
「ねえ警察に行ったほうがいいかな」
「証拠もないのに行ったって何もしてくれないよ。それより莉子もうこんなのやめよう。家にいよう。な?」
拓海の言うことはいつも正しかった。
正しすぎて私は何も言い返せなかった。
次の日姉から電話が来た。
姉も私の名前のメッセージを受け取っていた。
「莉子あんた本当に大丈夫なの。様子が変だってお母さんも心配してる。一回こっちに帰ってきたら?」
私は「大丈夫」と言った。
何が大丈夫なのか自分でも分からなかった。
その週幼稚園で一緒だったママ友から誘いが来た。
「久しぶりにお茶しませんか。子どもたち別の学校になっちゃったし。」
私はうれしかった。
誰かとちゃんと顔を合わせて話したかった。
行くつもりだった。
でも夜拓海に話すと顔が曇った。
「今外に出ないほうがいいよ。誰が見てるか分からないだろ。そのママ友だって本当に本人か分からない。なりすましかもしれない」
「でも」
「莉子。おれは莉子が心配なんだ。何かあってからじゃ遅い。家にいてくれよ。な?」
私はお茶を断った。
「ごめんなさいまた今度」とだけ送った。
ママ友からの返事はそれきり来なかった。
気づけば私が話す相手は拓海とことりだけになっていた。
外の世界が少しずつ遠くなっていった。
拓海はそれを「守っている」と言った。
12
私はことりをブロックした。
設定の画面で「ブロック」を押すだけ。
たったそれだけのことだった。
指が震えた。
押したあと少しだけ息ができた気がした。
その夜は久しぶりに眠れた。
翌朝アプリを開いた。
新しいフォロワーがひとり増えていた。
表示名は「ことり。」
うしろに点がひとつ付いているだけ。
アイコンは空の写真。
プロフィールには何も書いていない。
投稿はゼロ。
すぐにメッセージが来た。
「ブロックされちゃいましたね。さびしいです。でも莉子さんを見守るのをやめられないんです。だってもう莉子さんのいない毎日なんて考えられないから。よく眠れますように🌙」
同じだった。
文章のクセも。
最後の言葉も。
全部同じだった。
私はもう一度ブロックした。
次の日また別の名前で戻ってきた。
「小鳥」。
「ことり同好会」。
「言葉のないことり」。
名前を変えて何度でも戻ってくる。
アイコンはいつも空の写真。
私は設定をぜんぶ見直した。
非公開にして。
コメントを制限して。
DMをフォロー外から受け取らないようにして。
できることは全部やった。
それでもことりは入ってきた。
まるで私のアカウントの作り方を私より知っているみたいに。
私が一つ壁を作るとその壁の内側から「こんばんは」と声がした。
もう外と中の区別がなくなっていた。
私が必死に閉めている扉のすべての内側にことりがいた。
最初からいたのかもしれない。
私が鍵をかけはじめるずっと前から。
そのたびに最後はこう締めくくる。
「よく眠れますように」
私はアカウントの名前を変えた。
アイコンも変えた。
プロフィールも消した。
それでも翌朝には新しいことりがフォロワーにいた。
何をしても。
どこに逃げても。
ことりはいつも私を見つけた。
まるで私の居場所を初めから知っているみたいに。
私は眠れなくなった。
物音がするたびに飛び起きた。
冷蔵庫の音。
水道管の音。
ひなの寝返り。
全部が足音に聞こえた。
昼間もカーテンの隙間が気になった。
ベランダに出るのがこわくなった。
郵便受けを開けるのがこわくなった。
電話が鳴るのがこわくなった。
拓海はそんな私を抱きしめて言った。
「ひどい顔してるよ。ちゃんと寝てるか?」
「眠れないの」
「病院行こうか。おれが付き添うよ。莉子は一人で行かなくていい」
どこへ行くにも拓海が付いてきた。
買い物も。
病院も。
ひなの送り迎えも。
私は一人になることがなくなった。
それをありがたいと思っていた。
13
私は警察に相談に行った。
若い警官は親身に話を聞いてくれた。
私はスクリーンショットを順番に見せた。
自販機のこと。
室外機の猫のこと。
寝方のこと。
なりすましのこと。
名前を変えて戻ってくること。
警官はメモを取りながら聞いていた。
