【音】明日の光が見える場所― Light of Tomorrow ―
午前五時十二分。
まだ街は、眠っていた。
カーテンの隙間から見える空は、
夜の色を、少しだけ薄めている。
紺色だった空の端に、
ほんのわずかに、
灰色が混じっていた。
それは、
朝と呼ぶには早すぎて、
夜と呼ぶには、
少し明るい。
そんな時間だった。
美咲は、
キッチンの小さな窓から、
外を眺めていた。
テーブルの上には、
冷めかけたコーヒー。
その隣には、
昨日の夜に書いた、
一枚のメモが置かれている。
『明日の朝、駅へ行く』
たったそれだけ。
けれど、
その一行を書くまでに、
ずいぶん長い時間がかかった。
美咲は、
メモを指先で押さえながら、
小さく息を吐いた。
三十八歳。
仕事を辞めてから、
もう四か月になる。
正確には、辞めたのではない。
会社の都合で、契約が終わった。
同僚たちは、
「また次があるよ」
「少し休めばいいじゃない」
と声をかけてくれた。
その言葉は、優しかった。
だからこそ、美咲にはつらかった。
次がある人には、
次が見えている。
休めばいいと思える人には、
休んだ先の場所がある。
自分には、それがなかった。
求人サイトを開いては、閉じる。
履歴書を書こうとして、途中で保存する。
電話が鳴ると、
何か悪い知らせではないかと、身構える。
そんな毎日を繰り返しているうちに、
四か月が過ぎていた。
そして、気づけば季節まで変わっていた。
「……明日、か」
美咲はメモを見つめた。
駅へ行く。ただ、それだけだ。
以前の職場へ向かう駅ではない。
面接に行くわけでもない。
誰かと待ち合わせているわけでもない。
ただ、始発電車に乗る。
行き先も決めていない。
それだけだった。
なぜそんなことを思いついたのか、
自分でもよく分からなかった。
ただ、昨日の夕方。
近所の公園を歩いていたとき、
ベンチに座っていた老人が、
空を見上げながら言ったのだ。
「明日の朝っていうのはね、
今日の続きじゃないんだよ」
美咲は思わず足を止めた。
知らない老人だった。
老人は美咲を見ずに続けた。
「今日がどんな日だったとしても、
朝になれば、また最初から始められる」
それだけ言うと、老人は立ち上がり、
ゆっくりと公園を出ていった。
美咲はその背中を見送った。
不思議だった。
たった一言だったのに、
その言葉がずっと胸に残った。
だから、駅へ行くことにした。
目的地のない電車に乗るために。
午前五時四十分。
美咲は駅のホームに立っていた。
人はほとんどいない。
自動販売機の明かりだけが、
やけに鮮やかに見えた。
線路の向こうには、まだ夜が残っている。
冷たい風が、ホームを抜けていった。
美咲はコートのポケットに手を入れた。
切符は一枚。
行き先は、海のある町だった。
なぜそこを選んだのか。
自分でも分からない。
ただ、駅員に、
「海の近くへ行きたいんですけど」
と言ったら、
「じゃあ、ここがいいですよ」
と教えてくれた。
電車が入ってくる。
金属の音が、静かな朝に響いた。
美咲は乗り込んだ。
座席には誰もいない。
窓際に座り、流れていく街を眺めた。
まだ店のシャッターは閉まっている。
信号だけが、誰もいない交差点で、
赤と青を繰り返している。
やがて住宅街を抜け、
建物が少なくなっていく。
空が少しずつ、明るくなっていた。
そのときだった。
向かいの席に、
男の子が座っていることに気づいた。
十歳くらいだろうか。
膝の上に、
小さなスケッチブックを抱えている。
隣には誰もいない。
美咲は少し気になったが、
声をかけなかった。
男の子は窓の外を見ている。
そして、突然スケッチブックを開いた。
鉛筆を走らせる。
美咲は、ちらりと絵を見た。
太陽だった。大きな太陽。
その下には、海が描かれている。
「上手だね」
思わず声をかけていた。
男の子は顔を上げた。
「まだ途中」
「そっか」
「朝の太陽を描いてる」
男の子はそう言って、
また鉛筆を動かした。
「朝の太陽?」
「うん」
「朝の太陽って、特別なの?」
