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長い道のりの先

     ある日、家に帰ると中からチェーンが掛かっていた。母がいるはずなのに、呼んでも「シーン」という音が聞こえてくるくらいの不気味な静けさ。母は、中にいるはずなのに。

    「親子の縁を切ります。さようなら」というメールが来たので、慌てて駆けつけたところだった。

    これ、やばいやつじゃないかと直感。

    彼氏に電話を掛けて、ペンチを持ってきもらい、鉄のチェーンを切って、中へ入る。

     一番奥の部屋のベッドに、横たわる私の母親。耳にはイヤホン。CDを聴いているのだろう。

    呼びかけても、呂律が回らず、「死なせてー」と叫ぶ。

    (どーしよう、お母さんが死んじゃう)

    私は、慌てて、救急車を呼んだ。

    祖母の睡眠薬を溜め込んでいるのは、知っていた。母は不眠だといつも訴えていた。その溜めた睡眠薬をたくさん服用していたようだった。

    救急隊が駆けつけてくれて、アパートの住民も出てきて、外はパニック状態。

    駆けつけてくれた救急隊の人は、冷静に私に話してくれた。

    「こんな状態では、人は死にません」

    「帰ります」明らかに、迷惑そうだった。イヤホンからは、中西圭三さんのアルバムの曲が流れていた。

    一度目の時は、病院に運んでくれたけど、今回は、救急隊は、さーっと去って行った。

    うちの電話番号は、ブラックリストに載っているだろう。私は、周りの住民に、謝罪して家に戻った。

    狂言自殺未遂、2回目。

    「生きていたって、いいことなんかないのー。死にたいの、死なせてよ」

    いつも「かわいそうな自分」を演出し、私を困らせる母親の手に、まんまと今回も嵌ってしまった。

    私が幼い頃から、母は、嫌なことがあると、「死ぬ」「離婚する」といって、私を脅す。

    私は、母に洗脳されていたので、本気で心配して、自分を責めていた。

    「お母さん、ごめんなさい」

    泣いて、泣いて謝った。私が駄目な娘だから、母はこんなことをするのだと。

    私が、母の思い通りに教員にはならず、大企業に勤めている彼氏と別れ、「高卒の何処の馬の骨かわからない奴」(母の言葉)と付き合っているからだった。母の夢は、私が母の叶えられなかった夢(看護師)を叶えてもらうこと。母は、学業では、合格点だったのに、健康診断で落ちたと言っていた。私は、幼い頃から、「看護師になりなさい」と、ナイチンゲールの本を与えられた。素直に感動して、なりたいと思っていた。看護師さんって、素晴らしい職業だし、なによりも、母が喜んでくれる。褒めてもらえるはずだ。

    高校の教師に、「何故、看護学校だけを受けるんだ、国立大も受けなさい」と進学校あるあるで、前期、後期と国立大学も受験して合格した。陸上自衛隊の看護学校や県などの看護学校に合格したとき、ふと思った。私、本当に看護師になりたいのかなと。本が好きだし、歴史も好き。教師になれば、公務員だし、母も許してくれるかも。学費がかかると文句を言われたが、地元の通える国立大学の教育学部に入学した。学費は、入学金だけ、渋々、父が出してくれた。

    大学生活は、門限が厳しかったが、バイトは許されたので、クリスマスイブも大晦日も正月元旦からも、バイトした。他にも、塾講師などダブル、トリプルでバイトしていた。

     しかし、卒業する年は、大変だった。就職氷河期時代世代の私。

    男子は、教員採用試験に合格するのに、女子は教科にもよるけれど、明らかに差があった。

    他の公務員試験に合格したので、就職しようと思ったが、ゼミ教授の依頼で、大学で働くことになった。

    今、思えば、転勤のある別の公務員を選んでおけば良かった。母と離れられたのに。母のことが怖かったから、「逃げなきゃ」と言う気持ちも湧いてこなかった。一生、母の支配下に置かれることが娘としては、普通のことだと疑わなかった。母の機嫌がその日、一日、良ければ幸いと思って過ごしていた。奴隷みたいだね。もう、大人だったのに。繋がれたゾウみたいなものだ。

