
死に至る病、それは物語である
「僕たちがどんな関係になっていたとしても、来年の春、ここに桜のシフォンケーキを食べに来よう。」
横浜の洋館にある喫茶店で、彼はそう指切りして誓った。縋るような声だった。
それから一年が過ぎた。約束は果たされないまま、春が終わろうとしている。
きっかけは、些細な言葉の行き違いだった。積もり積もったすれ違いが、ある夜、大きな喧嘩になって噴き出した。売り言葉に買い言葉を重ねるうち、私たちは互いに、引くに引けないところまで来てしまった。
「私の言葉や文体に対する一切の尊重なく、不適切な形で指摘することが続くようでしたら、貴方に私の言葉を届けることは控えさせていただきます。根気強く貴方の対話に付き合うことのできる相手を他にお探しください。」
そう伝えてしまったきり、彼からの返事は途絶えた。桜の季節に送ったメッセージは、今も未読のままだ。
別れた後、私を支配したのは「早く忘れて次へ進もう」という前向きな感情ではなかった。「一人の人を愛し続ける純真」か、あるいは「自分の孤独を引き受ける孤高」か──そのどちらかを貫き通したいという強い思いが、私の中にあった。新しい恋人をつくることなど、到底受け入れられなかった。
いつか彼ではない誰かに恋してしまう未来が、恐ろしい。そして何より、あの人が知っている「当時の私」から、今の私が日毎に変容し、別の人間へと上書きされていくこと自体が、耐え難かった。
そんな時、私はひどく甘美で、危うい誘惑に駆られることがある。
「いっそ今すぐ死んで、彼の知る『私』を永遠のものにしよう」と。
今ここで人生の幕を下ろせば、私は純真か孤高を貫き通した「素敵なヒロイン」になれるはずだ。自分の人生という物語を、最も美しいページで完結させたい──そんな狂気じみた思いが、私を、ある病へと駆り立てる。
私はその病に、勝手に名前をつけている。「物語的自殺」と。
そんな「悲劇のヒロイン」ぶったことを自分には無関係だ、と心の強いあなたは思うかもしれない。実際、こんなことを一切思わない人間も確かに存在する。けれど恋の病とは、すべての病と同じように、弱った心に巣食うものだ。判断を下すのは、あなたが心細い立場に置かれてもなお、この病を希求しない人間であるかどうかを確かめてからでもいいだろう。
物語的自殺とは何か。それは「物語」の中で生きてしまう人間が、「物語的な幸せ」や「ハッピーエンド」に拘泥し、美しい幻・矛盾なき破滅に身を投じてしまうことだ。私たちは、自分の生に意味を与える物語を美しいものにしたいという欲求から、時に破滅を望んでしまう。現実にも、創作にも、この手の破滅はありふれている。
「愛しあう少女二人が学校の屋上から飛び降りて心中する」という終わり方をする物語を、読んだり聴いたりしたことはないだろうか。私はかつて、こうした物語に影響を受けたのだろう少女たちが、心中自殺を配信していたケースをインターネットで目撃したことがある。「無垢な少女たちが少女のまま愛し合って人生の終わりを迎える」という物語類型には、確かに美しさがあるかもしれない。私はどちらかといえば「本人たちにとって幸福であればそれでいい」という立場ではある。しかし彼女たちの死がインターネットで情緒的価値の消費対象にされることへの違和感からか、この自殺を心の底から全肯定するのは難しい。
なぜ彼女たちは、そして私は、こうも簡単に「物語的自殺」に絡め取られてしまうのだろう。
思うに、物語を消費する世界に生きる私たちにとって、「人生を物語化すること」自体は、驚くほどありふれた行為だ。私たちは、自らの過去を秩序立てて語る生き物だから。記憶に残るように、意味づけできる要素を組み立て、再構築しながら語る。それが物語となる(そもそも「物を語る」と書いて「物語」だ)。それを誰かに向けて、よりわかりやすく語ろうとするほど、物語としての要素は強くなっていく。就職活動の自己アピールなどは、わかりやすい例だろう。「私の人生の軌跡」は、他者に飲み込みやすい形にしようとするあまり、ほとんど自分の手元から離れていく。
なぜ、そうまでして物語化してしまうのか。それはきっと、「ただ在る」だけに過ぎない、無意味で混沌とした「生そのもの」を、意味づけしないまま放っておくことができないからだ。哲学者の池田晶子は、こう書いている。物語化したい、物語化せざるを得ないというのは、人間の根強い欲望というか習性のようなものだ、と。意味づけしないで混沌のままほうっておくということが、どういうわけかできない。意味がほしいという、このどうしようもない癖は何なのだろう、と。
つまり私たちは、「人生の意味」を求めて、人生を物語化してしまう生き物なのだ。そしてその「意味」は、必ずしも大きな成果からだけ生まれるのではない。哲学者の鈴木生郎が指摘するように、私たちは、苦しい状況でも常に明るく人を支える人や、売れなくても情熱的に何かに取り組み続ける人の生き方にも、特別な価値を見出す。平凡な日常や、成果を生まない静かな生であっても、そこに固有の物語を見出すことで、私たちはそれを肯定できる。
けれど、ここで思い出してほしい。失恋した私と、心中した少女たちの話を。人生をひとつの作品のように捉え、そこに「注目に値する価値」を見出そうとする態度は、裏を返せば、自分自身に対してひとつの残酷な要請を課すことにもなる。「自らの人生を、鑑賞に堪えうる物語に仕立て上げよ」という要請だ。物語的自殺は、特異な誰かだけがかかる病ではない。現代を生きる私たちに、等しく潜んでいる病理なのだと思う。