そして申し訳なさそうに言った。
「具体的に危害を加えられたというわけではないんですよね。脅迫の文言もない。これだとこちらも動きにくくて」
「でも私の寝方まで知ってるんです。家の中のことを」
「直接そう書いてあるだけで家に侵入された痕跡があるわけではないですよね」
「住所も聞かれました」
「でも教えていないんですよね。だったら今のところは様子を見ていただくしか」
何かあったらすぐ連絡してくださいと言われた。
何か。
何かが起きてからでないと誰も動けないのだ。
何かが起きたときにはもう遅いのに。
私は紙を一枚渡されて帰った。
相談した記録の控えだった。
それだけだった。
家に帰って拓海に話した。
拓海はため息をついた。
「だから言っただろ。あんなものやめときゃよかったんだよ」
そして私の肩を抱いて言った。
「もういい。おれが守るから。莉子は何も心配しなくていい」
あたたかい腕だった。
私はその腕の中で声を上げて泣いた。
このひとだけが味方だ。
そう思った。
このひとだけが私のそばにいてくれる。
警察も動かない。
母も姉も遠い。
ママ友ももういない。
助けてくれる人はどこにもいなかった。
いるのは拓海だけだった。
私はだんだん外の世界を信じられなくなった。
道で誰かとすれ違うのもこわい。
スーパーの店員の目もこわい。
宅配の人の声もこわい。
誰がことりなのか分からないから。
世界じゅうの人がことりに見えた。
そういうとき拓海だけが安全だった。
拓海の腕の中だけが唯一こわくない場所だった。
私は拓海にしがみついた。
ほかにすがるものがなかった。
14
桜が散るころひなが小学校に上がった。
入学式の朝。
私は門の前でひなの写真を撮った。
うしろの校舎は写らないように。
校門の表札も入らないように。
ランドセルのタグも見えないように。
何度も確かめてから撮った。
アカウントはもう鍵にしている。
位置情報も切ってある。
顔も最低限しか出していない。
それでも一枚だけ。
ひなの晴れ姿を残したかった。
親しい友達にだけ見せるつもりで上げた。
その日の夜にメッセージが来た。
「ひなちゃんご入学おめでとうございます。桜が丘小学校いい学校ですよね。制服よく似合ってる。これから毎朝あの通学路を歩くんですね。」
桜が丘小学校。
私はどこにも書いていない。
表札も写していない。
学校の名前を出したことは一度もない。
それなのにことりは知っていた。
通学路まで。
私はひなを学校に送るたびにまわりを見るようになった。
門の前に立つほかの親たち。
信号で待つ知らない大人。
公園のベンチに座る誰か。
このなかにことりがいるかもしれない。
ひなを見ているかもしれない。
私はひなの手を強くにぎった。
「知らない人に話しかけられてもついていっちゃだめだよ」
ひなは「うん」と言った。
それから不思議そうに私を見上げて言った。
「ママこわい顔してる」
私は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
その夜のことを私はずっと忘れない。
食卓で拓海がひなに言ったのだ。
「桜が丘小楽しいか?」
ひなが笑ってうなずいた。
ごく普通の夜だった。
父親が娘に学校のことをたずねる。
それだけの夜だった。
私はそのとき何も思わなかった。
今になって思い出すだけだ。
何度も。
何度も。
15
私はそこで初めて思い出した。
ことりはずっと私の「親しい友達」だった。
去年の秋。
ことりが誰より優しかったあのころ。
私は自分でことりを親しい友達のリストに入れた。
緑の輪のつくいちばん近い場所に。
そのリストの人にだけ見せるストーリーがある。
家の中の動画。
ひなの寝顔。
夕飯の支度をする手元。
鍵を開ける音。
窓の外の朝。
私はそれを全部ことりに見せていた。
自分から。
うれしそうに。
見ていてくれてありがとうと言いながら。
外そうとした。
リストからことりを消した。
でも何度ブロックしても新しいことりが戻ってくる。
そのたびに気づくとまた親しい友達に並んでいた。
緑の輪をつけて。
まるで初めからそこにいる権利があるみたいに。
