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【短篇小説】次に住む人が決まってから、初めて泣いた #08

    次に住む人が決まったと、
    不動産会社から連絡が来た。

    —

    メールは短かった。

    —

    契約日と、
    引き渡し予定日。

    —

    それだけが書かれていた。

    —

    私は、
    「よろしくお願いします」とだけ返信した。

    —

    売ると決めてから、
    手続きは思っていたより早く進んだ。

    —

    書類を書いて、
    印鑑を押して、
    必要なものを揃える。

    —

    やることが多いうちは、
    あまり考えなくて済んだ。

    —

    でも、
    次に住む人が決まった途端、

    —

    この家が、
    自分のものではなくなり始めた。

    —

    週末、
    少しずつ荷物を片づけた。

    —

    本棚を空にする。

    —

    食器を包む。

    —

    棚の奥から、
    使っていない鍵が一本出てきた。

    —

    何の鍵だったのか、
    最後まで思い出せなかった。

    —

    カーテンを外すと、
    窓が思ったより大きかった。

    —

    以前は、
    朝になるとここから光が入っていた。

    —

    床に落ちる形だけは、
    最後まで変わらなかった。

    —

    何もなくなった部屋は、
    少し声が響く。

    —

    「これ、どうする?」

    —

    独り言みたいに出た声が、
    壁に薄く返ってきた。

    —

    廊下の奥の部屋だけ、
    最後まで片づかなかった。

    —

    何も置いていないのに、
    なぜか後回しになった。

    —

    床には、
    マットレスの跡だけが残っている。

    —

    窓際には、
    日に焼けた四角い跡。

    —

    そこに、
    何を置いていたのかは覚えている。

    —

    でも、
    いつから置かなくなったのかは思い出せない。

    —

    夕方、
    空になった棚を拭いた。

    —

    柔らかい布でなぞるたび、
    木の匂いが少し戻る。

    —

    以前はここに、
    二人分のマグカップが並んでいた。

    —

    今は、
    丸い跡だけが残っている。

    —

    冷蔵庫の横には、
    子どもの身長を書いた線がまだある。

    —

    消そうと思って、
    結局そのままにした。

    —

    次に住む人は、
    たぶん気づかない。

    —

    夜、
    最後のカーテンを畳んだ。

    —

    レールだけになった窓が、
    少し寒そうに見えた。

    —

    私はそのあと、
    しばらく何もないリビングに座っていた。

    —

    照明を消すと、
    部屋の輪郭だけが残る。

    —

    この家には、
    もう生活が入っていない。

    —

    でも、

    —

    長く住んだ場所は、
    何もなくなってからの方が、

    —

    少しだけ、
    声を持つ。

     
     
    家を選ぶとき、人は自分の過去や未来とも向き合います。 この場所では、住宅ローン、家族の距離、人生の転機―― そんな“静かな決断”をめぐる短編フィクションを綴っています。 毎週水曜20時、更新予定。 誰かの夜に寄り添う1話になればうれしいです。

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