彗星の輝く街で
あらすじ
1997年、ヘール・ボップ彗星が夜空を渡った年、湯けむり立つ別府に生まれた慧は、祖母と母に支えられながら絵を描く喜びを育む。母の病、進路で夢を否定された痛みを抱えながらも、公務員として働く中でシャッターアートに挑み、再び絵への情熱を取り戻す。やがて地元市役所の広報担当となり、町の人々との出会いやマンホールデザイン、百貨店展示を通して、市役所職員として町を伝え、画家として町を描く道を歩み始める。彗星のように、誰かの心を照らす絵を目指して。
※本作は、作者自身の体験をもとにした物語です。登場人物・出来事の一部には、創作を加えています。
______________________________
1997年の春、日本中がその白く長い尾に目を奪われていた。「あんたはな、あの星と一緒に生まれてきたんよ」 後に、祖母は何度も私にそう語り聞かせた。 20世紀最大級と謳われたヘール・ボップ彗星。それは天文学の数字を超えて、当時の人々の退屈な日常に、突如として突き刺さった光の楔だった。大人たちはこぞって夜空を見上げ、世紀末の予感と、言葉にならない高揚感をその白い尾に託していた。 私はそのとき、まだ世界というものの形すら認識していない、ゆりかごの中の赤ん坊だった。
網膜にその光を受け止めてはいたはずだが、記憶の引き出しには何も残っていない。けれど、物心がついてから図鑑や古い映像でその姿を見たとき、私の胸には奇妙な、血が通うような納得感があった。 地球の人間が、ほんの数週間、夜空を見上げて騒いだだけの刹那の祭り。けれど、あの星にとってはその数週間こそが気の遠くなるような旅の、ほんの一瞬の通過点に過ぎない。いま、この瞬間も、星はマイナス270度の凍てつく闇を進んでいる。誰の目にも触れない、銀河の果ての漆黒を、孤独という重力さえ味方につけて、静かに、途方もなく長い楕円軌道を描きながら。
「この子はきっと、自分の道をひとりで歩いていかなきゃならんけん。暗い夜でも、迷わんような光を持たせてやりたいな」 母のその言葉に、祖母が「これな、ちょうど今、空におる星の字よ」と指差したのが「彗」という文字だった。そこに、心を表す字を組み合わせる。ただ冷たく宇宙を漂う氷の塊ではなく、そこに確かな温もりと、他者を想う血が通うように。そうして私は「慧」となった。 幼い頃から、私は自分の名前に含まれるその星の影を、無意識のうちに追いかけていたように思う。学校の帰り道、夕暮れが別府湾を濃い群青に染め上げる時間帯、私はいつも立ち止まって空を探した。一瞬で派手に燃え尽きて、あとに何も残さない打ち上げ花火のような生き方には惹かれなかった。そうではなく、長く、気が遠くなるほど遠い旅を続けながらも、時折、誰かの凍えそうな夜空にふっと現れるような存在。見上げた人が、「ああ、まだあそこに光がある」と、ほんの少しだけ顎の角度を上げるような光。絶望の淵で、胸の奥に灯る古い記憶のような色。私もいつか、誰かにとってのそんな存在になりたかった。
私の五感は、別府の湯けむりによって育てられた。 朝、窓を開けると、灰色の空に向かって幾筋もの白い帯が立ち上っている。それはまるで、地底に眠る巨大な生き物が、静かに呼吸を繰り返しているかのようだった。鶴見岳をはじめとする、なだらかで、圧倒的な質量を持った山々が街を扇状に包み込み、その斜面にへばりつくようにして家々が並んでいる。そして坂道を下りきった先には、朝日にキラキラと鱗を光らせる別府湾の青が広がっていた。 地面からはどこからかかすかに地熱の響きが聞こえる。路地裏の排水溝からは年中、温かい湯気が噴き出し、冬の寒い朝には、その周りに野良猫たちが集まって丸くなっていた。 「慧ちゃん、別府の湯けむりはな、生きてる人間の吐く息と同じなんよ。温かいやろう」 街の人のその言葉を、私は文字通り信じていた。だから、東京や大阪といった大都市から来た観光客が、カメラを構えて「すごい、本当に街中から煙が出てる!」と歓声をあげるたびに、首を傾げたものだった。私にとっては、湯けむりも、温泉の匂いも、水道の蛇口をひねれば出てくる水と同じくらい、そこにあって当然の「背景」だったからだ。その日常の裏側に、どれほど豊かな大地の恵みと、それを守る人々の営みがあるのかを知るのは、ずっと大人になってからのことだ。
我が家には「父親」という存在がいなかった。物心ついたときから、私の世界は母と祖母、そして私の三人だけで完結していた。 母の記憶は、いつも「忙しそうな背中」と結びついている。朝、私が目を覚ます前、まだ外が薄暗いうちから、台所でパタパタと小気味よいスリッパの音が響く。ガスの青い火が点き、味噌汁の匂いが漂う。
母は仕事に奔走し駆け回っていた。夜、私が布団に入り、半分夢の中に落ちかけている頃、玄関のドアが静かに開く。カサカサになった手でコートを脱ぎ、深く、重い溜息をつく声が聞こえる。子どもながらに、私はその溜息を聞くのが怖くて、いつも寝たふりをして毛布を頭から被った。 それでも、私の学校での他愛もない話を「そうね、すごいね」と聞いてくれた。母は、自分がどんなに 擦り切れていても、我が家に「父親がいないから寂しい思いをさせている」という影を落としたくなかったのだろう。その「普通の家庭」というフィクションを維持するために、彼女がどれほど自らの肉体と精神を削り、体調の悪さを隠し通していたのか、小学生の私には知る由もなかった。 母が外で戦っている間、私の小さな世界のすべてを守ってくれていたのが、祖母だった。