物語が与える「意味」は、必ずしも「生」を支える方向にだけ働くとは限らない。それどころか、物語の完結性や美しさを求めることは、生そのものを手放させてしまう、逆説的な力を持ちうる。かつての神風特攻隊は、「国家の守護」という物語によって、若者たちに強烈な生の意義を与えると同時に、彼らを死へと追いやった。キリスト教の聖戦もまた、信仰という物語が殉教を美化し、生よりも「意味ある死」を選び取らせる原動力となった。個の生存本能よりも、物語としての整合性が優先されてしまう瞬間が、歴史にはいくつもある。そしてそれは、戦争や宗教のような大きな出来事に限らない。「失恋」や「喪失」への抵抗として、私たちの中にも、今なお息づいている。
自分の人生を物語化するとき、私たちは、それまでの人生で触れてきた物語に、少なからず影響を受ける。自らの物語に身を投じるようなキャラクターの在り方は、やはり魅力的だ。だから私たちは、自分の人生をも物語化したくなる。たとえば「ルパン三世」がそうだ。
「敵は強い。ひょっとしたら今までで最悪の敵かもしれない。仲間たちはみな傷つき、戦う意志を失っている。どうなるんだルパン三世、はたして逆転の秘策はあるのか!?」
「おい、ルパン」
「なあ、次元。こうしてるとさ、聞こえてこねぇか?いい音楽がさ。」
「音楽?」
「主人公が逆転するときにかかる、かっこいいやつだよ」
「ルパン、人生は物語じゃねぇぞ」
「なら、物語にすればいいじゃねぇか」
「なぁんだって?」
「俺って人生の視聴者は俺だけだぁ。だったら俺が続きをみたくなるような物語じゃないと意味がないだろう」
「だからよ、次元。終わりがくるその日まで、俺はルパン三世でいたいんだよ」
このルパンの姿勢は、自分の人生の「作者」であろうとする、ほとんど究極の意志だ。どんなピンチも「逆転劇の伏線」として意味づけ、主人公としての生を貫徹するその生き方は、文句なしに魅力的だと思う。しばらく、この台詞が頭から離れなかった。
私が、元恋人への想いを抱えたまま「純真なヒロイン」として死を夢想するのも、根っこのところではきっと、このルパンと同じ欲望なのだろう。自分の人生という物語の「視聴者」である自分自身を納得させるために、最も美しいタイミングで「完結」という名のピリオドを打ちたがっているのだ。そう、物語的自殺である。
しかし、どれほど頭の中で美しい物語を描こうとも、現実は決してその通りには進まない。劇作家・阿藤智恵の戯曲『バス停のカモメ』に、こんな台詞がある。物語の中の人生は「ほどよくハラハラはするけれど、そのうちに最後のページが来て、裏表紙を閉じればきれいさっぱり、終わってしまえる」ものだ、と。けれど、現実はもっと過酷だ。
でも本当の人生は、そんなふうにきれいには、いかないものだよ…ページの外にも、えんえんとつらなる世界があって、無関係な人々が、あれこれとおせっかいをしたり、じゃまだてをしたり、迷走してばかり。…ただ脈絡のない日々の連なり、誰かが書いた物語のようなしっかりとした構造とか、筋の展開なんてものは何もないのさ。…そして一番おそろしいことには、われわれの人生は表紙を閉じて簡単に終わらせることができない。醜い苦しみが、最後の最後まで続く。現実の人は皆、ただその意味のなさ、退屈さ、虚しさに耐えて、ただその忍耐力をもって、死ぬまでの時をなんとかやりすごしているんだよ。
そうだ。私の人生も、きっとこうなのだ。あの夜の喧嘩も、途絶えたままの返事も、果たされなかった約束も。伏線でも何でもなく、ただの、無関係でどうしようもない出来事の連なりに過ぎない。
それでも生を終えない以上、私は、どうにかしてこの無意味さ・退屈さ・虚しさに耐え、地続きの今に向き合うための方法を探さなければならないのだろう。
そのために、一つだけ、考え方を変えたい。人生の物語化を、「目的」ではなく「生きるための技法」として捉え直すこと。もし物語を、生を支えるための補助線としてではなく、人生の目的そのものに据えてしまうなら、私の実存は物語という筋書きに従属し、その美的な完結を求めて、いつか本当に物語的自殺へと急かされてしまう。
けれど本来、自分の人生を物語ることは、能動的な闘いのはずだ。物語という仮初めの秩序を借りて、もう一度、あの不条理で脈絡もない日々の連なりへと、力強く戻っていくために行われるべきものだ。自らの人生の作者であろうと足掻きながらも、物語の枠組みからはみ出していく「生の拍動」から、目を背けないこと。矛盾にまみれ、整合性の取れない人生そのものを、生きている証として抱え込み、明日という不確かな章へと、自分を投げ出し続けること。この「物語」と「実存」の間のギャップに耐えながら、無意味さ・退屈さ・虚しさをやり過ごしていくことこそが、自分の人生を物語る者の、せめてもの誠実さなのだと思う。
来年の春が来たら、私はまた、あの横浜の洋館にある喫茶店へ行こうと思う。
指切りをした彼はもう、隣にいないかもしれない。桜のシフォンケーキも、独り占めになるだろう。それでもきっと、私はあの店の扉を開ける。約束を果たすためではなく、果たされなかった約束もまた、私の人生というやっかいな物語の、ただの一頁に過ぎないのだと、確かめるために。