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【全編公開】『こころ日誌』〜不登校の少女が描いた「血まみれの絵」に隠された真実〜

    ◆あらすじ
    「不登校になってくれてありがとう」
     
    不登校に悩む母親に連れられ、心理士・榊のカウンセリングルームを訪れたかほり。最初はぎこちないコミュニケーションしかできなかったかほりも、セラピーを重ねるごとに徐々に心を開いていく。そして榊は、不登校を通じて彼女が本当に訴えたかった願いに気づき始める。かほりが描いた「血まみれの少女の絵」に隠された真実とは?
    いつの時代も、子どもは親の心を映し出す鏡である。子どもの心の問題は苦しみを訴える切実なSOSであり、同時に、家族を苦しみから解放するチャンスをもたらしてくれる。そんな機能不全家族の再生を、プロのカウンセラーの視点から深く読み解いていく心理ドラマ。
     
     
    ◆プロローグ
     
    「痛い......痛いよぉ」
    自分の体にナイフが刺さっているのを見た女の子は恐怖と苦痛に顔をゆがめる。
    「やめて......お願いだからもうやめて」
    一生懸命、心底お願いした。それでも、その声は決して届かない。
    グサッ。
    次に刺さったのは包丁だ。
    一瞬で気絶しそうな痛みに、もんどりうつ。
    それでも立つことを強制される。抗うことができない圧倒的な暴力に、脳は体から送られてくる信号を受け取ることを拒否し始めた。
    グサッ、グサッ。
    槍、刀剣。
    もう女の子の体は痛みの信号を脳に送っても無駄だと言うことを認識したのだろう。信号を遮断する作業に入ったようだ。
    それでも攻撃はやまない。意識は完全に体の痛みを切り離してしまった。
    グサッ、グサッ、グサッ......
    もう痛みは感じない。体中ボロボロになっていくのに、まるで血の通っていない人形が滅多刺しに遭っているのを無感情に見ているような感覚だ。
    既に体の感覚だけではなく、恐怖も感じなくなってしまったのか、いつしか女の子の顔は笑っている。
    それは......全てを諦めた笑い。
     
    もはや女の子を生につなぎとめる理由などありはしない。
    女の子は願った......
     
    「殺して」
     
    ――――――――――――――――――――――――――――――――
     
    ◆出会い
     
    どんなに経験を積んでも初回のカウンセリングはやはり少なからず緊張がある。客を迎えるのに恥ずかしくない程度に相談室の掃除をし、クライアントに出す茶菓子の準備を済ませた後、自分用のコーヒーを淹れる。約束の時間まではまだ30分程度ある。手持ち無沙汰で落ち着かない気持ちを大好きなコーヒーの香りでリラックスさせつつ、私は今から会うクライアントの情報を再確認すべく、パソコンを起動させた。
    立ち上がったデスクトップにたくさん並んでいるアイコンの中から、いくつかある階層を降り、目的のクライアント情報のファイルを探す。
     
    「えっと……。あった。坂部かほり」
     
    ダブルクリックから一瞬遅れて開いたケース情報だが、まだ事前申し込みの段階なので、得られる情報は多くはない。「11月4日(月)13時初回受理面接予約受理済」という項目の後に、住所氏名生年月日等の基本的なプロフィールと、守秘義務やキャンセル料を含めた相談室のルールに関する同意事項、来談経路などが並ぶ。
    そんな中で私がひと際注意を向けたのは「中2女子、主訴:娘の不登校について相談したい」という情報。
    不登校と言ってもかなりいろんなタイプがある。このクライアントはどんなタイプの不登校だろうか。
    今日は母子での来談だよな。
    親子関係はどんな具合なんだろう。
    誰がカウンセリングって言い出したんだろう。
     
    想像をめぐらしている内に、約束の時間が近づいてきた。
    「おっと、もう時間になっちゃうな」
    私は一旦パソコンを落とした。
    相談室奥にあるキッチンに行き、いつの間にかぬるくなってしまった飲みかけのコーヒーを流しに捨て、カップを水で簡単に洗う。それから相談室に戻り、記録用のA4の用紙とそれを挟むクリップボードを引出しから取り出し、ボールペンと一緒に机の上に置く。
    「よし、準備完了」
    そう思ったところでインターホンが鳴る音が聞こえた。
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
     
    20XX年11月4日  かほり、母親 #1
    「は~い」
    私はインターホンの応対ボタンを押し、できるだけ朗らかに返事をする。間を置かずに、少しハスキーに「1時に予約の坂部です」という女性の声がスピーカーを通して聞こえてきた。
    「どうぞ、お入りください」
    意識して優しげな口調で伝え、私自身もクライアントを出迎えるために相談室の扉を開け、玄関に向かった。するとすぐに玄関の向こうに人の気配を感じる。
    「カランカラ~ン」
    ドアベルの音とともに玄関の扉が開いた。
    「こんにちは」
    先ほどのハスキーな声とともに二人の女性が入ってきた。
    一人は中肉中背の中年女性。40前後だろうか。余り詳しくない私には分からないのだが、けばさは感じさせずナチュラルな化粧なのだと思わせる。目鼻立ちの整ったキャリアウーマン的な印象を受けた。
    そしてその女性の後に隠れるように入ってきたのがかほりだ。身長は母親と同じくらい。白いトレーナーにデニムといった部屋着ともとれそうなダボっとした上下の服装だが、印象としてはやや細目に見える。背中までありそうな髪の毛は後ろで一つにまとめられている。大きめのマスクで顔の下半分がおおわれているため、彼女の表情を判断する材料は目しか与えられていない。そしてその目も伏目がちである。
    「簡単に最初から心を開いてつながれるケースではなさそうだな」
    それが私が抱いた最初のかほりに対する印象だった。
     
    二人を相談室に招き入れると、中央にある木製のテーブルの前に誘導する。
    「初めまして。カウンセラーの榊です。今日はようこそおいでくださいました。どうぞこちらにお座りください」
    私の誘導に対して、母親は「失礼します」と言って、椅子に座るが、かほりはその横で固まっている。
    「ほら、ちゃんと座りなさい」
    急かす母親に促されて、やっと座るが、その動きもぎこちなさを感じる。
    緊張をほぐす意図もあり、
    「今、お茶をお出ししますね。ちょっとお待ちください」
    と声掛けし、奥のキッチンに移動した。
    グラスに注がれたウーロン茶と近所のスーパーで買ってきた個包装のクッキーを一袋ずつ皿に乗せ、それらをお盆に乗せて二人の前に差し出した。
    母親は丁寧に「ありがとうございます」と言い、その隣でかほりは無言で座っている。決して私に目を合わせることはない。
     
    お盆を下げると、私も対面に座り改めて挨拶をした。
    「今日は当『山の香りカウンセリングサービス』にお越しくださりありがとうございます。ようこそおいでくださいました。まずは相談を申し込まれた勇気と行動力に何よりの敬意をお伝えします」
    ここに来るまで、何度もためらい、決心が必要だったはずだ。だからこそ、私は初回のクライアントには必ずこの言葉を心を込めて伝えるようにしている。
    そんな私の声掛けに対し、母親は作り笑いで私の声掛けに応じるが、かほりは無反応であった。
     
    「申し込みフォームのご記入ありがとうございました。かほりちゃんの不登校について相談したいということでしたが」と促すと、それに応えて母親が話し始めた。
     
    「今この子が学校に行けてないんです。何か嫌なことがあるんだと思うんですけど、聞いても答えてくれなくて。もともと小学校の頃も緊張が強い子で、友達も上手に作れないんです。今回も友達関係で何かあったんじゃないかと思うんですが、言わないんですよね。そういうところ頑固なんです」
    説明口調の中にも困っている感じが受け取れる。
     
    「そうなんですね。教えていただいてありがとうございます」
    そう言って、私はかほりの方に顔を向けた。
     
    「お母さん、こう言ってるけど、かほりちゃんは何か困っていることがあるの?」
    しかし、私の問いかけに対して、かほりは無反応だ。
     
    一瞬の間をおいて母親がまた話し出す。
    「いつもこうなんですよ。学校のこと以外なら話せるんですけどね。学校に関係することになると途端に固まっちゃって何も話してくれません」
    困り感だけではなく、どことなく苛立ちを含む言葉の響き。
     
    「そうなんですね。ごめんね。初対面のおじさんにいきなりこんな風に聞かれて、なんて答えていいか分からないよね。緊張してるかな」
    そう言って、かほりを見つめるも、やはり反応は読み取れない。
     
    「じゃ、今日はかほりちゃんは無理して話さないでいいから、ちょっと緊張をほぐす練習から始めていきましょう」
    私はそう言うと、椅子を移動させて、机を挟まないでかほりと対面できる位置に座った。
    「今からね、僕とかほりちゃんの波長を合わせる運動をしていきたいんだ。僕は今から息を吸うときに手を上げます。そして吐くときに下げます。そうすると僕が今、息を吸ってるのか吐いてるのか目で見て分かるでしょ?ちょっと僕の呼吸に合わせてかほりちゃんも呼吸してみてほしいの」と誘いかける。
     
    かほりは言葉では答えないが、私はかほりに見えるように手を上下させながら呼吸を始めた。
    (1、2、3、4。)
    心の中で数字を数えながら吸う。
    (5。)
    一拍止めて、
    (6、7、8、9、10。)
    また数えながら吐く。
     
    リラックスを促す呼吸の基本である10秒呼吸法。
    更にそれに自分の心拍を意識しながら呼吸を主導する。
    かほりはしばらく固まっていたが、やがておどおどしながらも、膝の上で本当に小さく手を上下させ始めた。
    ―――おっ。
    ようやく反応があったことに、私は内心の安堵を隠し、静かに声をかける。
    「上手上手。その調子です」
    「できるだけ胸式呼吸を意識してね」
    「苦しくないですか?」
     
    しばらくして、「では今度はかほりちゃんが、呼吸を主導してくれますか?僕がかほりちゃんのペースに合わせるから」とお願いしてみる。
    すると言われたようにかほりは手を小さめに上下させながら呼吸をする。先ほどの10秒呼吸に比べるといささか早いペースだが、かほりなりにゆっくり呼吸するように努めているように感じられた。
    そして更にその後、「じゃ、今度はまた僕のペースで呼吸してくれるかな」と言って役割を交代する。これを交互に続けながら、呼吸に表れるかほりの緊張やその他の感情に思いを馳せる。そして、私の呼吸からリラックスを伝えていく。
    私は全神経をかほりの一挙手一投足に集中し、かほりが非言語で伝えるメッセージを感じることに務めた。
    「かほりちゃんの呼吸からかほりちゃんの気持ちが伝わってきます。とっても頑張ってくれてるね」
    かほりには私の声掛けにピンと来ないかもしれないが、同じ動作を続けている。
    かほりの自律神経と共鳴しますように...
     
    ふと時計を見ると既に30分ほどが経過していた。
    本当はかほりとの関係を深めるため、時間いっぱい続けたいところだが、それだけで初回を終わるわけにはいかない。なので、面接時間の半分のところで、一旦この作業をストップした。
     
    ◆続・出会い
     
    私はもう一度母親の方に向き直り、質問した。
    「不登校はいつからなんですか?」
     
    「1ヶ月前くらいからです。10月の中ごろに運動会があったんですけど、その練習のときですから…10月5日でしたね。運動会って皆で整列するじゃないですか。その最中にこの子倒れちゃったんです。まだその時期って全然暑いじゃないですか。熱中症みたいな感じになって、保健室に連れていかれて。それで、そのとき私の職場に電話かかってきて、倒れたから迎えに来てくださいって。当然行きますよね。上司には事情を説明してすぐに学校に行きました」
     
    私が相槌を挟む間もなく母親の語りは続く。
     
    「それでその日は連れて帰ったんですが、帰ってからは家で普通に過ごしてたんです。だから一日休めば次の日行けるかなって思ってたんですが、次の日朝起きられなくて。いつもは声掛けすると起きてくるんですけど、その日は何度呼んでも起きてこないんです。それで、私も仕事行かないといけないので怒っちゃったんです。もういい加減に起きなさい!って。でも、この子全然ベッドから出てこなくて。無理やり起こそうとしたんですけど、布団にくるまって出てこないんですね。私としてもどうしていいか分からなくて。仕事も行かないといけないし、前の日も早退して次の日も遅刻っていうわけにいかなくて。それで、取り敢えず出かけないといけない時間になっちゃったから学校には『まだ調子悪いみたいですから休みます』ってメールして、私はこの子をおいて出かけたんです。それからですね。もうずっと行っていません」
     
    私は言葉で相槌を伝えるよりも頷きで傾聴している姿勢を伝える。
    すると母親は更に続けた。
     
    「行けなくなってすぐに先生に紹介されて、学校のカウンセラーさんにも相談したんですけど、今は休憩が必要だから見守りましょうって言われて。でも家ではのんびり絵を描いてたりゲームをしてたりして過ごしてるんですよ。こんなんでいいんですか?」
    ほぼノンストップで話し続けたので、少し疲れたのだろうか。母親は私が先ほど用意したウーロン茶に口を付けた。
    母親の困り感や焦り、苛立ちがよく伝わって来る。
    一方、その隣で無表情のままこの話を聞いているかほりは...。
     
    「今日お会いした感じだと、かほりちゃんはとても緊張が強い子のように見えます。多分学校でもいつも緊張して過ごしていたのかもしれないですね。そうするととっても疲れます。だから、体がもう無理って思っちゃったのかもしれないですね」
     
    母親は頷いているがどの程度納得してくれているんだろうか。
     
    「スクールカウンセラーさんが言うように、休憩は大切です。その上で、かほりちゃんに今必要なのは社交場面で緊張しなくなる練習と、周りの人に対する恐怖心を克服することのように思えます。さっきした呼吸を合わせる練習もその一つです。そういう練習をこれからここでしていくというのはどうでしょうか」と誘いかける。
     
    「是非お願いします」
    母親は即座に反応した。
    とても期待されているようで、それだけ焦っている様子が伝わってくる。
    更に、
    「いいね」
    とかほりにも問いかける。
    その圧に押されてか、かほりは無反応なようにも、若干首が縦にうなずいたようにも見えた。
     
    こうしてかほりとその母親との初回の面接は終わり、次回2週間後に予約を取って帰って行った。
     
    ◆記録
     
    二人を相談室の外に見送り、相談机の上に残されたウーロン茶とクッキーを片付けると、私はすぐにパソコンのスイッチを押した。
    「忘れないうちに記録しとかないとな」
     
    かほりが緊張が強く話せなかったこと。その緊張をほぐすべく呼吸の練習をしたこと。最後に母親が話した内容を簡単にまとめる。
    その下には心理学的な理解であるアセスメント、今後の方針を書き込む欄がある。
     
    アセスメント:
    ・表面的には本人のことを心配しているようで、かほりの気持ちに寄り添おうとせず、自己の都合を優先したい母親。
     
    ・かほりの不登校も本人の困り感に思いをはせるというよりは、面倒なことが起こったから早く解決したいという思いが滲み出る。
     
    ・このような母親との関係の中で十分な愛着が形成されなかったため、かほりは自身に対しても周囲に対しても安心を感じられず、常に過緊張状態で過ごしており、エネルギーは底をついていた。それが今回不登校という形で表面化したものと思われる。
     
    方針:
    ・かほり本人とは自律神経調整トレーニングを通じてレジリエンス(心の強さのこと)を高める。
     
    ・母親との関係がエネルギー供給になるために、母親自身の共感不全も介入のターゲットにする。
     
    ・次回並行面接を提案する。
     
    キーボードでこれらを打ち込むと、私は右下にある保存ボタンを押した。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
     
    こうして私は次回、11月18日の面接まで、当然のように入っている他のケースをこなし、家事や子育てにエネルギーを注ぎつつ過ごした。そんな中でかほりのことは時折頭に浮かべる。
    生活の中でどうしているだろうか、
    次回ちゃんと来てくれるだろうか。
    そんなことを自然と考える。
    しかしそれに多くのエネルギーを割くことはない。次第に考えることも多くなくなっていく。
     
    そうこうしていると、あっという間に2週間が経ち、18日の午前中の業務を終え、12時に差し掛かる。
    私は昼食用に自分で握ったしそわかめを混ぜたおにぎりを頬張りつつ、前回の記録に目を通す。
    呼吸の時のかほりの表情やしぐさ、経過を語る母親の口調。
    時間が経って、記憶が薄れていても、記録を見ると、そのときの様子がかなり鮮明に思い出される。
    かほりや母親は初回の面接をどのように体験したんだろうか。
    かほりの緊張した様子や、母親の私に対する期待している様子は想像しやすい。しかしその裏に隠された、当然あるであろうかほりの「こんなところに来たくない。でも今の状況は何とかしたい」という気持ちや、母親にも「カウンセラーの言うことって、どこまで信用していいんだろうか」という気持ちがあるであろうことにも思いを馳せる。そして、できるだけその気持ちに浸る。
    いつの間にか、私の手が持っているのはおにぎりから、コーヒーの入ったカップに変わっている。
    一定程度の時間、コーヒーを飲みながら想像を巡らせる。方針を立てたように、かほりには呼吸の練習からヨガを取り入れた自律神経トレーニングを、母親には並行面接を提案しようと今日のセッションの中ですることを確認しつつ時間を待つ。しかし、時間になって、私の目論見は半分崩れることになる。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆丸投げ
     
    20XX年11月18日 かほり#2
    インターホンが鳴り、前回同様はハスキーな声で、「坂部です。お願いしまーす」と母親が言う。前回より口調が軽めなのは、二回目で、初回に比べて多少なりとも安心感があるからか。私は前回同様「はーい」と優しい口調で返事をし、二人が入室するのを待つ。しかし、相談室のドアが開いて、入ってきたのは私の期待を裏切り、一人だけであった。
    「あら?お母さんは?」
    と聞くも、かほりはおどおどとして黙っている。
    マスクをしていて口元は分からないが、目だけでも十分にかほりが困っている様子が伝わってくる。
    ―――なるほど。
    私は、インターホン越しの母親の軽かった口調の意味を理解した。
    母親はかほりだけ置いて行ってしまったのだ。
    面接の約束は60分。時間になったら迎えに来るつもりなのだろう。
    かほりをカウンセラーのところに通わせれば、不登校を治してくれることという期待。そして自分自身に対しては問題に触れられたくないという拒否の姿勢。
     
    「そっか。今日は一人なんだね。入ってくるの勇気いったでしょ。ありがとうね」と声をかける。かほりに椅子に座るよう促し、「ちょっと待ってね」と言って、キッチンから用意していたウーロン茶とクッキーをお盆に乗せて運んでくる。
    「良かったらどうぞ」と机の上にそれらを置き、私も椅子に座る。かほりは出した茶菓子に手を付ける様子はない。緊張の強いクライアントでも特にマスクを着けている場合、それを外して、人前で食べるという行動は相当にハードルが高いことは分かっている。それでもこれらを出すのは私の歓迎の意を伝えるためだ。
    「前回ここでしたこと、覚えてますか?」と聞くと、かほりは小さく首を縦に動かす。
    「よかったです。ちょっとだけあれ、説明させてください。呼吸って緊張とすごく関係があるのね。呼吸を通してかほりちゃんの緊張しやすい体質を改善できると思うの。そこから今日は更に別のワークもしていって、かほりちゃんがメンタル増し増しになれるようにトレーニングしていきたいなって思ってます。心の筋トレみたいなものだと思ってください。一回ですぐに効果が出るわけじゃないけど、続けていけば必ず強くなっていくからね」
    私の説明に対してかほりは積極的に答えるわけではないが、前回の最後にも見せたようにかすかに頭を縦に動かして意思を伝えてくれる。
    今回も手を上下させながら、まずは私が呼吸を主導する。10秒呼吸法だ。しばらくして、今度は役割を交代し、かほりの呼吸に合わせて私も呼吸する。かほりは前回よりもスムーズに手を動かせていて、少しリラックスしているように見えた。
    「いい感じです。大分呼吸に意識が行ってる感覚に慣れてきたかな」と声をかける。実際、かほりは一生懸命呼吸に取り組んでくれているのが分かる。
     
    素直でまじめな子だな。
    そう思うと同時に、それ故に普段の生活で苦しんでいるのだろうことを切なく思う。
     
    「それではちょっと手の上げ下げを止めます。今からかほりちゃん、スリッパを脱いで、靴下で絨毯の上に足を置いてもらっていいかな」
    と聞き、私もスリッパを脱いで、足を絨毯に置いた。かほりはそれを見て、同じようにスリッパを脱ぐ。
    「そうしたら、足の裏に意識を向けてみてください。足の裏は冷たいかな?あったかいかな?」
    と問いかける。
    この質問はかほりの返事を期待してしたものではない。ただ、そう問いかけることで足の裏の感覚にかほりの意識を向けさせることが目的だった。しかし、私の意に反してかほりは「ひんやりします」と小さな声で答えてくれた。
    ―――おっ!
    少し驚いた表情はかほりに伝わっただろうか。
    と言うのもそれは私が初めて聞いたかほりの声だったからだ。母親のハスキーな声とは少し違う、どちらかと言うと高めの印象を受ける声だ。
     
    「教えてくれてありがとう。そしたら、そのひんやりする感覚、ちょっとよく味わってみてください」
    リラックスを促すために、私はそれまでよりも少し低めの声で、ゆっくりとしたスピードで言う。
    「足の裏が床に触れている感覚、床が足の裏に触れている感覚を感じていきましょう」
    「ゆったりとした呼吸をしながら、足が地面にちゃんとくっついているなぁって感覚を味わってください」
    しばらくその姿勢のまま二人の間に沈黙が流れる。私も自分の心拍リズムを意識し、リラックスをかほりに伝えるべく、ゆったりと呼吸する。
    「ひんやりした感じは変わりないですか?」
    と聞くと相変わらず小さな声ではあるが、
    「はい」
    と返事をしてくれる。
    「いいですね、いいですね。それでは次にあなたの体にかかっている重力を感じていきましょう。今座っている椅子の座面がお尻を支えている、背もたれが背中を支えている感覚もよっく味わっていきましょう。少しお尻が痛い感覚があるかもしません。重力がかほりちゃんを引っ張っている証拠です。よぉく感じていきましょう」
    「重力を感じていると、もしかしたら今の姿勢を維持するために、背中の筋肉、首の筋肉、肩の筋肉、お腹の筋肉に力が入っているのに気づくかもしれません。それらもよく感じてください」
    このようにして普段は気に留めない体の感覚に意識を向けていく。
    「今まで気づかなかった体の声に耳を澄ませましょう」
    ゆっくりと時間をかけながら、かほりの体に対する感覚を研ぎ澄ましていく。
    「ゆったりと呼吸をしながら、息を吸うときに胸が膨らんで、吐くときにしぼむのも感じていきましょう」
    十分に体が落ち着いた後、私は更に声のトーンを落とし、慎重な口調で聞いてみた。
    「あの、もしよかったら聞かせてほしんだけど、かほりちゃんは今どんなことが一番心配なのかな?」
    するとかほりは少し間を置いた後、
    「みんなが怖い」
    と言葉にしてくれた。
    それは、一生懸命に絞り出すような声。
    小さな声ではあったがハッキリと自分の言葉で伝えてくれた主訴。
    かほりのつかえていた喉が一瞬でも通った瞬間のように感じた。
    「よく気持ちを聞かせてくれたね。勇気を出して教えてくれてありがとう」
    私は心をこめて労った。
    「かほりちゃん、周りの人が怖いなって気持ちになっちゃうんだね。そんな中で今まで頑張ってきたんだね。とっても偉いね。かほりちゃん、その怖い気持ち、ちゃんと克服できるから大丈夫だよ。かほりちゃん、僕から見ると前回よりもとっても勇敢になってるもん。ここで僕とのカウンセリングを続けていけば、もっともっと勇敢になれると思うんだ」
    かほりは私の言葉に積極的な反応を示すことはなかったが、私は、かほりの目元が最初に比べて幾分和らいでいるのを感じた。
     
    やがてインターホンが鳴る。母親が迎えに来たのだ。
    私はインターホンで返事をして母親を招き入れる。母親は入って来るやかほりに
    「どうだった?」
    と語り掛ける。
    その口調はかほりに「連れてきてあげてるんだからちゃんと成果を出しなさいよ」と言っているかのようだ。
    私との関係で和らいできたかほりの目元の感じが、また、こわばった無表情な様子に戻っているのを見るとやるせない気持ちになる。
    それでも、「今日は前回に引き続きかほりちゃんと仲良くなるためのワークをしました。とっても頑張ってくれましたよ」と伝えるに留めた。
    「頑張れたなら良かったです」
    母親は、自分は送迎に徹するという素振りで、私との関係を固定化させようとしているように見えた。
     
    二人を送り出した後、出しっぱなしになっていた手を付けられていないウーロン茶とクッキーを片付ける。ウーロン茶は流しに廃棄しグラスを洗う。個包装のクッキーはキッチンの棚にあるお菓子ケースに一旦は戻す。しかし記録を書く前にコーヒーメーカーのポットからコーヒーをカップに注ぐと、私は誘惑に負け、結局今しまったばかりのクッキーを取り出し、包みを破る。そしてクッキーをひとかじりするとパソコンをスリープ状態から起こし、いつものように記録を書き始めた。
     
    要約
    呼吸合わせと、グラウンディングをした。かほりが声を出してくれ、他者に対する恐怖心を伝えてくれた。
    アセスメント
    ・かほりの緊張は相変わらず強いが、それでも関りを通じて徐々に心を開きつつある。
    ・社交場面での緊張や恐怖心が強く、その背景には自己否定感がありそう。
    ・母親は自分の問題には触れてほしくない。不登校はカウンセリングで治してもらうという考え
    方針
    ・かほり本人とは引き続き自律神経調整トレーニングを行い、レジリエンスを高めるとともに、少しずつ気持ちを引き出していく。
    ・母親については今後の様子次第だが、取り敢えず静観する。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆少しずつ......
     
    かほりとの面接はその後も隔週ペースで進められ、やがて年末が過ぎ、新年を迎えた。
    二人の共有する時間が増えるにつれ、かほりは積極的とは言わないまでも、私との関係において少しずつ言葉を使ったやり取りも増えてきた。
     
    「クリスマスはお祝いするの?」
    「......分からないです......去年は......ケーキを食べました」
    「そうなんだねぇ。どんなケーキを食べたの?」
    「普通の......ショートケーキです」
    「おいしかった?」
    「......はい」
     
    「冬休みは家族でどこか行ったりするの?」
    「......分からないです」
    「里帰りとかは?」
    「......お祖母ちゃんの家に行きます」
    「そうなんだねぇ。お祖母ちゃん、どこに住んでるの?」
    「......車で20分くらいのところです」
    「そんなに遠くないんだね。じゃ、よく行くのかな?」
    「......ときどきです」
    「楽しみ?」
    「......」
     
    もちろん呼吸の練習やグラウンディングを入れながらの会話であるが、かほりは本当にゆっくり話す。本当に一言一言を頑張って絞り出してくれているみたいだ。
     
    そんなかほりの頑張りに応えるには...、やっぱりお互いの信頼関係、いわゆるラポールをしっかり形成することだ。
    難しい話じゃない。
    かほりと仲良くなればいい。
    いや、嘘だ。
    やっぱり難しい。
    かほりが私の質問に答えるのは、私に尋問されているような感覚になってはいないか?
    そんなで仲良くなれるわけがない。
    でも、かほりから積極的に話してくれないから、いろいろ聞いていくしかない...。
    いや、だからそれじゃダメだろう。
     
    そんな葛藤を抱えつつも、かほりとの面接は回数を重ねていった。
    そんな中でも希望の持てそうなやり取りとして私の気に留まったものが二つあった。
     
    一つ目は私が、「好きな食べ物はなんですか?」と聞いた時だ。
    かほりはしばらく考えるように間を取った。
    こちらが「そんなに悩まなくても」と思うくらい考えた後に、やっと出た答え。
     
    「......コーヒー牛乳です」
     
    食べ物を聞かれて、コーヒー牛乳が出てくるとは思わなかった私は少しびっくりしながらも、
    「そうなんだねぇ。コーヒー牛乳美味しいよね」と返したが、それ以上会話は膨らまなかった。
    しかし何も出てこないよりも、考えた末に、私の期待した答えとすれ違っていたとしても、かほりが快感情を感じるものを出してくれたことは私とのやり取りの中では大きな進歩であった。
     
    そのようなやり取りを経た後の、もう一つのやり取りは私がかほりが何に興味を示すのかを知りたくて聞いた質問だ。
     
    「何をしているときが一番楽しいですか?」
    「......絵を描いているとき」
    「へ~ どんな絵を描くの?」
    「......ゲームのキャラとかです」
     
    そういえば、初回の時に母親が、家で絵を描いたりゲームばかりしていると言っていたな。
     
    ゲームや絵を描くことを楽しむことができるというのは、彼女を回復へと導くリソースになるかもしれない。

     ―――――――――――――――――――――――――――――――
    そんなカウンセリングが何回か続いた1月の20日のこと。その日はこの地方では年に一回あるかないかの比較的大雪で、テレビでは朝から交通網への影響を警告するニュースを繰り返していた。
     
    『山の香りカウンセリングサービス』では冬の寒い日には薪ストーブで暖を採る。
    かほりが来るであろう13時に十分に温まっていることを逆算すると、11時ころには薪をくべて火を入れ始める。パラフィンワックスを使った自作の着火剤の周りに焚き付け用の細かい木切れを重ね、チャッカマンで火をつける。しばらく見入っていると、着火剤の火は周りの木切れに燃え移る。十分に木切れに火が行きわたると、次に先ほどよりは太めの薪を投入する。徐々に太めの薪を投入して火を大きくしていく。
    大きすぎる薪では十分に温まり、燃え広がる前に鎮火してしまう。一方小さすぎてもすぐに燃え尽きてしまい、火は上手に育ってくれない。丁度いいタイミングで、丁度いい大きさの薪をくべることが、ポイントになってくる。
     
    ―――こんな風にかほりとのラポールも育っていくといいなぁ。
     
    そう。クライアントの心を癒し、育てるのがカウンセリング。
     
    やがて時間になりインターホンが鳴る。
     
    ◆大雪の日に
     
    20XX+1年1月20日 かほり#6
    姿を現したかほりは厚手のダウンジャケットを着て頬が赤らんでおり、その髪の毛には少し雪が乗っているのが見える。駐車場から玄関までの数秒の距離、傘を差さずにきて、インターホンを鳴らし、私の返事を待って入ってきてくれたのだろう。
    私は心を込めて、
    「こんにちは。外、ホント寒いよね。よく来てくれたね」
    と挨拶をし、続けて
    「こっち来て温まりなよ」
    と薪ストーブの前にかほりを誘う。
     
    2時間前に火を入れ始めたストーブは十分に熱を発しており、その上に置いてあるやかんのフタがカタカタと音を立てて震えているのが、中に入ったお湯が沸騰しているのを知らせてくれている。
    かほりは着ていたジャケットを脱いで荷物入れに入れ、薪ストーブの前に足を進めた。
    椅子を二つ持ってきて、薪ストーブを直角二等辺三角形の頂点と見立てたときに、底辺の両端になるような位置関係に置く。片方の椅子に座るようかほりに促し、私ももう片方の椅子に腰を下ろす。
    普段、動きはどちらかと言うと緩慢で、こちらの促しに一呼吸おいてから反応することが多いかほりだが、この時はスムーズに私の勧めに応じ、椅子に座り、ストーブの方に手を差し出した。
     
    ―――よっぽど寒かったんだね。
     
    心の中でつぶやきながらかほりの様子をしばらく見守る。
    メラメラと目の前で燃える炎を無表情に見つめているが、時折パキッと音を立てて木がはぜる音や、やかんの中でぐつぐつと煮えたぎるお湯の音、そして手を通して伝わっているであろう遠赤外線の熱がかほりの心と体を温めてくれることを期待しつつ、私自身は自分のリラックス呼吸を意識する。
     
    「こういう時は動かない方が良い」
     
    ラピュタに出てくる台詞を思いつつ、私も炎のゆらめきに見入っていた。
     
    二人の間にとても穏やかな時間が流れる。
    火に向かって差し出した手がじんわり暖まるのを感じているだろうか。
    炉の中では、煌々と光る熾から時折、炎が立ち上がる。
    かほりは無表情にその光景を見つめていた。
     
    そんな時間がどれだけ続いただろうか。不意にかほりが「ふー」っと大きめに息を吐いたのが分かった。そしてそれに合わせて、肩が下がった。
    ―――来た。
    かほりの心に薪を投入するタイミングだ。
     
    「ね、かほりちゃん、前に皆が怖いって言ってたけど、どんなところが怖いと思うんですか?」
    私はいつもにも増して穏やかな口調を意識して聞いてみた。
    急な私の質問に多少なりとも身構えるかと思ったが、かほりは一呼吸置いた後、まるで独り言のようにつぶやいた。
    「......見られている気がする。後、裏で悪口言われてたり」
     
    不登校の当事者から見える世界...。
    経験した者にしか分からない世界なんだろうなぁ。
    そう思いつつ、
    「そっかぁ。周りがかほりちゃんを見て、悪口言ってそうに思うんだね。それは怖くなっちゃうの、仕方ないよね」
    私はかほりに共感を伝えつつ、思考を巡らせた。
     
    かほりの心がこの恐怖の世界観から解き放たれる手段は...。
    それはやさしい両親がかほりの心の中に住み、かほりが必要な時はいつでも、かほりを慰め、励ましてくれることだ。
    人は成長する過程で、親の言葉や眼差しを自分の心に深く取り込み、一生の『生きる指針』にする。自分が傷つき倒れそうな時、心の中の親が「大丈夫だよ」と優しく抱きしめてくれるからこそ、人は自分で自分を慰め、再び立ち上がることができるのだ。
    つまり、心の中に「健全な両親のイメージ」を根付かせること。それがかほりに自家発電で生きる力を与えてくれる。
    逆に言えば、今のかほりの心に住み着いている両親のイメージは、その役割を果たせていない。
    自分を慰めるすべを持たないからこそ、今、かほりは恐怖に震えるしかなくなっている。
     
    「ね、今まであまり聞いたことなかったんだけど、かほりちゃんのお父さん、お母さんってどんな人ですか?」
     
    しばらく間がある。しかしそれはいつものように言葉を頑張って絞り出すための間と言うよりは、考えるための時間であったように思う。
     
    「お父さんは......優しい。お母さんはすごく一生懸命私を育ててくれた」
     
    この言葉を聞いて、私は胸がギュッと締め付けられる感覚を覚えた。
    かほりの心がここまで飢餓状態になっている事実は、健全な両親が内在化されていれば起きないことだと確信しているからだ。
    それでも、かほりは両親を決して悪くは言わない。多分、これは本心から出た言葉なのだろう。子どもは親の愛情を本能的に求めるし、それが得られない場合にも、自分を慰めるために、自分は愛情をもらえていると自分にも他人にも言い聞かせる。だからこそ、とても切なくなるのだ。
    優しい父親と一生懸命に育ててくれる母親が彼女に健全に取り込まれなかった背景には何が起こっていたのか......。
    そこで私はこう声掛けをする。
     
    「お父さんとお母さんに優しくしてもらってる自分......思い出してみましょう」
     
    マスク越しのかほりの表情は読み取れないが、私は続ける。
     
    「あなたを心から慈しみ、愛してくれるお父さんとお母さん。あなたが寂しい時にはすぐに飛んできてくれて、ぎゅーって抱きしめてくれる」
     
    すると、かほりは目に見える変化が現れた。それまでゆったりとグラウンディングして薪ストーブの温かみに身をゆだねていたのに、手がモジモジし始めて、足元も落ち着かなくなる。
    それを見ながら、私は続ける。
     
    「あなたが嬉しい時には一緒になって心から喜んでくれる。優しい顔であなたの目をしっかりと見て、穏やかな口調で、あなたのことが一番大好きって言ってくれますよ」
     
    私の語りを聞きながら、かほりは明らかに狼狽した様子を見せる。
    表情も苦しそうに見える。
     
    「できません」
    かほりが小さな声で言った。
    「想像できないんです」
     
    「ごめんね。動揺させちゃったね。かほりちゃん......今僕が話してる間......何が頭に浮かんで、想像を邪魔したのかな?」
     
    少し間が空いた後、かほりは再び絞り出すように言った。
    「......お父さんとお母さんがケンカしてる」
    かほりの目が赤くなり、涙を溜めている。
    溜まった涙が目から落ちないように......必死に堪えているようにも見える。
    しかし、それもかなわず、次の瞬間、言葉とともに一気にあふれ出す。
     
    「お母さんが......私と一緒に死ぬってお父さんに言ってる!」
     
    私は心に刃物を突き刺されたような、どうしようもなく苦しい気持ちになった。
    「かほりちゃん......とっても悲しかったね。怖かったね」
    私は後ろを振り返りティッシュボックスからティッシュを数枚取るとかほりに渡した。
    ティッシュを受け取ったかほりは涙を拭きつつ、気持ちを落ち着かせようと呼吸を整えているようだ。
    私も胸が苦しい気持ちを感じながら、必死に自分のリラックス呼吸を意識して、かほりの呼吸を整えるのを手伝った。
     
    少しして「すみません」とかほりが小さく呟く。
     
    「謝らないで。かほりちゃんは何も悪くないし、今日はとっても勇気のいるお話してくれたよね。今日はいつもより念入りに、足の裏をしっかり床につけてグラウンディングしようね」
     
    かほりはハッキリとうなずき、私の指示に従って、体を落ち着かせていった。
     
    ◆板挟み
     
    時間になり母親が迎えに来た。
    中に招き入れ、ストーブに当たってもらう。
    「今日はこんな天気の中、本当によく連れてきていただきました。運転、大丈夫でしたか?」 カウンセリングの代金を頂いて領収書を渡すやり取りをしながら軽く雑談のつもりで話を振る。
     
    「今日は実は主人に送ってもらったんです。今も、車の中で待ってます」
    今まで全く話題に上がっていなかった父親であったが、私がかほりに両親の話を振ったタイミングで登場したことに少し驚きを感じる。
     
