
#一日だけ消える世界
あらすじ
「あなたが一日だけ、存在しなかった世界を体験できます」――ありふれた口論の夜、父・母・高校生の息子は、それぞれのスマホに現れた同じ広告を、深い意味もなくタップしてしまう。翌朝、三人が目覚めたのは、自分だけが誰にも見えない世界。父がいなくても仕事は回り、母がいなくても家事は完璧にこなされ、息子がいなくても友達は「全員集合」と笑っている。つかの間の自由を楽しんだのも束の間、夜になると「世界の麻酔」が切れ始め、残された家族が「あの人がいない」ことに気づき、本気で探しはじめる――。会話を失いかけた三人家族が、消えた一日を通して「存在そのものが、誰かの日常だった」と知る、静かで温かな再生の物語。
第一部 日常
一 機能する家族
夕食のテーブルに、三つのスマホが伏せて置かれている。伏せてあるのは、いちおうのマナーだからだ。誰が決めたわけでもないが、この家ではそういうことになっている。
父の圭介は味噌汁をすすりながら、テレビのニュースを眺めていた。見ているというより、視線の置き場所にしているだけだ。母の紗弓は、唐揚げの残りを気にしている。多めに揚げたつもりだったが、息子の悠真が三個しか食べていない。育ち盛りのはずなのに、と思うが、口には出さない。前に言ったら「腹減ってない」と返されて、それきりだった。
悠真は白米を機械的に口に運んでいる。頭の中では、さっき途中で止めた動画の続きが再生されていた。テーブルの下で、膝が小さく揺れている。早く部屋に戻りたい合図だと、たぶん本人も気づいていない。
「ごちそうさま」
悠真が立ち上がる。食器をシンクに運ぶところまでは、ちゃんとやる。それもこの家のルールだからだ。ルールは守られている。ルールだけは。
「お風呂、先入っちゃっていい?」
「いいよ」
紗弓が答える。圭介は何も言わない。訊かれていないからだ。
悠真が消えると、リビングには夫婦二人が残った。テレビの音だけが部屋を満たしている。圭介はスマホを表に返し、通知を確認した。会社のグループチャットが三件。どれも自分宛てではない。紗弓も自分のスマホを手に取る。ママ友のLINE、学校からの連絡アプリ、それからいつものSNS。
「そういえばさ」
紗弓が言いかけて、やめた。圭介が「ん?」と顔を上げたときには、もう「ううん、なんでもない」になっていた。言おうとしたのは、最後に三人で外食したのはいつだったかな、という話だった。思い出そうとしたら一年近く遡ってしまって、口に出すのが急に億劫になったのだ。
別に、仲が悪いわけではない。喧嘩もほとんどない。会話がないわけでもない。「お風呂先入っていい?」「いいよ」。これも会話だ。連絡事項という名の会話。この家には連絡事項だけが流通していて、それ以外のもの――たとえば帰り道に見た変な看板の話とか、意味もなく笑ってしまった動画の話とか、そういう栄養にならない話が、いつからか絶滅していた。
誰も気づいていないわけではない。たぶん、三人とも気づいている。気づいた上で、誰も言わない。言うほどのことじゃない、と思っているからだ。家族はちゃんと機能している。朝は起きるし、飯は出るし、風呂は沸くし、月曜になれば全員がそれぞれの場所に出かけていく。
機能している。それは、つながっていることと同じ意味だと、三人ともどこかで信じていた。
二 白い広告
きっかけは、テレビのリモコンだった。
金曜の夜、圭介がチャンネルを変えた。紗弓が録画しようと思っていた番組の裏で、悠真が流し見していたバラエティだった。
「あ、ちょっと、見てたんだけど」と悠真。
「録画してるでしょ、それ」と紗弓。
「してないよ。てか今リアタイで見てたし」
「先に言ってよ。お父さんだって疲れて帰ってきてるんだから」
「なんで俺の話がオヤジの疲れの話になるわけ」
「その言い方やめなさい」
圭介は「別に俺はどっちでもいい」と言った。それがいちばんまずかった。どっちでもいいなら変えるなよ、と悠真が言い、あなたもどっちでもいいなら黙ってないでよ、と紗弓が言った。矛先が二本とも圭介に向いて、圭介は「なんだよ、俺が悪いのか」と声を大きくした。
喧嘩と呼ぶのも大げさな、ほんの数分の口論だった。誰かが泣いたわけでも、物が壊れたわけでもない。ただ、三人がそれぞれ「自分だけが損をしている」という顔で、別々のドアを閉めただけだ。
圭介は寝室でスマホを開いた。無意識の避難行動だった。YouTubeのショート動画を親指で送っていく。ラーメンの動画、ゴルフの動画、猫の動画。何も頭に入ってこないまま、画面だけが流れていく。