祖母の手は、いつも少し魔法の匂いがした。 我が家には、流行りのゲーム機も、おもちゃ屋の棚に並ぶ高価な人形もなかった。けれど、祖母がいれば退屈という言葉は部屋に入り込めなかった。 「慧ちゃん、今日は何を作ろうか」 祖母は、新聞の折り込みチラシの束から、裏面が真っ白なものを手際よく抜き出すと、使い古されて短くなった色鉛筆を差し出してきた。祖母がチラシの裏に鉛筆を走らせると、カサカサという心地よい音が室内に響く。ほんの数秒で、そこには今にも動き出しそうなウサギや、みずみずしいトマトが姿を現した。輪郭線の一本一本に、命の拍動のようなものが宿っている。私はその手元を、またたきもせずに見つめていた。 「ほら、慧ちゃんも描いてごらん。何でもおるよ、この紙の中には」 促されるままに私が拙い手で線を引くと、それは不格好なジャガイモになり、羽の曲がった鳥になった。祖母はそれを見て、「上手ななぁ、この鳥はどこまで飛んでいくんかね」と目を細めた。 さらに、祖母の魔法は平面に留まらなかった。チラシを器用に折り、ハサミで切り込みを入れ、立体的な「立体的な畑」を作り上げるのだ。茶色いチラシを蛇腹に折って土の畝(うね)に見立て、そこに緑や赤の色鉛筆で塗った大根や人参を差し込んでいく。 「さあ、慧ちゃん、収穫の時期よ」 私は夢中になって、紙の土から大根を引き抜いた。 「あはは、おばあちゃん、おっきい大根が採れた!」 狭い四畳半の部屋、外は冷たい雨が降っていたけれど、そのチラシの裏から広がった世界は、近所の本物の畑よりも何倍も色鮮やかで、無限の広がりを持っていた。自分の指先ひとつで、世界に新しい景色を生み出すことができる。その万能感と、胸が高鳴るような興奮。思えば、あのコタツの上の、インクの匂いが残るチラシの裏こそが、私の芸術家としての最初の原風景であり、人生最初のアトリエだった。
小学校という新しい社会に入っても、私のアイデンティティは常に「絵」と共にあった。 休み時間、他の女の子たちが校庭で鉄棒の練習をしたり、ドッヂボールやおままごとをしたりしている間も、私は教室の隅で自由帳を広げていた。ノートの端のわずかな余白、学級旗のデザイン案、運動会の学級通信のカット。私の鉛筆が動くたび、クラスメイトたちが自然と私の周りに集まってきた。 「ねえ、慧ちゃん、私の似顔絵描いて!」 「すごい、これ本物みたい!」 その純粋な歓声を受け取るたび、私の胸の奥のパズルが、カチリと音を立てて嵌まっていくような感覚があった。私は勉強が飛び抜けてできるわけでもない、けれど、この白い紙の上だけは、私が私であっていいという確かな「居場所」を、自分の手で勝ち取っている実感があった。 算数の授業は苦痛だった。数字は決められた数式に従って、決められたマス目に正しく収まらなければバツをつけられる。漢字も、一画でも突き出していれば間違いとされる。どうして大人は、こんなにも狭い枠の中に私たちを閉じ込めようとするのだろうと、息苦しさを感じていた。 けれど、画用紙の上は違った。線がどれだけ歪んでも、それは「味」になった。街を黄金で塗ろうが、空を桜のよいなピンク色に染めようが、鳥の足を4本にしようが、誰も私を責めない。むしろ「面白いね」と褒められた。絵を描いている間、私は学校のチャイムの音からも、家庭のささやかな貧しさからも解放され、どこまでも自由に飛んでいくことができた。学校に行くのが楽しかったのは、私の絵を待ってくれる友だちがいたからだ。このまま大人になっても、私はずっとこうして絵を描き、誰かを驚かせながら生きていくのだろう。子ども特有の、根拠はどこにもない、けれど100パーセントの純度を持った絶対的な未来を、私は疑いもしなかった。
その日、学校から帰ると、家の中の空気がいつもと違っていた。夕方なのに電気が点いておらず、薄暗い居間に母と祖母が並んで座っていた。いつもなら「おかえり」と弾んだ声をあげるはずの母が、力なく俯いている。母がゆっくりと顔を上げた。「お母さんな、がんになったんよ。……がんだって」 その二文字の響きが耳に飛び込んできた瞬間、脳の奥でゴーンと重い鐘が鳴ったような衝撃があった。テレビのドラマや、ニュースの中でしか聞いたことのない言葉。それは当時の私にとって、「死」という圧倒的な闇と直結する同義語だった。 もし、お母さんが死んでしまったら。 思考がそこで急ブレーキをかけ、頭の中が真っ白な灰で満たされていく。これまで私を温かく包んでいた世界が、一瞬にして凍りつくような恐怖。巨大な鉄球が、容赦なく頭上から落ちてきて、私のささやかな日常を粉々に砕いていくイメージが脳裏をよぎった。祖母は隣で静かに涙を流しているが、その背中はいつの間にか小さくなり、足腰も弱っている。もし母がいなくなったら、私たちはどうなるのだろう。誰がご飯を作ってくれるのか、誰が働きに行ってくれるのか。私はこの家で、一人きりで取り残されてしまうのではないか。
――わたしはひとりだ。
その冷徹な確信が、胸の奥底からせり上がってきた。昨日まであんなに鮮やかだった通学路の景色、教室の黄色い壁、友だちの無邪気な笑い声、給食の時間に漂うカレーの匂い。そのすべてが、突然私とは関係のない「遠い世界の出来事」に変貌した。まるで、自分の周りだけ分厚いすりガラスの壁で囲まれてしまったかのように、周囲の音がこもって聞こえる。 本当の恐怖というものは、誰にも言えない。言葉にして口から吐き出した瞬間に、それが確固たる現実の呪いとなって、母の命を本当に奪い去ってしまうような気がして怖かったのだ。 「慧ちゃん、大丈夫? 最近元気ないね。一緒にドッジボールしようえ」 クラスの友だちが心配そうに顔を覗き込んできてくれる。その優しさが、ありがたいと同時に、喉の奥を締め付けるほど苦しかった。 「うん、大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」 作り笑いを浮かべて答える自分が、ひどく嘘つきで、汚い存在に思えた。本当の絶望を心の底に隠したまま、周囲に合わせて笑う。そのたびに、私は透明なカプセルの中に閉じ込められ、世界から少しずつ切り離されていくような強烈な孤独感を味わっていた。
手術の当日、別府市内の大きな病院の廊下は、どこまでも長く、冷たかった。 壁は無機質な白で統一され、天井の蛍光灯が規則正しく並んで、私たちの頭上を冷淡に照らしている。鼻を突く特有の消毒液の匂いが、呼吸をするたびに肺をチクチクと刺した。 「手術中」の赤いランプが点灯した扉の前で、私と祖母はプラスチックの椅子に並んで座っていた。天井のスピーカーから、時折「……の診察室へお越しください」と、感情の抜けた機械的なアナウンスが降ってくる。私は何度も、壁に掛けられた丸い時計を見上げた。 チク、タク、チク、タク。 針は確かに刻み続けている。それなのに、私という存在だけがその時間の流れから置き去りにされ、冷たい氷の中に閉じ込められているようだった。1分が1時間のように長く、世界のすべてが静止しているかのような錯覚に陥る。 お昼時、祖母に連れられて地下の食堂へ行った。祖母は「少しでも食べち、元気出さんとな」と言って、長崎皿うどんを注文してくれた。 運ばれてきた皿うどんを箸で崩し、口に運ぶ。パリパリ、ポリポリと、口の中で麺が砕ける音だけが、やたらと大きく頭の中に響いた。けれど、餡の味も、野菜の甘みも、何ひとつ感じられない。まるで温かい砂を噛んでいるかのようだった。喉がぎゅっと縮こまっていて、飲み込もうとするたびに胸が痛んだ。祖母を見やると、彼女もまた、箸を持ったまま虚空を見つめていた。その震える手を見て、私は自分がしっかりしなければと、味のしない麺を無理やり胃の中に流し込んだ。