    「そうだったんですね。じゃ、1時間二人で車の中でお待ちいただいてたんですか?」
    まさか。そんなわけないよな。近所にあるディスカウントストアで時間をつぶしていたのかなと思いながら聞く。
     
    しかし私の予想は裏切られた。
    「はい。二人で話し合っていたんです。実は......」
    母親の声のトーンが下がる。言いづらいことを伝える合図だ。私も無意識に身構えてしまう。
     
    「主人が、ここに来るのを反対していまして。私はここでこの子が言いたいことを専門の人に聞いてもらって、心が軽くなってくれるといいと思うんですが......。主人は他人を頼るな。私がかほりの話を聞いてやらないのがいけないんだって」
     
    私は動揺する自分をできるだけ出さないように心掛けたが、目が少し泳いだのを自覚した。
     
    ―――面接時間が終了してから、こんな重要な話が出てくるなんて。
     
    しっかりと取り合わないといけない話題ではあるが、一方で面接時間は終了しており、この対応に時間をかけすぎると、今後なし崩し的に時間外に私を頼って来られても困る。
     
    だが1時間車の中で父親と話し合って、その上で、敢えてここで私に伝えてきた。それはつまり、私の対応いかんによっては、かほりとのカウンセリングも本当にここで中断になってしまうんじゃないだろうか。せっかくここまでかほりとの関係を築いてきて、いざ本格的な介入が始まったところなのに。
     
    私は迷った挙句、頭がまとまらないままに口を開く。
    「そうでしたか。今日はお時間も来ていますが、とても大事な話だと思います。どうでしょう。改めてお母さんと私の面談を設定して、そのことについてお話できればと思うのですが。実は今日はかほりちゃん、とっても頑張ってくれたんです」
    この話題をかほりの前で長引かせることで、これ以上かほりに負担をかけたくないという思いと、かほりの頑張りを伝えて母親にカウンセリングの意義を理解してもらいたいという思いが交錯する。しかし、その私の思いはあまり伝わっていなさそうだ。
     
    「それは主人も一緒にですか?」
    まとまらないままに話してしまったことを後悔する。話の流れを考えれば当然想定していなければいけない質問だ。さらに、このとき、母親が父親と一緒に面接することを望んでいるのか、そうでないのかも読み取れなかった。
     
    「もちろんお父さんもお越しいただいてもかまいませんし、お母さんだけでもいいですよ」 こうなると出たとこ勝負になってしまう。この時点で私の中に父親へのアプローチはまだ考えていなかった。さらに、初回にかほりへの緊張緩和のトレーニングを提案したら、次からは来なくなった母親だ。次回かほりと同席する提案をしているのか、かほりとは別に母親のみの面談を提案しているのかも伝わっていないかもしれない。冷静に考えれば分かることだが、このとき私にも余裕がない。
     
    母親も少し考えるように間をおいてから答える。
    「でも、今日はこういう天気で主人も午前中リモートで仕事していましたので時間が取れたんですが、平日ということになると、夫婦揃ってというのが難しいかもしれないです。一旦主人と話し合っていいですか?」
    一旦ということは、今は結論を出さないということだ。そして、この場は幕引きになる。その母親の対応に少しホッとしてしまう自分を感じる。嫌な客にお帰りいただける店員の気持ちそのものだ。
     
    しかしホッとして余裕ができたからこそ、そんな自分を少し客観的に見られるようになる。
    ―――いけない。目の前の母親はかほりの不登校について、本当に困って、私に援助を求めてきてくれたのだ。しかも今父親にその判断を否定されて板挟みに遭っている。
     
    「そうですね。ちょっと仕切り直しましょうか。お母さん、最初にここに来ていただいたとき、本当に悩みぬいて来ていただいたと思うんです。そのお気持ちに私も誠心誠意お応えしたいと思っています。そのために改めて、ここで私がかほりちゃんと何をしているのか。今後の見通しもお伝えして、お母さんやお父さんにもどう関わっていただくか話し合って行ければと思います」
    私は机に常備している卓上カレンダーを手に取って、日にちをペンで指し示す。
     
    「ですから......かほりちゃんはいつも通り、2週間後の2月3日で、お父さんとお母さんについてはまたご連絡いただくということでいかがですか?」
    母親もそこはスムーズに
    「わかりました。よろしくお願いします」
    と返事をくれた。
     
    二人を送り出すとき、今日のセッションや、今の私と母親との会話を、かほりがどう体験したのかが気になった。しかしマスクで顔の下半分が覆われているその表情からは、それを読み取ることができなかった。
     
    二人を送り出した後、火が消えないように薪ストーブに薪を追加し、パソコンを起動させる。今日の記録は少し長くなりそうだ。パソコンが起動するまでの間に、インスタントコーヒーの粉をカップに入れ、薪ストーブの上でカタカタと音を立てているやかんから熱湯を注ぐ。とても熱くて口をつけることもできないコーヒーカップを片手に、パソコンの前に座り、頑張って音を立てながらも起動するのに時間のかかる古いパソコンの真っ黒な画面を見ながら、今しがたあったことを振り返る。
     
    母親が、かほりと心中すると言った場面......どの程度母親は本気で言っていたのだろうか。少なくとも今日のかほりの様子から、当時のかほりには自分の命が脅かされるほどの危険を感じた場面だったと考えるのが妥当だろう。そうでなかったとしても、目の前で両親がケンカしているという状況は子どもの心を深く傷つけ、正常な発達に負の影響を及ぼすことは数々の研究によって明らかにされている。
     
    今回のセッションはかほりにとってかなり負担であっただろう。
    普段蓋をしているトラウマを直視するのは、膿の溜まった傷口を開くようなものだ。
    しっかりグラウンディングをして帰したつもりだが、最後の私と母親とのやり取りは心の傷口に染みただろう。
     
    「母親がかほりの言うことを聞いてやらないからいけない......」
    かほりの不登校を母親のせいにする父親の姿勢が明らかになった。私は母親が迎えに来たときには、母親が父親との同席を望んでいるかどうか分からないと思ったが、ことによると母親は私に助けを求めていたのかもしれない。専門家の意見として、父親に直接カウンセリングの有効性を伝えてほしかったという可能性は大いにある。
     
    かと言って、私が母親の味方をして、父親を説得するような構図を作ることが今後のかほりだけでなく、この家族全体への援助として適切かどうかもまだ分からない。やはり、後先考えずにそのような行動に出るべきではないだろう。
     
    カウンセラーの勝負する場所はあくまでも面接室の中だ。カウンセリングの中で、クライアントの心に寄り添い、傷を癒し、心のエネルギーを回復して帰ってもらうのがカウンセラーの仕事だ。もし私が父親に直接会って話すとしたら、面接室の中にクライアントとして来てもらったときだ。
     
    アセスメント
    ・かほりの負っているトラウマの蓋が少しずつ開き始めた。
    ・中身としては、面前DVの可能性あり。そうでなくても両親の不仲がかほりの安全を脅かし、トラウマとなっている。
    ・父親は母親を責める姿勢。これは不登校の問題だけでなく、結婚してからずっと一貫している可能性が高い。
     
    方針
    ・かほりに対する対応は不変。
    ・夫婦関係の調整も視野に入れる。
     
    どういう面接形態になるのかまだ分からない状態で、漠然とした方針だ。我ながら心もとないと思いつつ、取りあえず保存ボタンを押して、記録を閉じた。
     
    ――――――――――――――――――――――――――――――― 
    ◆抵抗。そして......。
     
    その後、待てど暮らせど母親からの連絡が来ないままに、約束の2月3日を迎えた。この日は前回のような大雪とは打って変わって朝から快晴であったが、その分、空気が乾燥しており、前回にも勝るとも劣らない寒さだ。私は午前中は外仕事で外出しており、相談室に到着したのは12時を回っていた。 急いで薪小屋から薪を運び、薪ストーブに火を入れるが、鋳物の薪ストーブは温まるのに時間がかかるという欠点がある。かほりとは13時に約束をしているが、1時間弱でどれだけ温まるかというと期待薄である。仕方なく、客に出すためのお茶用のお湯は電気ポットで沸かす。更に余り本意ではないのだが、灯油ファンヒーターを奥の収納スペースから取り出す。今回のようなときのために用意してあるものだ。薪ストーブが十分に温まるまでのつなぎの暖房である。本意でないのは、薪ストーブがあるのにファンヒーターを使っているのが少し格好悪い気がするからだ。だから、ファンヒーターの設定温度を最高まで上げて、短時間で部屋を暖めたらファンヒーターはまた奥にしまいたい。人間の見栄とはなんと阿保らしいものかと自嘲する。
     
    今更何も変わらないが一応前回の記録を確認するため、パソコンを起動する。しばらく時間を置いてデスクトップが立ち上がると、「ピロ~ン」という機械音とともに、新着メールのお知らせが入る。メーラーをクリックすると、受信箱の一番上に未読マークとともに「form: Sakabe Tomoko subject: 本日のカウンセリングについて」という項目が私の目に入ってきた。
    ―――あっ、坂部さん。
    私は前回の内容から、もしかしたらキャンセルになるのかもしれないことを覚悟してメールを開いた。
     
    「山の香りカウンセリングサービス代表 榊様                             
                          受信日時  20XX+1年2月3日 10:23
    お世話になっております。
    本日約束していたカウンセリングですが、かほりが急な体調不良で伺えそうにありません。
    ですから、前回のお話もありますし、私一人でお伺いしてもよろしいですか?
    お返事お待ちします。
     
    坂部とも子」
     
    時計を確認したら、12時30分を回ったところだ。 メールで返信するより電話をかける方が確実だと判断し、すぐにケースフォルダから「坂部かほり」と書いてあるファイルを見つけてダブルクリックする。セッションの記録の一番上にある登録情報の欄を見つけると項目に目を走らせる。「090‐○○○○‐○○○○」母親の携帯番号を見つけるとすぐに相談室の固定電話から電話をかける。 数回の呼び出し音が止まると、いつものハスキーな声で「はい、坂部です」という声が聞こえた。
     
    「坂部さん、ご連絡遅くなってごめんなさい。山の香りカウンセリングサービスの榊です。今メール見ました」
    「そうですよね。こちらこそ直前の連絡になってしまって本当にすみません」
    「今日はお母さんだけでいらっしゃいますか?」
    「はい。そのつもりで、実はもう家を出て向かってるところなんです」
    「あ、ごめんなさい。私の返事が遅くなってしまったばっかりに。今、運転中でしたか?」
    「ハンズフリー通話ですから、大丈夫ですよ。私だけで伺っても大丈夫ですか?」
    「もちろんです。お待ちしておりますね」
    「では後ほど~」
    「はい、失礼します」
     
    相手が通話を終了したのを確認して、電話の子機を充電器に戻す。 母親の電話の声は落ち着いており、前回と比べて明るさを取り戻している。これから私と会うことについて、緊張はあまりなさそうな印象だ。
    一方かほりの体調不良は気がかりだ。やはり前回のセッションはかほりにとって負担が強すぎたのだろうか。少なからずカウンセリングに対する抵抗が出ることは予想された。前日までに連絡がなかったので、どうかと思っていたが、母親が来談されるということで、ケース自体はつながれたことに、ホッとする。
     
    しかし、母親をこのケース全体の中でどう位置づけていこうか。
    第一目標はかほりに力を取り戻してもらうことだ。
    そのために、初回の方針に立ち返って、母親の共感不全も治療ターゲットにするということはできる。だが、その為には、やはり一度、仕切りなおして、そのことを母親に伝えないといけないだろう。
     
    そんなことを思いながら、もう一度記録を読み返す。集中して読んでいたのか、いつの間にかぼんやりしてしまったのか定かではないが、気づかないうちに時計は13時に差し掛かるところだ。
     
    「ピンポ~ン」
     
    インターホンが鳴る。私は我に返り応対ボタンを押すと先ほどの電話と同じ声が聞こえる。
     
    「坂部です~」
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆告知
     
    20XX年2月3日  母親#2
    「こんにちは。どうぞおかけください」
    私は母親を相談室に迎え入れて椅子を勧める。
    「こんにちは。お世話になります」
    と言い、着ていたコートと持っていたカバンを荷物入れに入れて椅子に腰を下ろす母親。
    振る舞いに丁寧さを感じさせる。
    「外、相変わらず寒いですよねぇ」
    私は声をかけつつ、ふと、灯油ファンヒーターを片付けるのを忘れていたことに気が付いた。が、後の祭りだ。
    私は何も気にしていない素振りでファンヒーターの設定温度を落とし、未だ温まり切らない薪ストーブに一本薪を足す。
    「少しお待ちくださいね」と告げて奥のキッチンにクッキーを取りに行く。「お茶もあったかい方が良いですよね。今淹れますね」
    電気ポットが保温になっていることを確かめ、緑茶のティーバックを湯呑にセットし、お湯を注いだ。
    クッキーとお茶をお盆に乗せて持ってくると、
    「ちょっと熱いかもしれないですから、気を付けてくださいね」
    と伝えて、クッキーを皿に、湯呑は机の上に置いたコースターに乗せた。湯呑から沸き立つ湯気がまだ飲める温度ではないことを知らせている。
    母親は薪ストーブの中で育っている火を見つめている。
    「このストーブすごいですね。薪ってどうしてるんですか?」
    本題に入る前に雑談の話題を提供してくれているのか、単に興味本位なのかは分からない。
    「実は、自分で伐ってるんですよ。山で木を伐って、運んできて斧で薪割りするんです。いい運動になりますよ」
    返事をしながら私も椅子に腰かけて、母親と対面で座った。
     
    対面すると、母親は薪の調達方法を聞いた時の朗らかな感じから、表情をわずかに引き締め、改まったように口を開いた。
    「今日は本当急にすみません。かほり、昨日まではここに来るつもりだったんですけど、朝起きたらお腹痛いって言って。私も前回のこともありましたし、ご連絡しなきゃって思ってたんです。それで、丁度いいかなって思って」
    やはり薪ストーブに食いついたのは、話題の緩衝材のようなものだったのだろう。
    「そうだったんですね。かほりちゃん、心配ですね。でも、私もお母さんに伺いたいことやお伝えしたいこともありましたから、こうしてお越しいただけて良かったです」
    私も母親に合わせて表情を引き締めて伝えたが、今度は私の言葉に応えるように母親はわずかに表情を崩した。しかし、それも一瞬で、すぐにまた真剣な口調で言う。
    「それで、主人のことなんですが、」
    かほりの話題ではなく、いきなりそっちからくるのかと多少身構える自分を感じる。
    「前回も少し話しましたが、カウンセリングに乗り気でないと言うか」
    「仰ってましたね。でも、今日もこうしてお母さん、お越しいただいているということは、絶対何が何でも反対っていうことではないんですか?」
    母親は少しだけ困ったような表情を浮かべるも、
    「だから、結構家ではバトってます」
    と言って、口元だけで笑顔を作る。
     
    「お母さんが......私と一緒に死ぬってお父さんに言ってる」
    前回のかほりの表情が思い起こされる。
     
    「そうなんですね。バトルになると......かなり激しいんですか?」
    「そんなでもないですよ。二人とも声を荒げたりするわけではないですし。私がプイっと無視しちゃう感じです」
    私は何か話のチグハグさを感じる。
    「お母さんが無視すると、お父さんはそれ以上言って来ない?」
    「そうですね。大体、一人で晩酌を始めますね」
    本当にバトルになっているのだろうか?夫婦喧嘩をお勧めするわけではないが、バトルと言うと、お互いに対等な関係で言いたいことを言い合うような状態をイメージする。しかし、想像するに、父親が母親を責めると、母親は何も言えなくなる。そのまま気まずい空気になり、父親は酒に逃げてしまうのではないだろうか。まぁ、冷戦状態もバトルの一形態ではあるのだが。
    「お母さん、飲んでるお父さんにはもう関わらない?」
    「そうですね。そっとしておくと言うか、先にお風呂に入って寝ちゃうことが多いです」
     
    「それは、ずっと夫婦のパターンになってるんですかね」
    「結構そんな感じです」
    私は思う。カウンセリングに来る来ないの話題以前からこの夫婦はずっと冷戦状態だったのだ。そして夫婦の冷戦は子どもを消耗させる。
     
    「えっと......もちろんここへはかほりちゃんの不登校のことで相談にいらしているわけですが、今はちょっとご夫婦の話題でお話を進めてもいいでしょうか」
    私の問いに対し、母親は申し訳なさそうに言う。
    「私の話を聴いてもらってもいいんですか?」
    「もちろんです。と言うか、それが大事だと思っています」
    私は声のトーンを落として、ゆっくりと、しかしハッキリとした口調で言う。
    「正直にお伝えしますと、私、かほりちゃんの不登校の原因、大変失礼ですが、ご夫婦の関係にあると思っています」
    これはかなり勇気の要る告知だ。タイミングを間違えると、一気に態度を硬化させて関係が崩れてしまう。だが、この日、母親が自分から一人で面接の場に現れて、父親について自発的に話し始めたこと。前回、私に助けを求めていただろうこと、今日の真剣な表情、口調。
    それらから、今伝えなくてはならないと直感的に判断した。
     
    母親も、私の言葉を否定するでもなく、「来たか」と言わんばかりに覚悟を決めたように見えた。
     
    ◆吐き出された想い
     
    私は続けた。
    「坂部さん、とっても頑張っていい母であり、いい妻であろうとしていらしたんだと思います。今まで、本当お辛かったでしょう?」
    私は敢えて「お母さん」と呼ばず、「坂部さん」と呼んで伝えた。
    「そんな。結構適当ですよ」
    母親は、私が呼び方を変えたことに対しては反応せず、私の労いの言葉に対して、謙遜して答えた。
    私は父親に詰問される度に何も言えなくなって、その場から逃げ出すことで、自分を守っている母親の悔しさに思いを馳せる。
    「そうですか」
    と私は続ける。
    「今、旦那さんとバトルになるとどうなるかお話いただいたとき、多分特定の場面が坂部さんの頭に浮かんでたんじゃないかと思うんです。無視しちゃう気持ちになったときの旦那さんの表情。ちょっともう一回思い出してもらうことできますか?」
    母親は戸惑った表情をする。
    「思い出せますか?」
    私はできるだけ攻撃的に受け取られないような口調や表情で、記憶の想起を促す。
    「はい」
    それでも、やはり母親の被虐のスイッチが入ってしまうのだろう。やや身構えているのが声のトーンから伝わってくる。
    「旦那さんの表情......思い浮かべながら、深呼吸しましょう。ゆっくり吸って......ゆっくり吐いて......」
    いつもの10秒呼吸だ。
    母親の胸が、私の教示に従って上下するのを確認する。
    「その呼吸を続けながら......いいですね。今どんな感じがしますか?」
    「気持ちよくはないです」
    平坦な口調が母親の警戒を私に伝えている。。
    「ありがとうございます。頑張ってくれていますね。私が坂部さんについていますよ」
    私自身もリラックス呼吸をしながら母親に伴走していることを伝える。
    「ちょっとその気持ちよくない感じに浸ってください。もし可能であれば、目を閉じていただいて、その場面をよく思い出してみてください」
    そう伝えると、母親は一瞬戸惑ったような表情を見せるも、やがて、目を閉じた。そこにはある種の観念の気持ちがあったかもしれない。
    私はその勇気をたたえる意味を込めて「ありがとうございます」と伝え、続けて、
    「目を閉じると......旦那さんの表情......坂部さんを責めている感じですか?」
    と聞く。
    「そう」
    「大丈夫。私が今坂部さんについています。私は坂部さんをサポートするためにここにいます。その表情で責められると......どんな気持ちになりますか?」
    「ん~、相手にしない方が良いかなって思います」
    「なるほど。だから坂部さんは、旦那さんを無視しちゃうんですね」
    「はい」
    「無視は坂部さんが旦那さんの攻撃から身を守るための手段なんですね。夫婦関係の中で、そうやって責められてきた時に坂部さんがご自身を守ってこられた。それはとっても尊いことだと思います」
    母親は表情を変えずに私の言葉を聴いている。
    「今、旦那さんを無視しているときのご自身を思い返してみてください。どんな気持ちになりますか」
    私の問いに対して少し間をおいてから答えた。
    「やるせない気持ち」
    「やるせない気持ちになるんですね。そのやるせないなぁっていう気持ちを感じるとき、体はどんな感じがしますか?お腹がキリキリするとか、胸がキューっと締め付けられる感じとか」
    私はそう伝えて、ネガティブな感情に伴う体の反応を確認していく。
    急に体の感覚を聞かれて戸惑ったのかもしれない。
    少し自分で確認するように間を取った後、
    「胸がズーンと重い感じがします」
    と答えてくれた。
    「とても上手に体の感じを特定してくれました。ありがとうございます。そのズーンと重い感じ。今、私と一緒に味わってみましょう。どんな感覚なのか、私にできるだけ分かるように教えてください。私もお母さんの気持ちを一緒に感じたいんです」
    「本当、ズーンって錘が乗っている感じがします」
    「そうなんですね。坂部さんを責めている旦那さんの表情が、坂部さんに重くのしかかっているんですね。とっても重いですよね。大丈夫です。ゆったりと呼吸をして。よく感じていきましょう。私は坂部さんと共にいます」
    母親の表情に力が入り、苦しそうなのが伝わってくる。
    「大丈夫です。今から胸の重い感じを軽くしていきますからね。この場では坂部さんは完全に安全だし、坂部さんが安全でいられるように、私がサポートしていきます」
    依然として眉をしかめるような表情で私の語り掛けを聞いている。
    「旦那さんが坂部さんを責めてくる表情に対して感じるやるせない気持ち、今まで蓋をして、無視してきましたよね。もし仮にですが、言い返せるとしたら......なんて言いたいですか?」
    予想していなかった質問なのだろう。眉をしかめたまま、しばらく間を置く。
    「えぇ、なんだろう」
    と考えた後に言う。
    「そんな風に見るのはやめて」
    平坦な口調で答えてくれる。
    私はうなずきながら促す。
    「うんうん。責めるような目で見るのをやめてほしいんですね。他にはなんて言いたいですか?」
    母親は一呼吸おいてから答えた。
    「なんで私ばかりが悪いことになってるの?」
    少しずつ心の中に閉じ込めた箱の蓋が開き始めているのを感じる。
    「うんうん。坂部さんばっかりが悪者にされてきたんですね。他には?」
    「あなたはいつも私を責めるけど、そんなに私はダメなの?」
    目を閉じてはいるが、急に母親の声は震え出す。私は母親の言葉を優しい口調でトレースする。
    「いつも責められてきた。他には?」
    これまで平坦な口調だったのは、感情があふれ出さないように努めて平生を装っていたのが解る。そして、それがついに決壊した。
    「好き勝手なことばっかり言って、必要な時には自分は何もしないくせに、調子いい時だけ出てきて、良い人面するのはやめてほしい。私ばかりに嫌な役押し付けて、それで私を責めるの?一度だって私を認めてくれたことなんかなかったじゃない。こんなに頑張ってるのに。文句ばっかり言うなら全部自分でやればいいでしょ」
    もう私から促さなくても、今まで抑えてきた母親の不満があふれ出した。それは涙とともに排出される。
    一呼吸おいてから、「こんなに頑張ってるのに......」再び繰り返される言葉は嗚咽を伴っていた。
    「本当に勇気をもって気持ちを表現してくれました。坂部さんの今まで抱えていらっしゃった辛い気持ち......よく伝わってきましたよ。私はその坂部さんの勇気に心よりの敬意をお伝えしたいと思います」そう伝えて、テーブルの上にあるティッシュを2~3枚取って手渡す。
    「すみません」とティッシュを受け取って涙をぬぐう母親に、「坂部さん、旦那さんに認めてもらいたいんですね」と伝える。
    更に自身を落ち着かせるためか、それまで手を付けていなかったもうぬるくなっているだろうお茶に手を伸ばす。
    一口つけると、フ―ッと大きめの息を吐き、
    「結局そうなんですね。人って誰かに認めてもらわないとダメなんだってことですよね」としみじみ言う。
    「今日そのお気持ちをちゃんと言葉にしてくれました」
    「そうですね。だからと言って何か変わるわけじゃないですけど、なんかちょっと溜飲が下がった気がします」
    「これをずっと溜め続けたらしんどいですよ。感情を抑圧するのって、人間、思う以上にエネルギーを使うんですね。そしてそれは、かほりちゃんとの関りにも影響を及ぼしてしまう可能性は高いです」そう説明した後に、私は提案した。
    「どうでしょうか。今後も定期的にお母さんともお会いして行けるといいと思うのですが」
    かほりとの面接を意識して、お母さんと呼び方を再び元に戻す。
    「そうですね。来たい気持ちはあるんですが、かほりを隔週で連れてきてますので、これ以上ってなると、ちょっとお金的に......」
    現実的な壁が立ちはだかる。
    私も経営者であり、サービスを継続させていかなければならない以上、代金はいただかないわけにはいかない。
    「そうですよね。かほりちゃん隔週での面接はできるだけ続けたいですね。今日お母さんが頑張ってくれたみたいに、かほりちゃんもとっても頑張ってくれています。でも、例えば今日みたいにかほりちゃんが来れない日とかにお母さんにお越しいただくのはありです。そうでなくても、二日前までなら予約取れますから、お母さんが今日みたいに話したいって思ってくれた時に不定期にご予約いただくというのはどうでしょうか。後は、かほりちゃんの許可が取れればですが、お二人で一緒に来ていただいて、30分ずつ順番にお話伺うとか、同席いただくとか、できるだけご要望に応えたいと思います」
    母親は少し考えているような素振りをする。
    「わかりました。じゃ、取り敢えず、次回は二週間後にかほりを連れてきますね。それまでにどうするか考えさせてください」
    私が了承すると、「こちら、いただいていいですか?」と手を付けなかったクッキーをカバンに入れて持ち帰った。
     
    こうして母親との面談の一回目が終わった。
     
     
    母親を送り出すと、いつものようにコーヒーを準備してデスクに座り、終わったばかりの面接を振り返る。
     
    今回、かほりが来れなかったことは、やはり抵抗とみていいだろう。事前にキャンセルの可能性も頭に置いていたとはいえ、それが現実になってしまうと、私の頭の中で無意識により深い反省の考察が始まる。前回、周囲が怖いと言ったときに、その気持ちをまずは扱うべきであった。その気持ちに焦点化して、グラウンディングしないといけなかったのだ。私はそれを飛ばして、両親に話を持って行ってしまったし、更には彼女にとっては最大級のトラウマが出てきてしまった。負担が大き過ぎたのだ。今後、かほりは私の前に姿を現してくれるのだろうかと心配になる。
    だが、一方で、今回の母親面接はこのケースにとって有意義であった。夫婦の問題に直面化させ、母親も私の示唆に応えて、気持ちを話してくれた。
    次回かほりが来れるかは今の時点では分からない。しかし母親への働きかけ次第で十分に援助が可能であるという手応えは感じた。
     
    やがて立ち上がったパソコン上で「坂部かほり」のケースファイルを開くと、コーヒーをすすりながら記録を開始する。
    アセスメント
    ・かほりの抵抗が見られる。来談が厳しい状態。
    ・母親の真の願い「認められたい」
    方針
    ・枠の再設定。かほりとのカウンセリングから、母親を交えた家族療法へ切り替える。
     
    「家族療法......つまりは最初に立てた方針にようやく戻ってこれた」
    私は心の中で呟いた。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆怖い絵
     
    2週間というのは早いものだ。日々の業務に追われている中で、気づけば2月16日も終わろうとしていた。その日のケースの記録が終わると、翌日のケースにも思いを巡らせる。いくつかある中で、そう言えば坂部家の予約も入っている。かほりは来れるだろうかと思いつつメールを確認する。
    1日メーラーを開けないと結構メールが溜まる。そのほとんどは広告だったり営業だ。それらと必要なメールを見分ける作業は毎回骨が折れる。
    そんな中で私の目に留まったのは「form: Sakabe Tomoko subject: 明日のカウンセリングについて」という項目だった。
     
    「山の香りカウンセリングサービス代表 榊様                             
                           受信日時  20XX+1/2/16 18:03
    お世話になっております。
    明日のカウンセリングですが、実は三日前からかほりがインフルエンザになってしまいました。
    もう熱は下がっていて家では平気そうにしていますが、自宅待機期間中ですので、連れていけません。
    また私が一人で伺います。
     
    坂部とも子」
    +++++++++++
     
    ―――あらら。
     
    前回に続き、またかほりは来れないということだが、インフルエンザは判断が難しい。それ自体は私のカウンセリングに対する抵抗とは言えない。ただ、カウンセリングに来れないことを、かほりがどう思っているのかは気になるところだ。
    その様子も明日、母親に聞いてみよう。そう思い、母親の来談を了承する旨の返信をしてメーラーを閉じた。
     
    翌日は朝から別の相談が入っていたので、当然それに応じるため朝から薪ストーブを稼働させていた。
    外の凍てつく寒さとは対照的に、すでに部屋の中は十分に温まっており、Tシャツ一枚でもいいくらいだ。
    天板の上で煮えくり返るように音を立てているやかんから今にもお湯があふれ出しそうになっている。私はそうならないように、保温ポッドに熱湯を移し替え、再び水道の蛇口をひねり、冷水で満たしたやかんを薪ストーブの天板の上に置いた。
    自分で握ったちりめんをまぶしたおにぎりを頬張りつつ、記録に目を通し、今からくるであろう坂部母の顔を思い浮かべる。
    やがて母親の到着を知らせるインターホンが鳴った。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
     
    20XX+1年2月17日 母親#3
    入室した母親はいつになくマスクをしている。
    かほりのインフルエンザを意識してのことだろう。私も机上に常備しているアルコール消毒を指し「よかったら使ってくださいね」と伝えるとともに椅子に座るように促す。一方で、いつものように奥のキッチンにクッキーを取りに行き、薪ストーブ上で既に湯気を上げている先ほど冷水を入れたやかんからお茶を淹れる。
     
    それらを差し出すと、お盆を片付け、私も母親に正対して椅子に腰を下ろした。
    「改めまして、こんにちは。かほりちゃん、大丈夫ですか?」
    かほりの体調もそうだが、カウンセリングに来れないことについてかほりの様子を聞きたかったというのが私の本音だ。しかしそれは伝わっていないだろう。
    「お願いします。かほりはもう元気です。本当は今日も連れてきたかったんですが、一応、うつすといけないので。ウチは私も主人も予防接種打ったんですけど、かほりはいつも家にいるので打たなかったんですよ。大丈夫かと思って。もしかしてどちらかが家に菌を持って帰ってきてかほりにうつしたのかもしれません。先週金曜日に私が仕事から帰ったら、急に体が怠いって言い出したんです。それで、熱計ったら39度5分もあって。急いで小児科受診して、インフルとコロナと溶連菌の検査したんですけど、インフルAの方で陽性って。それでイナビルもらってきたんですけど、発熱が金曜日で良かったです。主人が土日休みで対応してくれたので。さすがに平日で私も仕事の日だったら、一人で家に置いておけませんから」
    かほりの状況だけでなく、家庭の様子も伝わってくる。
    そうなるともう少し聞きたくなる。
    「そうなんですね。それは良かったです。ちなみに今更ですが、お母さんは土日も仕事なんでしたっけ?」
    これは今まで気になっていた質問だ。母親が月曜日に毎回送迎してくれていることを考えると月曜日が休みなのだろうか。
    「そうですね。自然食品の販売会社なんですけど、シフト制でして、土日に仕事入れていることは多いです。その代わり今日みたいに平日休み取りやすいんですよ」
    「なるほど。じゃ、旦那さんとも休みは合わないんですね」
    「合わないと言うか、敢えてずらしてると言うか」
    ややバツが悪そうな感じを見せるが即座に否定する。
    「いえ、仲が悪いからとかじゃないんです。今回みたいなことがあったときにどっちかが対応できるようにっていう意味です」
    「なるほどなるほど。前回いろいろ仰ってらしたので、要らぬ推測もしてしまうんですが、ことさらにそういうわけでもないんですね」
    母親の言い訳めいた言葉に私も濁すような言い方をしてしまい、ややぎこちない感じの空気が流れる。
    「実は今日伺いたいことがあって」と母親がその空気を打ち消すように本題の話を提示してくれる。改まった感じから私も少し体に力が入った。
    「かほりが......怖い絵を描いているんです」
    母親の声のトーンで、深刻な感情がマスク越しに伝わってくる。
    「怖い絵?」
    「ちょっと見てくれますか?」
    そう言うと、母親はおもむろに足元にある荷物置きに入れたカバンからスマホを取り出し操作を始める。
    数秒の間に目的の物を表示させると私の方に画面を見えるように差し出した。
     
    ◆甘え
     
    写真だ。
    一枚の絵が写真に収められている。
    案山子?違う。女の子だ。女の子の絵が描かれている。
    体は十字架と言うか、案山子のように手を開いている。無機質な身体の上で顔はこちらを見て笑っている。いや、笑っているように見えると言った方が正確かもしれない。目は無表情か、むしろこちらを睨みつけているようにさえ見える。ただ、口角が上がっているため全体の表情としては笑っているように見えるのだ。そして何よりも私の目を引き付けたのは、女の子の体中に刺さっている包丁、ナイフ、槍、剣......凡そ思いつく、殺傷能力のありそうな刃物たちである。それらが案山子のように立つ女の子の体に突き立てられているのだ。そして全体は白い紙に鉛筆で描かれいているだろうモノトーンなのに、傷口から流れ出る血だけが丁寧に赤黒く塗られているため、一層見る者の目を惹きつける。
     
    「これは......確かに怖いですね」
    「そうなんです。怖くて......私、この絵を見たとき、すごく動揺しちゃって。なんか胸が苦しくなりました。普段はアニメのキャラクターの絵ばっかり描いてるんです。でも、先々週くらいですか。かほりの部屋に入ったときに、偶然机の上にこれが置いてあって。思わず写メしちゃいました。いつ描いた物かは分かりません。でも、机の上に置いてあるってことは、私に見られたかったのかもしれないと思って」
    母親はこの絵が何を伝えたいのかを心理の専門家である私に聞きたいというわけだ。
    しかし、私はまず母親に聞く。
    「そうかもしれないですね。お母さんとしては、この絵、どんな風に見られましたか?」
    母親はハスキーな声のトーンを一段落として答える。
    「かほりの心が......こんなに傷ついているっていうこと?」
    「そうですね。そういうかほりちゃんの叫びが聞こえてきそうですね」
    誰もがそう感じるだろう。私も同じように思った。そして更につけ足す。
    「そして体が無機質というか、人形みたいに見えます。かほりちゃんの体はもう痛みを感じていないのかもしれません。それと、この表情です。私にはかほりちゃんの敵意と、相手に迎合するしかない悔しさが滲み出ているように見えます」
    「敵意と......迎合......悔しさ......」
    母親は私が挙げたかほりの感情と目される言葉を復唱する。
    私は続けた。
    「この表情からは、極度のストレス下で、戦うことも逃げることもできなくて、迎合しちゃったのかなと想像しました」
    「言われてみると、確かにそういう風に見えます」
    どこまで納得してくれているかは分からない。私はかほりがどれだけ追い詰められているかということを伝えたくて続けた。
    「こんなに傷ついていたら......死んじゃいますよね。そうじゃなくても、病院のベッドで絶対安静にしてないといけないですよね」
    母親は神妙な顔つきで言う。
    「学校なんて行けるわけない......ってことですか」
    「その通りです。かほりちゃんに必要なのは、この体中に刺さった刃を抜いてあげて、ちゃんと手当してあげることじゃないですか」
    ここは勝負所だ。私は自分の言葉に少なからず攻撃性が散りばめられてしまっているのを自覚していた。
    「こんな状態で学校に行かせようとするあなたは間違っている」というメッセージが非言語に含まれいてるのだ。カウンセラーは通常クライアントを責めない。仮に母親が私の攻撃を受けて防御姿勢や反抗姿勢を取ってしまうとカウンセリングは停滞してしまうからだ。そのためここは無血開城、つまり圧倒的な説得力で母親を納得へと導かないといけない。
    その私の攻めの姿勢に対して母親は防御にも反抗にも出られるような言葉を選ぶ。
    「それは......どうやって?」
    母親の声には疑念が含まれている。彼女の目がわずかに泳ぎ、視線が私から離れる。
    ここで、しっかりと私は私と両親のすべきことを伝えて、納得を引き出す必要がある。
    「ひとつには私がここでかほりちゃんのトラウマケアをします。でも、その過程でお父さん、お母さんにも協力をお願いする必要があります」
    私は穏やかに、しかし断固とした口調で説明を続けた。
    まだ母親は防御姿勢を崩さないで反応する。
    「なんでしょう」
    母親の声は少し震えているが、彼女は私の目を真っ直ぐに見つめる。
    「お父さんとお母さん、二人で力と心を合わせて、かほりちゃんを甘やかしてあげることです。思いっきり」
    母親は絶句し、しばらくの間、言葉を失っていた。彼女の目が一瞬、私から離れ、床を見つめる。
     
    「実は......最近、かほりが妙に甘えてくるんです」
    母親は小さな声で言った。彼女の手が膝の上でぎゅっと握りしめられているのが見えた。
     
    「どんな風に?」私は優しく促した。
     
    「お風呂に一緒に入りたがったり、夜布団に一緒に入ってきて寝たがったり。私が料理してたりするとキッチンに来て、ベタベタくっついてきたり」そう話す彼女の声には戸惑いが混じっている。
     
    「甘えたいんですね」と私は少し微笑みながら言った。
     
    「私、なんか拒むまではいかないんですが、どうしても素直に甘えさせられなくて、逃げると言うか距離取っちゃうんです」と母親は視線をそらし、手をもじもじと動かした。
     
    父親と力を合わせる以前のところに課題がありそうだ。私はカウンセラーとして母親のつまずきを解消し、彼女がかほりを受け入れられるように導く必要がある。
     
    「実は不登校の子が赤ちゃん返りすることは珍しいことではありません。かほりちゃんに限らず、みんな傷ついているんです。そして、子どもは傷を癒してくれることを本能的に母親に求めます。だから甘えてくるんです。お母さんに甘えることで、かほりちゃんは自分の傷を癒そうとしてるんですよ」
    私はかほりと2回目に会ったとき、セッションの中でほぐれてきたかほりの表情が母親が迎えに来た瞬間、また無表情に変わったのを思い出した。あの時、かほりは母親の圧を感じていたのは想像に難くない。それでも、やはり母親を求めてしまうという複雑な心理に思いを馳せた。
     