紗弓はリビングに残って、Threadsを開いた。誰かの晩ごはんの写真。誰かの愚痴。「旦那が何もしない」という投稿に、数百のいいねがついている。自分は「いいね」を押さずに、ただ眺めた。
悠真は自室のベッドでInstagramを見ていた。同級生のストーリー、知らない誰かのダンス、広告、広告、広告。
その広告は、三人の画面に、ほとんど同じ時刻に現れた。
黒い背景に、白い文字だけのシンプルな画面だった。
「あなたが一日だけ、存在しなかった世界を体験できます。」
その下に、小さくハッシュタグが添えられていた。
#一日だけ消える世界
圭介は、くだらない診断系の広告だと思った。最近多い、心理テストみたいなやつ。それでも「存在しなかった世界」という言葉が、口論の後の胸に、少しだけ引っかかった。指が勝手にタップした。深い意味はなかった。
紗弓は、ドラマの宣伝か何かだと思った。タイトルっぽいハッシュタグだったから。私が存在しなかったら、この家はどうなるんだろうね、と思いながら、タップした。半分は、あてつけだった。
悠真は、何も思わなかった。ストーリーを送る指の速度のまま、画面に触れただけだった。
三つの画面が、同時に白くなった。
そして、土曜日の朝が来た。
第二部 父
三 透明な休日
圭介は、いつもどおり六時半に目が覚めた。休日でも体内時計は平日のままだ。隣のベッドはきれいに整えられていて、紗弓の姿はもうなかった。
リビングに降りて「おはよう」と声をかけた。返事がなかった。もう一度言った。紗弓は振り向かない。フライパンの上で卵が焼ける音だけがしている。
昨日の口論の続きか。無視か。そう思ってテーブルに着き、圭介は妙なことに気づいた。皿が二枚しか並んでいない。紗弓のぶんと、悠真のぶん。圭介の席には、ランチョンマットすら敷かれていなかった。
起きてきた悠真が、圭介の真正面に座った。「はよ」と紗弓にだけ言った。悠真の視線が、圭介の顔の表面を、壁を見るのと同じ速度で通過していった。
目の前で手を振った。反応がない。肩に触れようとして――触れられなかった。指先に感触はあるのに、悠真の側には何も届いていない。
そこでようやく、昨夜の白い画面を思い出した。あなたが一日だけ、存在しなかった世界。まさか、と思った。まさか、しかなかった。
最初の一時間、圭介は実験に費やした。大声を出す。テレビの前に立つ。紗弓のスマホを隠す――隠せなかった。手は届くのに、動かせない。触れられるのに、干渉できない。幽霊というより、再生中の映像に映り込めない人間、という感じだった。
そして、認めたくないことに、圭介は昼前にはこの状況に慣れ始めていた。慣れただけではない。「悪くないな」と思ってしまった。
誰にも話しかけられない。「ゴミ出しといて」も「ねえ聞いてる?」もない。ソファの真ん中に大の字で寝転んでも、誰にも何も言われない。録画したままの映画を、途中で中断されることなく最後まで観た。観終わって、昼寝をした。
こんなに誰からも求められない土曜日は、何年ぶりだろう。
楽だ、と思った。思ってから、少しだけ自分にがっかりした。
四 世界の麻酔
夕方、洗面所の電球が切れた。
電球は圭介の担当だった。結婚してからずっとだ。脚立の場所も、ストックの棚も、紗弓は知らないはずだった。
紗弓は知っていた。脚立を出し、棚を開け、五分で替えた。圭介が二十年「俺がやるよ」と言い続けてきた作業は、圭介がいなければ、ただの五分の作業だった。
回覧板は、悠真が届けた。インターホンも押さず、隣のポストに差して、三十秒で帰ってきた。
隣の田中さんは、その日の夕方、庭先で紗弓を見かけて声をかけた。
「今日、回覧板届けてくれたの、息子さん? めずらしいね、いつもは旦那さんなのに」
「あ……はい、たまたま」
「圭介さん、お元気? 最近、顔見ないなと思って」
紗弓は、うまく答えられなかった。「元気ですよ」と言いかけて、言葉が喉のところで止まった。田中さんは特に気にする様子もなく、庭の水やりに戻っていった。ただ、紗弓の中には、その「顔見ないなと思って」という一言だけが、小さな棘のように残った。
三時過ぎ、家中の照明が、いきなり落ちた。
電子レンジと洗濯機と、エアコンの室外機が、たまたま同時に動いた瞬間だった。ブレーカーが落ちたのだ。紗弓が分電盤の前に立ったが、レバーがずらりと並んでいるだけで、どれが何の回路か、ラベルには「LDK1」「LDK2」としか書かれていない。どれがキッチンで、どれがエアコンなのか、圭介の頭の中にしかない対応表だった。