母が入院している数週間、私は狂ったように自室で絵を描き続けた。 宿題もせず、お風呂に入るのも忘れて、ただ机に向かって画用紙に鉛筆を叩きつけた。当時、自分が何を描いていたのか、詳しい構図やモチーフは今でも全く思い出せない。ただ覚えているのは、右手の小指の側面が鉛筆の芯で真っ黒に汚れ、紙が擦れる鋭い音が夜中の部屋に響き渡っていたことだけだ。 それは芸術と呼べるような高尚なものではなかった。ただの、言葉にならない恐怖の吐き出し口だった。線を激しく引き、色を塗り潰す。その単純で、暴力的なまでの反復作業だけが、今にも不安の自重でバラバラに砕け散りそうな私の心を、かろうじて現実の側に繋ぎ止めておくための唯一の鎖だった。もし、この手を止めてしまったら、その瞬間に母が死んでしまうのではないか。そんな強迫観念に駆られながら、私は夜が明けるまで、白い紙を自らの感情で汚し続けた。
私が進学したのは、地元の小中一貫の私立学校だった。9年間、同じメンバー、同じ校舎、同じ価値観の中で過ごす環境。それは外の風から守られた平穏な温室であると同時に、一度そこから外れようとすれば強烈な違和感を生む、息苦しい檻のようでもあった。 中学2年の秋、三者面談を控えた事前進路指導の席。パイプ椅子が並ぶ冷たい相談室で、担任の先生と対峙していた。先生は私の成績表と志望校調査のプリントを交互に見比べながら、
「将来はどうするんだ。そろそろ現実的な進路を固めなきゃいかんぞ」と、
事務的な口調で問いかけてきた。 私は制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。胸の奥で、ずっと抑え込んできた熱いマグマのような衝動が暴れていた。今、言わなければ、一生言えないかもしれない。私は意を決して、先生の目を真っ直ぐに見据えて答えた。 「私、美術大学に行きたいです。将来は、絵を描いて生きていきたいです」 室内が一瞬、水を打ったように静まり返った。先生は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、深くため息をつくと、哀れむような、あるいは呆れたような視線を私に投げた。その返答は、私の淡い期待を木っ端微塵に打ち砕くほど、冷酷で、一瞬だった。 「絵を描いても、食っていけないよ。そんなのは、一握りの天才だけの話だ」
ドン、と胸を突かれたような衝撃で、しばらく言葉が出なかった。 もちろん、そんなことは百も承知だった。画家になって生計を立てるなど、おとぎ話の王子様になるくらい現実味のない夢物語だ。インターネットで調べれば、美大の学費は一般的な文系大学の倍近くかかり、毎月の画材代だけでも数万円が飛んでいくことを知っていた。そして、卒業したからといって、どこかの企業が安定した給与を保証してくれるわけでもない。 何よりも、私には「失敗しても実家に帰ればいい」と言えるような、経済的な後ろ盾がなかった。母のがんは幸いにも手術で一命を取り留めたものの、定期的な通院が必要で、以前のように無理な働き方はできなくなっていた。それなのに母は、「慧にだけは、寂しい思いも、恥ずかしい思いもさせたくない」と、母子家庭という世間の偏見から私を守るために、身を削って高い月謝の私立学校に通わせ続けてくれていたのだ。 大人になった今なら、その選択がどれほど愛情に満ちていたかがわかる。母は体調の不安を抱えながらも、私の「普通」を維持するために働き続けていたのだ。そんな母の疲れ切った背中を知りながら、どうして「食べていけないかもしれない夢のために、大金を出してください」などと、我が儘を言えるだろう。私の抱いた夢は、突然、鋭い牙を剥いて私を睨みつけ、私の無力さをあざ笑っているかのようだった。
職員室に戻る途中、すれ違った他の生徒たちの会話が耳に入ってきた。「私は公務員試験を目指す」「僕は看護の専門学校かな」。先生は彼らの言葉には、満足そうに深く頷き、「手堅くていいな、応援するぞ」と微笑んでいた。大人が安心する、あらかじめ敷かれた堅実で正しいレール。そこからはみ出そうとする私の夢だけが、まるで社会の平穏を脅かす不審物か、出来の悪い冗談のように扱われた。 悔しかった。五臓六腑がねじ切れるほど、猛烈な怒りと悔しさがこみ上げてきた。自分の生まれ持った家庭環境も、そして何よりも、大人の反対を力技でねじ伏せるほどの「圧倒的な天才」ではない、自分の凡庸さが呪わしかった。もし我が家に、湯水のように使えるお金があれば。あるいは、一目見ただけで誰もがひれ伏すような絵の才能が私にあれば、先生はあんな冷たい顔をしなかっただろうか。「お前には無理だ」と言われた気がして、夜も眠れなくなった。 考えれば考えるほど、私の心は光の届かない暗黒の海へと沈んでいき、いつしか食事が全く喉を通らなくなった。朝、トーストを一口かじるだけで吐き気がする。そんな生活が数週間続いたある日、ついに体は限界を迎えた。1限目の授業中、黒板の文字が急に二重に見え始め、激しい耳鳴りと共に床が迫ってきた。気がついたときには、保健室のベッドの上だった。心が抱えきれずに押し殺していた悲鳴を、私の身体が代わりに上げてくれたのだった。
