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Photo byhidemaro2005

あのとき泣いた私は、今もどこかにいる

     明日は一年半、会社勤めをしたレオ氏が退職する。春からは研修生として、今とは別の限界集落に住み、新しい道を進む。
     
     それに合わせて、自分では買わないお高めのお菓子を注文した。
    気を遣わせるかなと思ったけど、食事代なら妥当な金額。節目を祝う、重くならないギフトにした。
     
     気が重くなるかもしれない、という迷いと、
    それでも「節目だから」という判断。

     私が人に優しくするのは、自分がされたかったことをしているだけ。
    人に期待しないのは、学習済み。
     
     誕生日は春休み。
    お友達に誕生日プレゼントを渡す。
    でもあまり返ってこない。

     学習して、期待しなくなった。

     人に優しくしても、因果は回収されない。
    口から出るご立派な言葉を虚言として聞き流す耐性は、子どもの頃から身についていた。
     
     社会人になって、誕生日はただの平日に変わった。同期と共に机を並べて新入社員研修を受ける自分がいた。
     
     いつもなら、昼休憩は500円ランチなのに、その日は会社から少し歩くフレンチレストランに行こうと誘いを受けた。
     
    「誕生日だし、まあ、いいか」
    同期たちは私へ
    「好きなものを注文して」と言ってくる。
    財布の具合を考えながら、同期たちに多少合わせてメニューを選ぶ。
    「ももまろさん、誕生日なんだから遠慮しないの」

     みんな、いつ知ったの?

     当時、新入社員研修の際、受験票のような紙を机の端に置くのが決まりだった。
    それでか……。人に見られているんだな。

     料理が来る間、手のひらに収まる小さな包みを手渡され、「おめでとう」拍手までもらった。
     
     不覚にも泣いてしまった。

     笑いながら、涙がポタポタ流れて、
    でも照れるから笑ってしまう性。
    「ありがとう」と言いながら、これまでの誕生日、寂しかった思い出が日めくりのように浮かんできた。

     あのとき泣いた私は、今もどこかにいる。それだから今も、節目を見逃さない。

     人に優しくする理由は、今も変わらないかもしれない。

     
     
    人の淋しさは対象によって癒される、淋しさ わたしの淋しさは 万物でも癒されない定めの淋しさ 手に握る砂が指から零れてしまう 狂人には沈黙を、佳人には微笑みを わたしはわたしの道を歩んでいるだけなのに ©️ももまろうめこのnoteは私に著作権があります 無断転載禁止です

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