紗弓はとりあえず全部のレバーを上げてみた。また落ちた。悠真がスマホのライトで手元を照らし、二人でああでもないこうでもないと二十分近く試し続けて、最後は「レンジと洗濯機を同時に使わなければ大丈夫らしい」という、根本的な解決になっていない結論に落ち着いた。
「これ、絶対お父さんならすぐ分かるやつだよね」
悠真がつぶやいた。紗弓は答えなかった。答えられなかった。
結局その夜は、レンジと洗濯機を同時に使わないよう気をつけて過ごすことになった。本当の原因――古い型のエアコンの室外機が、実は単独でもブレーカー容量ぎりぎりだということ――に、二人はその日、最後まで辿り着かなかった。それを知っていたのは、去年業者を呼んで説明を受けた圭介だけだった。
夜、紗弓が食器棚を整理するついでに、圭介のマグカップを棚のいちばん奥へ、来客用の食器と同じ列に仕舞った。悪意ではない。この世界の紗弓にとって、それは「使う人のいないカップ」だからだ。合理的な収納だった。合理的であることが、いちばん堪えた。
寝る前、洗面所に入った。電球の替わった洗面所は、前より明るかった。その明かりの下で、歯ブラシ立てが目に入った。
二本、挿さっていた。
紗弓のと、悠真のと。圭介の一本は、どこを探してもなかった。そして歯ブラシ立ては、欠けているようには見えなかった。三本挿すといつも窮屈だったそれは、二本だと、ちょうどよかった。
布団に入って、スマホを開いた。会社のグループチャットが動いていた。金曜に持ち越した例のトラブルの件で、土曜だというのに、昼過ぎからメッセージが流れ続けていた。圭介の案件だった。月曜に自分が仕切るつもりでいた。
最初のうちは、まだ余裕のあるやり取りだった。佐々木が資料を作り、部長が確認し、順調に見えた。ところが夕方、取引先から「以前の条件と違う」というクレームが入った。二年前に一度、同じ取引先ともめた件と、微妙に絡んでいるらしい。佐々木が過去の資料を探しても出てこない。別の社員が探しても出てこない。
「すみません、圭介さんの個人フォルダに残ってたりしませんかね」
「圭介さんの会社携帯、鳴らしてみます」
既読は、いつまでもつかなかった。
二時間後、スレッドの空気が変わった。佐々木が、圭介の携帯に直接電話をかけた形跡があった。着信履歴が、圭介のスマホに残っていた。一件、二件、三件。留守番電話にメッセージも入っていた。「圭介さん、すみません、折り返しお願いできますか」。声は、だんだん困った声になっていった。
画面の中で、後輩の佐々木が動いていた。関係部署に連絡を回し、資料を作り、たたき台まで仕上げていた。圭介なら三日かける段取りを、半日で組んでいた。それでも、最後の一点――二年前の経緯だけは、誰にも埋められなかった。誰かが「圭介さんすごい」ではなく「圭介さんいないと詰む」と書いた。スレッドのどこにも、圭介からの返信はなかった。
試しに、検索窓に自分の名前を打ち込んだ。出てきたのは「圭介さん、承認お願いします」「判子いただけますか」の羅列と、今日の「圭介さん、折り返しお願いします」だった。二十数年勤めた会社に残っている自分の名前は、全部、誰かが困って呼ぶ声だった。
いなくてもいいのでは、という言葉が、輪郭を持って浮かんだ。
――その夜遅く、世界の麻酔が、切れ始めた。
最初の音は、玄関から聞こえた。十一時ごろ、悠真が圭介の工具箱を開けて、しゃがみ込んでいた。自転車のブレーキが緩いらしい。六角レンチを二本出しては、戻している。
「これ、あとで父さんに聞――」
言いかけて、悠真の手が止まった。
悠真はレンチを持ったまま、ゆっくり顔を上げて、家の中を見回した。リビング。階段。廊下の奥。何かを探す目だった。何を探しているのか、自分でも分かっていない目だった。
「……あれ。親父って、今日……」
つぶやきは、そこで途切れた。悠真は首を振って、工具箱を閉めた。ブレーキは直らないまま、玄関に転がった。
圭介は、その場から動けなかった。今日一日で初めて、この世界の誰かが、圭介の形をした空白に、つまずいた音がした。
布団に戻ると、スマホがまた光っていた。例のスレッドが、夜中なのに動いている。二年前の資料は、結局誰も見つけられていなかった。
「すみません、今からでも圭介さんの携帯、もう一回鳴らしてみます」
「さっきもかけたけど出ないんだよな……」
「そういえば今日、圭介さんの名前、一回も見てないな」
部長のアイコンが現れた。
「圭介はどうした。誰か連絡ついてるか」
自分を探す形で並ぶ言葉を、圭介は指で一つずつなぞった。返信を三回打って、三回消した。届かないことだけが、確かだった。
スマホを置いたとき、寝室のドアが開いた。
紗弓だった。水を飲みに行った帰りらしい。ドアのところで立ち止まって、暗い寝室を――圭介のベッドのあたりを、じっと見た。それから台所へ戻っていった。
