
君が忘れてしまうなら 第十七話(最終話)
十四 エピローグ
「卒業公演は無事に終わりました。あなたの指示通り祖母役をナシにして、祖母のセリフを母役に言わせて。綺麗だったなあ、ヤスハのお母さん姿。」
苗床候補のヤスハは汚染区域に入る危険を冒さないよう説得され、代わりに私の様子を見にきてくれたのはミズキだった。彼女は防護服のような物々しいフード付きの厚手のコートとマスクをしてやってきて、驚く私を立たせたまま崩れかけたソファにどさりと音を立てて座った。
「あ、姉役は私が演っときました。もうね、お客さんの視点にしとくのは勿体無いくらい熱演しましたとも。マイさんもすごくノリノリで。でもまあ、結果はそれぞれなんですけど。」
あー、脱いじゃっていいですかね、暑いんで、と彼女はフードとマスクを外し笑顔を見せた。そして「それぞれ」の進路を教えてくれた。
「本当は少しほっとしているんだ。」
マイはエデンスタッフにはなれなかった。彼女は今にも泣きそうな笑顔を見せたそうだ。
「ほんとはね、ちょっと怖かった。ずっと怖かった。エデンに入って私たちがしていることを目の当たりにするのは。それにママを助けたかったし。汚れた空気だってママは生きている。本当はずっと私、ママと同じ場所で生きたいと思っていた。だから私は責任を担えないけど、みんなには申し訳ないけど、でも私の妹がスタッフになって責任を果たすって言ってくれてるから。」
「何言ってんだよ。マイは頑張ったし、頑張ってるし、みんなわかってるから。それに責任って言うけど、でもそれはその、つまり・・」
「君はね。この世界でちゃんと生きて行くだけで充分責任を果たしているよ。」
カナさんがあーちゃんの言葉を引き継いだ。
「もし生きることが終わってしまってもそれは結果でしかないんだ。この共同体のみんな、必死で生きている。みんな責任を果たそうとしてる。マイはね、それを一番感じているんだと思うよ。そういうことなんじゃない?」
「あー、カナさんにいいとこ持ってかれた。」
とあーちゃんが笑って
「いつものことだけどね。」
とカナさんも笑ってみんなが笑った。
あーちゃんはマイと一緒におばさんの元へ帰るという。
「昔からおばさんが俺の母親みたいなもんだし。周区っていってもね、俺は心配してないよ。エデンのおかげで少しずつだけど確実に空気は綺麗になってるんだからね。きっと俺達の子供が中間区の学校に行く頃にはエデンももっと広がっているだろう? もっとたくさんの人が綺麗な空気を吸うことができるようになるんだ。そう思わない?」
「いいね、エデンが広がれば、きっと周区の人たちにも私の演技を見てもらえるよね。もっと上手くなってマイにも、マイの子供たちにも見せたいよ。マイをマツムラなんかに独り占めさせるのは勿体無いからね。」
カナさんはエデンスタッフになった。すごい幻夢を演じるよと意気込んでいるそうだ。彼女はきっと大いにその能力を発揮するだろう。
そしてヤスハ。
彼は予定通りエデンに戻り苗床になるという。身を清め、子供を遺し、それから背に種を宿す。それはおそらくそう遠い未来ではないだろう。私は彼の横顔を思い出し胸が苦しくなった。ミズキは私をしばらく見つめ、それから急に立ち上がり、私に向かい合わせになった。
「兄からの伝言があります。ちょっと目を瞑ってくれます?」
そして彼女はやや低めの、柔らかな低音で話し出した。ミズキの演技力はやはり確かだなと思った。目を閉じるとまるでそこにヤスハがいて私に語りかけているように聞こえた。
「高校生活は思いの外楽しかったです。本当の目的は別だったけど・・それはこの間話したけど」
そこで一旦切って、ミズキはいつもの声になって私を責めた。
「この間っていつのことですか? どんな話をしたんですか?」
私は目を開け苦笑した。でも答えなかった。
「あー、まあいいですけどね。すみませんもう一度やります。目を瞑ってください。」
私はまた目を閉じ、彼のことを心の中に思い描いた。