    母親は視線を床に落とし、深く考え込むように眉をひそめた。
     
    「なんでしょう。私も甘えさせてあげた方がいいのかなとは思うんですが、もう中学生ですよ。そんなにくっつかなくても、別の甘え方があるように思います」
     
    母親の声には戸惑いが混じっていた。彼女の手が膝の上で落ち着かないように動き続けている。
     
    「例えばどんな?」
     
    私は優しく促した。母親は少しの沈黙の後、ひねり出すように言葉を発する。
     
    「なんでしょう。一緒にご飯食べるとか、ゲームするとか......買い物に行くとか?」
     
    彼女の声は学生が先生に正解を求めるときの声だ。「この中に正解はありますか?」と。
    しかし私は母親の中に正解を求めた。
     
    「ご自身が、子どものころ、そうやって甘えてた?」
     
    私の問いかけに、母親はしばらく目を閉じた。過去の記憶を思い起こすように深呼吸をする。
     
    「あんまり親に甘えた記憶がありません」
     
    彼女の声は低く、表情もどこか困惑しているように感じた。自分が甘えた記憶がないということにそれまで気づいていなかったのかもしれない。
     
    「だからどうしていいか分からなくて、かほりちゃんが甘えてくると避けちゃうんですね。今想像してみましょう。かほりちゃんがお母さんの寝てるところに入ってきて、一緒に寝てと言って抱き着いてきます。どんな気持ちがしますか?」
     
    「ん~、バツが悪いと言うか、逃げ出したくなります」
     
    この逃げ出したいという気持ちこそが母親が克服しないといけない負の気持ちだ。このケースの根幹の課題と言ってもいいかもしれない。
    私はここで、一歩踏み込む。
     
    「それは、かほりちゃんが小さな赤ちゃんだったとしても?」
     
    母親の目が一瞬大きく見開かれる。その後、深い息をついて視線を下げた。
     
    「赤ちゃん......怖かったんです」母親の声は震えている。「私、かほりが赤ちゃんのころから怖かったんです。いつも泣いて、泣いている声が私を責めているみたいで。かほりが泣くたびに本当気が狂いそうになって。主人に助けを求めても、私が悪いって言われて。それはそうですよね。どう考えても私が悪いですよね」
    言い終わるころには、母親の目からこぼれた涙がマスクを濡らしていた。
     
    怖いから、逃げ出したくなったのだ。
     
    私は普段よりも声のトーンを下げて、ゆっくりと言葉に力を込めていった。
    「お母さん。あなたは悪くありません。お母さんを責め立てた人がいるはずです。お前に子育てなんてできるわけないって。あなたを責めて、あなたを恐怖心でしばりつけた人がいるはずです」
     
    母親は目を見開いた。その視線が空中の一点で固定されたように固まる。そして絞り出すように言う。
    「それは......私の母です」
     
    ◆亡霊との別れ
     
    「坂部さんのお母さん......」
    母という言葉が出てきて私は反射的に、坂部さんと呼び方を変えた。
     
    「私の母はいつも私を責める人でした。何をしても怒られて」
    先ほどの涙が乾いたわけではないだろうが、静かな口調で母親は語り始めた。
    「私がテストでいい点とって帰ってきても、必ずダメだって。今、『お前に子育てなんてできるわけない』って言われた時、思い出しました。私小学校で学級委員に選ばれたんです。なんか、人気投票で一番になったみたいで、嬉しかったんですよね。それで家に帰って母にそのことを伝えたんです。そうしたら、『あんたに学級委員なんてできるわけない』って言われたんです。それが、何度も私の中で反響して......。お前にできるわけない、お前にできるわけないって」
    静かな語り口調は最初だけだ。すぐに声を震わせて、涙が溢れ頬を伝う。
     
    その様子に、私はとても切ない気持ちになる。
    「そんな風に言われて......それが何度も反響してる。坂部さん、自分ができるわけないって刷り込まれちゃったんですね」
    母親は深く息をつき、視線を床に落とした。感情が溢れてくるのを押し殺しているようだ。
    「そうかもしれません。頭ではそんなことない。私は出来るって自分に言い聞かせてたんですよ。母の言うことなんかに負けないって。でも、受験のときも、就職してからも、かほりが生まれてからも。ずっとその反響がやまなくて。かほりの泣き声や前回話した旦那が私を責めるときも、私の頭の中でずっと母が私を責めてるんです」
    彼女の声には、長年の苦しみと葛藤がにじんでいた。私は静かに問いかける。
    「今も?」
    母親は一瞬、考え込むように目を閉じた。彼女の手が膝の上でぎゅっと握りしめられている。
    「どうでしょう......。そうかもしれません」
    「ではお母さんに今、言ってやりましょう。『もう私はあなたに騙されない。私はダメじゃない』って」
    母親は困惑した様子で黙り込む。「言ってやりましょう」と言われても、私に何を要求されているのか分からないのだろう。
    だから私は強い口調で言う。
    「もう私は騙されない」
    母親は少し困惑した様子で、小さく私に続いて言う。
    「もう......私は騙されない」
    私は続けた。
    「私はダメじゃない」
    母親も今度はさっきよりもはっきりついてくる。
    「私はダメじゃない」
    私は繰り返し、母親もついてくる。
    「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
    「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
    母親の声が力強くなった。
    「もう一度。大きな声で」
    「もう私は騙されない。私はダメじゃない」
    私は更に続け、母親もついてくる。
    「私はもうあなたに支配されない」
    「私はもうあなたに支配されない」
    「私を支配していいのは私だけだ」
    「私を支配していいのは私だけだ」
     
    母親は涙で声を震わせながらも力強く言った。
    母親が十分に決意を固めたことを認識した私は頭を大きくうなずかせて、母親にアイコンタクトを送る。
    私のうなずきを母親が受け取ったことを確認した私は、まっさらな記録用のA4用紙を一枚取り出して机の上に置いた。そして、母親の目の前でペンで紙一杯に大きく、「お前にできるわけがない」と書いて、母親の方に向けて見せた。
    私の行動にキョトンとしている母親に、私はこう問いかける。
    「今、この言葉を見てどう思いますか?」
    私の意図が伝わったのだろう。強い口調で返してくれる。
    「そんなことない。私はできるって」
    母親が十分に自分の意思で返答してくれているのを感じる。
    私はその紙を母親の前に更に差し出して言う。
    「では、この紙を坂部さんご自身の手で丸めてください」
    私がそう言うと、母親は私の提案に従って、紙をくしゃくしゃに丸めた。そこにはもう戸惑いは感じられない。
    それを確認した私は立ち上がり、薪ストーブの前に立つ。見ると天板の上にある温度計は250度を指している。その天板を開けて言った。
    「坂部さん、こちらにその紙を持ってきてください。そして、坂部さんの手で、この中に投げ入れてください」
    炉の中では真っ赤になった薪が熾火の状態で煌々と熱を発している。天板の開いている部分から、その熱がダイレクトに伝わってきて、顔が熱い。
    母親はその紙を持ってきて、炉の前に立った。その表情からは決意が感じられる。
    「言いたいこと......ありますか?」
    「......」
    「坂部さんを縛り付けていた亡霊とのお別れです」
    私の言葉に後押しされて、母親は言う。
    「さようなら。もう二度と私の前に現れないで」
    私は大きくうなずき、彼女も私に目を合わせて応える。
    と、彼女は丸めた紙を炉の上の空間に持って行き、静かに手を放した。
    重力に引かれポトンと炉の中に落ちた丸められた紙に、瞬時に熾火の熱と炎が襲い掛かる。白かった紙が一瞬で炎に包まれ、黒く変色する。その塊は勢いよく炎をあげ、その熱が覗き込んでいる私たちの顔に伝わる。あまり近付くと火傷してしまう。しかし彼女は紙が燃え尽きるのを見届けるように覗き続けている。
    天板温度が250度のとき、炉の中は400度を超える熱だ。紙が炎を上げて燃え尽きるのにかかる時間は30秒ほどだろうか。
    黒かった塊がやがて灰になり、熾火に灼熱の静寂が再び訪れたとき、私が促したわけではなかったが、彼女はもう一度呟くように言った。
    「さようなら」
     
    ギ―、ガタン。
    薪ストーブの天板は鉄の塊であり、閉めるとき、重厚な音がする。
    その天板を閉めたことで、母親は過去の亡霊と決別し、私とともに「今、ここ」に戻ってきた。
     
    私は切り替えるように声のトーンを上げる。
    「じゃ、座りましょうか」
    私の促しに応えて、母親も席に戻り、再び向かい合って座る。
    「今、坂部さんは自由です。かほりちゃんが甘えてきたらどうしますか?」
    私の問いに対し、少し考えたように間を取ってから
    「どうしましょう。まだちょっとどうしていいかわかりません」
    と答えるが、その顔はどこか照れたような、しかし晴れやかに見える。
    「ギュって抱きしめてあげてください。そして大好きだよって伝えてあげてください」
    しばし間が空く。その状況を母親がイメージする間だ。
    「どうでしょう?逃げたくなる?」
    私が問いかけると、何かをつかんだような表情で母親は答えた。
    「いえ、大丈夫です。やってみます」
     
    こうして母親との2回目のセッションは終わりを迎えた。
     
    母親を見送ると、部屋の中に戻り、先ほど亡霊に別れを告げた後に下火になりつつある薪ストーブに薪を足す。もうあの紙きれは炉の中にはその痕跡すら確認できない。
    今回のようなセッションはカウンセラーとしても満足度が高い。かほりの傷つきが可視化されたことで、母親の中で課題が明確になり、更にその課題を克服するための障壁を取り除いたセッションであった。このケース全体の大きな転換点にしていけるといいなと考えつつ、実はこういうセッションをした後は私はいつも自戒することがある。それは自分の力ではないということだ。
    思えば、私が攻撃性を出した時、私はかほりの側に立っていた。かほりの側に立って母親を攻撃していたのだ。それに対し母親が無血開城を選んでくれて、自身の課題にしっかりと向き合い取り組んでくれた。これは簡単なことではなかったはずだ。その勇気と決断、そして何よりも母性の力に畏敬の念を感じる。そして、その現場に立ち会わせてもらったことに大きな喜びと深い感謝の気持ちが自分の中にあることを確認する。
    そうは言っても、やはり記録を書くときの気持ちは軽い。
    アセスメント
    ・かほりの傷つきに対して、母親が母性を発揮できなかった原因は自身の育ちの中にあり、そのトラウマを解消できた。
    方針
    ・基本的にはかほり本人の再来談を前提とする。自律神経系のトレーニングを通じて回復力を高める。
    ・母親の母性をエンパワーし、かほりの回復を助ける。
     
    記録を書き終わると、私はまだ興奮冷めやらぬ気持ちを鎮めるようにコーヒーを口に運んだ。
    だがこのとき私は気づいていなかった。本来自戒すべきなのはもっと別のところにあったのだ。上手くいったと思ったときほど、どこかで見落としているものはないか。落とし穴にはまっていないか。
    そう。私はこの時、落とし穴にはまり始めていた。 
     ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆親子の共鳴
     
    3月に入った。冬の寒さが和らいできてはいるものの、まだ春の訪れを感じるには至っていない。いつものように薪ストーブを焚き部屋を暖めながら、PCを起動させる。すると、「ピロ~ン」という着信音を伴ってメーラーのアイコンに新着メールを知らせる数字が表示される。私は、新規の相談申し込みが入っていないかと期待しつつ、そのアイコンをダブルクリックし、メーラーを起動する。しかし、入っているのはLINE広告、以前お世話になった看板会社からの広告、ホームページの実績サマリーの三つだ。私の気持ちを上げてくれるようなメールは残念ながら見当たらなかった。しかし一方で予約のキャンセルメールもない。今日は13時に坂部家の予約が入っている。思えば1月に会ってから丸一か月以上かほりに会えていない。もうすぐ昼になるが今日はまだ母親からもメールは入っていない。ということは、かほりが来てくれるのだろうか。そんなことを考えながら記録にさっと目を通す。
     
    やがてインターホンが鳴り、対応ボタンを押すと、母親の「坂部です〜」という変わらずハスキーな声が部屋に響いた。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
     
    20XX+1年3月3日 かほり#7 母親#4
    私が相談室の入り口の扉の前で待っていると、「失礼しま~す」という明るい声とともに扉が開く。最初に現れたのは母親だった。いつものように薄いメイクでキャリアウーマンを思わせるきちんとした身なりである。「こんにちは。どうぞ」私も意識して優しい声で迎え入れる。そしてその後ろから、これも初回に会ったときとあまり変わらない上トレーナーで下デニム、髪を後ろで一つに結んでマスクをしたかほりが顔を出す。いや、初めて会った時より幾分髪が伸びただろうか。
    「かほりちゃん、よく来てくれたねぇ」と声をかける。私は歓迎の意を伝えるために、いつものようにクッキーとお茶のセットを二つ用意し、それぞれの座る椅子の前に置いた。
    「こんにちは。かほりちゃん、ちょっと久しぶりだね。」
    かほりは少し照れているのだろうか。目元を緩ませ小さく頷く。そして私としては少しびっくりしたのだが、そのまま頭を傾け、隣に座る母の肩にもたれかけさせたのだ。それは母親に甘えている姿勢でもあるし、照れを隠すために母親の後ろに隠れようとする姿勢でもある。
    「ほら、ちゃんとしなさい」と母親がかほりに声をかけるが、そのトーンには以前のような攻撃的な響きを感じない。私はその変化に内心嬉しく思い母親にも声をかける。
    「そして、お母さんも。今日は初回以来、3人でセッションを進めていきましょう」と私の方から誘いかけた。母親も「お願いします」と応じる。
    「かほりちゃん、1月以来だから、一か月半ぶりくらいなんだけど、前にどんなことしたか覚えてる?」と話を振る。
    前回はかほりが初めて感情を昂らせて、両親のケンカの場面を話してくれた回だ。そのことを思い出してかどうかは分からない。かほりは首を傾げた。
    私は続けた。
    「いいよいいよ。まずはいつものように呼吸を合わせてグラウンディングしていきましょう」
    そう伝えて、ワークに入っていく。
    グラウンディングを進める中で「かほりちゃんは今とっても安全なところにいるよ。僕がいるし、お母さんもいてくれる」と伝え、かほりが安全を体感してもらえるように声掛けをする。
    地に足がついている感覚を研ぎ澄まし、体の重さを感じていく。
    「お母さん、今日はせっかく来ていただいていますので、かほりちゃんの肩に手を置いてあげてほしいんです。かほりちゃん、いいかな?」
    かほりは小さな声だが「はい」と言って頷く。
    それまでは隣で様子を見ていた母親だったが、急に私に声をかけられて不意を突かれたのかもしれない。今日の主役はかほりであり、自分は付き添いという感覚だったのだろう。一瞬反応が遅れた。が、促されると抵抗なく隣に座るかほりの肩に手を置いた。
    「今、かほりちゃんの肩にお母さんの手が乗っています。その存在を感じていきましょう。ゆったりとした気持ちで、かほりちゃんの肩に置かれたお母さんの手の重さを感じていきましょう。温度を感じていきましょう」と促す。かほりは目を閉じて私の促しを聴いている。表面上観察できる反応はないが、私は構わずに続けた。
    「さぁ、今お母さんも、かほりちゃんの肩に置いた手を通して、かほりちゃんの呼吸を感じていきましょう。心拍を感じていきましょう。かほりちゃんの命を感じていきましょう」母親はかほりに比べると反応が分かりやすい。真剣な表情でかほりの肩に置かれた自らの手に意識を集中させているのが見て取れた。
    「かほりちゃんの肩、お母さんの手が今二人を結んでいます。そのつながりからお互いのことを感じられるだけ感じましょう。感じられるだけ感じて......伝えられるだけ伝えましょう。そして、お互いの気持ちを合わせていきましょう。同調していきましょう。今かほりちゃんもお母さんも、とっても安全な中で、しっかりと気持ちを合わせる体験をしています。穏やかな気持ちでお互いの優しさを交換していきましょう」
    私はこの技法をリゾネイティングと呼んでいる。「共鳴」という意味だ。母子の身体接触により安心感を提供し、幸福ホルモンであるオキシトシンの分泌を促進する。その上で非言語による身体感覚と感情の共鳴を目指す。つまり、母子がお互いの心を通わせるのを助けるワークだ。この回は時間いっぱいをリゾネイティングに費やした。
     
    まとめ
    母子での来談。グラウンディング後、リゾネイティング
    アセスメント
    ・母親の様子が本当に和らいだ。
    ・かほりの緊張も以前に比べてかなりほぐれいてる。
    ・母子の間で互いに感じていた圧や緊張もかなり低減された。
    方針
    ・向こう数回はリゾネイティングを継続する。
    ・そろそろ今後のかほりの現実的な適応についても考えていく必要がある。
     
    「現実的な適応......」パソコンで打ち込んだ後に、自分でも声に出した。
    そう。かほりはもうすぐ3年生になる。
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    ◆カウンセラーの憂鬱
     
    ここ一週間くらいで一気に気温が上がり始めた。
    「もう今シーズンの出番は終わりだな」
    冬の間相談室を温めてくれた薪ストーブの出番が終わったことを感じ、私はしみじみとした気持ちになる。
    新年度を迎え、社会が新しい動きを始めていることを様々なところで感じる。4月は芽吹きの季節だ。冬の間地面の下で身を潜めていた植物が一気に地上に咲き乱れる。その様子にエネルギーを感じるのは、地球上の生物としての本能かもしれない。私は普段あまりテレビを見ることがないのだが、その日、たまたまテレビをつけると、知らないニュースキャスターが、全国各地で入学式が行われたというニュースを伝えていた。私が子どものころは入学式と言えば桜舞い散る景色を思い浮かべたものだが、最近は4月を迎えるころには、葉桜になっていることも珍しくない。温暖化の影響を実感する。
    学校関連のニュースを見て、私はふとを思い出した。
     
    ―――ちゃんと行けたんだろうか......
     
    「4月から学校に行きます」
    3月31日の面接のとき、かほりは相変わらず小さいながらも自分の声でそう言っていた。
    その決意を聞くと、私も嬉しく思うが、実際には直前になって「やっぱり無理」となるケースは多い。
    かほりの心に刺さった刃物の傷を直接的に扱ったわけではない。もちろん母親の傷を癒すことで、子どもが母親に甘えられるようになり、直接的にトラウマケアしなくても立ち直るケースはある。
    その意味では、母親の協力を得て、自己治癒力も高まってきていることは期待できる。
    とは言うものの、元気いっぱい学校で過ごせるまでに回復しているとは思えないというのが私の見立てだ。
    回復には時間がかかる。無理はさせたくないが、どうなんだろう?
     
    4月に入りこれまで月曜日の13時に毎回予約していた坂部家のカウンセリングを木曜日の17時に変更した。
    時間の変更はかほりが登校している時間を避けるためだ。曜日の変更は17時の相談枠を安定して取れるのは木曜日という私のケースの都合だ。母親も木曜日に休めるようにシフトを調整してくれた。
     
    4月の初回は10日だった。かほりは学校の制服に身を包んで来談した。今時近隣の学校ではブレザーが多くなっているが、かほりの学校はまだセーラー服らしい。まだ数日ではあるが、確かにそれまでに比べて声にも張りが出てきており、相変わらずマスクをしているものの、表情も豊かに感じた。新しいクラスで小学校の頃に仲の良かった子と一緒になれたこと、担任の先生が優しそうな女性だったことなど話してくれた。
    次の24日には修学旅行の班決めがあり、ちゃんと班に入れたことを報告してくれる。声も明るく、来談当初では想像もつかないほど話してくれるようになった。よほど学校でちゃんとやれている自分が嬉しいようだ。語る時間が増えており、それと反比例して自律神経系のトレーニングの時間が少なくなる。特にこの回はリゾネイティングもなく終了し、母親は隣に座ってかほりの話を一緒に聞いてはいるが、特に参加してもらうこともなく終わった。
     
    まだ学校に行き始めて2回だが、様子を見ていると、私の心配は杞憂だったのだろうかとも思う。
    それならそれでいい。
    それに、同席している母親はこの時間をどう体験したのだろうか。この感じなら自分はもう同席しなくてもいいと思ったかもしれないし、もっと言えば、もう不登校は克服されており、来談当初の主訴は解消されている。カウンセリングに来るのもそろそろ卒業してもいいのではと感じているのかもしれない。
    しかし気になるところもある。面接中にお腹が緩くなると言ってかほりがトイレに立った場面が見られた。やはりストレスはかかっているのだろう。
     
    私はコーヒーを飲みながら、記録を書き終わったパソコンの画面を見つめている。いや、見つめているというよりも、記録を書いたまま惰性でそこに座っていると言った方が正確だ。頭の中では昔話を思い出していた。
     
     
    「ケースによっては、一生支えていく覚悟で付き合っていかなくちゃいけないと思うんです」
    私の友人が熱弁している。
    それに対して別の友人が、こちらも力を込めて言った。
    「それって相手を自分に依存させてるだけじゃないですか?カウンセリングって、クライアントが自立できるよう、ちゃんとゴールを設定すべきだと思います」
    学生時代、ケース会議では皆が教員の前で、気の利いた発言をしたがった。しかし、この時、二人の熱い議論に私は口をはさむことができず、ただ聞いているしかできなかった。もう20年以上前の話だ。
    私はそれから様々なケースを受け持ち、中断も終結もたくさん経験した。しかし、まだそのときの議論の答えに行きついていない。更に言うなら、当時よりもさらに分からなくなっている。
    カウンセリングとはある種終わりのない作業だ。クライアントの心理的な苦痛が軽減されるように援助するのが我々臨床心理士の仕事だ。しかし、どのくらい苦痛が癒されたらゴールとするのかという点において、共通認識を持つのは難しい。
    私は自問する。
    「苦痛が癒されて、クライアントが我々のところに来なくても生きていけるようになったら?」
    では、自立とは何だろうか。人は何かにすがって生きていく生き物だ。生きている限り苦痛は消えはしないし、誰も完全な自立などできはしない。カウンセラーに頼る代わりに、別の物に頼るようになったら終わるのだとすると、最初からその別の物でいいのではないか。しかしその依存先が薬物だったとしたら?モラハラをしてくるパートナーに頼るようになったとしたら?
    結局のところ答えなどありはしない。クライアントがカウンセリングに来るのはもう止めようと思ったとき。それがカウンセリングの終結なのかもしれない。カウンセラーの側がまだ問題は解消していないと思っていたとしても。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆膠着
     
    20XX+1年5月8日 かほり#10  母親#7
    前回の来談から2週間経ったが、間にゴールデンウイークを挟んでいたため学校について話すことはそう多くないだろう。もしかほりから積極的に話題が出てこないようならリゾネイティングに十分に時間を使おう。そう考えつつ二人を迎え入れた。
    「こんにちは」
    私はいつものように務めて穏やかな口調で挨拶をする。
    しかし、二人の間には明らかに緊張した空気を感じる。
    かほりが先に口を開いた。
    「トイレ行っていいですか?」
    私は拍子抜けした。この緊張感はトイレに行きたかったから?そういえば前回も途中でトイレに中座したことが思い出される。
    「あ、どうぞどうぞ」
    私はトイレの入り口を手で指し示してかほりを誘導した。それに従い、かほりは相談室から扉の向こうへ消えていった。
    「あ、お母さん、どうぞ」
    と言って椅子に座るように促し、準備してあった茶菓子を二人分いつものように相談机に並べる。
    私も相対した椅子に腰を下ろし、
    「一気に暑くなりましたね」
    と雑談から入った。
     
    ところが母親は少し苛立ったような表情にも見える。
    「実は、かほり、今日学校を早退してきたんです。一番最初のときと同じです。体育の授業中にうずくまっちゃって。今日はここに来る日だったので、私も元々仕事は休みにしてましたから学校から電話がかかってきてすぐに迎えに行けたんですが。急に暑くなったから体がついていかないのかもしれないですが、どうしてもまた行けなくなるんじゃないかって心配で」
     
    ―――あらぁ…、やっぱりか。
     
    私も、内心、少なからずがっかりした気持ちを感じてしまう。
     
    分かっていた。何度もそういうケースを見てきた。しかしやはり、回復に向かっていた子がまた行けなくなる場面に直面すると、期待を挫かれたことを残念に思ってしまう。
     
    「あら、そうだったんですね」
    私はそんな内面は出さないように、務めて冷静に反応を返した。
    「4月に入って急激に頑張ってきましたからね。疲れが出ちゃったかもしれないですね」
     
    「それで、帰ってきてからもお腹壊したのか、ずっとトイレに籠ってるんです。ずっとですよ。お腹痛いって言って。今日はここに来れないかと思いました。でも、出る時間ギリギリになって本人『行く』って。で、ようやくここにたどり着いたんですけど、またトイレ行っちゃいましたね」
    やはり母親の口調からはいい加減にしてほしいという気持ちが滲み出ている。
    「お腹ってストレス一番出やすいですからね」
    私の返答も何か言い訳めいた感じになるが、それが母親の怒りの種火に風を送ってしまった。
    「去年からここに通って、私も頑張ってきて、もう大丈夫かと思っていた矢先にこんなことになると、今までやってきたことが間違ってたんじゃないかと心配になります」
    母親は問いかけるような目で私を見つめる。
    私はとっさに目を手元の記録用紙に落としてしまう。
     
    母親の今の様子について、かほりが早退してきたという事実に、不登校当初のころの気持ちがフラッシュバックし、不安が喚起されているなどと体のいい解釈が頭に浮かぶ。
     
    本来受け止めなくてはいけない母親の攻撃が自分に向けられつつあるということから必死に目をそらそうとする自分を感じる。
    「心配ですね。トイレから出てこれるかな」
    と言って、私はかほりが消えていったトイレの扉に目をやった。
     
    しばしの沈黙が流れる。
    カウンセリングの中で起こる沈黙にはいろいろなタイプのものがあるが、このときは明らかに膠着してしまっていた。私はかほりが扉から出てきてこの沈黙を破ってくれることを期待していた。
    「ジャーッ、ゴボゴボ」
    扉の向こうで水洗便器の流れる音が聞こえた。
     
    果たして扉が開く。
    入ってきたかほりは顔が青白く、ふらついているようにも見える。
    「大丈夫?調子悪そうだよ」
    と声かけると、
    「お腹痛くて」
    と細い返事が返ってくきた。
    「そうだったんだね。しんどい中来てくれたんだね。でも無理しないでね」
    とかほりを労った。
    かほりはそれには返事をせず椅子に座った。
    「学校早退しちゃったんだって?」
    私が問いかけると、かほりが自分で答えてくれた。
    「今日朝からお腹痛かったんですけど、4時間目の途中で無理ってなって」
    「そうだったんだね。4月から頑張ってきたもんね。ちょっと疲れが出ちゃったかな」
    と先ほど母親にかけたのと同じフレーズを伝える。
    「いえ、疲れてるわけじゃなくてお腹痛いだけです」とかほり。
    私はかほりと母親の両方を見て、
    「そっかぁ。ちょっとあんまり痛いようですので病院行ってみるのもありかもしれないですよ」と伝えた。
    母親はやや不意を突かれたような表情をする。
    本来、どこか体が不調な時とき、病院という選択肢がカウンセリングよりも先に来るのが当たり前なのだろうが、このとき母親は心の不調によるものという先入観からかそれは頭から抜けていたのかもしれない。
    言われてなるほどと思ったのか「そうですね。連れて行ってみます」とすんなり私の提案を受け入れた。
     
    「後、もし今日みたいなことが続くようならですが、ちょっと学校全部参加するっていうのを抑えた方がいいのかもしれません」
    私の言葉に二人は身構える。やっと行けるようになった学校生活を簡単に諦めるつもりはないということだろう。
    私もそれは察知した上で、かほりの方を向いて伝える。
    「学校生活ってすごくエネルギー使うからさ。かほりちゃん、やっぱりまだ心のエネルギータンクの残量が少ないんじゃないかと思うんだよね」
    かほりも母親も表面上無反応に聞いている。
    「でも、大丈夫。今までここでしてきたグラウンディングやリゾネイティングのワーク覚えてるでしょ?あれ、実はトータルの目的はタンクの残量を回復して更には容量を増やすためのワークなの。まだ少ないって言ったけど、ちゃんと増やしていくことができるからね」
    そう伝えた後、私は母親も交えて三人で呼吸を合わせるワークから入ることを提案した。ここまでのやり取りで私と母親とかほりの自律神経の状態がかなりズレていることを自覚していたからだ。自律神経の波長が合わないカウンセリングはまず間違いなく上手くいかない。
    3人で椅子を三角形に配置し、最初に私が呼吸に合わせて手を上下し、残りの二人はそれに合わせる。次にかほりが主導、その次に母親という形で1分間隔交替し、3ローテーションする。
    終わるころには大分空気が落ち着いてくるのを実感できる。
    こうしてその後のグラウンディングとリゾネイティングにつなげてこの回は終了の時間を迎えた。
    終わり際に「お腹どう?」と聞くと、「大分マシになりました」と答えたかほりであったが、やはりその声からは硬さを感じた。
     
    二人を送り出し、手を付けられなかった茶菓子を片付けた後、記録のためにパソコンに向かう私の気持ちは重かった。
    「今日はダメダメだった」というのが正直な感想だ。かほりが学校に行けなくなることもある程度想定していた。しかしそれでも期待していた自分は目先の行動に視界を奪われていたのだ。残念と思ってしまったからこそ、母親と一緒に揺れてしまった。
    「母親と一緒に揺れて何が悪い。カウンセラーがクライアントに共感するのは当たり前だ」そう言う同業者の人もいるだろう。しかし私が完全に中立の視点をもって母親の話を聴いてそこに共感するのと、母親に同一化してしまうことには大きな違いがある。私が母親の気持ちを理解して共感したのではなく、私の気持ちが母親の気持ちになってしまっていたのだ。そうなると私の視点も母親の視点になってしまう。思えば、このセッションが始まる前、学校復帰という結果を自分は無意識に求めてしまっていた。カウンセラーの仕事はクライアントの心を回復させることで、結果はクライアント次第であることを解っていたはずなのに。
    アセスメント
    ・かほりにIBS(過敏性腸症候群)の気あり
    ・母親はショックを受けており、カウンセリングに対しても若干不信感をもったかもしれない。
    ・ただ、その後のワークにより互いの共鳴を促せたのは良かった。
    方針
    ・今後のかほりの登校状況次第では部分登校を促していく。
     
    過敏性腸症候群とは起立性調節障害と並び不登校の子によくつけられる診断名の一つだ。今回のかほりのようにストレス下でトイレから出て来られなくなるのがその典型例だ。
     
    それにしても症状の出方が気になる。
    母親との心の接触を意識したワークをしてきて、心にエネルギーを溜められるようにしてきたのに。なんで、今になってこんな反応を?
    一つ考えられることは、かほりの抱えているトラウマが母子関係の改善で解決できるようなものではないという可能性。もっと直接的に扱わないといけない可能性。
    それを明らかにし、本格的な介入をするとなると......やはり扱わないわけにはいかない。私が今まで見ようとしてこなかった問題を。しかし......その準備が整わないとどうしようもない。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆イメージワーク
     
    20XX+1年5月22日 かほり#11  母親#8
    「さぁ、今かほりちゃんは僕と対面して座っています。緊張感を0から10の数字で表すといくつくらいかな?」
    今回、かほりの学校での緊張感を下げるためのイメージワークを実施していた。
     
    私の質問にかほりは落ち着いた様子で答えてくれる。
    「今は3くらい」
    「いいですね。今はとってもゆったりした気持ちになって、リラックスしていきましょう。ゆっくり深呼吸して。肩に置かれたお母さんの手を通して、お母さんを感じましょう。数字を限りなくゼロに近づけていきましょう。だら~んとしていきましょう」
    かほりの自律神経を落ち着かせる誘導を入れていくと、それに応えるようにかほりも言う。
    「そうですね。今は大丈夫です」
    「緊張感はいくつくらいですか?」
    「ゼロです」
    「いいですね。それでは今からかほりちゃんの心を強くする練習をしていきますよ。ちょっとずつ、ちょっとずつでいいですからね。今、ほんのちょっとだけ教室をカメラ越しに眺めている自分を頭に思い浮かべてみましょう」
     
    かほりに恐怖の対象場面を想起してもらう。かほりは心がボロボロに傷ついていて、安心感がないから怖いのだ。しっかりとグラウンディングし、リラックスした状態で、しかも自分は絶対安全な場面から入る。
     
    「教室の様子をビデオカメラ越しに眺めている自分......想像することができますか?」
    「はい」
    「いいですね。そうしたら、さっきはゼロになった緊張感、今はいくつくらいですか」
    「3くらいです」
    「よく、頑張っています。今、その3くらい自分が緊張しているなっていうの、体のどこに感じますか?」
    「えっと...胸がきゅって締まる感じ」
    「その感じを感じながら、はい、お母さん、かほりちゃんの肩にしっかり手を置いてあげてください。かほりちゃんはお母さんの手が自分の肩に置かれているの、よく感じて。お母さんの手の重みを感じて。手の温かみを感じて。感じることできますか?」
    「はい」
    「それを感じながら、さっきの胸がきゅって締まる感じも感じていきましょう。今かほりちゃんはビデオカメラ越しに、教室の様子を眺めています。どんな気持ちですか?」
    「緊張しないでも済む感じです」
    「緊張感はいくつくらい?」
    「今は1か2くらいです」
    「では、お母さんの手のぬくもりを感じながら、その1か2くらいの感覚をもう少し味わっていきましょう」
    私はかほりの表情を観察する。ゆったりとした雰囲気が見て取れたので、「どうですか。今の感じは?」と問う。
    「もう何も感じなくなりました」とかほりは返事をした。
     
    ◆問題の根っこ
     
    私はかほりと母親を交互に見て言った。
    「今日はビデオカメラ越しに教室を眺めるイメージをして、緊張感を下げるワークをしました。こうやってイメージ上でも徐々に教室に近づいて行って緊張を感じなくしていくのが目的です。これの大事なところは、かほりちゃんが怖くなったらいつでも、お母さんのところに帰ってこられるという意識をしっかりと持つところです。少しでも怖いと思ったらすぐに帰ってくる。それを繰り返していくうちに、必ず少しずつ慣れていきます」
    二人は真剣に聞いている。
    ここで私は一呼吸おいてから、次の質問をした。
     
    「ところで、かほりちゃんは家ではお父さんとお母さんにしっかり甘えることができていますか?」
    かほりはキョトンとしている。急な質問で、意味が分からないのかもしれない。もしくは甘えられているのかいないのか、自分では分からないということか。
    一方、母親も黙っている。言葉を選んでいるが、上手い言葉が見つからないという表情だ。
    「ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんです。そんな簡単じゃないですか」
    私が助け舟を出した。
    「いえ、前にここで甘えさせ方を教えてもらって、なんか自然に甘えられるようにはなってきてる気がします」
    言いながら母親はかほりの方を見る。
    「結構甘えてくるよね」
    かほりは照れているのか、顔を崩すように笑ったと思うと、母親の陰に顔を隠すような素振りをした。確かに甘えている感じだ。
    私はそれを見て「そうそう。そういう感じ。お母さんに隠れると、お母さんがちゃんと守ってくれるよね」と促す。
    二人は見つめ合って、互いに照れ笑いを浮かべる。
    しかし母親は私の方を向き直って言う。
    「私たち二人の時はいいんです。でも、どうしても主人がいると、上手く甘えさせてあげられないと言うか、かほりも主人の前で甘えてくることもないですし」
    そう聞いて私はかほりに話を振る。
    「お父さんといるときは、甘えないの?」
    かほりは困ったように言う。
    「え~。普通です」
    何か聞かれたときに普通という表現を使う子どもは多いが、子どもがこの表現を使うとき、そこに答えはないということを私は知っている。
    そこで私は突っ込んで質問をする。
    「かほりちゃん、さっき緊張がゼロになったって言ってくれたよね。今、お父さんと家にいるときの状況を思い浮かべてみて。緊張......いくつくらいかな?」
    するとかほりは間をおいてから答えた
    「......8」
    「そうなんだね。家にお父さんいると、かほりちゃん、緊張しちゃうんだね」
    かほりは答えないが、代わりに母親が口を開いた。
    「かほりには気を遣わせていると思います。ときどき『お母さん、大丈夫?』って聞いてくるんです。以前お話したみたいに、私が主人と口をきかないでいると、この子、すごく気を遣ってくれて、『お母さんは悪くないよ』って言ってくれて」
    母親は涙ぐんでいる。
    「それで、主人に対しても、なんか和ませるようなこと言ってみたり。そういうこの子を見てると、すごい申し訳ないって思うんですけど、どうやって仲直りしていいか分からなくて」
    かほりは少しバツが悪そうに座っている。
    「かほりちゃん、お父さん、怖い?」
    私が聞くと、かほりは困ったように間をおくが、「怒ると怖いけど、普段は怖くないです」と返事をする。
    「お父さんとお母さんが喧嘩してるときって、お父さん怒ってるときでしょ?怖いけど、頑張ってかほりちゃん、お父さんの気分を和ませようとするんだね。すごい勇気あるね」と伝えるも、かほりはどう答えていいか分からない様子で返事をしない。
    代わりに母親が言う。
    「結局、私たちがこんな風だから、かほりが学校行けないんですよね。家が休まらないから」
    以前に私が、かほりの不登校の原因を夫婦関係にあると思うと伝えたこと、しっかりと母親は受け止めてくれているようだ。
    「でも、今更どうしていいか分からないんです。主人は変わらないですし」
    母親の言葉からは諦めの気持ちが滲み出ている。
    そんな母親に私は伝えた。
    「お母さん、私、お母さんにもかほりちゃんにも幸せになってほしいって本気で思っています。お母さん、今、旦那さんが変わらないって仰いましたね。そんな旦那さんとこれからもずっと今の生活を続けていくこと、お母さん、幸せですか?」
    母親もかほりも顔を強張らせる。
    「それは......離婚しろっていうことですか?」
    母親が身構えたように言う。
    「ごめんなさい。そんなつもりじゃないんです。私、そんな無責任なこと、とても言えません。ただ、今の関係を改善することを諦めないでくださいってこと、お伝えしたくて」
    そう伝えると、少し力が抜けた様子で答える。
    「そうは言っても、どうしたらいいか」
    私の口調は説得モードになっている。
    「お母さん、私から見てですが、お母さん、ここに来られてから、随分変わられたと思いますよ」
    「はい。私もとても心が軽くなりました」
    そう聞くと、嬉しく思う。だから聞く。
    「旦那さんは、変われませんか」と。
    しかしこれに再び母親は身構える。
    「それは......やっぱり主人もここに来た方が良いってことでしょうか」
    母親が身構えたように言う。
    「以前も言ってましたが、主人はカウンセリングに頼るのを反対していまして」
    「確かに最初の頃はそうおっしゃっていましたね。でも、今は本当、お母さん、かほりちゃんによく向き合ってくれています。お母さんが変わったことを伝えれば、お父さんも分かってくれませんか?」
    「どうでしょうか。でも、どうやって主人に話していいか......」
    「すみません。私がお父さんを連れてくることを提案しているみたいな流れになっちゃってますが、かほりちゃん、お父さんがここに来ることについてはどう思うかな?」
    急に話を振られて少しびっくりしたような様子のかほりだが、
    「え~、多分来ないと思います」
    と答えた。
    「すみません。今日はお時間が来ています。次回また、お父さんにここにお越しいただく案も含めて、今後のカウンセリングの方向性について、もう一度私とお母さんとかほりちゃんで作戦会議をするというのはいかがでしょうか」
    「分かりました」
    と母親。
    かほりは無反応で、父親の来談について、本当のところどう思っているのか、読み取れなかった。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆かほりの申し出
     