圭介は後を追った。紗弓は食器棚を開けて、いちばん奥から、圭介のマグカップを出した。昼間、自分で仕舞ったカップだった。それを両手で持って、少しのあいだ眺めて、手前の、いつもの定位置に戻した。
そして、誰もいないキッチンで、小さく言った。
「圭介、どこ行っちゃったんだろう」
圭介は一歩踏み出して、届かないと知っている手を、それでも伸ばした。指先は、紗弓の肩のかたちを確かめただけだった。
電球が替えられても、仕事が回っても、この人は、夜中に俺のカップを元に戻すのか。
ここにいるよ、と言った。声は、台所の暗さに混ざって消えた。それでも圭介は、もう一度言った。今度は、届かせるためではなく、約束するために。
五 三十秒の練習
布団に戻っても、眠れなかった。
スマホの写真フォルダを開いた。仕事のスクリーンショットの中に、一枚だけ毛色の違う写真がある。先週の帰り道に撮った、駅前の新しいラーメン屋の看板。「当店のスープは、諦めが悪い。」――なんだそれ、と笑って、誰かに話そうと思って撮って、話さなかった写真。言うほどのことじゃない、と思ったからだ。
圭介は暗い寝室で、天井に向かって、小さく声に出してみた。
「駅前にさ、変な店できたんだけど」
言ってから、少し直した。
「……駅前にさ、こういう店できたんだけど。見てこれ」
四十七歳が、深夜に一人で、三十秒の世間話の練習をしていた。プレゼンの練習なら何百回もしてきた。こんな練習は、初めてだった。笑えた。笑えて、少しだけ、目の奥が熱かった。
写真フォルダは閉じなかった。画面が暗くなるたびに指で灯し直しながら、圭介は朝を待った。
第三部 母
六 白い機械
紗弓の消えた一日は、知らない機械の音から始まった。
目覚ましより早く目が覚めて、頭の中で今日のタスクが自動的に整列する。朝食、洗濯、掃除機、買い出し、夕飯の下ごしらえ――整列したタスクは、階段を降りて十秒で、全部行き場を失った。
キッチンに、白い機械が立っていた。
冷蔵庫を細くしたような、マットな白の円筒だった。継ぎ目のない腕が二本、フライパンの上で卵を返している。手つきは紗弓より正確だった。胸のパネルに小さな文字が流れている。「おうちメンテナンス・プレミアムプラン 稼働中」。
この世界では、それが普通らしかった。圭介も悠真も、機械を見ても何も言わない。最初からそこにあるものとして、皿を受け取っている。二人とも、紗弓には気づかない。声も届かない。あの広告だ、と直感した。あなたが一日だけ、存在しなかった世界。
私の代わりは、機械だった。
そう思ったのに、湧いてきた最初の感情は、悔しさではなく、解放だった。
何もしなくていい。誰の腹の空き具合も、靴下の残数も、提出書類の期限も、考えなくていい。二十四時間、まるごと自分のものだ。こんな日を、何年待っただろう。
紗弓はソファに座って、撮りためたドラマを一話まるごと観た。誰にも中断されない一話は、優雅だった。機械は音もなく床を磨き、洗濯物を畳み、済んだそばから次の家事に移っていった。文句も言わず、疲れず、「今日何がいい?」とも訊かない。完璧だった。
二話目の途中で時計を見ると、まだ十時半だった。いつもの十時半は戦場なのに、時間は驚くほど進まなかった。
昼前、テーブルに置かれたスーパーのチラシに、目が吸い寄せられた。特売の豚こま。頭が勝手に献立を三パターン組み立てた。生姜焼きなら悠真が食べる。でも先週もやった。じゃあ――
組み立ててから、気づいた。献立は、もう私の仕事ではなかった。
機械のパネルに、今夜の献立が表示されていた。「本日の夕食:鶏の唐揚げ(栄養バランス最適化済)」。
唐揚げは、私の担当だったのに。
七 「夕食です」
午後の家は、完璧だった。
床には埃ひとつなく、脱ぎっぱなしの服は三分以内に回収され、飲みかけのコップはすぐ洗われて棚に戻った。洗濯物は角を揃えて畳まれ、各自の部屋に配達された。悠真のTシャツも、機械が畳んだ。袖の長さが先月より伸びていることに、機械は気づかない。気づく必要が、そもそもない。
三時過ぎ、悠真がリビングで「あれ?」と言った。紗弓は反射的に立ち上がった。呼ばれる、と体が思ったのだ。
機械が先に答えた。「爪切りは、リビング収納の二段目です」。悠真は「ん」とだけ言って、二段目を開けた。
紗弓は、立ち上がった中途半端な姿勢のまま、座り直した。誰にも見られていないのに、頬が熱かった。
四時前、家の電話が鳴った。悠真の中学時代の担任――ではなく、今の高校の部活の顧問からだった。圭介が出た。
