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おじいちゃんと呼んだ日 ~瀬戸内の蒼い海と、海より深い嘘の愛~ 第1話

    作者のことば
    この小説は、妻との約束から生まれました。
    ALSと診断された妻が、私にこう言いました。「あなたと私の体験をモチーフにして、小説を書いてほしい」と。その代わり、「私は、世界初のALSが完治した、元患者になるから」と、笑いました。それが、この物語の始まりです。
    小説も、ほとんど読んだこともない私は、小説とは『何ぞや』から入り、今、書いているものが、小説なのか?作文なのか?日記なのか?すら、いまだにわからないままです。
    なにぶんにも、そんな奴が初めて書いた文章ですので、もし、審査員の先生方、一般読者の方々の,お目に触れる様な機会が御座いましたら、乱筆乱文で大変ご迷惑を、おかけ致しますが、どうか寛大なる心で、ご容赦のほど平にお願い致します。

    それと、もう一つ書こうと決めた時、誓ったことがあります。それは、主人公を、絶対に死なせないということです。
    今まで、難病を題材にした小説や映画は、主人公が亡くなって幕を閉じるものがほとんどでした。それが「感動」として受け取られてきた。でも私は、妻がそういった作品を見て、泣いているのを何度も目にしてきました。難病の当事者にとって、主人公の死は感動ではなく、自分の未来への、絶望に映ることがある。介護している家族にとっても、救いにならないことがある。
    ただ、誤解しないで頂きたいのは、そういった作品を否定しているわけではありません。難病の当事者になる前は私たちも、そのような作品を見て映画館で感動の涙を流していたからです。
    だから私は、妻が読んでも泣かない小説。おなかを抱えて笑えて、その一瞬だけでも今を忘れられる小説。読み終わった後に笑顔で「よかったね」と言える小説。主人公が絶対に死なない難病小説を書こうと決めました。

    この小説のコンセプトは、情景が見え、主人公が絶対死なない、笑って、泣けて、元気が出る。これを全て詰め込んだ、ハッピーエンド難病小説です。
    ただし、神様が現れて治してくれるような話にはしたくなかった。愛の力で奇跡が起きる。そういう話でもありません。
    妻がALSと診断され、少しした時、医師から私に話があり「ALSは、必ず呼吸が出来なくなる日が来るので、その時は、どうするか決めておいて欲しい」と、言われました。最初は何を決めるのか、わからなかったので、医師に質問したところ「そのまま、治療をやめて死ぬのか、気管切開をして、寝たきりのまま寿命を全うするかです」と、言われたので、私は医師に「妻は、ALSだと診断されて、今、かなりショックを受けて落ち込んでいるので、とてもじゃないが、そんな話は出来ない」と、答えると「今、言わなくてもいずれ、言わないといけない日が来るので、今からなら、まだたっぷりと時間があるから、色々考える事が出来るので」と、強く言われた私は、帰宅しても、妻にどう言えばいいか悩んで、言い出せずにいると、数日経った頃、妻が「何か、悩みょうるじゃろー?私の事よね?」と聞いてきたので、私はとっさに「違う、違う!お前の事なんかで悩まんわ!」と、明るく答えたのですが「ねえ、何年一緒におる思もようるん?わからんわけないじゃろ」と、笑いました。
    観念した私は、『ぼそぼそ』と小さな声で、医師に言われた事を伝えました。妻はそれを聞いて、少し黙っていましたが「出来る事なら、生きていたい!けど、生きていたら迷惑かけるけー」と泣きました。私は「何が迷惑なんじゃ!いつ、俺が迷惑じゃ言うたんや!お前には、生きる権利があるんで。それは誰にも文句言えん、お前の権利じゃ!」と、強く言いました。すると妻が泣きながら、笑顔で得意げに「そう言うと思うた。私は、ひろ君の、言いそうな事は、何でもわかるんじゃけー」と、言うので「お前はエスパーか?エスパーなら死ぬわけないじゃろう?」と、二人で泣きながら笑いました。
    その日から二人で、ALSの事を必死で検索したり、本を読んだり、医師に聞いたりして、情報を集めました。すると、私たちの敵は、ほぼTDP-43と言うたんぱく質で、運動神経細胞にダメージを与えている事がわかったので、じゃあ、こいつをやっつける方法は、どうなっているのかを調べると、まだ、それを排除する薬は出来ていないが、進行を遅らせる薬は続々と治験が開始されていました。
    もっと調べていくと、TDP-43を標的とした、根本治療を目指す、核酸医薬品と言うものにたどり着き、各大学の研究チームがしのぎを削って開発を急いでいることがわかりました。それに、日本が世界に誇るスーパーコンピューター富岳の、数万倍から数十万倍の速さを持つ量子コンピューターの本格稼働も、2030年頃までには見込まれています。創薬の発見に必要なシミュレーションも富岳でも数か月から数年かかる計算を量子コンピューターは、数分から数時間で終わらせる可能性があります。それと、iPS細胞の進化も止まりません。このような事を調べれば調べるほど、ALSが完治する病気になるのは、そんな遠い未来では無い事がわかりました。
    この、調べた結果を見た妻は「どうせ死ぬんなら、この医療の発展にかけてみる!ひろ君には迷惑かけるんじゃけど、気管切開して生きてみたい!」と、言ってくれました。その後で、妻は笑いながら「私が、世界初の、ALSが完治した患者になって、必ず、ひろ君に恩返しするけー!待っといてね!」とも言いました。

    ですから、この物語はここから、主人公の完治するラストへ続いて行きます。そして、その私が書いた、物語のもっと先には、私の妻が、また、色々な難病患者が完治する未来が、必ず待っています。ですから、この物語は主人公が完治するラストシーンを書き上げてから書き始めた、終わりが始まりの物語です!

    私の妻は、ピアノ講師でした。症状が出始めた頃、妻は「ピアノを弾きすぎて、指が疲れているだけ」と笑っていました。律が同じように笑い飛ばす場面は、その記憶から生まれています。ALSは、その個々の方々で病状、進行過程、進行スピード等、全く異なります。ですからこの物語の中では、私が目の当たりにした、妻のALSの進行過程を、出来るだけ忠実に再現したいと思いました。
    この物語の中には、私と妻が、実際に交わした言葉が、所々に散りばめてあります。どの言葉かは、読んでいるうちに、きっとわかります。
    この物語は、私の妻へ。そしてALSをはじめとする、現在難病と闘っている、全ての当事者の方々へ。毎日その隣で支え続けている、全ての介護者の方々へ。治療に向き合っている、全ての医療関係者の方々へ。そして、この物語を読んでいただいた、全ての方々への、私の祈りであり、願いであり、希望を全て詰め込んだ物語です。
     
    もう、一つ、わがままを言わせてください。私が妻の介護をしている時、本を読む時間も、心の余裕も全くありませんでした。だからこそ、おこがましいとは思いますが。いつか、この物語がドラマになってほしいと思っています。それは、テレビをつけていれば、耳から入ってくるから。
    疲れ果てた夜でも、笑える場面があって、泣ける場面があって、最後はハッピーエンドで終わる。そういう物語が、難病と闘う、誰かの孤独な夜を、少しでも明るくできたら。あなたは、一人ではないと寄り添うことができたら。それだけで十分です。

    先ほども述べたように、ALSは、脳からの命令を伝える運動神経が徐々に障害され、全身の筋肉が徐々に痩せていく病気ですので、ドラマで描かれるような、劇的な速さで進む病気ではありません。少なくとも妻の場合は、今思えば、ALSと診断される数年前から、じっくりと、時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと、迫って来ていました。この小説では、そのリアルも、できる限り正直に書きました。
    笑えて、泣けて、最後は元気になれる物語を。難病小説は暗くなくていいんじゃあないか?主人公が死ななくてもいいんじゃあないか?そういう思いでこの物語を書きました。

    そして最後に、この小説をもう一つの意味で残したいと思っています。
    私はこの物語を、『未来への予言の書』としても、書きました。
    今までの、医療の進歩の歴史を紐解いてみてください。世界中の医療関係者、研究者達の血のにじむような努力により、色々な難病に、打ち勝ってきた事実がそこにはあります。白血病が、いい例ではないでしょうか?以前は、不治の病として、ドラマなどでも取り上げられていましたが、今では、治る時代になってきました。池江璃花子さんなどは元気に泳いでいる姿を見せてくれています。
    ですから、現在難病と闘っている方、その方に関わっている、全ての方に未来に希望を持ってほしい。治る未来は、そこまで来ています。
    少なくとも私は、現時点で、妻のALSが治ると信じております。妻も同じです。愛犬のラッキーも同じ思いで『母ちゃん』の帰りを、首を長くして待っています。

    現時点では、この小説の結末は嘘です!
    事実、現時点での医学では、ALSは完治しませんから。しかし、医学の世界に後退はありません!前進あるのみです!
    先ほどは、白血病の例を取り上げましたが、医学の進歩の歴史を遡ると、不治の病、難病にことごとく打ち勝ってきた、輝かしい歴史がそこにはあります。それは、医療従事者の方々、それに関わっている方々の想像を絶する、努力、執念の上に成り立っています。最近では、結核、C型肝炎などは、薬を飲めば、ほぼ完治します。エイズも完治はまだしませんが、適切な治療を受ければ死なずに寿命を全う出来ます。どれも、以前は不治の病と呼ばれ命を落とされた方も沢山います。
    ピロリ菌なども、1982年に発見される迄は『胃の中は強い酸性である為、細菌は生息出来ない』というのが常識とされていました。しかし、あれだけ医学知識を持つ人たちが、長年信じて誰一人疑わなかった常識が、一夜にして覆りました!ですので、どんな難病でも、例えば、明日、治療方法、薬が発見されて治る病気になる可能性は大いにあります!
    だから、私は、この物語の結末が、近い将来、必ず常識になる日が訪れると信じております。それと共に、『昨日の常識は今日の非常識』に必ずなると信じております。

    そして、ALSが治る日が来た、その時、この物語を手に取ってほしい。そして気づいてほしい。私が、これを書いた時、その未来はまだ来ていなかった。
    それでも、私と妻は、信じて、調べて、近い将来、起こりうるであろう未来に、『祈り』『望み』『願い』それと『根拠』を持って、この物語を書いた。
    そして、その日が来たら、世界で初めてALSが完治した元患者の妻と共に、胸を張って言います。「俺が、予言した通りになったじゃろ!」と。
    この、物語の結末が、近い将来必ず訪れる事を心から信じて、信念を持って、この物語を広島から世に送り出します。

    この物語は、私の願いであり、祈りであり、希望をこれでもかと、詰め込んだ一冊です。この物語を読んでいただき、少しでも当事者の方は病気の事を、介護をされてる方は介護の事を、何かで思い悩まれている方は、その悩みの事を、一瞬でも笑顔になって、忘れられます様に・・・

    著者 ハスラーひろ



    あらすじ
    広島、瀬戸内の蒼い海が広がる街。ITプランナーの律と心理カウンセラーの夢は、風に奪われたテキストをきっかけに出会い、深く惹かれ合っていた。
    しかし律の体に少しずつ異変が忍び寄り、やがてALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断される。夢を愛するがゆえに別れを告げる律。真実を知りながら約束に縛られ言えない妹・皐月。夢は律と皐月が付き合っていると誤解し、すれ違いは深まっていく。
    真実を知った夢が律のもとへ向かおうとした時、元暴走族親衛隊長の父と元レディース総長の母が激突。その喧嘩を止めたのは小さなチワワのラッキーだった。
    笑えて、泣けて、最後は必ず笑顔になれる——難病と闘う全ての人へ贈る、世界初のALS完治ハッピーエンドの物語。


    プロローグ
    「あの日、箸がスルリと落ちた時、それが長い闘いの始まりだなんて、誰も気づかなかった。……そう、本人ですら。」


    第1章

     朝の光が、カーテンの隙間から起こすより先に、夢はベッドから、スルリと抜け出した。隣ではチワワでチョコタンのラッキーとブラックタンのハッピーが、まだ幸せそうに丸まって寝息を立てている。 窓際に歩み寄ったとたん、カーテンレールが「シャ~ッ!」
     と悲鳴を上げた。 そのとたん、目の前に飛び込んできたのは、吸い込まれそうな青い空と、キラキラと光を反射させた瀬戸内の蒼い海。 凪いだ海面には、チェック柄を描くように牡蠣いかだが整然と並び、その遥か沖合を滑る船が、静かに真っ白な航跡を引きながら進んでいく。 眼前には、圧倒的存在感で朝日を纏った宮島の弥山が聳えていた。 「よしっ、行こうか!」
     夢が振り返ると、その音に気づいた二匹が、大きな耳をピンと立て、ちぎれんばかりに小さな尻尾を振って夢の足元にじゃれついた。
    「連れてって!」
     と言わんばかりの二匹の勢いに、夢は思わず笑みがこぼれる。
    「ごめんね、今日は二人ともお留守番。お土産話、楽しみにしとってね!」
     今日は、待ちに待った休日。夢の唯一の趣味であるダイビングに行く日である。二匹の頭を素早く撫でると、着替えの入ったバッグをつかんで部屋を飛び出した。 階段を駆け下りた夢は、歯を磨き終わると同時に、玄関を飛び出して行く。 その後を追うように夢の母、美咲の叫び声にも似た声が聞こえて来た。
    「夢~!ごはんは~?」
     夢は、車の方へ向かいながら弾んだ声で
    「ごめん、お母さん!今日はええよ。行って来るけー」
    「ええ~!もう作っとるのに~!あんたいう子は、もう~!気を付けて運転ちんちゃいよ」
     美咲の呆れたような声を背中で聞きながら、夢の心は弾んでいた。その気持ちを抑えながら車に急いだ夢だが、心は既に海の底深くに潜っていた。
     そこに待っているのは、夢の愛車ソーラーイエローのジープ・レネゲードX4WDだ。
     自宅駐車場のここからは、夏の朝日を浴びてキラキラと眩しいくらいに輝いている瀬戸内の海がよく見える。
     レネゲードのエンジンをかけると、父親の影響で選んだTHE SQUAREの『Lucky Summer Lady』が軽快に車内に響いた。今日もご機嫌なレネゲードは軽快に駐車場を後にした。 だが、駐車場から道路に出た途端、生い茂る木々に遮られて海は一旦その姿を隠した。 逸る気持ちを抑えながら、緑のトンネルのような山道を下っていく。
     急なカーブを曲がり、視界を塞いでいた木々が途切れたその瞬間だった。
     目の前に、蒼いキラキラと光る海がバーン!と飛び込んできた。 急激に近づいて来る海の色に、夢の鼓動も自然と速くなる。
     程なくして、マリーナの駐車場に着いた夢は、レネゲードの両方の窓を全開に開放した。
    その瞬間心地よい風に連れられて、潮のにおいがレネゲードを覆っていくのが分かった。
     夢は車内で大きく両手を広げ、その空気を体いっぱいに吸い込んだ。それから、腕にしたシチズン プロマスターエコ・ドライブ ダイバー200mに目を落とし、待ち合わせ時間にはまだ1時間近くあることを確認して、助手席に置いてある仕事のテキストに手を伸ばした。
     その瞬間だった。『パラララッ!』
     テキストを開いた途端、いたずら好きの風の精がスルリと、テキストを奪って逃走を図った。
    「あっ!」
     夢は慌てて、車から飛び出し宙を舞うテキストの後を追った。
     2~3枚は、すぐに確保出来たが、残る2枚のテキストは逃走中である。
     ラッキーなことに、1枚は枝に絡まってその場でバタバタと動けないでいる。
     しかし、残る1枚は地を這うように、一目散に海に向かって走っている。
     夢は、咄嗟に、
    「その紙捕まえて~!」
     と、海の方向に向かって大声で叫んでいた。
     目をやると、その方向には釣りをしている一人の青年がいた。
     その声に反応した青年は振り向きざまに、向かって来ている、テキストを指さし
    「これ?」
     と聞いた。
     夢も走りながら、
    「それ、それ、それ~!お願い!捕まえてくださーい!」
     と叫び返す。
    「了解!」
     と、返事をするとその青年は、竿を持ったまま腰をかがめ捕獲態勢に入った瞬間、テキストは捕まってなるものかと、フェイントをかけ最後の力を振り絞り急に跳ね上がってみせた。
     その動きに合わせるように、青年も海に背を向けたままエビぞるような形で立ち上がり、テキストに向かって少し後ろ側にジャンプしながら手を伸ばした。
    『バッシャ~~~ン』
     と、いう音と共にテキストと青年の攻防は、ここで終了した。青年の体が海の中に吸い込まれていった。
     息を切らしながら岸壁に到達した夢が海面に目をやると海の中から伸びる右手を発見した。
    その手には、しっかりと風の精に奪われたテキストと青年の物であろう竿が握られていた。
     すると、海の中から
    「プッハ~!」
     と青年が顔を出した。
     夢は、素早くその手からテキストを奪い取り、濡れていないのを確認すると、テキストを胸のところで抱きしめ
    「よかった~!」
     と、ほっとした表情でその場にへたり込んだ。
     そこへ、海面から顔だけ出ている青年が
    「あの、俺、あんたのせいで海の中おるんじゃけど」と、声をかけた。
     ハッとして、それに気づいた夢は、焦った表情で
    「ごめんなさい、忘れとった」
     と、一言。
    「忘れとった~?ハァ~!」
     青年は海に浮かんだままタメ息をつき
    「そりゃ、ええけーこの竿、受け取ってや。昨日、買うたばっかじゃけー、濡らしとうないんよ。ほら!」
     と、右手で竿を差し出した。
    「あっ、ハイ!」
     と、夢が慌ててその手から竿を受け取ると、
    「今日は、大潮の満潮じゃけ~、一人で上がれるけー、あんたがおったら邪魔じゃけーそこどいてくれんかねー?」
     と言いながら、海面が岸ギリギリまで上がって来ている岸壁を自力で上がって来た。
     岸に上がった青年は、びしょびしょに濡れた髪をかき上げ、そのまま上半身裸になり服を絞り出した。
    「あの、ごめんなさい。私、お礼どうしたらいいですか?」
    「じゃあ、お姉さん美人じゃけー、お礼の代わりに今から俺とデートしてもらおうかの?」
     と、青年に言われた夢は途端に戸惑った表情になった。それを見た青年は
    「冗談、冗談、別にええよ、ええよ」
     と笑顔で答えた。
     その時、不意に、クラブハウスの方向から女性の声で、
    「夢、何しとるん?ボート出すよ~。早よう着替えんちゃいやー!」
     と、夢を呼ぶ声がした。
     青年は声のする方へ眼を向けながら
    「へぇー、お姉さん、夢ちゃんって言うんじゃ。夢言うて、ドリームの夢って書くん?」
    「あっ、ハイ!あなたは、律さんですか?」
    「えっ、何でわかったん?お姉さん!実はエスパー?」
     と、1m50cmぐらいはありそうな、クーラーボックスの上に腰かけた、その青年が聞いた。
     すると、その青年が腰かけている馬鹿デカいクーラーボックスを夢が指さしながら、「そんなに派手で大きい字でRITUと貼ってあったらわかりますよ!それも、ボックスの4面に」
    「じゃろー、俺、見ての通り結構ええ男じゃろ?通りすがりの美人が俺に声かけたいのー思うた時に、名前わかった方が声かけやすいじゃろう思うて、こうしとるんよ。じゃけー、目立つようにこんな馬鹿デカいクーラーボックスにしとるんよ。ちなみに、ここにも貼っとるんよ!」
     と、座っていたクーラーボックスから勢いよく立ち上がった。
     そこには、ふたの部分に、ひときわ目立つ文字でRITUと貼った文字が躍っていた。
    「けど、おかしいんよのー、なかなか声がかからんのんよ。俺が、自己分析したところ、ええ男過ぎて、もう、彼女おるんじゃあないか思うて、みんなビビッてよう声かけんのじゃ思うんよ!夢ちゃんも、そう思うじゃろ?」
     と、真顔で聞いてくる律に対して、夢は心の中で、(いや、違う!絶対違う!)
     と思いながら、
    「そうなんですかねー?」
     とお茶を濁した。
    「ところで、夢ちゃん、あっち行かんでええん?」
     と、律に言われ夢は『はっ』として「あっ!忘れとった」
     と、走り出そうとした時、お礼の件を思いだした。
    「あの、私、今から沖で潜って来るんですけど、3時間くらいで戻って来るんで、その後、よかったら、お礼に食事に行きませんか?」
     と律に聞いてみた。
     すると、
    「おっ、それはナンパなん?」
     と笑顔で聞き返す。
     夢は、強めの口調で
    「いいえ!あくまで、お礼です!お・れ・い!です!」
     と返した。
     律は、
    「ま、この天気じゃけー3時間もありゃー服も乾いとるじゃろーけー、この後、予定もないけーええよ!」
     と笑顔で親指を立てた。
     夢は、それを見て
    「じゃあ、友達が待っているので後ほど」
     と、軽く頭を下げクラブハウスの方向に駆け出して行った。
     その姿を見送りながら、律がポツリと
    「夢ちゃんって、本当に、ドが付く超天然なんじゃのー。よう、今まで生きてこれたわ」
     とつぶやいた。
     それから、服を乾かしながら釣りをしていると、マリーナに夢を乗せたボートが白い航跡を引きながら帰って来た。
     数分後、麦わら帽子を被った夢がその帽子を手で押さえながら、こちらに駆けて来る姿が見えた。
     その眩しいほどの笑顔は、律の瞳に焼き付いた。
     息を弾ませたまま
    「お待たせしました。クラブハウスのシャワー、使えるように許可もらったので、よかったら、シャワーの後これに着替えてください」
     と、ビニールに包まれた、真新しいマリーナのオリジナルTシャツを律に両手で、手渡した。
    「ほんまに?よかったー」
     律は、夢の目の前で、髪をバサバサと勢いよく振って見せた。
     すると、律の髪の間から白い塩の結晶が、パラパラと勢いよく飛び出していった。
    「ほらっ、髪、乾いたら潮吹いとって真っ白じゃろー?」
     「うわ~!」
     と悲鳴を上げ、今まさに、顔めがけて迫り来る白い粉を両手で払いのけながら
    「ごめんなさい。すぐシャワー浴びてください」
     と、叫んでいた。
    「わかった。先に釣り道具、車においてくるけー」
     と、律は、竿とクーラーボックスを持ち上げ車の方向に歩いて行った。
     それから、クラブハウスの中のシャワールームに案内され
    「じゃあ、ちょっとシャワー浴びてくるわ!」
     笑顔でそう言うとシャワールームに消えていった。
     10分ほどして、髪を整え、夢から手渡されたTシャツに着替えた律が歩いて来た。
     その姿を見て、夢は心の中でつぶやいた。
    (しゃべらんかったら中々のええ男さんなんじゃけどね~)
     律が髪を触りながら
    「いやー、よぅ乾かしたつもりなんじゃけど、まだ、ちぃーと湿っとる感じなんよ。ま、水も滴るいい男じゃけーええか」
     と笑った。
    クラブハウスを出た二人は駐車場に向かい歩いていた。
    「あのー車は、私の車でいいですか?」
    「あぁー夢ちゃんが、ええんなら俺はええけど」
    「じゃあ私の車で行きましょう。この車なんですけど」
     と、レネゲードを指さした。
    「えっ、夢ちゃんの車言うて、これなん?すっげー、これ、レネゲードX じゃん。限定発売で、150台しか発売されとらんじゃろー?」
     と、夢の車を見た律が、興奮気味にまくし立てた。
    「えっ、そうなんですか?」
     と、律の勢いに圧倒されながら、夢が答えると。
    「えっ、マジで知らんと買うたんね?」
     律は驚いた表情で目を丸くした。
    「あっ、ハイ。家が山の中腹辺りにあるので、雪が降ると4駆じゃないと、街まで降りれんけー、父さんが勝手に買って来たんですよ。私は、可愛い軽自動車が良かったんですけどね。けど、休みの日は殆ど潜りに行くので、荷物を積むのには便利なんですよ。」
     と、夢は笑顔で答えた。
    「まっ、とりあえず乗ってください」
     と夢が促すと、律が、嬉しそうに
    「レネゲード乗るん、初めてじゃ」
     と、言いながら乗り込むと、車内を興味深げに見渡した。
     律がシートベルトを締めたことを確認して、ゆっくり車を発進させた。
    「ところで、何か食べたいものありますか?」
    「いや、大概のもんは喰えるけー、夢ちゃんに任せるわ。夢ちゃんがご馳走してくれるんじゃし」
    「じゃあ、瀬戸内海のおさかな使った、おいしい料理の店があるので、そこでいいですか?」
    「もちろん、ええよ」
     それから二人は初対面という事もあり、車内で、たわいのない会話をしていたが、突然、律が真顔で夢に聞いた。
    「ところで、確認なんじゃけど、俺と飯喰うの、彼氏には連絡してくれとる?いや、彼氏に誤解されて後から揉めるの嫌じゃけー」
     夢が笑いながら
    「彼氏なんかいないですよー。私、もてた事無いんで、今まで一度も彼氏出来た事無いんですよ」
     と答えた。
     それを聞いた律は思った。
    (絶対嘘じゃ、こんな美人で、性格良さそうな子に彼氏がおらんわけがない!)
     これが、夢の周りにいる男性全員に共通している認識で、故に、夢に声をかける強者が現れぬまま、この世に生を受けて以来、現在も夢は、彼氏いない歴の記録を日々更新し続けているのである。
     それと、もう2人、夢の記録更新を強力にバックアップしている存在が家に居るのだが、それは後ほど。
     少し走ると、瀬戸内料理 『瀬戸っ子』と白地に筆書きしたような文字で、大きく力強く書いてある、和風作りの店前に車を止めた。
     この瀬戸内料理屋は、夢の幼い時から思い出が詰まった場所である。
     車を降りた夢が、
    「ここです」
     と店の入り口を指さした。
     そこには、木彫りの文字で、『心を込めて支度中』と掘ってある看板が立てかけてある。
    「夢ちゃん、お店、休憩中みたいじゃね?」
     と、律が聞くと、
    「そうみたいですね。けど、大丈夫なんで。このお店うちの両親の幼馴染がやってるお店なんですよ」
     と、微笑みながら、店主の命を受け、店の入り口で腕を組み、いかにも頑固そうな顔で夢達の侵入を断固阻止しようとしている看板を、両手で「よいしょ」と横によけ扉を開け入って行った。
    「お邪魔しまーす。おじさんおる~?」
     一歩足を踏み入れた途端、準備中の店内に漂う独特の匂いが鼻をくすぐった。 少し湿り気を帯びた木の香りと、出汁の深い香り。そして何より、調理場の奥から漂ってくる、醤油が熱い鉄板や鍋の縁でチリチリと焦げる、あのたまらなく香ばしい匂い。それは、これから始まる『旨いもの』への期待を嫌が応にも高める、この店特有の準備中の香りだった。
     店内は、磨き込まれた黒光りする太い梁が天井を走り、長年、客の背中を支えてきたであろう無垢材のカウンターと、味のある椅子が、鈍く、けれど温かい光を反射させている。 壁の品書きは、店主自から筆を執ったのか、力強い文字が躍り、その横には瀬戸内の風景を切り取った古い写真や、祭りの提灯がさりげなく飾られていた。
     整然と並んだ一升瓶のラベルと、よく手入れされた神棚。和風の落ち着いた佇まいの中に、どこか懐かしさと、『ここでなら何を食べても間違いない!』
     と思わせる本物の職人の空気が満ちている。
     店に入ると、小上がりに寝そべって競馬新聞を見ている、店主らしき姿があった。
     彼こそ、田山 勇(いさむ)!この店の店主にして、夢の両親である、勝間 裕(ひろし)、美咲(みさき)夫妻の幼稚園からの幼馴染である。
    「あっ?だれや!」
     競馬新聞に目をやったまま、ドスの利いた声が返って来た。
    「田山のおじさん、お腹すいたけー、ご飯食べさしてぇやー」
     「おっ、夢か?お前、看板の字読めんのか?おっちゃん、これから、お馬さんの運動会の応援で忙しんじゃ。おっちゃんが、この子達に飼葉料払ってやらんと、この子ら餓死するかもしれんけーのー。動物愛護の観点からも・・・」
     と競馬を正当化しようとする、田山なりの理論を説明中、それを遮り、
    「はやく」
     夢はいたずらを仕掛ける子供のような笑顔で勇の手を引っ張り、無理やり起き上がらせた。
    「お前ら親子は、本当に、遠慮いう言葉を知らんのかいの~?」
     少し怪訝な表情で起き上がると前掛けを締め調理場に入って行った。
     そこで初めて、律の存在に気付いた勇は
    「おっ!夢、彼氏できたんか?いやー、おっちゃん心配しょうたんでー。ひろと、皐月がおる限り、お前には一生彼氏出来ん思ようたけーのー。よかった、よかった」
     夢が、すかさず
    「違うよ、違う!」
     と、否定したが、この男、人の話を聞かない性分で、今度は律に視線をやり、顔は笑っているが鋭い眼光で、
    「お前、夢の家に挨拶は行ったんか?」
     と尋ねた。
     その迫力に押された律は、少しどもりながら
    「ち、ち、違います。彼女とは、今日が初対面で」
     そこへ夢が割って入り
    「じゃけー、さっきから違う言うて、ようるじゃん。今日、助けてもろーたけー、お礼に、ごはん御馳走しょう思うて、ここに来たんよ。ほんまに、父さんと一緒で、人の話聞かんよね」
    「なんじゃー!ほうか。つまらんのー。わしゃーまた、善良な広島市民が広島から一人減るんか思うて心配したで」
     と、律の方を見ながら、勇は豪快に笑った。
    「夢は、こげに美人じゃし、性格もおっとりして、ええ子なんじゃが、彼氏が出来んのんよのー。両親のええとこもろうてべっぴんなんじゃが何でかいの?」
     そう言われた夢は、顔の前で手を振りながら
    「いやいや、母さんはともかく、父さんの何処に似とるんかいね?」
    「お前、何も知らんのんじゃのー。今日は、あいつら、おらんけー、特別に教えてやるわ」
     と、料理を作りながら、勇が話し出した。
    「今は、あんな体型しとるが、夢の父ちゃん、ガキの頃は、リーゼントでタッパもあってスッと、しとってスッゲーもてたんで」
     すると、夢が、勇の話を遮り、またも、顔の前で手を振りながら
    「いやいや、絶対ない、ない!」
     と言ったが、勇はお構いなしに話を続けた。
    「お前の母ちゃんも、ひろの事が小さい頃から好きで好きで、いっつもへばり付いとっての~大学で、ひろが東京に行った時も、他の女に取られたらいけん言うて、押しかけて行って同棲したんじゃけーのー。ワシにしときゃーええのにのぉ。ワッハッハー」と豪快に笑い話を続けた
    「で、卒業して帰ってきたら、夢、お前が産まれとったんよ」
     すると夢が、
    「えっ、その話し、うちが、聞いとる話と違うんじゃけど。父さんに、うちが高校生の頃、二人のなれそめ聞いたことがあって、その時父さんは、『母さん美人やろー?じゃけー他の誰にもとられんように、大学行くとき、拉致して、スーツケースに押し込んで連れて行って、無理やり婚姻届けにハンコ押させたんよ。そんで、夢が産まれたけー、夢置いて母さん逃げれんじゃろ?、じゃけー仕方なしに、今に至るって感じかのー』って、笑いながら教えてくれたんよ」
     すかさず勇が、あきれ顔で
    「お前、その話信じとるんか?」
    「うん、だって、父さんじゃったらやりかねんじゃん」
     それを聞いた、勇は大笑いしながら
    「お前が、高校生の時じゃろ?聞いたの?それでその話、信用したんか?」
    「だって、父さん嘘言わんけー信用したんよ。この話、嘘なん?」
     その話を横で聞いていた律が、大笑いしながら
    「夢ちゃん、なんぼ何でも、それ、犯罪じゃけー。もし、お父さんが本当にそんなことしとったら、お母さんのご両親が警察に行くじゃろ?」
    「あっ、そうか。じゃあ、父さんが嘘ついとったん?」
     と、勇の顔を見た。
    「じゃけー、はなから、言ようるじゃろぅーが、反対で、母ちゃんが、ひろを追っかけて東京行ったんじゃ。よう、そげな小学生でもすぐ噓じゃ言うてわかる話、今まで信じとったのー」
     そう言いながら、二人の座るカウンターに、手際よく料理を並べていった。
     それを見た律は、
    「すっげー!超豪華じゃん」
     と、目を輝かせた。
    「どうぞ、食べてください。ここの大将、この通り口と性格と頭と顔は悪いけど、料理の腕だけは間違いないので」
     と、夢は屈託のない笑顔で律を見た。
    「では、お言葉に甘えて、いただきまーす」
     と、顔の前で、箸を持った両手を合わせて、右手に箸を持ち替えて食べようとした瞬間、律の手からスルリと箸が滑り落ちた。
     恥ずかしそうにカウンターに落ちた箸を拾いながら
    「俺、IT関連の会社で、クライアントのシステムを開発する仕事をしとって、ずっとキーボード叩いとるけー、指が疲れとるんじゃろーね」
     っと、少し照れ笑いをした。
    「へぇー、律さんって、システムエンジニアなんですか?」
     と、夢が、少し驚いた表情で聞くと、
    「ほうなんよ、見えんじゃろ?西日本システム開発、言う会社なんじゃけど知っとる?」
     と、料理を口いっぱい頬張りながら答え続けざまに
    「ほんで、夢ちゃんは何の仕事しょうるん?」と、聞くと、
    「うちは」
     