    その後は特に連絡もなく2週間が過ぎた。次の来談日、やはりいつものように母親とかほりと二人での来談である。
    「やっぱりどう話していいか分からなくて…」
    「そいう流れにならないもんね」
    前回の来談時に話していた作戦会議だが、父親を誘うというのは、やはり難しいという母親とかほりの認識だ。
     
    父親は1月の雪の日以来、カウンセリングについて聞いてくることはない。学校に行けない日があることは父親も分かっているし、IBSの診断を受けたことは母親から伝えてはいる。「そのときの主人の反応、正直分からないんですよね。なんか、怒るわけでもなく、仕方ないとか受け入れるわけでもなく、もしかしたら興味ないのかなって思っちゃいます」
     
    そういうことで、父親をカウンセリングの舞台に上がってもらうという方針は一旦とん挫し、かほりの心的エネルギーを上げ、学校場面での緊張を下げるためのトレーニングを継続するという方針に落ち着いた。
     
    「先週、修学旅行行けたんです。2泊3日で東京の方に行ったんですけど、もうギリギリまで行くって言ったり行かないって言ったりで。その前の一週間くらいはずっとトイレに籠ってました。それで、学校も配慮してくれて、当日行けるパターンと行けないパターンを考えてくれたんですよね。で、当日の朝になって、本当出かけるギリギリまでトイレに入ってたんですけど、時間になって出てきて『行く』って。だから、私もその日は午前中休み取っていたので、集合場所の駅まで送っていったんです」
    母親が語りに対して、
    「お母さん、心配し過ぎだよ。行くって最初から言ってたじゃん」
    とかほり。
    「かほりちゃん、頑張ったんだね。修学旅行どうでしたか?」
    「すごく楽しかったです。でも、お腹はずっと痛くて、ちょっとでも時間があるときはトイレに行っていました」
    腹痛よりも旅行に行けた達成感の方が大きかったのだろう。答える表情は明るい。
    そこに母親が付け足すように
    「でも、疲れたんだと思うんですけど、帰ってきてから次の日は本当にずっと寝てて、その後、今日まで学校休んでました。今日久しぶりに学校行けたね」
    と加えた。
    母親の話す表情や口調に、休んでいるかほりに対する攻撃的なニュアンスは感じない。
     
    「今週テストだったんですけど、一応全部受けれました。学校は別室受験もOKしてくれてたんですけど、頑張ってみんなと一緒に教室で受けることができたんです」
    次の回には、かほりがなんとか学校生活に食らいついて行っている様子を話してくれた。
     
    そんな経過が続いていくうちに、どんどん気温は上がっていき、外に出るにも肌を突き刺すような陽射しにたじろぐ季節を迎えていた。
    夏休みに入り、かほりは学校に行かなくてはという悩みから解放されたのか、とても体調が良いようだ。カウンセリング場面で見せる顔は、好きなゲームの話やハマっている動画の話を楽しそうにしてくれ、そこだけ見ると、どうしてこの子が不登校なのだろうと感じてしまうくらいだ。
    そして、そんな夏休みも後半に入り、二学期の始まりを意識し始めるころ、母親からメールで連絡が入った。
     
    Subject 「次回のカウンセリングについて」
                             受信日時  20XX+1/8/25 21:23
    「いつもお世話になっております。
    夜分に申し訳ありません。
    次回のカウンセリングですが、かほりが一人で行きたいと言っています。
    ですから、次回は私抜きでお願いします。
    よろしくお願いします。
     
    坂部とも子」
     
    ―――なんだろう?
    一人で来談したいということは、母親に聞かれたくない話をしたいのだろうか。
    聞かれたくない話......。
    様々な可能性を想像しながらも、そのとき私にできるのはかほりの来談を待つことだけだた。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆かほりの告白
     
    20XX+1年8月28日 かほり#17
    学校のある時は制服であるセーラー服だったが、夏休み中の来談は当然のように私服になる。Tシャツの上に長袖のUVカットのカーディガンを羽織り、下はジーンズ、顔にはいつものようにマスクという格好でかほりは相談室に現れた。
    夏休みに入ってからのかほりはいつも同じようないで立ちだ。外のうだるような暑さを考えるとマスクをしてカーディガンを羽織っているのは暑くないのかとも思うのだが、突き刺す陽射しから肌を守るための装備は今の時代欠かせないのかもしれない。
    私は相談室のエアコンの設定温度を低くして、かほりを迎えた。そして、いつものクッキーと冷えたウーロン茶をかほりにだしながら「こんにちは。暑い中よく来てくれたね。こうして二人でお話するの、結構久しぶりだね」と声かける。
    かほりは、目だけで笑顔を作っていることを知らせている。
     
    「今日はお母さんから、かほりちゃんが一人で来たいって自分から言ったって聞いたんだけど、お母さんに聞かれたくない話がしたいのかな?」
    かほりの語りを促した。
     
    少しの間を置いた後、かほりはマスクをしていても伝わる真剣な表情で言う。
    「ここで私が話したことって、後でお母さんに言いますか?」
     
    私は自分がたじろいでしまうのを感じた。
    せっかく勇気を出して一人で来てくれたかほり。ここでかほりを失望させると、もう二度と私に話してみようという気にならないかもしれない。
    だから私は言う。
    「かほりちゃん、とても重要なことを話そうとしてくれているんだろうと思います。でも、それをお母さんに知られたくないんだね。お母さんに知られたら、どんなことが起こりそう?」
    するとかほりは呟くように言う。
    「分からない」
    「かほりちゃんはお母さんがどんな反応をするか分からないから怖いんだね」
    かほりが頷く。
    「じゃぁ、もしもお母さんに言わないといけないようなお話なら、この後、お母さんが迎えに来てくれた時に、僕と一緒に伝えるのはどうだろう?」
    しかしかほりはそれでは納得しないらしい。
    少し考えた後に、「......やっぱり言わないでほしいです」と答えた。
    「そうなんだね。でも、お母さんに言えないお話、もし今日ここで僕に話さなかったら、かほりちゃん、自分一人で抱え込まないといけなくなっちゃうでしょ?かほりちゃんの今日の表情見てて、そのことを想像すると、とても辛いんじゃないかなって思うんだけど」
    「だから、ここに話しに来たんです。お母さんには言わないでください」
    「……ごめんね。大抵のことは誰にも言わないって約束できる。でも、もし、かほりちゃんの命や安全に関わることだったら……僕はかほりちゃんを守るために、絶対とは言いきれないの」
    かほりの顔は硬直している。
    そこで私は苦渋とも言える提案をする。
    「でも、やっぱりかほりちゃんが今日ここに一人で来る勇気を出してくれたこと、何よりも尊重したいし、その気持ちに全力で応えたいのね。だから、もしお母さんに言わないといけない内容だった場合、僕からも約束してほしいことがあるの。僕に話したことを、僕がお母さんに言わない代わりに、そのことに関して、後から取り返しのつかないことだけは絶対にしないでください。その約束ができないと、僕も聞けないかもしれません」
    ここまでのやり取りで、かほりはとても一人で抱えているのがしんどくなっていて、どうしても今日話したくなっていることが想像された。
    果たしてかほりは口を開いた。
    「切っちゃうんです」
     
    なるほど、そのことか。かほりの苦しみを考えれば大変失礼な話であるが、少しホッとする自分も感じる。その内容であれば、母親に伝えるかどうかという葛藤が私の中で軽減されるからだ。しかし依然としてかほりの苦しみを共有しないといけないことに変わりはない。
    だから声のトーンを落とし、真剣な顔で答える。
    「そうなんだね。かほりちゃんの苦しみを思うと、胸が痛くなります。本当によく話してくれたね」
    かほりは答えない。しばしの沈黙が訪れた。
    相談室内に聞こえる音と言ったら、極低音でYoutubeから流している川のせせらぐ音と、強めに設定したエアコンの音、外からわずかに聞こえる蝉の鳴き声くらいだ。この沈黙は多くの葛藤の末にようやく打ち明けたリストカットの告白に対する私の反応をかほりが頭の中で消化している時間だ。私は私が持てる最大限の想像力をかほりの気持ちに共鳴することにつかいながら、かほりを見つめた。
     
    「ダメだって思うけど、切るとスッキリすると言うか」
    ようやくかほりが口を開いた。
    「だから、いつもカーディガン着てるんだね」
    「はい」
    「今も切りたいですか?」
    「今は大丈夫です」
    「今も腕とかに痕はあるの?」
    「見ますか?」
    「嫌じゃなければ見せてくれる?」
    かほりは左腕の袖をめくって私の前に差し出した。
    その腕にはまだ新しいと思われる傷が3本、ケロイドになっているものや、薄っすらとしているものは複数見られた。
    「これ、まだ新しいよね。ちゃんと消毒していますか?」と聞く。
    「消毒って言うか、しばらく血が流れるの見てると勝手に止まるから、止まってから、ティッシュとかで拭く感じです」
    「ちょっと待っててね」
    私は奥の棚から救急箱を取り出し、消毒液を見つけて持ってくる。
    「はい、もう一回手を出してごらん」
    そう言って消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ、傷口に優しく当てながら聞いた。
    「いつくらいから切ってるの?」
    「酷くなったのは最近です。学校行けなくなってから、冬の間はときどき切っちゃうことがあって、でも、夏服になって長袖着れなくなってからは切りたくなっても我慢してたんです。でも、夏休みに入って、半袖じゃなくてもよくなったら......止まらなくなっちゃって」
    「そうなんだね。かほりちゃん、ダメだって思って苦しんでるの、とってもよく伝わってくるよ。かほりちゃんに伝えたいことがあって、切っちゃうことも含めて、かほりちゃん、全然駄目じゃないからね。かほりちゃんがやめたいと思ってるのに切っちゃうってことは、かほりちゃんにとって切らないといけない事情があるからなの。それは絶対にかほりちゃんが悪いなんてことはない。かほりちゃんは無意識のうちにそう追い込まれちゃっただけ」
    かほりは無表情に聞いている。
    「ガーゼ貼っていく?でも、上羽織ってても目立っちゃうかな」
    「このままでいいです」
    「切った後は、ちゃんと清潔にしないとダメだよ。ばい菌が入って感染したら大変だからね」
    「はい」
    「よかったら、ここで何がかほりちゃんを切りたい衝動に追い込んでるのか、一緒に考えていけるといいと思うんだけど、どうかな?」
    「別に何も追い込まれてるわけじゃないと思います」
    「それは多分、かほりちゃんが余りにつらいから......心が麻痺しちゃってて辛さを感じられなくなってるんじゃないかなって思うの。自分で自分を傷つけることを自傷行為って言うんだけど、心や体の感覚が麻痺しちゃった人が必死で自分の感覚を取り戻そうとする行為なんだよ」
    私は以前に母親がスマホのカメラで撮った、かほりが描いたという女の子の絵を思い出していた。
    再びかほりは無表情で私の話を聞いている。
    「僕の言っていること、伝わりますか?」
    私はかほりの反応を確かめるように聞いた。
    するとかほりから意外な反応が返ってきた。
     
    ◆続・かほりの告白
     
    「いつも、ここに来て、お母さんが私の肩に手を置くヤツ、やるじゃないですか」
    リゾネイティングのことだ。母親がかほりを受け入れる準備ができてからお互いの気持ちを調律することで、かほりの中に安心感を育てることを狙いとした技法だ。
    しかしかほりは言う。
    「あれ、怖いんです」
     
    「!?」
    私はこの告白に頭を殴られたような衝撃を受けた。良かれと思ってしてきたことをかほりが怖いと感じていた。カウンセリングにおいて一番してはいけないことの一つに、クライアントを怖がらせてしまうことがある。それを私はずっと続けていたと言うのか。そこで私はその思いをそのまま伝えた。
    「よく教えてくれました。ありがとうございます。そしてごめんね。かほりちゃんに安心してもらいたくてやっていたことがかほりちゃんを怖がらせていたなんて。思いが至っていなかったこと、謝ります」
    しかしかほりは言う。
    「いえ、私が悪いんです。どうしてもあれしてるとき、私の全部がお母さんに伝わっちゃう気がして。」
    「切ってることも......バレちゃうかもって思う?」
    「はい」
    なるほど、それで怖いということか。
    「ね、かほりちゃん。今かほりちゃんはとってもとっても大事な話をしてくれていると思うの。さっきも言ったけど、リスカしちゃうことも含めてかほりちゃんは何にも悪くないの。大切な大切な存在なの。そのかほりちゃん、ありのままのかほりちゃんのこと、ちゃんと受け入れられるお母さんになってもらえるようにここで今まで僕はお母さんにもカウンセリングしてきたのね。お母さん、大分変ったと思わない?」
    「優しくなりました」
    「そう思えるのはとってもいいことだね。僕から見ても最初の頃より大分お母さん柔らかくなったなって思うよ。そして、僕はかほりちゃんがここに来てくれている意味って、そこに凝縮されていると思っているの。それでも、かほりちゃんがまだお母さんに受け入れてもらえていないって思えちゃうんだね」
    「いえ、そんなことないです。でも、切ってることバレたら......」
    「さっき、お母さんがどんな反応するか分からないって言ってたけど、ちょっと想像してみよう。どんな反応しそうかな?」
    かほりは少し間を取って考えているような表情をつくる。
    「......怒る?」
    親が子のリスカを知ったとき多くは悲しむという方が先に来そうだが、かほりは怒られるイメージが先に来たらしい。
    その答えを聞いて私は問い返した。
    「怒るかもしれないって思うんだね。どうしてお母さんは怒ると思う?」
    「親からもらった体を傷つけるから」
    しかしまた問い返す。
    「他には理由ある?」
    「世間体が悪い」
    更に聞く。
    「他には?」
    「......分かりません」
    「もし仮にお母さんが怒るとしたら、その怒りの裏には必ず恐れがあるはずなのね。お母さんは何を恐れてるんだろう。それを解消することが大切なのかもしれないね」
     
    ......?
    今、自分で言って、私はハッとした。
    私の中で何かがつながった。
     
    絵の写真を見せてくれた時の母親の言葉が思い出される。
    「そうなんです。怖くて......私、この絵を見たとき、すごく動揺しちゃって。なんか胸が苦しくなりました」
     
    母親は恐れている。
    何を?
     
    今回のかほりのリスカの告白が、どうしても私にあの絵を思い起こさせる。
     
    母親はあの絵を恐れた。
    つながりがあるかは分からない。だが、どうしてもそちらに引きずられてしまい、私は、これまでかほりとの間では意図的に避けてきたその話題について話を振った。
    「ね、かほりちゃん、大分前だけど、僕、お母さんにかほりちゃんが描いた絵を見せてもらったことがあるの。ズタボロに刺されながら笑っている女の子の絵。あれ......意味があるの?」
    もちろん母親が私との二人きりの面談の中で話してくれた内容なので、かほりに話すことに抵抗がなかったわけではない。しかし、それ以上にここでその話をすることに意味があると考えたので敢えて話題に出した。
    「え~、あれ、お母さん、見せたんですか」
    かほりのこの反応を見ると、半年以上前に描いた絵について覚えてはいるようだ。そして一応驚いて見せているだけなのか、本気で意外なのかは分からない。しかし、母親が勝手に私に絵を見せたことについて、怒ったり動揺したりという感じでもない。
    「ごめんね。お母さん、あの絵を見たとき、とっても怖かったみたいなの。それで、かほりちゃんに聞けなかったみたい。話題に出すのが、苦しかったんだと思うの。だから、僕に相談したんだと思うのね。あの絵、かほりちゃん、何を描いてたの?」
    かほりは自分の中で答えを探しながら答えているようだ。
    「ただ、なんとなくこんな風に描いたら面白いかなって」
    多分嘘ではないのだろう。でも、もっと込められたものはあるはずだ。
    「あの絵は誰を描いてたの?」
    「忘れちゃいました」
    はぐらかしている風な返事だ。
    「よく思い出して」
    かほりはしばらく黙り込んだ。
    私は威圧しないよう、極力優しい表情を作って見つめ、付け加えた。
    「もう半年以上前のことだと思うんだけど、あの絵を描いた時のこと、良かったら話してくれないかな」
    「え~、あんまり覚えてないです」
    「大丈夫。かほりちゃんはちゃんと覚えているから。ちょっと深呼吸から入りましょう。ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐いて」
    「はい」
    そして、意図的に低めの声で......ゆっくりとした口調で誘導していく。
    「リラックスしながら、思い出していきましょう。僕がかほりちゃんについています。力を抜いて。深呼吸しながらあの日の記憶に少しずつ触れていきましょう。ゆっくりと。あの日のこと......どんなところからでもいいので、話してください」
     
    後はただ待つのみだ。時間にして3分以上......体感的には5分くらいの沈黙があったかもしれない。かほりはゆっくりと語りだした。
     
     
    ◆込められたメッセージ
     
    「あの日......確か、夜......そう。その日も私切っちゃったんですよね。あの日の夜、それまであんまりなかったんですけど、久しぶりにお父さんと母さんが言い合ってて。私は部屋で一人で布団に入っていました。部屋の向こうからお父さんが『かほりをもっと自由にさせてやれ』とか、そんなだったと思うんですけど、お母さんに言ってて。お父さん、私にはすごく優しいんです。でも、お母さんには怒ってばかりいて。いつもはお母さん、言われると、しゅんってなっちゃうんですけど、あの時は、なんでか、言い返してたんです。『私ばっかり悪いみたいに言わないでよ』みたいに」
     
    「!」
    かほりの話を聞きながら、私の記憶が蘇る。前にここで母親から聞いた台詞だ。
     
    かほりは続けた。
    「お父さんがすごく怒ってて、お母さんは泣いてて。私、布団の中にくるまって聞こえないようにしてたんです。でも、どうしても聞こえてきて。それで、どうしても嫌で絵を描いて集中して聞こえないようにしようって思って。何でもいいから描こうって思って描き始めたんですけど、いつの間にかあんな絵になってて。それで、お父さんがお母さんを怒鳴る度に、絵に描いた女の子に刃物を刺していきました。そしたらなんか分からないけど、途中から、すごく楽しくなってきて...、それで机の中からカッターを取り出して......血で、絵に色を付けちゃったんです」
     
    あの絵の、モノトーンの上に赤黒く塗られた血。スマホのカメラで撮られた写真の画像では判らなかったが、あれはかほりの本物の血だったのだ。
    私はその場面を想像してとても胸が締め付けられる思いがした。
    そして、母親は実物の絵を見ている。もしかしたら気づいていたのではないか?
     
    「かほりちゃん、よく話してくれました。そしてかほりちゃんがお母さんにリスカのことを知られたくない理由も分かりました。かほりちゃん、お母さんのことが大好きなんだね」
    かほりはキョトンとしている。
    「かほりちゃんがあの絵に込めた思いは二つ。ひとつは、あの絵にはかほりちゃんの苦しみが描かれていた。やっぱりかほりちゃん、こんなに苦しいんだって分かってほしい気持ちがあるんだと思う。でも、かほりちゃんは直接リスカしていることを言えない。でも、気づいて欲しい。だから、あの絵をお母さんに見えるところに置いたんだと思う」
    かほりは無表情なままだ。
    「僕もお母さんもここまでは考えたんだ。かほりちゃんの苦しみが絵にこめられてるってね。でも、あのとき、僕たちはお母さんがかほりちゃんを心の底から甘えさせてあげられるようにっていう方向にセッションを持って行っちゃったのね。お母さんのかほりちゃんへの関わり方を改善しようと。でも、本当はかほりちゃんが送っているメッセージをもっと深く読み解く必要があったと思うの」
    かほりは私と目を合わせない。
    「かほりちゃんがあの絵で伝えたかったもう一つのメッセージ。あの絵は、かほりちゃんの苦痛だけじゃない。もっとかほりちゃんにとって重要なメッセージが込められていたと思う。あの女の子......」
    私は一呼吸おいてから言った。
    「お母さんだったんだね。お母さんに、『お母さんが死んじゃうよ』って伝えたかったんじゃない?」
    相変わらず無表情なまま視線を机の上に落としているかほり。......?。確かに顔の表情は変わらない。しかし、表情の変わらないかほりの目から涙が自然と零れ落ちて、かほりの顔の下半分を覆っているマスクに染み込んでいく。そのことにかほりは気づいていない。
    「そして、かほりちゃんがお母さんにリスカしてることを言いたくない理由......それはお母さんっていうより、お父さんにバレるのが怖いんじゃない?」
    「......」
    「お父さんにバレることで、またお母さんが怒られる。それが怖い......違う?」
    「......」
    「そして最近リスカが止められなくなっちゃったことで、バレそうで怖くなってきた。だから今日どうしてもどうにかしたくて、僕に話してくれたんだね。本当に本当に怖かったね。よく今まで耐えてきたね」
    その瞬間、かほりは声を上げて泣き崩れた。
    「かほりちゃんは自分のことよりもお母さんが心配なんだね。お母さんを守りたいんだね」
    かほりは顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も頷いた。
     
    かほりの涙が収まるまでしばらく待っているとかほりは自ら言った。
    「お母さん、いつもお父さんに怒られてばかりで、かわいそうなんです。お父さん、私にはあんなに優しいのに、なんでお母さんには怒ってばかりなんだろう」
    私は聞く。
    「かほりちゃん、いつもお父さんは優しいって言うね。でも、お父さんが家にいると緊張しちゃうのは、お父さんがお母さんを怒るからなんだね」
    「はい」
    「かほりちゃんはお父さんにかほりちゃんにするのと同じようにお母さんにも優しくしてほしい?」
    「そこまで言わないですけど、怒らないでほしいです」
    「僕、かほりちゃんがエネルギータンクがいっつも空っぽなのはやっぱり家の中がずっと緊張状態で、補給できないからだと思っているのね。それを改善したいと思うんだ」
    「そんなの無理と思います」
    「かほりちゃん、君が不登校になってくれたこと、坂部家にとってはとってもありがたいことなんだよ。かほりちゃんが、『こんなのおかしい』って全身で訴えてるんだと思う。それはとっても正しいこと。かほりちゃんは家で安全に、安心して過ごす権利があって、それは本来絶対に守られないといけないものなのね。その権利が侵されてるんだもん。こんなの絶対おかしいんです」
    かほりは黙って聞いている。
    「ね、今までかほりちゃんの心にエネルギーを溜めてもらう目的でリゾネイティングをしてきたんだけど、今度、かほりちゃんがお母さんに愛情エネルギーを送ることにしてみない?」
    かほりは少し驚いたような表情だ。
    「坂部家の歪な夫婦関係って、お父さんとお母さんのパワーバランスが対等じゃないから起こってるのね。お母さんにエネルギーを貯めてもらうことで、バランスを取り戻せるかもしれない」
    そう伝えるとかほりは少し笑顔を作って「はい」と頷いた。
     
    ほどなくしてインターホンが鳴る。母親が迎えに来た合図だ。私は立ち上がり、インターホン越しに返事をして母親を迎え入れる。
    入室した母親は柔和な表情でかほりに聞く。
    「ちゃんと話したいこと話せた?」
    声のトーンからも優しさを感じる。
    「うん」
    かほりは少し照れたように返事をした。
     
    二人を見送った後、私はいつものようにコーヒーを飲みながらパソコンに向かい、今しがた終わったばかりの面接を振り返る。
    普段言い返さなかった母親が父親に反論したのは、多分、かほりが抵抗を示して来れなかった日。私と母親との初回面接の後だ。あのとき、母親は言い返したい気持ちをここで話してくれた。それは不満のガス抜きが目的であったが、それが、家での行動を変え、父親からの更なる反撃を受けた可能性がある。
    そして、かほりがリスカのことを話してほしくないのは母親を父親から守りたかったから。
    これらのことを記録に落とし込み、アセスメントして方針を練る。
    アセスメント
    ・夫婦間葛藤が家の中に緊張感をもたらし、それがかほりの安心感を棄損し、心理的なエネルギーの補充の妨げになっている。
    方針
    ・かほりと母親との合同面接でかほりから母親を力づけることにより、夫婦のパワーバランスを回復し、家庭内の緊張感を下げる。
     
    ――――――――――――――――――――――――――――
    ◆ピノ
     
    9月に入っても、夏の暑さは少しもその猛威をやわらげる気はなさそうだ。新学期を迎える9月1日は防災の日である。1世紀前に起きた関東大震災の教訓を忘れず災害に備える日である。しかし、学校関係者にとっては他の理由で恐怖を駆り立てられる日でもある。中高生の自殺が一番増えるのが長期休みが明けたこの9月1日なのだ。私もスクールカウンセラーをしていたころから、毎年この日を戦々恐々として迎えていた。それはスクールカウンセラーを辞めて相談室を独立開業した今も変わらない。私の相談室に通ってくるクライアントにも中高生はいる。そしてその中には「死にたい」と訴える子も。そのことを思うとやはり心配は尽きない。そんな中高生の一人が坂部かほりである。
     
    20XX+1年9月11日 かほり#18 母親#12
    突き刺すような陽射しから相談室に逃げ込むように入ってきたかほりとその母親を迎え入れると、私はいつも通り茶菓子を出して迎える。新学期に入り、かほりは久しぶりのセーラー服を着ての来談、母親は薄手のブラウスにスカートといういで立ちだ。母親は額に浮かべた汗をハンカチで拭っている。
    この日はたまたま冷蔵庫にピノが入っていたので、
    「いつもクッキーをお出ししていますが、今日はピノがありますけど、いかがですか?」
    と問いかけた。
    母親は
    「お構い頂かなくて結構ですよ」
    と言うが、私は
    「この暑さです。冷えた甘いものは美味しいですよ」
    と言って、ピノを一つずつ皿の上に爪楊枝を添えて置き、盆に乗せる。更にグラスに氷を入れて、ウーロン茶と一緒に二人の前に差し出した。
    「どうぞ」
    と笑顔で言うと
    「ありがとうございます」
    と母親。
    ここで少々びっくりなことが起きた。
    かほりがピノに爪楊枝を刺したかと思うと、マスクを下げて、口の中に入れたのだ。
    正直何も考えていなかった。これまでもずっとかほりに茶菓子を出してきたが手が付けられたことはない。いつも残して帰り、その後クッキーは私の腹の中に納まるのがある意味お決まりとなっていた。今回出したのがアイスクリームという、すぐに食べないと溶けてしまうものだからなのか、暑かったからなのかは分からない。しかしかほりは確かにマスクを下げて、食べた。このとき、私は初めてマスクを下げたかほりの顔を見たのだ。母親によく似ているという印象を持ったのも束の間、一瞬でまたマスクをしてしまう。しかし、私の前で自然とマスクを下げて顔を見せてくれたのが嬉しくて、私は笑顔を作り、
    「おいしい?」
    と問いかける。
    するとかほりは照れ臭そうに母親の方に頭をもたれさせた。
    私の目にはその仕草がとても微笑ましく映る。
    「あ、お母さんもどうぞ」
    と勧めると、
    「じゃ、失礼します」
    と言って母親もピノに手を伸ばした。
     
    「新学期が始まりましたね」
    私から話を振ると、
    「始まりましたよ。どうかなって思ってたんですが、やっぱり行けたり行けなかったりですね」
    と、かほりではなく、母親が答える。
    ―――まぁ、相変わらずだなぁ。
     
    母親は、
    「行くときは自分で用意して出ていくし、行けないときは朝ずっとトイレに籠ってるしで。私も仕事もあるし、本人に任せちゃってます。行けないときは相変わらず絵を描いてるよね」
    と、近況報告のように伝えてくれる。
    だが、学校に行けないことに関して、母親から以前のような重い雰囲気を感じない。
     
    と、母親は表情を改め、私の方を向いた。
    「実は…、この子から聞きました。リストカットしてしまうって」
    ―――えっ?
    かほりが顔を見せてくれたことに続いて、ここでもびっくりさせられた。
    前回あんなに母親に知られるのを恐れていたのに。
    「かほりちゃん、自分でお母さんに話したの?」
    かほりは頷いた。
    「え~!ちょっとびっくりしました。どうしたんですか?」
    かほりがモジモジとしているのを見て、やはりここでも母親が代わりに答えた。
    「夏休みの最後の日、明日から制服嫌だなって言うんです。それで理由を聞くと、半袖だからって。そんな話の流れで、『切っちゃうから』ってこの子から話してくれました」
    「そうだったんだね。そのことを聞いて、お母さん、どんな風に思われました?」
    かほりの前で母親に気持ちを聞くのも気が引ける部分もあったが、今日の母子の様子から見るに、そこまで否定的な答えは返ってこないだろうという予測のもとの質問であった。しかし、母親の答えは私の予測の範疇を超えていた。
    「いえ、ちょっとそうかなっていうのは思っていましたので、話してくれて良かったって思いました。それに......」
    少し言いよどんでから母親は続ける。
    「実は、私も昔そういうことしてた時期があったんです」
     
    ―――え~!
    今日はびっくりすることばっかりだ...。
     
    私の驚きを他所に、母親は続けた。
    「ずっと忘れていました。でも、以前にお見せしたこの子の描いた絵を見たとき、そのことも前回ここで話したんですよね。あの絵を見たとき、なんか全部思い出したんです。......そういえば私、若いころリスカしてたなって」
    急に予想外の告白をされて、私も驚いたが、かほりも隣で驚いた表情を浮かべている。母親もこの告白は勇気が要るだろう。間を取りつつ、言葉を選んでいるようだ。
     
    ◆母親の告白
     
    「この子の前でこんなこと言うのもなんですが、私若いころずっと死にたいって思ってたんです。それで、かほりが生まれるくらいまで主人に隠れて切っていました。でも、かほりが生まれて、産後うつになって、一時期、本当に死ぬことばかり考えてたんです。そうなると切る気も起きなくなったと言うか。気づいたらしなくなっていました。本当にリスカしてたこと、ほとんど忘れていたというか、考えることなかったんです」
     
    ―――こんな話…かほりに聞かせて大丈夫なんだろうか。
    止めた方が良い?
    だが、今止めたとして、家に帰って続きをしないとも限らない。それよりは…。
    思考を巡らせつつ、結局私は何も言わず傾聴を続けた。
     
    「前回、ここで消毒してくださったって聞きました。この子嬉しかったみたいです」
    私はかほりの方に視線を向ける。母親のリスカの告白をどう消化していいのか分からない様子で目を泳がせていたが、急に自分の話を振られて照れたのか、はたまた母親の告白を聞いて不安になったのか分からない。母親の方に頭をもたれさせて甘える仕草を見せた。
    しかしそれに対する母親の様子は少し今までと違った。かほりの甘えに応えるようではなく、机の上に置いたカレンダー辺りの空間を眺めながらつぶやくように言う。
    「私にはそういう風に手当てしてくれる人、いなかったなぁ」
    ついさっきまではかほりの甘えを受け入れており、微笑ましい感じだったが、少し雰囲気が違う。これは......。私は即座に言った。
    「かほりちゃん、今、お母さんの肩から頭離さないで」
    かほりも母親も私がこれまでの柔和な感じから、急に声に緊張の色合いを含ませたことに驚いている様子だ。
    私は続ける。
    「お母さん、今お母さんの肩にかほりちゃんの頭が乗っています。背中にはかほりちゃんの体が当たってるの、分かりますか?」
    「はい」
    母親は戸惑いを見せながら答える。
    「その感じ、よぉく感じてください。肩に乗っているかほりちゃんの頭、背中に当たっている体からかほりちゃんの体温を感じましょう」
    エアコンが効いた部屋では、ブラウスを通してかほりの体温は伝わりやすいはずだ。私は更に続けた。
    「かほりちゃんもお母さんの体温を感じていきましょう。そしてお互いに呼吸を感じていきましょう。ゆったりと深呼吸して。今二人が触れ合っている部分から、感じられるお互いの発しているメッセージ、なんでも受け取っていきましょう」
    このようにお互いの接触を十分に感じる時間を取ってから、更に私は続けた。
    「かほりちゃん、いつもお母さんからもらっている安心する気持ち、今はかほりちゃんからお母さんに送ってあげて」
    次に母親に向けて言う。
    「お母さん、今、かほりちゃんがお母さんに今までお母さんがかほりちゃんに与えてくれたたくさんの安心、精一杯返してくれています。かほりちゃんがお母さんにピタッとくっついてくれる安心感、お母さんの体でしっかりと感じていきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、かほりちゃんに安心をもらって気持ちをリラックスさせていきましょう」
    母親は依然として卓上カレンダーを見つめたままだ。
    「ご自身の傷を消毒してくれる人がいなかった......そのことを思い出すと今どんな気持ちですか?」
    「えぇ......なんでしょう。やっぱり寂しかったですね」
    「その気持ち......ちょっと味わってみましょう。でも、今はかほりちゃんがお母さんに安心を送ってくれています」
    「あ......はい」
    私の教示を受け入れたような返事をするが、その表情は眉と目じりに力が入り苦痛に耐えているように見える。
    「その寂しい気持ち......味わっていると、体はどんな感じがしますか?胸が苦しいとか、お腹が痛いとか」
    「胸から、お腹にかけてですか。キューっと絞られる感じと言うか」
    以前もそうだったが、母親は体の感覚を言語化することに関して上手に伝えてくれる。
    「その感じ、MAXで辛くて耐えられない状態が10、全然平気な状態が0だとしたら、今いくつくらいですか?」
    「8くらいです」
    「教えてくれてありがとうございます。よく味わっていきましょう」
    しばらく感情を味わうための間を取る。
    「イメージしてみてください。お母さんの胸からお腹にかけて......寂しいっていう気持ちが締め付けています。とっても寂しい。でも今、お母さんのそばにかほりちゃんがいてくれて、お母さんに精一杯優しい気持ちを送ってくれています。お母さんの肩や背中の感覚を通してかほりちゃんの優しい気持ちがお母さんの中に入ってくる。どんどん流れ込んでくる。かほりちゃんの優しい気持ちが流れ込んできて、お母さんの胸からお腹にかけて締め付けている寂しい気持ち、孤独な気持ちをどんどん中和していきます。どんどん中和していきます。今お母さんはかほりちゃんの愛情をいっぱい受けて、寂しい気持ちがどんどん中和されています。体の感覚をよく感じてください。ゆっくりでいいですよ。寂しい気持ちが中和されていくのを感じてください」
    次に私はかほりにも話を振る。
    「かほりちゃんも、お母さんにいっぱい愛情の気持ち、安心する気持ちを送ってあげてね。その気持ちがお母さんの寂しさを癒していくのを一緒にイメージしていきましょう。そして、お母さんとかほりちゃんのイメージが重なっていると強く信じてください。そう、お母さんの寂しい気持ちがどんどんかほりちゃんからの愛情で癒されていく…」
     
    更に間を取る。
    しばらく私は黙って二人の様子を見つめていた。いつの間にか母親はカレンダーを見つめるのをやめ、目を閉じていた。自身の気持ちと戦っているんだろう。その横でかほりは目を開いてじっと母親に密着している。
    「今、胸からお腹にかけて、締め付けられる感じ、数字で言うといくつくらいですか?」
    「3か4くらいです」
    「とてもいいですね。最初に比べて楽になってきました。かほりちゃん、かほりちゃんのおかげで、お母さん、寂しさが和らいできたって。もっと愛情と優しさを送ってあげてね」
    「ハイ」
    私は自身もリラックス呼吸を意識しながら母親の表情や、呼吸に連動する胸の上下動をつぶさに観察する。
    「お母さんの呼吸が少しずつ落ち着いてきました。かほりちゃんが安心感をいっぱい送ってくれるおかげで、深い呼吸が楽にできるようになってきます」
    こうガイダンスしながら、更に様子を観察し、ときおり「いいですね、いいですね」と勇気づけながら見守る。
    母親の表情や呼吸が大分落ち着いてきたのが見て取れたので質問する。
    「いかがですか?」
    「大分楽になりました」
    「数字で言うと?」
    「1か2くらいです」
    「いいですね。では、お母さん、目を閉じたまま、今の体験をもう一度振り返っていきましょう。自分がリストカットしてしまっていた時、誰も助けてくれなかった。そのことを考えると、とても寂しい気持ちがした。でも、かほりちゃんからしっかりと愛情をもらって、大分楽になれた。この感覚、今一度よく味わって。お母さんの中にしっかりと落とし込んでいきましょう。しっかりと落とし込んで」
    しばらく間を取る。
    「しっかりと癒される感覚がお母さんの中に落とし込まれるのを感じたら、お母さんのタイミングで目を開けて、今ここに戻ってきてください」
     
    しばらくジーっと余韻に浸っていた様子だが、やがて、母親はゆっくりと目を開けた。
    「では、しっかりと伸びをしていきましょう。体を伸ばして」
    私も自分で言いながらストレッチするように両手を上げて、体を伸ばす。それを見て母親もそれに従った。
    「かほりちゃんもしっかり体を伸ばして」と私が言うと、かほりもそれに従う。
    私はつづけて母親に聞いた。
    「今ご気分はいかがですか?」
    「なにか、温かくなりました」
    「かほりちゃん、お母さん、あったかい気持ちになれたって。かほりちゃんのおかげです。ありがとうね」
    かほりが照れるように笑うと、母親もかほりの方を見て「ありがとうね」と優しく言った。
    時間が終了に近づいていた。
     
    ◆ついに来た!
     