保健室登校を数日経験した後、私は少しだけ強くなった。ある休み時間、私は勇気を出して、自分の進路への不安や、家庭の事情で美大に行くのが難しいかもしれないという苦しさを、数人のクラスメイトに打ち明けてみた。彼女たちは真剣に聞いてくれ、「慧ちゃん、そんなに悩んでたんやね」と背中をさすってくれた。言葉にして外に出した瞬間、胸を押し潰していた重い岩が、わずかに軽くなるのを感じた。 何かが吹っ切れた私は、席を立ち、誰もいない教室の教壇へと歩を進めた。目の前には、広大な、何も書かれていない緑色の黒板。私はチョークボックスから、白、黄色、ピンク、青のチョークを数本掴み取り、黒板に向き直った。 迷いはなかった。私は右手を大きく動かし、黒板に線を走らせた。 クラスメイト全員を、それぞれの特徴――いつも髪を三つ編みにしている子の癖毛、笑うと目が細くなる子の目元、口癖、よく着ているカーディガンの色――をデフォルメした、愛らしいオリジナルキャラクターにして、黒板いっぱいに描き出していったのだ。チョークが黒板に当たる小気味よい音が教室に響き渡る。 「えっ、嘘、これ私!? めっちゃ似てる!」 「待って、こっちの食いしん坊なキャラ、絶対〇〇くんだ!」 異変に気づいた生徒たちが次々と黒板の前に集まり、教室は一瞬にして大きな笑い声と笑顔で満たされた。チョークの粉で私の指先は真っ白になり、制服の袖も汚れたけれど、そんなことはどうでもよかった。その瞬間だけは、担任の冷たい言葉も、未来へのドス黒い恐怖も、すべてが吹き飛んでいた。 ああ、やっぱり私は絵が好きだ。私の描いた線が、色のない空間に光を灯し、誰かと心を通わせる最高の道具になる。この瞬間の全能感を、私はどうしても、これからの人生で手放したくないと、強く心に誓った。
高校へ進学するタイミングで、私は長年住み慣れた「温室」を出る決意をした。小中一貫校のまま内部進学すれば楽だったが、その学校には美術部がなかった。私は、自分の可能性を少しでも広げられる場所へ行きたかったのだ。9年間連れ添った仲間たちと離れ、誰も知る人のいない環境へ飛び込むのは死ぬほど怖かった。けれど、私は勉強を重ね、市内では1番偏差値の高い県立高校の受験に挑み、見事に合格通知を勝ち取った。 入学式の日、教室を見渡しても、私の名前を呼んでくれる人は一人もいなかった。ゼロからの人間関係を構築しなければならないプレッシャーに、一時は激しい目眩を覚えた。けれど、その不安は、放課後に美術部の部室のドアを開けた瞬間に、文字通り霧散した。 ドアを開けた瞬間、私の鼻腔を貫いたのは、独特の油絵の具とテレピン油(溶剤)の、ツンとした匂いだった。それは私にとって、何よりも落ち着く「世界の匂い」だった。 部室の中には、イーゼルに向かって黙々と筆を動かす先輩や、スケッチブックに熱心にデッサンをする同級生がいた。彼らは皆、少し風変わりで、自分の世界を強く持っている、愛おしい表現者たちだった。 「あ、新入部員? 歓迎するよ。そこ、好きなイーゼル使っていいからね」 先輩から声をかけられ、私は自分の居場所を見つけた。放課後、それぞれの作品を並べ、光の捉え方や構図について熱く語り合う時間は、何にも代えがたい救いだった。 ――私はここで、もう一度、深く息をしていいんだ。 あのとき、変化を恐れて檻の中に留まっていたら、今の私は絶対に存在していなかった。ここで出会い、お互いの感性をぶつけ合った友人たちは、大人になった今でも私の人生を照らし続ける、かけがえのない宝物だ。
高校3年の終わり、進路の選択を迫られたとき、私の胸の奥には依然として「美大へ行って、本気で絵を学びたい」という消えない残り火が燻っていた。しかし、あの中学時代の進路指導室での記憶が、強烈なブレーキとなって私の足をすくませた。 「現実を見ろ。お母さんにこれ以上苦労をかけるな」 もう一人の自分が、耳元でそう囁き続ける。私は自分の本音に重い蓋をし、鍵をかけた。そして、「私は地元の街が好きだから、大好きな別府のために働きたいんです」という、誰からも文句の出ない、100点満点のもっともらしい大義名分を掲げて、公務員の道を志すことにした。別府への恩返しという気持ちに嘘はなかった。けれど、その綺麗事の裏側にあったのは、「何が何でも安定した収入を得て、母を安心させ、自分も生き残らなければならない」という、あまりにも切実で泥臭い生存戦略だったのだ。
自宅から通える地元の国立大学に進学した私は、そこで小さな奇跡に出会った。配属されたゼミの担当教授が、なんと私が幼少期に出会った恩師だったのだ。白髪が増えた先生は、私の顔を見るなり「大きくなったなぁ、また一緒に学べるな」と破顔した。人生というものは不思議なもので、当時は何の意味もないと思っていた点と点が、数年の時を経て、細く美しい線で繋がることがあるのだと知った。 大学を卒業し、私が最初の市役所職員として配属されたのは、生まれ育った別府ではなく、そこから少し離れた、人口数万人の静かで小さな別の街だった。 時代はちょうど、新型コロナウイルスという未知の脅威が世界を席巻していた真っ只中だった。かつてはそれなりの賑わいを見せていた地方の商店街は、まるで深い眠りについたかのように静まり返っていた。商店の店主たちは一様に暗い表情で、次々と「臨時休業」の貼り紙を掲げ、金属製の重いシャッターを下ろしていった。昼間であっても人通りはまばらで、夕方になれば、街全体が冷たい灰色に沈んでいく。仕事帰りにその通りを歩くたび、私は胸が締め付けられるような閉塞感を覚えた。
灰色のシャッターが延々と続く街並みを見つめているうちに、私の中で、抑えきれない衝動がふつふつと湧き上がってきた。 ――ここに、絵を描けたらいいのに。 もし、あの閉ざされた冷たい金属のシャッターに、目にも鮮やかな色彩が躍っていたら。ここに暮らす人々の温もりや、街の歴史が生き生きと描かれていたら。この暗い日常の中を、下を向いて歩く人々がほんの少しだけ足を止め、笑顔を取り戻してくれるかもしれない。 それは行政の企画書にもなっていない、ただの20代の若造の無謀な空想に過ぎなかった。けれど、毎日その場所を通るたび、錆びかけたシャッターたちが私には、「頼むから、僕たちに色を塗ってくれ。ここに僕たちが生きていた証を残してくれ」と叫ぶ、巨大な白いキャンバスに見えて仕方がなかったのだ。 私は居ても立ってもいられなくなり、高校時代からの大親友を近くのカフェに呼び出し、ノートを開いて意を決して切り出した。 「私な、この商店街のシャッターに、みんなで絵を描きたいんよ。街を明るくしたい」 突然の突拍子もない提案に、彼女はどんな反応をするだろうと、私は心臓をバクバクさせていた。しかし、10年来の付き合いになる彼女は、メニューから目を離すと、驚くほどあっさりと、大分弁で笑い飛ばした。 「いいやん、それ。めちゃくちゃ面白そうやん、やろうえ」 その一言が、私の人生の錆びついていた歯車を、猛烈な勢いで回転させ始めた。