私の家族のような顔をして。
ずっと前からこの家にいたみたいに。
私は自分のストーリーの「親しい友達」のリストをもう一度開いた。
緑の輪。
そこに見せてきた動画を一つずつ思い出した。
ひなの寝顔。
お風呂上がりのひな。
夜鍵を閉める私の手。
眠る前の暗い寝室。
知らない誰かに私は家の中をぜんぶ見せていた。
いちばん無防備な時間を。
いちばん見られたくない瞬間を。
どうぞと言って。
私は震える指で親しい友達のリストを空にした。
全員外した。
これでもう誰も家の中を見られない。
次の朝リストにはまたことりがいた。
緑の輪をつけて。
私が入れた覚えはなかった。
16
その夜だった。
ひなを寝かしつけたあと私はリビングでスマホを見ていた。
拓海はお風呂に入っていた。
水の音がしていた。
メッセージが来た。
「ひなちゃん眠るとき指をしゃぶるんですね。右の親指。タオルを左手でにぎって。かわいい。」

私は立ち上がった。
椅子が音を立てて倒れた。
ひなの寝相は寝室でしか見えない。
ドアを開けて入口に立って覗き込まなければ見えない。
あの角度でしか見えない。
私はそろそろと寝室の扉を開けた。
ひなは眠っていた。
右の親指を口に入れて。
左手でタオルをにぎって。
部屋には誰もいなかった。
窓のカーテンは閉まっていた。
鍵もかかっていた。
ただ入口に立つと。
ちょうどそこに立って見下ろすと。
ひなの寝顔がいちばんよく見えた。
誰かが毎晩そこに立っているみたいに。
ずっとそこから眠る私たちを見下ろしているみたいに。
お風呂の水音が止まった。
拓海が出てくる気配がした。
私はあわてて扉を閉めた。
なぜ閉めたのか分からない。
ただ見られたくなかった。
誰に。
それも分からなかった。
その週からおかしなことが続いた。
夜中にチャイムが鳴った。
出ると誰もいなかった。
モニターには暗い廊下だけが映っていた。
朝玄関を開けると不在票が落ちていた。
覚えのない便だった。
差出人の欄は空白だった。
ベランダの室外機の上に煙草の吸い殻が一本あった。
私も拓海も吸わない。
三階のベランダに。
猫がいつも丸くなるあの場所に。
いちばん怖かったのはある夜のことだ。
私は浅い眠りの中で音を聞いた。
玄関のほうだった。
鍵がそっと回る音。
カチャという小さな音。
それからドアが静かに閉まる気配。
私は布団の中で固まった。
目だけを開けた。
隣を見た。
拓海がいなかった。
布団がめくれていた。
廊下をゆっくりと足音が近づいてきた。
寝室の前で止まった。
誰かが扉のすぐ外に立っている。
息を殺すようにして。
私は寝たふりをした。
左の頬を枕につけたまま。
動けなかった。
足音はしばらくそこにいた。
それからそっと離れていった。
朝私は拓海に聞いた。
「ゆうべ外に出た?」
拓海はコーヒーを飲みながら答えた。
「いや。ずっと寝てたよ。莉子こそ眠れてないんじゃないか。顔色悪いよ」
心配そうな目だった。
やさしい目だった。
私は何も言えなかった。
あの足音は夢だったのかもしれない。
そう思うことにした。
そう思わないとこの家で眠れなくなるから。
それからは家の中の小さなことが気になるようになった。
朝コップが一つ流しに伏せてあった。
私が使った覚えのないコップ。
拓海は「自分で使っただろ」と言った。
そうかもしれない。
覚えていないだけかもしれない。
玄関の私のスリッパの向きがいつもと逆になっていた。
ひなのお菓子が少し減っていた。
タオルの位置がずれていた。
どれも小さなことだった。
気のせいで済むことだった。
でもその小さなことが毎日一つずつ増えていった。
まるで私の知らないあいだに誰かがこの家で暮らしているみたいに。
私と同じ時間を少しだけずらして。
一度だけ思いきって拓海に言ったことがある。
「ねえ。この家に私たちのほかに誰かいる気がするの」
拓海は箸を止めた。
そしてゆっくりと笑った。
「何言ってるんだ。いるわけないだろ。おれと莉子とひなだけだよ」
やさしい声だった。
「疲れてるんだよ。少し休んだほうがいい」
私はうなずいた。
そうだ。
いるわけがない。
この家には三人しかいない。