男の子は少し考えてから答えた。
「昨日の太陽じゃないから」
美咲は笑った。
「……なるほど」
男の子も笑った。
「お姉さんは?」
「え?」
「どこまで行くの?」
美咲は少し迷った。
「海」
「一人で?」
「うん」
「何しに?」
「……分からない」
男の子は不思議そうな顔をした。
けれど、笑わなかった。
「じゃあ、一緒だね」
「え?」
「僕も分からない」
美咲は思わず吹き出した。
「何それ」
「お父さんが言ったんだ。
今日は海を見に行こうって」
「お父さんは?」
「後ろの車両」
そう言って、
男の子はスケッチブックを閉じた。
「お父さん、寝てると思う」
「そっか」
電車がトンネルに入った。
窓の外が真っ暗になる。
一瞬、二人の顔だけが窓に映った。
美咲は、その自分の顔を見て驚いた。
ずいぶん疲れている。
目の下には薄い影がある。
以前より老けた気がした。
でも、その隣には、
男の子の顔が映っている。
こちらは、
朝を待っている顔だった。
トンネルを抜ける。
光が戻ってくる。
男の子が言った。
「もうすぐだよ」
「何が?」
「海」
駅を降りると、
潮の匂いがした。
まだ朝は早い。
港へ向かう道には、
人影がほとんどなかった。
男の子は父親と合流すると、
「じゃあね」と手を振った。
美咲も手を振り返した。
「絵、完成したら見せてね」
「うん!」
親子は海沿いの道を歩いていった。
美咲は一人になった。
防波堤まで歩く。
海は静かだった。
水平線の向こうには、
まだ太陽が隠れている。
美咲は防波堤に腰を下ろした。
何をしに来たのだろう。
結局、答えは見つからない。
仕事が決まったわけでもない。
人生が変わったわけでもない。
昨日までと同じ自分が、ここにいる。
「……何も変わらないじゃん」
独り言が漏れた。
その瞬間だった。
水平線の向こうが、
ゆっくりと赤く染まった。
雲の隙間から、
光がこぼれる。
ほんの一筋だった。
けれど、その光は、
海の上に長い道を作った。
美咲は息を止めた。
光が少しずつ広がっていく。
海面が金色になる。
空が青くなる。
街の輪郭が浮かび上がる。
昨日までと同じ海なのに、
まるで別の場所のようだった。
美咲はポケットから、
スマートフォンを取り出した。
求人サイトを開く。
いつものように、
検索画面を眺める。
そして、初めて思った。
「……やってみようかな」
条件を検索する。
年齢。勤務地。未経験可。
いくつかの仕事が表示された。
以前なら、
「私には無理」
と閉じていた。
でも今日は、一つを開いた。
仕事内容を読む。
給与を見る。
休日を見る。
そして最後まで読んだ。
応募ボタンの前で、指が止まる。
怖かった。もちろん怖い。
落ちるかもしれない。
笑われるかもしれない。
また失敗するかもしれない。
それでも。
美咲は指を押した。
画面に、
『応募を受け付けました』
と表示された。
「……送っちゃった」
思わず笑った。
笑ったあと、なぜか涙が出た。
悲しいわけではない。
嬉しいとも少し違う。
ただ、止まっていた時間が、
ほんの少し動いたような気がした。
帰りの電車。
美咲は窓際の席に座っていた。
朝の街が、
少しずつ動き始めている。
パン屋の前には自転車が止まり、
コンビニには新しい商品が並べられている。
学校へ向かう学生。
仕事へ急ぐ人。
眠そうな顔をしたサラリーマン。
誰も、美咲のことなど知らない。
誰も、自分が今朝、
海へ行ったことを知らない。
それでいいと思った。
人生をやり直すというのは、
もっと大げさなことだと思っていた。
会社を辞める。
遠くへ引っ越す。
新しい誰かと出会う。
何か大きな決断をする。
そういうものだと思っていた。
でも違った。
たぶん、やり直すというのは。
朝起きて、
昨日とは違う方向へ、
一歩だけ歩いてみることなのだ。
それだけなのかもしれない。
スマートフォンを見る。
応募した会社から、
まだ返事はない。
当然だ。
今朝応募したばかりなのだから。
美咲は画面を閉じた。
窓の外を見る。