     と言いかけ、はっとした表情で、口を押えて「しもうた、初対面の人に、私じゃのうて、うち言うて慣れ慣れしゅう話しとった」
     それを聞いた律は、口の中の物を吹き出しそうになるぐらい大笑いをした。
    「今更?夢ちゃんて、本当、不思議ちゃんと言うか超天然と言うか、俺の周りにはおらんタイプじゃ。ええよ!今更、よそ行きの言葉使わんでも」
     と、笑った。
     夢は少し頬を赤らめ、恥ずかしそうに料理を見つめて
    「それじゃあ、普通にしゃべらしてもらいます」
     そこへ勇が、割って入り
    「こいつ、ぽけーっとしとるが、勉強だけは出来るんよ。あの、聖智大学の大学院出て、広域戦略リサーチで心理カウンセラーとやらをやっとるんで」
     と、自分の事のように自慢げに話した後
    「家族でこいつだけ、ぽけーっとしとるんじゃけどの」
     と、付け足した。
     それを聞いた夢は
    「もお、要らん事ばっかし言わんでや。それに、ぽけーっとしとるのうちだけじゃあないじゃん。お母さんも怒りの感情を、ばあちゃんのお腹に忘れて産まれてきたような人じゃんか」
     と、少し不満気味な表情で勇を見た。
     それを聞いた律がすかさず、ツッコミを入れた。
    「夢ちゃん、ぽけーっとしとるんは自覚あるんじゃ」
     すると
    「ただいま!」
     の声と共に調理場の奥にある勝手口から、中年の女性が顔を出した。
    「あら、夢ちゃん、来とったんね」
     この女性は、勇の妻、茜(あかね)である。
    「おっ、丁度ええところに帰って来たのー。いや、こいつらに昔の話をしてやりょうたんじゃが。美咲がひろの事を追いかけて東京に行ったんよの?それがの、ひろのバカが、また夢に、美咲を拉致して東京連れて行った言うて、ふかし、こいとるんじゃ。ほんで、夢も夢で小学生でも信じん様な事を、高校生の時から今までずーっと信じとるんじゃけーのー。ほんま、よう、今日まで夢が変な男に騙されんかった思うての」
     呆れた口調でそう言うと同意を求める様に茜を見た。
     すると、大笑いしながら茜が口をはさんだ。
    「そりゃー、美咲先輩とひろ先輩の子供を騙しでもしたら、その男が悲惨なことになるわ。夢ちゃんは、子供がそのまま大人になった様な子じゃもんね。けど、美咲先輩が、ひろ先輩を追っかけて東京行ったんは、ほんまの話よ。若い頃のひろ先輩カッコ良うてね、うちも、好きじゃったんじゃけど、美咲先輩が相手じゃ絶対かなわんけー諦めて、仕方なしに、いつも、ひろ先輩の横におったこの人(勇)にしたんよ」
     茜は美咲の2学年下の後輩で、かつて美咲が総長を務めていたレディース広島夜叉連合の二代目総長であった。
     ただ、この過去を美咲は子供達に隠しているため、暗黙のルールとして誰も触れないのである。
     その為、2人の娘もその事実を知る事は無かった。
    「夢ちゃんのお父さん言うて、そんなにイケメンなんですか?」
     律が興味深げに茜に聞くと、茜は少し微笑みながら言った。
    「若いときはね。硬派でイケメンじゃったけー、うちも含めてヤンキーの女の子はみんな憧れとったんよ。喧嘩も強よーてね、この人と二人で無敵じゃったんよ。あの頃はね」
     そして最後に、勇がカウンター越しに料理を出しながら、小さくボソッと付け加えた。
    「今は、そこら辺におる普通のオッサンじゃがの」
    「あんたもね」
     と、茜がすかさず勇の言葉に被せた。
    「おみゃーわ、要る事は言わんのに要らん事はよう言うのー」
     料理を作る手を止める事無く、勇が不機嫌そうに言った。
     律が夢に
    「大将とおかみさん、いつもこんな感じなん?」
     と、聞くと、夢が呆れた表情で、
    「これに、父さんが参戦したら、もう収拾がつかんようになるんですよー。お母さん以外だれも止めれんけー」
     それを聞いた律は笑いながら、料理を頬張ったままで
    「今度、是非見てみたいんじゃけど、そのバトル」
    「この人たちとかかわらん方が身のためじゃ思います。」
     と、夢が料理をつつきながらボソリと返した。
     この楽しい時間は流れ、出された皿が空になったのを見て、田山が律に
    「おう!次何喰うんや?」
     律が慌てて両手を振りながら、
    「もう、お腹いっぱいで、これ以上は食べれんですよ」
    「はっ?もう喰わんのか?若いもんが、えっと喰わんと強うなれんで。ワシらの若い頃は、目がおうた、肩が当たったで即殴り合いの喧嘩になるけーのー」
    夢が
    「またー、おじさんも父さんも、そう言うんはもう時代遅れじゃけー、今の時代に、何を目指して強さを目指すん?だいたい昔の自慢話しなんか誰も聞きとうないし、聞かされる方は迷惑なんじゃけーね。少しは自己満足に付き合わされる、こっちの身にもなってーや」
     と、あきれ顔で言った。(家でも夢は、幼い時から、事あるごとに父の武勇伝を耳にタコが出来るぐらい聞かされ続けているのである)
     それを聞いた田山は
    「おみゃーは何時もぽけーっとしとるのに、たまに、こうやってバリバリの正論で純粋なワシの心を容赦のーグサグサえぐりまくるんよのー。傷ついて、ワシ自殺するかも知れんで」
     と、豪快に笑った。
    「正論言われとる自覚はあるんじゃ?」
     と、夢が返すと、そこに居る全員がドッと笑った。
    「そう言やー、夢!お前ん家の家族元気しとるんか?この最近ちぃーと顔見とらんでの」
    「うん。元気しとるよ。今度、皐月の試合が近いけー、今日も父さんが付きっきりで稽古しょうるんよ。あの子、試合が近づいて来たら、休みの日は8時間ぐらい稽古して、平日でも4,5時間しょうるんよ。うちには、絶対まね出来んけー。お母さんは、食事面でサポートしょうて。うちだけ、ふらふらしょうるけー、なんか家に、おりづらいんよ!」
    「何がおりづらいじゃ。前、ひろが来た時に言ょったで。夢は、仕事に行く時は目覚ましが鳴っても起きゃあーせんのに、休みになりゃー目覚ましを起こして、潜りに行って、家で顔見る事ありゃーせん。あれじゃけー彼氏が出来んのんじゃ。言うて呆れとったで」
    夢が
    「ばれたかー」
     と、肩をすぼめてペロッと舌を出した。
     そのしぐさを見ていた律は心の中で(この子の仕草、いちいちかわいいんよのーそれに超が付く美人じゃし。絶対、彼氏おるよの?世の男がほっとくわけないもんのー?)
     そこで、律が夢に本当に彼氏がいないのか推測するために
    「夢ちゃんって、毎週ダイビングに行きょうるん?海の中ゆうてそげにええとこなん?」
    「あっ、ハイ!よっぽど断れん予定がない限り、休みの日はダイビングしとりますよ。海の中はええですよー。レギュレーターから出る泡の音と、たまに聞こえてくる近くを通る船のスクリュー音しか、せん世界でサンゴ見たり、水槽の中におる魚じゃあのーて自由に泳ぎ回る魚達見るんが、楽しゅうてしかたないんですよ!」と、どこか遠いい目をして海への思いを巡らせながら話を続けた
    「それと、ウエットスーツだけだと、浮力がありすぎて潜れんけーウエート付けて潜るんじゃけど、ある程度潜ると、水圧によって浮力がのーなって、太陽の光も薄うなって、暗闇の中、両手両足を広げてゆっくりと沈んで行くと、海底に体が触れた瞬間にフワッと海底の堆積物が舞うんですよ」
     そう言いながら、堆積物が舞う様子を両手で表現して見せた。
    「この幻想的な体験は一度味おうたら病みつきになってしまうけー」
     そう、幼い子供が親に今日あった出来事を身振り手振りを交えて楽しそうに話す時のようなキラキラとした瞳で律に向け一気にまくし立てた。
     その夢の豹変した話ぶりに圧倒されながら、律が
    「スッゲー楽しそうに話すんじゃね?そげに楽しいんなら、俺も潜ってみとうなったのー」
    「是非、行きましょう。ちょうど、体験ダイビングやっとるお店があるんで、そこなら必要なもん全部レンタル出来るけぇ、お試しに潜ってみましょうよ。来週の日曜日の予定無いんじゃったら、枠が空いとるか今から電話かけて聞いて見ますね」
     と、言うなりスマホを取り出しダイビングショップに電話をかける夢、それの姿を、唖然とした表情で見つめる律。
     その時、律は思った。(この子、ポケーっとしとって天然じゃ思ようたけど、なんじゃ、この凄まじい行動力は?静と動のギャップが激しすぎる。けど、俺の予定も確認せずに電話する辺り、やっぱり天然なんかのー?なんにせよ、俺の人生で今まで出会ったことのないタイプじゃ。それに、毎週ダイビングに行きょうる、ゆうことはほんまに彼氏おらんのかのー?なんか俺、凄っげーこの子に興味湧いて来た。)恋の始まりの予感である。
     律が、その様な思いを巡らせている間に電話は終わり、夢が満面の笑みを浮かべながらスマホから律の方に顔を向け、弾んだ声で
    「枠、空いとったんで予約入れときましたー!」
     と、言い終わると、ハッとした表情で
    「あっ、うち、律さんの予定聞くの忘れとった。予定空いとりますよね?」
    「それ、今更聞く?もう、予約してくれたんじゃろ?予定入っとってもキャンセルして行くけー大丈夫。俺は、楽しいこと優先じゃけー」
     と、律は笑顔を見せて話を続けた。
    「そんで夢ちゃん、さっき聞きそびれたんじゃけど、妹さん何の大会に出るん?」
     すると、勇が仕込みの支度の手を止めて話に割って入って来た。
    「こいつの妹は、皐月言うんじゃが、オヤジが剛心流空手を若い頃からやりょうたんじゃがの、全国大会で3位になった事もあってのー。今確か4段じゃったかの?その関係で2歳頃からやりょうるんよ」と、言うと夢を指さしながら
    「こいつは、見ての通り闘争心のかけらものーて、おまけに小さい時からポケーっとしとったけー、やらしたら、逆に危ない言うてやらさんかったんじゃがの」と、言ったところで夢が
    「おじさん。さっきからうちの事ぽけーっとしとる、ぽけーっとしとる言よぅるけど、そこまでじゃあないもん」と。口を尖らせ抗議をした。
    しかし、そんな夢の抗議など聞く耳を持たず勇の独演会は続いた。
    「ほんでの、妹の皐月は才能あったみたいでのー、この前の大会も、女子の部に出たらぶっちぎりで優勝出来たはずなんじゃが、わざわざ、男子の部にエントリーしてのー、そんで試合で負けたもんじゃけー、死ぬほど稽古しょうるんよ。けどの、中国地方の大会で3位になったんで。じゃけー、そこら辺の男じゃー歯が立たんのよ。おまけにの、夢と一緒で超が付く位べっぴんさんでの、性格は真反対なんじゃが、この前も付き合おうとった男と喧嘩して、男の方が先に手を出したらしいんじゃが、ボコボコにして土下座さしたらしいで」
     と、ひとしきり話して豪快に笑った。
     その話を聞いて夢が
    「もおー!いらん事言わんでや。あれは先に手を出したんは彼氏の方じゃけー。女の子に手を上げる男なんて最低じゃけー。あの子は本当に優しいてええ子なんじゃけー誤解されるじゃん」
     と、勇に再度抗議した。
    「ほんま、要らん事しか言わんオッサンじゃねー」
     と、夢達が食べた料理の皿を片付けながら、茜が口をはさんだ。
     勇が、
    「そう言やー、皐月は夢の言う事は、小さい時からよう聞くのー」
     と言うと、今度は、律の顔を覗き込むようにして、夢を指さしながら
    「こいつと付き合おう思ようるんなら覚悟しとらんといけんで」
     と、鋭い眼光で言った。
     夢が笑いながら、
    「もう、やめてぇーや。律さんビビるじゃんかー。そうやって、うちの周りの人が、要らん事ばー言うけー、うちに彼氏が出来んのんじゃけーね。だいたい、律さんとは今日が初対面なんじゃけー」
     すると、勇が、顔を崩して笑顔で
    「ま、冗談はさておき、ワシはさっきからお前ら見とってまんざらでもない様に見えるがのー」
     と言うと、夜の営業に向けての仕込みを再開した。
     皿を下げた後のカウンターを拭きながら、茜も
    「うちも、夢ちゃんが男の人連れとるけー彼氏か思うとったんよ。なんか、ええ感じに見えとったんじゃけど、気のせいじゃったんじゃね?」
    「ハイハイ。おばちゃんまで!ここおったら何言われるかわからんけー、もう帰るわ!なんぼになる?」
    「ええわ、ええわ!気い付けて帰れよ」
     と、下を向いたまま仕込みをしている手を止める事無く勇が言った。
    「今日は、律さんにお礼するために来たんじゃけー、うちが払ろうて帰るけー」
     すると、仕込みの手を動かしながら
    「じゃあ、100万ばー貰おうかのー」
    「はあーっ?」
    「ワシの競馬の利益分と、ワシの料理には、ワシの愛情が目いっぱい込もっとるけーのーその愛情分も上乗せして〆て100万円じゃ!払えんのんじゃったら早ういねや」
     と豪快に笑った。
     茜も近づいて来て
    「おじちゃんが、そお言よーぅるんじゃけー、ええけー帰りんちゃい。」
     と小さくウインクして見せた。
    「やったー!じゃあ、お言葉に甘えて、おじちゃん、おばちゃんご馳走様でした」
     すると、夢の横にいた律が
    「料理全部凄く旨かったんで、また、俺来てもええですか?」
    「おう!また二人で来いや。ま、一人でもええけどの」
     律が嬉しそうに
    「じゃあ、必ずまた夢ちゃんと二人で来ます。ご馳走様でした。」
     と、ちょこんと頭を下げた。
     それを聞いた夢が、
    「それ、お風呂ですか?」
     と、律に聞くと、クエスチョンマークを頭の周りに飛ばしながら、夢の顔を見た。夢が笑いながら
    「お風呂は水が」
     と言って律を見た。律が
    「沸?」
     と答えると、夢が
    「それを続けて言うと?」
     と問い返した。
    「風呂沸く?」
     と律が答える。夢が
    「おしい。風呂の中身は?」
    「水?」
    「それが沸くと?」
    「湯が沸く?」
     続けて律が
    「やっとわかった。湯が沸くから、湯沸。誘惑!」
    「正解!律さんはうちを『誘惑』しとるんですか?と聞いたんですよ」
     と、ペロッと舌を出して笑った。
     続けて
    「こんな、人達に囲まれとると、自然にオヤジギャグ覚えてしまうんですよー」
     すると、店の奥から勇が
    「おう!律!ちゃんと夢を誘惑して二人で来いよ。風呂屋じゃあいけんど」
     と、通る大きな声で言った。
     「今度は風呂屋ですか?」
     と、店の奥に向かって律も大きな声で返した。
    「意味わからんのか?」
     と、再び店の奥から声がしてきた。律が
    「全然わかりません」
     と、答えると、
    「なんも知らんのんじゃのー」
     と、手を前掛けで拭きながら、律達の所まで歩いて来た。
     勇が、
    「風呂屋には何がある?」
    「お湯があります」
     「じゃろ?湯しかないよの?じゃあ?」
     「えっ、えっとー」
     と少し考えたところで律が
    「あっ、わかった!風呂屋はお湯しかないから、湯ばっかしで、言うばっかしになるんですね?」
    「そうじゃ、言うばっかしじゃーのーて、ちゃんと夢を誘おて、二人で来るんで言うとるんよのー」
     律は子供のような表情で、嬉しそうに
    「はい、是非そうします。じゃけど、オヤジギャグ面白いっすね。また今度、違うの教えてくださいね。師匠!」
     と、言った途端、夢が横から
    「律さん!こんなん覚えたら絶対だめじゃけー。これ、若い子に使うたら、絶対ドン引きじゃけー」
    「いや、これ絶対面白いけーウケる思うんよね。絶対、明日から俺会社行って使こうてみるけー」
     それを聞いた夢は(やっぱりこの人、チョット感覚ずれとるわ)と、思うのだが、夢は夢で変な感覚の持ち主だと、本人は全然気付いてないのだからお互い様の似た者同士である。
     律が勇に向かって
    「今度も、夢ちゃんと二人で来るんで、また、旨いもんいっぱい喰わせて下さい!それと、オヤジギャグの指導も宜しくお願いします。師匠!」
     と、勢いよく深々と頭を下げた。
     すると勇が
    「おう!了解じゃ。わしゃあ社交辞令で、もの言う奴は嫌いじゃけー。本当に飯、喰いに来いよ」
     と、言うなり、店の奥に歩いて行った。
     その後ろ姿に、律は
    「ご馳走様でした。スゲー楽しかったんで絶対また来ます!」
     と、言うと和風の引き戸を開けた。
     その後を追いながら夢が
    「おばちゃん、また来るけーご馳走様―!」
     と茜を見た。
     テーブルを拭いていた茜が顔を上げ
    「うん。また来んちゃいね。待っとるよ」
     と、言った後
    「二人でね」
     と、付け加えた。
     店の外に出ると、そこには先ほど二人の入店を断固阻止しようと頑張った、『心を込めて支度中』の看板が、夢たちの入店を阻止出来なかったことで、さらに不機嫌そうな顔をして立っていた。
     その看板を入り口の中央に立てかけて夢が看板に
    「ごめんねー。引き続きお仕事、宜しくお願いします」
     と、敬礼した。
     それを横で見ていた律は心の中で(今度は看板と話ししとる。やっぱり不思議ちゃんじゃ。けどなんか、優しさがにじみ出とるんよのーへへっ。あれ?なんか変じゃ。夢ちゃんの事がスゲー気になっとる。どうした俺?いきなり惚れたのか?一目ぼれ?えっえっえっ?)
     そんな律のパニクっている心を夢は、知る由もなくレネゲードの運転席に座った。助手席に座る律がシートベルトを締めたのを確認するとエンジンを始動させた。
     すると、オーディオから心地よい音楽が流れて来た。
     律が、
    「来る時慣れとらんかったけーよう聞かんかったんじゃけど、夢ちゃん、こっち系の音楽聴くんじゃ?」
    「慣れとらんかったって、律さん、意外と照れ屋さんなんじゃ。これ、お父さんの影響で聴きょうるんですよ。じゃけど、気分によって、全然聴く音楽変わってくるけー、これ、言うんはないんよ。律さんは、どんなん聴くん?」
    「うーん。俺も、これ言うんは無いんじゃけど、この最近は広島出身のHIPPYとTEEをよう聴いとるんよ。二人で歌とうとる、『きんさいや』言う曲の歌詞が、広島弁で広島の人の優しさがスゲー伝わって来て、落ち込んだ時とかに聞いたら、涙出てくるんよね。聞いたことなかったら、YouTubeで検索してみて。画像付きで聴けるけー。広島の街が、いっぱい出とるし広島出身の有名人も出とるけー。共感する思うんじゃけど。まっ、よかったら一回聴いてみてや」
     と、一気に話し、続けて
    「今、気付いたんじゃけど、俺の苗字言っとらんかったし、夢ちゃんのも、聞いとらんかったわ。おれ、海堂、海堂 律言うんじゃけど、夢ちゃんも、よかったら教えてくれん?」
     そう言った、後一瞬、言おうとした言葉を飲み込んでうつむいた。それから意を決したように夢の顔を見て
    「それと、もしよかったらなんじゃけどLINE交換してくれんかね?」
     見た目と違い、シャイな律は、今、持ち合わせている勇気全てを振り絞り頑張った。
    そして、心の中で(女の子と、こんなに話した事のーて、間が持たんかったけー、しゃべり続けたんじゃが、こりゃしゃべり過ぎたかのー?いつもこうやって、俺ドジるんよね。嫌われとらにゃええじゃが)と、思いながら夢の返事を待つ間、胸の奥がドクン、ドクンと鳴るのが自分でもわかるほどだった。
     すると、夢が明るい声で
    「うちは、勝間と言います。LINEの交換もええですよ。マリーナに着いたら交換しょっ!」
     その一言を聞いた瞬間、律の胸の奥で張り詰めていた何かが、『ふっ』と音を立ててほどけていった。
    「……えっ」
     思わず間の抜けた声が漏れたのには、自分でも驚くほどだった。
     (よかった~。俺、嫌われとらんかった。ここからが勝負じゃ!気合を入れろ律)と心の中で自分を奮い立たせ、ふっと、運転席の夢に目をやると、夢は前を見たまま、微笑んでいた。
     その横顔が、夕方の光に照らされて、やけに眩しく見えた。
     その光景に一瞬見とれていた律が口を開いた。
