
泣きながらキクタンを聞いた話
あれからまだ10年も経ってないのか…。
とても急な話で、夫の転勤が決まった。
転勤は多いけれど、いつもなんとなくの時期は予想できる。会社で内々の話をもらうと、夫はそわそわしながら「ジャジャーン!決まりました!」と発表したり、「実は…どうかなあ」と不安そうに発表したりする。
「いつも」と言うくらいには、我が家は転勤族であった。
数年前のその時は、ただならぬ様子で夫が帰宅した。なんだか顔色が悪かったのを今でも覚えている。
何事かと思ったけれど、家ではいつも子どもが誰かしら泣いているような状態だったので、ドタバタしていてその後は夫をゆっくり観察する余裕もなく家事育児をしながら過ごすしかなかった。
夜もとっぷり更け、子ども達が寝静まった後で、ついに「ちょっといいかな、実はさ…」と夫が話し始めた。
「転勤が決まりまして…」
「…今!?」
それは、思ってもみないような時期、考えたこともなかった地域への転勤であった。
一年後、国外転勤。
夫は、あまりにもその転勤がわたしにとって大きすぎる負担である事を分かっていたので、普通は上司に打診されたらその場で「はい承りました」と返事するようなものを、一旦家に持ち帰ってきていた。「家族と相談します」と。
夫がキャリアを重視してないことは知っていたけれど、それはさすがにすごいなと思った。
わたしはその時、産後10日ほどだったと思う。
妊娠中に骨を数本折ったり、コロナ禍であったり、それなりに大変な妊娠生活であった。
だから、わたしは無事に出産して
「めでたし、めでたし。こうして家族が増えて、みんな笑顔で暮らしたのでした」
と映画のエンドロールが流れているような気分で過ごしていた。およそ9ヶ月間におよぶ、大長編の物語だった。ハッピーエンドで、だれもが幸せになった、涙あり笑ありの、よい結末だった。
ところが、
エンドロールが終わったら、暗転して、
バァーン!
「続編、作成決定!!」
ババァーン!!
「ー◯◯家に告げられた、突然の転勤辞令ー」
ドドーン…
「◯◯編、来年夏 公開予定」
みたいな予告が思いがけず流れたような、そんな衝撃だった。
勝手に、他人が作り始めた我が家の続編。
え、嘘でしょ!?
なんでそのまま幸せに暮らせないの?ここまで、みんなで、こんなに頑張ってきたじゃん…。
転勤族をしているとよく思う。
どこに住むかというのは、結構自分の人生で大事な選択肢であると思うのだけれど、それが勝手に決められるって、なかなかすごいことではないだろうか。
夫はわたしに転勤を告げたまま、言葉少なに隣りに座っていた。
「あまりにも大変だから、断ることも考えているんだけど。断ったらどうなるのかは分からないけど、別にそれでどうにかなったら、もうそれでいいと思うんだけど」と。
夫と子育てをしない、という考えは、まったく浮かばなかった。どうやったら家族で離れずに暮らせるだろうと、そこが大事なように思えた。だからショックを受けつつも割とすぐに「行くしかない、みんなで行こうか」と返事をした。
いつも転勤はそうだ。決まったら、もう後はやるべき事を粛々とこなしていくしかないのだ。もうその時までに、その地でできる事は限られてしまうのだから。
一人決意を固めた私に、夫はさらに申し訳なさそうにこう続けた。
「実は、そこに行くのは来年なんだけど、その前準備みたいなのもあって…そのために再来月に国内でまず引越しなんだけど…。」
そこからは、本当に目の回るような忙しさで、引越しの用意をした。家に新生児がいる中で。
子ども達のお別れ会もした。子ども達は笑っていたけれど、仲良しのママさん達と別れる時には、わたしは寂しくてめちゃくちゃ泣いた。
荷物の搬出が終わって、空っぽになった部屋を掃除しながらも、まためちゃくちゃ泣いた。
何度も、何度も、同じように転勤、引越しを経験しても、こればかりは毎回泣いてしまう。
この部屋で、子ども達とブロックで遊んだな。この壁に貼った電車のポスターの前に二人で毎日座り込んでは、電車の名前を覚えたな。
そんな風に、子どもの可愛い姿が、部屋のあちこちに残っている。パタパタと走り回る様子が目に浮かぶ。
その町には湖畔の綺麗な美術館と、途方もなく美しい夕焼けが見れる湖があって、夕日の沈んで茜色に世界が染まった中、湖を見ながら子どもと手を繋いで歩くのが好きだった。寂れた町の蕎麦屋さんに入って、ありえないくらい蕎麦つゆを服に飛ばしながら子どもと蕎麦を食べたっけ。
大変な思いをしつつ、小さな小さな可愛い子ども達と長い時間を過ごしたその部屋は、その土地は、その時期の子育ての記憶とあまりにも強く結びつき過ぎていて離れがたい。子どもの思い出と引き剥がされるような気分になるのだ。