「来週の遠征の参加同意書、まだ出てないんですが、悠真くん体調とか大丈夫ですか」
圭介は「あ、はい、大丈夫です」と答えたが、電話を切ってから固まった。同意書がどこにあるのか、そもそも配られていたことすら知らなかった。悠真の部屋を探しても出てこない。悠真本人に訊いても、「机の中のどっかにあるはず」としか分からない。
紗弓は知っていた。学校からの書類は、いつも紗弓が最初に目を通し、緊急連絡先とアレルギーの欄を埋めて、提出日をカレンダーに書き写していた。その同意書は、紗弓のバッグの内ポケットに、記入済みで入っていた。誰も、そこを探さなかった。バッグごと、紗弓の持ち物として、この世界からは見えない場所になっていたからだ。
圭介は結局、学校のサイトから書式をダウンロードし直し、悠真に空欄を埋めさせて、二人でぎこちなく緊急連絡先の欄を相談しながら書いた。四十分かかった。紗弓なら十分もかからない作業だった。
「これ、母さんがいたら一瞬なんだけどな」
悠真がぽつりと言った。圭介は何も返さず、判読しにくい字で「アレルギー:なし」と書いた。本当は、悠真は小学生のとき卵にじんましんが出たことがある。今は平気だが、紗弓はそれをずっと覚えていて、毎回この欄に「軽度既往あり(現在は問題なし)」と書き添えていた。今回、その一文は、どこにも書かれなかった。
書類を提出しに行った帰り、圭介のスマホにまた着信があった。顧問からだった。
「すみません、緊急連絡先が携帯番号だけになってたんですが、自宅の番号もいただけますか。あと、去年の遠征のとき、何かアレルギーの申告があったような記憶があって……確認させてもらえますか」
圭介は「大丈夫だったと思います」としか答えられなかった。電話を切ってから、大丈夫だと思う根拠が、自分の記憶のどこにもないことに気づいた。ああいうことは全部、紗弓が把握していた。紗弓のいない家で、圭介は初めて、自分が家族の何を知らずに生きてきたかを、書類の空欄を通して思い知らされた。
夕方、ふと気づいた。今日、まだ一度も「お母さん」と呼ばれていない。「ねえ」も「ちょっと」も「おーい」もない。代わりに家は、過去いちばん綺麗だった。
六時半、機械が言った。
「夕食です」
平坦な、感じのいい合成音だった。テーブルには唐揚げが並んでいた。湯気の立ち方まで完璧だった。
誰も、来なかった。
圭介はソファから「あとで」と言い、悠真は二階から降りてこなかった。機械は咎めなかった。三十分後、悠真が降りてきて、自分の皿だけ持って部屋に戻った。圭介はテレビの前で食べた。機械が、誰も座らなかった席の皿を、保温モードに切り替えた。
食後、圭介は薬を飲まなかった。血圧の薬だった。半年前から飲み始めたそれを、圭介自身は何度も忘れかけていた。忘れないように飲ませていたのは、いつも紗弓だった。夕食の最後に「薬」とだけ言う。それだけで、圭介は反射的に立って、薬箱を開けていた。
機械は、圭介の薬のことを知らなかった。カルテには載っていても、「食後にひとこと声をかける」という項目は、どこにも登録されていなかった。その夜、圭介の血圧の薬は、箱の中で一錠、飲まれずに残った。
「夕食です」と、機械は言えた。「ごはんできたよ」と言う機能は、搭載されていなかった。
――夜、世界の麻酔が切れ始めたのは、その食卓からだった。
九時ごろ、悠真が皿を下げに降りてきた。唐揚げが、二個残っていた。機械が「お口に合いませんでしたか」と訊いた。悠真は皿をシンクに置いて、言った。
「……うまいよ。うまいけど、なんか、違うんだよな」
機械は0.5秒沈黙して、「フィードバックを記録しました」と答えた。
悠真はリビングを見回した。ソファの圭介を見て、キッチンを見て、それから、いつも紗弓が座っている椅子を見た。
「なあ、親父。母さんは?」
圭介がテレビから顔を上げた。
「え?」
「いや、朝から見てなくない?」
「……そういえば」
圭介はリモコンを置いて、立ち上がった。キッチンを覗き、洗面所を覗き、寝室の戸を開けた。戻ってきた顔から、テレビを見ていた緩みが消えていた。
「買い物か?」
「こんな時間に?」
「LINEしてみろ」
悠真がスマホを出した。紗弓のポケットの中で、紗弓のスマホは鳴らなかった。この世界に、着信する紗弓はいなかった。
「既読、つかない」
二人は、綺麗すぎるリビングの真ん中に突っ立っていた。機械が横を滑っていって、テーブルを拭いた。完璧な家の中で、男二人だけが、何をしていいか分からない顔をしていた。
「母さん、どうしたんだろう」
悠真の声は、昼間「ん」とだけ言った声と、同じ人間のものとは思えなかった。
それから、奇妙なことが起きた。