若い公務員が個人で始めるプロジェクトだ。人脈もなければ、画材を買う予算もゼロ。けれど、私たちにはSNSという武器があった。 アカウントを立ち上げ、「シャッター街をアートで彩りたい。力を貸してください」と、熱量だけを詰め込んだ文章とスケッチを発信し始めた。すると、信じられないことが起きた。地元の大学生や高校生を中心とした仲間たちが、「面白そうだから手伝いたい」「自分の街を綺麗にしたい」と、一人、また一人と名乗りを上げてくれたのだ。ネットを通じて、それまで全く見ず知らずだった人々が、私たちの旗の下に集まってくれた。 プロジェクトの初日、私たちは商店街に集まった。まずは養生テープを貼り、ガタつく脚立に登って、ローラーや筆を握る。バケツの中でペンキが混ざり合う、独特の甘い匂いが通りに広がった。初対面同士の気まずさは、一本の線を一緒に引くごとに消えていった。汗が目に入り、お互いのTシャツに青や黄色のペンキが飛び散るのを見て、誰もが子供のように声をあげて笑った。私たちは、その街の特産品であるものや、豊かな自然の風景を、巨大なシャッターいっぱいに描き出していった。 それまで私は、絵というものは、部屋に引きこもって、孤独と闘いながら一人で生み出すものだと思い込んでいた。 違った。絵は、バラバラだった人々を一つに繋ぎ、巻き込んでいくための、強力な「旗」になるのだ。 作業中、通りすがりの地元の老人が足を止めた。「何しよんの」と声をかけてきた彼らの顔が、描きかけの絵を見た瞬間、パッと明るくなった。「いやぁ、綺麗になったなぁ。ここ、ずっと暗くて寂しかったんよ。ありがとうな」。近所の商店のおばちゃんが差し入れてくれた。地元のテレビ局や新聞社も取材に訪れ、夕方のニュースで私たちの活動が大きく報じられた。 暗く、死んだようになっていたシャッター街に、確かな「血色」と、人間の体温が戻っていく。その光景を特等席で見つめながら、私の胸の奥は、これまでにないほど激しく震えていた。
――やっぱり、私にとって、描くことは生きることそのものだ。 単なる自己満足の趣味じゃない。
描くことで人と出会い、街の記憶と繋がり、自分の中に長い間眠っていた「彗星」が、再び強烈な光を放って目を覚ますのを感じた。私は、もう一度ちゃんと、誤魔化さずに画家としての道を歩き出したい。 このプロジェクトの最中、私は東京の通信制美術大学に在籍しながら、働きながら学んでいる一人の仲間に出会った。その事実を知ったとき、私は頭をラグビーボールで殴られたような、強烈な衝撃を受けた。 「美大は、10代の若者が人生を賭けて一発勝負で行く場所だ」という固定観念が、音を立てて崩れ去った。大人の経済力と、本気の意志があれば、かつて諦めて閉じたはずの美大の重い扉は、いくらでもこじ開けられるのだ。
――別府へ帰ろう。大好きな家族のそばで、安定した仕事を続けながら、今度こそ逃げずに、絵を基礎から学び直そう。
そう決意してからの私は、公務員試験の参考書を再び引っ張り出し、仕事終わりの深夜、眠気でかすむ目をこすりながら勉強を重ねた。そして、地元の市役所の試験に奇跡的な合格を果たしたのだった。
地元の市役所に入庁して最初に私が配属されたのは、市窓口業務だった。 そこは、観光地としての華やかな「表の別府」ではなく、そこに暮らす人々の剥き出しの「生活の別府」の体温が、直接ダイレクトに押し寄せる場所だった。 毎日、何百人もの市民が様々な事情を抱えてやってくる。生活困窮の相談で涙を流す人、手続きの複雑さに怒声を張り上げる人、書類の書き方がわからずに途方に暮れるお年寄り。書類一枚の向こう側には、誰かのリアルな命があり、明日の暮らしがある。生半可な気持ちでは務まらない、精神的にも肉体的にも非常にハードな業務だった。けれど、窓口のカウンター越しに市民の一人ひとりと向き合う中で、私はこの街を支える「骨組み」としての公務員の仕事に、深い敬意と誇りを持つようになっていった。
昼の8時間、私は市役所の窓口で市民の生活を守るために全神経を集中させた。そして夕方、退庁のチャイムが鳴ると同時に帰宅し、今度は通信制美大の学生としての第2の時間が始まる。 泥のように重い体を引きずりながら、机に向かってデッサンの課題や、美術史の膨大なレポートに取り組む。油絵の具のキャンバスに向かう頃には、時計の針は夜遅くを回っていることもザラだった。プライベートの時間もなく、役所の繁忙期並みの逼迫したスケジュールが毎日続いた。けれど、私の心は不思議なほどに満ち足りていた。誰かに敷かれたレールではなく、自分で選び、自分の責任で進めている二つの人生。私はようやく、自分の人生の主導権を取り戻したという、確かな充実感の中にいた。 やがて庁内でも、「職員の中に働きながら通信の美大に通って、絵を描いている風変わりな若手職員がいる」と、噂が立ち始めるようになった。その噂が人事の目に留まったのか、翌年の春、私は異色の抜擢として、広報課へと異動を命じられた。
広報課での仕事は、毎月発行される広報誌の編集、公式SNSの運用、イベントの写真撮影、各種パンフレットのデザインなど、街の魅力を最前線で発信する重要ポストだった。20代の若手職員にとっては、いささか荷が重すぎるほどのポジションだ。 異動した初日から、職場の空気は冷たかった。長年、堅実にキャリアを積んできたベテラン職員たちからすれば、「絵が描けるから」という理由だけで広報に引っ張られてきた私は、お気楽な存在に見えたのだろう。周囲からは、容赦のない視線と言葉が飛んできた。 「あんな若い、デザインの基礎も分かってない子に、市報の編集なんて務まるのか」 「市報は行政の顔だぞ。個人的な芸術ごっこでクオリティを落とされたら困るんだよ」 給湯室や廊下ですれ違いざまに聞こえる、ひそひそ話。直接言われずとも、部屋に入った瞬間にピタッと会話が止まる、あの重苦しい空気。私は何も言い返せず、ただ顔の筋肉を引きつらせて「あはは、頑張ります」と、情けない笑みを浮かべるしかなかった。けれど、胸の奥からはドクドクと血が流れていた。 その拒絶の痛みは、あの中学2年のときに担任の先生から投げつけられた「絵で食っていけない」という言葉の刃と、全く同じ性質の、骨まで凍るような冷たさを伴っていた。 ――お前にはここにいる資格がない。身の程を知れ。現実を見ろ。 そう言われている気がして、私は自分の席でキーボードを叩きながら、奥歯を噛み締めて涙を堪えた。