    「今日はとっても重い気持ちをお話いただきました。私は今日ここでお話いただけたこと、とても良かったと思っています。でも、この話は今日この部屋を出るときに一旦、お母さんの胸にしまって鍵をかけましょう。今日大分楽になれたようなので、このまま霧散してくれるといいと思いますが、気持ちってそんな簡単なものではないかもしれません。もしまた扱う必要が出てきた時は、ここに持ってきていただいて、ここでしっかりと扱えるといいと思います」
    私がこう伝えるのは、家でむやみにトラウマにまつわるネガティブな気持ちが開くと、母親にとって良くないからだ。もちろんそれはかほりの心にも悪影響を及ぼす。
    「分かりました」
    母親もそう返事をした。
     
    二人を見送ると、ピノが入っていた袋と乗っていた皿、ウーロン茶が入っていたグラスを片付ける。なかなかに濃いセッションだった。私も糖分を補給しようと、冷蔵庫を開け、余っている残り一個のピノの袋を割く。そして中身を口に放り込でんから、パソコンを起動し、記録に取り掛かる。
    かほりが初めて顔を見せてくれたこと、母親にリスカのことを自分から伝えたこと。そして母親自身の希死念慮の告白からのリゾネイティング。記録を書きながらこの面接はかほりの不登校が出発点であったが、それはあくまでも入り口であり、主題が母親のトラウマケアに移ってきていることを実感する。
    かほりにとって大好きな母親の傷を癒したい気持ちが不登校というSOSとして顕在化したというのが私のケース理解だ。
    だが、母親の今回の訴えを聞くに、父親との関係以前から母親には希死念慮があった。「お前にできるはずがない」半年以上前に薪ストーブで燃やした言葉が再び私の頭に呼び起された。
    まだ、問題は根深そうだ。
     
    アセスメント
    ・母親の潜在的なトラウマは想像以上に重く、背景にはやはり母親自身の生育歴がありそう。
    ・かほりは母親を癒すという役割を得たことで自己価値を感じられている。しかし役割が過剰になりすぎないように注意が必要。
    方針
    ・継続して母親をエンパワーしていく。
    ・かほりへの負担が重くなり過ぎないように注視する。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    坂部母子の面接から二日後のこと、その日入っていた面接がすべて終了し、私はケースの記録をまとめるためにパソコンに向かっていた。
    「ピロ~ン」
    電子音とともにメーラーのアイコンに新着メールが入ったことを知らせる「1」という数字が付せられる。私はその知らせが迷惑メールでないことを願い、そしてあわよくば新規の申し込みであることを期待してアイコンをクリックした。
     
    subject「ご相談」  from: Sakabe Tomoko  受信日時:20XX+1年9月13日19:15
     
    そのどちらでもない。
    「坂部さんからだ」と思い私はメールを開ける。
     
    「いつもお世話になっております。
    次回のカウンセリングですが、主人も来てくれることを了解してくれました。一緒に伺ってもよろしいでしょうか。
    お返事お待ちしております。
     
    坂部とも子」
     
    ―――!!!
    ついにきた!
     
    短いメールを読み終えた私の率直な感想だ。
    そいて、普段よりも心臓の鼓動が大きくなっている自分に一瞬遅れて気づいた。
    これは、なんとか父親とつながりたい、その思いがようやく叶ったことによる興奮だろうか。
    いや、違う。
    それよりも、母子を常に緊張状態にさせる父親に対する威圧的なイメージが頭に浮かぶ。それによる緊張感が私の拍動を大きくしていることを誤魔化してはいけない。
    そして、父親が一緒に来談した時に起こるであろうことを色々想像する。やはり、母親もかほりも私に父親を責め立てる役割を期待するのだろうか。
    そんなことを考えてふと我に返ると、目の前にはまだ書きかけの他のケース記録が,私が再び作業に取り掛かるのを待っている。
    「おっと、いけない」
    私は氷が溶けてぬるくなったアイスコーヒーのグラスを口に運ぶと、先にそちらの方を片付け、それから先ほど来たメールに対する返信の文面を考える。
     
    Subject「Re: ご相談」 from: 山の香りカウンセリングサービス 
                           送信日時20XX+1年9月13日 19:55
    「坂部様
     
    お世話になっております。
    次回の旦那さんの来談について、お母さんとかほりちゃんが勇気を出して働きかけてくれたであろうことにとても敬服いたします。
    ただ、3人で一緒に来談いただくとなると、60分という時間の組み立てがかなり複雑になり、話の焦点がぼやけてしまうことが懸念されます。そこで、もしよければ、まずはいつものお二人とは別に、旦那さんお一人で来談いただくというのはいかがでしょうか。
    お返事いただくようよろしくお願いします。
     
    山の香りカウンセリングサービス代表
    榊」
     
    すると、すぐに母親からの返信があった。父親単独での来談となると、また父親と話す必要があるとのことだ。それはそうだろう。その旨を了承し、その後何回かのメールのやり取りをした。その結果、父親との面談は一週間後、次の土曜日である、9月20日となった。父親は仕事が土日休みなのである。9月25日に次回のかほりの予約が入っているのだが、そこもキャンセルはせず、いつもより父親の分料金がかかることも承知してくれた。母親のカウンセリングに対する期待をひしひしと感じる。
    ただ、『山の香りカウンセリングサービス』では土曜日のカウンセリングは対面では受けておらず、オンラインのみとなっている。つまり父親とはZoomを使ってカウンセリングすることに決まった。
    オンライン面談は料金の当日払いができないため、事前に振り込みをお願いしている。果たして、口座に料金の振り込みが確認されたので、私はZoomのURLをメールで送った。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
     
    その日、私は今までのケース記録を読み返しつつ、頭の中で母親とかほりから聞いていた父親像を整理していた。
    家の中で緊張を作り出している。かほりには優しいが母親に対して攻撃的。しかし暴力があるわけではない。あるとしたら心理的な、いわゆるモラハラの範疇に入るような接し方か。ケンカになると母親は黙り、父親は酒に逃げるという話も聞いていた。様々な情報を整理しつつ、やはり会ってみないと分からない。約束の時間は11時からだ。
    今は10時55分。
    「そろそろいいか」
    私はZoomのスケジューラ―を開き、「予定されているミーティング」から、「坂部様」というカードをクリックする。すると画面にミーティングの詳細が現れる。
    それをざっと確認し、私はその下の方にある「開始する」という青いボタンを押した。
    「ドクン」
    やはり緊張している自分を感じる。
    かと言ってすぐに入室があるわけではない。
    少し待ってからパソコンの右下に表示された時計を見るとまだ10時57分だ。まだ3分ある。オンライン面談の部屋を立ち上げてからクライアントが入室までの時間はいつも手持ち無沙汰で長く感じる。
    今回のように緊張を伴う面談は尚更だ。
    10時59分を数秒過ぎたとき「『sakabe takashi』の入室がありました。許可しますか?」というポップアップが現れた。
    私は意識的に深呼吸をしながら、「許可する」というボタンを押した。
     
    ◆父親の目線
     
    20XX+1年 9月20日 父親#1 オンライン面接
    相手のカメラがつながり、画面の向こうに座っている男性を映しだした。上半身しか見えないが、黒っぽいシャツで眼鏡をかけ、頭は天然と思われるパーマ、インテリ風の眼鏡をかけているといったいで立ちだ。
    「こんにちは」
    私はできるだけ朗らかに挨拶をした。
    「あ、こんにちは」
    父親も挨拶を返してくれる。男性にしては高めの良く通る声が印象的で、かほりの声を初めて聞いたとき、母親の声質と違う感じを受けたことを思い起こさせた。しかし、マイク越しに伝わってくる口調はカウンセリングに対してドライな姿勢を感じさせる。
    「今日はお忙しい中、カウンセリングのためにお時間を頂き、誠にありがとうございます。私、カウンセラーの榊と申します。よろしくお願いします」
    と伝えると、やや表情は硬いながら、
    「こちらこそ、いつも妻と娘がお世話になっております。よろしくお願いします」
    と丁寧に返してくれる。
    冷静に考えれば当たり前なのだが、いきなり戦闘モードで突進してくるわけではなさそうだ。
    「そうですね。昨年11月からお会いしていますから、もうちょっとで1年になりますね。これまでの間、奥さんと娘さんをカウンセリングに通わせていただいたこと、重ねてお礼いたします。ありがとうございます」
    それに応えて、画面越しに父親はペコリと頭を下げた。
    「それで、今回、お父さんがカウンセリングを受けていただけることになったわけですが、ご家庭の中でどういった話があって、今回の流れになったのか、教えていただけますでしょうか」
    私は今回の申し込みに至った経緯から質問した。
    「その辺、妻から聞いてないですか」
    父親の言葉の裏側に「そんなこと確認しておけよ」という攻撃的なニュアンスを感じるのは勘繰りすぎだろうか。
    「あ、メールでお父さんがいらっしゃるという風に頂いただけですので経緯までは聞けてないんですよ」
    すると父親は答えてくれる。
    「娘からですね。娘がお父さんも一緒に来てって。僕としても仕事の都合がつけば拒否する理由もないですし、『いいよ』って返事をしたんです。そしたら、そちらから、一緒じゃなくて一人で来いって言われたって聞きましたが」
    「なるほど、そういうことですね。色々奥さんや娘さんからお話を伺ってはおりますが、3人で話すと話が複雑になりそうでしたので、まずは一度、お父さんと1対1でお話できればと思い、私が提案させていただいたんです。素直に応じていただいてありがとうございます」
    「いえ、それはいいんですが、どんなことをお話すればいいですか?」
    この質問も流れを考えれば自然な質問だが、どこか言外に攻撃性を感じてしまう。このような一つ一つのやり取りに緊張を覚えるのは、私が今までかほりや母親に会ってきて、彼女らの側にに立っているからだということを自覚する。本来は中立でないといけないと頭では解っているのだが、これは私の体の反応だ。そして私は今、坂部家の中に漂っている緊張感を体験している。
    しかし、怯むわけにはいかない。
    「これまでかほりちゃんが不登校になって、それをなんとかしたいというきっかけでこちらに来ていただいているわけですが、お父さんがそのことについてどんなお気持ちでいらっしゃるのか、率直なところをまずお聞かせいただけますか?」
    私は緊張を気取られないように意識的に声のトーンを低くして聞いた。
    「妻からどう聞いているか分からないですが、僕としては娘が不登校になっても、仕方ないと思ってます。妻があんなですから」
    いきなり、かほりの不登校を母親のせいにしている風全開の話しぶりだ。
     
    「さっき妻とかほりを1年カウンセリングに通わせたって仰ってましたが、僕としては娘の不登校もそうですけど、妻を見てほしいって思ってたんです。妻は外では仕事頑張ってますし、それなりに人当たりよく振舞っていますが、かほりに対して本当にキツイと言うか、責めるような言い方ばかりするんですよね。できているところは見ないで、できないところばっかり指摘するんです。小学校のとき、テストで一つでも間違いがあると、他は全部合ってても、それは全く褒めないで、間違いだけ指摘する。それで、何度も間違い直しをさせるんです。そんなに怒りながらやらせても、かほりが委縮しちゃうだけで、効果ないからやめろって何度も言いましたが、聞きません。スマホだって、小学校高学年のころには今時みんな使ってるじゃないですか。それなのに、妻はダメだって見せなかったんです。今時の子の話題って全部インスタとか、TikTokじゃないですか。それで、友達の輪に入れないと可愛そうだって僕が言うと、『依存症になったらどうするんだ』って言ってましたね」
     
    確かに来談当初の母親を思い出すと、その光景が目に浮かぶ。
    そして、母親の告白も同時に思い出す。
    「母は私を責める人でした」
    人は自分が育てられたようにしか子どもを育てられないと言うことか......。
     
    父親の語りは続いた。
    「それで友達と上手くいかなくなる方がよっぽど大変ですよね。そんなだから、僕も多少言い方がきつくなることもありました。そしたら妻は、『いつもあなたは私を責めてばかり」って言うんですよ。それって僕が悪いんですか?」
    一旦は私に問いかけるも、私の返事を期待しているわけではない。
    「そんなだから、家で妻とあまり会話ができないんですよ。僕が何か言うと、普通に話しかけても、もう怒ってることもあるし。僕も最低限、かほりにもう少し優しく声かけてやれとか、やりたいことやらせてやれとか伝えるんですが、そう言うとすぐに拗ねちゃうから、会話になりません。そりゃ、そんなだから子どもも不登校になりますよね」
     
    父親の話を聞きながら、私の中では、以前、父親に対して気持ちを吐き出した時の母親の言葉が思い起こされる。
    「文句ばっかり言うなら全部自分でやればいいでしょ!」
    「こんなに頑張ってるのに......」
    やはり両者から聞くと、印象が変わるものだ。
     
    「そうなんですね。伺っていると、お父さんもずっと苦労していらしたんですね」
    「そうですね。妻には正直苦労しています」
    全く否定しない辺り、相当にストレスを溜めているようだ。
     
    私は話を掘り下げる。
    「いつごろから奥さん、そうなんですか?」
    少し考えるように間をおいてから父親は答えた。
    「いつからだろう。娘が生まれる前まではそこまで感じてなかったです。いや、その前からそうだったのかな。でも、二人とも共働きでそれぞれの仕事の方を向いていたと言うか。もちろん夫婦なので、会話がなかったわけじゃないですが、目立たなかったんだと思います。でも、やっぱり娘が生まれてからですね。自分は産後うつだって言い出してあからさまに不安定になった気がします。もうどうしようもないと言うか。そして、ちょっとケンカになると『死にたい、死にたい』って言ってましたね」
     
    前回の母親の告白を思い出す。
    「かほりが生まれるくらいまで主人に隠れて切っていました。でも、かほりが生まれて、産後うつになって、一時期、本当に死ぬことばかり考えてたんです。そうなると切る気も起きなくなったと言うか。気づいたらしなくなっていました」
    もしかして、リスカが母親の安全弁になっていた?そんな可能性も頭に浮かんだ。
     
    しかし、そんな母親に対して、父親の語り口調からは辟易していた様子がありありと伝わってくる。
     
    ―――「死にたい」
     
    いわゆる希死念慮。
    そんなの何度も言われたら…。どうしようもないことを延々と言われ続けて、次第に責められてる気持ちになってきて…。どうしても「いい加減にしてくれ」って気持ちになるし、それで腹が立ってきちゃうんだろうなぁ。
     
    そんな私の思考を他所に父親は続けた。
     
    ◆スーパーサイヤ人のコーヒー牛乳
     
    「それで、そう。一回『かほりと一緒に死ぬ』って言ったことがあって、そのときは流石に僕もキレちゃって。『いい加減にしろ!死ぬなら一人で死ね!かほりを道連れにするな!』って怒鳴っちゃったんですよね。あれが僕ら夫婦の間に決定的に溝ができた事件だったかもしれません」
    以前、大雪の日のかほりの告白を思い出す。
    父親は語気を強めて続けた。
    「今でも思い出すとどうしても腹が立っちゃうんです。かほりがまだ1歳かそこらの話ですよ!」
    ひどい修羅場だった様子が想像される。
    その事件が坂部家の関係を崩壊させるには十分な家族トラウマになっていたということを私は確信した。
    それは父親がそのことを語りながら怒りに震えているということからだけで判断しているわけではない。今の場面はかほりからも聞いている場面だ。ということは、かほりが覚えている場面ということになる。1歳かそこらのかほりがだ。
     
    トラウマ治療において、物心つく前の記憶を、催眠状態で呼び起すということがある。
    かほりからその話が出たのは、あの大雪の日だった。薪ストーブの火に当たりながら十分にリラックスした状態で、私は両親について聞いた。あのとき、かほりの抑制が取れて、催眠状態と同じようなことが起こっていたのだ。そして、物心つく前の重篤なトラウマの記憶が呼び覚まされたということか。
     
    私はその時の情景を思い浮かべて、自分の胸が締め付けられるのを意識した。そして、ほんの少しの間、その胸の痛みを味わった後、深呼吸してから静かに父親に伝えた。
    「坂部さん、今、私、本当に胸が張り裂けそうです。坂部家のみんなが苦しんでいるのがヒシヒシと伝わってくるんです」
    私に共感を伝えられて、父親はどう反応していいのか分からないのかもしれない。何も返事が返ってこない。
    私は構わず続けた。
    「坂部家みんなが傷ついたその場面、皆で克服する必要があるように思います」
    父親は怪訝な顔をしながら答える。
    「今更ですよ。過去は変えられません」
    「確かに過去に起きたことは変えられません。でも、その起きた事実から受けた傷を癒すことはできるはずです」
    「どうやって?」
    「坂部さん。坂部さんは今、とても辛い過去の記憶を語ってくれました。記憶の想起に怒りが伴っているの......感じますか?」
    「そうですね。思い出すとやっぱり怒れちゃいます」
    「大丈夫です。その怒りの感覚、今よく味わってみてください。腹が立つと、坂部さんの身体はどんな反応をしますか?例えば、顔が紅潮するとか、口のあたりがワナワナするとか」
    「なんでしょう。そんなこと、あまり考えたことないですが、今言われたように顔が赤くなるって程ではないです。そこまで怒ってるわけじゃないですが、よく漫画なんかでありますけど、髪の毛が逆立つような感じがすると言うか」
    「スーパーサイヤ人みたいな?」
    「そうですそうです。って、なんか急にそんな話したら、怒りが薄らいじゃいますね」
    そう言って、苦笑いを浮かべる。
    私もそれに合わせて笑顔を作り、それから伝えた。
    「大丈夫ですよ。今、ちょっと坂部さんにとって辛い記憶を想起してもらいました。そしたらスーパーサイヤ人になりそうになりましたね。流石に髪の毛の色は変わりませんが、頭皮がゾワっとしたんだと思います。いいですよ。そしたら、今度は全く逆の、坂部さんが落ち着ける情景を思い浮かべてみてほしいんです。坂部さんにとって、安心できる記憶、情景、音楽、何でもいいです。それを思い出すと、心が落ち着くな、安心だなっていうもの、何かありますか?」
    「え、なんでしょう。急に言われてもちょっと出てこないです」
    「もう少し考えてみましょう。何でもいいですよ」
    そう伝えてしばらく間を取る。
    「そうですねぇ」父親は記憶をたどるように目線を斜め上に向けながら答えた。「ちょっと恥ずかしいですが、子どものころに自分の家族と一緒に行った温泉を思い出しました。なんかとっても落ち着いた記憶があります」
    「いいですね、いいですね。その時のことできるだけ思い出して下さい。温泉の風景。どんな温泉でしたか?」
    「あれ、北海道だったんですよね。今思えば温泉に含まれる銅のせいだって分かるんですけど、入ると体が青く光るんです。子ども心にすごい面白くて。後、お湯がすごいぬるぬるしてました。そして、そう、温泉から上がって飲んだ瓶のコーヒー牛乳がすごく美味しくて」
    まさか、ここでコーヒー牛乳が出てくるとは思いもよらなかった。かほりの顔を思い出しながらも、私は続けた。
    「いいですねぇ。すごくいいです。コーヒー牛乳の味、よく思い出していきましょう」
    「はい」
    「その時の情景を思い浮かべていると......どんな気持ちがしますか?」
    「なんでしょう。懐かしい感じ。あの頃は平和だったなぁっていう」
    「身体でそのときの平和な感じを感じてください」
    「はい」
    「思い出しながら深呼吸していきましょう。ゆったりと深呼吸しながら、身体の力を抜いて。ご自身の体が安心するのを感じてください」
    「はい」
    「温泉のぬるぬるしたお湯、青い光。美味しいコーヒー牛乳の味。十分にその感覚を味わっていきましょう」
    父親は目を閉じて、私の声に従っている。
    私はできるだけ低めの声で、ゆっくりとした口調で伝える。
    「身体の力が抜けて、ゆったりとした深い呼吸が楽にできるようになるのを感じてください」
    私はそう伝えると時計を見て時間を確認した。「11:37」と表示されている。残り時間は20分と少しだ。
    そこから私は2分間時間を取った。
    カウンセリングにおいて2分間の沈黙は結構長く感じる。
    これが、話題が煮詰まっての沈黙なら、双方にとって、とても苦痛な時間となる。しかし今は父親に安心を感じてもらうための時間だ。私は父親の表情をよく観察するが、あまり変化は見られない。気持ちが表情に出ないタイプのようだ。
    しかし、表情以外にも、感じている気持ちを伝えてくれる非言語の信号はある。
    私は、画面越しに見える体の動きをよく観察した。
    父親の呼吸に合わせて、小さく肩や胸が上下しているのが分かる。そしてそのリズムは父親が一定程度リラックスしている様子を伝えている。
    「はい、いいですよ。今とってもリラックスして、心地のいいい時間を過ごしていただきました。では、もう一度、先ほどの場面、奥さんがかほりちゃんと一緒に死ぬって言っていた場面を思い出してください」と教示した。
    少し視線を右上にそらすのは父親が何かを考えるときの癖のようだ。
    「どんな気持ちですか?」
    「なんでしょう。さっきほど腹は立ちませんが、良い気持ちはしないです」
    「いいですね。さっきほど腹が立たないというのはとてもいいです。それではさっきの温泉の感覚に立ち戻りましょう」
    これはペンデュレーションと呼ばれる技法で、心地の良い記憶と、トラウマ記憶を行き来することで、トラウマ記憶にまつわるネガティブな感情の中和効果を期待している。
    「コーヒー牛乳の味を思い出してください」
    「なんでしょう。難しいです。さっきは安心する記憶って言われて、思い出せたのですが、今は妻の顔がコーヒー牛乳の味を思い出すのを邪魔する感じと言うか」
    「いいです。いいです。嫌な記憶が良い記憶を思い出すのを邪魔するわけですね。それはつまり、逆も起こりうるということです。今はその時のとっても辛かった記憶がまだまだ坂部さんの中で強力ですから、嫌な記憶が勝ってしまっている状態です。今、坂部さんに必要なのは良い記憶にもっともっと栄養を与えてあげることです。そうすることでコーヒー牛乳がスーパーサイヤ人に勝てるようになります」
    「栄養を与えるってどうやってやるんですか?」
    「まずは単純に思い出す回数を増やします。何度も何度も思い出すことで、その記憶は確実に太っていきます。そして、その記憶にまつわる別の記憶もどんどん掘り起こしていくのも有効です。例えば、そのときの写真を見たりして、その時にあったこと、感じたことをもっと思い出していきます。後は、実際に風呂上がりにコーヒー牛乳を飲んでみるのもいいと思います。そういうことを繰り返していくと、いい思い出が膨らんでいって、嫌な記憶が沸き上がるのを抑えてくれるようになります」
    「そんなもんですかねぇ」
    父親の反応には私の話を信用していいのかどうかという迷いが読み取れる。
    それも仕方がない。だが、父親が私の教示に従いワークに取り組んでくれたこと、また腹立ちの程度が和らぐ経験をしてもらえたことで、私がセッションの最初に感じていた緊張感は大分薄らいでいた。
     
    ◆説得
     
    しかし、ここで不意に父親は、
    「妻や娘ともこういうことをしているんですか?」
    と聞いてきた。
    父親がどういう意図で質問しているのか計りかねた私は再び緊張を覚える。
    「奥さんとかほりちゃんはお越しいただいていますので、もっと直接的に安全を体感してもらうワークをしています」
    やや構えてしまった私は、言い訳めいた返答になったかもしれない。
    「いろんなやり方があるんですね」
    「そうですね。心の傷を癒す方法はたくさんあります。是非坂部さんにも体験していただきたいと思っています」
    時間を見ると、残り時間は10分を切っている。残りの時間で、今後の方針について提案して、合意を得なくてはならない。
     
    「今日お話伺えて本当に良かったです。私としては、ご家族のトラウマを明確にしていただいたと思っています。お父さんにもお母さんにも、そしてかほりちゃんにもその時のこと、とっても大きく影を落としていると思うんです。どうでしょう。私としてはお父さんもカウンセリングに参加していただいて、しっかりと克服していければと思うのですが、どう思われますか?」
    私はこう問いかけた。
    しかし父親は乗り気な表情ではない。
    「ん~正直に言いますと、まだ半信半疑です。僕もってことになると、また余分にお金かかりますよね。僕自身が困っているのは妻のことであって、妻がもう少し穏やかになってくれればいいわけですから」
    父親の答えはある意味普通の人の感覚なのかもしれない。最初にかほりの不登校問題を私に丸投げしてきた母親もそうだった。自分の問題を扱わずに周りが変わってくれるならこんな楽なことはない。
    「もちろんお金の問題もあるのは分かります。ですが、私から見てですが、奥さん、以前より大分柔らかくなったように思います。ご家庭ではそうでもないですか?」
    「どうでしょうか。ちょっと分かりません」
    毎日接しているようで、会話がない夫婦である。あまり変化に気づかないのか、それとも家では本当に変わっていないのか定かではないが、私は続けた。
    「奥さんの状態を改善するためにも、坂部さんには奥さんのうつ状態について、もっと詳しく知っていただく必要があると思うんです。今日お話していて、坂部さんが奥さんに対してとても複雑な感情を持っていらっしゃることが伝わってきました。特に、奥さんに対してイライラしてしまうのもよく分かります。でも、奥さんも、それを何とか改善しようと、ご自身の問題に本当に一生懸命取り組んでくれています。そして、それをかほりちゃんがとっても一生懸命手助けしようとしてくれているんですよ」
    私は、かほりの無意識が家族を再生しようと懸命になっていることに思いを馳せ、目頭がやや熱くなる。
    「かほりちゃん、お父さんのことを聞くと、いつも、優しいって言ってくれるんですよ。お父さん、かほりちゃんが好きな飲み物何か知っていますか?」
    私はかなり前にかほりから聞いたことを思い出していた。
    「え~、なんですかね。家では特に何を好んで飲んでるかちょっと分からないです」
    私はどうしてもかほりへの感情移入を止められないでいる。
    「かほりちゃん、コーヒー牛乳が好きなんです。僕も今日、お父さんのお話を聞いてびっくりしました。お父さんが安心した思い出に出てきたコーヒー牛乳。どうつながったのかは私にもわかりません。でも、偶然とは思えません」
    「それは確かに不思議ですね。でも、家で僕そんなの飲んだ記憶ないですから、偶然だと思いますよ」
    「そうかもしれません。でも、かほりちゃんがお父さんとお母さんのこと、とっても大好きで、仲良くしてほしいって思っている。そのためにお父さんにもカウンセリングを受けてほしいと思っていること......伝わりますか?」
    私は最初に感じていた緊張も忘れ、普段の受容的なカウンセリングの態度でもなく、説得モードに入っている。
    「榊さんが言わんとしていることは分かります。でも、今更妻と仲良くって言われても、ちょっとどうしていいか分からないですね」
    父親は戸惑いながら答えた。
    「仰ること、とてもよく分かります。今までずっと続いてきた関係はそう簡単には変わらないと思いますよね。奥さんも同じように言ってました。でも、だからこそのカウンセリングです。かほりちゃん、最初はお父さんのことを誘うこと自体無理って言ってたんですよ。でも、誘ってくれた。とっても勇気が要ったと思うんです。かほりちゃんは、その勇気を出してくれたんです。希望を見出してくれたんです。かほりちゃんがようやく見出した希望に、応える努力をしてくれませんか?」
    かほりをだしに説得するのはカウンセラーの態度として批判されるかもしれない。しかし、私はこのときどうしても、父親をカウンセリングの構造に取り込む必要性を感じていた。
    困ったような顔を見せる父親を私はじっと見つめた。
    短い沈黙の後、父親は深いため息をついた。
    「......分かりました」
    それまでの平坦な声のトーンから読み取れなかった感情が、ここにきてやや変化し、観念したような響きにも聞こえる。
    「榊さんの熱意が伝わってきましたし、なによりかほりの期待を裏切れません。よろしくお願いします」
    私は無意識に顔がほころんでいたかもしれない。確かに父親を説得出来て嬉しかったのだ。
    私は自然と
    「ありがとうございます」
    と伝えていた。
    こうして父親との最初の面接は終了の時間を迎えた。
    意外なことに、父親は、次回の予約について来週、またZoomで会う選択をした。かほりたちの面接は隔週であるが、渋っている父親が一週間後に予約を入れたのである。カウンセリングに対する期待感があるのか、もしくは面倒なものは早めに終わらせたい質なのか。後者の可能性が高いと思うが、それはそれでいい。密なカウンセリングで父親との関係を深めていけることに私は期待する。
     
    父親が退室し、画面がブラックアウトしたのを確認した後、私も退室ボタンを押してZoomを閉じた。
     
    何度も経験してきたつもりだが、それでも緊張感の強いカウンセリングには疲労感を伴う。私は駄々下がった血糖値を上げるべく、珍しくコーヒーに砂糖とミルクを入れた。
     
    記録を書きながら同時に反省もする。かほりを出汁に父親を説得したことで、一応の合意を取り付けた。しかしあくまでも形の上である。カウンセリングとは本来、クライアントに共感することに徹し、クライアントの自発的行動を促すものである。
     
    「これは説得であってカウンセリングではない」
     
    10年以上前に参加した事例検討会で、高名な臨床心理士の先生が言っていたセリフが思い出される。今回の私のケースもその検討会に出したら同じように言われるのだろう。
     
    そう反省しつつも、そうしなかったら父親とは今回限りになっていたかもしれない。やはり父親に家族の問題にしっかりと向き合ってもらうことは絶対に必要だという思いも私の中で譲れない。
    そんなことを考えながらセッションをまとめ、アセスメントと方針を書く。
     
    アセスメント
    ・母親がもともと持っていた自己否定感を父親も取り込み、母親を否定するようになった。それが、更に母親のエネルギーを奪うという悪循環を作り出している。
    ・子どもの頃の北海道の温泉旅行の記憶がリソースとして出てきて、あの頃は平和だったと言っているあたり、父親の子ども時代には健全さがあったようだ。
     
    記録画面に打ち込まれた文字を見つめながら、私はふと手を止めた。
    「健全さ、か……」
    幼少期に健全な愛着や安心感を経験している人間には、柔軟性があることが多い。
    ここまで私が築いてきた父親イメージは、モラハラ気質が強く、こちらにも怒りを向けてくるといった人間像だった。だが、それはあくまでも傷ついたかほりや母親のフィルターを通した人間像に過ぎなかったのかもしれない。
    私はアセスメントを見直し、方針を修正することにした。
     
    方針
    ・父親が母親の自己否定感を取り込まざるを得なかった背景に光を当て、父親が納得する形で母親との関係を修復できるよう、まずは個別面接を行う。
     
    ――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆ラポールの深まりと母親の内省
     
    20XX+1年9月25日 かほり#19 母親#13
    「先日はお父さんとZoomでお会いさせていただきました。かほりちゃん、お父さんに言ってくれたんだってね。前は絶対無理って言ってたのに、すごいじゃん」
    父親との面談の次の回、私はかほりに向けて話題を振ってみた。
    それに対してかほりは言葉を発するでもなく、頷くでもなく、なんとなく照れたように視線を外した。
    私は更に尋ねた。
    「どうやってお父さん誘ってくれたの?すごい勇気いったんじゃない?」
    私の問いかけに対してかほりはモジモジしながらも、話し出した。
    「部屋で絵を描いてたら、お父さんが話しかけてきて。最初は『やっぱり学校はまだ行くとしんどい』みたいな話だったんですけど......」
    「うんうん」
    私は相槌ちを交えながらかほりの語りを促した。
    「進路どうするんだみたいな話になって、私がまだ分かんないって言って、カウンセラーに相談して来いって言うから、なんとなくその流れで、『一緒に行く?』って聞いたら『いいよ』って言ってくれました」
    「そういうことだったんだね。お父さん、すんなり了解してくれた感じ?」
    「......わかりません」
    「お父さんがどう思って『いいよ』って言ってくれたのか分からないってことだね。でも、本当かほりちゃん、凄いよ。かほりちゃんが勇気出してくれたこと。僕本当にすごいことだと思うよ」
    かほりの成長を心から嬉しく思う。
    かほりは照れからか、「そんなことないです」と謙遜して答えた。
     
    「それで......」
    私は少し声のトーンを抑えて二人の顔を見た。
    「私からはお父さんが話してくれた会話の中身までは勝手にお伝えすることはできないんですが、お父さんがここでカウンセリングを継続することを了解してくれたことをお二人と確認しておきたいと思います」
     
    私から父親との最初の面接は個別でお願いしたのだったが、もしかしたら内容は当然伝えられるものだと思っていたのかもしれない。母親の顔が一瞬残念そうに曇った。
     
    そこで私は言う。
    「ご夫婦の問題を抱えていらっしゃるので、気になるのは当然だと思います。でも、お母さんがここでご自身にしっかりと向き合っていただいているように、お父さんにもちゃんとご自身の課題に向き合ってもらえたらと思っています。その作業は個別の物ですので、ご了承ください」
    すると母親は、私の懸念を否定するでもなく、「わかりました」と返事をくれた。
     
    父親との面接についての話がひと段落したので、私から「今日お二人から話題にしたいことはありますか?」と聞いた。
    二人は目を見合わせてお互いに譲るような仕草をする。
    私が「どちらからでもどうぞ」と促すと先に母親が口を開いた。
     
    「あの......前から、私のこと、ここですごく聞いてもらっているの分かるんです。この前なんて、私の方がかほりに甘えちゃいました。それで、すごく心が軽くなって、でも......このままでいいのかなって言うか、心が軽くなった反面、情けないと言うか、申し訳ないと言うか......私のことが更にかほりの負担になって、学校に行きにくくならないかとか考えちゃいます」
     
    前回みたいな、深く重い告白をした後に、カウンセリングに対して抵抗感を持つことはよくある。それで以前かほりも来れなかったことがあった。しかし母親はその抵抗感をこのように来談して言葉で表明してくれている。長い時間と回数をかけて築いてきたラポールのお陰だ。
    そのことに感謝の気持ちを持って私は伝えた。
    「お母さん、今のお気持ちを素直に、そして正直にお話いただいていることに、深い敬意を感じます。そして、お母さんの心配なお気持ち、とても自然なことだと思います。あんなに大切なお話、ずっと心にしまっていて、ご自身ですら長いこと思い出すことがなかったお話をしていただいたんですから、それは不安になります。あんなこと話しちゃって良かったんだろうかって、心が揺らいで当たり前です」
    二人は真剣な顔で聞いてくれている。
    「ずっと閉じていた蓋です。心にかかる負担はものすごかったのかもしれません。でも、開けてくれた。そして、それを前回のリゾネイティングでかほりちゃんが一生懸命癒してくれたんです」
    そして私は今度はかほりの方を向いて伝えた。
    「お母さんが、あんな風に心の内を話してくれたのは、お母さんがかほりちゃんを一人前に認めている証拠です。そして、かほりちゃんもそんな風に認めてくれたお母さんに精一杯応えたいと思ってくれたと思います。前回、僕はかほりちゃんの勇気にすごく感動したんですよ。そしてその勇気はお母さんを助けるだけじゃなくて、お父さんも動かした。本当にかほりちゃんには何度も感動させられます」
    かほりは再び照れたように視線を伏せる。
    「でも......」
    私は、伝えるべきかどうか迷って一呼吸置いた。
    しかし伝えないといけない。
    「お母さん、お母さんの仰ること、一方でとてもお母さんの健全さを表していると思うんです。かほりちゃんに負担になって申し訳ないと思っていらっしゃる。かほりちゃんに甘え過ぎてはいけないって感じたんですね」
    二人は顔を上げて、私の方を見た。私の次の言葉を待っている様子だ。その表情には不安が少なからず感じられる。それに、一瞬たじろぎながらも私は続けた。
    「坂部家のご夫婦で抱えている葛藤は確かに小さくなさそうです。それをこの1年間かほりちゃんが力いっぱい訴えて、最近ではお母さんの傷を癒し、お父さんをカウンセリングに連れてきてくれました。もうかほりちゃんは十分ご両親のために頑張ってくれたと思うんです。だから......」
    私は少し言葉をためらったが、意を決すると力を込めて言った。
    「ご夫婦の問題、これからはご夫婦で解決していけるよう、かほりちゃんを少しずつでも解放してあげませんか」
     
    ◆自立への促し
     
    二人の絶句する顔を見るのは辛い。
    「えっと......どういう意味でしょうか」
    母親が戸惑いを隠さずに聞いた。
    「これまでご夫婦の問題にかほりちゃんが苦しんできました。それはお二人が問題にちゃんと向かい合わないで、まるでないもののようにしてきたからです。それをかほりちゃんがなんとかしたいって、全身で表現してくれたんです。でも、今、少しずつご夫婦で問題に向き合う準備ができてきていると思います。だから......かほりちゃんにそのことを伝えて、かほりちゃんは自分のためにエネルギーを使えるようにしてあげませんか」
    「そんな......」今度はかほりが口を開いた。「私は、別に負担だなんて思ってません。お父さんとお母さんが一生懸命私を育ててくれました。私はなんにもしていません。私の方が甘えてばっかりなんです」
    かほりの言葉には怒りとも取れる力を感じる。
     
    「かほりちゃん、本当に、本当にごめんなさい。僕がかほりちゃんにお母さんを助けようって言い出したんです。でもね、今のかほりちゃん、すごくランナーズハイ状態になってると思うの。本当に頑張ってくれてる。でも、かほりちゃんが気づいていないところで、凄く負担がかかっていると思うの。その負担の揺り返しは、必ず来ます。そのときにかほりちゃんがもっと傷つくのを僕は止めないといけないんです」
    しかしかほりは納得がいかない様子だ。
    「そんなの大丈夫です。私は全然平気です!」と反論する。
     
     
    「かほり......」
    それまで静かに座って私の話を聞いていた母親だったが、かほりの腕に静かに手を置くと、食い下がるかほりを制するように言った。
    「本当に......強くなったね」
    その表情は力なく微笑んでいる。
    その微笑みの意味をかほりは理解できないでいるのか、どう反応して良いか分からない様子だ。
    戸惑っているかほりを横目に、母親は、すぐに真剣な顔に戻り私の方に視線を向けた。
    「ありがとうございます。今、榊さんに言われて、私もスッキリしました。知らない内に、私たち夫婦がこの子に甘え過ぎていたんですね。これからは夫婦の問題は夫婦でしっかりと話し合って、」
    「お母さん!」
    「かほりには......自分の人生を生きさせてあげられるようにしたいと思います。そうできるように、これからもサポートしてもらえますか?」
    「お母さん、ご立派です。今の決意表明、確かに受け取りました。かほりちゃんが今まで全力で訴えてくれていた坂部さんご夫婦の問題、ちゃんと向き合って、本当に納得のいく落としどころを見つけられるよう、私も誠心誠意お手伝いさせてください」
    そして、私は隣で納得がいっていない表情のかほりに顔を向けた。
    「かほりちゃん、怒ってますね。もっと怒っていいですよ。ここで、私に向かってもっと怒ってください。もっと怒って......そして、この部屋を出る前に深呼吸して、出た後はリセットしていきましょう」
     
    「もういいです。お母さんがいいって言うなら、もういいです。でも、今度お父さんがお母さんに怒ったら、お父さんの目の前でリスカしてやります!」
    本気とも冗談とも取れる口調に反応に困ってしまう私だったが、そこは母親が言った。
    「そうならないように、お母さんも頑張るね」
     
    その後、残りの時間は三人で呼吸合わせをして、グラウンディングの時間を取った。胸式呼吸を意識しながら心のつながりを感じてもらうことで、かほりのやや過剰に優位に働いていそうな交感神経を鎮静化させることを狙ったグラウンディングだ。
     
    時間になり今後の見通しを話す中で、週末に会う約束をしている父親の話題になった。父親とのカウンセリングで夫婦の問題に向き合うことができるように父親に提案してみること、その過程で、今日のセッションで話した内容を父親に話すことの許可を得た。
     
    最後に料金をお支払いいただくときに、隣にいるかほりにむけて、「そう言えば、今日みたいなセッションすると喉渇くでしょ。血糖値も下がると思うし。お茶とクッキーよかったらどう?」と勧める。すると、かほりは、さっきまでの納得のいかない感じを表面的に抑え込んだのか、気持ちが切り替わっているのか、「ありがとうございます」と言って、マスクを下げ、お茶を飲みほした。
    私はクッキーを指し、「これも、よかったら帰りの車で食べてね」と伝える。するとかほりは皿の上からクッキーを手に取って母親の持っているカバンにしまった。
     
     
    二人を見送ると、いつものように記録に取りかかる。
    かほりが両親の仲を修復するという目的に向けて、躁的になっている。
    かほりはこれまでずっと両親の冷戦の中、エネルギーを削られてきた。それを仕方のないものとして受け入れ、ずっと耐えてきたのだ。ところが、私とのカウンセリングの中で、自分が頑張れば両親は変えられると思うようになった。それ自体は本当にかほりの成長だ。単に与えられた環境に耐えるだけでなく、自から環境を変えようという主体性が出てきたことには心から頭が下がる。
    しかし、両親に気づきを与えるだけで、かほりの役割としては十分だ。両親の不仲の責任はかほりが負うのではなく、両親に返さなくてはならない。かほりがエネルギーを使うべきは自分を癒し、自分の人生を進むためであり、両親のためであるべきではない。
    しかし、そのためには夫婦のセッションを入れるべきか、かほり、母親、父親個別で面接していくべきか......
     