    私は大学を卒業して、その大学で働くうちに、元夫と出会ってしまった。大学1年生の時から4年間付き合ってきた優しい彼氏と別れ、その人と付き合いはじめた。大学職員なので、職業的には母には、許容範囲だと思っていたが、違っていた。彼が高卒だったから。気に入らなかったのだ。私の夫に将来、自分たちの介護もしてもらいたいと考えていたから、大卒、高収入の人しか受け入れられなかったのだろう。

    母は、私と彼氏に嫌がらせを始めた。新しい彼氏の一人暮らしのアパートを突き止め(探偵なんかな)父親と一緒に車でぐるぐる回り、「娘を返してください」と呼び鈴を鳴らし、父に言わせた。こんな時、父は母の言いなりだった。「お母さんが怒っているから、出てきなさい」と父は、アパートのドアの前で話した。息を殺して、父と母が帰るのを待った。

    父も私と同じだ。母には、逆らえない。母の機嫌が良ければ、平和だから。荒れ狂っている母を早く宥めて欲しいと、それ一心で、娘の私の気持ちなんて考えてはくれない、そんな父だった。

    母は彼氏の職場の上司に電話を掛けて、どんな人物かを探ろうとした。私のゼミの教授(当時、学部長)に電話をして、彼氏と別れさせようと言う話を持ち掛けた。教授に、母は、一喝されたらしい。「娘さんの人生に口を挟んではいけませんよ」と。普通の感覚は、そうだろう。

    それでも、母は止まらない。

    彼氏を勝手に、喫茶店に呼び出して、3時間も「娘とは釣り合わない、別れなさい、夜間の大学でも通ったらどう」とか、人の目のある場所で、泣きまくり、彼氏を侮辱した。

    しかし、私は淡々と仕事に行き、彼氏と別れなかった。初めての反抗だった。結婚相手くらい、自分で決めたかった。

    だけど、洗脳は解けていないので、母の機嫌をとるべく、

    「お願いします、別れさせないでください」と、母に懇願した。母と闘おうなんて思いもしなかった。弱い自分だった。

    少し、精神的におかしくなったふりをしたら、許してくれるかもと、泣きながら、家のカーテンを指で破ってみた。

    「ふん、そんなの、演技だよ」と吐き捨てられた。どうして、私の気持ちを考えてくれないのだろう。母は、保育士やヘルパー資格を持って、現場で働いていた。子どもや利用者さんには、優しく適切な対応をしていたのだろうか?いつも、職場で利用者さんに好かれているというような自慢話を聞かされていたから。外面は、良いのかもしれない。

    自分の娘の気持ちなんて、ゴミ屑みたいに扱う人間なのに。そんな人に一番、働いて欲しくない職業だと思う。

    だけど、やはり職場で揉め事を起こして退職するので、やはり、職場でも「自分が正義」を押しつけていたと思う。毎日、聞かされる職場の愚痴は、どんどん酷くなり、結局、辞めてしまうから。

    「あの駄目な職場に、私は一石を投じたから、悔いはない」と。

    それなら何で退職してしまうのか?母のおかげ?でその職場が改善されたのなら、そこで働き続ければいいのに。そんなふうに、子どもの頃は、思っていた。

    私も社会にでて、30年ほど経つけれど、どこで働いても、同じようなキャラクターが存在し、母みたいなモンスター級の人もいる。理不尽なこと不誠実なこと、多々あり、悔しい思いも哀しい思いもたくさんしているけれど、所詮、そんなものだ。職場なんて、烏合の衆の集まり。

    カオス。だけど、そんなサバイバルなところで、経験を積んで、人間の浅ましさや尊さを知ることができる。自分のことを相手に照らし合わせて、反省したりもできる。

    言いたいことだけ言って(大抵、母の意にそぐわないこと)、辞めて逃げるのは、大人じゃない。

    母の辞めた後の職場は、「ほっ」とはしたと思う。

     洗脳、幼い頃からの母のヒステリックな言動に恐怖感を覚えていた。母は、「お天道様が見ているよ」「人に(母に)迷惑をかけてはいけないよ」「お母さんの言うことを絶対に聞くんだよ」などと私に何度も言った。言葉で、私の思考も行動も縛ってきた。母が都合よく生きるために。私は母の道具のひとつだったと思う。