悠真が、部屋に戻らなかったのだ。スマホを握ったまま、ダイニングの椅子に座った。いつも紗弓が座る椅子の、隣の席に。圭介もテレビを点け直さなかった。向かいの椅子に座って、二人とも、黙って玄関のほうを見ていた。
誰も「待とう」とは言わなかった。ただ、六時半に誰も集まらなかった食卓に、九時半になって、二人が集まっていた。
紗弓は、その食卓を見ていた。
料理が並んでいるときには、誰も来なかったテーブルだった。何も並んでいない今、二人はそこにいた。この二人を食卓に集めるのは、唐揚げではなかった。
私だったのか。
八 ごはんできたよ
夜十時半、二人はまだ起きていた。
悠真が友達に「母さん見てない?」とLINEを送り、圭介が近所を一周して戻ってきた。何も見つからないまま、二人はまた食卓に座った。機械が「就寝時間です」と告げた。誰も動かなかった。
紗弓は、キッチンに立った。
調理台は、機械が磨き上げた直後だった。拭くところなど、どこにもない。それなのに手が布巾を探して、空を掴んだ。二十年の癖だけが、行き場を失って残っていた。
その手のまま、紗弓は食卓の二人を見た。綺麗な家で、完璧な食事をして、それでも私を探している二人を。
階段の下に立って、届かないと知りながら、言った。
「ごはんできたよ」
誰にも聞こえない号令は、廊下に落ちて消えた。それでも紗弓は、もう滑稽だとは思わなかった。
戻ったら、手を抜くことを覚えよう。機械に勝てる料理なんて、目指さなくていい。でも、あの一言だけは、明日も私が言う。
あれは家事じゃないから。
第四部 悠真
九 最強の一日
悠真の消えた一日は、人生最高の朝として始まった。
起こされなかった。「いつまで寝てるの」がなかった。カーテンを開けられることも、掃除機をわざと部屋の前でかけられることもなかった。目が覚めたのは昼の十二時前で、それを咎める声は、この世界のどこにもなかった。
リビングに降りても、誰も悠真を見なかった。あの広告だ、とすぐに分かった。あなたが一日だけ、存在しなかった世界。理解した瞬間、頭に浮かんだ言葉は一つだった。
――最強じゃん。
宿題をやれと言われない。スマホの時間を数えられない。姿勢とか、言葉づかいとか、進路とか、何も言われない。この家に張り巡らされた監視カメラが、全部止まった。
悠真は昼からずっとスマホをやった。ソファのいちばんいい場所を占領して、音量を上げて、ぶっ通しでやった。全部、いつもなら何か言われることだった。何も言われなかった。
最高だった。三時間くらいは、間違いなく最高だった。
三時ごろ、クラスの数学のグループLINEが、少しだけ動いた。日曜締切のワークについて、誰かが「みんなの答え、悠真の写真待ちなんだけど」と送っていた。悠真は毎回、早めに解いて写真を撮り、グループに流す係になっていた。誰も頼んだわけではないのに、いつの間にかそうなっていた。
「え、既読つかなくない?」
「今日忙しいのかな」
「まあ答え合わせは各自でいっか」
既読はつかないまま、五分後には別の話題に流れていった。困っていたのは、ほんの数分だけだった。誰かが本気で焦る前に、その困りごとは、ちょうどよく消化された。悠真はそのやり取りを、後から見ることさえできなかった。この世界のグループLINEに、悠真は登録されていなかったからだ。
少しだけ、既読のつかない吹き出しの下に「悠真、テスト前なのかな」という一言が残った。誰も深く追及せず、そのまま流れは次の話題――今度の文化祭の出し物の話――に移っていった。心配というより、路肩に落ちた小石に気づいて、少しだけ歩調を緩め、また歩き出す程度の反応だった。
三時間を過ぎたあたりから、ゲームの音の向こう側が、やけに静かなことに気づいた。いつもは向こう側に音があった。掃除機の音、水音、母親が電話で笑う声、父親のくしゃみ。うるさいと思っていた生活の雑音が、今日は一つもない。音量を上げているのは、勝ちたいからじゃなくて、静かさを埋めたいからかもしれなかった。そこまで考えて、考えるのをやめた。
十 誰も来ない側
四時過ぎ、悠真はスマホをポケットに入れて、外に出た。充電が残り少なかった。挿せばいいだけだった。でも、音の出るものが自分しかない家に、これ以上いたくなかった。
住宅街を歩いていると、前から自転車が二台来た。同じクラスの原田と滝口だった。二人でなんか喋って笑っている。
悠真は反射的に、手を上げかけた。
二台の自転車は、上げかけた手の横を、風だけ残して通り過ぎた。原田の笑い声が、すれ違いざま、悠真のいない話題で弾けた。