    「夢ちゃん。俺、さっきからスッゲー気になっとる事があるんじゃけど、聞いてもええかね?」
    「えっ、別にええですけど」
    「あの、腕時計なんじゃけど、何で両手にしとるんかのー思うて。」
     律の申し訳なさそうな声の問に、夢は笑いながら
    「ああっ、これですか?これ、初めて会うた人は大概、不思議がってんじゃけど」と、自分の時計に目をやって
    「大概の人は、利き手の反対側の左手に時計して、時間の確認するじゃろ?うちもそうなんじゃけど、じゃけー左手の腕時計は10分早くしとって、何かをする時は、その10分早めた左手の時計の時間を基準にして、10分前行動するようにしとって、右手の時計はソーラー電波時計で正確な時間が知りたいときに、こっちを見るんですよ。けど、初めて見たら変ですよね?勝間家では、みんなこうしとって、うちも学生の時からしとるんですよ」
     と、答えた。
     律も、笑いながら
    「いや。俺、てっきり左手にしとるのを忘れて、右手もしとるんか思うて恐る恐る聞いてみたんよ」
     すると夢も笑いながら
    「もおっ!そこまでボケとらんですよ」
     そう言うと、二人で顔を見合わせ笑った。
     その二人の楽し気な笑い声はレネゲードの車内に響き渡った。
     すると律が
    「10分前行動か。それスゲーええ考えじゃね。俺もやろ!絶対やろ!明日時計買おう思うんじゃけど、夢ちゃんええ店知らんかね?」
    「うち井口に住んどるんじゃけど、ジ・アウトレット広島が割と近いんで、その中にあるシチズンジアウトレット広島で、だいたい時計は買うんですよ。型落ちじゃけど、50%オフとかの時計もあるんで、そこがおすすめでなんじゃけど」
     「マジ!俺そこで買うわ!ダイバーズウオッチもあるんかね?来週ダイビングに行くけー、それも兼ねて買おう思うんじゃけど」
     その勢いのまま律は
    「で、夢ちゃんに、お願いなんじゃけど、明日仕事が終わった後、予定が無かったら、時計買いに行くの付き合おうてくれんかね?俺、ダイバーズウオッチどれ買うたらええかわからんけー、夢ちゃんに、時計選ぶの手伝うてほしいんじゃけど。勿論、報酬は払うけー。夕飯でどうかね?」
     と、一頻りしゃべり終わり我に返った律は(あちゃ~また勢いに乗って、やってしもうた~。今日、会うたばっかの女の子を、いきなりデートに誘うてしもーぅた。俺は、とことん学習能力が欠如しとるんじゃろーのー。毎回これをやるけー、中々のええ男の俺に、彼女が出来んのんじゃろうの?)と心の中で後悔した。
     律の心の葛藤も知らずに夢は、あっさりと
    「ええですよ。明日予定無いし、アウトレットにも久しぶりに行ってみたいんで。うちは、5時半には会社を出れるんじゃけど、律さんの仕事、何時頃に終わるんですか?」「えっ・・・ええ~っ!」
     半ばあきらめていた律に今日二回目の衝撃が走った瞬間であった。
     律は、喜びを嚙み締めながら少しにやけた表情で
    「俺は・・・えっと~」
     少し考えてから
    「俺も、5時半には余裕で終われるけー。いっつもは、チン電で通勤しとるんじゃけど、明日は車で行って、近くのパーキングに止めるけー。その時間に、夢ちゃんの会社に迎えに行くわ」
     と張り切って言うと
    「あそこら辺の駐車場って、街中じゃけー、めちゃくちゃ高いじゃないんですか?律さんは、どこら辺に住んどってんですか?」
    「俺の家は、皆実町なんじゃけど、ゆめタウンが近いけー助かるんよ。ほんで、駐車場はちぃーと高いけど、そのくらいの金なら大丈夫じゃけー、心配いらんよ」
    「じゃあ、宇品線一本で帰れるじゃあないですか。それなら、時間合わせて一旦、律さんの家までチン電で帰って、それから車で行きましょうよ。そしたら、駐車場代、浮くじゃあないですか。お金は大事じゃけー」
     それを聞いた律は(この子、意外に経済観念あって、しっかりしとるんかのー?それにしても、帰りに電車で待ち合わせ言うて、なんか恋人同士みたいじゃのー。)と、ニヤニヤしながら妄想を膨らませていると、その妄想の世界から引き戻す、夢の声がしてハッとして我に返った。
    「律さん、律さん!大丈夫ですか?さっきから何ニヤニヤしとるんですか?マリーナに着いたんじゃけど、律さんの車何処にあるんですか?」と、夢は少し心配したように律を見た。
     すると、我に返って少し焦った律が
    「えっ、えっ!俺そげにニヤニヤしとった?」
    「ええ!何か遠くを見て結構ニヤニヤしとっちゃったですよ。うちが声かけてもわからんくらい『ぼ~っ』と、しとっちゃったし。何か、ええ事思い出しとっちゃったんですか?」と、今度はいたずらっぽく微笑んだ。
     律は、自分の心の中を見透かされた思いで、少し赤らめた顔の前でブンブン激しく手を振りながら
    「違う、違う!そげにニヤニヤなんかしとりゃあせんよ~。夢ちゃんの見間違いじゃけー」
     と苦しい言い訳と共に否定した。(しかし、この子ポケ~ッとしとるようで、人の事よう見とるのー流石心理カウンセラーしょうるだけの事はあるのー。俺の妄想がバレたか思うてビビッたで。ふぅ~)心の中で冷や汗を拭った。
    しかし、一流のカウンセラーで無くても、ニヤけてぼ~っとしていたのは誰の目から見ても明らかだった事に自分では全く気付いていない律だった。
    「ハイハイ。うちの見間違いなんじゃろね。で、車は何処ですか?」
     と半ば呆れた様に夢は律に車の駐車場所を聞いた。
     「俺の車はー・・・」
     と、辺りを見回して
    「あっ。あそこあそこ、ほら、白い車があるじゃろ?」
     と、自分の車を指差した。
     その指先の方向を見た夢も車の駐車位置がわかったようで「あぁーあれですね?」
     とその方向にレネゲードを向かわせた。
     律の車の前に止めると、カバンからスマホを取り出した。
     そのスマホの待ち受け画面には、夢に抱かれて両方から夢のほっぺをなめている、かわいらしいチワワが映っていた。
     それを横目で見た律は
    「えっ?この犬夢ちゃんちの犬なん?バリ可愛いじゃん!」
     と、スマホを覗き込んだ。
     すると夢は、嬉しそうに
    「でしょ~。凄く可愛いでしょ?この子達は私の子供達なんですよ。向かって左のチョコタンの子が男の子でラッキー君、で、右のブラックタンの子が女の子でハッピーちゃんこの子達は夫婦なんですよ」
     と、先ほど瀬戸っ子で海の話をした時の勢いそのままに、嬉しそうに早口で一気にしゃべった。その時の夢の顔は母親が自分の子供の話をするときの、それそのものだった。
     夢が自慢げにスマホの待ち受け画面を見せている間、レネゲードの狭い車内には、二人の明るくて楽し気な笑い声が満ち溢れていた。
     ふと、律が顔を上げてフロントガラスの向こうを見た瞬間、彼は言葉を失った。
     フロントガラス越しに見える海が『蒼』
     から暖かな『オレンジ色』
     にその姿を変えていた。西の空が燃えるような茜色に染まり、沈みゆく太陽が海面に真っ直ぐな光の道を引いている。波のひとつひとつが、まるで砕けた宝石を撒き散らしたかのようにキラキラと反射し、その眩しさに、律は思わず目を細めた。
    「……ぶち、綺麗じゃね」
     律の呟きに、夢もスマートフォンから顔を上げた。
    「ほんま……。何度見ても、この夕日は飽きんのんよね」
     と、言いながらレネゲードの両窓を開放した。その途端、夕方とはいえ、まだまだ暑い夏の熱気を帯びた潮風が、夢達の帰りを待っていたかのように勢いよく車内に流れ込んで来た。その風を大きく吸い込んだ夢は
    「この海の香りを身体の中奥深くまで取り込んだら、まるで、まだ海の中におる感じがするんよ。ああっー良い気持ち」
     と両手を思いっきり広げ伸びをした。
     海面に映った夕陽の煌めきが、レネゲードの天井や、ソーラーイエローのボディをゆらゆらと茜色に縁取っていた。
     その光の中に浮かび上がる夢の横顔は、やけに透き通って見えた。 律は(ずっとこの時間が続けばいいのに)
     と、心の底から願わずにはいられなかった。
     茜色に染まる海を眺めながら、二人の間には心地よい沈黙の時が流れていった。しかし、ふとした瞬間に、夢は弾かれたように律の方を向いた。
    「あっ!いけん、忘れとった!」
     夢は大きな声を上げると、膝の上に置いていたスマートフォンを慌てて掴み取った。
    「律さん、ごめん!LINEの交換しよって言いよったのに、夕陽が綺麗じゃったけぇ、頭の中からスパーンと抜けとったわ」
     自分の失態に、夢は顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべている。 先ほどまでの神秘的な雰囲気はどこへやら、そこにはいつもの、少し抜けたところのある「夢」
     が戻っていた。
     その様子を見て、律はシートベルトを外しながら拍子抜けしたように
    「夢ちゃん、ほんまに面白のー。俺も夕陽に見惚れとったけぇ、今の今まで忘れとったよ」
     と言って笑いだした。
    「もう、笑わんとってや。ほら、LINEのQRコード出すけぇ早よう読み取って」
     夢は照れ隠しにそう言うと、手慣れた動作でスマートフォンを操作した。茜色に染まった空からは、まだ十分すぎるほどの光が車内に降り注いでいる。ルームライトを頼るまでもなく、彼女が差し出した画面には、鮮やかなQRコードが映し出された。
     律もすぐさま自分のスマートフォンを構え、その画面をかざす。
    「はい、読み取ったよ。……『ドリーム』で登録しとるんじゃね」
    「そう、本名じゃ恥ずかしいけぇね。あ、今私の方にも通知が来たわ」
     二人のスマートフォンが、ほぼ同時に小さな振動を刻む。 目に見えない電波が、マリーナの潮風の中を通って、二人を確かに繋げた瞬間だった。
     律から届いたLINEを見た夢は
    「律さんは、グリフォン?これって、どういう意味なんじゃろぅ?」
     と、夢は、不思議そうな顔で律のを見た。
     律は嬉しそうに、
    「グリフォンは伝説の聖獣なんよ。鷲の頭に翼とライオンの体で、黄金を守っとるんよ。俺の車のエンブレムなんじゃけど、このエンブレムは本物のグリフォンとはちーと違ごうとって、頭も体もライオンで翼が鷲なんよね。けど王者の風格があるじゃろ?」
     律は、フロントグリルのど真ん中に鎮座するエンブレムを愛おしそうに見つめた。
     それを聞いてふと、律の車に目をやると、そこには夢が今まで見たことのない、白とゴールドシルバーのツートンカラーの車体があった。
     急いでスマートフォンをバッグにしまい込み、エンジンを切ってレネゲードから降りた夢を、40年以上も前の車とは思えない気品を保った車が、夕日に照らされながら、「ご主人様のお守りお疲れ様でした」
     とでも言いたげな眼差しで夢を見つめていた。
     車の助手席から降りて来た律に、夢が
    「この子、お名前何て言うん?」
    「トヨタのソアラ言うんじゃけど」
     すると、夢はソアラのボンネットを優しくなでながら
    「へぇ~。君はソア君か?うちは夢言うんじゃけど。よろしくね!」
     とソアラに話しかけた。
     それを見ていた律は(えっ、今度はソアラに話しかけとる。なんか、本当に不思議ちゃんじゃのー。けど、そのしぐさが可愛いんよの~へへっ。)と、心の中で思っていたが、我に返って、首を横に激しく振りながら、(いけんいけん、今日、会うたばっかりの娘なのに、完全に惚れてまうやろ~モードに入っとる。どうしたんや?律!大丈夫か?)と、自問した。
     それを横で見た夢は、
    「なんか、律さんさっきから変なんじゃけど、大丈夫なん?まだ、さっき海に落ちた時の海水が耳の中に残っとるんですか?」
     と、不思議そうに律の顔を覗き込んだ。
    「いや~っ、おかしいの~。俺、なんか変な事しとった?」
     と、夢の瞳の奥に映る自分の姿を見て、心の奥底まで見透かされたような、気恥ずかしさが一気に込み上げてきた。律は慌てて頭を掻きながら、不器用に照れ笑いを浮かべた。
     また、律の心の中では(夢ちゃん、近い!近すぎる~!この娘、何の意図も無しにやっとるんじゃろうけど、やられるこっちは、身が持たんのんよの~!ハァ~)と深いため息をついた。
     律が深いため息を漏らしたその時、茜色に染まる空を見上げると、厚い雲の縁から漏れ出した光が、幾筋もの光の帯となって海へと伸びていた。
    「あ、天使の階段……」
     夢が小さく呟いた。その海へと伸びる光の筋は、まるで海の中に住む魚たちが空へ昇っていく道しるべのようにも見える。 光の梯子が照らし出した海面は、細かなダイヤモンドを撒き散らしたように激しく瞬き、ソーラーイエローのレネゲードと気品あるツートンカラーを纏ったソアラの車体が、その光を浴びて宝石のように輝きを放った。パールホワイトのボディが夕日を柔らかく弾き、まるで車自体が発光しているかのようだ。その眩しさに律は思わず目を細めた。 夢の横顔がその光に縁取られ、一瞬、本当にどこか遠くへ消えてしまいそうなほど透き通って見えた。
     夢はふと我に返ったように視線を落とすと、隣で静かに佇むソアラへと歩み寄った。そして、その滑らかなボンネットに優しく手を添え、屈み込んでヘッドライトを覗き込む。
    「ソア君、明日はよろしくね!楽しみしとるよ」
     まるで親友と指切りでもするかのように語りかける夢の姿を、律はそこだけ時が止まったかのように、ただただ見つめていた。
     夢は立ち上がると、今度は律を真っ直ぐに見据えて、いたずらっぽく微笑んだ。 「律さん、明日、五時半頃に仕事終わったらLINEするけーチン電の時間合わそうね。」
    「……おう、ほうじゃった。明日、俺、ず~っとスマホ眺めとくわ。明日がブチ楽しみじゃわ。じゃあ、夢ちゃん、気―つけて帰りんさいね」
    「了解!」
     そう言うと夢は律に敬礼して
    「仕事はちゃんとしてえね」
     といたずらっぽく、ほほ笑んだ。
     夢がレネゲードに乗り込みエンジンをかけると、ソーラーイエローの大きな背中が、ゆっくりとマリーナの出口へと動き出した。窓から出された白い手が、夕闇に溶けゆく光の中で何度も振られていた。
     律は、その黄色いテールランプが完全に見えなくなるまで、ソアラの隣で名残惜しそうに眼で追っていた。
     潮騒の音だけがする静かなマリーナで、律は夢が触れていた場所をそっと撫でた。
     その時、
    「良かったね」
     と律を祝福する様に、そよぐ夏の潮風が、優しく包むように、律の髪を撫でて、通り過ぎて行った。
    「……明日か」
     独り言のような呟きが、パールのボディに吸い込まれていく。律は深く、今度は心地よい余韻を含んだ、ため息をひとつ吐くと、愛車の重厚なドアを開けた。
     ソアラのシートに滑り込んだ律は、思い出し笑いをしながらソアラの鍵穴にキーを差し込みエンジンを始動させた。
    「ん?なんか、キー回すのがこの頃ちょくちょく重たい時があるのー。やっぱり、キーの叩き過ぎで、指が疲れとるんじゃのー。仕事のしすぎじゃわ!はっはっはっ」
     と、最近ちょくちょく感じる指の違和感を笑い飛ばした。(これから始まる、壮絶な戦いの、静かな幕開けのゴングとも知らず)
     エンジンを始動して間もなく、
    「システムをチェックしています」
     と、女性の声がしてきた。
     それを聞いた、律がハンドルを優しくなでながら
    「お前、夢ちゃんにソア君、言うて呼ばれようたけど、女性の声でしゃべるけー、俺は女性じゃ思うんじゃが、どっちなんかのー?けど、夢ちゃんに撫でてもろうて、うらやましいのー」
     と言う、律のボヤキを無視して
    「カードを確認してください」
     と、追い打ちをかける様に女性の無機質な声がしてきた。律はうなずきながら
    「はいはい、何時もの流れじゃね。それにしても、明日、夢ちゃんがこの声聞いたら、車がしゃべった言うてビックリするかのー?いや、あの娘なら、普通にこいつと会話しだすかもの?なんせ、超不思議ちゃんじゃけーのー。けど、あの年であんな感性持っとる言うんは、両親にええ育て方されたんじゃのー。ほんま、ええ娘よのー。さ、俺も早う家帰って、風呂入って寝よう」と、ソアラのアクセルを踏んだ。ソアラはマリーナの出口へ向け滑り出して行く
    「おっ!朝も朝シャンして行かんとの。明日、買い物に行く時の服も選ばんとの。それと、風呂から出たら絶対夢ちゃんにLINEしとかんとの。俺の事ちぃーとでも印象付けとかんといけんけーの」
     と、ソアラのハンドルを握りながら律は、完全に子供が遠足に行く前の日のテンションになっていた。
     ソアラが、マリーナの静寂に溶け込んでいく頃、夢はマリーナのゲートを抜け、平坦な一般道へとレネゲードを走らせていた。 しばらく進んだところで、ふとバックミラーに目をやると、夕闇の中にマリーナの入り口が遠く霞んでいた。律の姿はもう見えないけれど、あのツートンカラーのソアラと過ごした不思議な時間の余韻が、車内にはまだ微かに残っているような気がした。
     赤信号で車を止め、夢はふと自分の両腕に目を落とした。 左手のプロマスターは、午後七時三十分を指していた。
    「……あ、もうこんな時間か」
     午後二時半過ぎから『瀬戸っ子』で遅い昼食をとり始めて、気づけば五時間近くが経過していた。律との会話があまりに楽しく、時間の流れを完全に忘れてしまっていたのだ。
     夢は信号待ちの間、左手のプロマスターのリューズの感触を指先で確かめた。
    「……律さんも、明日時計を買うんじゃね。お買い得の時計があるとええんじゃけど」
     自分でリューズを回して、自分の時間を決める。明日、律も同じ手応えを味わうのだろうかと思うと、不思議な縁を感じて、独り言とともに少しだけ笑みがこぼれた。
     信号が青に変わり、車は街の灯りを背にして、井口の山側へと向かう坂道に入った。 生い茂る木々に囲まれた『緑のトンネル』がヘッドライトに照らし出され、潮騒の音が完全に遠ざかると、車内には自分一人の静かな時間が訪れた。
     木々の切れ間から覗く空は、太陽とお月様が仕事の引継ぎ作業を終え、太陽が帰り支度をして、帰路に付いたころだ。それは、まさにマジックアワーの最中だった。 燃えるようなオレンジ色から、吸い込まれるような深い紺色へと溶け合っていくそのグラデーションは、真夏の宵が始まる前の、息を呑むような輝きを放っている。
     念のため、右手の電波時計で正確な時間を確認する。あちらはまだ七時30分の少し前を示しているところだ。 一日の終わりが近づいていることを再確認しながら、夢はレネゲードを静かに走らせ自宅に向かうワインディングロードを駆け昇って行った。
     その先にある自宅の白い壁が見えてきた。 マジックアワーの光の中で、白く光る二つの影が、まだ熱気を帯びた庭で激しく動いているのが見える。 父と皐月が、汗を飛び散らせながら稽古に励んでいるのだ。
    「ワン・ツー下段、下段!そこで相手の意識を下に集中させて右上段でフィニッシュじゃ!」
     と裕の声が響く!
    「押忍!」
     その後を追って皐月の声が響き、 鋭い突きと蹴りが空気を切り裂き、キックミットを蹴る音がドス、ドスと重厚な音を立てる。 真夏の黄昏時を震わせるような、二人の気合。 家の網戸越しには、ラッキーとハッピーが、自分達も稽古に参加したいと言わんばかりに部屋の中を走り回っているのが分かった。
     レネゲードの音に気付いた二匹はちぎれんばかりにしっぽを振りながら、リビングのドアを開けてくれと美咲に催促している。
    「はいはい、お母さんが帰って来たんじゃね」
    と、美咲がリビングのドアを開けると二匹は勢いよく玄関の方に走り出して行った。
     車を降りると、夏の熱気を帯びた草の匂いとともに、勝間家のいつもの夏が全身を包み込んだ。
    「ただいまー!」
     夢の声が響くと、庭の二人の動きがピタッと止まった。
     皐月が
    「おう!姉ちゃんおかえりー!」
     と澄んだ通る声で出迎えた。
     レネゲードから降りた夢の姿に気づくと、裕も動きを止めて深く息を吐いた。
    「おう! 帰って来たか」