    私は何回も引っ越しをしている。母が、安くてボロい貸家やアパートを見つけてきてくるのだ。その都度、校区が変わり、親しい友達は、ほぼできなかった。あまりにボロい借家で、やっとできた友達みたいな人たちが家に遊びに来ることになった。隣の綺麗な家のチャイムを鳴らしているのを見て、ものすごく恥ずかしかった。「うちは、こっちだよ」と言うのが悲しかった。中学生だったから特にね。

    最初の引越しは、父の転勤だった。福岡県から東海地方への引越し。自分の方言が笑われ、男子にいじめられた。

    目が小さくて鼻が低い私は、「ヒラメ」と呼ばれた。目と目が離れているように見えちゃうのかな。すごい渾名だ。

    そういえば、幼い頃、母は、

    「あんたは、鼻が低い。洗濯バサミで高くしよう」と洗濯バサミで、鼻をつままれたり、目が一重だったので、「一重は、かわいくない、大人になったら、二重の手術したほうがいい」と言われた。本気で思って、私が傷つくなんて思わずに、そう言ったと思う。それから大人になっても、「二重にしたら」と何気なく言ってきた。自分の顔が可愛くなくて、不細工だと、あの日のことは絶対に忘れられない傷になった。容姿のことは、よく言われた。そして、小学6年生の時に、母は、「あんた、口が臭い、歯磨き、きちんとしなさい」と私に口臭もあると母は指摘してきた。びっくりした。そうなんだ、私は臭いんだと。悲しくて泣いた。いいところなんてない、私には。当時、転校したばかり。全く自信がなくなり、人と話す時は、距離を置いた。息が相手にかからないように。私は不細工で臭いとまた心に刻まれた。

     転校前は、私はわりと学校では明るかったが、転校した学校では、男子にいじめられてたのもあり、暗い性格になっていった。嫌われないよう人の顔色を伺うようにもっとなっていった。

    男子からの「いじめ」のことは、母にも話してみたが、勿論、相手にされなかった。

    産みたくて、産んだのでしょ?子どもは愛してあげないと心が死んじゃうんだよ。

    産むのは親の勝手なのに、生まれた日から産んでくれたことに感謝して、育ててくれる両親に感謝して尽くしてゆくのが、子どもの役割なの?違うはずなのに、洗脳が解けていないうちは、そんな簡単なことにさえ、気づかなかった。

    「親不孝」、これだけはいけないことだと心に刻まれていた。ばちが当たると本気で思っていた。

    母乳ももらえず、なんの病気もないのに、ミルクで育った。

    私の頭の後ろはぺったんこ。絶壁。

    たぶん、お布団に寝かされたままだったと勝手に推測している。所謂、サイレントベイビーだ。

    母は、自分が風邪で寝込んでいる時は、鈴を鳴らして、私を呼びつけていたのにね。

    私は、母のメイドですか?「呼んだのに、来るのが遅い!」。なんで叱られないといけないの?

    私が赤ちゃんの時も、それからの幼少期も小学生の時もずっと、好きな仕事ばかりして放っておいたくせに。

    自家中毒になったり、チック症になったり、頻尿になったりと身体に症状がでていたことを記憶している。目のまばたきがとまらないのだ。特に、母が近くにいる時には。

     家事もよくやった。毎日、中学生の時は、母が仕事から帰宅するまでに、朝食のときのお皿の洗い物をして、一品作っておく。夕飯の皿洗い物も、毎日。これは、結婚して家を出るまで決まっていた家事だった。そうしないと機嫌が悪く、家庭が暗くピリピリするので、母のことを最優先にする生活を送った。

    母は、転勤で東海地方に来てから仕事を何回も変えた。とにかく、トラブルを起こすのだった。

    自分のことは棚に上げて、職場のことや、そこで働く同僚たちの悪口を私に毎日、聞かせてきた。苦痛。私が知らない人たちなのに、母の話だけでは鵜呑みにできない。

    適当に相槌をうっていると、

    「ちゃんと聞いているの?」と激怒する。

    「大変だね、お母さん」と母の味方をしてあげないと、なかなか怒りがおさまってくれなかった。

    子どもの相手をしているような気がしていた。自分の思うようにならないことは、他人のせい。他責思考バリバリの母だった。そこが、私にはわからない。

    母は、どうやら相手の立場になって物事を考えることができないらしい。自分の考えていることが全て「正義」なのだ。

    私も大学生くらいになると、母がちょっとおかしな人なんじゃないかと思うようになった。大学は、教育学部。児童心理学を学び、他の家庭の両親のこととか、私の世界が広がって、いろんなことを知るようになった。大学生になっても、母の機嫌を取ったり、束縛されたり、理不尽なことをされたり、暴言を吐かれることは、異常なことのようだった。だけど、誰にも相談はしなかった。