拓海がそう言うのだから。
でもその夜から私は眠る前に寝室のクローゼットを開けて中を確かめるようになった。
ベッドの下も覗くようになった。
誰もいない。
毎晩誰もいない。
それでも確かめずにいられなかった。
確かめたあともずっと見られている気がした。
布団に入って目を閉じても。
すぐ近くで誰かが静かに息をしている気がした。
私の寝息に合わせるように。
17
私は犯人を探しはじめた。
眠れない夜に過去の投稿を一件ずつ開いた。
「いいね」の一覧を確かめた。
そこに一つだけずっと気になるアカウントがあった。
「@run_8848」。
アイコンなし。
投稿なし。
私の何年も前の写真にまで点々と「いいね」をつけている。
これだ。
私はそう思った。
こいつがことりだ。
やっと見つけた。
私はその夜ほとんど眠らずにそのアカウントを調べた。
いいねがついた時間をぜんぶ書き出した。
並べるとある規則が見えた。
深夜が多かった。
午前三時すぎ。
私が眠れずに起きているあの時間。
そのころ拓海はいつも隣にいなかった。
別の部屋で仕事をしていると言っていた。
私はその二つを結びつけなかった。
結びつけることができなかった。
結びつけてしまったら。
そのあとのことが考えられなかった。
私は夜中までかけてスクリーンショットを集めた。
投稿の時間。
いいねの履歴。
ことりが現れた日とこのアカウントが動いた日。
全部つなげれば誰か分かるかもしれない。
朝になって私は拓海にそれを見せた。
早口で説明した。
指が震えていた。
拓海は黙って画面を見ていた。
それから静かにスマホを置いて言った。
「莉子。もう疲れてるんだよ」
「違う。これがことりなの。やっと見つけたの」
「こんなの誰だか分かるわけないだろ。素人が調べたって。おれが調べてやるから。莉子はもう寝なさい」
拓海は私のスマホを持って別の部屋に行った。
ドアを閉めて。
ずいぶん長いあいだ戻ってこなかった。
私はドアの前で待った。
ただ画面を見るだけならこんなに時間はかからないはずだった。
何かを消しているみたいだった。
あるいは何かを確かめているみたいだった。
私のスマホで。
私のアカウントで。
低い声で何か話しているような気がした。
でも気のせいだと思った。
そういえばと思い出すことがある。
ことりからのメッセージはいつも拓海がいない時間に来た。
拓海が残業の夜。
拓海がお風呂に入っているあいだ。
拓海が別の部屋にこもっているとき。
拓海が私のそばにいるあいだはことりは静かだった。
まるで二人が同時にはいられないみたいに。
私はそのことにずっと気づかなかった。
気づきたくなかったのかもしれない。
次の日。
拓海は仕事から帰るとこう言った。
「あのアカウントただのファンだったよ。古い投稿が好きなだけの人。何もしてない。心配いらない」
「でも」
「莉子。もうやめよう。アカウントを消すんだ」
拓海は私の両手を握った。
「何も出さなければ誰にも見られない。家にいれば誰も入ってこられない。おれがいる。な?」
正しいことを言っていた。
何ひとつ間違っていなかった。
ただ私はなぜか背筋が冷たくなった。
理由は分からなかった。
拓海の手はあたたかかったのに。
18
その夜私はアプリを開いた。
最後にもう一度だけことりからメッセージが来ていた。
「消しちゃうんですね。さびしいな。でも莉子さんが家にいてくれるならそれでいいんです。もう外に出なくていい。誰にも見せなくていい。ずっとそばにいられるから。よく眠れますように🌙」

私は震える指でアカウントを削除した。
本当に削除しますか。
はい。
六千人が消えた。
ことりも消えた。
画面が真っ白になった。
六千の声が消えた。
私の鶏むね肉も。
半額のシュークリームも。
ひなの制作も。
名前のない夕暮れも。
ぜんぶ消えた。
何年もかけて作った私の小さな世界。
さびしさを埋めるために少しずつ並べてきたもの。
それを自分の手でゴミ箱に捨てた。
私はもう一度誰でもない人に戻った。
誰にも見られない。
誰にも見つけられない。
そのはずだった。
私は声を出して泣いた。