     夢に短く声をかけると、裕は腕からキックミットのベルトをさっと緩めて外し、それを庭の隅へ放るように置いた。
     それから改めて皐月と正面から向き合うと、今日一日の稽古を締めくくる号令をかけた。
    「……よし、今日はここまで。飯にするか!」
     その言葉を合図に、二人はビシッと背筋を伸ばして正対した。 二人は胸の前で力強く腕を交差させ、十字を切る。その鋭い動作とともに、
    「押忍! ありがとうございました!」
     と、腹の底から響くような唱和で一礼を交わした。 夕闇迫る庭に響いたその気合が、勝間家の『道場』
     としての時間を締めくくり、張り詰めていた空気を柔らかな家族の温度へと溶かしていった。
     道着の袖で額の汗を拭う裕の横で、皐月は礼が終わるやいなや、待ってましたと、言わんばかりに顔を輝かせた。
    「やったー! 母さん飯じゃ、飯! どんぶりで大盛りね!」
     リビングに居るであろう母親の美咲に向かって、皐月は庭から精一杯の声を張り上げた。
     その気合に満ちた声を背中で受け止めながら、夢は苦笑いを浮かべて玄関へと歩を進めた。
     家の前に立つと、スタイリッシュな玄関ドアに埋め込まれた最新型の顔認証センサーが、瞬時に彼女を捉えた。小さな電子音とともにロックが解錠され、重厚なドアが滑らかに開く。
     その瞬間、弾丸のような二つの影が、廊下の奥から猛烈な勢いで滑り込んできた。
    「わわっ、ちょっと待って! ラッキー、ハッピー、落ち着いて!」
     車の音と、この最新の解錠音を逃さず、玄関で今か今かと待ち構えていた二匹が、夢の足元に飛びついてくる。チョコタンのラッキーが夢の脛をカリカリと掻き、ブラックタンのハッピーがバッグを抱えた夢の腕に鼻先を押し当てて、「遅かったじゃない!」
     と抗議するようにクンクンと鳴いた。
    「ただいま。ごめんね、寂しかった?」
     夢は二匹の猛烈な歓迎をどうにか受け流しながら、上がり框(かまち)でサンダルを脱いだ。庭からはまだ、父と皐月が稽古を終えたあとの荒い息遣いと、キックミットを片付ける音が響いている。
    「ラッキーもハッピーも、早よう入りんちゃい」
     二匹を先導するようにして廊下を進み、リビングのドアを開けると、そこには、エプロン姿の母・美咲が待っていた。
    「あら夢、お帰り。ちょうどええところに帰ってきたじゃん!」
     美咲はまな板に向かい、魚屋でもらった青いビニール紐の両端を重ね合わせて指先でキュッと「Uの字」
     につまみ持っている。その紐を使いイワシの刺身を作りながら、振り返る余裕もなさそうに続けた。
    「夢、悪いんじゃけど、このコーネをちょっと焼いてくれんかね! お母さん今、この小イワシをしごうしよるけぇ、手が離せんのんよ」
    「ハイハイ。了解。今やるけぇ、ちょっと待って」
     夢はバッグをソファーへ放り出し、すぐにコンロの前に立った。フライパンにコーネを並べ軽く塩コショウを振ると、上質な脂が弾ける音とともに、あの独特の甘い香りが立ち上る。
     その横で、美咲による『イワシのしごう』
     が続く。 左手で小イワシを抑え、エラ元に青い紐の角をグイと食い込ませる。そのまま紐を尾の方へ一気に滑らせると、「シュッ!」
     という音とともに、一瞬で背骨から身だけが鮮やかにはがれ落ちた。
     紐が通った後に残ったのは、皮のついた、透き通るように白く瑞々しい身だ。美咲はその身を、指先で間髪入れずに横の深皿へと運んだ。
     皿の上には、冷凍庫から出したばかりのバラ氷が敷き詰められている。 「シュッ、シュッ」
     というリズムに乗って、純白の身が氷の上へ次々と、丁寧に並べられていく。冷たい氷に触れて身がキュッと締まり、ほどなくして、目にも涼やかな刺身の一皿が出来上がっていった。
     夢が美咲に話しかけた。
    「……ねぇお母さん。東京におる時、大学の友達と焼き肉に行ったんじゃけど、その時コーネ言うて注文したら、店員さんも友達も誰も知らんかったんよ。広島の焼肉屋さんに行ったらだいたいあるし、お肉屋さんでも売っとるけー、うち、焼肉屋さんにあるのが当たり前じゃ思うようたけー、誰も知らんかった事にカルチャーショックうけたんよ」
     と、笑いながら夢はフライパンの端で、透き通り始めた脂を愛おしそうに見つめた。
    「小イワシもそう。こっちじゃ紐でしごうして食べるのが普通じゃけど、東京じゃ誰も知らんかったんよ。たまたま通りかかった魚屋さんに小イワシがあったけーそれを買うて、梱包用のビニール紐貰うたら、一緒におった友達が「これ、何に使うん?」
     言うて聞いてきたけ~へっ?イワシの刺身作るに決まっとるじゃん。言うたら、「それ見たい!」
     言うて、夢の部屋まで付いて来て見とったけ~やらしてあげたら全然出来んかったんよ。うちは子供の頃からやりょうたけーみんな出来るんか思ようたら大間違いじゃったわ」
     それを聞き、美咲が笑いながら紐をシュッと引くと、銀色の身が鮮やかに重なっていく。
     そこへ、稽古を終えた裕と皐月が、汗を拭きながら庭からリビングへと入ってきた。フライパンから漂う香ばしい匂いに、裕の鼻がピクリと動く。
     タオルで顔を拭いながら、裕が食卓の椅子にどっしりと腰を下ろした。
     夢は絶妙な加減で焼き上がったコーネを皿に盛り付けた。 ラッキーとハッピーが足元で熱烈に催促する中、裕の声が響いた。
    「夢!焼けたのから早う持って来い!冷えたら旨うのーなるけーのー。ついでに、小皿と塩コショウに味の素、一味にレモン汁もの。」
     そこへ「丁度よかった。どっちでもええけーラッキーとハッピーのご飯入れてあげてね。それから、ヒロ君と皐月は、汗かいとるけ―シャワーかお風呂入って来んちゃいや。たまには、小さい時の様に二人で一緒にお風呂に浸かって来たら?」
     と、美咲がからかうように笑うと、それを聞いた皐月が怪訝そうに口を尖らせた。
    「母さんそれ、ハラスメント言うんじゃけー」
     と言うと、美咲が「はいはい、どうせ、母さんは昭和生まれじゃけーね。そんなハイカラな言葉は知らんのんよ」
     と、美咲はどこ吹く風で笑い飛ばす。
     裕が美咲のシャワーの提案を無視して、「能書きはええけー。コーネ早う持って来いや!ビールも忘れるなよ、コーネはビールじゃ」
     と、言うと、夢が「はいはい」
     と言いながら冷蔵庫に手をかけた。
     それを見た美咲がくぎを刺した。
    「夢、父さんのビールはノンアルじゃけーね。母さんの本物のビールと間違わんでよ。父さんにアルコール飲ましたら身体じゅう赤い点々が出て救急車呼ばんといけんようになるけーねー。学生の時初めて飲んで、大ごとしたんじゃけーこんな大きな図体して、アルコールアレルギーなんじゃけー。知らん人は、一升瓶かかえて鼻と口でたばこ吸いながら寝とるイメージみたいらしいよ。たばこも吸うたら喧嘩の時息が上がる言うて若い時から周りがみんな吸ようても吸わんかったんよ」
     その言葉に、夢と皐月の笑い声がリビングに弾けた。
    「皐月、これ父さんに持って行っとって。うちは、小皿と調味料持って行くけー」
     そう言うと夢が、焼きたてのコーネを乗せた皿とノンアルコールビールを皐月に手渡した。
     受け取った皐月は、皿に顔を近づけて匂いを嗅いだ途端、「旨そうー!うちも、もう喰ってええ?」
     と声を弾ませる。待ちきれない様子で皿をテーブルに置くやいなや、箸入れの自分の箸に手を伸ばした。
    「父さんも早う来んと、冷めるよ!」
     と、洗面所で顔と手を洗っている裕に声をかけ、箸を伸ばそうとする皐月に、夢がすかさず待ったをかけた。 「皐月!あんたはまだやることがいっぱいあるんじゃけー、座っとったらいけんよ。コーネ置いたらこっちに来て。それと、『喰ってええ』じゃないじゃろー?あんた、もう、社会人なんじゃけー言葉遣いには気を付けんといけんよ」
     と窘めた。
    「はいはい、気を付けます。お姉さま。うちは母さんが二人おるんじゃけー」
     と、少し不満そうに返事をした。
     続けて夢は、コンロの前に立つ美咲に声をかけた。 「母さん、特製のスタミナ焼きもう出来そう?」
     美咲特製スタミナ焼き。それは、牛肉の十倍ものビタミンB1を含む豚肉に、ニラ、玉ねぎ、ピーマン、キャベツ、もやし、しめじ、そして大量の生にんにくとみじん切りの生姜を混ぜて焼き上げた、勝間家オリジナルの疲労回復メニューだ。すべては、空手に打ち込む皐月のために美咲が考案した、愛の結晶である。
     美咲は、「うん、もう出来るけど、先にこのイワシ持って行っとってや」
     とフライパンを振りながら目でイワシが氷の上に綺麗に並んだ皿を指した。
     続けて、テーブルに置かれたコーネを既に数枚、口に運んでいる裕に向かって、「ヒロ君、イワシは塩レモンにする?それとも、生姜醤油にする?」
     と聞いた。
     裕は、口の中のコーネを、キンキンに冷えたノンアルビールで流し込みながら「両方で喰うけー生姜のチューブ持って来とってくれや」
     と、返した。
     それを聞いた夢が、皐月に「皐月、イワシと冷蔵庫から生姜のチューブ取って父さんに渡して。それ、持って行ったら、ごはんつぐけーみんなのぶん持って行って。そしたら、食べょうてええよ。」
     と、言うと皐月が、「やったー。了解!お腹ペコペコじゃけーごはん早よう、ついでや。」
     皐月は弾んだ声で返事をすると、冷蔵庫を開けて生姜のチューブを掴み取った。それをイワシの皿と一緒にひろしの前へ置くと、「ごはん、ごはん!」
     と、夢が茶碗にご飯をよそうのを待ちきれない様子でキッチンカウンターの前に陣取りながら、『ひょい』と手を伸ばし夢の横の皿に置いてある、まだ焼かれていない生のコーネを『ポイ』っと口の中に運んだ。
    一口噛んだ皐月は「うま~!やっぱりコーネは生に限る」と言いながらまた、手を伸ばそうとしたところ。
    それを見た夢が「こら!皐月!それ生じゃけー!いつも、お肉買いに優侑ミート行ったら必ず帰り際におばちゃんが、「お肉、絶対焼いて食べてえよ。あんたんとこのお父さんじゃったら生で食べかねんけ~ね。お願いよ」言うて釘を刺すじゃろ?じゃけーもう止めときんちゃい」
    すると、裕も「おう、ワシも久しぶりに生でコーネ喰おうかのー」と、言うと夢が
    「お父さん!今の話聞きょうた?」と強く言うと、今度は美咲も
    「ひろ君、うちもお肉買いに行ったら必ずひろ君なら生で食べかねんけー必ず焼いて食べて言うて釘を刺されるんじゃけー」
    すると裕が「お前、あそこは業務店にも卸しょうて、毎日新鮮な肉が入ってくるんで。ほれ、その肉見てみーや、きれーな色しとるじゃろーが。古い肉は直ぐ色が変わるけーの」と、夢の横にあるコーネを指さしながら「だいたい、規制がかかる前はスーパーでも生レバーじゃコーネ刺し売っとったじゃろうが?ほんであの頃周りの誰か生肉喰うて当たった奴おったか?おらんじゃろーが?規制されたけー言うて急に生肉喰うたら当たる言うんがワシは納得できんのじゃ」と言うと、夢と美咲が顔を見合わせて「はぁー」と、ため息一つついた。
    それから裕はまだ続けた「当たるんは、ええ加減な肉をええ加減な管理してええ加減な売り方するけー当たるんじゃ。そげな奴がおるけー規制は必要じゃ。けど、ワシは自分の判断で自己責任で喰うんじゃ。人間いつ死ぬかわからんのんで。こうやってしゃべりょうていきなり心臓が止まる事もあるけーの、じゃけー死ぬときには出来るだけ、あれしときゃーよかったとか、あれ喰うときゃーよかった言うて死にとうないだけなんじゃ」と言うと皐月が
    「父さん、コーネを生で喰うかどうかの話がスゲー壮大な話になったんじゃけど、要は黙ってコーネ刺し喰わせろ言うて、母さんと、姉ちゃんに抗議しょうるんじゃろ?」と言うと、裕が
    「まあ、まとめたら、そういう事かの」と、ばつが悪そうに小声になった。
    それを聞いて家族みんなの笑い声がリビングに響いた。
    その笑いが一段落すると皐月が「どうでもええけーとにかく、姉ちゃんうちの飯ついでぇーや、餓死しそうなんじゃけー早よーぅ飯、飯、飯をくれ~」と、手を夢の方に差しだし倒れるようなしぐさをして見せた。
    「もー、あんたは、子供の頃から変わらんねー。今つぎようるけぇちょっと待ちんちゃいや!自分のだけじゃあーのーて、みんなのぶんも持って行くんよ。それと、飯じゃあのーてごはん。わかったんね」
     夢が炊飯器を開け、真っ白な湯気の中にしゃもじを差し込んだ。茶碗にご飯がこんもりと盛られていく、その夢の動きと入れ替わるように、コンロの前でフライパンを振っていた美咲が、ついに火を止めた。
    「はい、お待たせ! 特製スタミナ焼き、熱いけー気を付けんちゃいよ!」
     美咲が重たいフライパンを傾け、出来上がった具材を一気に大皿へと滑らせる。その瞬間、ジュワッという快音と共に、猛烈な勢いで湯気が吹き上がった。 たっぷりの生にんにくと、焼肉のタレ特有の甘辛く濃厚な香りが、熱気となってリビング中を包み込んでいく。熱を帯びたタレが肉の脂と絡み合い、少し焦げて煮詰まったあの独特の香ばしい匂いに、全員の鼻腔がひくついた。
    「うわぁ……きたきた! この匂いだけで、もうたまらんわ」
     夢から山盛りに「つがれた」
     茶碗を受け取った皐月が、鼻をクンクンさせながら小さな子供がうれしくてスキップするようなテンポでテーブルに裕と皐月の二つの茶碗を置いた。
     それを見た夢が「お母さんと、うちのは持って行くけー、それ、持って行ったら、もう、食べょーてええよ」
     と少し微笑みながら、優しい姉の表情をした。
     大皿が中央にドスンと置かれた瞬間、勝間家の食卓は、これ以上ないほどの「旨そうな匂い」
     で満たされた。
     夢は残った二つの茶碗に手際よくご飯をよそうと、それを両手に持ってテーブルへと運んだ。 「はい、お母さんの分。……ほら、お母さんも、もうええけぇ、こっち来て食べようや!」
     夢がご飯を置くか置かないかのうちに、皐月は既に大皿からスタミナ焼きを引っ張り出していた。 それを山盛りの白飯の上に、これでもかというほどバウンドさせ、タレと脂を飯に染み込ませる。そのまま大きな口を開けて、肉と野菜、そして黄金色のタレが絡んだ飯を一緒にかき込んだ。
    「んんーっ! ぶち旨い! やっぱこれじゃわ!」
     夢の「食べょーてええよ」
     という言葉を飲み込むように、皐月はガツガツと猛烈な勢いで食べ進める。
     その様子を隣で見ていた夢が、呆れた表情で「あんたは、いつまでたっても子供なんじゃけー。ご飯は逃げりゃーせんのじゃけー。ゆっくりよう噛んで食べんちゃい。のどに詰まらせんのんよ」
     と姉の顔になった。
     キッチンの美咲は「はいはい、今行くけー」
     と答えながら、コンロの熱で上気した顔を首の汗取りタオルでゴシゴシと拭った。そのままシンクで手を洗い、手の水気を首にかけたタオルで拭くと、エプロンをバサッと脱ぎ捨て、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出してテーブルへ向かう。
    「あー、やっと座れた。お母さんも、もう我慢できんわ!」
     冷蔵庫で快適に過ごしていたビール缶は、急にエアコンが効いているとはいえ真夏の部屋へ無理やり引っ張り出されて、身体全体に大粒の水滴を纏いだしていた。
     美咲は、その缶ビールの不快そうで不満げな表情に全く気付くことも無く、パチンッという音と共に勢いよくプルタブを開け、缶のままビールを一気に喉の奥に流し込む。
     その瞬間、美咲は、喉の奥から『キーン』と言う音が超高速で頭のてっぺんを突き抜けて行った様な衝撃に捉われた。
     それから、美咲は幸せそうに溜息をついた。 「……くぅぅっ、冷えとる! ねぇヒロ君、これ、にんにくが良い感じに効いとるよ!」
     と、コーネをひとしきり堪能して今まさにイワシの刺身に手を伸ばそうとしている裕に向かって、美咲自慢のスタミナ焼きを勧めた。
     そう言うなり、美咲も負けじと熱々のスタミナ焼きに箸を伸ばした。
     そこで、夢がおもむろに口を開いた。
    「父さん!母さんを拉致して東京に連れて行った話し、あれ嘘じゃったんね?」
     と裕に詰め寄った。
     裕は「おっ?そんな話し、したかいのー?」
     と、真剣な表情でイワシの刺身をレモン汁にくぐらせ、慎重に卓上塩をかけながら、夢に目をくれる事無く、とぼけてみせた。
     夢が「うちが、高校生の時、父さんと母さんのなれそめを聞いたら、母さんが美人じゃけー他の奴に盗られたらいけん思うて、拉致してスーツケースに入れて東京まで連れて行った、言うて言うたじゃん」
     と真剣な顔で言うと、夢以外の家族みんなが顔を見合わせたかと思うと、お腹を抱えて笑い出した。夢は続ける「えっ?なんでみんな笑うん?」
     隣にいる皐月の方に向きなおして「皐月も一緒に聞いたよね?」
     と、真剣ですがる様な眼差を皐月に向けた。
     皐月はなおも笑いながら「姉ちゃん、その話、高校生の時に聞いて信じたんか?それも今日まで?」
     と、皐月が夢に聞くと「うん」
     と夢がうなずく。
     その夢の真剣な表情を目の当たりにした途端、皐月が噴出した。
    「ぶは~つ!ヒッヒッ~~!息が出来ん~腹痛い~腹筋が崩壊する~!うひ~っ!やっぱり、姉ちゃんが最強じゃ~。うちに、これだけのダメージ与えられる奴は姉ちゃんしかおらんけー」
     と言うと再び笑い転げた。
     そこへ、裕が口をはさんだ「……で、夢、そのスーツケースの話が嘘じゃ言うて、一体誰から聞いたんや?」
     裕は、自分がついた嘘の内容は重々承知の上で、ニヤニヤしながら聞いた。どこでネタが割れたのかを軽く確認するような、そんな軽いノリだった。
    「誰からって……今日『瀬戸っ子』で勇おじさんと茜おばちゃんに聞いたんよ! お父さんが拉致し言うんは全部嘘で、本当は母さんが父さんの事を大好きで追いかけて東京まで行ったんじゃ、って、勇おじさん、ぶち笑いながら教えてくれたわ!」
     その話を聞いて、少し動揺したのか、口に含んだビールを吹き出しそうになりながら、美咲が口をはさんで来た「チョ、チョット訂正しとこうかね。あれはね、母さんが父さんと幼なじみで、お父さんが生活に関する事、一切何も出来ん事を知っとったけー仕方なしに付いて行ってあげたんよ。母さん、その時就職も決まっとって、それも辞退して幼なじみのよしみでボランティア的な意味で行ってあげたんよ。ねーっ、ひろ君?」
     と、顔はにこやかな様な表情に見えるが目は絶対に同意しろと言うように裕を睨みつけていた。それと同時に並んで食事しているテーブルの下で裕の足を娘たちには悟られない様に『コツン』と蹴った。
     それを受け、裕もひきつったような笑顔で「そっ、そうじゃ!ちーと思い出したが、父さんが何も出来んけー母さんが心配して来てくれたんじゃったわ。勇も茜もどこで勘違いしたんかのー」
     と、完全に小学生が学芸会で発するセリフのように棒読みになっている言葉を吐いた。
     その茶番劇を目の前で見せられても夢は、キラキラとした瞳で美咲を見つめた。 「お母さん、自分の将来を棒に振ってまでお父さんを助けに行ったんじゃね。やっぱりお母さんは聖女みたいに優しいわ。勇おじさん達ひどいよね。そんな立派な覚悟を『追っかけ』だなんて言うて……。お母さん、本当にかっこいい!」
     100パーセント、いや200パーセント、お母さんの『聖母ボランティア説』
     を信じ切った夢。その純粋すぎる視線に、美咲は一瞬だけ(……あ、ちょっと盛りすぎたかね)
     という顔をした。
     一方皐月は、その横で、山盛りの白飯を口にかき込みながら、冷静な目で美咲と裕を見ていた。 (……はいはい、始まったよ。内定捨てたんは事実かもしれんけど、それ『母さんが父さんと離れとうないけぇ、仕事なんか知らんわー!』って暴走して家飛び出しただけじゃろ。昔、ばあちゃんに聞いたことあるわ。それにしても、姉ちゃん、相変わらず信じ込みすぎじゃわ)
    「姉ちゃん、そんな話信じるんは、世界中で姉ちゃんだけじゃわ。もう、ええ年なんじゃけー疑う言う事覚えた方が良いと思うよ。ようこの年まで、変な男に騙されんかったわ」
     と箸を止めずに呆れ顔で夢に言った。