    なぜか。洗脳されていたから。どんな母でも、私を3回の流産を乗り越えて、産んでくれた人。生まれて来ることができなかった3人の兄弟姉妹の為にもがんばらないといけない。そして、母は、満州から幼い頃引き揚げてきて、大変苦しい時代を生きてきた人。心に傷をもっているからこそ、あんなに情緒不安定。愛情不足で育ったのだから、私に試し行為をして足りなかった心の隙間を埋めようとしているのだ。娘である私が可哀想な母を支えてあげなくてはならない。

    大学で心理学を勉強したことは、母の生い立ちからの分析につながり、理解して受容すべきだという、とんでもない思考へとなってしまった。「母の情緒不安定さは、幼少期の心の傷によるものだから、受容するのが、娘として当然」という最も選んではいけない答えを選んでしまった。

    彼氏のことを諦めないこと以外は、全て母の言いなり人間が完成した。

     妨害され続けた彼氏だったが、母に刃向かってくるほどの強さ、次男、公務員。まあ、マシかなと落とし所を勝手につけたのだろう。ストーカー化していた元彼が去ったことにより、交際を認めてもらえて、結婚した。

     私の職業は司書。子どもの頃から、本の世界で遊び、慰められ、支えてもらった。

    中学生、高校生、大学生の時代、放課後は公共図書館にこもっていた。私のサードプレイス、安全なゆりかごが、図書館だった。

    読書は、素晴らしい。本の中の主人公の強さに、弱さに私は人間というものに触れていった。

    人は、多面体であり、いろんな顔を持つ。そして、弱いけれど強い生き物だと励まされた。

    主人公みたいに、私の苦しみは、乗り越えなくてはならない修行みたいなものだ。きっとハッピーエンドが待っている。そう信じて、いろんな本を読んでいた。

    だけど、本は、私を支えて慰めてくれたけれど、やはり幼い頃からの、洗脳は解けなかった。

    「がんばれば、なんとかなる」「努力は報われる」「話せばわかる」「世の中に悪い心だけの人はいない」「困っている人を助けよう」などと、今度は自分の存在価値を感じるために、自分で自分を縛ることになってしまった。本を読むことによって、試練の乗り越え方を学ぶと同時に、「自己犠牲こそ愛」だと勘違いした人格が形成されてしまった。だから、酷い母のことも、私が味方になって、心を満たしてあげないものいけない、その為に、私は生まれてきたと母に愛されない自分の存在の意味を履き違えた。自己犠牲型、母親服従娘という人格を形成してしまった。母を支えること、人を助けることが私の存在する意味で、できなければ生きている意味なんてない。

     しかし、母は、結局、私の愛情なんて欲してなかったのだ。とにかく、他からの承認。自分はすごい人間なのだと周りに認めてもらいたい、その欲でいっぱいだった。承認欲求の塊みたいな人だった。

    自分の考えることが、すべて「正義」なので、職場で、近所で、当時、祖母が入所する介護施設で、母は、いろいろ問題を起こした。祖母を3回、家に引き取って同居していたが、要介護5になり、手に負えなくなりあちこちの施設に入居させた。

    毎日、施設にお見舞いに行き、施設スタッフにあれこれと要求する。モンスター家族である。私には祖母がお世話になっている施設の愚痴ばかり言う。スタッフさんたちは、よくしてくれているのに。

    そして事件は、起こった。

    深夜、スタッフさんが夜間見回りの隙間に時間に、祖母の容態が急変。搬送されたが、母と私が病院に到着した時には亡くなっていた。

    よくあることである。深夜、誰もいない時に、天国へ召されること。なかなか、死に目には会えない。まして、同居していなかったのだから。祖母も、母に気を遣いかながら死んでゆくのは、嫌だったと思う。静かに天国へ行きたかったと。