    アセスメント
    ・かほりに主体性が出てきてたが、躁的な様子も見られる。一時的なものなのか、今後継続するのかは要注意。
    ・母親がかほりに対する親の責任を自覚し、自分たちで解決すると宣言したのは物凄い変化。
     
    方針
    ・かほりの主体性を尊重しつつ、両親の問題から切り離して、自分の人生に関心を持てるように援助する。
    ・両親に関しては夫婦ともに、お互いの関係の問題に向き合うことができるよう援助する。
    ・今後の面接構造について、3人に提案して改めて作り直す。父親の様子によっては夫婦面接は頭に置いておく。
     
    このように書きつつも、私にも迷いがある。今回の面接では特に、主導権を母親かかほりに取ってもらいたかったが、結局父親の面接についてや、かほりを問題から切り離すことについて、私が主導してしまった。本来カウンセリングの方針とはクライアントから出された物を根拠に考えないといけない。しかし、今回、私が主導してしまった結果が、かほりの憮然とした表情だ。母親の健全さに救われたセッションであったと感謝するとともに、つい出しゃばってしまう自分を自戒する。
    そして、更に、面接の中でのそれぞれの位置づけだ。これまでの記録には全て「父親」「母親」「かほり」と表記してきた。しかし今後夫婦関係を援助のターゲットにしていくとするならば......。
     
    私はアイスコーヒーの中に浮かぶ氷をグラスにぶつけるように少しグラスを揺すり、心地の良い音を楽しむと、苦みのある冷たい液体を自分の喉に流し込んだ。
     ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆大和魂
     
    20XX+1年 9月27日 隆志#2 オンライン面接
    お互いのパソコンが正常に機能し、カメラの向こうにいるお互いの映像を確認するのに一瞬のタイムラグがある。マイクから向こうの音声は聞こえるが、相手側のカメラがまだオンになっていないため、坂部父を映し出していない。少しの間、私は声掛けをせずに待つ。するとカメラがオンになり、前回と変わらない様子の父親を映しだした。
    おっと、違う。私は今後、父親、母親ではなく、隆志、とも子と頭の中で呼ぶことにしたことを思い出す。
     
    「こんにちは」
    私ができるだけ朗らかな口調で伝えると、それに応えて隆志も
    「こんにちは」
    と、こちらはややドライな印象を受ける声で挨拶をくれた。
     
    「前回から一週間経ちましたが、今日はご気分いかがですか?」
    という私の問いかけにも
    「特に変わりありません」
    とドライな返答が返ってくる。
    私は前回のとも子とかほりの合同面接のことを頭に置きつつ聞く。
    「その後、何かご家族で話されました?」
    「まぁ、妻とは特に会話ないですね。これまでも、口を開けば喧嘩になるようなところも確かにあるなって、前回反省したんですが、じゃ、喧嘩にならないようにって思うと本当に話せなくなるって言うか。思うところがあっても、言わなければ喧嘩にはならないのかもしれませんが、これって本当にいいんですかって思います」
    その口調からは、やはり納得のいかなさを感じる。
    「なるほど。ちょっと前回の面接を振り返りましょう。前回、かほりちゃんが小さいときに奥さんと言い合いになった場面が語られましたね」
    問題の場面について私から切り出した。
    「はい」
    「それが夫婦の亀裂を決定的にしたって」
    「そうでした」
    「つまり、もう10年以上亀裂の入ったままの状態で夫婦関係を続けてきていらっしゃるっていうこと」
    「そういうことになりますね」
     
    これまでの経緯を確認した上で私は掘り下げた。
    「ちょっとイメージしてみてください。今、坂部さんの目の前に壺があったとします。でも、その壺には真ん中に決定的な亀裂が走っています。ヒビよりも深い、真っ二つにするような亀裂です。その状態で壺が形を維持するだけでも困難なのに、本来の壺としての役割を果たすのがとっても難しいということが解ると思います」
    隆志は、この私の誘導にやや棘のある言い方で返す。
    「回りくどい言い方しなくても、分かります。夫婦関係が良くないから、かほりが不登校になったってことですよね」
     
    ―――下手に触ると刺されるような感覚だ。
     
    だが、棘を恐れてばかりいては、会話が上滑りして、核心から遠ざかってしまう。
    そのことを意識しつつ私は続けた。
    「まぁ、結果的にはそういう結論なんですが、その前段階のところで、なんで、壺は割れてしまわないのでしょうか。真ん中に真っ二つに引き裂くような亀裂が入っていたらそのまま割れてしまいそうですが」
    カウンセリングの中で、「なぜ」という問いかけは少なからず攻撃的なニュアンスが含まれてしまう。それに隆志も反応するように、やや憮然とした返事をする。
    「なんでそんな状態で別れないで一緒にいるのかってことですか」
    私は自分の言葉が父親を追い詰めないように、できるだけ感情を抑えることを意識しつつ聞く。
    「そういう選択を考えたことはあるんですか?」
    そうすると父親の返答もフラットになるのを感じる。
    「正直考えるだけなら何度も考えています」
    「離婚を考えることがある」
     
    「考えたことはありますが、実際にそのことを夫婦で話したことはないです。やはりこんなでもかほりにとっては両親がそろっていた方がいいのかなって」
    「それはお父さんがかほりちゃんのことを本当に愛していらっしゃるからそう思うんですね」
    「もちろん子どもはかわいいですよ。不登校は愛情不足なんて言う人もいますが、常識的な愛情はかけてきたつもりです......」
    かほりへの愛情について私が共感の態度を示したことで、隆志も柔らかい返事に変わってくる。しかしそれに続く言葉はやはり隆志の価値観が強く反映されていた。
    「でも、それよりも責任っていう言葉の方がしっくりくる気がします」
    「責任?」
    「子どもを作った親の責任もそうですし、妻と結婚した僕の責任もあります」
    「責任感の強い方なんですね」
    「自分の行動の責任を放棄することはできません」
     
    圧のある言葉と、ストイックな姿勢に隆志の生きてきた歴史を想像させられる。
    「もちろんそうなんですが、それをしっかりと遂行できない人がたくさんいます。坂部さん、立派だと思います。ただ、愛情って言うと能動的なイメージですが、責任って言うと、なにか義務を負わされている感じがしますね」
    「そう思いますね」
    とてもストレートで純直な人柄を感じつつ私は伝えた。
    「坂部さん、私が簡単に考えていると思わないでください。離婚なんて夫婦や家族にとってものすごく大きな決断なのに、それを無責任にお勧めしているわけじゃないんです。ただ、私は坂部さんご自身も、奥さんもかほりちゃんにも、幸せになってほしいって本気で思っています。そして、離婚を考えるくらい、その責任に苦しんでいらっしゃるのに、それを手放すことができない坂部さんのお気持ちに、ある種大和魂を感じています」
    「大和魂?なんでですか?」
    「日本人の気質です。どんなに苦しくても、忍耐強く粘り抜く。自らを省みないで、周りとの調和を優先する姿勢です」
    私の例えに隆志は苦笑いを見せる。
    「そんな大袈裟なものじゃないですよ」
    「でしたら......ちょっと想像してみましょう。坂部さんの幸せってなんですか?」
    隆志が少し驚いた表情を見せる。
    「なんでしょう......改まって聞かれると、パッと出てこないですが......」私の不意の問いかけに少し考えつつも、「人並みに働いて、仕事上がったら家で美味いビールを飲むくらいですかね」
    「随分つつましいんですね」
    「今更会社で出世してとか、望み薄ですしね」
    「なるほど、そういう夢も持っておられた?」
    「若いころはそういう時期もありました。でも、現実が見えてくると、そこまで思わなくなりますね」
    「なるほど。坂部さん、幸せになれますよ」
    「ハハ」
    隆志は渇いた笑いで応える。
     
    ◆不登校の意味
     
    そこに私は真剣な表情をとともに、低めの口調で言った。
    「いや、冗談じゃなくて、本気で言っています。奥さんが、坂部さんとの関係を修復したいって本気で思っていらっしゃいます。どうか、奥さんとの問題に、坂部さんも真剣に向き合っていただけませんか。多分、お二人だとなかなかそういう感じになれないで、ご苦労なさってきているんだと思います。そして、これはハッキリ言わせてください。その間を取り持とうとして、かほりちゃんがこれまでものすごく、それこそ、彼女の全てをかけて、頑張ってくれてたんです。でも、それは中学生の子どもに負わせるには責任が重すぎます。そして、それが上手くいかない自分をかほりちゃんは責めちゃうんです。それがかほりちゃんを苦しめています。かほりちゃんのエネルギー奪っています。でも、彼女は彼女の大和魂で、それを遂行しようとしてきました。今、坂部家に必要なことは、ご両親がちゃんとお二人の課題に向き合って、かほりちゃんをその責任から解放してあげることです」
    私の口調はここでも説得モードだ。
    「ん~、かほりに良くないっていうのは解りますが、かほりが僕たちの間を取り持とうとしたっていうのは、あまり実感がありません。毎日家で絵を描いているか、スマホ見てるかゲームしているだけですよ」
    「確かにかほりちゃんの行動はそうかもしれません。でも、彼女は不登校になりました。私たちカウンセラーは子どもが出す色々な症状は、子どもの切実なSOSであると捉えます。つまり、坂部さんも奥さんもいっぱい傷ついてらして、でも、誰にも助けを求められない。その代わりにかほりちゃんが全身でSOSを叫んでくれたんです。だから、結果として私がご夫婦の前に現れました」
    「随分こじつけに聞こえます」
    「でも、彼女が不登校にならなかったら、私は坂部さんご夫婦には会っていなかった。今この会話もかほりちゃんの不登校あったればこそです。仮にこじつけだったとしても、彼女の不登校を有益に意味づけてあげられたら、それはかほりちゃんにとって、救いになるはずです。もう一度言います。奥さんとの関係修復に向き合ってみませんか」
     
    「いや、僕はちゃんと話し合うことを拒否しているわけじゃないです。だから、こうしてカウンセリングを受けることも了承しました。今までだって何度も話し合おうとしてきましたよ。でも、僕が話すたびに妻が黙り込んでしまうか、逃げてしまうんです」
    「なるほど。坂部さんも努力していらしたんですね」
    「それはそうですね」
    「では、奥さんがちゃんと逃げないで話してくれれば、坂部さんも応えてくださるということですね」
    「はい」
    「それでしたら、私と奥さんと3人のセッションで話し合いができればと思うのですが、それはいかがですか?」
    「僕は構いませんよ」
    「ありがとうございます」
     
    これで夫婦合同のセッションを組むことができることに私は一歩進んだ手応えを得た。ただ、単に私立ち合いの下で夫婦と話合わせても、目の前でケンカが起こったときに、コントロール不能になるのは避けたい。
    そう思いつつ私は続けた。
     
    「ただその前に、坂部さんの奥さんに対する気持ちも今日の残りの時間で整理していければと思います。前回も話していましたが、坂部さん、奥さんに対して、いろいろ複雑な思いを持っていらっしゃいますね」
    「それはそうですね。繰り返しになりますが、僕は妻が家の中でイライラしていても、できるだけ我慢して過ごしてますし、死ぬ死ぬって言ったときも、できるだけ優しく話を聞いてやろうとしてきました。それなのに、妻は無視したり、逃げたり。時にはこちらの神経を逆なでするようなこと言ったりもしていました」
    「逆なで?」
    「僕が話を聞こうとしても、『あなたに話したってなにも解決しないでしょ』とか。そんなこと言われたら、どうしたって、勝手にしろっていう気持ちになりますよ」
    「それは今の奥さんですか?」
    「まぁ、最近はそこまでじゃないですが、かほりが赤ちゃんの頃は酷かったです」
     
    私は想像する。隆志は今のとも子を見ることができていないのだろう。とも子がどんなに努力して変わっても、そこには目をくれず、過去に自身が傷つけられた時のとも子をずっと責め続けているんだろう。
     
    「なるほど。最愛の人からそんなこと言われたら、傷つきますよね」
    「最愛の人......なんでしょう。最愛の人なんですかね」
    「しっくりこない?」
    「今更妻を愛しているかと聞かれたら、正直なところ分かりません」
    「今更っておっしゃいましたね。つまり以前は最愛の人だった。でも変わってしまった」
    「誰だってそうじゃないですか」
    「夫婦でぶつかり合って、傷ついて、愛情が失われていく?」
    「そうなんですかね」
    「仮にそうだとしたら、その傷つきを癒していければまた愛情は回復できますか」
    「どうなんでしょう。分かりません」
     
    やはりとも子の話をするとき、少なからず隆志の交感神経が優位になるのを感じる。
    それを落ち着かせるため、私は安全な記憶を呼び覚ますところから入る。
    「まずは前回話していた温泉のイメージを思い出してください」
    「あ、はい」
    「できれば、目を閉じていただいて、そのときの映像を頭の中に思い浮かべてください」
    隆志は自然と目を閉じた。
    「ゆったりと深呼吸して......」
    私は意識的にややゆっくりとした口調の低めの声で誘導する。もちろん自分自身、リラックス呼吸も忘れない。
    「温泉の硫黄の匂い、ヌルヌルする泉質、青く光るからだ、そしてコーヒー牛乳......思い出せますか」
    「はい」
    「温泉......季節はいつだったんですか?」
    「冬だったと思います」
    「北海道で冬でしたら、露天風呂なんか、雪景色に包まれてたりするんですか?」
    「そうでした。周りには雪が降っていました」
    「その映像をよく思い出していきましょう。綺麗な雪景色に包まれて、でも、温泉がぽかぽかとあったかくて」
    隆志の呼吸を観察し、リラックスが少しずつ深まっていくのを確認しながら、私はつづけた。
    「今、坂部さんは安全です。その光景を思い浮かべながら、自分が安全な場所にいるということをしっかりと確認していきましょう」
    「はい」
    「いいですね、いいですね」
    隆志は目を閉じて私の教示を聞いている。
    「ゆったりとその安全な感覚に浸って......そこから少しずつ少しずつ、奥さんとの問題に近づいていきましょう」
    目を閉じている隆志の眉間に若干の皺がよるのをPCのカメラ越しでも私は見逃さなかった。
    「そして、すぐに温泉に戻ります」
    隆志は目を閉じたままだ。
    「まるで、温泉から一瞬だけ上がって、雪に触りに行く感じです。ちょっとでも冷たいと思ったら、すぐにあったかい温泉に帰りましょう。そして十分にあったまって......」
    一呼吸置いてから私はつづけた。
    「もう一度、奥さんの言葉に少し近づきます。なんて言われたんでしたっけ」
    「あなたに話しても何も解決しない」
    「はい、すぐにまた温泉に戻ります。そして、あったかい温泉で雪の冷たい感覚を温めます」
    「今はどんな感じですか」
    「特に、大丈夫です」
    「いいですねいいですね」
    「そんなに何度も行き戻りしなくても大丈夫ですよ。妻とのことで話を進めてもらってもかまいません」
    しかし私は、
    「今していることの目的は、坂部さんが奥さんとの問題に向き合うにあたって、坂部さんの感情の起伏をできるだけ小さくすることです。ゆったりと落ち着いて、冷静な状態で、奥さんの言葉を吟味していただきたいと思っています。スーパーサイヤ人にならないように」
    と促す。
    「わかりました。でも、本当に大丈夫です」
    やはり早く進めたいらしい。
    「では、もう一度、少しずつ奥さんの言葉に近づいていきましょう」
    「はい」
    「いつでも温泉に入れますからね」
    「はい」
    「奥さんに『あなたに話しても何も解決しない』と言われた」
    また眉間に少し皺が寄る
    「どんな気持ちですか」
    「今は冷静ですが、そのときは腹が立ちましたね」
    「腹が立った」
    「はい」
    「その時の腹が立った感覚。坂部さん、今は冷静に見つめられそうですか。大丈夫ですか」
    「大丈夫です」
     
    ◆隆志の回想
     
    「では、あったかい温泉につかって、その中から、奥さんの言葉を咀嚼していきましょう。あったかい温泉で体をリラックスさせながら......その怒りをよく見ていきましょう」
    怒りの感情を引き起こした状況を、リラックスした気持ちで回顧する。そうすることで、その状況を冷静に評価できるようになる。
    私は隆志の様子をよく観察しながら、私は次の段階に入るための言葉をつなぐ。
    「坂部さん、その種の怒り、坂部さんの人生の中で、何度か味わっているんじゃないかと思います」
    「どういうことですか?」
    「その時の腹立ちと似たような怒りを覚えた別の場面って、何か思い出せますか?」
    「え、腹が立ったことなんていっぱいありますよ。出張から帰ってきても、僕が出かけたときにキッチンの流しに置いてあった洗い物が手を付けられずに残ってた時とか」
    「なるほど、そんなこともあったんですね。それは最近のことですか?」
    「いや、2年前くらいですかね」
    「できれば、坂部さんが思い出せる一番古い記憶に立ち返ってもらうことはできますか?『あなたに話しても何も解決しない』って言われたときに感じた怒りと似たような気持ちになった一番古い記憶です」
    「え~、なんでしょう。多分いっぱいあると思うんですが......」
    目を閉じたまま、隆志は自身の記憶を遡ろうとする。その隆志の努力に敬意を感じつつ、私は深い呼吸をしながら見守った。
    少しの間を置いた後に、隆志は語りだした。
    「今思い出すのは、そう中学受験の時ですかね」
    「何がありましたか?」
    「僕、二つ上に兄がいるんですが、兄が行ってた中学に僕も行こうと思って受験したんですが、僕落ちちゃったんですよね。そのときに、兄が『お前馬鹿だな』って。今考えても酷いですよね。人が落ち込んでいるところに追い打ちをかけると言うか」
    「なるほど、それで腹が立った」
    「はい」
    「そのときの感情よく味わっていきましょう。いつでも温泉に入れる準備をしながら」
    「なんですかね。すごく悲しかったんですよね。親の期待を裏切ってしまったと言うか」
    「結構教育熱心なご家庭だったんですか?」
    「いや、そういうわけではないと思うんですが、母親はすごく優しかったですし。でも、父親が高卒なんで、子どもには学歴をつけさせたいっていう気持ちがあったの、今思えば理解できますが、それでかな。プレッシャーに感じてたんだと思います。それで、そう、腹が立ったっていうのとズレちゃいますが、親父の期待を裏切ってしまったっていう感じで途方に暮れていたと言うか。そこに追い打ちをかけられたから腹が立ったのかもしれません」
    「なるほど。つまり腹が立ったっていう気持ちの裏には悲しみがあったんですね」
    「そうかもしれません。そうするとさっき言ってた妻に腹が立ったっていうのと話がズレちゃいますね」
    「ズレちゃいますか?」
    「そんなことないですか?」
    「今回は奥さんの『あなたに話しても仕方がない』でしたっけ」
    「『何も解決しない』ですね」
    「そうそう。『あなたに話しても何も解決しない』という言葉を起点に感情を遡っています。なので、何らかの関係性があるんだと思います」
    「そうなんですか」
    隆志は思い思い当たる感覚がない様子だ。
    私は掘り下げる。
    「奥さんへの怒りの裏にも、もしかしたら何らかの悲しみがあったのかもしれません。もう少しそのときの状況をよく探っていきましょう。お兄さんに『お前馬鹿だな』って言われて、腹が立って、それからどうなったんですか?」
    「うろ覚えですが、多分、兄に言い返すこともできなくて、呆然としてたんですよね。そしたら、母が来て慰めてくれたのかな。って、それだけの話なんですけどね」
    「さっきもお母さんは優しかったって言っていましたね。そのお母さんが、落ち込んでる隆志少年のところに来て、慰めてくれたんですね。それからどうなりました?」
    「いや、ホントそれで終わりです」
    「なるほど、ではこの話の中から、坂部さんの奥さんに感じている怒りの根源を探っていきましょう」
    「そんなの分かるんですか?」
    「登場人物は坂部さんの原家族4人です。お兄さん、お父さん、お母さん、そして隆志少年」
    「はい」
    「まずそれぞれの人物像を整理しましょう。お兄さんは、自分が落ちた学校に受かってて、マウント取ってくる感じだったんですかね」
    「そうですね。その時以外にも、なんだかんだ、上から言ってくると言うか、そういう感じでした。まぁ、今では普通に仲いいですけどね。お互いに家庭を持っていますが、たまに一緒に飲んだりもします」
    「あ、そうなんですね。子どものころと関係が変わった感じなんですね」
    「お互いに大人になりましたからね」
    「なるほど。次にお父さんです。高卒で、隆志少年に学歴をつけさせたいと思ってプレッシャーをかける人だった」
    「具体的にプレッシャーをかけるって程、何か言ってきてたわけじゃないですが、でも、大学に行かせたい思いは強い人でしたね。なんか、今時当たり前なのに、未だに、俺は二人の息子を大学まで行かせたんだって誰かに自慢したりする恥ずかしい親父です」
    「なるほど。よっぽど二人の息子さんを誇らしく思ってらっしゃるんですね」
    「二人ともそんなにすごい大学入ったわけじゃないんですけどね」
    「うんうん。そして、最後に、お母さんですね。優しくて、落ち込んでる隆志少年を慰めてくれる人だったわけですね」
    「母はできた人と言うか、家は自営だったんですが、親父よりも、お袋の方が働いてたイメージです。まじめで優しくて。今でもかほりのこと、すごく気にかけてくれていますし」
    「お近くなんですか?」
    「ですね」
    そう言えば、以前、かほりが時々お祖母ちゃんの家に行くという話をしていたことを思い出した。あれは父方の実家だったのかなと頭の片隅で思う。
    「では、今挙げた3人の中で、誰に怒りを感じますか?」
    「その中でと言えばやっぱり兄ですが、今その怒りを思い出せって言われても、今は何も感じません。あの時腹が立ったっていう話なので」
    「もう一度、その場面を詳細に見ていきましょう。詳しくお話いただけますか?」
    促しに応えて、隆志が話し出した。
    「受験の発表があって、当時は今みたいにネット発表なんてなかったから、その学校まで発表を見に行くんですね。親父と二人で見に行って、『あぁ、駄目だった』ってなって。帰り道はなんか申し訳ない気持ちでしたね。親父も多分、なんて声掛けして良いか分からなかったんだと思うんですが、ずっと無言で。別に僕はどうしてもその学校に行きたかったわけじゃないんですが、それでも、親父の期待は感じていましたから。で、なんか、いたたまれない感じでした」
    私は相槌を打ちつつ、隆志の語りを促した。
    「それで、家に帰ったら、兄も母もいて。それで、どのタイミングだったのかなぁ。兄に『お前馬鹿だな』って言われたんです。そのとき、母がすごく怒ってくれました。で、『隆志は馬鹿じゃないよ』って言ってくれるんですが、本当に僕に気遣ってくれて、それがやっぱり申し訳ない気持ちになりました」
    「自分が悪いと思ってしまった?」
    「そうかもしれません。あ、なんとなく解ってきました。さっき兄に一番怒りを感じるって言いましたが、違いますね。自分です。今思い出しても、兄に対しては怒りは感じませんが、そんな空気を作ってしまった自分に腹が立ってたんですね」
    「ご自身に対して腹が立っていた......罪悪感?」
    「そうですね」
    私は隆志から出てきた言葉を拾いながら、考察を巡らせる。
    父親からの期待......。
    申し訳ない気持ち......。
    責任......。
    大分私の中でストーリーが組み上がってきた。
    そこで私は更に聞いた。
    「今もその罪悪感がご自身の生活に影響してそうな感じがありますか?」
    隆志は首をかしげるように言った。
    「どうなんでしょう。中学は結局公立に行きましたが、そこで、友達にも恵まれたし、結局大学はそこそこのところには入れましたから。そんなにその時の罪悪感を抱えて生きているわけじゃないですよ」
    隆志は一旦はその影響を否定するも、思い出したように続けた。
    「あ、でも、やっぱり私立落ちちゃって悔しかったから、巻き返そうと思って勉強は頑張りましたね。そういう意味ではあの罪悪感が、僕を奮い立たせてくれたのはあると思います」
    やはり、そういうことか。
    私の中で合点がいった。
     
    ◆大丈夫だ
     
    「罪悪感を刺激されて、それを発奮材料にされたわけですね。素晴らしいです」
    「いえ、まぁ、どうなんでしょうか」
    褒められて、照れたように、隆志はお茶を濁すような返答だ。
    「坂部さん、期待されるとすごく頑張っちゃうタイプなんですね」
    「まぁ、そのときの経験でそうなったんですかね」
    私はこれまでの話をまとめるように言う。
    「隆志少年は期待に応えるために頑張る。そしてそれに応えられないと、自分を責めてしまう。そしてそれを反骨精神で更に頑張るタイプなんですね」
    隆志は静かに聞いている。
    「とてもストイックです。そして、ご家族に対する責任もきっちり果たしておられる。そんなストイックさがあるからこそ、ご自身が期待に応えられないとご自身に腹が立ちます」
    隆志は無反応なままだ。
    「そして、『あなたに話しても何も解決しない』って言われたとき、奥さんに『あなたは私の期待に応えられない』って通告された気持ちがしたんじゃないでしょうか」
    私は問いかけるように言う......が、やはり無反応だ。
    私はその意味を測りかねる感じで聞く。
    「今のストーリー、どう思われますか?」
    「いえ、何もないです」
    「何もない?」
    「言われてみればその通りなのかなって感じです」
    つまり、反論する部分はないということか。
    「ごめんなさい。今、私、理屈に走っちゃっていますね。坂部さん、納得しきれない感じですか」
    「いえ。納得はしました」
    納得「は」......隆志の反応に私が戸惑っていると、隆志が言う。
    「ただ、理屈は分かるんですが、だからと言ってどうしていいかって言うのが見えてこないと言うか」
    なるほど、そういうことか。確かに理屈を突き付けても、そこに解決がなければ、その理屈には何の意味もない。
    そこで、私は言った。
    「もう一度聞きます。今思い返して、お兄さんのマウント、お父さんの圧、そして、お母さんの慰め。今の坂部さんに一番影響していそうなのはどれでしょうか」
    「影響?どれもあると言えばあるし、ないと言えばない気がします」
    私はここで、少し互いを落ち着かせる意味で、大きめの深呼吸をした。
    そして、ゆっくりとした口調で伝えた。
    「落ち着いて私のストーリーを聞いてください。期待を裏切ってしまって、家族全体をいたたまれない気持ちにしてしまったんですね」
    「はい」
    隆志は私がこれから何を言うのかということに多少なりとも身構えている様子だ。
    「その気持ちはどうやって救われたんでしたか?」
    「さっきの登場人物で言うと、母親が慰めてくれたってことでしたよね」
    「今考えてもそう思いますか?」
    「まぁ、そうだったのかなって思います」
    「もう一度、お母さんに慰めてもらった場面を思い出してみてください」
    「なんろう。ショックを受けてたら、『隆志は馬鹿じゃないよ』って言ってくれて、すごく一生懸命に慰めようとしてくれました」
    「そうでしたね。どんな気持ちでしたか?」
    「その時は、それが余計に申し訳ない気がしました」
    「よく思い出してみましょう。お父さんの期待に応えられないで落ち込んでいた隆志少年。お兄さんに追い打ちをかけられた隆志少年。とってもいたたまれない気持ちでした。そこに『隆志は馬鹿じゃないよ』って、今、お母さんが言ってくれています。そして、お兄さんに真剣に怒ってくれています」
    隆志は黙って聞いている。
    「お母さんの表情、声、口調......思い浮かべてください」
    「ありがたいですね」
    隆志はつぶやいた。
    「お母さん、どんな気持ちだったと思いますか?」
    「『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って感じですかね」
    「そのときのお母さんの気持ち、よく、浸っていきましょう」
    そう言って私は少し間を取った。
    「そう言ってもらったとすると、今はどう思いますか?」
    「そうですね。その通りだって思います」
    「うんうん」
    私は目を閉じている隆志に聞こえるように同意を言葉で伝えつつ更につづけた。
    「では、奥さんに『あなたに話しても何も解決しない』って言われて、落ち込んでいる、昔の坂部さんに、今の坂部さんご自身が『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って言ってあげられますか?」
    今度はここで、隆志がしばらく間を取った。
    無表情ではあるが、深く呼吸してその場面に思いを巡らしている様子が伝わってくる。
    時間にすると30秒ほどだろうか。
    沈黙の後、隆志は首を深く頷かせて、
    「大丈夫です」
    と、ゆっくり噛みしめるように言った。
     
    「坂部さん、今日もとっても頑張って取り組んでいただいてありがとうございます」
    私はできるだけ優しい笑顔を作り、ねぎらいの言葉を伝えた。
    隆志も目を開き、自然な笑顔を作って応える。
    「では、温泉に戻りましょう。隆志少年が子どものころに連れて行ってもらって、平和を感じた、雪景色の温泉に」
    私の誘導に従って隆志は再び目を閉じた。表情からは多少なりとも穏やかさを感じる。
     
    十分な時間を取った後、目を開けた隆志に、私は振り返りを促した。
    「伺っていると、お母さんが坂部さんのご実家でバランサーになってくれていたみたいですね」
    「そうでした。すごく気遣いできる人で、今は僕の話をしていますが、兄に対しても、親父に対しても、優しいし、怒るときは怒るんですが、愛があるんですよね。だから、みんな母を頼ってた部分は確かにあります」
    「今日奥さんに向けられていた怒りがご自身に対する怒りであったことに気づきました。そしてそんな昔の隆志さんに、『大丈夫だ』って伝えることができました。今、『あなたに話しても何も解決しない』っていう言葉を思い出して、どうですか?」
    「そうですね。完全に自分が悪いとか思うわけじゃないですし、まだまだ妻に腹が立つ気持ちがないわけではないですが、冷静に話し合おうっていう気持ちにはなれます」
    「それが大事だと思います。今日奥さんに向けた気持ちを整理して、その上で今度は奥さんも一緒にカウンセリングの場で話し合いましょう」
    私からの誘いに隆志は落ち着いた口調で答える。
    「わかりました」
     
    こうして二回目の隆志との面接が終えると、夫婦合同面接の了承を取れたこと、隆志のとも子に対する怒りの背景にあった、隆志自身の傷つきを確認したことなどを記録にまとめる。
    アセスメント
    ・隆志のストイックな性格の背景には反骨精神があり、それが自身にも他者に対しても攻撃性に転化する傾向がある。
    ・自身の母親を理想化しているところがあり、それがとも子に対する期待となり、その期待に応えないとも子を攻撃するという構図も見て取れる。
    ・自身に期待に応えられなくても大丈夫だというメッセージを送ることで、罪悪感から解放される感覚を促し、自己受容を進める一歩となることを期待。
    方針
    ・次回夫婦合同面接をする。
     
    「合同面接......」
    私は独り言をつぶやきつつ、記録アプリの保存ボタンを押した。
    ―――――――――――――――――――――――
    ◆面接構造
     
    それからしばらく私はメールチェックするたびに、ソワソワする気持ちにさせられる日が続いた。
    前回、隆志とのカウンセリングの終わり際の話し合いで、次回の約束をするときに、隆志ととも子の予定を合わせて、また予約を入れてくれるよう確認した。本来は10月10日に次回のとも子とかほりの予約が入っているが、それをどうするのかも含めて夫婦で話し合うとのことだ。
    つまり、普段会話のない隆志ととも子が、私のいないところで今後のカウンセリングについて夫婦で話し合って決めるというのだ。
    どうなるんだろうか......
    今の二人の様子なら、そこで喧嘩になることはないのではないかと期待する。
    が、確証はない。
     
    そんなことを気にかけながらも、日々の業務はあり、坂部家以外にも、それなりに重いケースをこなし、気づけば10月5日だ。日曜日であったが、私は、朝から夕方まで虐待対応関連の研修を受けて、余りの濃い内容にぐったりとしながらも、研修の内容に満足感をもって帰宅した。
     
    家族は私の帰宅を待たずに既に夕食を済ませており、リビングで思い思いに過ごしている。私の「ただいま~」の一言に、末の娘が元気に「おかえり~」と飛びついてくる。それを横目に見た妻と長女も、「おかえり」と一言くれた。
    妻がハンバーグを主菜とした夕食を私のために残しておいてくれたことに、まずは感謝する。「いや、今日の研修、すごい濃かった~」などと言いながら、そのハンバーグをレンジで温め、白ご飯をお椀によそう。妻は「そういう研修いいよね。よかったね」と自分の仕事の手を止めて、私の相手をしてくれる。そんな他愛ないやり取りをしつつ、別で温めた味噌汁と一緒にテーブルに並べ、準備が完了すると私は椅子につく。「いただきます」と言って、私はそれらを頬張りつつ、スマホを使ってメールチェックを始めた。
    朝忙しくてメールチェックする暇がなかった。返信を要するメールは......
     