「高校生活は思いの外楽しかった。本当の目的は別だったけど、みんなと出会って、役割を決めて、演じたり演出したり、同じ舞台を作ったこと、それは僕にとって、キラキラした思い出になりました。それから君が作った戯曲、あのすてきな夜のイメージも、それを自分で表現することができて、そんな体験初めてで、本当に楽しかった。ああ、タクミ、君は自分を低く評価しているよ。君の戯曲はハルさんという人の思い出が元になっていると言っていたけど、それを言葉で表現して物語にしたのは君だろう? 君はやっぱり素晴らしいクリエイターだ。僕は君の戯曲を幻夢にしてもらうよ。大丈夫、心配しないで。君の描くイメージのおかげで僕はきっと幸せな気分になれる、だから・・」
ミズキの声が聞こえなくなった。目を開けてみると彼女は目を閉じていた。一瞬痛みを堪えるように眉を寄せ、それからゆっくりと目をあけた。
「だから君は・・心配しなくていいんだ。」
彼女は少女に戻って微笑んだ。
「そう、心配なんてしなくていいんです。兄にはユズハっていう可愛い人も待ってるし。」
ミズキは再びどさりと音を立ててソファに座り、俯き、足元を見つめた。
「兄の幻夢はあなたの戯曲を使って私が演出します。そう約束しました。兄には私が最高の幻夢を見せます。そしてその時が来たら」
彼女は頬にかかる髪をかき揚げた。そこには彼に似て美しく、そして悲しい横顔があった。
「その時が来たら私が兄の植え溝を作り土寄せをします。兄を埋めるための穴を掘り、兄の体に土をかけます。私が。罪悪感なんて。兄はなんか勝手に思い込んで気にしてたみたいだけど、そんなんじゃない。罪悪感なんかじゃこんなことできない。そう思いませんか?」
彼女は顔をあげ挑むように私に問いかけた。私はただ苦く笑っただけだった。きっと彼女は最初からそのつもりで兄についてきたのだろう。
「で、あなたはどうするんですか?」
さあ、私はどうすればいいのだろう。私の居場所はもともとここではなかったみたいだし、ハルさんはいなくなってしまったし。
「妹が、あの生意気な管理長が提案してきてるんですけど。もしあなたが幻夢の戯曲を書いてみようと思うなら周辺区域で生活しながらやってみないかって。」
それはできないって言ってたくせに。少女を思い出し私はまた苦笑した。
「なんか色々言われたみたいですけど、あいつ、すぐ意地になっちゃうんですよね。だから気にしなくていいですよ。こんなものまで寄越してきましたから。」
ミズキは小さな瓶を取り出した。
「一人分、ほんの数分も保たない量だと思うけど、一人舞台になっちゃうかもしれないけど、それでもよければ使ってみたらって。」
それは少量のハルシノだった。
「間に合わなかったみたいでほんと申し訳ないですけど、今更って思うかもしれませんけど、でもあいつが言うんです。あなたも幻夢を見てみたいんじゃないかって。まあ、アイツなりの罪滅ぼしってとこですかね。あーこのソファ、座り心地悪いですね。どこがいいかな。」
ミズキはリビングを見まわし、目的のものがないとわかると勝手に奥の部屋を覗いて、あ、ここがいいいかな、と手を取り、私をベットに座らせた。ハルさんのベット。今は誰もいないベットに。
「でも一人舞台はさびしいですから。私がサポートします。」
とエデンの新しい演出家が私の横に座った。
私は瓶の蓋を開け、ハルシノをゆっくりと吸い込んだ。目をつぶり効きめを待つ。一分二分三分と時間が過ぎていく。ゆっくりと脳内に広がる快感物質。そしてそれは突然はじまった。
暖かなオレンジ色の灯り。
緑の木が纏う赤や黄色の小さな光。
てっぺんの星がキラキラと輝く。
テーブルの上のご馳走と大きなケーキ。
真っ白なクリームと真っ赤なイチゴ。
ここはハルさんが教えてくれた暖かくて快適なリビングだ。
『すてきなよる。』
私は恐る恐る小さな声で小さな椅子に呼びかけてみた。
『素敵な夜。』
少し声を大きくして、隣の大きな椅子に、その向かいに並んだ椅子にも呼びかけてみた。それから誰もいない部屋に大きく叫んだ。
『素敵な夜だね。』
私の声は虚しくこだました。
暖かくてキラキラした素敵な夜なのに、ここには誰もいなかった。
すると。
何かがぼんやりと現れた。古ぼけたソファだ。そこに誰かが背筋を伸ばして座ってる。手には欠けたマグカップ。白い湯気が立ち昇る。