    だって、母は、実の兄と絶縁していて、祖母が亡くなってから、連絡したのだ。

    私と父は、「元気なうちに、お兄さんに会わせてあげてよ」と母を何回も説得しようとしたけど、「あんな兄夫婦には、会わせない」と荒れ狂った。

    私は、母が怖かったので、こっそりと叔父さんに連絡することもできなかった。

    後悔している。

     祖母の死後、母は、介護施設に猛攻撃を仕掛けた。夜中の急変は、そちらの落ち度だと。

    拗れて、拗れて、最後には、大会議室に施設長やスタッフ達を集めて、母と父は、上座に座り、施設長に謝罪させた。ボイスレコーダーに、その時の様子が記され、聞かされた。どう考えてもやりすぎだ。

    常人のやることではない。

    あんなに、よく介護をしていただいたのに、なんでそんな酷いことができるのだろうか?祖母は、88歳。天寿を全うしただけだ。

    他責思考の母は、何が一体、許せなかったのだろうか?自分が死に目に会えなかったからだと思う。こんなに、世話してあげたのに、私のいないうちに死んでしまうなんて、酷い、そんな感じだと今なら思う。

     私は、その当時も洗脳が解けていなかったので、ただ、ただ恐ろしかった。必ず、将来は、私は、自宅で母を介護することになるだろうと考えて、働きながら、放送大学で「介護福祉士」の資格を取得した。あの母が、おとなしく、将来、介護施設に入所してくれるとは考えられなかった。

    どこまでも、馬鹿な私である。そんな恐ろしい人間の介護なんて、地獄なのに。やはり、その頃の私は、「産んで育ててくれた母」を介護するのは、当たり前だし、施設に入れたら、それこそ、揉めて、転々としなくてはならなくなる。犠牲になるのは、自分だけでいい。

    そんな気持ちだったのだろう。


     私は、2回、母と絶縁している。

    父が亡くなった年、「あんた、生まれてこんほうがよかったね」と言われ、絶望して絶縁した。母はすぐに公正証書で遺言書を作成し、遺産相続人を息子にしていた。私の知らない間に実家と車を売却して、私の息子の住んでいる遠くの県に引っ越してしまった。月額20万円の高級高齢者住宅に。どんなに尽くしても、娘の私を愛していなし、信じていなかったということだ。私はその当時、娘の精神疾患と夫の経済的DVと性的DVで苦しんでいたのに。私を見捨てて、自分の自由を選んだと思って悲しかった。

    そして3年後、母からの「お誕生日おめでとう、ごめんなさい」というメッセージで、馬鹿な私は、また母を許してしまった。離婚して、一人暮らしをしていたので、呼び寄せて同居した。一昨年の冬のことである。しかし、翌年の7月には、「あんたとは暮らせない、あんただけ引っ越して」と私は母に捨てられた。

    理由は、私が働いていて、夜まで帰ってこないから、ほったらかしだ。こんなんじゃ同居した意味がない。日中に、私が倒れたらどうするんだ、 スタッフがいてみてくれる施設の方がマシだと。

     私は、もう無理だなと呆れて、諦めて、引越をした。

    やっと、目が覚めた。この人は、何歳になっても変わらない、自己中心的な人間だと。同居をして、すべての要求を満たしても、母は満足しない。母と今度こそ、別れる決意をした。

    私が、引っ越した後、アパートの鍵を変えられたのは、私が母のお金を盗みに来ることを恐れたそうだ。

    その後、母は保証人サービス会社の担当者さんのお手伝いで、高級高齢者住宅に引越しをした。段階的に、特養にも入れることになっているマンションだ。資産もあり、健康なので、娘の私がいなくても、何も困らない、そんなところだ。母は、200万円払って、保証人サービスを契約している。詐欺みたいなものなのに、担当者の人のことを我が子のように信用している。担当者と旅行に行ったり、食事をしたりしていて全額、母が支払っていた。遺産相続の時には、財産の5%をその会社に支払うという遺言書を公正証書で作っている。公認会計士は、この会社の関係者だ。つまり、そういうこと。「解約してほしい」と母に頼んだけど、耳を貸さなかった。実の娘より、担当の女性を信じているのが情けなかった。