     それを聞いた夢は、「もう!お昼に、勇おじさんにも同じこと言われたわ。けど、父さんと母さんの子供に手を出すバカはおらんよのー言うて、笑うとったんじゃけど、それ母さんじゃのうて、父さんと皐月の言い間違いなんじゃろうね?」
     それを聞いた美咲は「ほらね、勇、もうボケようるんじゃろーね。母さんの話も間違うとるしね」
     と、自分の苦しい言い訳の正当化を図った。
     皐月が「はいはい、そう言う事にしとってあげるわ。今更、父さんと母さんの馴れ初め聞いても仕方ないけ~ね」
     そこへ美咲が続けた「ところで、夢、あんた今日、何で勇の店に行ったん?」
     その問いに、夢は「ああ、今日ね、マリーナでの待ち合わせに1時間も早う着いてしもうてね。潮の香りが気持ちええけーレネゲードの窓を全開にして、助手席に置いとった仕事のテキストを広げようとしたんじゃけど……その瞬間、急に吹いた風にテキストが窓から外に飛ばされてしもうて。慌てて車から飛び出して追いかけたんじゃけど、最後の一枚が捕まえられんで、海に向かって飛ばされていったけー、その先に釣りをしょうる人がおって、『その紙捕まえてー!』って、おらんだんよ。そしたらその人、竿持ったままエビぞりジャンプして捕まえてくれたんじゃけど、そのまま『バッシャーン!』って海に落ちてしもうてね、海の水でビショビショになったんよ。それで申し訳なかったけー、お礼に勇おじさんの店で、お昼ごはんをご馳走したんじゃけど、勇おじさんも、茜おばちゃんもお金取ってくれんかったんよ」
     夢は嬉しそうに、今日の出来事の報告を続けた。
    「それでね、ごはん食べながらダイビングの話しをその人に、あっ、その人律さん言う人なんじゃけど、そしたら、潜ってみたい言うけー来週のダイビングスクール予約してあげて、帰りの車の中で」
     と話しかけたところで、黙って聞いていた裕が口を開いた。
    「車の中で何されたんじゃ?」
     と少し語気を荒げた。
     夢は笑いながら「父さん、最後まで聞いてえや。車の中で、何で両腕に時計しとるんかって聞かれたけ~10分早めとる話したら、えらい喰いついてきちゃって、自分も10分前行動するけーダイビングウォッチ選ぶの手伝どうてくれ言うて頼まれたけー、明日、仕事帰りに待ち合わせして、ジ・アウトレット広島のシチズンのお店に行くけー。それで、お礼に夕ご飯おごってくれるらしいけー、明日は夕飯要らんけーね」
     と裕の心配をよそに、今日あった衝撃的な律との出会いを無邪気に報告した。
     それを聞いた美咲が「良かったね。じゃあ、勇と茜にお礼言うとかにゃいけんね」
     と、テーブルに置いてあったスマホを手に取り電話をかけだした。
     美咲は、その呼び出し音が鳴ったのを確認した後スピーカーをオンにして、テーブルの上に置いた。
     一方、『瀬戸っ子』の板場のネタケースの上では、勇のスマートフォンが、彼が心酔する広島のスター、吉川晃司の『モニカ』を高らかに鳴らしながら、激しく「踊って」
     いた。
     それに気付いた茜が、振動でケースの上から滑り落ちそうなスマホの画面を覗き込み、『美咲』
     の文字を見て声を上げた。
    「美咲先輩から電話よ。出ようか?」
     勇は、今まさに刺身の盛り合わせを仕上げている真っ最中だった。集中を切らすわけにはいかず、まな板に向かったまま、短く応えた。
    「おう! 美咲か。今手が離せんけー、何の用事か出てみーや」
     カウンターの外にいた茜は、ネタケースの上のスマホを手に取ると、そのまま画面をスライドさせた。
     その瞬間、静かだった勝間家のリビングに、受話器が震えるほどの凄まじい活気が溢れ出した。
     電話の向こうから聞こえてくるのは、勇が振るう包丁がまな板を叩くリズムの良い音や、天ぷら鍋から上がる『パチパチッ』
     という小気味よい油の音。そして、それらを飲み込むような、地鳴りに近い客席の『ざわめき』
     の塊だった。
    「大将、これぶち旨いよ!」「お姉さん、冷酒もう一丁!」
     という威勢のいい声に、あちこちのテーブルから弾けるドッとした笑い声。空いたジョッキをテーブルに置く『ドン!』
     という心地よい衝撃音や、お盆を抱えた茜が小走りに動く忙しない気配までもが、熱気となって電波を伝ってくる。
     それは単なる騒音ではなく、瀬戸内の旨い魚と酒に酔いしれる、広島の大人たちの『生命力』
     が音になったような、圧倒的な活気であった。
    「はい、茜です。今手が離せないので代わりに取りました」
     スピーカー越しに届いた茜の声に、美咲が答える。
    「あっ、茜?うちじゃけど、勇、忙しそうじゃね。いや、今日、夢が世話になったみたいじゃけーお礼言うとかんといけん思うて電話しただけじゃけー」
     美咲の声をスマホ越しに聞いた茜は直立したまま、ペコペコと頭を下げながら対応していた。
     それを見ていた勇は、仕上げた刺身をネタケースの上に置いて、洗った手を前掛けで拭きながら茜に「おみゃ~は、いつまで美咲にビビっとんじゃ。まっ、ええけーこれ早よう持って行けや」
     と、ネタケースの上にある刺身を指さしながらスマホを渡せと右手を伸ばした。
     スマホを受け取り、耳に当てるといきなり、「このくそ忙しい時になんや?」
     スピーカー越しに響いてきた勇の第一声に、美咲は苦笑いしながら答えた。
    「ごめん、ごめん。今日、夢が世話になったらしいけー、お礼を言おう思うて電話したんよ」
     勇はスマホを耳に当てたまま裏にある勝手口から外に出ると、煙草に火をつけ、大きくたばこの煙を吸い込んだ。
    「ほうか。また、ひろのバカが、夢が連れて来た男の事を、ワシから聞き出せ言うて、美咲に電話さしょうるんか思うたわ」
     と、豪快に笑った。
     そこへ裕が割り込んで来た「勇!ワリャ~誰がバカなんじゃ。アアーッ!」
     それを聞いた勇は「おおっ?ひろワリャー聞きょうたんか?そりゃええが、この最近全然顔見せんが生きとるんか」
     裕がテーブルの上のスマホに顔を近づけて「おおっ、今の~、皐月の試合が近こうての~付ききりじゃけー中々顔出せんのんじゃ。そりゃ、ええんじゃがの、夢が連れて行った男いうんは、どげな奴なんじゃ?」
     そう聞かれた勇は、煙草をもう一服して「おおっ、律の事か?なかなかのええ男じゃったで。挨拶もちゃんと出来て感じのええ子じゃったわ。けどの、ひろ、前から言おう思うとったんじゃが、お前そろそろ子離れせんといけんで。夢、何歳になった思よんじゃ。もうええ年の大人なんじゃけーほっといたれや。だいたい、ワシらがガキの時、親に誰と付き合おうとります言うてお伺いたてようたか?それが、親になったら急に監視するような事しゃあがって。夢には夢の人生があるんで」
     それを聞いた裕は、「子供を守るんが親の義務じゃろうが!」
     と、少し語気を荒げて言うと、勇が「お前、夢より長生きするつもりか?よう考えよ、魚を釣ってやって喰わしょうたら、お前が死んだら、その子は飢え死にするんで、それよか、魚が釣れるポイント、魚の釣り方を教えてお前がおらんでも自分で魚を釣って、喰えるようにしてやるんが本当の親の義務じゃないんかの?ワシはそう思うで」
     それを聞いていた美咲が「はい。ひろ君の負け。これからは、夢も皐月も見守るだけで、出来るだけ口出しせんようにしょうね」
     と笑って言った。
     そこへ夢が「あのーっ。聞いとったら、律さんと、うちが付き合うとる体で話しょうるけど、今日初めて出会ったばかしじゃし、明日も、うちの方がダイビングウォッチに詳しいけー買い物付き合うだけなんじゃけーね。勘違いせんでえや。勇おじさんも聞いとる?」
     と、テーブルの上でスピーカーのままのスマホに向かって言った。
     そのスマホを美咲が手に取りスピーカーを、オフにして耳に当てながら、夢と皐月に「あんたら、食べ終わったら全部洗って拭いてね。ついでに、お父さんと母さんのもお願い」
     と言うと、スマホを持ったままリビングを出て行った。
     リビングのドアを閉めると同時に、小声ではあるがドスの利いた声で「勇!あんた、夢に要らん事言うたじゃろー?要らん事言ようたら、あんた、しごうするよ!」
     と、元レディース総長の顔を少しのぞかせた。
     それを聞いた勇は、「わかった、わかった」
     と少し笑いながら続けた「けど、本当の事をワシは言うたんじゃがのー。ほんで、おまえ、夢が言よったで、うちの母さんは怒りの感情を忘れとる言うてのー、それ聞いて吹き出しそうになったで。よっぽどお前の本当の姿を教えてやろうか思うたわ」
     と、夜に響き渡るくらい豪快に笑った。
     美咲が「あんた、どうしても死にたいらしいね?」
     再度ドスを利かせて言うと、「はいはい、広島の鬼夜叉さんが顔出しょーるけー了解じゃ。けど、お前ら二人の子供でよう、あんな子に育ったよのー?ま、たまに言い出したら引かん所と、思い込んだら突っ走る所は、お前によう似とるよのー言うて茜と笑うんで」
     それを聞いた茜は笑いながら「そうじゃろー。あの子、いつもはポケ~ッとしとるけど、子供の頃から納得せんかったら絶対首を縦に振らんかったけーねー。実はうちに似とるんかのーと思ようたんよ。ま、皐月の試合が来週じゃけー、それが終ったら店に顔出すわ。今日は、ありがとうね。茜にも言うとって」
     と言うと続けてどすの利いた声で「それと、要らん事言わんので。じゃあね」
     と、言って電話を切ってリビングのドアを開けた。
     すると、食べ終わったみんなの食器を洗っている夢の姿が目に入った。
     その足元では、早く遊んでと、ごはんを食べ終わったラッキーとハッピーがじゃれついて催促をしていた。
     美咲は、ソファーに寝そべり裕とテレビを見ながら笑っている皐月に、「皐月!お姉ちゃん一人に洗わして、あんた、何しょうるんね」
     と、強い口調で言った。
     それを聞いた夢は「お母さん、ええんよ、皐月がやったらもう一回洗い直さんといけんけー、二度手間になるんよ。お母さんもわかっとるじゃろー」
     と笑った。
     美咲は「はあーっ。姉妹で何でこんな180度性格が違うんかねー?同じように育てたのにねー」
     と、ため息をついた。
     そこに、裕が「夢は、ワシの性格に似て、おとなしゅうて、皐月はお前に似て雑なんよ」
     と、テレビを見ながら美咲を横目で見て笑った。
     キッチンから洗い物の手を止めずに夢が「父さん、それ、逆じゃろ?父さんと皐月、性格も言い方もそっくりじゃけー。これぞ、ザッ親子じゃけー。ねえ、母さん。うちは、母さんに似とるよねー」
     と言うと、美咲が夢の横に並び食器を洗いながら「そうじゃね。夢は母さんそっくりじゃもんね~」
     と、顔を見合わせて笑った。
     それから、リビングの二人に聞えない様に少し小声で美咲が「夢、その律君ちょっと気になっとるんじゃろ?何かビビビッと来たん?」
     と言うと、夢は、大きな瞳をもっと大きくして「えっ、母さん何言よん、今日会うたばっかしじゃ言うて言ようるじゃん」
     と少し焦った表情になった。
     美咲が「いや、あんた学生の頃、しょっちゅう家に男の子から電話かかって来よったけど、全部居留守使こうて、父さんか母さんに断わらしょうたのに、その、あんたが初めて男の子と二人で買い物に行く言うけーよっぽど気に入ったんか思うてね。あっ、じゃけー勇の店に連れて行って、勇と茜に品定めさしたんじゃ。あんたは、ほんまに慎重過ぎるくらい慎重なんじゃけー。じゃけー今まで彼氏出来んのかったんじゃろうね。ま、勇も気に入っとるみたいじゃけーええ子なんじゃろうね」
     と、シンクの下にかけてあるタオルで手を拭きながら納得したように頷いた。
     夢も続いて、そのタオルで手を拭きながら「じゃけー違う言よーるじゃん。勇おじさんの店に連れて行ったんは、行く店が思いつかんかっただけじゃけー。もう、お母さんは」
     と口を尖らせた。
     美咲は「はいはい」
     と言うと(応援しとるよ夢)と心の中でつぶやいた。それと同時に、一瞬恋する女性の顔に変わった夢を見逃さなかった。
     夢は、「もう、ええわ。寝るね。お母さんお休み」
     と言うとリビングに向かって「父さん、皐月、お休みー、ラッキーハッピーお二階に上がるよ。おいで」
     とリビングのドアを開け二階へ続く階段を駆け上った。
     自分の部屋のドアを開け、ベッドに腰掛け壁によっかかると、待ってましたと言わんばかりにラッキーとハッピーが飛びついて来た。
     二匹は夢の膝の上に上がり両方からしっぽをちぎれんばかり振りながら、「おかえりなさい。お母さん」
     と、全身で無償の愛を込めながら、夢の頬をぺろぺろと舐めた。
     夢は二匹の頭を交互に優しく撫でながら、「ふっふっ」と笑みをこぼした。
    「二人とも、今日はええ子ちゃんしとった?今から、今日あった事話すけー、聞いてくれる?」
     と、夢が二匹を抱き寄せ顔を近づけて聞くと、二匹は「何々」
     と膝の上でお座りをして耳を夢の方に向けピンと立てた。
     すると夢が二匹に向かって「今日ね、マリーナで変な人と出会ったんよ。その人ね律さんって言うんじゃけど、人間が入れるくらいの大きいクーラーボックスにテープで大きくRITU言うて貼っとるんよ。変な人じゃろ~?」
     と、二匹の目の前で大きく手を広げて、クーラーボックスの大きさをアピールした。
    「それでね、お母さんのテキストが風に飛ばされて、その人がそれを捕まえようとしてくれちゃったんじゃけど、海に『ドボン』ゆうて落ちちゃったんよ。それでね、テキストは無事じゃったんじゃけど、律さんが、ずぶ濡れになってしもうてね申し訳無いけーお昼ご飯ご馳走しよう思うて、勇おじさんのお店に連れて行ったんよ。初めて会うた人じゃけー勇おじさんの所なら安全じゃ思うてね」
     そこまで話すと、枕にしている大きなクッションを引き寄せグッと抱きかかえ恥ずかしそうに顔を埋めた。
     じっと聞き耳を立てながら話を聞いていた二匹はそれを見て、「なんか、今日の母ちゃん様子が変じゃのー?帰った時、嗅いだことの無い人間の匂いがしたしの~」
     とラッキーがハッピーに話しかけた。
     ハッピーが「あんた、相変わらず鈍いねぇー。お母さんその律とか言う人間が気になっとるんよ。お母さんが、男の人の話しするの初めてじゃけーうちらで、応援しょうやー。もしかしたら、うちらのお父さんになるかもしれんよ」
     と、言うと、ラッキーが「はっ?俺は、父ちゃんなんか要らんで。もし、そいつが来たら、吠えまくって追い返してやるわ」
     それを聞いたハッピーが「はっ?あんたが吠えまくる?雷が鳴ったらお母さんに抱きついてブルブル震えとって、うちの、おじいちゃんに、ラッキーじゃのうて、ビビッキーじゃのー。言うて笑わりょーる、あんたが?初めてお母さんに彼氏が出来るかも知れんのんじゃけー邪魔したら、うちが黙まっとらんよ」
     と、ラッキーを睨んだ。
     その瞬間、二匹のただならぬ雰囲気を感じた夢が「二人とも、喧嘩せんのんよ。仲良うちんちゃいね」
     と言うと、話を続けた。
    「それでね、話ししたらすごい感じのいい人でね。顔もまあまあイケメンなんよ。自分じゃあ超イケメンで、イケメン過ぎて女の子がよう声かけん言うて勘違いしとってんじゃけどね。変な人じゃろ?明日も、時計買いに行くの付いて来て時計選んでって頼まれたけ~行くんじゃけど・・・」
     と。言いかけて、顔を少し赤らめながら顔の前で手を大きく振りながら二匹に向けて「違うんよ。お母さん仕方なしに行くんよ。お礼に、ご飯を食べさせてくれるらしいけー行くだけじゃけー。絶対、喜んで行く訳じゃ無いんよ。仕方なし、仕方なしに行くんじゃけーね」
     と言うと、ラッキーが「なにっ!そいつと買い物行くじゃと!はっ?ハッピー俺らも明日、付いて行こうや」
     と、ハッピーに言うと「行けるわけないじゃろ。うちら、バスにもチン電にもキャリーバッグに入ってお母さんが連れて行ってくれんと乗れんじゃろ?それに、お母さんの会社の中にも入れんし。相変わらずバカじゃね、あんたは」
     と言うと「じゃあ、母ちゃんの護衛はどうするんや?」
     と、ラッキーが言ったところで、夢が「どしたん?あんたら、いつもは仲良しじゃのに今日は喧嘩ばっかしして。おかしいよ」
     と、二匹に向かって言うと、「一番おかしいんは、あんたじゃ」
     と、二匹が夢にツッコミを入れたころ律は・・・
     同じ夜。皆実町。
     長いシャワーから上がった律が鏡の前に立っていた。ドライヤーで髪を乾かしながら鏡の中の自分を見て「よし!顔も体もピカピカじゃ!相変わらずええ男じゃのー」
     それから、腕を上げ脇の方に鼻を近づけクンクンと匂いを嗅いで「匂い無し!これで、明日は万全じゃ」
     と顔を両手でピシャリと叩いた。
     ふと壁掛け時計に目をやると、10時を少し回っていた。
    「しもうた。念入りに身体洗らようたらこんな時間になってしもうたわ。夢ちゃんもう寝ようるんかのー?けど、お礼言わんといけんしのー。じゃけど、この時間にLINEして常識のない男じゃ思われるんも困るしのー。けど、絶対夢ちゃん俺にいい印象持っとるけー。じゃないと、時計買いに一緒に行ってくれんじゃろうしのー。もしかしたら、俺に惚れとるかもしれんよのー。じゃったら、今頃スマホ握りしめて俺からのLINE今か今かと画面見つめとるよのー。相変わらず俺は罪な男じゃのー」
     そう言うと、ベッドにダイブしてニヤけながらベッドの上を転げ回って悶絶した。
    「あっ、いけん!こんな事しょうたら、また時間が経ってしもうた。カッコええ文面も考えんといけんし、どうしたらええんじゃ~~」
     と、これだけ葛藤して、結局夢に送った文章は「こんばんは。今日はありがとう。明日宜しくお願いします。おやすみなさい」
     だった。
     送信ボタンを押した律のスマホ画面が、すっと暗くなった。
     その頃、夢の部屋。
     ラッキーとハッピーが、夢の布団の中いつもの定位置で眠りにつこうとしていた時、夢のスマホが『お待たせ!やっと、待ってた人からLINEが来たで。良かったのー』
     と言うかのように『ピコーン』
     とLINE特有の通知音を鳴らした。
     それに気付いた夢は、スマホを手に取り画面を見ると、通知窓にはグリフォンと表示されていた。
     その通知音で夢の世界の入り口から現実の世界に引き戻された二匹が布団からもぞもぞと這い出して来た。ラッキーが「誰じゃ母ちゃん?こんな時間にLINEする奴は。常識無いのー。せっかく、ええ気持ちで寝よぅたのに」
     と、でも言いたげに夢の顔を見上げた。
     それに、お構い無く夢が満面の笑みを浮かべて「二人とも見て、見て」
     と、スマホの画面を二匹に向けて「さっき話してた律さんからLINE来たよ。なんて書いてあるんかね?」
     とワクワク感いっぱいで眠気眼の二匹に言った。
     それを見たハッピーが「やっぱりお母さん、その人に一目ぼれしたんじゃ」
     と言うと、ラッキーが「えっ?でも、母ちゃん、さっき全然そんなんじゃあない言うとったで」
     と言うと再びハッピーが「あんたは女心を何もわかってないよね。おじいちゃんもそうじゃけど、うちの男どもは。じゃけーうちをいつも怒らせるんじゃ!ボケ!おじいちゃんも、いつもおばあちゃんに怒らりょうじゃろ?よう見ときんさいや」
     と、返した。
     その二匹の攻防も目に入らず、ワクワクとドキドキが入り混じった感情のままLINEを開いた夢の表情がみるみる曇っていった。
    「えっ?たったこれだけ?」
     と、つぶやくとスマホをベッドの上に力なくポンと投げて、不機嫌そうに「はい、解散。二人とも寝るよ」
     と、布団に入った。
     それを見たラッキーが「あれ?母ちゃんどうしたんかの?怒っとるんかの?落ち込んどるんかの?ペロして慰めてこうかの?」
     と言うと、ハッピーが「要らん事せんの。うちらも寝るよ」
     と、ラッキーを布団の中へ連れて行った。
     色々あった一日の夜が更けて行った。窓の外では、瀬戸内の海が、今日あった全てを静かに飲み込みながら、変わらず穏やかに凪いでいた。