    相変わらず広告メールが多い。が、その中にも、いくつか大事なメールが混ざっている。ひとつは新規の相談の問い合わせがあった。そして契約しているHP運営会社からの料金の支払い請求メール。そして......とも子からのメールだ。
     
    「form: Sakabe Tomoko subject: 今後のカウンセリングについて」
    受信日時は20XX+1年10月4日 23:22になっている。
    昨日の遅い時間にメールをくれていたようだ。
    返信に1日待たせてしまったことになる。申し訳なさを感じつつ本文を開く。
    「いつもお世話になっております。坂部とも子です。
    主人へのカウンセリング、ありがとうございます。
    今度のカウンセリングは私と主人と一緒にすることになると聞きましたが、その場合、かほりはどうしたらいいですか?
    できればかほりにも今後もカウンセリングを受けさせたいのですが、夫婦で伺ってかほりもお願いするとなると、どういう段取りでしたらよろしいでしょうか。
    お返事ください」
     
    私はあわてて返信メールを考える。
     
    ―――さて、どうしたものか。
     
    誰がいつどこで誰とカウンセリングをするのかという物理的なセッティングを面接構造と呼ぶ。構造をどう組み立てるかはカウンセリングを安全に行う上で重要な要素のひとつだ。そして、それは、クライアントの気持ちを最優先して、組み立て、カウンセラーとクライアントの間の約束事として共有されなくてはならない。
    だからこそ、とも子が聞いてきたことに誠実に答える必要がある。
    今、一番優先されるべきは......。
     
    しばらく考えた末、私は返信を書き始めた。
    そして、書き上がるころには、レンジで温めたハンバーグがまた冷たくなっていた。
     
    ◆目標喪失
     
    少しずつ日が短くなってきて、夕方になると少し涼しく感じる。空は限りなく高い。秋晴れの清々しさを感じながら私は、相談室の駐車場を掃除していた。
    掃除と言ってもホウキやチリトリを使った、いわゆる掃き掃除ではなく、雑草抜きがメインだ。夏の間はこまめにしないとすぐに生えてくるが、残暑があるとは言え、もう季節は秋に移ったところだ。そんなに頻繁な雑草抜きは必要ない。今回が終われば、もう次の春まではしないでいいかもしれない。そう思いながら駐車場にいたところ、黒いワンボックスカーが入ってきた。
    それに気づき、私は慌てて時計を見る。17時に差し掛かるところだ。早々に掃除を終わらせて、相談室内の準備をするつもりであったが、つい時間を忘れて雑草を抜いていた。
    私は手に持っていた雑草を目立たないところに置き、あたかも駐車場まで出迎えたような素振りで車から客が降りてくるのを待った。
    そんな私の胸の内は当然知る由もないだろう。ワンボックスカーの後部座席の扉が開いて降りてきたのは、セーラー服に身を包んだかほりだ。
     
    「こんにちは」私が挨拶をすると、「こんにちは」とかほりも返してくれる。運転席の窓が開き「じゃ、お願いしますね」ととも子だ。
    私は笑顔を作って会釈をすると、とも子はそのまま車で駐車場から出て行った。
    それを見送り、残されたかほりを連れ立って相談室の中に移動した。
     
    20XX+1年10月9日 かほり #20 個別面接
    「今日は一人で良かった?」
    茶菓子をかほりの前にセットしながら私が聞く。
     
    「はい。お母さんにそう聞きました」
    「えっと、お母さんに言われたってことですか?確かに、僕から今後のかほりちゃんとのカウンセリングはお母さんと別にしたらどうかなって提案しました。でも、かほりちゃんの気持ちを大事にしたいと思っています。一人で良かったですか?」
    私はもう一度同じことを聞いた。
    夫婦の問題からかほりを切り離し、かほりが自分のために動けるようになってもらうための提案であったが、かほりの意向を聞いて決めてくださいととも子には伝えてあった。
    それについてかほりはすぐには答えない。
    両親の問題から自分が切り離されたことをまだ怒っているのかもしれないと思い、かほりの様子を伺った。
    「私は......どうしたいかわからないです。ここで何をしたいかも」
    やはり目標喪失は大きいのか。
    そんなかほりの様子を見ていると、かほりを母親から切り離す判断が正しかったのか、私も揺さぶられる。
    「何をしたいか分からない......僕はかほりちゃんがここで自由に過ごしてもらえるといいと思っているのね。ここはかほりちゃんにとって、何も気兼ねしないで良い自由な空間。窓から指す木漏れ日と、お茶菓子がかほりちゃんを歓迎しています。そこでゆったりとくつろいで、かほりちゃんの心を真っ白にしていけるといいと思っています。たとえば......かほりちゃん、絵を描くのが好きだって前々から聞いていますが......もしよければ、ここで絵を描いて過ごしませんか。かほりちゃんがどんな絵を描くのか、僕も見てみたいです」
    伝えていることに他意はない。しかしやはり私の中に負い目があるため、この説明もどこか取り繕っている感じを醸し出してしまっていたかもしれない。
    そんな私の自省を感じ取ってか否かは分からない。
    「何ももってきてません」
    とかほり。
    「普通のコピー用紙もあれば、画用紙もある。鉛筆以外に、クレパス、色鉛筆、水彩の用意はあります」
    そう勧めると、
    「じゃ、コピー用紙と鉛筆ください」
    と言ってかほりは私の提案を受け入れることを伝えてくれた。
     
    かほりが絵を描き始めると、私は務めてリラックス呼吸をしながらかほりの運筆を見つめていた。物の数分の間に大まかな輪郭を仕上げると、そこから細部に手を入れていく。鉛筆の動きや消しゴムの使い方はスムーズで、その様子からは描き慣れているのが伝わってくる。
    そうして描き上がったのは以前にとも子が見せてくれたような傷ついた女の子ではなく、勇ましい男の子のキャラクターだ。
    「これは何かのキャラなんですか?」
    私が聞くと、かほりが好きなゲームのキャラクターの二次創作だそうだ。
    更に見ていると、それだけでなく、可愛く微笑む女の子、動物キャラクターを書き足す。出来上がったのは、3人のキャラクターにそれぞれのストーリーを感じさせるような、それでいてお互いが自然と収まっているような絵だった。
    「漫画の表紙に使えそうだね」と私が言うと、かほりはマスク越しにはにかんだように見えた。
    実際、その完成度は素人の私的には極めて高いもののように見えた。
    そのクオリティに感嘆の意を示しつつ、更に描きこんでいるかほりを私はただ見つめていた。
     
     
    かほりを送り出した後、私は、飲み残しのお茶と空になったクッキーの包装フィルムを片付け、記録を描くためにパソコンを立ち上げる。
    今回はかほりに自由で楽な関係を体験してもらうのが狙いのセッションとなった。
    カウンセリングでは言語を介した困りごとの相談は実はひとつの形態に過ぎない。その狙いはあくまでも、心の回復だ。今回のように、気兼ねない関係の中で、自分の好きなことに没頭するのは、それだけで心をスッキリさせてくれる。
    そしてその自由な雰囲気の中で描きあげられた3体のキャラクター。勇ましい少年と優しく微笑む少女、元気そうな動物キャラ。坂部家の3人を象徴していると解釈するのは早計だろうか。
     
    アセスメント
    ・両親の問題から切り離されたことに対しては、やはりスッキリしない思いを抱えている様子。
    ・一方で、創作活動に取り組み、自由な時間を過ごせたことは、新しい展開を予想させる。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆夫婦合同面接
     
    週が明けて、次の木曜日―――16日。
    私は朝から自分が落ち着かない気持ちでいるのを自覚していた。
    夕方には坂部家の夫婦合同面接を控えている。
    隆志が仕事を調整して、平日にもかかわらず、とも子と二人で来談する意向を示してくれていた。
     
    これまで2回zoom上で面談したが、実際に彼と会うのは今回が初めてだ。
    隆志には、カウンセリングに対しての反応がやや分かりづらいという印象がある。しかし思えば、2回目の面接を翌週に入れてくれたり、今回も仕事をちゃんと調整してくれている。もしかしたら思いのほかカウンセリングに対するモチベーションが高いのかもしれない。
    そう感じても尚、私がこのように落ち着かない気持ちになっているのは、その分、結果で応えないといけないというプレッシャーから来ていることを改めて自覚する。
     
    プレッシャー......、圧力......、
     
    私はそっと目を閉じて、自分の心にかかっている圧をイメージする。
    わずかに息苦しい感じ、腹が重い感じ......食道がヒリヒリする感じ。
    深くゆっくりと呼吸を繰り返しながら、その感覚にしばらく身を浸す。
     
    「よし、大丈夫だ」
     
    そっと目を開け、時計を見ると、もうすぐ17時になろうとしていた。
     
     
    20XX+1年 10月16日  とも子#14 隆志#3
     
    「こうしてお二人と一緒にお会いするのは初めてですね」
    二人の前に茶菓子を用意し私は話しかけた。
    「あ、お茶出してくれるんですね」
    隆志が少し顔を綻ばせて言う。これまでオンラインではなかったサービスであるが、とも子やかほりからもそのことは伝わっていなかったらしい。
    「近所のスーパーで買ってきた安物ですが、すみません」
    と私も笑顔で返しつつ、面接机を挟んだ位置に二人に正対して腰を下ろした。
     
    「隆志さんがカウンセリングへの呼びかけに答えていただいてから少し段階を踏みましたが、今日ようやくこの形を迎えられたことを私はとても尊いことだと思っています。お二人の誠実な頑張りに心からの敬意をお伝えしたいと思います。隆志さんについてはお仕事も調整いただいたんですよね。とも子さんも大きな決意の下に今日来ていただいていると思います。本当にありがとうございます」
    私は思いつく限りの歓迎の言葉を伝えたつもりだが、やや語彙に乏しいかと自嘲する。
    「なんだか改めてそう言われると緊張しますね。実は今日は僕は会社から直行してきたんです。妻に駅で拾ってもらって来ました」と隆志。
    「そうだったんですね。お忙しい中お越しいただいたんですね。ありがとうございます」
    それに対して小さく頷く隆志の横で、とも子は表情を硬くしている。前回の決意表明から4週間、同じ家で隆志とかほりとどんな時間を過ごしていたのだろうか。様々な思いがあるであろうことに私も思考を巡らせる。
    思えば私が先ほどまで感じていたプレッシャー、その何倍もの物をとも子は感じていたのかもしれない。
     
    「まずは今日の場がどういう場かを確認させてください。これまでお二人に説明してきたことでもありますので、重複する部分もありますがご了承ください」
    そう前置いてから私は伝えるべきことを伝えた。
     
    「私は今日この場はかほりちゃんが作ってくれた場だと思っています。かほりちゃんの、お二人に楽しく過ごしてほしい。幸せになってほしい。そういう気持ちがこの場を作ってくれました」
    二人は真剣な表情で聞いてくれている。
    「隆志さんも平和を望んでいらっしゃるし、とも子さんも隆志さんとの関係をうまくしたいと思っていらっしゃる。その思いから、お二人がかほりちゃんに応えてくださいました。本当にありがとうございます。そしてお三方の思いを実現するために、今日の面接の中で、お二人がお互いの気持ちをより深く理解するように務めること。その過程で、お互いをできるだけ責めないこと、冷静に話し合うことを約束していただけますでしょうか」
    この場にいる3人、誰にとってもこの場は安全な場であるという確認である。
    それに対して、「わかりました」と隆志が言えば、「はい」ととも子も返事をした。
     
    「ありがとうございます。それではまずは隆志さんは初めてですが、よくここでしています、呼吸合わせから始めさせてください」
    これは、できるだけ呼吸を調律することで、互いの自律神経の波長を合わせることを狙いとしている。感情を安定化させ冷静な話し合いをしていくために、私が大切に思っている作業だ。
    かほりが初めてここに来た時にした説明と同じように隆志にも説明し、私は手を上下に動かして呼吸を始めた。
    時計を見ながら、二人の呼吸を1分間主導する。呼吸を導きながら「深い呼吸とともに、肩の力も首の力も抜いて、リラックスしていきましょう」と声をかける。
    それが終わると、次の1分は隆志に、そして次はとも子にと、主導権を渡していく。そして最後にもう一度私が1分間呼吸を導いた。
     
    ◆夫婦の歴史
     
    「ご協力いただいてありがとうございます。それでは、本題に入っていきたいと思いますが、私はお二人のこと、伺ってないことまだまだたくさんあります。もし良ければお話できる範囲で構いませんので、お二人の馴れ初めからお話くださいますか?」
     
    二人には二人が結婚に至った歴史がある。私の促しには、それを私が理解するためという意図ももちろんあるが、それ以上に、二人に、その歴史を振り返ってもらうことに重きを置いている。呼吸を落ち着けた冷静な状態で自身の気持ちや、二人の関係の移り変わりを再体験してもらうのだ。
     
    隆志が語りだした。
     
    「初めて妻に会ったのは僕が会社に入って3年目のころでした。会社の営業所が妻の店の前にあったんです。妻の店は食品の販売会社ですが、当時そこでランチサービスしてて。それで、僕が昼にそこに入ったのが始まりでした」
    隆志の語りをとも子は黙って聞いている。
    「最初、僕からアプローチしたんですよ。初めての時は普通にそこで食事しただけでしたが、昔の話ですが、当時僕がとも子を気に入って」
     
    昔の話......単に照れを誤魔化すために言っているのか。それとも今は違うという意味を含ませているのか。
     
    「それで、まぁ、昼飯で通うようになったんですね。で、しばらく通って顔も覚えてもらった頃に、僕からとも子に携帯番号を渡しました。接客してくれている中で、こそッと、『良かったら連絡して』って。結構、いや、かなり勇気要りましたね。僕、そんなタイプじゃないですから。そしたら、割りとすぐでしたね。その日の内にとも子が連絡をくれました」
     
    「すごいですねぇ。隆志さん、とも子さんの第一印象ってどんな感じだったんですか?」
    「そうですね。可愛いって思いました」
    「うんうん。それで返事来たら、めっちゃ嬉しかったですよね」
    「当時は、そうですね」
    「とも子さんは、どうですか?どんな第一印象でした?」
    「私は......あんまり覚えてないんです。よくお店に来てくれる人だから、ちゃんと返事しないと、気まずくなるかなって思って返事をしたような気がします」
     
    あまり乗り気で連絡したわけではなかったということか。
     
    「最初は何か企んでるんじゃないかって警戒していました。変な話、体目的かなとか。でも、何度か会ってそんな感じでもないのかなって思ってきて」
    「僕、もともと結婚願望強かったんですよね。できるだけ早く結婚したいって思っていました」
    横でとも子が口を挟むように言う。
    「私は結婚とか全然考えてなくて。でも、しばらくしてかほりを授かって。それをこの人に伝えたら、じゃ、結婚しようってなりました」
    「なるほど、そういう馴れ初めだったんですね。教えていただいてありがとうございます。本当家族の歴史ってありますよね。そういう意味では、私、隆志さんのご実家の話はある程度どんな家庭だったのかって伺ったんですが、とも子さんについては今まであまり聞いていませんでした。よければ、どんなご家庭で育ったのか、お話しくださいますか?」
     
    私の促しに応じで、今度はとも子が話し出した。
     
    「家は、母子家庭でした。父親については、私が物心つく前に離婚していまして。全然記憶にないんです。それで、自分が何歳くらいのときだったかは覚えてないんですけど、一回だけ『お父さんはどこにいるの?』って母に聞いたことあったんです。そしたら母は『嫌なこと思い出させないで』って言ったと思います。それで、私は、父については聞いちゃいけないんだって子ども心に思いました」
    それなりに重い話だが、淡々と話す感じが、どこか感情を切り離しているような話しぶりだ。
    「前にも少し話しましたが、母は何かにつけて私を責める人でした。それで、早く家を出たいってずっと思ってたんです。それで、実家は三重だったんですが、短大を出て、就職と同時に名古屋に出てきました。それ以来、全く絶縁状態っていうわけじゃないですけど、あまり関わってないです。数年に一回くらい、かほりを連れて行ったことがあるくらいです。今は母は一人ですが、元々飲み歩いてる人でしたから、友達も多いですし、悠々自適に暮らしていると思います」
    やや吐き捨てるようなニュアンスを感じる。
    そして、ひと通り話しても、とも子の話はここで終わらない。
     
    「そんな私から見ると、主人の家って、すごく健全なんですよね。この人、本当に愛情を注がれて育ってるって思います。私のこともすごく温かく迎えてくれて。結婚したばかりのとき、その感じが本当に異文化っていうか、普通の家ってこんななんだって思いました。お義母さんなんて、私とこの人がケンカすると大抵私に気を遣って、味方してくれるって言うか、この人を諫めてくれるんです」
    「お袋は本当、誰にでも優しいから」
    隆志も同調する。
    「でも......、」とも子は声のトーンを落としてつづけた。「私はどうしても、私なんかって思っちゃうと言うか。だから、主人の実家では気を張っちゃうんです。優しくされると、ついボロが出ちゃう気がして」
    隆志はとも子とは対照的に声のトーンが上がる。
    「そんな気を張る必要ないだろう」
    「でも、お義母さんみたいに、できない」
    これを聞いて慰めるように隆志が言う。
    「あんな風には誰もできないよ」
    「......」
     
    下を向いてしまったとも子に、私はできるだけ落ち着いた口調で話しかける。
    「隆志さんの今の言葉、どう受け取られましたか?」
    しかし、とも子は答えない。
    隆志はそんなとも子を覗き込むように見ている。
    私からも、とも子が膝に置いた両こぶしを握りしめているのが見えた。
    と、呟くように言う。
    「そう思うなら、なんで私を責めるの?」
    とも子の口調が変わった。
    「責めてなんか」
    隆志は否定するが、とも子は更に口調を強めて、被せるように言う。
    「責めてる。普段から言葉では責めなくても、顔は私を責めてる」
    「それは、かほりに対して当たりがキツイときとかにだろ」
    二人がヒートアップしてきたのを見て、私は介入した。
    「整理しましょう。隆志さんはとも子さんがかほりちゃんを責めているのを見ると、それを諫めようとするんですね?」
    隆志は少し声を落とし気味に答える。
    「そういうときは......そうですね」
    しかし、即座にとも子が言う。
    「最近、私まったくかほりに怒ってない」
    「そうかな。でも、今はこれまでこうだったっていう話をしているんだろう」
    「それはもう仕方ないじゃない」
    「俺はただ平和に家で酒が飲みたいだけだよ。それをあんなにガミガミやられたら」
    「それは私が間違ってた。かほりに何でもちゃんとやらせようとし過ぎてた。そのことをここで気づかせてもらった」
    「そう言っていただくと、私も嬉しいです」
    ここでも、私は務めて落ち着いた声で介入した。
    「とも子さん、ここで本当にご自身を変えようと一生懸命に取り組んでくれています。そのこと、隆志さん、認めてあげられませんか」
    「いえ、妻が怒らなくなってくれれば、僕としてはもうそれで満足なんで」
    少しぶっきらぼうな答え方だ。
     
    ◆優しくされたら怖くなる
     
    「今までのやり取りを聞いていて、私、ご夫婦の問題って、やっぱり本当に難しいなって思っています。隆志さん、とも子さんがかほりちゃんに怒っているとき、どんな気持ちなんですか?」
    「なんでそんなことでいちいち怒るんだ」
    「他には?」
    「もっと気分よく飲ませてくれよって」
    「かほりちゃんが叱られていると気分よくお酒が飲めないんですね」
    「それはそうですよ」
    「さっき、隆志さんは健全な家庭で育ったってとも子さんが言っていました。隆志さんのご実家は平和だった?」
    「いや、まぁ、親父はそれなりに圧があって、怒ったりもしていましたが、それでもそこまでじゃなかったですよ」
    「隆志さん......平和な暮らしを望んでいるんですね」
    「ですね」
     
    次に私はとも子に話を振った。
    「とも子さん、隆志さんが平和に暮らしたいって言っています」
    しかしとも子は目を伏せながら言う。
    「平和......どんなのが平和か分かりません。私はかほりをちゃんとさせようと思って頑張ってきたんです」
    「とも子さん、かほりちゃんに怒れちゃうときって、どんなときだったんでしょう」
    「やっぱりやらないといけないことをちゃんとやらないときには......そうですね。キツくなっちゃってましたね。でも本当、勉強とか完璧を求めすぎてたんだなって、かほりが不登校になっちゃった今は思いますけど」
    「なんで完璧を求めちゃったんでしょうか?」
    「なんででしょう」
    「それは多分、完璧な母親たろうとしたからではないですか」
    私は洞察を入れていく
    「そうだったのかもしれません」
    とも子の答えを聞いて、私は更に深堀りする。
    「それはどうして?」
    「もともと完璧主義だからですかね」
    「そうなんですね......」一呼吸間を置いてから私はつづけた。「完璧主義の人の背景には、『完璧な私しか愛されない』という固定観念があります。とも子さん、この言葉にどのくらい同意しますか?」
    「......」
    とも子は答えない。
    様子を見ていると、横目で隆志の存在を気にしている様子だ。
    それを隆志も感じ取ったようだ。
    「僕がいると話しづらい?」
    とも子は尚もモジモジしている。
    このようなとき、隆志に席を外してもらうという選択もあるにはある。しかし、今回は夫婦の合同面接だ。それでは意味がない。むしろ隆志の前で思うことが言えるということが合同面接では大切だ。
    そこで私は言った。
    「隆志さん、お願いがあります。今日の場はお互いの気持ちを理解する場です。絶対にとも子さんを責めないでください」
    「責めたりはしません」と隆志が答える。
    「隆志さんがこう言っています」
    とも子に伝えるが、やはり口が重いようだ。
     
    「この場では何を言っても、この場だけの発言です。隆志さんも絶対にとも子さんのことをそのことで責めないでくださいね」
    私は何度も同じ説明を繰り返す。それに隆志は頷きで応える。
    そして、二人でとも子を伺っていると、ようやくとも子が言葉を発した。
    「実は......どうしてもお義母さんが怖い」
     
    隆志は驚いた様子で、目を見開いた。
    「どうして?あんなに優しいのに」
    「優しいから......こんな私にあんな風に優しくされたら、怖くなる」
    私はとも子の告白を聞いて胸が締め付けられるのを感じた。このような感情は、虐待サバイバーがよく経験する感情のひとつだ。
     
    私はとも子にねぎらいの言葉をかけた。
    「とも子さん、よくお話してくれました。その気持ちを今日、この場で吐き出せたこと、とっても意味があると思います」
    そして隆志に向かって続けた。
    「隆志さん。隆志さんがとても尊敬していらっしゃるお母さんに対して、とも子さんが怖いと感じているということ、すぐには理解が難しいかもしれません。でもまずは、とも子さんが怖い気持ちを勇気をもって告白してくれたことを一緒に労いましょう」
    しかし隆志は、やはり理解できないというような表情だ。
    母を否定されたようで、少なからず怒りも感じているのかもしれない。
    それを見て私は言う。
    「もう今日は時間が近づいてきました。とも子さん、その怖い気持ち、今後の面接で隆志さんと一緒に掘り下げていきましょう。そして、隆志さん、一度、北海道の温泉で今日感じたネガティブな気持ちを全部洗い流しましょう」
    私はクロージングの誘導を入れていく。
    「イメージしてください。あったかいヌルヌルのお湯。硫黄の匂い。たくさん石鹸をつけて、ゴシゴシって心を洗います。そうすると、ネガティブな気持ちがきれいに洗い流されていく。綺麗になっていって、全部洗い流されたら、今日はこの話題はここで閉じたいと思います」
    もちろん、そんなに全部綺麗に流されるわけではないことは分かっている。しかし、このように教示することで、次回まで気持ちを抱えやすくなる。またイメージを言語化することで、とも子も同じ絵をイメージしてもらうことも狙っていた。
    それに応えるように、隆志ととも子は二人とも頷いた。
     
     
    何も宣言せず、自然と、「隆志さん」「とも子さん」と呼んでいたな......。
    私は、記録を書きながら面接を振り返っていた。当然夫婦面接なので、二人とも坂部さんではおかしいわけだが、かほりの親面接と位置づければ、「お父さん」「お母さん」でもいいし、夫婦面接なら、「旦那さん」「奥さん」などでもいい。それぞれの面接の狙いによって、クライアントの呼び方も変わってくる。そして今回はファーストネームで呼んでいた。これは私の無意識の選択だ。無理に意味づけるなら、結婚に至るまでの歴史も含めて、個人を大切にしたい思いからという解釈もできる。今回の私の選択が良かったかどうかは置いておいて、こういう言葉選びのひとつひとつにも心理臨床家としてのセンスが表れるのを感じる。
    恋愛結婚の末に結ばれた二人。隆志が主体性を持って働きかけたのに対して、とも子は終始受け身的だったような印象だ。それぞれの育った家庭環境の影響だろうか。
    そして、隆志の家庭環境を「異文化」として受け取ったとも子。とも子の結婚生活は異文化適応の中で、自身をいかに守るかという戦いだったのかもしれない。
     
    アセスメント
    ・やさしさに触れる経験が希薄だったとも子が、初めて触れたやさしさの中で、自分が照らし出されたような感覚で怖くなった。そして照らし出された自分を完璧な母親として演出しようとした結果、かほりに対して当たりがきつくなった。
    ・隆志はそれに居心地の悪さを感じ、とも子への気持ちが冷めていき、それがさらにとも子のかほりへの養育態度に負の影響を与えたことが考えられる。
     
    方針
    ・愛着障害の特性としての、やさしさに対する恐れや傷つきについて、隆志に理解を促していく。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆ネッ友
     
    私はいつものようにパソコンの前に腰を下ろしていた。
    インスタントコーヒーの苦みを楽しみつつ、今書いたばかりの記録を読み返している。
     
    今回のかほりとのセッションでは、前回同様、特別な目的を持ったトレーニングやワークは入れずに過ごした。回数を重ねていくと記録も特筆すべきことが少なくなっていき、次第に簡素になってくる。
     
    20XX+1年10月23日 かほり#21
    学校に4時間目くらいから行ける日が増えてきた。
    今はインターネット上で知り合った友達、いわゆるネッ友と楽しく過ごせてる。自分で描いた絵をネットにアップしたら、コメントくれた子がいて、それから仲良くなった。一つ上の子で、その子も絵を描いていて、お互いに見せ合う仲になった。
    いつか遊ぼうって言われてるけど、住んでるところがちょっと遠いから、微妙とのこと。
    ずっと話しながら、時間いっぱい絵を描いて過ごす。
     
    アセスメント
    ・力がついてきて、ネット上とは言え、人との交流が出てきたのは進歩。
    ・視線恐怖も和らいできており、学校の部分参加もできるようになってきた。
     
    「まぁ、こんなところでしょう」
    私はアプリの保存ボタンをクリックした。
     
    ――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆買い物
     
    その日、私は朝からスーパーを梯子していた。
    舐めていた。すぐに目的のものが見つかると思っていたのに、なかなか見つからない。
    もう次で4軒目だ。
    今日はいくつか予約が入っており、最終が17時からの坂部家の夫婦合同面接だ。あまり買い物にかけている時間はない。
     
    次のスーパーでなかったら諦めよう。
     
    そう思いつつ、駐車場に車を入れた。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――
    ◆夫婦合同面接②
     
    20XX+1年 10月30日  とも子#15 隆志#4
    「こんにちは。今日もよくおいでくださいました」
     
    目の前にいる二人に対し、来談に対する労いの気持ちをこめた挨拶を済ませると、私はいつものように歓迎の意味を込めて、温かい煎茶と、クッキーを二人の前に並べる。これは今朝スーパーで買ってきたばかりだ。
     
    そして、前回と同じように、呼吸合わせをした後に、私から話を振った。
     
    「とも子さん、前回お義母さんのようにできないっておっしゃっていましたが、それからそのようなお気持ちを刺激されたことってありますか?」
     
    私の問いかけに、いたって平坦な口調で「あると言えばあるし、ないと言えばないって感じです」ととも子。視線は下の方を向きつつ、空中を泳いでいるように見える。
     
    それを聞いた隆志は、「何も言ってないだろう。前回から。でもやっぱりどういうことか分からない。お袋だって、嫁に来たとも子にはすごく気を遣ってるんだ。それなのに怖いってどういうことだよ」と2週間封印してきた気持ちの蓋を外す。
     
    それは今したばかりの呼吸合わせで抑えられるものではなかったのかもしれない。
    やっぱり堪えるのは大変だっただろうことに思いを馳せた。
    しかし、それを家で噴出させなかった隆志の誠実さや責任感には頭が下がる。
     
     
    私はできるだけ優しい口調を意識しながら、
    「隆志さん、収めてください。とも子さんの話を聞きましょう」
    そう言ってとも子に振る。
     
    とも子はうつむいたまま呟くように言った。
    「やっぱりお義母さんの味方なのね」
    声が小さくて若干聞き取りにくかったが、確かにそう言った。
    それに不意を食らったのか、隆志は何も答えない。
     
    とも子は、少し躊躇したように間を取ったと思うと、顔を上げ、急に
    「どうしても言わせてほしいことがあるの」
    と隆志の方を向いた。
     
    今から意を決して何かを伝えようとしているのが見て取れる。自然と場が緊張に包まれた。
    私と隆志が見守る中で、再び視線を落としつつ、とも子は言葉を続ける。
     
    「あなたは前回ここで、『母みたいには誰もできない』って言ったわよね。それってやっぱり私にお義母さんを期待しているってことよね」
     
    とも子の言葉には大きな勇気が込められていたのだろう。少し声が震えているように聞こえる。
    それを受けて隆志は返す。
     
    「そんなつもりはない。あんな風に誰にでも優しく穏やかにいられないのは分かってるよ」
    「そうやって、お義母さんを持ち上げて、それと比較して私にできないって言ってくるのが苦しいの」
    「それは事実だから仕方ないだろう」
     
    とも子は今、長年ずっと感じてきた気持ちを言語化してくれている。ずっと隆志にぶつけたいと思いつつぶつけることができなかった気持ちだ。
    一方隆志はそれをどう受け止めていいか解らずにいるのかもしれない。
    ここではぐらかしてしまっては、夫婦の間に今私がいる意味がない。
     
    「隆志さん、隆志さんの中で、期待を裏切らないというのはとても大切なことなんですよね。隆志さんは家族の期待を裏切ってしまってとても苦しんだ過去がある。だから、責任感強く、一生懸命、ストイックに生きてこられた。一方で、隆志さんご自身が相手に期待したときにも、自分がこんなにやってるんだから、応えてくれないと納得がいかない感じになるのかもしれません。そして、結婚したときに、とも子さんにお母さんのような振る舞いを期待してたんじゃないですか。そして、それが、裏切られた気持ちを持ち続けてる」
     
    隆志は何も言わない。
     
    「それが無言の圧力となり、とも子さんがいたたまれない気持ちになった。とも子さんがそんな中で自分を守るためには、かほりちゃんを立派に育て上げるしかなかったのかもしれません。それで、完璧主義に駆り立てられたとも子さんは、かほりちゃんに厳しく当たっちゃうサイクルを創り上げたというストーリーはいかがでしょうか」
     
    私は夫婦間でこれまで起こってきたことを私なりの解釈で言語化した。
     
    とも子は私の言葉を聞きながら相変わらず顔を強張らせている。とも子は多分意識していないだろう。だが、それは怒りの発露だ。抑圧されてきて、良い妻であるために出せなかった怒りが湧き出ようとしている。
     
    「僕が......、とも子をそうさせていたということ?」
    隆志がテーブルの上にある湯呑のあたりを見ながらつぶやいた。
    少なからず私の言葉が届いたか。そう思い、更に私は言葉をつないだ。
     
    「今、隆志さんがすべきことって、期待外れだったけど、責任を取って夫婦でいるのではなく、目の前のとも子さんを等身大で愛することじゃないですか」
    私は思い込めて言った。
     
    ここでも隆志は呟くように声を発する。
    「僕は......それができてない?」
     
    とも子が口を開く。
    「私はあなたが最初に声をかけてくれた時、信じられなかったの。だから、絶対なんか企んでるって思った。私なんか好きになってくれる人なんているわけないって思ってたから。でも、あなたを知っていく内に、あなたは愛を知っている人だって思った。そんな人が私に想いを持ってくれるなんて、嬉しかった。だから、あなたの期待に応えようと頑張ってきた。あなたの愛を失いたくなかったから。でも、頑張れば頑張るほど、駄目な自分ばっかりが見えてきたの」
     
    その目に少し涙を浮かべながらとも子はつづけた。
     
    「かほりが生まれたとき、すごく怖かった。自分の母に優しくされた記憶がない私は絶対すぐにボロが出る。お義母さんみたいにはなれるわけない。そしたら、あなたに捨てられるって思って」
    「だから、そんな風にならないでいいって言ってきただろ」
    「それが比較しているって言ってるの。私はお義母さんの下位互換じゃない。私はあなたに、お義母さんじゃなくて、私を『愛してる』って言ってほしかったの。そう言ってもらわないと、私はとっても不安になって、どうしようもなかったの!」
    とも子のストレートな気持ちの吐露に隆志は驚いている様子だ。家ではいつも隆志が不機嫌になり、とも子は黙り込むパターンだったからだ。
     
    二人の昂っている交感神経を鎮める意図をもって、私は低めの声で言った。
     
    「隆志さん、ご実家から離れて、とも子さんと結婚して、新しいご家庭を築かれました。それはお二人にとって、とっても素晴しいことでした。そして、とも子さんと築いた新しいご家庭は、ご実家とは違って当たり前です。中身が違うんですから。多分、隆志さんが果たすべき、一番の責任......それは、ご実家から本当の意味で自立して、奥さんを幸せにすることじゃないでしょうか」
     
    隆志はギュッと奥歯を噛みしめたような表情をつくり、しばしの沈黙が流れた。
     
    と、不意に言う。
    「カウンセリングって、こういう場なんですか」
    私は隆志の様子に少しびっくりして聞き返した。
    「と言うと?」
    隆志は目元がぴくついているように見える。
    「二人して僕を悪者にして、責め立てるのがカウンセリングなんですか?」
    今までの会話が隆志の被虐スイッチを押してしまったようだ。そこで私は言う。
     
    「隆志さん、今の話を聞いて、とても責め立てられているように感じたんですね」
    「責めてるじゃないですか!でもこっちだって、ずっと我慢させられてきたんだ!自分の嫁さんに怒らないでいて欲しいって、思うのがそんなに悪いことですか?子どもにイライライライラわめき散らしてるのを何も思わない人間なんているわけないでしょう!仕事で疲れて帰ってきた時に、ガミガミガミガミやってるところ想像してみてくださいよ!それでちょっと注意したら、『死にたい!死にたい!』って。それをなだめて我慢してやってきた。それなのに僕が悪者なんですか?」
    拳を握りしめて、一気に吐き出した。
    隆志の攻撃性がこちらに向けられたことに、私の交感神経が反応する。
    顔面に血流が集まろうとしているのを感じる。それに対し自分の呼吸を確認し、意識して、一息、長く吐く。
    刹那に自分をグラウンディングさせた後、強くなった隆志の口調を落ち着かせる意図をもって、私はできるだけ低い声で伝えた。
    「そう感じさせてすみません。隆志さんは本当に責任感が強い方です。そんな気持ちを持ったまま、本当に今まで坂部家を守ってきていただいた。そして、前回から今日まで、いっぱい思うところはあったはずなのに、ずっと気持ちを封印して、耐えていてくれてたんですね。本当に強い人です。実は今日、準備したものがあります。少しお待ちください」私は立ち上がると、奥のキッチンに移動した。冷蔵庫から今朝スーパーを回って手に入れた瓶のボトルを取り出し、お盆に乗せて隆志の前に持ってくる。
     
    隆志の視線を感じつつ、私はキャップをつけたままのそれを隆志の前に差し出した。
     
    「すみません。隆志さんが北海道で飲んだものとは同じじゃないと思いますが、ちょっと一口飲んでみてください」
     
    「わざわざ用意してくれたんですか」
     
    驚きの表情と共にそれを手に取ると、隆志は自分で瓶のキャップを外し、口を付けた。
     
    「甘いです......。コーヒー牛乳って、大人になってから初めて飲んだかもしれません。こんな味でしたっけ」
     
    隆志がコーヒー牛乳の味を噛みしめているのを確認して私は言った。
     
    「隆志さん、期待に応えられないと感じたとき、自分を責めてしまう癖がありましたね。コーヒー牛乳を味わいながら、温泉につかっているイメージをよく思い出してください。温泉の匂い、温度、肌ざわり、景色。そして、もう一度、ご自身に言ってあげましょう。『落ち込まなくていい。大丈夫だ』って。そうすれば、隆志さんはどんな逆境だって、反骨精神で乗り越えられるはずです」
     
    ここでもまた沈黙が流れる。
     
    隆志は下を向いており、その隆志をとも子と私が見つめている。
    Youtubeでかすかに流しているヒーリングミュージックだけが私たちの聴覚で拾える唯一の刺激だった。
    その間、隆志の表情が苦しそうに歪んだかと思えば、激しく瞬きを繰り返す。それを見守りつつ、私はゆったりと一定のリズムで呼吸を続けた。
     
    長い沈黙の後、普段高めの声だが、そのトーンを抑える感じで、声を発した。
    「とも子......」
    この呼びかけに、とも子は答えない。黙って隆志を見つめている。
     
    隆志の瞬きが一層激しくなる。
    それをとも子は黙って見つめている。
     
    「僕は......どうしたらいい?」
     
    隆志はこれまでずっと自身の母親代わりを演じるように求め、それができないために否定してきたとも子から、逆に否定されて自分の立ち位置を見失っているように見える。
    しかしそのような隆志の問いかけに対して、とも子は沈黙をもって答えた。
     
    三度、長い静寂が場を支配する。
     
    私は二人の息遣いを注意深く感じながら、自身のリラックス呼吸も意識し、同調を図る。一定のリズムで、ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。ゆっくりと吸って、ゆっくりと吐く。
     
    どれだけの時間が流れただろうか。隆志はもう一度、コーヒー牛乳の瓶を口に運び、一口つけて、机に戻した。
    そして、先ほどと同じようにもう一度、呼ぶ。
    「とも子......」
    呼びかけに対しとも子は隆志をまっすぐ見つめている。
     
    「僕は……でも、やっぱり僕にだって気持ちがあるんだ。思ってた結婚生活はこんなじゃなかった......だから......どうしたらいい?やっぱり分からない」
     
    とも子は答えない。しかし、歯を噛みしめるように強張った顔で涙を溜めているのが分かる。
     
    隆志が言った。
    「少し時間をくれないか。何が正解か......考えるための時間を」
     
    時計を見ながら、私は言う。
    「お二人の思い......今日聞かせていただいたこと、とっても尊いです。本当に真剣に、お二人が向き合っていただいたこと、心から頭が下がります。そんなに簡単に歩み寄れるものではないのかもしれません。でも、確実に今までなかった変化が起きています。今日はここで幕にしましょう。ゆっくり深呼吸してください」
     
    そう促して、私自身も大きく吸って......ゆっくりと吐いた。
     
    2人を見送った後、どっと疲れている自分を感じる。
    喉が渇いていた。
    普段ならコーヒーを淹れて気持ちをリラックスさせるのがルーティンだが、この時私はすぐにグラスに水を注ぐと、それを一気に飲み干した。
     
    アセスメント
    ・隆志は自分の母親をとも子に求めていた。とも子はその隆志の期待に応えられないことで自責し、苦しんでいた。
    ・今日二人がその構図を認識できたが、隆志の中には感情的な否定感が残っている。
     
    方針
    ・引き続き、2人の対話を促し、ファシリテートしていく。
     
    ―――――――――――――――――――――――――――――
    ◆手当て
     
    20XX+1年11月6日 かほり#22
    「今日は持ってきたものがあります」
    相談室に招き入れると、かほりは開口一番、そう言った。
    構造を個人面接に切り替えた際、「何をして過ごしてもいい」と伝えていたこと、そして、ここ2回ほど、絵を描いて過ごしていた流れから、自分で取り組みたいものを持ってきてくれたということか。
    かほりの自発的な行動が増えていることを嬉しく思いつつ「何を持ってきたんですか?」と聞く。
    かほりは手持ちのトートバックからクリアファイルを一枚取り出して私に見せた。
    それを見て私は、背筋がぞっとするのを感じた。
     
    「この絵......まだ、持ってたんだ」
    クリアファイルに挟まれているのは、女の子の絵だ。
    以前に母親がスマホで見せてくれた女の子の絵......
     