悠真は、中途半端に上がった手をポケットに突っ込んだ。誰にも見られていないのに、見られたときの何倍も、恥ずかしかった。
足はなんとなく、学校のほうへ向いた。体育館からボールの音がしていた。バスケ部の自主練だ。渡り廊下の窓から覗くと、いつもの面子が3on3をやっていた。悠真を入れて七人のはずのメンバーは、六人だった。誰も休まなくていい。誰も「悠真来ねえの?」と言わない。この世界に「来ない悠真」はいない。最初からいないのだから。
六人は、ちょうどよかった。
唯一、少しだけ止まった時間があった。ビブスの数を数えていた一年生が、「あれ、六枚しかないっすね」と言った先輩に、「七人分あったはずだけど」と首をかしげられた。悠真が自分の分だけ、部室のロッカーに持ち帰ったままになっていたビブスだった。一年生がロッカー室を覗きに行き、鍵がかかっているのを確認して、「まあいっか、六人だし」と言って戻ってきた。三十秒の出来事だった。悠真の名前は、誰の口からも出なかった。
公園のベンチに座った。夕方、家族連れがいた。小さい子が転んで、泣いて、親が駆け寄って、大げさなくらい心配していた。うるさいな、と思った。擦りむいただけだろ。思ってから、気づいた。俺、あれを「うるさい」って思える側だったんだ。今は、転んでも誰も来ない側に座っている。
六時を過ぎた。スマホを見た。
通知は、ゼロだった。
いつもなら鳴る時間だった。「どこにいるの」「ごはんは?」「六時には帰りなさいって言ったよね」。うざくて、半分は既読無視してきたあの連投が、今日は一件もない。門限は、破る相手がいて初めて門限だった。
最後の充電で、インスタを開いた。ストーリーの先頭に、部活のグループが上がっていた。3on3のあと、コンビニに寄ったらしい。アイスを持った六人が写っていて、「全員集合」とスタンプが押してあった。
六人で、全員だった。
誰かが悪いわけじゃない。この世界には最初から六人しかいないのだから、六人で全員。計算は合っている。合っているのに、悠真はしばらく、息の仕方を忘れていた。
画面が、充電切れで落ちた。黒い画面に、自分の顔だけが映った。今日一日で、悠真を見た目は、それだけだった。
日が落ちて、公園から家族連れが消えた。街灯がついた。悠真は暗くなったベンチに、もうしばらく座っていた。急いで帰る理由が、この世界にはなかった。誰も待っていないというのは、そういうことだった。
十一 玄関の明かり
家に帰ったのは、八時前だった。
角を曲がって、悠真は足を止めた。
家中の電気が、点いていた。リビングも、二階の悠真の部屋も、普段は点けない玄関の外灯まで。真っ暗な家を覚悟していた悠真は、明るすぎる自分の家を、しばらく他人の家みたいに眺めた。
玄関を開けると、母の声がした。
「――だから、部屋にもいないの。ベッドも使った跡がなくて」
電話だった。母はリビングを歩き回りながら喋っていた。声が、聞いたことのない速さだった。
「原田くん、今日悠真と会ってない? ……そう。……ごめんね夜に。もし連絡あったら――うん、お願い」
電話を切った母に、階段を降りてきた父が言った。
「滝口くんは」
「会ってないって。原田くんも」
「部活は」
「今日は自主練で、来る人だけ。悠真は来てなかったって」
「電話は」
「何回かけても、電源が入ってないの」
ポケットの中で、悠真のスマホは黒い画面のまま、冷たくなっていた。いつも無視してきた着信が、今日は一件も、届いていなかった。
「ただいま」
言ってみた。誰も振り向かなかった。分かっていた。それでも、この明るい家の真ん中で返ってこない「ただいま」は、昼間の静けさより、ずっと重かった。
父が上着を掴んだ。
「駅前と、公園と、コンビニ回ってくる。おまえは家にいろ。帰ってくるかもしれないから」
「事故だったら」
「――まだ決めるな」
父の自転車の音が遠ざかって、母は玄関にしゃがみ込むように座った。悠真はその横に立っていた。母の手が、スマホを握ったり緩めたりを繰り返している。時計を見る。玄関を見る。また時計を見る。
俺、ここにいるよ。
言っても、届かなかった。母は九時に一度、十時にもう一度、悠真の部屋を見に行った。いるはずがないと分かっている部屋を、二度。
十時半、父が帰ってきた。首を横に振った。二人はダイニングの椅子に、崩れるように座った。母が湯呑みを二つ出しかけて、手を止めて、三つ出した。一つは、誰も座っていない悠真の席の前に置かれた。湯気が、静かに立った。
長い沈黙のあと、母が言った。
「……あの子、小さい頃、よく迷子になったよね」
「なった」父が、詰めていた息を吐くように答えた。「スーパーで三回、祭りで二回」