最初の1年は、周囲を実力で見返してやりたい一心で、ただがむしゃらに、狂ったように働いた。 一眼レフカメラを首から下げて街中を走り回り、お年寄りや職人たちの取材を行い、デスクに戻ってからは画面に向かって原稿を書き、インデザインのソフトでレイアウトを組む。校正紙を出しては上司に赤字を入れられ、修正し、関係各課への確認を取り、そしてまた次の締め切りがやってくる。市報は容赦なく、毎月必ずやってくる。今月分が印刷に回って「終わった」と椅子に背中を預けた瞬間、次の月の特集記事という巨大な津波が、すでに足元まで迫っている。そんな、呼吸をすることすら忘れるほどの怒涛の日々だった。
大学で絵画の教育は受けていたものの、万人向けの「デザイン」を専門的に学んだことはなかった私は、何度も高い壁にぶつかった。 自分の好きな色や線で世界を表現する絵画と、子供からお年寄りまで、すべての市民に正確な情報を届ける広報誌を作ることは、180度異なる作業だった。行政の広報に必要なのは、奇抜な芸術性ではなく、圧倒的な「読みやすさ」と「正確さ」、そして公平性だ。文字のサイズ一つ、掲載する写真のトリミング一つに、市民に対する重い行政責任が伴う。 最初の1年、どれだけ睡眠時間を削り、血を吐くような思いでレイアウトを工夫して作った市報も、大分県や全国の広報コンクールでは、箸にも棒にもかからず落選した。 「ほら見ろ、やっぱりお前が個人的に絵を描けたところで、それが行政の広報の何に活きるんだよ。自己満足なんだよ」 職場の先輩たちのそんな冷ややかな視線が、幻聴となって耳の奥で鳴り響いた。確かにその通りかもしれない。私はただの、中途半端な人間なのではないか。公務員としても画家としても、どちらのプロフェッショナルにもなれないのではないか。暗い部屋で一人、私は深い自信喪失の底に沈んでいた。
けれど、私は絶対に折れたくなかった。ここで諦めたら、あの進路指導室で私を否定した大人たちの言う通りになってしまう。 私は、狂気にも似た執念で、誌面を構成する「一枚の写真」「一言の見出し」のディテールにこだわるようになった。 太陽の光が被写体にどう射し込んでいるか。その人が本当にこの街で生きてきたことが伝わる、飾らない表情。文字の周りに、どれだけの美しい余白を残すか。見出しを読んだとき、心地よいリズムが胸に響くか。市報を、単なる文字が羅列された退屈な「行政のお知らせの束」にしたくなかった。この別府という街に暮らす人々の、生々しい温もりを、ドクドクと脈打つ街の鼓動そのものを、そのまま紙面というキャンバスに閉じ込めたかったのだ。写真を撮るときは絵画の構図を練るようにアングルを計算し、文章を書くときはパレットから最適な色絵の具を選ぶように、言葉を紡ぎ出した。 そして、ある夏の夜、私は地元の伝統行事である「別府火の海まつり」の花火大会の撮影に臨んだ。 3.5kmも離れた山から三脚を立て、ファインダーを覗く。海の向こう、漆黒の別府の夜空に、ドンという五臓六腑を震わせる爆音と共に、大輪の花火が咲き誇った。色鮮やかな光が、街の湯けむりと混ざり合い、夜空の深淵を桃色や金色に染め上げていく。一瞬の光と、それを見上げる数万人の市民の歓声、波の音、街の気配。私は夢中になって、何百回もシャッターを切り続けた。その中に、奇跡のような、すべてが完璧な構図で収まった一枚があった。 その写真を、文字の要素を極限まで削って贅沢に使用した市報の表紙を作成し、コンクールに出展した。数ヶ月後、その紙面が、全国広報コンクールの部で「入選」を果たしたという報せが入った。 庁内の複合機から打ち出された結果の通知書を見たとき、涙よりも先に、頭の中が呆然とした。 「あの若い子に広報が務まるわけがない」と陰口を叩いた人たちへ。「お前が絵を描けたところで、仕事には活きない」と嗤った人たちへ。私は、自分が血を流しながら作った仕事で、私にしか出せない「色」で、最高の答えを出したのだ。もちろん、未熟な私を支えてくれた上司や、取材を快く受けてくれた街の人々のおかげだ。けれど私は、あの進路指導室で泣いていた中学生の私に向かって、心の中で小さく、けれど確信を持って語りかけた。 (大丈夫。あのとき、周りに何と言われても、描くことを諦めなくて本当によかったね)
人は、誰かの心ない一言の刃で、いとも簡単に深く傷つく。けれど同時に、自分を心から信じてくれる人の、温かい一言によって、何度でも地面を蹴って立ち上がることができるのだ。 「慧ちゃんの時代が、これから必ず来るからね。見とるよ」 「慧さんなら、絶対に素晴らしいものが作れるって信じとるけん」 夜、美大の課題で行き詰まったとき、スマホの画面に届く友人や恩師からのそのメッセージたちが、私の心の唯一の避難所だった。 広報の仕事で街の隅々まで歩き回るうちに、私は別府という街を、幼少期とは全く違う「大人の目」で、本当の意味で深く愛するようになっていた。何百年も受け継がれてきた別府伝統の竹工芸の職人、過酷な温泉の管理を毎日絶やさずに行う人々、湯の神様に感謝を捧げる祭りを守る地域の人々。きらびやかな観光地としての看板の下には、無数の人間たちの、泥臭くも愛おしい「生活の営み」があった。 その輝きを知るたび、私はこの街そのものを大きなキャンバスにして、絵を描きたいと強く願うようになった。私の目には、別府の坂道は夜空を横切る星の軌道であり、湯けむりは白ではなく、人々の情熱が混ざり合った桃色や金色に輝いて見えた。 私の活動は、少しずつ行政の枠を超えて、街の風景へと溶け込んでいった。地元の百貨店での展示、商店街の看板デザイン。そしてある日、他部署の人から「別府市のご当地マンホールのデザインを、慧さんにお願いしたい」という、信じられないオファーが届いたのだ。 その依頼書を手にしたとき、全身の血が逆流するほどの衝撃で胸が震えた。 それは、美術館の白い壁の、額縁の中に収まる高尚な絵とは違う。雨に打たれ、夏の強い陽射しに灼かれ、毎日何千人もの子どもたちや観光客がその上を走り抜け、秋には落ち葉が積もる、街の「地面」そのものだ。誰かの退屈な日常の足元で、私の描いた線が、別府という街の「地層」の一部になって、何十年も残り続ける。 子どものころ、四畳半の部屋で祖母と一緒に、チラシの裏の紙の土から引っこ抜いて笑っていた、あの紙の野菜たち。あの小さなアトリエから始まった私の指先が、巡り巡って、本物の街の地面に埋め込まれるのだ。これ以上の栄誉が、この街に生かされている、泥臭い画家にあるだろうか。