    「ちょっとよく見せてもらっていいですか}
    私が言うと、かほりはクリアファイルから取り出して、私にその絵を渡してくれた。
     
    身体全体に何本もの刃物を刺されて、血だらけになりながら、それでいて十字架に貼り付けにされたように、両手を広げ、こちらを睨みつけるように笑う女の子。
     
    母親がスマホのカメラで撮って見せてくれた写真では赤く血がついていたが、今はもう褐色に変色している。
     
    「ずっと机にしまってたんです。前にここでこの絵について話したとき、榊さんが、この絵はお母さんだって言ってたんで。だから......、お母さん、手当てしてあげなきゃ」
     
    私はかほりの申し出になんとも言えない感情が込み上げるのを感じた。
    ここでかほりに母親を助けようと提案し、それをすぐに、やっぱり止めようと手のひらを返したのは私だ。
    かほりのやっと見つけた生き甲斐を取り上げた私。
    それでも尚、私のもとに通い続け、今また母親の傷を手当てしようと言う。
    私は、勝手に涙腺が緩むのを気取られないように我慢しつつ、
    「そうだね。ちゃんと手当てしてあげようね」
    とかほりに賛同の意を示した。
     
    机の上に絵を置くと、消しゴムを使って、刺さった刃物たちを消していく。
    ナイフ、槍、刀、包丁、鎌。
    血が色濃くついている部分は消しゴムを強く当てると、破れてしまうと思ったのだろう。慎重に作業している。
    そして、全部消えたら、鉛筆で消えてしまった輪郭を補修していく。
    更に、顔にも消しゴムをかける。
    睨みつけていたような表情を消し、鉛筆で書き直した顔は穏やかな笑顔になった。
     
    その様子を私が見守っていると「絵の具借りれますか?」とかほり。
    「もちろんあるよ」
    と伝えて、相談室横の備品部屋に取りに行く。
    その中から「普通の水彩絵の具でいいよね?」と扉越しでも届くように私が大きめの声で聞くと、「はい」と返事が聞こえた。
    大きな返事ができるようになったことにもかほりのエネルギーを感じる。
     
    部屋に戻り、「どうぞ」と絵の具セットを渡すと、私は水彩用の水をコップに汲んでくる。
     
    絵の具の準備をして、いざ色を入れていくのかと思ったが、すぐにかほりの作業の手が止まってしまった。
    しばらく動かないで考えているようだ。
    「どんな風に塗るか考えているんですか?」
    私が問いかけると、
    「これ、上から白で塗っても多分、消えないですよね」と言う。
     
    血が褐色に変色している部分に白い絵の具を塗ったとして、水彩絵の具の白では確かにいくつかある濃い部分は消せそうにない。
    「確かに、白い洋服だと消せなさそうだね」とかほりに同調した。
     
    しばらく、どうしようか迷っていた様子だったかほりが言った。
    「そうだ!お母さんに赤いドレスを着せてあげよう」
    そう言うと、絵の具から赤系の塗料を何色かパレットに出す。
    それを水に浸した筆でとき、絵の上に塗っていく。
    白い部分はそれでいいが、血の付いた部分は完全に同色ではない。
    濃い褐色の部分をどうするのかと思って見ていたが、本当にうまいものだ。
    赤いドレスにところどころ、影のように褐色になっているところがあると思えば、次に、黄色や白の塗装をすることで、光が当たっている部分とのコントラストを作り、自然に見えるように塗り替えられていった。
    ところどころ、鉛筆で補修し、いつの間にか血まみれのボロ布のような服を着ていた女の子は、赤い素敵なドレスを着せられていた。
    「完成ですか?」
    私が聞くと、かほりは、「あと、ちょっと......」
    と言って、再び絵の具の筆から鉛筆に持ち替える。
     
    そして、女の子の後に......もう一人。
    タキシードに身を包んだ男性を立たせた。こちらも鉛筆で書き終わると、水彩で色を付けていく。
    そしで出来上がったのは、さながら映画タイタニックで、ケイト=ウィンスレットが手を広げ、後でレオナルドディカプリオが支えているようなポーズだ。
    二人は穏やかな笑みを浮かべている。
     
    私はこれを見たとき、かほりの中にしっかりと安心感のある両親が内在化されつつあるのを確かに感じた。
    その感傷に浸っていると、早いもので、気づいたら60分という時間が過ぎていた。
    インターホンが母親の迎えを知らせてくれている。
    「この絵......まだ渇いてないから、今日はここに置いて行って、また次回もし続きがあるなら描き足すことにしませんか」
    私の提案にかほりは頷いた。
    そして、マスクを下げたかと思うと、湯呑のお茶を飲み干し、クッキーをそそくさと食べて行った。
     
    今回のかほりのウルトラCとも言える行動には、私は頭が下がる以外にない。
    以前の私の提案、「かほりのエネルギーはかほり自身のために使おう」というのは間違っていたのか。その提案をしたとき、私は「私に向けて思いっきり怒って、この部屋を出たらリセットしましょう」と伝えた。あれはかほりの気持ちを余りに軽々しく扱ってしまっていたのではないか。
    それでもなお「家族の癒しが自分のためにエネルギーを使うということ」というかほりの主張を感じる。
    私の一方的な押し付けに対して、とても健全な主張で返してくれたかほり。
    彼女の本来の回復力と成長力を前に、私は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。その尊さは、神々しさすら感じさせるほどであり、自身のつたない判断に対して少なからず申し訳なさを覚えていた。
     ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆失踪
     
    今日は土曜日だ。
    普段の平日ではなかなか手が込んだものが作れないため、土日くらいはある程度しっかりとした家庭料理を子ども達に振る舞いたい。
    そう思いながら作った餃子とスープ、青菜の炒め物がきれいに平らげられたことに満足感を持って、私は下の娘と一緒に夕飯の後片付けをしていた。
    本来、上の娘にも何か手伝わせたいところだが、テスト前で勉強が忙しいということで免除している。
    妻は妻で持ち帰りの仕事を抱えているらしく、パソコンに向かっている。
    時計を見るともうすぐ9時になろうとしていた。
     
    プルルルル......プルルルル
     
    前触れもなく鳴り始めた電話の着信音に少しびっくりさせられる。携帯電話ではなく、固定電話だ。こちらにはほとんど相談室関連の電話しかかかってこない。こんな時間にかけてくるのは営業ではないはずだ。誰だろう?
     
    「はい、もしもし」
    営業時間外であるので、こちらからは名乗らず、私は相手の反応を待った。
    「山の香りカウンセリングですか?」
    少し高めの男性の声だ。
    「はい、山の香りカウンセリングサービスです」
    「夜分にすみません。坂部です」
     
    こんな時間に?なんだろう?
    私は驚いて言う。
    「あ、隆志さんですか。どうされたんですか!?」
     
    「お世話になってます。実は......かほりがいなくなりまして」
    隆志の声は明らかに動揺している。
    それにつられてというわけではないが、私も揺さぶられるような感覚を覚えた。
    「こんなこと今までなかったものですから、そちらで何か話していなかったか伺いたくて。心当たりはありませんか?」
     
    つい二日前のかほりの様子を思い出す。
    あんなにしっかりととも子の絵を修復し、隆志と一緒に微笑むシーンに描き変えたかほり。しっかりと健全な両親を取り込み始めていると確信させられた矢先......まさかの知らせ。
     
    私は驚きとともに心拍数が上がるのを意識しつつ、務めて冷静に振る舞い、具体的な状況を聞いていく。
    「いつからいないんですか?」
    隆志曰く、今日はとも子は朝から仕事。隆志は遅めに起きて、一人で朝食をとった。そのときにもかほりは部屋にいるだろうと勝手に思い確認はせず、そのまま寝た。夕方になり、とも子が帰宅し、夕食の声掛けをしても返事がないので、初めてかほりがいない事に気づいたと言う。かほりに持たせているスマホはSIMカードは入れていない。電話番号もないし、Wi-Fi環境でないと通じない。LINEで連絡をしてはいるが、既読がつかないとのことだ。
     
    そう言えば、ネットの友達に会おうって誘われていると言っていたことを思い出す。しかし、遠方としか聞いていないので、どこの人かまでは分からない。
    犯罪に巻き込まれている危険性も考慮し、守秘義務よりも優先されると考えた私はそのことを隆志に伝えた。
    「そうでしたか。こちらに電話して、分からなかったら警察に届けようと思っていました。ありがとうございます」
    「そうですね。万が一ということもありますから、警察に届けるのはされた方が良いかもしれません。もし見つかったら何時でも構いません。連絡いただけますか?」
     
    本来、ケースの予約以外でのクライアントとの接触はアクティングアウトと呼ばれ、極力避けられるべきである。面接の構造を崩してしまうと、それは結果としてクライアントとの安定した関係を棄損するリスクを伴うからだ。次の面談の時に、この問題の顛末を扱うべきなのかもしれない。
    しかし私はすぐに連絡をくれるように依頼してしまっていた。
    もちろん、私自らかほりを探しに街に出て行くというような明確なアクティングアウトではない。しかし私自身が心配を自分で抱えるという発想ができなかったが故の依頼である。やはり心配だったのだ。
     
    それからしばらく私はいつ電話がかかってきてもいいように風呂に入ったり、他事をすることなく、電話の前で連絡を待っていた。
     
    私自身、家族の再生という願いから、かほりを切り離そうとしてしまったことに負い目を感じていた。
    たびたび自傷していたという事実は自己破壊衝動の表れでもありうる。
    その後かほりから話題にされることはなかったので、9月以降リスカしていたかどうかは分からない。
    でも、もしそれがエスカレートしていたら......。
    健全な親の内在化がなされているというのが、私の主観的な思い込みでしかなかったとしたら......。
     
    家出、
    性被害、
    ......自殺。
    さまざまな悪い予想が頭の中を駆け巡る。
    「無事に見つかってくれ」
    そう思いながらも、私にできることは、ただ、連絡を待つことだけだった。
     
    プルルルル......プルルルル
     
    次に電話が鳴ったのは最初の電話から凡そ1時間後の10時過ぎだった。
    「ご心配おかけしました。かほりが見つかりました」
    電話の向こうで隆志の安堵する声が聞こえた。
    私も「ふ~ッ」と胸をなでおろす。
    聞くと、警察に行って捜索願をまさに出そうとしていた時、電話がかかってきたとのことだ。
    「かほりちゃん、電話くれたんですね」
    しかし隆志は言った。
    「いえ、電話をくれたのは......祖母です」
     ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆炉の中の火
     
    かほりの失踪事件から週が明け、私はまた日常の業務に追われていた。
    かほりが無事に見つかると、あんなに心配したのが嘘のように、そのことを考える余裕がなくなる。
    かほりとは別の不登校のケース、発達障害のケース、DVのケースなどなど色々な人と会う中で、坂部家が私の中で占める割合は相対的に小さくなっていく。
     
    そして迎えた次の木曜日。
    この日は朝からしとしとと降る雨模様だった。午前中に2つのケースを終えて、記録を書くと、次に夕方のケースまでしばらく間ができた。手持無沙汰だったこともあるが、11月も半ばに差し掛かり、少しずつ気温が下がってきていることもある。更にこの秋雨だ。私は今シーズン初めて、薪ストーブに火を入れることにした。と言っても、真冬のようにガンガンに焚くというよりは、試運転的な感じだ。
     
    雨の中、傘を差しつつ、外に出ると、すぐ横の薪棚から室内に薪を運ぶ。真冬に一日分の暖を採る量の薪を運ぼうと思うとかなりの重量になるが、今回は数本である。そこまでの重さはない。部屋の中に薪を運び込むと、早速炉の中でそれを組み上げる。
     
    そして、焚きつけ用の細い薪に火を点け、育った火種を徐々に太い薪に移して火を大きくしていく。
     
    それらの作業をしながら、これから会うケースについて思いを馳せていた。
     
     
    初めて来たときは、一言も話せなかったなぁ。
    それが、何度か会う中で少しずつ話せるようになった。
    そう思ったら、不意に家族の中核的なトラウマが表出して、次の面接がキャンセルになったときには中断も覚悟した。
    その危機を、なんとか母親とのつながりで乗り越えたが、その後の面接は膠着していった。
     
    今思えばあの膠着も頷ける。
    私は母親を変えればあの子も変わると勝手に思い込んでいた。あの子の真の願いにも気づかずに。そして母親に対してうまくアプローチできていると思い込み、「終結とは?」といった哲学的な思考にすら思いを巡らせていた。それが、全くの見当違いだったことが今は分かる。
    私の傲慢な思考、油断以外の何者でもなかった。
    私の介入が家庭内での更なる緊張を創り出し、あの子を苦しめる結果になっていることにも気づかずに。
     
    動きが少ないまましばらく回を重ねていった。
    振り返れば、やはりあの夏の日の告白は転機だったんだな。
    あそこから物凄い勢いでケースが動き始めた。
    父親が登場し、父親からも娘が語ったのと同じ場面が別の切り口で語られた。
    その後、ケースの構造は目まぐるしく変化していったが、それに伴って、あの子は物凄く成長していったように見えた。
    そう見えたのに...…その矢先のまさかの失踪。
    あの子には驚かされてばかりだ。
     
    振り返ると、私は何もしていないどころか、見当違いなことばかりしていたのかもしれない。その度にあの子の健全さが家族を導いていった。
     
    「まだまだ...…、クライアントに教えられることばかりだなぁ」
     
    独り言を言いつつ、目の前の薪ストーブに意識を戻すと、炉の中の火は十分に燃え盛っていた。
    後は薪を足さなくても、適度な暖かさで客を迎えることができそうだ。
     
    「ピンポ~ン」
     
    インターホンが鳴る。
    私はいつものように「は~い、どうぞ~」とできるだけ優しい口調で入室を促す。
     
    ――カラン、カラ~ン
     
    ドアベルを鳴らして相談室のドアが開いたと思うと、最初に入ってきたのは隆志、それに続いてとも子、そして......かほりだ。
     ―――――――――――――――――――――――――――――――
    ◆「家出の理由」
     
    20XX+1年11月13日 かほり#23 とも子#16 隆志#5 家族合同面接
    「あ、今日は3人でいらしたんですね」
    面接構造的には夫婦面接と、かほりの個人面接は分けて作っていたこともあり、その構造を捻じ曲げると言う意味で、これもアクティングアウトと言える。
    しかし、来てしまった以上仕方がないし、大事なのはここで、私が揺さぶられないことだ。そして、私自身、かほりが登場し、構造が変えられたことに対して、不思議なほど揺さぶられる感じがしなかった。
    敢えて問題と言うなら、2人分しか用意していない客用の椅子、歓迎の茶菓子を足さなければいけないことくらいだ。
     
    すぐに普段私が座っている椅子を移動させて、机の向こうに3脚並べる。
    そして私用の椅子は備品部屋から簡易の折り畳み椅子を出してきた。
     
    そして、二人分しか用意していなかったお茶とクッキーの用意を、もうひとセット足す。これに関しては複数枚のクッキーを予備としてストックしていたことに救われた。
     
    準備が整うと私は3人に相対して腰を下ろし、「改めまして、よろしくお願いします」
    と挨拶した。
     
    隆志が言う。
    「突然すみません。今日はどうしてもかほりがついてくると言って聞きませんでした。それで、先週のこともありますし、榊さんにも話をさせたいと思いまして連れてきちゃいましたが、大丈夫でしたか?」
     
    初心者の頃なら、アクティングアウトに反応して「今回は大丈夫ですが、今後はそういう場合は事前にご連絡ください」などと無粋な言葉で返していたかもしれない。
    しかしこのとき、私は自然と、
    「いえいえ。よくお越しくださいました。本当にありがとうございます」
    と返していた。
     
    「さて、今日はどなたからお話聞かせていただけますか?」
    私は主導権を渡す相手が誰かを確かめる問いかけをした。
    「ちゃんと自分で話しな」
    隆志がかほりに向かって言う。
    それに対して、以前のかほりならモジモジして語りだしに時間がかかりそうなものだったが、この時は割りとすんなりと言葉を発した。
     
    「私、前ここで話したネットの友達に会いに行ったんです」
    「へ~、なんか遠いって言ってたよね。どこの人だったんですか?」
    「四日市です」
    三重県の四日市市のことか。かほりの家から名古屋駅で乗り換えて近鉄電車で行くとして、1時間以上はかかるだろうか。私は車でしか行ったことがないが、中学生が一人で行く距離としては、確かに遠いイメージだ。
    「そうだったんですね。ネットの友達に会うのって、緊張するでしょ。前は微妙って言ってたと思うけど、どうして会おうと思ったんですか?」
     
    少し間をおいてかほりが答えた。
    「四日市の人だったから」
     
    「......?」
    よく分からない。四日市に行きたかったということ?
    「えっと、なんで四日市の人だったから会おうって思ったんですか?」
    分からないので、率直に聞いた。
     
    「お祖母ちゃんの家が近いから」
     
    「あ~、お母さん方のお祖母ちゃんだね。そう言えば三重って言ってましたね」ととも子の顔を見る。
    「それで、この子、友達と会った後に、私の実家を訪ねたんです」
    とも子が補足してくれた。
     
    「何年かに一度しか行かないように聞いてましたが、よく行けたねぇ」
    私は過去に何度か行ったことのある四日市の街並みを朧げに思い返しながら言った。
    「駅の名前覚えてたんで。駅まで行けばなんとか行けると思いました」
    「へ~、すんなり行けた?」
    「すんなりじゃなかったけど、小学校の時に行ったことあったから」
    「そうだったんですねぇ。本当、よくたどり着けたよね。すごい大冒険でしたね」
     
    「僕もさすがにかほりがそんなことするなんて思ってなくて。スマホやSNSの使い方とか、家で話すようにってよく言ってるじゃないですか。でも、ウチはそんなの関係ないって思ってたんですよね。本当反省です」
    私としては祖母の家を訪ねたというのはかなり大きなポイントだと思うのだが、隆志にとっては現実的な心配の方が比重が大きいのかもしれない。
    「そうですねぇ。今時の子達って、SNSでつながって会うのって、割りと普通みたいですからね」
     
    私は隆志の言葉に相槌を打ちつつも、内心では別のことに意識を向けていた。
    隆志は父親として現実的な安全を心配している。それは正しい反応だ。
    だが、かほりの行動の真意はそこにはない。
    ネットの友達に会うというリスクを冒してまで、彼女が本当に会いたかったのは誰なのか。そして、なぜ「今」だったのか。
     
    「今回はたまたま相手の人が悪い人じゃなかったみたいだから、良かったですが」と隆志。
     
    「本当、無事で良かったです」
    私は、隆志の心配に同意を示しつつ、しかしやはりもう一度話を戻す。
    「でも、今のかほりちゃんの話だと、その友達に会いに行ったって言うよりは、お祖母ちゃんに会いに行った感じなのかなって聞こえたんだけど」
    「それもあります」とかほり。
    「そうだったんだね。お祖母ちゃんに会いたくなったんだね」
    「それなら何も勝手に行かなくても」
    そこでまた隆志が割って入る。
    「......」
    目を伏せて答えないかほりに私は声をかけた。
    「かほりちゃん、ここは何を言ってもいい場所だよ」
    するとチラリととも子の顔を見たかほりが呟くような声で言う。
    「......駄目って言われると思ったから」
    駄目と言われるのが、ネットの友達に会うことなのか、祖母に会うことなのかはかほりは明確にしない......が、それに隆志も言葉を返せないらしい。
    場が短い沈黙を迎えた。
    会話が途切れると外の雨音が聞こえてくる。やや激しくなってきているのか......。
     
    ◆とも子の母
     
    場が膠着する前に私から口を開いた。
    「それで、お祖母ちゃんが、連絡をくれて、その日は泊めてもらったのかな?」
    「そうですね。次の日に僕が迎えに行きました。本当は怒鳴りつけたい気持ちもありましたが、かほりの気持ちもあると思って、その場では抑えました」
    「とも子さんのご実家ですが、隆志さんが迎えに行ったんですね」
    「私は日曜日も仕事だったから。それで、この人に迎えをお願いしたんです」
    とも子が答えた。
     
    まぁ、筋は通っている。
    しかし実家への帰省が毎年盆と正月というのでもなく、かと言って、完全に行かないわけでもなく、数年に一回という頻度がとも子とその母親との微妙な距離感を表しているように感じる。
    「隆志さん、とも子さんいなくても、お祖母ちゃんに会うのは全然平気なんですか?」
    「僕もそんなの初めてでしたよ。今までもそんなに何回も会ったこともなかったですからね。なんならちゃんと話したのは今回が初めてかもしれません」
    「あ、お話されたんですね」
    「昼前に迎えに行って、そのまま帰るわけにもいかないじゃないですか。お礼して、近所のファミレスに3人で行って食事して帰ってきました」
    「お祖母ちゃん、どんな様子でしたか?」
    「老人の一人暮らしですから、寂しいんですかね。ずっと話してました」
    「どんな話?」
    「その面子だと、共通の話題がとも子しかないじゃないですか。義母が、ずっととも子の子どものころを話をしてて、僕とかほりはずっと聞いているばっかりでしたよ。小学校で学級委員してた話とかしてましたね」
     
    以前、とも子が傷つけられた話として語られた学級委員......。
    とも子は硬い表情で黙っている。
     
    私はかほりに話を振った。
    「おばあちゃんに会ったの久しぶりでしょ?どうだった?」
    「お祖母ちゃんの家に行ったのは、写真があったのを思い出して、見たくなったんです」
    「ん?写真?」
    「はい。前に行ったときに飾ってあったなって思って」
    「どんな写真なんですか?」
    「お父さんとお母さんの結婚式の写真です」
    「あ~、前に行ったときに飾ってあったな。リビングの棚のところにあったヤツか」
    と隆志。
    「それでお祖母ちゃんの家に行ったんだ。それで、お目当ての写真はあった?」
    「はい。前と同じところにありました。結婚式って普通ウェディングドレス着るじゃないですか。でも、飾ってある写真、お母さん赤いドレス着てるんです」
    「それは、お色直しの後の奴だよ。最初は白いドレスを着てたんだよ」
    「でも、お祖母ちゃんに、なんでこれ飾ってるの?って聞いたら、お祖母ちゃん、こっちが好きだったからって。ウェディングドレスは白すぎるんだって。お祖母ちゃん、変わってますよね」
    「ちなみにあのとき、実はもうかほりはお母さんのお腹にいたんだぞ。お腹大きくなる前にって、急いで準備して、式挙げたんだ」
    「私は別にそんな立派な式なんて挙げなくてもいいって言ってたんだけど」
    「何言ってるんだ。ちゃんと式を挙げて、お世話になった家族や周りの人に結婚の報告をしないと失礼だろう」
    隆志ととも子がそれぞれに話す。
     
    それに割って入るようにかほりは話を続けた。
    「他にもお祖母ちゃんと色々話したんだよ。お祖母ちゃん、お母さんのこと一人で育てたのに、結婚したら、なしのつぶてだって言ってた。後、お祖父ちゃんが どんな人だったのかも聞いたよ。お祖父ちゃん、暴力ふるう人だったんだって。だから、お祖父ちゃんからお母さんを守るために、お祖母ちゃんお祖父ちゃんと別れて、一人でお母さんを育てたんだって」
     
    「ですます」調で話していたかほりの語り口が、いつの間にか変わっている。
    今、かほりが話し掛けている相手は私ではない。
     
    「お祖母ちゃん言ってた。お母さんに辛い思いさせたって。でも、お祖母ちゃんも毎日必死だったんだって」
     
    「やめて!」
    急にとも子が言った。
    見ると、口元が震えているのが分かる。
    「今更そんな話しないで。私が辛かった時、何もしてくれなかったくせに!本当に寂しかった時、全くかまってくれなかったくせに!」
     
    場が凍り付いたような沈黙が訪れた。
    相変わらず外からは雨音が聞こえてくる。先ほどよりも更に激しさを増しているように聞こえる。
    その音に後押しされてか、とも子の悔しさがダイレクトに私の胸に流れ込んでくるような感覚を覚えた。それは多分そこにいた隆志にも、そしてかほりにも伝わっただろう。
     
    相談室内の電気は十分な明かりを灯しているが、それでも室内が暗く感じる。
     
    「パキッ」
    薪ストーブの中で薪が爆ぜる音がした。
     
    私は落ち着いた口調で言う。
    「とも子さん、隆志さんとかほりちゃんと三角形になって座りましょう。三角形になったら、三人で手をつないでください」
     
    私の促しにしたがって、3人が三角形の形に座った。
    私はその横に立って、まずゆっくりと呼吸から促す。
    「皆さん、ゆっくり呼吸していきましょう。深く息を吸って......吐いて」10秒呼吸を促しつつ、私もそれに同調する。
     
    「ゆっくりした呼吸と共に、心を落ち着かせながら、聞こえてくる音に耳を澄ませましょう」
     
    聴覚で拾える音は、壁越しに外から聞こえてくる雨音、薪の爆ぜる音、後は極小音量で流れるヒーリングミュージックくらいか。
     
    それらをじっくり味わってもらった後に私は続けた。
    「今、三人の手と手がつながっています。お互いの呼吸を感じていきましょう。手の暖かさを感じていきましょう。血液の流れをイメージしていきましょう。そうしている内に、つないだ手から愛情、やさしさが互いに流れていくのを感じていきましょう」
     
    しばらくその状態を感じてもらった後、私は落ち着いた声で言った。
     
    「とも子さん。お母さんへの思い......話してくれますか」
     
    ◆あなたたちと、生きたい
     
    しばしの間をおいたが、私の促しに応えて、とも子がゆっくりとした口調で話し出した。
    「母のことで思い出すのは......、前にもここで話した『あんたにできるわけがない』って言葉。昼も夜も仕事ばかりしていて、家に帰ってきたかと思えば飲みに出かけて。私が何か話しかけても否定的な言葉ばっかり返ってきた。『今忙しいの』『あっち行ってて』『あんたは黙ってなさい』」
     
    一時の落ち着きを取り戻していたとも子の声が、再び震えを帯びる。
     
    「実は、私も中学のとき、かほりと同じように学校に行くのが辛かった。学校に行ったら、机に悪口書かれて、ノート破かれてて、上靴隠されて。そんな私を見て、周りの子たちはニヤニヤ笑ってる。最初は、先生に言った。何とかしてくれると思ったから。でも、何もしてもらえなかった。それどころか、『いじめられる自分の問題も考えろ』って言われた。でもどんなに考えても分からなかった。学校が嫌で、何度も休みたいって言った。でも、休ませてもらえなかった。どんなに辛くても、吐きそうなくらい気持ち悪くても、無理やり学校に行かされた。最初は泣き叫んで抵抗した。そうしたら、母が学校の先生を家に呼んで......、無理やり部屋から引きずり出されて、連れて行かれたこともある。どんなに抵抗しても無駄だった」
     
    今から20数年前。
    私がスクールカウンセラーとして駆け出しだったころを思い出す。
    当時の学校では不登校の子を教師が自宅に上がり込んで無理やり引きずり出すという対応が珍しくなかった。
    あの時の学校の対応が当時の不登校生徒たちにどれだけ深い傷を残したのかと考えると胸の奥が締め付けられる。
     
    「だから......母に言ったの。『死にたい』って。『もう無理』って。そしたら......」
    とも子は声の震えを大きくして続けた。
    「母は台所から包丁を持ってきて......。そして、私の首のところに当てて、『じゃ、私が殺してあげようか。その後に私も死ぬから』って......」
     
    ―――!!!
    私の中で以前かほりからも隆志からも聞いた場面が呼び起される。
    あれは、とも子自身が負ったトラウマの世代をまたいだ再演だったのだ。
     
    「私は怖くて何も言えなかった。すごい......震えてたと思う。そしたら、それを見た母は『死ぬ気もないくせに』って言って、包丁をテーブルの上に投げるように置いた」
     
    ――キィーン。
    机の上に投げられた包丁の無機質な音が聞こえてくるようだ。
     
    「私は......弱音を吐くことも許されないんだって思った。それで......私は自分は石ころだって言い聞かせることにしたの。石ころだったら、どんなに暴力を受けても、痛くない。暴言を吐かれても何も感じない。そう......、私は何も感じないことで、生き残った。生き残ったけど......、生きているのか死んでるのか分からなくなった。だから、自分の体を傷つけることで、生きていることを確認してた。リストカットして、血が流れるのを見てると、『あ、私、まだ生きてるんだ』って思えた。本当は、私もかほりみたいに、学校に行かないでもいいよって言ってもらいたかった。『辛いの?』って、ただ聞いてほしかった。でも、私の気持ちなんて、誰も聞いてくれなかった」
     
    とも子の顔面が蒼白状態になっている。呼吸もかなり乱れている様子だ。
     
    「とも子さん、今とも子さんの右手にはかほりちゃん、左手には隆志さんが手を握ってくれています。二人の手の温かさを感じましょう」
    私はできるだけ落ち着いた声でゆっくりとそう伝えた。
     
    隆志もかほりも真剣な表情でとも子の話を聞き、その手を握りしめている。
     
    「かほりちゃん、隆志さん。2人を苦しめてきた場面、『かほりと一緒に死ぬ!』と言われたあの場面の元凶が今明らかになりました」
     
    かほりと隆志があの場面について、それぞれに打ち明けたことをとも子は知らない。だが、分かるはずだ。
     
    「お二人にしてもらいたいのは、そんなとも子さんを恐れたり、責めたりすることじゃありません。癒すことです。今、とも子さんに全身全霊を込めて癒しのエネルギーを送りましょう。今のお二人ならできるはずです」
    私は言葉に力を込めた。
    「隆志さんとかほりちゃんが、とも子さんを助けるんです」
     
    次にとも子に向けて言う。
    「イメージしてください。かほりちゃんと隆志さんから送られてくる愛情のエネルギー。とっても優しい気持ち。それがとも子さんの中に流れ込んできて、石ころになったとも子さんの心を照らしていきます。温かい光で包み込みます」
     
    私の言葉が途切れるタイミングを待っていたかは分からない。
    かほりが自然と言った。
    「お母さん、大好き」
     
    とも子の目から一筋の涙がこぼれて頬をつたう。
    「本当にそう思ってくれるの?私、かほりを殺したいって言っちゃったよ」
     
    かほりも目を潤ませて、もう一度繰り返した。
     
    「お母さん、大好き」
     
    それに呼応するように隆志も口を開く。
    しかしその声はいつものような平坦なものではなく、わずかに震えていた。
    「僕が...言わせたんだ」
    隆志が、とも子の手を握りしめていたその手に力を込めたのが分かった。
    「とも子...君が死にたいって言ったとき、僕はとても酷いことを言ってしまった。君がこんなにボロボロになって生きてきたのに...。僕は、何も見えてなかった。自分の理想の家族を、君に押し付けてただけだったんだ」
     
    言葉を探すように、隆志は一度うつむき、そして再びとも子を真っ直ぐに見つめた。
     
    「この前、かほりがいなくなって……二人で死に物狂いで探したとき、僕は生きた心地がしなかった。でも……その時、隣で顔を青くして震えている君を見て、思ったんだ。もし、かほりだけじゃなく、君までいなくなってしまったら……僕は、どうやって生きていけばいいのかって」
    隆志は一呼吸置いたかと思うと、さらに声を震わせて言った。
    「どうか、許してほしい。……かほりの母親は君だ。そして……僕の妻も、君しかいない。この家族には……君が必要なんだ」」
     
    涙で顔を濡らしたまま、とも子は隆志の方を見た。
    「初めて......私を見てくれたね。私、かほりが赤ちゃんのとき、かほりと一緒に死にたいって思った......本当にごめんなさい。こんなに大事な家族なのに。今は......あなたたちと、生きたい」
     
    乱れた呼吸の合間にこぼれた言葉が、部屋全体を静かに包んでいった。
     
    それを見て私から、かほりに話しかける。
    「かほりちゃん、大好きなお父さんとお母さんにこの前かほりちゃんが描いた絵を見せてあげてもいい?」
    私の方を向いたかほりが頷くのを確認し、私は、資料の棚から、その絵を取り出した。
    赤いドレスを着て手を広げた女性と、それをタキシードを身にまとってエスコートする男性。
    「これ......確かに僕らの結婚式の時の写真の絵だ」
    隆志は鼻をすすりながら、そして、とも子は頬を濡らしながら微笑んだ。
     
    ――パキ、パキッ。
    薪ストーブの中で、木が静かに弾ける音がした。
     
    やがて面談が終わり、三人を玄関まで見送る。
    外は、滝のような大雨になっていた。
    外への扉を開けた瞬間、耳に飛び込んできた大粒の雨音と共に、冬の到来を感じさせる冷気が玄関の中になだれ込んできて、私たちを急に現実に引き戻す。
     
    玄関から車まではものの数秒の距離ということもあり、入ってくるときには傘を持ってこなかったらしい。
    「すごい土砂降りになっちゃいましたね」
    私が言うと、
    「車までダッシュだ!」
    隆志が掛け声と共に走り出す。
    それに続いて、とも子もかほりも大急ぎで車に乗り込んでいった。
     
    「絶対濡れたよな」
     
    颯爽と駐車場を出て行く黒いワンボックスを見届けた後、私は静かに玄関の扉を閉めた。その瞬間、雨音がふっと遠のく。
    まるで外界との境界を確かめるように、相談室の中は、再び静かな非日常の静寂を取り戻した。
     
    つい今しがたまで、3人が三角形になって座っていた椅子を元の位置に戻しながら、私は感慨深く思い出していた。
    初めてとも子に連れられて、かほりが私のもとを訪れたのが昨年の11月4日。1年の関りを経て、家族が大きく動き出した。もちろん長年抱えてきた夫婦の問題が全て解決したわけではない。これからもかほりは辛い経験をするだろう。でも、内在化された両親がしっかり土台になって支えてくれる。もう大丈夫だろう。
     
    私は終わったばかりのケース記録を書くために、パソコンの起動ボタンを押した。
     
    鋳物で作られた薪ストーブの火はもうほとんど落ちてしまっていたが、それでも尚、ほんのりとした暖かさを相談室に伝えていた。
    ―――――――――――――――――――――――
     
    ◆エピローグ①
     
    20XX+4年11月
    どんなに経験を積んでも初回のカウンセリングはやはり少なからず緊張がある。客を迎えるのに恥ずかしくない程度に相談室の掃除をし、クライアントに出す茶菓子の準備を済ませた後、自分用のコーヒーを淹れる。約束の時間まではまだ30分程度ある。手持ち無沙汰で落ち着かない気持ちを大好きなコーヒーの香りでリラックスさせつつ、私は今から会うクライアントの情報を再確認すべく、パソコンを起動させた。
     
    パソコンの横のコルクボードには最近私のお気に入りの一枚の絵ハガキがクリップで留めてある。その絵ハガキは重いケースを終えて疲れ切ったときに私の精神を癒してくれる。
    絵ハガキに描かれているのは、赤いドレスをまとった女性とタキシードを着た男性が寄り添って立っており、その二人に満面の笑みで花束を渡す小さな女の子。
    ときおり、絵ハガキを裏返しては文面を読み返す。
    それを読むと更に私はパワーをもらえる感じがする。
    「よ~し!今から新しいケースだ!頑張りますか!」
     
    「榊さん。その節は大変お世話になりました。私は今高校3年生です。高校では美術部に入りました。先日の展覧会の絵を絵ハガキにしたので見てください。中学はあんまり学校に行けなかったから勉強が大変ですが、美大進学に向けて猛勉強している受験生です(笑) 坂部かほり」
     
     
     
    ―――――――――――――――――――――――
     
    ◆エピローグ②
     
    「アハハ!」
     
    周囲から楽しげな笑い声が聞こえていた。
    あれは自分に向けられた嘲笑だったのか、それともオレなんか最初から存在しないかのような無関心だったのか
     
    まぁ、今更どっちだっていい。
    一つだけ確かなのは、あそこがオレのいていい場所ではなかったということだ。
     
    今までオレに投げられた様々な言葉がそれを確信させる。
    脳内で反響するそれらの言葉は、もはや悪口ではなく、オレに下された「判決」だ。
     
    そしてその判決に従うことがこの世界の正しい秩序なんだ。
     
    痛みを感じる資格さえない。救いを求める権利さえない。
     
    「……ア、アァ……」
     
    自分があそこに存在してしまっていたという「間違い」が正された。
    ただそれだけのことだ。
     
    ささくれを剥きすぎて爪の間から、じわりと血が滲んだ指先。その指の持ち主は、折りたたまれた一枚の紙を広げて、じっと見つめる。
    何度も開いては折ってを繰り返し、ボロボロになった紙。そこには印刷がかすれて読みにくいながらも、『山の香りカウンセリングサービス』の文字はしっかりと残っていた。
     
    終

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――
    『こころ日誌』~不登校の少女が描いた「血まみれの絵」に隠された真実~を最後まで読んでいただいて本当にありがとうございます。
    エピローグ②に出てきた突然のモノローグ。
    「これで終わりなの?」とビックリされた方も多いかと思います。
    その正体が気になった方は是非、別で公開している『こころ日誌・インスペクシオ』~不適応者はかく排除される~も併せてお読みください。より『こころ日誌』の世界を深く覗いていただける構成となっております。
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    愛知県日進市でカウンセリングルームを主宰しております臨床心理士です。カウンセリングについて漠然としたイメージを持っている人は多いけど、本当のカウンセリングって何をするの?って方にカウンセリングのリアルを感じてもらいたい思いから、小説『こころ日誌』を連載していきます。

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