
「弱い」からいじめられるのか?
とあるYouTube動画でこんな話がありました。
それは鶏小屋の話で、鶏の繁殖の都合上、小屋での個体数調整が必要になりました。
そこで選ばれたのは繁殖能力を無くした雄鶏で、年老いているせいか周りにいじめられていたとのことです。小屋のことを考えるならば、至極妥当な選別でしょう。
自然界、生物界では弱肉強食、弱きものは淘汰されていきます。
何をもって強い、弱いとするのかは、あえてここでは述べません。
ところで人間界ではどうでしょう。いじめは許されることではありません。鶏小屋の話を人間に置き換えるならば、歳をとったおじいちゃんが若い人たちにいじめられている、という構図です。おじいちゃんに罪はありませんし、若い人たちは裁かれる側です。おじいちゃんが何か悪いことをしていれば考える余地はありますが、現時点で道徳、倫理的に反論の余地はないでしょう。
しかし、人間も生物です。生物学に当てはめると、弱きものがいじめられる、という構図からは逃れられないので、いじめは無くならないだろう、という論を唱える人は一定数います。
私も生物学の捉え方と人間界での矛盾に一種の諦めがあり、いじめは無くならないだろうなと思っていました。あくまで情緒の安定した人たちの中でのみいじめの無い(必要がない)世界が成立し、そうではない環境では弱きものが淘汰される結末だろうと。
しかし、ふと思いました。強きもの、弱きものを分ける基準とは何なのだろうと。
パッと人間界でイメージしたのは、頭がいいとか、スポーツができるとか、背が高いとか、美男美女であるとか、そういうものが思い浮かびました。
では自然界では何なのでしょう?
ここでヒントになったのが「恐竜絶滅の理由」です。
有力な説は「隕石衝突説」です。これにより多くの恐竜を含む巨大生物が絶滅しました。
しかし、このとき我々の祖先は生き残りました。生き残れた理由は、「弱かったから」です。
当時我々の祖先を含む、生き残った生物はみな非常に小さく、恐竜のような大きな生物に狙われないように工夫して生活していました。
例えば土の中で生活したり、悪い環境(例えば酸素が少ないなど)でも大丈夫なように進化したり、弱さなりに生き抜きました。
言い換えると、「環境に適応した」のです。
実は自然界でも「何が強い」という恒常的なものは存在しません。なぜなら環境は目まぐるしく変わり、その都度「強さ」の定義も変化するからです。
生き残るためには「適応力」が大事になります。
ここで鶏小屋の例に戻りましょう。
いじめられていた鶏は弱かったからいじめられたのではなく、老いという自らの変化、若い鶏が多いという環境に適応できなかった、ということです。
例えば力が強い、姿形が大きい、という要素だけではなく、もしかしたら鳴き声が特殊だ、とかトサカの色が奇抜だ、などでもいじめから逃れられたかもしれませんし、鶏界の目線になれば工夫次第でいじめられなくなる手段があるかもしれません。
人間界でもこの目線になれば、淘汰によるいじめ、という捉えは無くなるのではないかと思います。
おじいちゃんだとしても、環境によっては若い人より強い、上手になれる場所もあるでしょう。反対に、おじいちゃん側の工夫でいじめられるような場面を減らせるかもしれません。
ちなみにこの考えは「多様性」を肯定する主張の根源かもしれません。みんな違ってみんな良い、というのは、それぞれに輝ける場所がある、ということでしょう。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、ここまでの私の文章では、「いじめを無くす」という論には至っていません。結局環境によってはいじめられてしまうよね、ということになってしまいます。
ただ、少なくとも生物界の捉えと人間界の矛盾は自分の中で解き明かされました。
そして、いじめは無くならないかもしれませんが、いじめが起きる環境を減らす策のヒントはここまでにも散らばっています。
環境を作る側の目線になれば、いじめを無くすにはいじめている側が強くなれない環境に変えること。
いじめる側の目線になれば、強い弱いというのは環境によって変わるものなので、それを理由にいじめをしてはいけないと謙虚になること。
いじめられる側の目線になれば、適応する、という意味で工夫すること、もしくは環境を変えること。
上記のことは生物界でも人間界でも通用する気がします。ただ、唯一いじめる側の策のみ、人間界でしか起こり得ない気もします。
人間界とはもしかしたら自然界よりもだいぶ優しい世界なのかもしれません。