
29 半分だけ完璧な世界 女編
秘め事
次から次へと人が入れ替わる。
笑う。
頷く。
名前を呼ぶ。
その繰り返し。
まとめた髪の中に隠した骨伝導イヤホンから、小さく秘書の澤乃井の声が届く。
(次は○○グループの——)
視線は相手へ。
耳は澤乃井へ。
一瞬で情報を拾い、笑顔に変える。
「お会いできて光栄です。」
自然と口が動く。
また一人。
(お気をつけください。切れ者です。)
(だから、その切れ者が誰なの。)
心の中だけで返す。
(肩書きから先に教えて。)
澤乃井の情報は正確だ。
でも時々、肝心なものが抜けている。
疲れているせいだろうか。
少しだけ苛立つ。
もちろん顔には出さない。
ため息一つ吐けない場所だ。
そんな時だった。
「玲菜さん。」
主催の重役が近づいてくる。
今日は妙に機嫌がいい。
「こちらをご紹介します。」
その声に視線を向ける。
……
ジョンウさん。
思わず笑いそうになる。
知らないふりをしろと言ったのに。
真正面からは来ない。
ちゃんと約束は守っている。
その隙間を抜けてきた。
(……そう。)
そういうこと。
なら。
受けて立つ。
少しだけ口角を上げる。
「私は存じ上げております。」
重役が驚く気配が伝わる。
「この度は、おめでとうございます。」
言葉を交わすのは、それだけ。
胸の奥だけが、少し遅れて熱を持つ。
「失礼いたします。」
一礼して、その場を離れる。
歩幅は変えない。
急がない。
急げば、何かを隠しているように見える。
廊下へ出る。
ようやく息を吐く。
あと少し。
控室へ向かおうとした、その時だった。
腕を引かれる。
「……っ。」
振り向く間もなく部屋へ引き込まれる。
扉が閉まる。
「やっと会えたね。」
その顔を見た瞬間。
さっきまで張り詰めていたものが、音もなくほどける。
「よしてよ、心臓とまりそうよ」
でも笑ってしまう。
「人はたくさんだし、着物は苦しいし、あなたはおちょくってくるし。」
「もう、呼吸困難で死にそう。」
「大変だ。人工呼吸しないと。」
「え、」
最後まで言わせてもらえない。
唇が重なる。
悪戯。
そう思った。
でも。
一度では終わらない。
離れないと。
そう思うのに。
力が入らない。
少しだけ彼から離れ、額を寄せる。
目を閉じる。
駄目。
まだ終わってない。
「あなたは早く帰って。」
そう言って部屋を出る。
歩きながら一度だけ深呼吸をした。
ここから先は、私情を連れていけない。
着物を、もう一度だけ指先で整える。
苦しい。
帯のせいじゃない。
息を吐けば、肩の力まで抜けてしまいそうだから。
重い扉を開ける。
一礼する。
自然と全員が席を立つ。
誰かが決めた礼儀ではない。
深い青の瓶を両手で受け取る。
ずっしりとした重みが掌へ伝わる。
一人目の前へ立つ。
静かに酒を注ぐ。
何十億。
何兆円。
そんな数字は私には関係ない。
この人が、この部屋で誰と向き合い、誰と握手を交わすのか。
その先で何が動くのか。
私は知らない。
知る立場でもない。
次の人。
短く言葉を交わす。
また次へ。
誰も急かさない。
待つことも、この部屋の礼儀だから。
一人の男が笑う。
「Lotus.」
その呼び名に、いつものように微笑みを返す。
私が名乗ったことは、一度もない。
いつからそう呼ばれるようになったのかも、もう覚えていない。
否定する理由もなかった。
また一人。
また一人。
前はいなかった人。
今はいない人。
瓶を抱え直す。
白い民族衣装が目に入る。
この方。
いつも熱心に自分の国に来てくれと口説いてくる。
はじめは第三夫人、
次にあった時は第四夫人として。
降格?昇格?
どっちなのかはわからない。
あと数人。
その中に。
あの人がいる。
歩みは変えない。
変えてはいけない。
ここで誰か一人を特別にした瞬間、この部屋の意味が変わってしまう。
静かに歩を進める。
最後。
彼の前で足を止める。
ほんの数分前まで、控室で笑っていた人。
呼吸を乱され、着物を整え、ようやく戻ってきたというのに。
私だけが、その余熱を抱えてるみたい。
「失礼いたします。」
青い瓶を傾ける。
澄んだ音が、静かにグラスを満たしていく。
最後まで手元だけを見るつもりだった。
けれど、瓶を戻すその瞬間、視線が重なる。
何も言わない。
問いかけもしない。
その静けさが、少しだけ癪だった。
だから。
ほんの一言だけ残す。
「……余韻が強いので。」
酒のこと。
そう受け取る人の方が多い。
それでいい。
でも。
あの人だけは、違う。
違う意味まで受け取ってしまう。
それも分かったうえで、私は口にした。
一礼する。
まだ、一日は終わらない。