やっと終わった。
やっと安全になった。
これでもう誰も私を見られない。
拓海がうしろから私を抱きしめた。
「えらかったな」
そう言って頭をなでてくれた。
あたたかい手だった。
「これでもう大丈夫だ。莉子はずっと家にいればいい。買い物もひなの送り迎えもおれが全部やる。莉子は何も心配しなくていい。外のことはぜんぶおれがやるから」
「莉子はここにいればいい。ずっとここに。おれだけが莉子のそばにいる。おれだけが莉子のことを分かってる」
拓海はそう言ってもう一度私を抱きしめた。
強く。
少しだけ強すぎるくらいに。
私はその腕の中でふと思った。
この言葉をどこかで聞いた気がする。
ついこのあいだ。
誰かにまったく同じことを言われた気がする。
でも誰だったか思い出せなかった。
思い出してはいけない気がして私は目を閉じた。
私はうなずいた。
涙が止まらなかった。
このひとがいてくれてよかった。
心からそう思った。
その夜私はひさしぶりにぐっすり眠った。
ことりはもういない。
誰も私を見ていない。
そう思うと体の力が抜けた。
でも朝目が覚めてふと思った。
私はもう誰にも見えない。
アカウントを消したから。
外に出ないから。
私がここにいることを知っている人はもうほとんどいない。
この世界で私がどこにいるかを知っているのは拓海だけだ。
たった一人。
それは安心だろうか。
私はそのことを深く考えないことにした。
19
アカウントを消してから私の生活は静かになった。
スマホを見る時間が減った。
見せるものが何もなければ誰も私を見つけられない。
ことりのメッセージはもう来ない。
当たり前だ。
私はもう何も発信していない。
ひなは学校に慣れた。
拓海は前より早く帰るようになった。
「もう残業はいいんだ。家にいたいから」
そう言って笑う。
買い物は拓海がしてくれる。
ひなの送り迎えも拓海がする。
私はほとんど外に出なくなった。
出る必要がなくなった。
家にいれば安全だから。
私は守られている。
そう思った。
そう思おうとした。
家の中だけが私の世界になった。
朝ひなを送り出すのは拓海。
買い物に行くのも拓海。
夜戸締まりをするのも拓海。
私はただ家にいた。
だんだん外がどんなふうだったか思い出せなくなった。
鏡を見ると知らない女がいた。
痩せて目が落ちくぼんで。
これが私だろうか。
声を出さない日がまた続いていた。
でももうさびしくはなかった。
拓海がいる。
ひながいる。
それで十分だった。
十分だと思い込むことにした。
たまに思い出す。
ことりは結局誰だったのだろう。
あんなに私のことを知っていた。
窓の外の自販機。
室外機の猫。
メガネに映った夕焼け。
ひなの学校。
ひなの寝相。
左手のタオル。
私の左の頬の寝方。
ぜんぶ家の中のことだった。
外からでは分からないことばかりだった。
いちばん近くにいなければ知りようのないことばかりだった。
私はその意味を考えないようにした。
家の中のことを知っているのは家の中にいる人だ。
そんなこと当たり前だ。
当たり前すぎてこわかった。
だから考えなかった。
考えないことがいちばん楽だった。
でも私は考えるのをやめた。
もう終わったことだ。
家の鍵は二つある。
カーテンはいつも閉めている。
ここには私たち三人しかいない。
それでいい。
それがいちばん安全だ。
20
その夜のことだった。
ひなを寝かしつけて私は寝室に入った。
拓海が先に布団に入っていた。
読みかけの本を閉じて私を見た。
やさしい目だった。
私は電気を消して横になった。
いつものように左の頬を枕につけた。
そうすると安心して眠れる。
子どものころからの癖だ。
誰にも言ったことのない癖だ。
拓海が暗闇の中で私の髪をなでた。
そして言った。
「莉子は昔から眠るとき左の頬を枕につけるよな」
小さく笑う気配がした。
「子どもみたいでかわいいよ。ずっとそう思ってた」
私は目を閉じたまま微笑んだ。
このひとは私のことを何でも知っている。
こんなに近くにいてくれる。
ずっとそばにいてくれる。
「よく眠れますように」
拓海が言った。
私はもう何も怖くなかった。