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Photo byhidemaro2005

書くとは選び、削り、余白を残す

     日本庭園に足を踏み入れる前、離れたところにある東屋の檜が鼻をくすぐる。
     わたしの中から「おかえり」と声がするような、凛とした懐かしい香りが迎えてくれる。

     入場門を潜れば、そこはパノラマの絵画。
    陽を弾く青々とした芝生の向こうに、紅葉は際に広がる錦織の絨毯。景色を際立たせている。

     通路の端に溜まった落ち葉までもが静謐の構図をつくり、わずかな風に揺れるたび、音のない音楽を奏でている。

     ここにあるのは自然だけど、人の手によって整えられたもの。

     だが不思議と、人工と自然の境界を問う気持ちは起きない。ただ、美は美なのだと、矛盾にさえ寛容になれる。それがアートなのだと納得する。

     日陰に入れば、肌寒さに鼻先を動かす土の匂いが濃くなる。

     苔は湿り気を帯び、庭全体を静かに呼吸させているようだ。湧水が音も立てずに池へと流れ込み、その水面には風に散った紅葉が揺れながら浮かんでいる。

     池には半円を描いた太鼓橋がかかり、季節の移ろいを黙って見守る。

     襖ほどの大きさの石から、人の背丈ほどもある石までが無造作に置かれ、両腕を伸ばしたような松の枝が、訪れる者を包み込むように傘を広げる。

     その無造作もまた、計算の中にある。
    余白を残すからこそ、苔や落ち葉、雨粒や風といった偶然が生きてくる。

     アートとは、制御と偶然のあわいに立ち現れるものなのだと、この庭が語りかける。

     秋という季節は、もの悲しい。
    春や夏が芽吹きや繁りを謳歌するのに対して、秋は散りゆく・枯れていく・静まっていく。

     自然の衰退を美しいと感じる感性こそ、日本庭園と深く通じ合っている。失われていくものを美に変える。
    それが秋のアートなのかもしれない。

     そして、創作もまた同じだと思う。
    言葉を選び・削り・残した余白に読者の想像が入り込む。

     書ききれなかった部分、消してしまった言葉さえ、作品の一部として息づいていく。
    だから、書くことは秋の庭園に似ている。
    完成を求めすぎず、欠けや空白を抱えたまま美を含み持つ。

     庭に立ち尽くすと、ひとひらの葉が風にさらわれ、水面に落ちて小さな波紋を描いた。
     刹那の落葉を見届けるわたしもまた、この風景の一部なのだろう。
    その狭間、わたしは確かにアートを見ていた。

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    ©️ももまろうめこ
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    ©️ももまろうめこ
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    #灯火杯4th
    #花邑灯火さん

     
     
    人の淋しさは対象によって癒される、淋しさ わたしの淋しさは 万物でも癒されない定めの淋しさ 手に握る砂が指から零れてしまう 狂人には沈黙を、佳人には微笑みを わたしはわたしの道を歩んでいるだけなのに ©️ももまろうめこのnoteは私に著作権があります 無断転載禁止です

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