どれも愛しい、愛しい時間だった。
引越しが決まってからの2ヶ月間と、引越し先で子どもを幼稚園に入れるまでの2ヶ月間、あまりにも過酷だったのでどうやって乗り越えたのか記憶が曖昧になっていてよく思い出せない。
赤ちゃんが生後2ヶ月で引越したので、予防接種を途切れなく受けさせることが大変だった気がする。
国内引越しが落ち着いてしばらく経ったころ、今度は国外への引越し準備を始めなければいけなくなった。
子ども達が小さいので、私は毎日を綱渡りのように過ごしていた。夜中はからなず誰かが泣いて何度か起きる。子ども達の年の差があまりなく妊娠出産をしていたので、その時でわたしは既にもう5年近く、3時間以上連続で眠れた日が無いような状態だった。
「自分の時間が無くて辛いよね〜」なんて子育てについて話すけれど、それよりもっと酷くて「家事をする時間がなくて辛い」だった。夜23時頃に食器を洗ったり、洗濯物を干したり、そんなことをずっとずっとしていた。
自分と子ども達だけ日本に残るか。
一度は行くと決めたけれど、これも何度も考えた。でも結局、あまりにも夫が有能な子育てパートナーだったので、実家近くに引越すことよりも、夫と海外へ行った方が楽だろうという結論になった。わたし一人では、子ども達の可愛さを抱えきれない(もったいない)と思ったのもあった。
以前ロンドンに暮らした時に、もっと言葉が通じれば、どんなに悔しい思いをしなくて住んだだろうと感じたことが、山ほどあった。
あれもできた、あの時ああ言えばよかった、こうすれば良かった、帰国後そんなことをよく考えながら過ごしていた。
わたしは、赤ちゃんを生かすのに精一杯の生活の中で、毎日お皿を洗う時にキクタンのCDを流すようになった。それで、新しい単語を何百個と覚えた。
背中にはまだ歩けもしない赤ちゃん、足元にはかまってかまっての小さい子ども。お皿を洗っていて構えないので、喋ってなんとかする。それをしながら、新しい言語を覚える。
あまりにも毎日手が足りなくて、自分があと3人くらい欲しい。保育所は転勤族との相性が悪過ぎた。うちの子どもはアレルギーもあって、なかなかパッと人に預けられない。一時保育の申し込みは、申込み開始と同時に電話しても、繋がる頃にはいつも満員で諦める日々。電話が繋がるまで掛け続けた15分間、子どもは泣き続け、満員です、の返答に私も電話を切っては無力感に涙が出てくる、それの繰り返し。
それから数年経った今はもうしないけれど、その時期だけよく使った、わたしのとっておきのことがあった。
それは、子どもにお願いして、「ママならできる!」と言ってもらうことだった。
毎日、本当に、もうだめだ、いや今だけだから、もう少しだけがんばってみるか。ああなんて可愛い、でも言うことなんて一つも聞かない。ずっと泣いてる。すぐにオヤツがなくなる。うるさすぎるし、寝顔は可愛いし、すぐに熱を出すし、新しいことがどんどんできて天才だ。
そんな中で「ママならできる!ママならできる!」と訳も分かってない感じの子どもに言ってもらいながら、皿を洗いながら、キクタンを聞いて新しい単語を覚える。
段ボールに囲まれて、赤ちゃん、子ども、段ボール、いる、いらない、新しく買う、これは持っていけない…。
あの日々を乗り越えられたわたしなら、もう、たしかに、なんだってできるよ、と今、思う。
子どもに「できる!」と言ってもらっていたわたしは、最弱で、最強だった。
キクタンのCDを聴いた事がある方にしかきっと分からないけれど、あれはなかなか愉快な曲調にのって単語が読み上げられている。
わたしは、あの愉快な曲を聴くと、今までの人生で一番いそがしくて、眠たくて、子ども達が可愛かった時期を思い出してすぐに涙が出る。そんな人、他に聞いたことがないから珍しいかもしれない。
ママならできた。がんばった。
その後、無事に海外引越しを終え、任期を終え、帰国もできた。もちろんまた空っぽの部屋を見てたくさん泣いて帰ってきた。泣けるのは良いことだ、良い思い出がたくさんできたからなんだと思えるようにもなってきた。
子ども達も、良いこと悪いことたくさん経験し、元気に無事に帰国できた。それだけでとても嬉しかった。
夫は今でもキャリアはどうでも良さそうに、勤務地の希望調査では子育てしやすい場所ばかり回答しているようだ。
あの時、生後10日くらいだった赤ちゃんも、今ではすっかり大きくなって幼稚園児になっている。
ようやくわたしもこうして、過去を振り返り、文章にまとめる余裕のある生活を送ることができている。
夜もゆっくり眠り、朝は賑やかに子ども達を送り出す生活。
今また一つのエンドロールが流れているようだ。もう、大変過ぎる続編はいらない。