    珏2獠

     翌日。西日本システム開発、午後4時47分。
     律はデスクの上のスマホと、左腕の時計を交互に見ていた。スマホ。時計。スマホ。時計。
     夢からのLINEは、昨夜の
    「了解です。今日はお世話になりました。明日、仕事終わったら連絡しますね。5時過ぎには終わると思います。おやすみなさい」から更新されていない。
     「わかっとる。まだ、47分じゃ」
     キーボードの上に置いた指が、仕事と全く関係のないリズムを刻んでいる。画面には、仕上げなければならない仕様書が開いたままだ。文字が、頭に入ってこない。
     午後4時49分。
    「……2分しか経っとらんのか」
     思わず声に出てしまった律に、隣のデスクの同僚が顔を上げた。
    「海堂さん、今日なんか変ですよ。朝から同じページ開いたままで、全然進んどらんですよ」
    「そ、そうか?気のせいじゃろ」
     そう指摘され焦った律は、わざとらしくキーボードを叩き始めたが、3秒後にはまたスマホに手が伸びていた。
     そうこうしているうちに、時計の針が17時を指した。
     律が、朝から待ちに待った、その時がやって来た。
     朝から、律の様子を呆れ顔で見ていたパソコンのモニター画面に
    「終業時間です。今日も一日お疲れ様でした!早く帰ってリフレッシュしましょう」との文字が映し出された。
     その瞬間、いつも愛用している、カステルバジャックのショルダーバッグを、素早く肩にかけ出ようとしたところ、先輩の宮本が声をかけてきた。
    「律!今日は朝からソワソワして、どうしたんや?何かええ事あったんか?」
     満面の笑顔で振り返った律は
    「いや~今日、女が買い物付き合え言うけー、仕方なしに行ってやるんすよ。早よぅ行かんと店が閉まるらしゅうて、それで急ぎょうるだけですよ。あくまで仕方なしなんすけどね」と答えると、
    「お前、彼女おったんか?いつも、会社終わっても、会社でチンタラチンタラして中々帰らんし。しょっちゅう、暁でラーメン喰うて帰りょうるけー彼女おらんのか思うとったで」
    「いやいや、彼女じゃあないんすけどね。俺に惚れとる女の中の一人なんすよ。俺が特定の彼女作ったら他の女が自殺して、広島県の女性の人口が一気に減ってしまうけー、特定の彼女作らんだけなんすよ」と、自慢げな顔で言うと、続けて
    「女、待たすとうるさいけー、失礼しま~す」と、敬礼して勢いよく出て行った。
     宮本が苦笑いしながら
    「ほうか。ま、頑張れや」と手を振ると、律の背中はもう廊下の向こうに消えていた。
     宮本は律の空になったデスクを見て、朝から一度も更新されていなかった仕様書のモニター画面をそっと消した。
    「……どこが仕方なしなんじゃ」と、誰に言うともなく呟いた。
     律が、会社のドアを押し開けた瞬間、真夏の熱気が『どわっ!』と律の全身に覆いかぶさってきた。まるで巨大なドライヤーを正面から浴びたような、息が詰まるほどの熱の塊だった。
     目の前を、路面電車が『ゴトンゴトン』と、のんびり通り過ぎていく。
     律は、スマホの画面を確認したが、夢からのLINEはまだない。
     待ちきれなかった。
     律は、熱気を帯びた真夏特有の空気を、両手いっぱい広げて酸素を全身にいきわたるように大きく吸い込むと、今度は『ふうっー!』と、息を吐きだしたかと思うと、本通りに向かって弾むように走りだした。夢の会社まで歩くと十五~六分走ると七~八分。でも今の律には、その七~八分が途方もなく長く感じた。
     夕方のアーケードは、仕事帰りの人間で溢れかえっている。律は、その人の波を縫うように、ショルダーバッグを胸に抱え直して駆け抜けて行った。右手に握ったスマホが、いつ振動してもいいように画面を上にして構えている。
     本通りのアーケードを駆け抜けると、夏の西日が容赦なく照りつけてきた。ネクタイを緩めたシャツの首元に、じわりと汗がにじむ。それでも足は止まらない。
     夢のビルが見えてきた。律は立ち止まり、乱れた息を整えながらエントランスを見上げると、手に持ったスマホの画面を覗き込んだ。
     夢からまだ、LINEのメッセージが入っていないことを確認し、自分がすでに、夢の会社の前にいるとメッセージを入れ、誤字脱字のチェックを入念にした後、なぜか少し緊張ぎみに送信ボタンを押した。
     スマホを握る手に、自然と力が入った。
     その頃、夢の仕事場である広域戦略リサーチの相談室には、『パッヘルベルのカノン』が静かに流れていた。
     外の喧騒が嘘のように、音楽だけが部屋の空気を満たしている。
     窓から差し込む西日が、ゆっくりと部屋の色を変えていく。
     夢は向かいに座る、クライアントの言葉を、一つも取りこぼすまいと受け止めていた。
     夢にとって、この時間は相手のためだけにある時間だった。律のことも、今日の夕飯のことも、この部屋の中には存在しない。
     やがてクライアントが深く息をついた。
    「勝間さんに話聞いてもろうたら、なんか、すっきりしたわ。ありがとうございます」
     夢は微笑んで
    「いえいえ、また何かあったら、いつでも話に来てくださいね。けど、頑張り過ぎはダメですよ。私、思うんですけど、人は一生に数回、ここだと思うところで、目いっぱい頑張って、後は、適当で生きていけばええと思っとるんですよ。じゃないと、いつも肩肘張って生きとると、息が詰まってしまいますから」と、言って丁寧に見送った。
     相談室のドアが静かに閉まった瞬間、夢はスマホを手に取った。
     画面に律の名前が光っていた。
     律からのメッセージを確認した夢は
    「あっ、約束!忘れとった!」
     咄嗟に左腕にした時計を見ると、約束の5時半を少し回っていた。
     今度は正確な時間を見る為に右手の腕時計で時間を確認して
    「いけん!ぎりぎりじゃ!」とつぶやいて、夢は手に持っているスマホで急いで律にメッセージを打った。
    「遅くなってごめんなさい!今から急いで出ます!」
     返信を待つ間もなく、夢はスマホをバッグに入れ急いで肩にかけた。
     デスクの上を素早く片付けて、相談室の電気を消し廊下に出ると、オフィスはもうすっかり夕方の空気に変わっていた。
    「お疲れ様でした!」
     同僚の声を背中で受けながら、軽く会釈をし、夢は小走りでエレベーターへ向かった。
     いつもと同じ廊下。いつもと同じエレベーターホール。なのに、今日は、なぜか足が軽かった。
     ボタンを押してドアが開く。乗り込んで1階のボタンを押すと、静かにドアが閉まった。
     鏡張りのエレベーターの中で、夢はふと自分の顔を見た。
     口元が、少しほころんでいた。
    (……あれ?)
     自分でも気づかなかった。夢は慌てて表情を引き締めようとしたが、どうしても口の端が上がってしまう。
    (仕方なしに行くだけじゃけーね。時計選びを手伝うだけじゃけー)
     そう心の中で言い聞かせながら、ドアが開くのを待った。
     その頃、1階のロビーでは。
     夢の会社が入る、ビルの1階ロビーに滑り込んだ律は、まず大きく息を吐き呼吸を整えた。
     ビルの中は、外の熱気が嘘のように、冷えた空気が全身を包む。
     ふと、エントランスの大きなガラスに、自分の姿が映っているのに気づいた。走ってきたせいで、額に一筋の汗が光っている。前髪も少し乱れていた。
     律は周りに人がいないのをさりげなく確認すると、ガラスに近づいて指先で前髪をそっと整えた。
    「……うん。ちぃ~と汗かいとるけど、今日も、まあまあ、ええ男じゃ」
     小声でそう呟いて、一人で満足げに頷いた。
     その瞬間だった。
     ガラスの中に、見覚えのある姿が映り込んできた。肩にバッグをかけて、小走りに急ぎ足で通り過ぎようとしている。
    (あっ!夢ちゃん!)
    「夢ちゃん!」
     律は慌てて振り返り、声を上げた。
     夢がピタッと足を止めた。ゆっくり振り返ると、そこにはガラスの前に立つ律がいた。
     ビルの喧騒の中二人の時間が一瞬『ピタリ!』と止まった瞬間であった。
    「……あっ。律さん、何でここにおるんですか?」と不思議そうに律を見た。
     すると律が
    「えっ、LINEで会社の前におる言うて打ったんじゃけど、届いとらんかった?あまりにも外が暑いけー、中で涼んどったんじゃけど」
     夢が少し頬を赤らめながら
    「あっ。読んだわ。ごめん、時間がないけー、急がにゃーいけん!思うて走りょうたら前しか見えんで、全然気づかんかった」と、照れ笑いを浮かべた。
    「ハァ!」とため息をついた律は続けて
    「で、急いで何処に行こう思ようたん?」
    「えっ。うち、何処に行こう思ようたんじゃろ?」と、夢は、少し困惑した表情になった。
     それを、聞いた律は。大笑いしながら
    「夢ちゃんらしいわ。ま、とにかく急ごうや。俺の家、『広大附属学校前』で降りたらすぐじゃけー。ここから、チン電で15分くらいなんよ。そしたら、アウトレットには、7時くらいには着ける思うけー」そう言うと律は夢と並んで袋町停留所へと急いだ。
     夏の太陽は、まだ真上に居座ったまま、斜め前のブックオフの看板に、ギラギラと照りつけている。
     丁度そこへ、宇品線のチン電が『ガタンゴトン』と滑り込んできた。まるで二人を待っていたかのようなタイミングだった。
    「お前ら、急いどるんじゃろ?ほら、早う乗りんちゃい!」
     とでも言いたげに、チン電はドアを開けて二人を待ち構えていた。
     その電車に乗り込んだ二人。
     真夏の西日をまともに浴びた広島の街並みが、窓の外に広がっている。
     座席は、ほぼ埋まっていたが、奥にポツンと二人が座れそうな空間を見つけた。
    「夢ちゃん。あそこ空いとるけー、座ろうや」と、夢を促して、律が、つり革のわっかを掴んで、移動しようとした瞬間、律の腕が一瞬だらりと下に落ちた。
    「あれ?つかみ損ねてしもうた」と、律が慌てて、つり革を掴み直しながら照れ笑いした時、律の思いを知っているかのように、チン電が車体を大きく揺らした。
    「キャッ!」と悲鳴に似た声を発して、夢の体が律の腕に包まれた。
    「危なかったのー。ここの鷹野橋から日赤病院前に行くカーブ、結構揺れるけー。それと、皆実6丁目の電停出たところの、交差点のカーブも結構急で、揺れるけー、気を付けんといけんのよ」と、出来るだけ、この至福の状況を長引かせたい律が言うと
    「ありがとうございます」と律の腕の中で、急な事に『キョトン』と律を見上げながら夢は思った。(律さんって、意外に背が高いんじゃ)
     後ろ髪を引かれる思いで、しぶしぶ夢の体から腕を離した律は(ラッキ~!チン電、ナイスフォロー!今日は人生最高の日じゃ!生きとって良かった~!)
     その光景を見ていたチン電が満足げに微笑んでいた。
     律にとって、見慣れた街並みの景色全てが、今日は二人を祝福するかのようにキラキラと光輝いて見えた。
     そうこうしている間に、電車は、『皆実六丁目』のカーブを、夢の足の踏ん張りで無事やり過ごし『広大附属学校前』の電停に滑り込んだ。
     電車から降りながら律は思った(しもうた!カーブの事、夢ちゃんに教えんかったら、もうワンチャンあったかも知れんかったのに~。何で俺、いつも後から気付くんじゃろーのー)
     電車を見送った二人は、信号が変わるのを待って広大附属学校を背に歩き出した。
     向かいの、街に向かう方向の電停には、学生達がにぎやかに電車を待っている。
    「夢ちゃん、俺の家こっちじゃけー。ここから、徒歩3分走って1分ぐらいじゃけー」と、律が弾んだ声で言う。
    「じゃあ、走りますか」
     律が驚いた顔で
    「えっ」と聞き返すと、夢は、悪戯っぽい笑みを浮かべながら
    「嘘ですよ!冗談、冗談」とペロリと舌を出した。
     すると、律はニヤリとして
    「じゃあ俺、走るわ!」と、夢を置いて駆け出して行く。
    「ちょ、ちょっと~!待ってや~!うち、家、知らんのんじゃけ~!もぉ~律さ~ん!待って~や!」と、叫びながら後を追った。
     しかし、律の自宅マンションは電停からでも見える位置にあり、迷子になろうにもなれない。
     前を見ると、マンションの入り口で、茶目っ気たっぷりな笑顔を見せた律が、こちらを向いて手招きしている。
     そのマンションの入り口に到着した夢が
    「ハァ、ハァ」と息を切らせながら、口を尖らせて
    「もう、律さん!」
    「えっ、夢ちゃんが走る言うたけー、走ったんじゃけど」と、悪い顔をして、さっきの夢をまねてペロリと舌を出した。
    「ところで、夢ちゃん。俺、部屋にカバン置いて来う思うんじゃけど、どうする?」
    夢が『キョトン』として
    「えっ?」と聞き返した。
    「ごめん、ごめん。いや、男の部屋に入るの、抵抗があるかのー思うて。カバン置いてくる間、どうしとくかの?思うて、聞いたんよ」
    「あ~。そう言う事じゃったんですね。うちは全然、かまわんですよ。律さんがええんなら」と、笑いながら夢が答える。
     今度は、律が『キョトン』として
    「えっ。ほんまにええん?俺、夢ちゃんの事、襲うかもしれんよ」と、反応を楽しむかのように、夢の顔を覗き込んで言った。
    「律さん、うちの仕事覚えとる?昨日、話ししとる時に仕事柄ついつい律さんの事、観察してしもうとったんじゃけど、うちの分析結果によると、律さんは、よう、そんな事せん人じゃ思うよ」夢は続けた
    「人は、世間話ししょうる時が一番その人の本心が出るんよ。うちの分析結果を詳しい言うと、律さん、お調子者に見えるんじゃけど、本当は、シャイで照れ屋さんでピュアな人じゃ思うんよ。じゃけど、周りの人に気を使うて、無理やり明るうしょうと無理しょうるんじゃあないんかね?」
     それを聞いた律は(この子、ポケーっとしとる思うとったが、スゲー!本当はエスパーか?じゃあ、俺の気持ちも読まれとる?実は知っとって、コロコロと手のひらの上で転がされとるんかの~?ヒィーッ!)と、律の内心が脳内を超高速で駆け巡り、胸の鼓動もその思いにつられて上がって行った。
     しかし、律は平静を装い
    「まあ、当たっとる所もあるんじゃろうけど、自分じゃあようわからんわ。それはええんじゃが、お調子者ってどう言う事?心外じゃのー」と、少し冗談ぽく言った後
    「ま、夢ちゃんがええんなら、汚い部屋なんじゃけど、上がっていってえや」と、夢を部屋へと促した。
     すると
    「アハハッ。お調子者は言葉の綾ですよ。じゃけど、うちは男の人に誘われたけー言うて、すぐ、付いて行くような事はせんけー。こう見えても結構、慎重派なんじゃけー。ま、今まで、誘われた事も無いんじゃけど」
    (※誘われた事が無いのではなく、両親及び妹の事を知っている地元民は誘いたくても誘えないのが事実である。)
     明るくて小綺麗なエントランスを通って、エレベーターに乗り、7階の扉が開いた瞬間、そこには皆実町を遠く見下ろす景色が広がっていた。
    「凄い!箱庭みたいできれいじゃね」夢の声のトーンが上がった。
     一方律は、それどころではなかった。
     生れて初めて、自分の部屋に女性を招き入れる、そわそわともドキドキとも違う、何とも表現しづらい感情に支配され、夢の言葉も入ってこない。
     微妙に震える手で、慎重に鍵穴にカギを差し込み回すと、『ガチャ』との音と共にドアが開いた。
     今にも歓喜の舞を披露しそうな気持を、何とか抑え込みながら
    「どうぞ、遠慮の~入ってや」と、やっとの思いで夢に声をかけた。
     そんな律の心の戦いに気付く事も無く、夢は平然と部屋に入って行く。
    「お邪魔しま~す」と、明るく声をかけて、靴を脱いで律の靴の隣に揃えて置いた。
     そこは、昨日、この事を想定して必死で片付けをした。単身者には少し広めの1DKの部屋が広がっていた。
     「そこ、座っといてや」とソファーを指さしながら、慌ただしく
    「カバン置いてくるけー」と隣の部屋に消えて行った。
     かばんを部屋に置き、出て来た律は
    「夢ちゃん何か飲む?言うても、コーラか自家製麦茶しか無いんじゃけど」
    「あっ、じゃあ麦茶いただきます」
    「了解!」と、冷蔵庫を開け、麦茶が入ったポットを取り出した。
     律が麦茶の用意をしている間、夢は、部屋をぐるりと見渡した。
     すると、部屋のコーナーにそって置いてある、大きいケージが目に入った。
    「律さん、あれ何ですか?」とそのケージを指さして聞くと
    「あー、あれ?俺の相棒が入っとるんよ。これ出したら紹介するけー」と、麦茶の入ったポットと氷が入ったグラスをテーブルの上に置いた。
    「夢ちゃん、鳥大丈夫な人?」と、麦茶を注ぎながら聞くと
    「はい。うち、動物全般大好きです」
     するとケージの前に行った律の人差し指に『ちょこん』と乗ったオカメインコが現れた。
     こちら
    「オカメインコのサン君です!」と、言いながら夢の前に連れて来た。
    「初めまして。夢です。サン君これからも宜しくね」と優しく声をかけてこう続けた。
    「それでか~。この部屋に入った時、外はもの凄く暑いのに快適じゃったけー。律さんて、部屋に居らん時もエアコン付けっぱなしか思うて、電気の無駄遣いじゃ。いうて言おうか、どうしょうか思ようたんですよー。そっかー君の為かー。それじゃあ仕方ないよね」と、サン君に顔を近づけて話しかけた。
     それを聞いていた律は(この子、ポケーっとして何んも考えとらんのか思ようたんじゃが、色々見とるんじゃのー。それにしても、サン君羨ましいのー!あげに夢ちゃんに顔を近づけてもろうて。今だけ、サン君と入れ替われんかのー)と、いつもの妄想、律劇場を繰り広げながら口元を緩めていた。
     おもむろに顔を上げた夢が
    「律さん、この子何でサン君言う名前になったん?」
     急に現実世界に戻された律が
    「あー、名前の由来は、オカメインコは、ホワイトフェイス以外はほぼ、ほっぺたに赤い真ん丸が付いとるんよ。チークパッチ言うんじゃけど。それが、お日様みたいじゃけー。サン君にしたんよ」と答えた。
    「ほうなんじゃ。サン君のサンって、お日様のサンじゃったんじゃね。いいお名前付けてもろうて、良かったね。サン君。けど、この子、律さんに凄く馴れとるけど、雛から育てたん?」
    「いや、昔、矢野に『手乗り屋』言う、小鳥のネット販売しよった所があって、そこは、自分の所で繁殖と販売しとって、俺みたいに昼間家に居らん人でも手乗りにして、一人で餌食べれるようになってから、渡してくれようたんじゃけど、サン君昼間一人じゃあ、寂しいかの思うて、もう一羽飼おうか思うて連絡したら、西日本豪雨災害で、家の中に2m水が来て廃業したんじゃと。じゃけ~サン君、一人のままなんよ。けど、この最近気付いたんじゃけど。サン君、産まれてから人間しか見たことないけー。サン君自分が人間じゃ思うとる節があるんよ」と笑った。
     その時だった。
     夢が、
    「あっ!」と声を上げて焦りながら続けた。
    「律さん、もうこんな時間になっとる」と腕時計を見せた。
     腕時計を見た律も、その時計を二度見して焦りだした。
    「サン君お家に入っとってね。俺、今からお買い物行って来るけー。帰ったら遊ぼうね。ごめんね」と言ってケージにそっと入れた。
     ケージのドアを優しく締めた途端、慌ただしく
    「夢ちゃん急ごうや!」と言うなり、ソファーに腰かけている夢の手を取り玄関に駆け出して行った。
     急いで、鍵をかけながら
    「夢ちゃん、エレベーター押しとって」と律から指示を出された夢は
    「はい!」と返事をしながらエレベーターの方に駆け出していた。
     エレベーターの前に立った夢は、激しくエレベーターの下向きボタンを連打していた。
     そこへ施錠を終えた律も慌ただしく走ってやって来た。
     夢はまだボタンを押し続けている。
     それを見て笑いながら
    「夢ちゃん。そげに押してもエレベーター早ようならんけー」と言いつつも律の足は地団太を踏んでいた。
     夢は
    「あっ!」と一言発して恥ずかしそうに手を止めた。
     焦っている二人に、気付いていないエレベーターが、ゆっくりと表示灯を変えながら、のんびり上がって来るのが分かった。
     やがて、のんびり屋のエレベーターが『どうぞ』と、ゆっくり口を開いた。
     急いで乗り込んだ二人は、1階のボタンを押し、今度は夢も加わって二人で地団太を踏んでいた。
     7階から1階までの時間が、えらく長く感じながら、やっと1階に到着した、のんびり屋のエレベーターが扉を開いた瞬間、二人は、ソアラの待つ駐車場に駆け出して行く。
     その瞬間、律は自然と夢の手を握っていた。
     その手のぬくもりを感じた夢も、無意識のうちにしっかり握り返していた。
     二人とも大人になって、異性の手を握ったのは、初めてであったが、不思議と違和感は無かった。
     ソアラの前に立った夢は、律がキーを出している間にソアラに話しかけた。
    「ソア君、今日も宜しくね。ちょっと今、時間が無いけー。ゆっくり話せんでゴメンね」
     それを聞いた律は(やっぱり不思議ちゃんじゃ。時間があったらソアラと何話すんじゃろうか?)と思いつつ、ソアラのカギを開けた。
    「夢ちゃん乗って!」と促すと
    「お邪魔します」と言いながら乗り込んだ。
     夢が座ったのを確認してエンジンを始動させた。すると、無機質な女性の声で
    「システムをチェックしています」と言う声が流れた。
     それを聞いた夢は
    「えっ?ソア君って、男の子じゃあのうて。女の子じゃったん?それも、落ち着いた大人の女性?」
     律が笑いながら
    「夢ちゃん。そこ?」
    「うち、ソア君に謝らんといけん。いや、ソアちゃん?いや、うちより、年上っぽいけー、ソアさんか」と、真剣な顔をして言った。