「見つかるといつも、泣いてなくて。怒ってたの。『いなくなったのはそっちだ』って」
「あれは理不尽だった」
少しだけ、二人の口元が緩んだ。緩んで、すぐ戻った。
「自転車、初めて乗れた日。覚えてる?」
「覚えてる。俺が後ろ離したの、ばれてないと思ってたら、あとで泣かれた」
「『離すなら離すって言え』って」
「言ったら乗れないだろって話なんだけどな」
「ランドセル、ぶかぶかだったよね」
「六年間で、ちゃんと背中のほうが追いついた」
母は湯呑みを両手で包んだまま、悠真の席の湯気を見ていた。
「高校生になってさ、全然、話さなくなったけど」
「ん」
「ごはん、ちゃんと食べてるのかな。お弁当、残ってる日あるの、知ってるんだよね」
「……知ってたのか」
「お母さんは知ってるの、そういうの」
母の声が、そこで初めて崩れた。
「うるさいって思われてるのも、知ってるの。でもさ、うるさく言うのやめたら、私、あの子に何も言うことなくなっちゃう」
父は何も言わずに、母の前の湯呑みを、少しだけ母のほうへ押した。
「元気なら」父が言った。「元気で、どこかで飯食ってるなら、それでいいんだけどな」
悠真は、誰も座っていない自分の席の後ろに、立ち尽くしていた。
迷子の回数も、補助輪の日も、残した弁当も、全部――全部、覚えられていた。既読無視してきた「どこにいるの」は、この顔で、この声で、送られていた。
悠真は自分の席の椅子を見た。湯呑みから、まだ細く湯気が上がっていた。誰もいないと分かっている席に、母はお茶を置いた。
口を手で塞いだ。声を出したら、全部あふれる気がした。それでも、喉の奥から、勝手に言葉が出た。
「……ただいま」
母が、顔を上げた。
「ねえ」母は玄関のほうを見た。悠真の体を、まっすぐ通り抜けて。「今、悠真の声、しなかった?」
「え?」
「玄関で。ただいまって」
父は立ち上がって、玄関のドアを開けた。夜の住宅街には、誰もいなかった。父はしばらく外を見て、それから、外灯のスイッチを確かめた。点いていることを確かめて、もう一段、明るいほうに切り替えた。
「――帰ってくるよ」
ドアは、鍵をかけずに閉められた。
玄関の明かりは、朝まで消えなかった。
最終章
十二 少しだけ増えた音
日曜の朝、三つのスマホが、ほとんど同時に震えた。
「体験は終了しました。 #一日だけ消える世界」
通知はそれだけだった。タップすると白い画面が一瞬光って、消えた。履歴にも残らず、検索しても、そのハッシュタグはどこにもなかった。
圭介が寝室を出ると、階段の下から味噌汁の匂いがした。キッチンに紗弓がいて、顔を上げた。目が合った。
「……おはよう」
「おはよう」
当たり前の返事が、当たり前に返ってきた。食器棚の手前の定位置に、圭介のマグカップがあった。
昼前に起きてきた悠真は、リビングの入り口で一瞬止まった。紗弓が振り向いて、「おはよう。もうお昼だけどね」と言った。いつもの小言だった。悠真は「……うっせ」と返した。返しながら、その小言を、最後まで聞いた。
夕方、自主練から帰った悠真が玄関を開けると、「おかえり」が二つ、少し重なって返ってきた。悠真は靴を脱ぎながら、返ってきた、とだけ思った。それだけのことを、しばらく味わってから、家に上がった。
三人とも、あの一日のことは語らなかった。言葉にした瞬間、安っぽくなる気がしたのだ。三人が三人とも、別々に、同じことを思っていた。
六時半、紗弓が階段の下から言った。
「ごはんできたよ」
二階から「はーい」が降ってきた。ソファから圭介が立った。一分後、三人が同じテーブルに揃っていた。唐揚げだった。悠真は五個食べた。紗弓は数えて、何も言わなかった。
食事が終わりかけたころ、圭介がポケットからスマホを出した。少し迷ってから、一枚の写真を表示して、テーブルの真ん中に滑らせた。
「駅前にさ、こういう店できたんだけど。見てこれ」
変な看板の写真だった。「当店のスープは、諦めが悪い。」
「なにこの店名」と悠真が言った。「は? ダサ」
「並んでまで食べたい?」と紗弓が言った。
「いや、俺もそう思って撮った」
悠真が笑った。紗弓が笑った。圭介も笑った。三十秒で終わる、何の栄養にもならない会話だった。
笑いが引いたところで、紗弓が言った。
「……行ってみる? 今度」
「並ぶぞ」と圭介。
「まあ」と悠真は、唐揚げの最後の一個に箸を伸ばしながら言った。「どこでもいいけど」
どこでもいい、は、行く、という意味だった。両親はその翻訳を、正確に受信した。
テーブルの隅で、三つのスマホは伏せられたまま、最後まで一度も鳴らなかった。
昨日までと同じ家なのに、少しだけ音が増えた。
(了)