ハルさんだ。
『ほら。お茶を淹れたよ。』
私はソファに駆け寄った。言葉が出てこない。セリフがわからない。ただその肩に子供みたいに顔をうずめた。
『ほらほら。お茶がこぼれちゃうよ。』
ハルさんがくすぐったそうに笑った。
私は顔を伏せたままハルさんの体温を感じた。暖かい。暖かくて涙が溢れてきた。
ゆめみたいだね。
ゆめなんだね。
ハルさんは優しく微笑んで、それからゆっくりと消えていった。
気がつくと私はベットに一人、ぼんやりと座っていた。多分気を利かせたのだろう。ミズキはすでに帰っていた。
ヤスハ。演出はミズキの方が上手いね。
でも君は役者を見る目がある。ミズキを祖母役にした君の目は確かだったよ。
そして私は今、ハルさんのベットに横たわり、何とか半身を起こし、これを書いている。
足が壊れ傾いたベッド、敷きっぱなしのリネンの上で私はただひたすら書き続ける。ハルさんが話してくれたキラキラした思い出を、夏祭りの、素敵な夜のイメージを、失われてしまったものたちのイメージを私は書き留める。
ああ、でもそれではまだ全然足りない。
私は棚が落ちて埃をかぶっていた本棚の隅を探した。そこにはハルさんが残してくれた物語たちが隠れていた。
ハルさんのお気に入りの、小さな女の子のかわいらしい、おはよう、こんにちは、私も大好きだったおやすみなさい。
ユウさんが読みたがっていた少女の冒険物語も見つけた。水平線の向こうまで広がる青い青い空。大きく育つ入道雲。迫る遠雷の響き。嵐。あるいは一面の鱗雲を柔らかに染める夕日。朝焼けのグラデーション。あるいはまた人々が賑わう港町。砂漠。静かな森。地下。天空。孤独な少女がめぐる美しい景色の数々。
ああ、ヤスハ。君が言ったことは本当だった。どれも私は見たことがないのに、言葉の魔力と想像の力が全てを鮮やかに蘇らせてくれるんだね。
それから雪? 森の木々を覆う白? 優しい白?
私はエデンの森を覆い尽くす白をイメージする。どんな白なんだろう。わからない。わからないのに美しすぎて私の心は震えた。
だから私は書き記す。百年先を思い描く彼のために、彼と彼の愛する人のために、森で眠る全ての人のために。
それから私のためには、ハルさんの肩にそっと体をもたせかけた優しい夜の思い出を。両手で包んだカップの温かさを、彼女の嬉しそうな、困ったような照れたような微笑みを。宝物のようなイメージは私のために。
私と、君のために。
ここに書き記しておこう。
そして、私の胸の奥の黒い塊は、ユウさんのメモリの中に記録され、汚れた世界を彷徨っている。彼女は私たちの穏やかな生活を祈りながら周区の灯りに背を向け、南を目指し、一歩一歩汚れた荒野に、今また歩みを進めている。
私の怒りはその人型パーソナルAIの脳内で、世界の惨状を、世界の諍いを、世界の醜さを目の当たりにするだろう。コピーの私はオリジナルの私と同じ思考で見て、聞いて、感じて、それら全てを記憶する。いつかユウさんがここに戻ってきた時、私はコピーが体験した全てを知ることになる。そして私は、私のコピーと一緒に私の怒りの処遇を検討するのだ。
それがユウさんとの約束。
でもたぶん間に合わない。マイとナツキの言う通り、発病は突然だった。私の体は私が思っていた以上に汚染されていて、百年どころか数ヶ月先、いや数日先ですら覚束ない。もう地平線の果てを私は見ることができない。
でもハルさんが百年前の記憶を残してくれたから、私に繋いでくれたから、さらに百年先に繋げるためにここに書き記そう。
私は決して忘れない。君も忘れることはないだろう。
それでも万一の時のために、私は書き記す。
君に忘れてほしくないものを、いつかこの地にもどってくるはずの、もう一人の私である君へ託すために。
そしてもしも君がここに戻ることができたなら、君が見てきた世界の破滅を、その始まりと終わりを、ここに記してほしい。
人々が二度と同じ過ちを繰り返さないように。
だから全てをここに記す。
たとえこの身が朽ちたとしても。
これは遺書。
遺書は私の意思。
意志であり意識?
君と私の記憶であり記録。
百年先へと繋ぐ記憶。
〈終〉
*「君が忘れてしまうなら」全十七話完結