    「夢ちゃんは、本当に不思議ちゃんじゃのー」と言いながらアクセルを踏むと、ソアラはジ・アウトレット広島に向けノリノリで駐車場から滑り出して行った。
     マンション前の路地から大通りに出ると、帰宅ラッシュで道は混んでいた。
     その光景を見て夢が
    「うわー。やっぱりこの時間は混んどるんじゃね。ま、お店8時までじゃけー、間に合うよ。けど、ソアさんの中、凄く広いんじゃね。うちの足じゃあ、伸ばしても、前までたわんけー」
     「ほうなんよ。広いじゃろ!ほぼ、ツーシーターみたいなもんじゃけー前は広いんよ。じゃけど、後ろ見て。前のシート下げとったら、後ろの座席、足が入らんじゃろ?」
     そう言われて、後部座席を見た夢は
    「ほんまじゃ!このくらいしか隙間開いとらん」と、律に指で隙間を示して見せた。
    「ま、たいがい、俺とサン君しか乗らんけー問題は無いんじゃけどね」
    「へーっ。サン君も一緒にお出かけするんじゃ?」
    「ほーなんよ。サン君も一緒に入れるお店とか。今なら、夕涼みがてらに夜釣りに行ったりするんよ。そこで、二人でウキの光見ながら、サン君に、俺の悩み聴いてもらうんよ」
    「そうなんじゃ。律さんも悩みあるんじゃ。けど、サン君、飛んで逃げたりせんのん?」
    「うん。フライトスーツを着せとるし、あいつ、基本、俺の肩で家でも、おとなしゅうしとるけー、大丈夫なんよ。俺でも悩むんか?言うて、どういう事?」と、律が笑った。
     慌てて
    「いやいや、悪い意味で言うたんじゃあのーて。いつも、律さん明るくて、楽しそうじゃけー。悩む事あるんじゃ思うたら、ついつい、口から出てしもうた。ごめんなさい」
    「いやいやええんよ。別に文句ようるんじゃーないけー。夢ちゃん、真に受け過ぎじゃ。変なところ真面目じゃけー」と、声に出して笑った。
     夢もつられて笑い出した。
    「ねえ夢ちゃん、良かったら今度、夜釣りに行ってみん?闇夜の波間に揺れるウキは、何か幻想的で、それを、ボケーッと眺めとるだけで、心が凄い落ち着くんよ。上手う、いきゃあ、おまけでチヌも釣れるし」
    「へぇー。幻想的かー。綺麗なんじゃろーねー。行ってみたいなぁー。じゃあ、今度行く時誘ってくださいね」
     それを聞いた律は、心の中で渾身のガッツポーズをとっていた。
    「うん!もちろん誘う、誘う。後で、汐見表見て、行ける日言うけー。ところで、夢ちゃん釣りした事あるん?」
    「あー。釣りなら父さんがプレジャーボート持っとるん、でちょくちょく行きますよ。ちっちゃい時から行きょうるけー。エサのゴカイも付けれますよ」と得意げに笑った。
    「えっ?お父さん船持っとるん?夢ちゃんのお父さん仕事何しょうる人なん?」
    「うちは、おじいちゃんの時代から、アパート何棟か持っとって、その家賃収入で暮らしとるんじゃけど、おじいちゃんが、父さんに任したら家潰す言うて、お母さんに全部任せとるんですよ。じゃけー、お父さんは、スロプロやって自分の小遣いと、お父さんとお母さんの生活費も稼いどるんですよ」
    「えっ?スロプロ?スロットマシンの?」
    「ほうなんですよ。高校生の時から行きょうるらしーて。大学で東京に居る時は、それで生活費稼いどったみたいで、おじいちゃんからの仕送り全部、貯金出来た言うて、お母さんが言ようたんで、本当じゃ思いますよ。今でも、ほぼ毎日ホールに行っとるんですよ。そうそう、船もそれで買うたんですよ」
    「それ、ほんまの話しなん?俺も暇な時行くんじゃけど、殆ど負けるんよ。今度、お父さんに弟子入りしょうかのー?」と笑った。
    「じゃあ今度紹介しますよ。見た目は怖そうじゃけど、話したら冗談ばっかりで面白い人なんじゃけど。ただ、・・・怒らせたら、お母さんか田山のおじさんしか止めれん言うんが難点なんじゃけど。よかったら今度、会うてみますか?」といたずらっぽい笑顔を浮かべ律の顔を覗き込んだ。
    「ほうじゃね。面白そうな人じゃけ~。一回話してみたいのー。そう言やー俺、瀬戸っ子の大将にも弟子入りせんといけんけー。忙しいなるのー」と笑った。
    「それ、やめた方がええですよ。あの二人、うちのお母さんと三人幼稚園の頃からの幼馴染なんですよ。それで、あの二人が話し出したら、ええ年なのに昔の武勇伝延々と聞かされて、それも毎回、ほぼ同じ話で、どっちが喧嘩強かったとか、ど~でもええ話を延々と。その話に、親父ギャグガンガン連発するんじゃけー。それをお母さんがいつも「うん、うん」言うて聞いて上げとるんですよ」そう言うと夢は今度は呆れ顔になった。
    「へえー。けど、その武勇伝も聞いてみたいのー。昨日、大将と話しとった時、何となく目の奥が怖い感じがして、普通の人じゃあ無いとは思ようたんじゃけど」と、言って二人で笑った。
    「うちのお父さんもそんな感じで、田山のおじさんをもう少しごつくした感じで、確かに二人とも同じ目をしとります。けど、お母さんの言う事は、二人とも素直にようきくんですよ。うちは、あの三人の中で、ある意味お母さんが一番強いんじゃあないか思うとるんです」
    「へぇー。お母さん最強説。お母さんも若い頃やんちゃじゃったん?」
    「いえいえ、違いますよ。昨日も話した思うんじゃけど、お母さんは怒る事が無い人じゃけー。幼馴染じゃあなかったら、絶対あの二人とは出会うとらんと思いますよ。いつも、ホワーンとしてキッチンの椅子でテレビ見とるんですよ」
    「へぇーそうなんじゃ。夢ちゃんお母さん似なんじゃ」
    「えっ?何でですか?」
    「いやー、今の話聞いたら、夢ちゃんとお母さんよう似とる思うて」
    「違いますよ!うちの方がお母さんより、しっかりしとります」
    「えっ。マジで思うとるん?マジで?」と言うなり律は大笑いしだした。
    「夢ちゃん、涙で前が見えんようになるけー。そげに、笑わさんといてぇや」
    「ええーっ、そこ笑うところじゃないけー」と、夢が口を尖らせた後、二人は顔を見合わせて笑った。
     ソアラの車内は終始二人の楽しげな声に包まれていた。
     そうこうしているうちに、ソアラはジ・アウトレット広島の駐車場に滑り込んだ。
     時刻は午後7時を回ったあたりだった。
    「おおっ!ジ・アウトレット広島言うてブチデカいんじゃのー。俺、ここ来るの初めてなんじゃけど、なんか感動したわ。そんで何処に止めりゃあええんかね?」
    「シチズンのお店は、ここの丁度裏になるけー。取り敢えず裏に行ってもろうてええですか」
    「了解!って、どう行きゃあええん?」
    「ここを右に曲がって、突き当りを左に行けば裏に出るけー」
    「わかった!今度こそ了解じゃ!」と、ハンドルを握りながら、律は夢に敬礼して、アクセルを踏み込んだ。
     突き当りを左に曲がると、駐車場が再び目に飛び込んできた。
    「ここを真っ直ぐ、真ん中の辺りまで行ってください。そしたら、二階に上がる階段が見えるけー。その辺りに止めてもろうたら、その階段上がったところの、真ん前にシチズンのお店があるけー」
    「了解!階段?階段?おっ、あった!あそこの階段じゃね?」
    「うん!あそこ、あそこ。あそこら辺りに、止めてください」
    「オッケー!ちょうど近くが空いとるじゃん!ラッキー!」
     階段近くの駐車スペースにソアラをバックで止めた律が
    「意外に早よう着いたの~。まだ、閉店まで1時間近こうあるけーゆっくり選べるわ。夢ちゃん頼むで」
    「はい。まかしとってください」
    「この階段上がりゃあええん?」
    「うん。上がったら正面がシチズンのお店じゃけー」
    「よし!行こうやー!」と、夢の手をしっかり握り駆け出す律!
     急に手を引っ張られ、コケそうになりながら「律さん!ちょ、ちょっと待って、待ってぇ~や~。コケる、コケるけー」と、言いながらも、律の手のぬくもりを感じ微笑んでいた。
     勢いよく律に手を引っ張られたまま、何とか階段を昇り切った夢。
    「もう、律さん。ほんまにコケるか思うたんじゃけー」と、少し口を尖らせ息を切らせていた。
    「ごめん、ごめん。何かスゲー嬉しゅうて。気が付いたら走っとった」と、ばつが悪そうに律は頭をかいた。
     ふと前を見ると、律の目にシチズンの文字が映った。
    「ここじゃね?ほんまに、階段上がったらすぐなんじゃ」
    「ほうですよ。じゃけー言うたじゃあないですか」
    「よし!早よう行こうや」と、言うなり、子供がおもちゃ売り場に、母親の手を引っ張って行くように。夢の手を再び引っ張った。
     まるで、子供が遊園地に行った時のようなテンションで、無邪気にはしゃぐ律を見て、夢は、だんだん律に魅かれて行く自分がわかった。
     店舗に入ると、男性店員が
    「いらっしゃいませ」と、丁寧に声をかけて来た。
    「ダイバーズウォッチを見たいんですけど、どこら辺にありますか?」と夢が聞くと、男性店員が
    「リーズナブルな物はこちらで、性能が良い物はこちらになります」と、案内した。
     案内された先のショーケースには、所、狭しと時計が並んでいた。
     それを見た律は
    「おおっ!スゲー!思っとったより安い」と、声を上げた。
     それを見た夢は微笑みながら
    「律さん。少しはしゃぎ過ぎ」と、律をたしなめたが、夢の声が耳に入らないほど興奮している律が、さっきと変わらないテンションで
    「見て、見て、夢ちゃん。ここにあるの、全部200m防水言うて書いとるんじゃけど。200mも人間潜れんよね?けどみんな200m防水になっとるんは何でなん?」と、ニコニコしながら夢に聞いた。
    「ああっ。それは、200m防水言うんは、単にその深さまで潜れるいう意味じゃあないんよ。水の中で激しい動きや、パッキンの経年劣化まで計算に入れた『安全マージン』じゃけー。余裕を持たして作られとるんですよ。例えば、日本の公道は最高時速100kmしか出せんのに、普通車はみんな、180km迄出る様になっとるんと同じ理屈なんですよ」
    「へえ~っ。夢ちゃんは何でもよう知っとるのー。そう言う事かー。納得じゃ。で、どれがええんかね?」と、律はショーケースから夢に視線を移した。
     夢はショーケースを覗き込みながら、時計を指差し
    「これなんか、ええんじゃないですか?値段も30%引きで28,000円じゃけーお手頃じゃあないですかね」
    「じゃあ、これが第一候補ね。他のも見てから考えようかの。おっ。あれ、ぶちスゲーじゃん」律の視線の先には、ショーケースの一番上で、他の時計とは明らかに『格』が違う、スポットライトを独占するように鎮座している時計があった。
     律は、お目当てのおもちゃを見つけた子供の様に、その時計の元に走り寄った。
    「スゲ~。夢ちゃん来て、来て」と、大きく手招きした。
     そして、先ほどの店員に
    「これも、ダイバーズウォッチですよね?」と聞くと、店員は、にこやかな表情で説明を始めた。
    「こちら、プロマスターMARINEです。グリーンの文字盤が珍しいでしょう? 深海をイメージしたエメラルドグリーンで、光の当たり具合で全然表情が変わるんですよ」
     店員は、白い手袋をつけガラスケースから、その時計を丁寧に取り出し、律の前に差し出した。
     それは、重厚かつ優雅な面持ちで姿を現した。それは『お前は、俺を身に着けるにはまだ早過ぎる!』と、言わんばかりの迫力だった。
    「素材はスーパーチタニウムというシチズン独自の素材で、ステンレスの5倍以上の硬さがあるのに、腕に乗せるとびっくりするくらい軽い。電池交換も必要無く、光さえあれば動き続けます。GPSで世界中の時刻を自動で合わせてくれるので、時刻合わせすら必要ないんです。200メートル防水なので、本格的なダイビングにも対応しています」
     店員は続けた。
    「それと、ダイブモードという機能もついています。ダイビング前に、こちらの2つのボタンを同時に押すだけで、GPS受信や余計な機能を全部オフにして、時刻表示だけに特化できるんです。水中での誤操作を防ぐ、ダイバーの安全を最優先した機能です。本格的なダイバーズウォッチにしかついていない機能なんですよ。定価は17万円台なんですが、こちら、アウトレット品なので約50%オフの8万円台でご案内できます」
     それを聞いた律は心の中で(ぶちスゲーじゃん!けど、8万円台言うても8万9千円じゃけー。9万円じゃ言うてゆゃ~ええのにの~)と、突っ込んでいた。
     そこへ夢が
    「律さん。コレはなんぼ何でも高過ぎるわ。あっちので、十分じゃけー」と、言ったが、その声は律の耳には届かず、目はその時計に釘付けになっていた。
     律はおもむろに
    「これ、試着してもええですか?」と店員に聞いた。
     すると、店員は
    「はい!大丈夫ですよ。腕に巻いて見ましょうか」と、律の左腕に巻こうとしたとき律が右腕を出し
    「右に着ける予定なんで。右でもええですか?」と店員に聞くと、
    「それは、どちらの腕でも構いませんよ」と、律の右腕に時計を巻いた。
    「どうです?見た目と違い凄く軽いでしょ?ベルトもお安いタイプはシリコンラバーが使われていますが、このタイプはウレタンになっておりまして、肌触りが全然違います。見た目も、高級感を演出しております」
     すると、律が、目を輝かせながら
    「ぶち軽い!見た目はぶち重そうじゃけど、こげに軽いとは思わんかった。夢ちゃん!どうよこれ?」と、一層目をキラキラさせながら、夢の目の前に黒いウレタンバンドが巻かれた腕を勢いよく突き出した。
     目の前に、差し出された時計を見ながら
    「似おうとるけど、さっきので、十分じゃけー。あっちのにしょうやー」と、律をたしなめたが、
    「いや、こいつが俺の目を見て、ワシが似合うのは、お前しかおらん。言ようるけー!俺の、相棒にしょう思うんじゃけど。ねえ、店員さん、これ、買うたら、一生もんよねぇ?」と聞くと、
    「こちらの時計は、先ほども説明させて頂きました様に。とても、タフな作りとなっておりますので、大事に使って頂けましたら、かなりの耐久性はあるかと思います」と、にこやかに答えた。
     それを聞いて夢が
    「でも、律さん」と言いかけた言葉を遮るように
    「ごめん。せっかく、付いて来てもろうたんじゃけど。なんか俺、こいつに一目ぼれしてしもうたんよ。それに、夢ちゃんとの初デートの記念にもなる思うんじゃ」
     それを聞いて
    「えっ?これ、デートじゃったんですか?」と、大きい目をさらに丸くした。
     律は(しもうた!また、心の中の声が出てしもうた。夢ちゃん、気分悪うしたかのー、怒ったかのー。なんで俺は、大事な時にいつもドジるんかの~?学習能力が欠如しとるんかの~)と、心の中で言葉が高速に踊り狂った。
     一瞬で、落ち込みモードに引き込まれた律が、恐る恐る夢を見ると
    「なんじゃぁ律さん。デートなら先に言うてくださいよ。聞いとったらちゃんとおめかしして来るんじゃったのに。今度からは、先に言うてくださいね」と、あっけらかんとした表情でにこやかに言った。
     それを聞いた律の心の中で再び激しい葛藤が繰り広げられ始めた(えっ?俺、今夢見とる?寝とるん?起きとるん?ここは、俺の妄想が作り出した仮想空間か?何かで迷い込んだ?えっ?えっ?何で?)あまりの衝撃に、立ったまま気を失っている律を、夢が揺らしていた。
    「律さん。律さん。大丈夫?律さん。」やっと、現実世界に戻ってきた律は
    「あっ。夢ちゃん?本物?」と、まだ、呆けている様な虚ろな目で夢に聞いた。
    「えっ?何言っとるんですか?って、言うより、律さん大丈夫ですか?急に気を失のうたようになったけー。心配したんじゃけど。ほんまに大丈夫なん?」それを、聞いて律は
    「ほんまに現実世界なんじゃ!夢じゃないんじゃ!やったー!」と、今にも空に駆け上るようなテンションで小躍りした。
     それから、心配そうに見ている店員に向かって
    「俺、これ買います!絶対買います!今、すぐ買います!初デートの記念なんで!」と、喜びと興奮が入り混じった声で叫んでいた。
     それを聞いて慌てて夢が律の暴挙を止めようと
    「チョッ、チョッ、チョット待って律さん」と、言ったが
    「これは、夢ちゃんでも絶対譲れんのんよ!」と、律には珍しく凛とした態度でキッパリ言ってのけた。
     その、やり取りを見ていた店員が恐る恐る
    「あの~。お買い上げでよろしいでしょうか?」と聞くと、律が全身に気合を込めて「はい!このカードで」と、財布からカードを勢いよく取り出し、店員の目の前に差し出した。
     そのカードを、カードリーダーに差し込み暗証番号を入力すると、支払いは速やかに完結した。
     支払いが完了したのを確認した店員が付属の箱に時計を収めようとしたとき、
    「あっ、それ今から付けるんでそのままでええですよ」
    「かしこまりました。では、先にお付けいたしましょうか?」と、白い手袋をつけて時計を箱から取り出した。
    「じゃあお願いします」と、律が右手を差し出すと
    「では、失礼します」との、店員の声と共に、店のライトを反射させてキラキラと光り輝く真新しい時計が律の右腕に巻かれた。
     それから店員は、カウンターの上に置いてある残りの付属品を
    「この箱と保証書、説明書、お支払いの控えなどは、こちらの袋に一緒に入れておきますね」と袋の中に丁寧に入れ込んだ。
     店員が作業している間に律は、今しがた右手に巻かれたばかりの時計を夢に見せ
    「夢ちゃん、これ、見た目と違うてぶち軽いんじゃけど。見た目はぶち重そうに見えるのにの~。付けとるん忘れそうじゃ」と、はしゃいでいた。
    「おっ、そうじゃ。忘りょうた。今日はこの為に時計買いに来たんじゃった」と、言うなり律は左腕の時計を外し長針を10分進めた。
    「これからは、俺も10分前行動じゃ!」と、隣にいる夢の方に向いて声高らかに宣言した。
     店員から紙袋を受け取った律は
    「ありがとうございました!」と頭を下げ、夢と並んでシチズンの店を後にした。
     その二人の後姿を見送った店員は、深々と頭を下げた。
     モールの屋外通路に出ると、昼間の熱気がようやく和らいだ夏の夜風がふわりと頬をなでた。昼間あれほど容赦なく照りつけていた太陽はすっかり姿を消し、家族連れやカップルたちが思い思いに夕涼みを楽しんでいた。モールの明かりが夜の空気の中にやわらかく溶け込んでいる。
     律は右腕に巻いたプロマスターをちらりと見た。エメラルドグリーンの文字盤が、モールの明かりを受けてひっそりと輝いている。
    「夢ちゃん、止めてくれたのにごめんな。けど、俺、こいつに一目ぼれしてしもうたんよ」
     夢がため息をつきながら
    「もう、律さんは」と笑った。
    「ええじゃろ?初デートの記念じゃけー。俺一生これを外さんのんじゃ!」
     夢は少し俯いて、また口元がほころんだ。
     夏の夜風がようやく昼間の熱気を洗い流し始めた頃、二人はさっき昇ってきた階段を降りその先の駐車場で待つソアラに乗り込んだ。
     律が、エンジンをかける為、キーを差し込もうとしたそのとき、ふと、時計が目に入った。
     そこには、エメラルドグリーンの文字盤の針が、淡い緑の光をひっそりと放っている。
    「夢ちゃん、見て、見て。こいつ暗いとこで光るんじゃけど」と、まだ興奮気味の律が、夢の目の前に腕を差し出した。
    「うん。これは、ある程度潜水したら、だんだん光がたわんようになるけー。その時に暗闇でも時間がわかるように設計されとるんですよ。けど、ほんまにきれいじゃね」と、夢はその時計を見た。
    「へぇー、そうなんじゃ。で、夢ちゃん今から何食べに行こうか?何か食べたいものある?イタリアンとか、回らん寿司でもええよ」
    「そんなに、無駄使いせんでもええですよ。じゃあ律さんが、いつも行っとるお店に連れて行ってくださいよ」
    「えっ。いやー、俺いつも夕飯喰うて帰るときはラーメンじゃけー」
    「あっ、うちラーメン大好きじゃけー。そこに行きましょうよ」
    「ええーっ。もっと高いところでもええんよ。遠慮せんでぇや」
    「遠慮なんかしとらんですよ」と夢がほほ笑んだ。
    「じゃあ、暁に行こうか」と、少し拍子抜けしたような表情で律が言う。
     実は昨夜、律は、デートで行くおしゃれなお店をリサーチして、すぐ予約が取れる様に電話番号を数店ピックアップしていたのだ。
    「そこ、何味のラーメンなんじゃろー?」
    「暁は尾道ラーメンなんよ。俺、三原出身じゃけーねー。三原からじゃったら尾道まですぐなんよ。じゃけー尾道ラーメンよう喰いに行きょーたんよ。子供のころから、『つたふじ』でラーメン喰うて、『からさわ』でクリームぜんざいのダブル喰うて帰るんが定番じゃったんよ」
    「へえーつ。今度、うちも尾道行ってみたい!」
    「おう。今度夢ちゃんの時間あるとき行こうや。そんで俺、仕事でこっち来て尾道ラーメンの看板見たら入りょうたんじゃけど。どこも、なんか違うんよね。じゃけーラーメン喰いとうなったら、尾道に行きょうたんじゃけど。暁で喰うたら、尾道で喰ようたんと一緒の味じゃったけー。もう、尾道まで行かんでもええようになったんよ。」
    「ええっ。そんなにおいしいん?うちも早よう食べてみたい」
    「もうちょっとじゃけー我慢して。そこの女学院前を白島線沿いに曲がって、ちぃ~と走ったところを左に曲がったとこじゃけー」
    「やったー!もうすぐ、そこじゃね」と夢の声が弾んだ。
     電車道路沿いの道から左に曲がりソアラが暗い路地に滑り込むと、夜の街にぽっかりと白く浮かび上がる「尾道ラーメン 暁」の看板が見えてきた。両脇に吊るされた提灯が、白い暖簾をやわらかく照らしている。
     すぐ近くの駐車場にソアラを止めた二人は、尾道ラーメンの匂いをたどり吸い込まれるように歩を進めた。
    「ここじゃ!」
    「なんか、ええ雰囲気じゃね」と夢が店を見上げた。
     暖簾をくぐると、澄んだ醤油の香りが『ふわり』と鼻をくすぐった。こじんまりと、した店内にはカウンター席と二人席が二つ、四人席が一つ、各テーブルにはシンプルなメニュー立てが置かれているだけだ。
    「おっ。律君いらっしゃい。」覇気のある店長の声が店内に響いた。
    「いつもの席空いとるで」と言った店長が律を二度見した。