マンホールが設置されて間もなく、街歩きのボランティアガイドをしている男性から、一枚の写真付きでメッセージが届いた。 「今日も全国から来た旅人たちに、慧さんのデザインしたマンホールと看板を案内しましたよ。『なんて温かい絵なんだ』って、みんな感動して、あなたの絵が印刷されたポストカードを、旅の最高の思い出にって買ってくれたんだよ」 液晶画面に映る、私のマンホールを笑顔で囲む旅人たちの姿を見つめているうちに、目頭が熱くなり、大粒の涙がポロポロと机にこぼれ落ちた。私が知らない場所で、私が夜中に一人で生み出した絵が、誰かの人生の「旅の記憶」となり、遠い見知らぬ街へと一緒に旅立っていく。それはまるで、何万光年も離れた漆黒の宇宙を進み続ける、あのヘール・ボップ彗星の光が、時空を超えて誰かの瞳に届く一瞬の奇跡と、全く同じ構造のように思えた。 その後、地元の老舗百貨店のギャラリーから「地元ゆかりの作家」として三人展に出展してほしいと声がかかった。初めて本物の画廊に自分の油絵が並び、その下に名前付きのキャプションと、これまでに見たこともないような高価な値札がつけられているのを見たときは、足がすくんだ。と同時に、世間から「市役所の職員なのに絵を描いている」という、珍しがらせるパンダのような枠組みだけで消費されているのではないかという、強い恐怖感もあった。
その会場のレセプションで、私はある著名なプロの画家と出会った。彼は私の作品の前で腕を組み、私の特異な経歴をフムと面白がりながらも、キャンバスの細部を凝視し、鋭い眼差しで私を見据えてこう言った。 「『市役所職員なのに、これだけの絵が描けてすごいね』という周囲の優しい慰めの言葉に、甘えて満足してはいけないよ。その甘えを捨てて、肩書きをすべて脱ぎ捨てた裸の状態で、『一人の画家として圧倒的に面白い』と言われるところまで這い上がってきなさい」 それは、耳に心地よいお世辞などではない、本物の芸術の世界の扉を開ける、重い地鳴りのような、容赦のないプロの言葉だった。私はその場に立ち尽くし、静かに覚悟を決めた。私は、趣味の延長線上の珍しいアマチュアで終わりたくない。いつか必ず、この肩書きの盾を捨てても勝負できる、本物の画家として立ちたい、と。
その展覧会の会場で、私の1枚の絵の前で30分以上も立ち止まり、「この絵を見ていると、なんだか心の奥から元気が湧いてくる」と言って、大金を支払って作品を購入してくれた一般の女性がいた。自分の魂の一部を切り取って作った作品に、他者が対価を支払ってくれるということ。その絵が、これから彼女の部屋の壁に飾られ、毎朝の光を浴び、彼女の毎日の生活の背景、人生の1ピースになっていく。絵を買ってもらうということは、その人の大切な人生の時間の中に、私の「色」を置かせてもらうことなのだと、皮膚感覚で深く理解した。
展覧会が終わって数日後、私が美術活動をしていることを知った職場の先輩から、「慧ちゃん、個人的にお願いがあるんやけど……」と、控えめに声をかけられた。長年、我が子のように可愛がっていた愛犬が、先週、老衰で亡くなったのだという。先輩は寂しげな表情で、スマホの中の何枚かの写真を見せてくれた。 「もしよかったら、この子の絵を描いてくれん。リビングに飾りたいんよ」 私は「喜んで描かせていただきます」と引き受けた。仕事が終わり、夜中の1時、疲労で今にも閉じそうな目をこすりながら、私は先輩の愛犬の写真と向き合った。ただ写真の形を正確に模写するのではない。毛並みの柔らかさ、先輩を見上げていた時の瞳の輝き、その家庭の中に流れていた温かい空気感。夜が明けるまで、私は祈るような気持ちで筆を動かし、2匹の愛らしい動物が寄り添う絵を完成させた。 丁寧に包み紙で梱包し、車を走らせて先輩の自宅へと届けた。 先輩の家のリビングで、包みをゆっくりと解いた瞬間、先輩夫妻の表情がこれ以上ないほど柔らかく綻んだ。 「ああ……、僕らの家族が、お家に帰ってきたぞ」 先輩の奥様は、絵を抱きしめるようにして涙を流していた。その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がギュッと熱くなり、視界が滲んだ。絵を描くということは、ただ形をキャンバスに写し取る作業ではない。そこに確かに流れていた時間、愛おしい思い出の温度ごと、その場所へ大切に連れて帰ってくるための、祈りの儀式なのだ。帰り道、車窓から見上げた別府の夜空には、いつもと変わらない白い湯けむりが、静かに立ち上っていた。私の生み出した作品たちが、今、この街のどこかの家で、誰かの心に寄り添いながら生き始めている。その厳然たる事実が、たまらなく嬉しかった。
またある日、広報の仕事で外勤に出た際、夕暮れの別府の街を走る公用車の助手席に私は座っていた。ハンドルを握っていたのは、私のこれまでの無謀な挑戦を、職場でいつも静かに見守り、支えてくれていた広報課長だった。赤信号で車が止まったとき、課長は前を見据えたまま、ぽつりと静かに言った。 「慧ちゃん、周りの職員や、過去に君を否定した人たちと競う必要はな、何もないんよ。誰かに勝つためじゃなく、自分が本当に満足できるものを、君だけの歩幅で作っていったらいいんよ」 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、頭を強く揺さぶられたような衝撃があった。 ハッとした。私は心のどこかで、ずっとあの中学時代の先生や、広報課に来た当初に冷ややかな視線を向けてきた人たちを見返してやりたい、私は間違っていないと証明したいという、「他者への怒り」を燃料にして走っていたのかもしれない。誰かに勝とうと、肩を怒らせて、息を切らして。 けれど、課長の優しい言葉によって、身体の中から憑き物がストンと落ちたように、肩の力が抜けていくのを感じた。誰かに認められるためじゃない。私が私として納得できるものを、私の歩幅で、表現し続ければそれでいいのだ。 窓の外を見やると、温泉街の斜面から湧き出る湯けむりは、風に逆らうこともなく、急ぐこともなく、ただ自らが持つ温かい温度のままに、ゆっくりと、けれど真っ直ぐに空へと立ち上っていた。