空は、すっかり明るくなっていた。
その光を見ながら、美咲はふと思った。
「明日の光って、
今日のうちから見えるんだ」
明日の朝が来る保証なんてない。
明日が今日より良い日になる保証もない。
それでも、人は眠りにつく。
朝が来ると信じて。
そして目を覚ます。
また一日を始める。
それだけでいいのかもしれない。
その夜。
美咲は昨日と同じキッチンにいた。
同じテーブル。
同じ椅子。
同じコーヒーカップ。
何も変わっていない。
ただ、一つだけ違っていた。
冷蔵庫に貼っていたメモを剥がした。
『明日の朝、駅へ行く』
その代わりに、新しい紙を貼った。
『明日の朝、窓を開ける』
美咲は笑った。
小さすぎる目標だった。
でも、それでいい。
大きなことを始めなくてもいい。
明日、窓を開ける。
カーテンを開ける。
朝の空を見る。
もし天気が良ければ、散歩に行く。
雨なら、家でコーヒーを飲む。
そして、また仕事を探す。
それでいい。
人生は、突然輝き出すものではない。
暗い部屋の中に、
小さな明かりを一つずつ灯していくものなのだ。
美咲は照明を消した。
窓の外には、
夜の街が広がっている。
遠くのマンションに、
いくつもの明かりが灯っている。
一つ。また一つ。
それぞれの部屋で、
それぞれの人生が眠りにつこうとしている。
美咲は窓辺に立った。
夜空を見上げる。
明日の太陽は、まだ見えない。
けれど、必ずどこかで準備をしている。
そう思えた。
「おやすみ」
誰に言うでもなく、美咲は呟いた。
そして、少しだけ笑った。
明日がどんな日になるのかは分からない。
うまくいくかもしれない。
また失敗するかもしれない。
思っていたより遠回りするかもしれない。
それでも。
明日の光は、今日の暗闇の向こうにある。
だから人は、歩いていける。
ほんの少しでいい。
一歩だけでいい。
まだ見えない明日へ向かって。
そして朝になったら、
また最初の一歩から始めればいい。
Light of Tomorrow.
それは、未来を約束する光ではない。
ただ、「もう一度、歩いてみよう」
と思わせてくれる、小さな光なのだ。
あとがき
「Light of Tomorrow」という言葉から、
最初に浮かんだのは、
まぶしい朝日ではありませんでした。
むしろ、夜明け直前の、
まだ空が暗い時間。
何も見えないけれど、
ほんの少しだけ空の色が変わり始めている。
そんな時間でした。
人生には、どうしても、
先が見えなくなる瞬間があります。
頑張っても結果が出ない。
何をしていいのか分からない。
昨日と今日が同じように過ぎていく。
そんなとき、
「明日はきっと良くなる」
と言われても、素直には信じられないことがあります。
だから今回の物語では、
主人公に大きな奇跡を起こしませんでした。
仕事がすぐに決まるわけでもありません。
人生が劇的に変わるわけでもありません。
ただ、海へ行って、朝日を見る。
そして、一つだけ新しい行動をする。
それだけにしました。
明日というものは、
いつだって少し遠くにあります。
何が待っているのかは分かりません。
だからこそ、怖い。
でも、分からないからこそ、
可能性も残っています。
もし今、
何かに立ち止まっている人がいたら。
大きな一歩じゃなくてもいいと思います。
窓を開ける。
外へ出る。
誰かに連絡する。好きな音楽を聴く。
そんな小さなことでいい。
今日と少しだけ違うことをしてみる。
その小さな変化が、
いつか振り返ったとき、
「あの日が始まりだった」
と思える日につながるのかもしれません。
明日の光は、まだ見えなくてもいい。
歩き始めた人の前に、
少しずつ現れてくるものだから。
明日が、今日よりほんの少し、
優しい一日になりますように。
そして、あなたの窓にも、
小さな光が差し込みますように。
Light of Tomorrow.
#LightOfTomorrow
#短編小説
#小説
#希望の物語
#人生の物語
#明日への一歩
#ヒューマンドラマ
#note小説
#オリジナル小説