     カウンターの一番奥がいつも律の指定席なのだが。
    「律君、その後ろの超べっぴんさん誰なん?絶対彼女じゃあないよの?会社の同僚?」と、矢継ぎ早に言葉をたたみかけた。
     すると夢が
    「勝間夢と申します。今日は律さんとデートらしいんですよ」と、笑って答えた。
    「嘘じゃ!絶対嘘じゃろー?二人でワシを騙しょんじゃろー?」店長が言うと、律が「もう、ええけー。ここの二人席、座ってええ?早う仕事しんさいや」と、言いながら席に着いた。
     席に着いた律はテーブルに置いてあるメニュー立てを夢に渡しながら
    「ここ、ラーメンも旨いんじゃけど、唐揚げも、唐揚げの店出せるくらい旨いけー喰うてみてや」と、まるで自分の店を自慢する様に夢に勧めた。
    「チャーハンも旨いけー、俺がスペシャル頼むけーよかったら、夢ちゃんチャーハン半分食べてみん?」と律が言うと
    「わぁー食べてみたい。じゃあ、うちは、唐揚げセットBにしようー」
    「店長!」律が注文をしようとしたとき、店長が
    「おう!聞こえとるで。二人とも固麺でえんかのー?」と、律の言葉を遮った。
    「うん!いつもので。あっ、ついでに背油多いめで」
    「あいよ!」店長の威勢のいい声と共に麺を寸胴に投入しスープを丼に注いでいく。
     この一連の流れとスープの香りだけで食欲がそそられる。
     ラーメンが先に出来上がり、店長が急いで運んでくる。
    「はい。お待たせ」と言うなりラーメンの入った丼が二人の前に現れた。
     目の前に置かれた丼のスープの表面では、背脂たちがぷるぷると優雅な舞を舞っている。その周りを背脂から滲み出た油がびっしりと層をなして覆い、湯気を最後まで閉じ込めたまま冷めることがない。
     旨そうなラーメンを目の前にした夢は勢いよく割り箸を割り
    「いただきまーす!」と言うと同時に箸を丼に突っ込んだ。
     それを見た律が
    「あっ、夢ちゃん」と静止しようとしたのだが時すでに遅し。
     夢はラーメンを勢いよく頬張った。
     その瞬間
    「あつ!」と、夢が叫びながら、慌てて目の前にあるコップの水を口に含んだ。
    「あ~あ~。大丈夫?止めよう思うたんじゃが、あまりの勢いじゃったけー。まにあわんかった。尾道ラーメンは、背油の油で表面が覆われとるけー。麺にその油がついて来るんよ。じゃけー、よう、ふぅーふぅーして冷まさんと大概火傷するんよ。じゃけー固麺にしときゃあー、食べ終わるころまで程よい固さで食べれるんよ」
    「もう!それ、早よう教えてえや。ベロ火傷したじゃん!」と、自分のおっちょこちょいが招いた悲劇なのに、律に責任をかぶせる夢!
    「えっ?俺?ごめん、ごめん」と、なぜ俺?と思いながら、ついつい謝る律だった。
    そうしている間に、唐揚げとチャーハンが運ばれてきた。
    「はい。唐揚げとチャーハンと取り皿、置いとくで」と、店長。
    「夢ちゃん、今度は先に言っとくんじゃけど。この唐揚げも、揚げたてじゃけー。気いつけんと、また火傷するけーね。伸びる前にラーメン先に喰うて。それから唐揚げ、喰やーちぃ~と冷めて丁度ようなるよ。で、チャーハンも喰えるじゃろ?」
    「は~い!もちろん、食べます、食べます。食べてみた~い。」と子供のように答えた。
    「了解。」と律が散蓮華を使いチャーハンを半分に取り分けた。
     取り皿に分けられていくチャーハンを、キラキラした瞳で追っている夢に
    「それよか、夢ちゃんラーメン喰わんと伸びるで」と、律が言うと
    「あっ!ほんまじゃ。忘れとった。」と、慌てて箸を手に取った。
    「はぁ?忘れとったん?」思わず律が噴き出した。
     今度はよく麺を冷まし、夢は一口、口に含んだ。
    「うわぁー、美味しい。見た目は背油も沢山浮いとるけー。もう少し油濃いんか思うたら、さっぱりしとって、少し甘みがあるんじゃね」
    「じゃろ?意外にさっぱりしとるじゃろ。どう?尾道ラーメン気に入った?」
    「うん。すごい美味しい。チャーハンもたべてみょっ。」と箸を散蓮華に持ち替えた。
     チャーハンを散蓮華で一口含んだ夢の目が、ぱっと見開いた。
    「おいしい!これ、何で、こんなに美味しいんじゃろ?」
     思わず声に出てしまった夢に、律が
    「じゃろ?」と得意げに胸を張った。
    「炒め具合がええんよ。パラパラじゃけど、ちゃんとしっとりしとるじゃろ?卵と油のバランスが絶妙なんよ」と、まるで自分が作ったかのように解説する律に
    「律さん、料理できるんですか?」と、素直に聞いた。
    「一人暮らしじゃけー。ちいたぁー出来るんじゃけど、家のコンロじゃあ火力が弱すぎて、ここで作るようなパラパラにはならんし、だいたいこんな旨い味付けなんか出来きゃあせんよ」
     夢が
    「そりゃそうじゃね」と言うと、二人顔を見合わせて笑った。
     二人の笑い声が店内に弾けた。
     それを、厨房で聞いていた店長が
    「律君、夢ちゃんはホントに彼女じゃないん?どう見ても彼女にしか見えんのんじゃけどのー」と、手際よくラーメンを作りながら聞いた。
     すると、律が
    「えっ。いや~。」と言葉に詰まった後
    「余計な事言わんでええけー。仕事しんさいや」と照れ隠しも込めて言うと、店長がすべて悟ったような笑顔で
    「はい、はい」と言いながら出来上がったラーメンをカウンターに運んだ。
     それを聞いた夢が、くすっと笑いながら唐揚げに箸を伸ばした。
    「あつっ!」
    「じゃけー言うたじゃろー?揚げたてじゃけ~気い付けんさいよ。言うて」と親が子供を諭すように律が言うと、夢が、いたずらっ子のような笑みを浮かべながら肩をすぼめて
    「まだ、こんなに熱いんじゃね?」と、一口かじった唐揚げを皿に戻した。
     夢は再びラーメンに戻り、もう一口すすった。
    「ほんまに、このラーメン美味しいんよね。何回食べても飽きんやつじゃわ」と、今日初めて食べた尾道ラーメンなのにもう常連みたいな口ぶりで言った。
     それを聞いた律が
    「夢ちゃん、今日、初めて食べたんじゃろ?」と突っ込むと、
    「あっ、そうじゃった」と、少し頬を赤らめた。
     それから、少し経って、夢が恐る恐るもう一度唐揚げに箸を伸ばした。今度は慎重に、そっと口に運んだ。
     程よい温度になっていた唐揚げを、頬張った夢は
    「えっ!」と、それでなくても大きくて零れ落ちそうな目を一層大きく丸くした。
    「美味し!外はカリカリなんじゃけど。中がふわふわで、じゅわっとしとって」
    「じゃろ?」
    「これは、いけん。何個でも食べれそうじゃ!」
    「チャーハンも残っとるけー」と律が散蓮華を指さしながら言うと、
    「ああ~!この位なら問題なく食べれます」と宣言した。
     それを聞いた律が
    「夢ちゃん、細いのによう食べるんじゃのー。」と感心したように言うと
    「うちの家みんなよう食べるんですよ。特にお父さんと妹が体育会系なんで、食トレとか言いながら。うちとお母さんもそれに付き合わされとるけー」と、笑って答えた。
    「よし。じゃあ俺も全部食べるわ」と、律も、箸を動かした。
     二人はしばらくの間、無言でそれぞれの丼に向き合った。
     BGMは、厨房から聞こえてくる、出汁の煮える音と、たまにチャーハンを作るフライパンが『ジュッ』とうなる音だけだ。
     それでも、不思議と気まずくない。むしろ、心地よかった。
     夢がチャーハンを散蓮華ですくっていると
    「夢ちゃん、スープ一口飲んで、チャーハン食べてみて。味変して、また違う味になるけー」
     夢が律の言う通りにやってみると
    「ほんまじゃ!これも美味しい」と目を輝かせた。
    「なんでかわからんのんじゃけど、旨いじゃろ?」と律が笑いながら言うと、二人でまた声を上げて笑った。
     「ごちそうさまでした。すごく美味しかった~」と、夢が、顔の前で勢いよく手のひらを合わせた。
     「夢ちゃん。スープも一滴も残さず飲んだんじゃね。おなか大丈夫?」
    「はい!まだまだ、いけますよ。こんなに美味しいんじゃったら、大盛にしゃあえかった。思うとるぐらいじゃけ~」と笑顔で返した。
    「えっ。ほんまに、よう喰うんじゃの~。夢ちゃん細いけー、えっと喰わんか思ようたんじゃが、びっくりしたわ」と、律は目を丸くした。
    「ほんで、夢ちゃんの家族って何人家族なん?」
    「うちは、両親と妹と、ラッキーとハッピーで、6人家族なんじゃけど」
    「了解!一応人間は4人なんじゃね」と、笑いながら席を立ちカウンター越しに店長に何かを伝えた。
     席に戻った律が
    「もうちょっと待ってね」
    「あっ、ハイ」
     それから、律が、おそるおそる
    「ところで夢ちゃん。まだ時間大丈夫かね?もしよかったらなんじゃけど、海田の方に『串掛け林道』言うて、スゲー夜景が綺麗なところあるんじゃけど、見に行ってみん?」
     その言葉を待っていたかのように、夢は即答した
    「ええですよ!夜景見に行きたいです」
    「えっ?」昨日の夜、今晩、夢をエスコートする店をピックアップした後、サン君を相手に何度も何度も夢を夜景に誘う練習をして、目いっぱいの勇気を振り絞り、意を決して放った言葉だっただけに、夢のあっけない答えに、拍子抜けしてしまった律。
    「いや、あの、ええっと。い、家に電話とかせんでええん?」と、明らかに動揺していた。
     「ええですよ。うち、何歳じゃ思うとるんですか?もう、子供じゃあないんじゃけ~」と笑った。
     すると、店長が白いビニール袋に入った荷物3個をテーブルの上に置いた。
    「はい、お待たせ。チャーハン唐揚げ弁当4個とラーメンのお持ち帰り4人前ね。弁当とラーメンスープは一緒にしてもええけど、麺は熱うなると傷むけ~別にしとってね」と置いて行った。
     それを見て『キョトン』としている夢に
    「これ、夢ちゃん家のお土産じゃけー。みんなで食べてぇや」
    すると慌てて夢が
    「いけんです。これは、うちが払います」
    「えんよ、えんよ、この位大丈夫じゃけー」と、律が言うが夢も食い下がり
    「でも」と、言いかけた時、カウンターの奥から店長が
    「夢ちゃん、今回は律君に恰好つけさせてくれんかね?」と割って入ってきた。
     それを聞いて少し考えた夢だが
    「わかりました。今回は律さんにごちそうになります!」と、笑顔で明るく答えた。
     それを聞いて、困惑の表情していた律は一気に笑顔になり
    「店長!なんぼ?」と声を張った。
     一方、勝間家のリビングでは、裕が携帯片手に檻の中のクマの様にリビングを行ったり来たりしていた。その足元ではラッキーがじゃれながら付き合っている。
     美咲は、ソファーに腰掛けテレビを見て笑っている。その膝の上ではハッピーが美咲に『さすさす』されながらリラックスしてあくびをしていた。
     すると、裕が足を止め美咲に向かって
    「おい!ちょっと夢に電話してみい!あいつ、今何時じゃ思うとるんじゃ!」と、かなりのご立腹の様子で言った。
     それを聞いて美咲は、テーブルにおいてあるビールを一口飲み、おつまみのおかきを一つ指先でつまみポンと口に放り込みながら
    「ひろ君、夢、何歳じゃ思ようるん?もう、子供じゃないんじゃけ~。そんなに心配なら自分で電話してみんちゃいや。ぶち、嫌われる思うよ~」と、冗談めかして笑った。
     それを聞いて
    「おみゃー!それでも親なんか!何かあったらどうするんじゃ!」と裕は語気を荒げた。
    「じゃあ聞くけど、中坊の時から、うちをバイクの後ろに乗せて朝まで走りょうたんはどこのどいつだい?一応、うちも女子なんじゃけど」といたずらっぽく言うと裕は、「勝手にせえや!何かあったらお前のせえじゃけの」と捨て台詞を残してリビングのドアを勢いよく閉めて出て行った。
     すると、ラッキーがトコトコトと美咲の座るソファーの前に来たかと思うとピョンと飛び乗り美咲の横でお腹を見せ『さすさす』をせがんだ。
     それを見た美咲は「ハイハイ、あんたもさすさすするんじゃね?」と、ラッキーのおなかに手を伸ばした。
     『さすさす』されながらラッキーが
    「じいちゃん怒って出て行ったけー散歩誰が連れて行ってくれるんじゃろー?母ちゃんもまだ帰ってこんしのー」と、言うと、ハッピーも
    「ほんまじゃ。今日は誰が行くんじゃろう?」
     するとラッキーが
    「じいちゃんがダメで母ちゃんも帰ってこんとなると」と言ったところで、二匹が声を合わせて
    「皐月~!」と言って、リラックスしていた体勢から飛び起きた。
     それを見た美咲は
    「急に二人ともどうしたんねー?何かあったん?」と、優しく聞いたが二匹の訴えは届くわけもなく、急いでソファーの下に逃げ込んでしまった。
    「うち、ソファーの下に隠れとるけー。あんた行ってきんさいね」
    「いやじゃ!なんで俺だけ皐月の餌食になるんじゃ!お前も来いや」
    「ここは、男を見せるところじゃろ!広島男児の心意気見してーや」
    「はっ?いつもは、ビビッキー言うてばかにしとるくせに。こんな時だけ調子がええんじゃや!おみゃーは。お前も知っとろーが。皐月と散歩行ったらトレーニングも兼ねとるけー。5キロは走りっぱなしなんで。それも、ほぼ全力疾走じゃけ~」と、ラッキーが泣きを入れていると外から皐月の車の音がした。
     すると、その音に気付いた美咲が
    「みんな、皐月姉ちゃんが帰ってきたよー!お迎えに行って来て」とソファーの下にいるであろう二匹に声をかけたが二匹ともピクリともしない。
     そうしていると玄関のドアが開く音と共に皐月の声が家じゅう響き渡った。
    「ただいまー。腹減ったー!母さん飯、飯!餓死しそう!」と、言いながら勢いよくリビングのドアを開けた。
    「はい!お帰り!今日は遅かったんじゃね?」
    「ほうなんよ。帰ろう思うたら後輩が彼氏にフラれた言うて泣くけー話し聞きょうたんよ。ほんで、よう聞いたら、大した事じゃあなかったけー。その場で、彼氏に電話さして謝らしたら、すぐ仲直りして、ニコニコしながら帰っていったんじゃけー。あ~あほらし」
    「ま、ええことしたじゃん。それで、皐月。ごはん作りょうる間にラッキーとハッピーお散歩に連れて行って来てや。」
    「えっ。父さんどうしたん?」
    「お父さんはね、夢がまだ帰って来んけ~。すねて部屋に閉じこもっとるんよ」
    「はぁ!」とため息をついた皐月は
    「父さん、いつも姉ちゃんの事、心配し過ぎなんよ。わかった、トレーニングがてら行ってくるわ!で、あいつらは?」
    「それがね、お父さんに散歩に連れて行ってもらえんけー。ソファーの下でスネとるみたいなんよ」
     それを聞いた二匹は
    「違う!ばあちゃん、頼むけ~皐月に要らん事言わんで。今日は散歩なしでええけー!俺らの事は、そっとしといて!」と必死にソファーの下から訴えていた。
     ソファーの前に来た皐月はおもむろにしゃがみ込み、
    「お前ら散歩行くで!出ておいで」と声をかけた。
     その時だった。ハッピーが渾身の力を両足に込めてラッキーの体を押し出した。
    「ええ~っ!」突然のことにラッキーは抵抗することなく、皐月の目の前に押し出された。
    「おおっ。ラッキーは散歩行きたいんか。ハッピーも早うせんと置いて行くで」と皐月が声をかけたが反応が無い。
     どうにか、皐月の手から逃れようとラッキーがもがく!
    「そうか。そんなに散歩うれしいんか?けど、そんなに興奮して暴りょうたら、ハーネス付けれんじゃろ。連れて行ってやるけー。おとなしぃーちんちゃい」と皐月に無理やりハーネスを付けられ、皐月に、がっしりと抱きかかえられたまま玄関まで連れて行かれたラッキー「じゃあ、ちょっと行ってくる。飯よろしく!」と、リビングに向かって言うと、勢いよく走り出す皐月!その後「いや~~~!」と、人間には聞き取れない声を残しラッキーも去っていった。
     玄関の閉まる音を聞いて、ハッピーは恐る恐る『キョロキョロ』とあたりを見回して、皐月がいないことを確認すると、ソファーの下から出てきて、安心した様子でピョンとソファーの上に飛び乗った。
     それを見て美咲は「あーあー。あんたが拗ねて出てこんけー。皐月とラッキーお散歩行ってしもうたよ」
     ハッピーは心の中で(ふぅ~逃げ切れた。ラッキー生きて帰って来りゃーええんじゃけど)と思った。
     その頃、暁で支払いを済ませた二人はソアラに乗り込もうとしていた。
    「本当にこんなにいっぱい、お土産もろうてええんですか?半分だけでも払いましょうか?」と夢が心配そうに律に聞くと、
    「夢ちゃん。俺、同じ年位の奴らより、ちーと稼ぎょーるけー!心配せんでも大丈夫じゃけー。そんなに俺、貧乏そうに見えるんかね?」と、笑った。
     それを聞いて夢は真剣な表情で
    「ごめんなさい」と、頭を深々と下げた。
    「えっ。マジで?俺の事、そげに貧乏じゃ思ようたん?そげに貧乏に見えるんじゃ~?マジか~ぁ~」と、頭を搔きながら笑いだした。それを見た夢も笑い出した。
     その楽し気な二人の笑い声は、静かな夜の街に響き渡った。
     駐車場に着いた二人は、律が駐車料金の支払いをすませソアラに乗り込んだ。
     運転席に着いた律は、右手に巻かれた真新しい時計に目をやった。
     それは、幻想的なエメラルドグリーンの光を放っていた。
    「俺、この色すげー好きなんよね。何かこれ見ようたら、ここが現実世界じゃない異世界空間におる様な気がしてくるんよ」
    「海の中が、ちょうど、そんな感じなんですよ。少し深いところに潜るとだんだん光がたわん様になって来て、光とその下の闇の世界とのコントラストが幻想的で、水圧でウエットスーツの浮力が無くなって来るけー。何もせんかったらスーッと沈みだして、その闇の世界にゆっくりと吸い込まれて行く時が何とも言えんですよ」
     それを聞いた律は
    「俺もその世界へ行ってみたいのー。日曜日に行けるんかね?」と夢に聞くと、笑いながら
    「日曜日は、まだ、浅瀬でレギュレータでの呼吸の仕方とか耳抜きとかフィンを使った泳ぎ方で、その講習が終わらんと、いきなりは沖で潜れんですよ。日曜日は、うちも付き合うけ~」
    「へえ~、そうなんじゃ。なかなか大変そうじゃが、夢ちゃんとその世界見て見たいけ~頑張るわ」と、ソアラのアクセルを踏み込んだ。
     ソアラは闇の街へ走り出していた。
     ソアラは、女学院前を右折して左手に広島駅を見ながら段原を通り2号線に出た。
     少し走ると、矢野、坂の方面に曲がり31号線に入り今度は、『広島熊野道路』に入り矢野ニュータウンを抜けて熊野町に出た。
    「うわぁー、うち、ここら辺初めて来た」と、窓の外の景色を見て、夢が興奮気味に言った。
    「ほうなん?ここらへん色々とええ所があるんよ。今度行ってみる?」
    「ほんまに?うち、行ってみたい」
    「じゃあ今度、行ってみようや」
    「はい!いつ行きます?」
    「えっ。夢ちゃん、何時ものんびりしとるようなのに、早い時はぶち早いんじゃのー」と、律は笑った。
    「うち、楽しいことは直ぐやりたい方じゃけ~」と夢も笑う。
     そうしているうちにソアラはメイン道路を外れ細い側道に入っていった。
     その道を山の方向に進むと、木々がうっそうと生えそろい、両脇からせり出す枝葉がソアラのボディをこすっていく。
     道幅も車二台がやっと離合出来るくらい狭くなってきた。
    「なんか、不気味なところじゃね」
    「ほうなんよ。俺、知らんかったんじゃけど、ここ心霊スポットなんじゃとこないだ会社の人から聞いたんよ」
    「ええ~!出るんですかね?」と、夢が聞くが、その言葉には恐怖感が無く、むしろ興奮気味に食いついてきたように思えた。
    「夢ちゃん、こういうの怖わーないん?」
    「いや、うち幽霊さんに会うたら、向こうの世界の事聞いてみたいんですよ。うちらも、いつか、必ず行く世界じゃけ~。先に、リサーチ出来とったら、安心して行けるじゃあないですか。結局、幽霊さんは、元は人間じゃけー。肉体言う服を脱いだだけじゃ思うんで、みんな何で怖いんか、ようわからんのですよ」それを聞いた律は、両手をたたいて大笑いした。
    「やっぱり夢ちゃん面白いのー。普通の女の子じゃったら、ここら辺来たら、『わぁーわぁー』言うのに、逆に幽霊に会うてみたいんじゃ?」
    「だって、うちらも、何時か幽霊さんになるんじゃけー。例えば、知り合いのところに行って怖がられたら、何で?って、なりますよね。じゃけー、幽霊さんに失礼が無いようにと思うとるんじゃけど、なんか変ですか?」
     すると律が
    「変じゃ!変じゃ!夢ちゃん変過ぎる!」とまた、大笑いした。
    「ええ~!何でですか?」とつられて夢も笑い出した。
     雑木林を抜け右にカーブを曲がると二人の目の前に大パノラマが現れた。
    「えっ、うわぁ~~!」と夢が声を上げた。
    「じゃろ!」と、律が得意げに夢を見た。
     ソアラは、ガードレールが曲がって、車二台がぎりぎり止まれそうな、駐車スペースに滑り込んだ。
     ソアラを降りた二人はガードレールぎりぎりまで歩を進めた。
     足元は闇に包まれ何も見えない。このまま、その闇の中に吸い込まれそうな雰囲気さえある。
    「うわぁーすごい!ほんまに綺麗じゃねー。なんか、高い所じゃけー。家が点みたいに見えて、その明かりが、赤い宝石を両手で空に投げて、落ちて散らばったみたいに見えるんじゃけど。ほんまに綺麗じゃ!」と言う夢の横顔を見て律も
    「ほんまに綺麗じゃ!」とつぶやいた。
     

     
     
    ALS患者の妻を介護しながら、初めての小説を書いています。蒼い海、潮の匂い、波の音——瀬戸内の情景が目に浮かぶ、笑えて泣ける難病小説。主人公は絶対に死なない。チワワのラッキーと今日も書き続けています。

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