これから私は、市役所職員と画家という、一見すると相反する二つの肩書きを、どのようにして一つの身体の中に抱えて生きていくのだろう。その問いは、今でも毎日のように私の脳裏をよぎる。 正直に言えば、決してスマートなものではないし、楽な道でもない。 行政の広報という仕事は、思っていた何倍も責任が重く、毎月の締め切りに追われ、精神的な余裕を容赦なく奪っていく。美しいだけでは許されず、1文字の間違いも許されない厳密な世界だ。もし将来、他の部署に異動すれば、また全く違う種類の泥臭い業務に忙殺される日々が待っているだろう。 一方で、画家として作品を生み出すことも、決して片手間の趣味では続けられない。1枚のキャンバスを完成させるには、圧倒的な時間が必要だ。構想を練る時間、色を混ぜ合わせる時間、失敗してすべてを塗り潰す時間。何も進んでいないように見えて、表現の内側でマグマが熟していくための静寂な時間。そして、個展を開催するならば、額装の手配、価格の設定、SNSでの発信、そして私の絵を選んでくれたお客様へ誠実に作品を届けるための、ビジネスとしての責任も伴う。 どちらも、本気で向き合えば向き合うほど、軽く扱えない人生の重みがある。 だからこそ、私はどちらかを、どちらかの「言い訳」や「逃げ道」にはしたくないと強く思っている。「市役所の仕事が忙しいから、絵のクオリティが下がった」と言い訳したくないし、「絵を描いているから、公務員としての責任を果たせない」とも言わせない。 市役所職員として街の「生(せい)」の複雑さを見つめる目と、画家としてその光をキャンバスに定着させる目。その二つの軌道を、互いに食い合わせるのではなく、私の表現の深層で深く結びつけたいのだ。 市役所での仕事は、私に「他者を見つめる、圧倒的な観察力」をくれた。人の話を丁寧に聞くこと。その人が言葉の裏に隠している、本当に伝えたい想いを探し出すこと。市報の編集で、一枚の写真から何を見せ、何を削ぎ落とすかを冷徹に考えること。情報をただ並べるのではなく、誰かの心に届く物語の形に整えること。 それらの作業は、そのまま画家としての創作活動に直結している。絵画もまた、この世界の膨大な混沌の中から、何を見つめ、何を選び、何を残すかという、引き算の仕事だからだ。
もちろん、二足の草鞋を履き続けることには、常に精神的な危うさが伴う。 職場の評価や行政のルールだけに引っ張られれば、私の画家としてのエッジの効いた自由な表現は見失われてしまう。逆に、画家としての個人の夢だけに熱中しすぎれば、市民の税金から給与をいただいている公務員としての責任を軽んじることになってしまう。どちらに傾いてもいけない、常にナイフの刃の上を歩くようなバランス感覚が求められる。 だからこそ、私はまず、一人の人間として「生活を整える」ことを徹底しなければならない。かつてのように心を病んで倒れるまで自分を追い込んではいけない。睡眠時間を削り続けるだけの無謀な制作スタイルは、長くは続かない。お金の管理も同様だ。作品が売れた喜びの数字に浮かれるのではなく、それを次のステップのための新しい絵の具やキャンバス代、展示会の会場費、そして自分の感性を磨くための旅費や美術館の入場料という名の「未来への投資」に変えていかなければならない。 私は、画家として絶対に成功したい。 でも、私が目指す「成功」とは、美術界の権威ある賞を総なめにすることでも、誰かを蹴落として有名になることでもない。 私の作品が、誰かの生活の一部として継続的に売れ続けること。誰の真似でもない、私だけの「別府の湯けむりの色」という独自の作家性を確立すること。作品を通じて、それを受け取った人の心に温かい喜びや、新しい世界の発見を与えること。そして、創作活動によって経済的な独立性と自由度を少しずつ高め、私をこれまで育ててくれた家族や、支えてくれた周囲の人々をも豊かにしていくこと。何よりも、自分自身が心をすり減らしすぎず、おばあちゃんになっても笑顔で筆を握り、長く描き続けられること。 それが、私にとっての、揺るぎない成功だ。
「市役所職員なのに画家」 このキャッチコピーは、確かに今の時代、人の興味を引くかもしれない。メディアが面白がり、少し変わった若手公務員として紹介されることもあるだろう。けれど、私はそんな表面的なラベルの場所で立ち止まるつもりは毛頭ない。 「市役所職員なのに、絵が上手くてすごいね」というアマチュアとしての称賛はいらない。「画家として圧倒的に 面白く、唯一無二の表現を持っている。そして、その人物は市役所職員という顔も持っている」。そう言われる次元まで、私は私の足で這い上がっていきたい。 そのために、私はこれからも毎日、ペンを握り、筆を走らせる。 寂れた商店街で聞いたお年寄りの笑い声、祖母とチラシの裏で引っこ抜いた紙の野菜の記憶、夜遅く疲れ果てて帰ってきた母の背中の温もり。これまで私の人生を形作ってきたすべての色彩を、パレットの上で少しずつ混ぜ合わせ、私だけの「色」を紡ぎ出していく。
2026年、現在。ヘール・ボップ彗星は、あの1997年の別府の夜空から完全に去り、いまは太陽系を遠く離れた、想像もつかないほど深い宇宙の暗闇のなかを旅している。次にこの星が地球の近くに還ってくるのは、およそ2500年後、数千年の未来だそうだ。人類の文明すらどうなっているか分からないほど遥か彼方の未来。けれど、今この瞬間も、私たちの目には見えなくても、あの星は確かに宇宙に存在し、自らに課せられた確かな軌道を進み続けている。 私は、あの彗星のようでありたい。 今すぐ世間に大発見されて、時代の寵児としてもてはやされなくてもいい。長く、遠く、私だけにしか描けない、確かな人生の軌道を描き続けたい。そして、いつか誰かが、人生の底で深い絶望の夜を迎えたとき。その人の張り詰めそうな夜空に、私の描いた絵がふっと現れて、凍えそうな心をそっと灯すような、そんな光になりたい。 そのために私は、明日もまた朝起きて市役所へ行き、市民の生活と向き合い、帰り道に金色に輝く湯けむりを見上げ、夜は静かに机に向かって、まだ見ぬ誰かのための流線を引き続ける。 私はまだ、旅の途中だ。画家としても、公務員としても、一人の人間としても、何ひとつ完成していない。けれど、完成していないからこそ、この真っ白なキャンバスには、いくらでも新しい、劇的な色を塗り重ねていくことができるのだ。