     私は、絶縁に至るまでのごたごたや、娘の中学生のときから発症した「統合失調症」(娘は発達障害もあり、精神障害保健手帳2級)による入院や、元夫の経済的モラハラや性的DVによる二度の離婚、シングルマザー時代にトリプルバイトしても非課税世帯という貧乏生活など、いろんな別件と並行しながら、ここまで生きてきた。

    人には、それぞれ物語がある。

    生まれた時から、彼岸に行くまで、何が起きるかわからない。そんな課題だらけ、分岐点だらけの人生を生きてゆくには、やはり学びが大切だと感じている。

    自分という器に、いろんなアイテムを追加してゆく。知識や経験。現代は、ネットがあるから、知識により接しやすくなっている。いろんなテーマをまとめた動画とかね。その中で、40代後半に「毒親」という言葉に出合い、自分の境遇や性格を見つめなおすことができた。

    物語の本,知識の本から、いろんな知識や人間の感情や体験を体験した。

    ひとりの人生なんて、短いので、経験から得られることは少ない。だから、本や今は、ネットに上げられている情報、AIも取り入れて自分が使えるアイテムを増やしている。その過程で、金融系の本を読んで投資にも目覚めた。1ヶ月,めちゃくちゃ勉強してから、個別株投資を始めて、勝ったり負けたりを繰り返したのち、植田ショック,トランプショックを乗り越えて、母の総資産を超えた。リスクを取って、メンタル鍛えながら、自分の投資銘柄を信じる。金融について勉強し、地政学や世界のニュースに敏感になれたので、投資は好きだ。

    仕事は、非課税世帯になっていた時期、トイレ掃除とパチンコ店、学校図書館というトリプル仕事をしていた。そのトイレ掃除中に、スカウトされて現在は、私立高等学校の正職員(司書)として勤務している。人との出会いは,不思議だ。時給860円のトイレ掃除専門のおばちゃんの私に、学校の理事長が声をかけてきたのだ。

    履歴書を見ていたらしく、教員,事務職、司書のどれかで働いてもらいたいと提示された。以前、10年ほど,公立の中学校で司書をしていたので、迷わず、「司書でお願いします」とお願いした。年収は、爆上がりした。娘は、「シンデレラストーリーみたい」と笑う。


    私の人生は好転したのではないか。母の洗脳が解けたからだ。これからの人生は、自分のために使うと決めた。娘と息子とは、会えているので,寂しくない。やっと、自分の人生を生きられる。

    「芸は身を助く」である。自分の興味のある資格「保育士、介護福祉士、司書、教員資格、秘書検定試験2級ハングル検定3級他」を取得していたので、役だった。

    仕事としては、ハウス栽培、トイレ掃除だけの仕事、ビル清掃、夜中のパチンコ店の掃除、保育、塾講師、大学勤務(事務,秘書)、大学図書館司書、中学校図書館司書などしてきた。職場での経験は、どれも学びになり、自分に蓄積されている。

    毒母に運悪く、当たってしまいずっと苦しんでいたが、勉強し続け、働いてきた。そして今、母と絶縁して、心は落ち着いてきた。

     「毒母」という言葉を知り、関係書を読むにつれて、自分が子供の頃からされてきたことが、異常で自分の人格形成に大きく影響を与えられてきたことに気づいた。もっと、勉強して、自分の思考の癖、自己犠牲的に他人にも尽くしてしまうところ、自己肯定感の低さなども修正できるようになった。自分なんて価値がない存在だから、誰かの役に立たないといけないと思っていた。今まで自分がしてきたことを否定することは辛かったけれど、自分を取り戻せたことは本当によかったと思う。

     母のことは、息子と娘に任せてある。私が母に会うことはもうない。いつか、彼岸に行ってくれたら、私の気持ちは楽になるだろうか。たぶん、変わらない。苦しいままだと思うし、忘れられないだろうけど、母を許さないという選択を私は変えない。変えないまま、自分の人生を生きていこうと思う。

    人それぞれにいろんな課題が課される人生ゲーム。私の今までの人生は、よくある話だ、特別なものではない。ただ、今は生まれてきて、初めて楽に息ができている。

    #創作大賞2026

     
     
    銀色夏生さんの詩集が大好きで、写真と言葉を紡いできたい。詩集を作りたいです。

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